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« 明恵上人夢記 67 | トップページ | 甲子夜話卷之四 36 寶曆に林氏自火のときの落首 »

2018/07/17

甲子夜話卷之四 35 五六十年、舉世文盲なりしと云事

 

4-35 五六十年、舉世文盲なりしと云事

或人云。世の中の移り替るは、思の外の事あるものなり。此五六十年前、擧世の文盲になりしは、前にも後にも類無きことなりとなり。中村深藏【諱、明遠。號、蘭林】、寶曆頃の奧儒者たりしとき、誰一人敬禮するものもなく、當直に出れば、若き小納戸衆など、孔子の奧方御容儀は美なりしや醜なりしやなど問て、嘲弄しけるとぞ。餘りに甚しきことならずや。明安の頃、節儉の政令嚴刻なりしとき、其旨を希ひし作事奉行より、昌平の聖堂は第一無用の長物なれば、取崩し然るべしと建言せしを、國用掌れる老職、水野羽州聞屆て、既に高聽に達せんとて、御用取次衆へ申けるに、取次衆、聖堂と云もの何なることを知らず。奧右筆組頭大前孫兵衞に、聖堂に安置あるは神か佛かと尋しかば、大前、たしか本尊は孔子とか云ことに候と答ければ、取次衆、其孔子と云は何なりやと又尋ければ、大前、論語とか申書物に出候人と承り候と答けるに、取次衆打うなづきて、鳴呼それにて分りたり、道理で聖堂崩しの沙汰を聞て、林大學が、唐へ聞へても御外聞がわるゐと申たりと聞及びぬ。さらば先暫見合せ置方なるべしとて、高聽に達せず。其こと止しとなり。かゝる時節もあればあるものかと、驚入たることなり。

■やぶちゃんの呟き

これは確かに頗る驚くべき文盲不学の為体(ていたらく)である。私もオロロイた!

「舉世」「きよせい(きょせい)」。世を挙げて総て。世間全体。

「中村深藏【諱、明遠。號、蘭林】」(元禄一〇(一六九七)年~宝暦一一(一七六一)年)は江戸中期の儒者。江戸出身。深蔵は通称。本名は藤原明遠。父は幕府医官中村玄悦。父に医学を学び、室鳩巣に儒学を学んだ。初め、父を継いで玄春という医官であったが、儒者にならんとする思いが強く、数年の間は許されなかたったが、延享四(一七四七)年、西の丸奥医から晴れて奥儒者に転じ、深蔵と改め、将軍徳川家重に近侍した。室鳩巣に師事したが、朱子学墨守に固執せず、考証を重んじ、他学派の説も学んで、稲葉迂斎門下ともなった。寛延元(一七四八)年には朝鮮通信使と筆談で朱子学について議論している。「学山録」「読詩要領」「孟子考証」「学規口解」「通書解翼義」「読詩要領」「大学衍義考証」など多数の著作がある(以上は上谷桜池氏管理のサイト「谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー」のこちら(彼の墓)の解説に拠った)。

「寶曆」一七五一年から一七六四年まで(但し、中村は上記通り、一七六一年没であるからそこまで)。徳川家重及び徳川家治の治世。

「小納戸」「こなんど」。若年寄支配で、将軍に近侍して理髪・膳番・庭方・馬方などの雑務を担当した。

「明安」明和・安永。一七六四年から一七八一年まで。徳川家治の治世。但し、この時期は田沼時代で「節儉の政令嚴刻なりしとき」というのとは、齟齬する。

「水野羽州」旗本で後に大名となった、老中で三河大浜藩主・駿河沼津藩初代藩主、沼津藩水野家第八代の水野忠友(享保一六(一七三一)年~享和二(一八〇二)年)であろあう。彼は明和六(一七六九)年に出羽守に遷任している。彼が老中格に異動するのは天明元(一七八一)年九月十八日であるが、この年は四月二日に安永十年から改元しているから、辛うじて齟齬しないと言える。

「聞屆て」「ききとどけて」。

「御用取次」御側御用取次(おそばごようとりつぎ)。将軍が日常生活する中奥の長官で、将軍と老中を取り次ぐ役職。第八代将軍吉宗が側用人を廃止した代わりに、紀伊藩時代からの家臣有馬氏倫(うじのり)と加納久通を大名に取り立てて任命したことが始まり。その後は、旗本役である側衆の中から二~三人が命ぜられるようになり、側用人復活以降も置かれた(御側御用取次でない側衆は平御側(ひらおそば)と称した)。老中は将軍に直接物を言うことも出来たが、平常は御側御用取次を介したので、単なる連絡役以上の権力を持つようになった。老中の申し出であっても、内容によっては将軍に取り次げないと撥ねつけたともされ、江戸城内では、老中・若年寄と同様、坊主が先導して「シーシー」と制止の声を出して歩いた。そのため、御側御用取次から大名に取り立てられて若年寄になったが、まるで左遷されたようだったと述懐する者もいたという(イミダス時代劇用語指南に拠る)。

「奧右筆組頭」「奧右筆」は若年寄の支配で、将軍自身が発給する文書の作成などを担当し、概ね、江戸城本丸の御用部屋に詰めた。ウィキの「によれば、従来の書記担当官である右筆は「表右筆」と呼ばれた。奥右筆はこの頃は十七名程度おり、表右筆(三十名前後、後に八十名前後)の中から奥右筆に転じる事例が増え、後にはこの表右筆から奥右筆へと昇格するようになった。『享保年間の制によれば、右筆の長である組頭の禄高を比較すると、表右筆組頭が役高』三百石で役料百五十俵で『あったのに対して、奥右筆組頭は役高』四百石で役料二百俵』と歴然とした差があった。また、『一般の右筆においても表右筆が』百五十『俵の蔵米の給与であったのに対し、奥右筆は』二百『石高の領地の知行だった』。『奥右筆はまた、幕府の機密文書の管理や作成なども行う役職で、その地位こそ低かったものの、実際は幕府の数多い役職の中でも特に重要な役職だった。現在で言うところの政策秘書に近い存在といえる』。但し、『奥右筆の中には幕閣(大老や老中)が集う会議で意見を述べることが許されていた者もいた』。『というのは、諸大名が将軍をはじめとする幕府の各所に書状を差し出すときには、必ず』、『事前に奥右筆によってその内容が確認されることが常となっていた。つまり、奥右筆の手加減次第で、その書状が将軍などに行き届くかどうかが決められるほどの役職だったのである。また、幕閣より将軍に上げられた政策上の問題について、将軍の命令によって調査・報告を行う職務も与えられていた。その報告によって幕府の政策が変更されたり、特定の大名に対して財政あるいは人的な負担を求められる事態も起こりえたのである』。『このため、諸大名は奥右筆の存在を恐れたともいう』とある。

「大前孫兵衞」不詳ながら、第五代将軍綱吉に仕えた同名の人物がいるから、その末裔か。

「論語とか申書物に出候人」「ろんごとかまうすしょもつにいでさふらふひと」。ブットだね!

「鳴呼」「ああ」!

「聖堂崩し」聖堂廃止。

「林大學」当時の大学頭は林家第五代林鳳谷(ほうこく 享保六(一七二一)年~安永二(一七七四)年)。

「唐」「もろこし」と訓じておく。

「わるゐ」ママ。

「先暫」「まづ、しばし」。

「見合せ置方」「みあはせおきかた」で一語か。ペンディングする対象。

「止し」「やみし」。

「驚入」「おどろきいり」。

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