諸國里人談卷之三 洞穴
○洞穴(ほらあな)
若狹國小濱(おばま)の空印寺は「八百比丘尼」の住(すみ)し所也。則(すなはち)、御影(みえい)あり。傍(かたはら)に洞穴(どうけつ)あり。其奧、かぎりしらず。土人云〔はく〕、「當寺、五、六世以前の住僧、この穴に入〔いり〕て、その奧をはかるに、三日を經て、丹波の山中に出〔いで〕たると云〔いへ〕リ。」。相傳ふ、「むかし、女僧(によそう)ありて、此所に住む。齡(よはひ)八百歳にして、其容-貌(かたち)、十五、六歳の壯美(せうび)なり。よつて「八百比丘尼」と称す。里語に云〔いはく〕、「此女僧は、人魚を食したるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に長壽なり。」と云リ。○又、武藏國足立郡(あだちごほり)水波田(みづはた)村慈眼寺(じげんじ)仁王門の傍(かたはら)に榎(ゑのき)の伐株(きりかぶ)あり。周(めぐ)り、二丈あまり、莚(むしろ)六疊を敷(しく)也と。これ、若狹の八百比丘尼の栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])たる木也と云傳へたり。玆に又、「掘出(ほりだ)しの地藏」といふ、あり。近年、土中(どちう)より掘出したる本尊なり。その石櫃(せきびつ)に「八百比丘尼大化元年」と彫(ほり)たり。大化は三十七代孝德帝の年号にして、寬保まで凡(およそ)一千有余歳なり。
[やぶちゃん注:「空印寺」現在の福井県小浜市小浜男山にある曹洞宗建康山空印寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。この寺自体は新しく、ウィキの「空印寺」によれば、戦国大名『若狭守護武田元光が』大永二(一五二二)年に後瀬山(のちせやま)城を築き、『守護館も当時』、『長源寺のあった後瀬山城の山麓に移した。現在の空印寺はこの敷地跡にある。水堀を廻らせた堅固な若狭守護館は、戦国時代以降も麓の城として利用され織田信長の重臣である丹羽長秀や豊臣秀吉の親族である浅野長政、木下勝俊なども平時はこの地に住した』とあり、『京極高次が関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭国主となり、同館の主となった。高次没後、息子の京極忠高が旧地を京極高次の牌所とし』、『泰雲寺を建立したが、京極家は』寛永一一(一六三四)年に松江へ転封され、その後、『小浜藩主酒井家の菩提寺として、酒井忠勝により』、『父酒井忠利の霊骨を移して建康寺と称され、二代藩主酒井忠直が酒井忠勝の七回忌法要を執り行うに当』って、寛文八(一六八八)年に伽藍を増築して空印寺となったとあるからである。後瀬山城は空印寺の陸側後背地直近(南南東三百メートルほど)で(ここ(グーグル・マップ・データ))、同じくウィキの「空印寺」やその他のネット記載を見ると、遠い昔、この「八百比丘尼」(やおびくに/はっぴゃくびくに)が、この後瀬山の山中にあった社(やしろ)の傍らに庵を建てて住んでいたが、この寺の境内地に現存する洞穴の中で、遂に齡八百歳で美事に入定したとする伝承があるといったことが書かれてある。五十嵐麻理氏の「日本珍スポット100景」の『人魚を食べて不老不死になった娘「八百比丘尼入定洞・空印寺」【福井】』が判り易く、伝わる人魚食いの伝承の概説(そこでは六五四年、『斉明天皇の御世、若狭の国の高橋長者という金持ちの家に、玉のように美しい娘が生まれ』たが、『娘が』十六『歳の時、父親の高橋長者はある男から夕食に招かれ』る。この男、『素性はよく分からないものの、いつのまにか村に住みつき、周りの者に溶け込んでた不思議な男で』あったとして、土産として長者が持ち帰った人魚の肉を娘が食ってしまうという展開。人魚は見えにくいが、非公開の絵巻の一部の写真から少年のような首の下に二本の腕があるが、背部から下半身は鱗を持った魚らしい。しかしこの西暦と天皇の名は厳密にはおかしい。斉明天皇は(皇極天皇の重祚)斉明天皇元年一月三日(六五五年二月十四日)が即位で、白雉五年中は同年十月十日(六五四年十一月二十四日)に亡くなった孝徳天皇(斉明天皇=皇極天皇の同母弟で、彼女の譲位は日本史上初の天皇の譲位である)の形式上の治世となるからである)や写真もある(豊富)ので、是非、見られたい。かなり綺麗なここで言っている御影像と思われる八百比丘尼の八百姫菩薩像や、洞窟の内部の写真もある。解説によれば、現在の洞窟の高さは一・五メートル、幅二メートルで、『以前はもっと奥まで洞窟は延びていたの』だ『が、国鉄が通ったときに洞窟奥を埋めてしまったんだとか』で、奥行は五メートルしかなく、ここにあるようなラビリンスの面影は、残念ながら、今や微塵もない。ウィキの「人魚」の「八百比丘尼伝説」の項を引いておく。八百比丘尼は『人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼である』。『高橋晴美によると、その伝説は全国』二十八『都県』八十九『区市町村』百二十一『ヶ所にわたって分布しており、伝承数は』百六十六『に及ぶ(とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)』。『白比丘尼とも呼ばれる』。八百『歳まで生きたが、その姿は』十七~十八歳のように『若々しかったといわれている』。『地方により』、『伝説の細かな部分は異なるが』、『大筋では以下の通りである』。『ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来』、『その女は不老長寿を得る。その後』、『娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て』、『全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる』。『新潟県の佐渡島にある羽茂町(現在の佐渡市)に伝わる話では、八百比丘尼はここで誕生し、上記の通りに人魚の肉を食べて』一千『年の寿命を得たが、自身は年をとらないことをかえってはかなみ』、二百『歳を国主に譲って』、『諸国を巡り、最期は』八百『歳になった時に若狭へ』辿りついて、『入定したという』。『また、岐阜県下呂市馬瀬中切に伝承される八百比丘尼物語は「浦島太郎」と「八百比丘尼」が混ざった話として存在し、全国的にも稀である』。室町時代の外記局官人を務めた中原康富の日記「康富記(やすとみき)」には、十五世紀中頃に「白比丘尼」という十三世紀生まれで今現在二百余歳とする白髪の尼が『若狭国から上洛し、見世物として料金を取った記述があるが』、ほぼ同時代の相国寺の僧瑞渓周鳳の日記「臥雲日件録」では、『白比丘尼は八百老尼と同じであると解されている。ただし、この老尼は八百比丘尼伝説を利用した芸能者だったと考えられている。当時から八百尼丘尼の伝説は尼によって布教活動に利用されており、こうした伝説を利用する女性も少なくなかった一例である』とある。『京都府北部の丹後半島の京丹後市丹後町では、丹後町丹後乗原(のんばら)に住んだ大久保家の娘が、人魚の肉を食べて』八百『年生きたと伝えられている。京都府北部では、栗田半島にも八尾比丘尼の伝承が残されている。』。『丹後地域にはこのほか徐福伝説(伊根町)や田道間守伝説(網野町木津)など、不老長寿にまつわる伝承が残されている』。『八百比丘尼が晩年に仕えたとされる小浜市の神明神社の境内には、八百比丘尼を祀る社があり、長寿を願う人々に厚く信仰されている』。『境内の八百姫宮には、室町時代と江戸時代(』十七『世紀後半)に造られたとされる』二『体の像がまつられており、江戸時代の新像は、神式風の衣装で、右手に願いを叶える宝珠、左手には白玉椿の枝を持ち、目に水晶の玉眼を施している』などとある。
「武藏國足立郡(あだちごほり)水波田(みづはた)村慈眼寺(じげんじ)」現在の埼玉県さいたま市西区水判土にある天台宗普光山華蔵院慈眼寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同寺の記載によると、本寺は『第三代天台座主慈覚大師円仁が』天長三(八二六)年に『開山、古くは蓮華寺と称していたといい、いつの頃からか普光山浄蓮寺と称するようになったと』され、『徳川家康が関東に入国した際に寺領』十『石の御朱印状を拝領、(喜多院住職で後に上野寛永寺を開山した)慈眼大師天海大僧正の弟子円海上人が中興したと』される。しかし、一方で、また、当寺には』、八百『年を生きたという八百比丘尼が』大化元(六四五)年に『地蔵尊を安置して開基したとの伝えもあると』あって、さらに「新編武蔵風土記稿」に載る慈眼寺の縁起が引かれてあり、そこには(漢字の一部新字を正字化した)、
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地藏堂。黃金佛にて長一寸八分、傳へ云此像は八百比丘尼の守護佛にて、壽地蔵と呼べりと。門外に石標を立て共舊跡なることを示す、此像も中古荒廢より以來、何れへか失ひて見えざりければ、代々の住僧深く是を愁へ、諸方を尋ねけれども求め得ざりしに、享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]はからず境内土中より掘出せしと云、其語り岩洞の内に安じ、岩の裏に孝の字かすかに見え、其左右に八百比丘尼大化元年とありしよしなれど、秘佛なりとて見ることを許さず、又かの尼が手づから植し木あり、先年枯れて今二王門の庇の下に片寄てあり、太さ五圍に餘り、木理檟[やぶちゃん注:「ひさぎ」。ここはアカメガシワ(キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワアカメガシワ Mallotus
japonicus)と本文の「榎」=エノキ(バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis)は全くの別種であるが、実はアカメガシワ=「檟」は「榎」とも書いた。]の木と見ゆ、彼尼が植たることは姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]置きて、いかさま數百歳をへしものと思はる、さてこの尼は上古若狹國にありて、常に延命地藏を信じ、一千の小石を集めて多年の供養を重ねしかば、其功德により悟道徹底し、遂に人間の塵緣を免れ、妙齡不老にして八百歳の壽を保てりと云、或は云彼尼は若州小松原の産なりしが、幼時父海濱に釣して怪き魚を得たり、卽ちこれを食はしめしに、夫より年を重ぬといへども、容貌衰へず、同國後瀨山の麓空印寺境内の岩洞に隱れ住、遂に八百歳に及ぶ、故に人呼でかく名付くと、肌膚至て白かりければ、一に白尼ともよぶ、寶德年中[やぶちゃん注:一四四九年から一四五一年。室町時代。]洛に至り、常に源平盛衰のさまなど、面[やぶちゃん注:「ま」。]のあたり見たりとて物語せしと云、寶德より大化元年まで八百年に餘れば、計へ[やぶちゃん注:「かぞへ」。]來てかくは呼しなるべし、いかにも妄誕の説に似たれど、舊く云傳ふることなれば、若狹國志等によりてほぼその傳をしるしをきぬ。
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「二丈」約六メートル。
「大化元年」六四五年。
「寬保」笨「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊。]