進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(四) 四 進化論と社會
四 進化論と社會
現今の社會の制度が完全無缺でないことは誰も認めなければならぬが、さて之を如何に改良すべきかといふ問題を議するに當つては、常に進化論を基として、實著[やぶちゃん注:「じつちやく」。「実着」。「着実」に同じい。真面目に落ち着いていること。誠実で浮(うわ)ついたところがないさま。]に考へねば何の益もない。社會改良策が幾通り出ても、悉く癡人夢を説く[やぶちゃん注:おろか者が自分の見た夢の話をする如くに要領を得ない話をすることの喩え。]が如くであるのは、何故かといへば、一は人間とは如何なるものかを十分に考へず、猥に高尚なものと思ひ誤つて居ること、一は競爭は進步の唯一の原因で、苛くも生存して居る間は競爭の避くべからざることに、心附かぬことに基づくやうである。
異種屬間の競爭の結果は各種屬の榮枯盛衰であつて、同種屬内の競爭の結果はその種屬の進步・改良であることは、前にも説いたが、之を人間に當て嵌めても全くその通りで、異人種間の競爭は各人種の盛衰存亡の原因となり、同人種内の競爭はその人種の進步・改良の原因となる。それ故、數多の人種が相對して生存して居る上は、異人種との競爭が避けられぬのみならず、同人種内の個人間の競爭も廢することは出來ぬ。分布の區域が廣く、個體の數の多い生物種屬は必ず若干の變種に分れ、後には互に相戰ふものであるが、人間は今日丁度その有樣にあるから、異人種が或る方法によつて相戰ふことは止むを得ない。而して人種間の競爭に於ては、進步の遲い人種は到底勝つ見込はないから、孰れの人種も專ら自己の進步・改良を圖らなければならぬが、そのためにはその人種内の個人間競爭が必要である。
社會の有樣に滿足せず、大革命を起した例は、歷史に幾らもあるが、いつも罪を社會の制度のみに歸し、人間とは如何なるものかといふことを忘れて、たゞ制度さへ改めれば、黃金世界になるものの如くに考へてかゝるから、革命の濟んだ後は、たゞ從來權威を振つて居た人等の落ちぶれたのを見て、暫時僅の愉快を感ずるの外には何の面白いこともなく、世は相變らずが澆季[やぶちゃん注:「げうき(ぎょうき)」「澆」は「軽薄」の、「季」は「末」の意で、道徳が衰えて乱れた世。世の終わり。末世。]で、競爭の劇しいことはやはり昔の通りである。今日社會主義を唱へる人々の中には、往々突飛な改革論を説く者もあるが、若しその通りに改めて見たならば、やはり以上の如き結果を生ずるに違ない。人間は生きて繁殖して行く間は競爭は免れず、競爭があれば生活の苦しさは何時も同じである。
教育の目的は、自己の屬する人種の維持・繁榮であることは、既に説いた通りであるが、進化論から見れば社會改良もやはり自己の屬する人種の維持・繁榮を目的とすべきものである。世の中には戰爭といふものを全廢したいとか、文明が進めば世界中が一國になつてしまふとかいふやうな考を持つて居る人もあるが、これらは生物學上到底出來ぬことで、利害の相反する團體が竝び存して居る以上は、その間に或る種類の戰爭が起るのは決して避けることは出來ぬ。而して世界中の人間が悉く利害の相反せぬ位置に立つことの出來ぬは素より明瞭である。敵國・外患がなければ國は忽ち亡びるといふ言葉の通り、敵國・外患があるので國といふ團體は漸く纏まつて居るわけ故、若し假に一人種が總べて他の人種に打勝つて全世界を占領したとするとも、場處場處によつて利害の關係が違へば忽ち爭が起つて數箇國に分れてしまふ。僅に一縣内の各地から選ばれた議員等が集まつてさへ、地方的利害の衝突のために劇しい爭が起るのを見れば、全世界が一團となつて戰爭が絶えるといふやうなことの望むべからざるは無論である。
[やぶちゃん注:最後の一文で選挙の例が挙げられてあるが、本書改訂十三版「進化論講話」が刊行された大正一四(一九二五)年は普通選挙法(それまでの納税額による制限選挙から、納税要件が撤廃され、日本国籍を持ち、且つ、内地に居住する満二十五歳以上の全ての成年男子に選挙権が与えられることが規定された)が成立した年である。大正十四年五月五日法律第四十七号で、本書は同年九月十八日発行である。但し、これは、直近の大正三(一九一四)年の増補修正十一版の同パートにもある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像)。]
若干の人種が相對して生存する上は、各人種は勉めて自己の維持・繁榮を圖らねばならぬが、他の人種に敗けぬだけの速力で、進步せなければ、自己の維持・繁榮は望むことは出來ず、速に進步するには個人間の競爭によるの外に道はない。されば現今生存する人間は、敵である人種に亡ぼされぬためには、味方同志の競爭によつて常に進步する覺悟が必要で、味方同志の競爭を厭ふやうなことでは、人種全體の進步が捗らぬ[やぶちゃん注:「はかどらぬ」。]ために、敵である人種に敗けてしまふ。今日の社會の制度には改良を要する點は澤山にあるが、孰れに改めても競爭といふことは到底避けることは出來ぬ。他の人種と交通のない處に閉じ寵つて、一人種だけで生存して居る場合には、劇しい競爭にも及ばぬが、その代り進步が甚だ遲いから、後に至つて他人種に接する場合には、恰もニュージーランド[やぶちゃん注:二重傍線無しはママ。]の鴫駝鳥[やぶちゃん注:「しぎだちやう」。]の如く忽ち亡ぼされてしまふ。世間には、生活の苦は競爭が劇しいのに基づくことで、競爭の劇しいのは人口の增加が原因であるから、子を生む數を制限することが、社會改良上第一に必要であるといふやうな考を持つて居る人もあるが、前に述べた所によると、之は決して得策とはいはれぬ。今日の所で必要なことは、競爭を止めることではなく、寧ろ自然淘汰の妨害となるやうな制度を改めて生存競爭を成るべく公平ならしめることであらう。人種生存の點からいへば、腦力・健康ともに劣等なものを人爲的に生存せしめて、人種全體の負擔を重くするやうな仕組を成るべく減じ、腦力・健康ともに優等なものが孰れの方面にも必ず勝つて働けるやうな制度を成るべく完全にして、個人間の競爭の結果、人種全體が速に進步する方法を取ることが最も必要である。かやうな世の中に生れて來た人間は、たゞ生存卽ち競爭と心得て、力のあらん限り競爭に勝つことを心がけるより外には致し方はない。
[やぶちゃん注:進化論に則れば、この丘先生の言っていることは一応、理路は通っているように見えるが、例えば、今までの先生の理論に従えば、「自然淘汰の妨害となるやうな制度」と客観的に正当に判ずること自身が不可能と言えるのであって、この意見はその一点に於いて無化されると言っておく。
「鴫駝鳥」(しぎだちょう)はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。複数回既出(例えばここ。図有り)であるが、再掲しておくと、現在、中国名(漢名)でも同類は「鷸鴕屬」(「鷸」は鴫、「鴕」は「駝鳥」の意)である。現行、分類学上ではキーウィ属で一科一属とするが(五種(内一種に二亜種)。但し、種数をもっと少なくとる説もある)、実は実際にダチョウ目 Struthioniformes やダチョウ目モア科 Dinornithidae に含める説もある。「キーウィー」「キウィ」「キウイ」とも表記し、これは「キーウィー!」と口笛のような声で鳴くことから、ニュージーランドの先住民マオリ族がかく名付けていた名に由来する。お馴染みの果物の「キウイフルーツ」(双子葉植物綱 Magnoliopsidaビワモドキ亜綱 Dilleniidaeツバキ目 Thealesマタタビ科 Actinidiaceaeマタタビ属キウイフルーツ(オニマタタビ・シナサルナシ)Actinidia chinensis は、ニュージーランドからアメリカ合衆国へ輸出されるようになった際にニュージーランドのシンボルであるキーウィに因んで一九五九年に命名されたものである。主に参照したウィキの「キーウィ(鳥)」によれば、本文に出るように、かつては一千万羽ほどいたが、今では三万羽ほどまで減少して危機的な状況で、減衰の理由は、ヒトが食用とした過去があったこと、ヒトが持ち込んだ犬・猫などの哺乳類と共存適応が出来ず、雛を捕食されてしまったからとされている。]
尚人道を唱へ、人權を重んずるとか、人格を尊ぶとかいうて、紙上の空論を基とした誤つた説の出ることが屢〻ある。例へば死刑を全廢すべしといふ如きは卽ちその類で、人種維持の點から見れば毫も根據のない論であるのみならず、明に有害なものである。雜草をかり取らねば庭園の花が枯れてしまふ通り、有害な分子を除くことは人種の進步・改良にも最も必要なことで、之を廢しては到底改良の實は擧げられぬ。單に人種維持の上からいへば、尚一層死刑を盛にして、再三刑罰を加へても、改心せぬやうな惡人は、容赦なく除いてしまうた方が遙に利益である。
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