進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(二) 二 生殖物質繼續説
二 生殖物質繼續説
ヴァイズマンの生殖物質繼續説のことは前にも少しく述べたが、ダーウィン以後の遺傳説としては恐らく最も有名なもので、最も多くの學者がその影響を蒙つて居るやうであるから、こゝに更にその要點を摘んで略評を加へ、著者が同説に對する態度を明にして置きたい。
[やぶちゃん注:「第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン」を参照。]
ヴァイズマンは生物の身體を生殖物質と身體物質との二つから成るものと見倣し、身體物質の方は一代每に新に出來て、壽命が終れば死んでしまふが、生殖物質の方は先祖から子孫まで連綿と引き續くものであると説いて居る。然らば一代每に出來る身體物質は何から生じ、如何にして發育し、終に各種に固有な複雜な構造を有するに至るかとの問に對しては、凡そ次の如くに答へる。抑〻人間でも犬・猫でも初は母の體内に存する微細な卵から生ずるものであるが、生長した動物の有する總べての身體上の性質を、一個づゝ代表する分子の如きものが、卵の内に最初から存在して居て、胎兒の發生が始まると同時に、この物が次第に相分れて、頭となるべきものは頭となり、足となるべきものは足となり、發生の進むに隨ひ、益〻細かに相分れて、終には頭の毛となるべきものは頭の毛となり、足の爪となるべきものは足の爪となり、斯くして胎兒の形狀が全く出來上るのである。この分子の如きものは、一個が一性質を代表すること故、その數は何萬も何億もあるわけで、またその大きさは顯微鏡などでは到底見えぬ程の極めて微細なものであるが、この物は各〻分裂によつて增加する性を具へて居るから、代々二耶分が身體となつても、殘りはそのまゝ生殖細胞として、子孫に傳はつて絶えることはない。一言でいへば、開けば成人の總べての性質を表すべきものが、縮み凝まつて[やぶちゃん注:「こごまつて」と訓じておく。]微細な卵の内に潜んで居るのである。尤も人間の形が顯微鏡的の大きさで卵の内に入つて居るといふわけではない。ただ成人の身體の各部を代表する分子の如きものが、一定の規則に從つて、その内に竝んで居るだけである、卽ち卵の内には頸筋の黑子の色を代表する分子や踵[やぶちゃん注:「かかと」。]の皮の堅さを代表する分子までが、行儀よく竝列して居るわけで、一旦胎兒の發生が始まると、斯かる一組の分子が各〻二個づゝに分れ、その結果として全く同樣な二つの組が出來、その中の一組はそのまゝ胎兒の生殖器官の中に入つてしまひ、他の一組は前に述べた如くに、漸々相分かれて、胎兒の全身の形を造るのである。
以上はたゞ卵のみに就いて考へたが、父の體内には卵に相當すべき極めて微細な精蟲と名づける生殖細胞があつて、之も卵と同樣に成人の身體の性質を悉く代表した分子を含んで居るが、生殖作用の際に卵と相合してこれ等の分子を或る割合に混ずるから、生れる子は、父と母との中間の性質を帶び、或る點は父に似、また或る點は母に似るのである。また父にも母にも似ぬやうな性質が現れることのあるのは、その時まで潜んで居た先祖の性質を代表する分子が、或る原因によつて遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]現れ出したのである。つまる所、子の身體に現れる性質は總べで父母の身體内にある卵と精蟲との内に代表者が初から存在して居て、これが如何なる割合に結び附くかは生殖作用の際に定まるわけ故、子が如何なる形に出來るべきかは、生殖作用の行はれるときに既に定まつてしまひ、それから後はたゞ各性質各器官を代表する分子が相分れて、頭は頭、足は足となりさへすれば、子の形は出來上るのである。
[ひとでの再生]
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。]
以上は素よりヴァイズマンの遺傳説を殘らず述べたわけではない。「生殖物質説」といふ書物一册だけでも六百何十頁もある大きなもの故、なかなか詳しくこゝに紹介することは出來ず、また細胞學・發生學の素養が無ければ解らぬやうなことは一切省いたから、そのためにも餘程略した點がある。倂し眼目とする所を通俗的に述べれば、略〻以上の如きものであるが、この考を生物學上の實際の現象に當て嵌めて見ると、困難な場合が幾らも生ずる。若しも生物が悉く雌雄兩性による生殖のみをなし、且一度失つた體部を再び生ずる力を持たぬものとすれば、この假説でも差支を生ぜぬが、生物には卵と精蟲とによつて生殖する外に芽生や分裂によつて繁殖するものがあり、また一且失つた體部を忽ち再び生ずる種類も少くない。斯かる場合にもこの説を當て嵌めようとすれば、生殖物質のある區域を極めて弘く擴げねばならず、隨つて生殖物質と身體物質との區別が頗る漠然となつてしまふ。例へば蠑螈[やぶちゃん注:「いもり」。]の如きは、足を切り取つても直にまた新しい足がその跡に生えるが、以上述べた如くに、各器官の各部分を代表する分子が卵の内に初めから存して、發生の際にはただ之が相分かれて足となるべきものが足と成つたとすれば、一旦[やぶちゃん注:底本は「且」であるが、誤植と断じ、特異的に訂した。]出來た足を切り取つた後には、どうして再び足が生ずるかとの問[やぶちゃん注:「とひ」。]が起る。ヴァイズマンは之に答へるために、斯かる場合には足の部分・性質等を代表する分子の塊
は正副二つあつて、正の方はそれぞれに分かれて、脚附・蹠・大趾・小趾などになつてしまふが、副の方はそのまま脚の根元の處に留まつて、足が切られたときに、之を再び造るために待つて居るとの想像説を追加した。スパランザニといふイタリヤ人の實驗によると、蠑螈の足は新しく生じたものをまた切れば、また生えて、六度まで切つたのに、六度とも更に出來たが、ヴァイズマンの説に從へば、足の根元の處には足を造るべき分子の塊が潜んで居て、之が分裂して同樣のものが幾組も出來、一祖足を切られるる度に一組づゝ出て行つて、新しい足を造るのであらう。尚指だけを切れば指だけが再び生じ、腕の所で切れば腕から先が再び生ずる所を見れば、指の根元には指だけを造るべき分子の副の組が潜んで居、背の所には臂より先を造るべき分子の副の組が潜んで居ると論じなければならぬ。植物には隨分一枚の葉、一摘みの芽を切つて植ゑても、一本の完全な植物となつて、花まで咲くものがあることを考へれば、生殖物質は身體の全部に行き渡つて居ると見倣さねば
ならず、動物でも、「ひとで」の腕一本から一疋の完全な「ひとで」が出來、「ひどら蟲」を十に切つた一片からも一疋の完全な「ひどら」が生ずるを見れば、生殖物質は身體の孰れの部にも存在すると考へざるを得ない。我々人間には、腕を切つた後に再び腕が生ずるといふやうな著しい再生の力はないが、皮膚の表面から絶えず垢となつて廢(すた)れ落ちる無數の細胞を補ふために、表皮の内側の細胞が始終盛に分裂し增加して居るのは、やはり一種の再生である。胃や腸の内面の粘膜の細胞も同じやうに常に新陳代謝するであらう。血液中の血球も一定の時間働いた後は老朽して新しい血球に株を讓るであらうが、これ等も皆再生の範圍内に屬する。芽生[やぶちゃん注:所謂、「出芽」。]や分裂による生殖と、高度の再生との間には全く境はないが、高度の再生と低度の再生との間にも無論、境はないから、生物の身體を生殖物質と身體物質との二部に分けようと試みるに當つて、若
しこれ等の點まで考へ及んだならば、到底兩者の境界を定めることは出來なくなるであらう。
[やぶちゃん注:「蠑螈の如きは、足を切り取つても直にまた新しい足がその跡に生える」私は富山県立伏木高等学校在学中、生物部に所属していたが(演劇部とのかけ持ちではあった)、そこでのメインはイモリの再生実験であった。何度も前肢の一方を肩の部分から切除して再生を待った。切断面から肉芽が伸び出し、中にはそれが指状に分岐しかけるところまではいったが、すべては途中で腐って失敗だった。当時の生物の顧問の先生によれば、どんなにエアレーションをして循環させても水槽内に雑菌が多く繁殖していて、そのために感染症を起す結果だと言われた。大学の研究室などなら抗生物質などを水槽に投与するが、そんな金は出せない、と、けんもほろろに言われ、室内でそんなことをするのではなく、もっとフィールド・ワークをしなさいとも言われた。今考えれば、確かにあの頃の私のいた伏木周辺には、まだまだ豊富な自然が残っていたから、その通りであったとしみじみ思うのだ。……ワークするための自然を身近に求めること自体が望めなくなった今では……。
「スパランザニ」イタリアのカトリック司祭で博物学者であった、「実験動物学」の祖と呼ばれるラッザロ・スパッランツァーニ(Lazzaro Spallanzani 一七二九年~一七九九年)。ウィキの「ラザロ・スパランツァーニ」によれば、呼吸・『循環・再生などを実験的に研究し、両生類の人工受精にも成功した。また、微生物の自然発生説を否定したことでも知られ』、さらに、『コウモリは目隠しをしても障害物をよけて飛行できるが、耳もふさいでしまうと飛び立つことすらできないことを実験で確認し、聴覚で周囲を「視て」いるのではないかという仮説を立てている。これが超音波による反響定位であることが実証されるのは、超音波測定装置が発明される』二十『世紀に入ってからである』。『動物の消化のプロセスを解明するために、リンネルの袋に入った食べ物を呑み込み、時間経過後に吐き出すという自己実験を行っている』とある。
「ひどら蟲」刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科 Hydridae のヒドラ属 Hydra及びエヒドラ(柄ヒドラ)属 Pelmatohydra に属する淡水産の無脊椎動物の総称。強力な再生能力を持つことで知られる。]
生殖物質繼續説を採るか採らぬかは、後天的性質の遺傳を論ずるに當つて大關係のあることで、生物進化に關する理論方面の根本問題である故、次にヴァイズマンの説に對照して著者の考へを述べて置きたい。ヴァイズマンの説によると、生物の身體は生殖物質と身體物質との二部より成り、生殖物質は先祖から子孫へと連綿として繼續するが、身體物質の方は一代每に生殖物質から分かれ生じ、發育して身體となり、一定の壽命の後に亡び失せる。卽ち身體なるものは生殖物質を前の代から受け繼ぎ、次の代へ讓り渡すまでの間、之を預り護るための一時的の容器に過ぎぬ。かやうに身體と生殖物質とを常に別物として考へるのがヴァイズマン説の特色であるが、著者の考へは之と反對である。
著者の考へによれば、生物の身體を生殖物質と身體物質とに判然分けるのは誤である。この二者は實物に就いて區別の出來ぬ通り、理論上にも判然區別すべき理由はない。卵細胞や精蟲が、新しい一個體を生ずる力を有するに反し、他の體部の細胞にこの力がないのは無論著しい相違ではあるが、之は根本的の相違ではなく、發生に伴ふ分業の結果と見倣すのが至當であらう。生殖細胞には生殖の力はあるが、その代りに營養の働が出來ず、他の身體の細胞は子を産むことは出來ないが、その代りに身體を養ふ役を務め得るのは、恰も胃は消化するが呼吸せず、肺は呼吸するが消化せずといふのと同樣な關係で、孰れもたゞ生活に必要な種々の作用を分擔して居るのである。如何なる生物でも、その發生の初期には特に生殖に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]べき物質と、その他の物質との區別などは決してない。その發育が進むに隨ひ、頭となるべき所、足となるべき所、胃になるべき部、肺になるべき部などの區別が次第に現れるが、それと同樣に、生殖腺となり生殖細胞を生ずべき部分も明に他と區別が出來るやうになる。動物によつては、發生の初期から生殖細胞と他の細胞との區別が明に知れるものもあるが、之は單に分業が早くから現れるといふまでで、脊椎動物の如くに生殖細胞の區別の生ぜぬ類に比して、たゞその時期に早い晩いの差があるに過ぎぬ。元來生殖の働は各個體の營養を務める方とは仕事の性質が違ふから、他に比すれば分業の行はれることが幾分か早いのが常で、單細胞動物の群體の内でも、先づ最初に分業の行はれるのは、營養を司どる個體と生殖を司どる個體との間である。されば、或る動物の發生中に、生殖細胞のみが特に早くから他の細胞と區別が出來るやうになつても別に不思議はない。また、かやうに分業が起つて、身體の構造が複雜になつてからも、全部殘らず集まつて一個體を成して居るのであるから、身體といふ中には無論生殖腺も生殖細胞も含まれて居る譯で、特に之だけを離して別物の如くに取扱ふべき理由はない。
生物が兩性生殖によつて代を重ねる有樣を見るに、先づ親の身體から精蟲・卵細胞が離れ、この二つが相合して一個の新しい生物體の基となるが、初は恰もアメーバの如き單細胞動物と同樣で、無論生殖細胞・身體細胞の區別はない。次いで少しく發育が進んでも、尚單細胞動物の群體の如くで、總べての細胞は形も相同じく、働きも相均しい。更に發育が進むと、初めて身體各部の間に漸々相違が現れ、生殖腺の出來る場處も次第に明になる。これだけは實物に就いて直に見ることの出來る事實であるから、理論に於てもこの通りに
見倣すのが最も造りごとのない考へ方であらう。されば生活する物質が先祖から子孫へ連綿と繼續して、決して途中に切れ目のないことは明であるが、生物の身體を常に生殖物質と身體物質とに分け、その中の生殖物質だけが繼續するものの如くに見倣すのは、實物で證明することの出來ぬ一種の想像説であるから、之によらねば到底説明のしやうがないといふやうな事實が澤山にない以上は、特に之を採るべき理由はない。また複雜な身體が出來上つてからも、生殖細胞を有する卵巢や睾丸は、肺・胃・肝・心などの他の臟腑と共に、同一の血液、同一の淋巴に養はれ、同一の神經に支配せられ、同一の醗酵素が循つて[やぶちゃん注:「めぐつて」。]來て、全體が寄り合つて一個の完結した個體を成すもの故、生殖細胞と他の體部とを離して全く別物の如くに取扱ひ、後者を容器の如く、前者を内容物の如くに見倣すのは、大なる誤であつて、かやうな考を根據として論を立てては、到底正しい結論に達する望はないやうに思はれる。
[やぶちゃん注:丘先生のヴァイスマンの「生殖質説」への反駁は冷静で整然としていて、腑に落ちる。落ちるが、これらを読みながら、私はしかし、このヴァイスマンの極論すれば「生物個体は生殖細胞の持つ目に見えない生殖質の未来へと伝播して行くための容器である」という考え方は、私はイギリスの進化生物学者・動物行動学者クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins 一九四一年~)の一九七六年に発表した“The Selfish Gene”(「利己的な遺伝子」)を読んだ時の、目から鱗の発想転換の面白さを思い出させるのである。「生物は遺伝子によって利用されれいるヴィークル(vehicle:乗り物)に過ぎない」というあれである。私は個人的にドーキンスの考え方を支持する人間である。セントラル・ドグマを長い生物種の生存のタイム・ラインで考察する時、私はミトコンドリアがそうであった可能性が高いように、DNAは、生物体に寄生し、同化し、その保存と複製を命じ続ける驚くべき生物様システムであるように思われてくるからである。]
« 小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(46) 社會組織(Ⅱ) | トップページ | 進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(三) 三 後天的性質非遺傳説 »