諸國里人談卷之三 不知火
○不知火(しらぬひ)
豐後國宮古郡(みやこのこほり)甲浦(かんのうら)の後(うしろ)の森より、挑灯(ちやうちん)のごときの火、初更のころより、出る。また、松山より、ひとつの火いでゝ、空中にて行合(ゆきあひ)、戰ふごとくにして、海中へ「颯(さつ)」と落る。又、海上にて鷄(とり)の蹴合(けあふ)にひとしくして、少時(しばらく)、捻(ねぢ)あひて後(のち)、出〔いで〕たる所の山森(〔やま〕もり)に入る也。四・五月、八・九月に、かならず、あり。これを「つくしのしらぬ火」といふ也。そのかみよりありて、來歴、しれず。日本第一の妙火也。今つくしのまくら言葉となる。
[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。
「豐後國宮古郡(みやこのこほり)甲浦(かんのうら)」この地名にはテツテ的に疑義がある。先ず、「豐後國」(宇佐市・中津市除く大分県域に相当)には「宮古郡」という郡は存在しない。また「甲浦(かんのうら)」という地名は知られたものでは、あさっての方向の高知県安芸郡にあった甲浦村(かんのうらむら)があるが(現在の安芸郡東洋町(とうようちょう)甲浦(かんのうら))、話にならない。豊後には「甲浦」は見当たらない。そもそもが語ろうとしとるのは妖火「不知火」(しらぬい)なんじゃろが?! 何で大分なん?! 「不知火」は文字通り、不知火海が御本家じゃろ?! しかも「つくし」の枕詞じゃで! この「つくし」は九州の古名と採っておくなら、福岡に限定する必要はなかとでしょう! さればこそ! これは不知火海=有明海かそれに連なる南の島原湾か八代海のどこかと考えるのが、これ、普通でしょうが!
さてもそこで、まず「豐後國」は誤りとして排除し、有明海の周辺の肥前・筑後・肥後が比定範囲とすれば、そこに「宮古郡」はあるかといえば、これが、ないんじゃ!
しかしじゃ! 現在、ズバリ!「不知火町」というのがあるんじゃが、それは今の熊本県宇城(うき)市不知火町(しらぬひまち:表記は現在も歴史的仮名遣。但し、読みは「しらぬいまち}。いいねえ! お洒落で! この一帯全体(goo地図)じゃ。さて。そこよ。この不知火町、元は宇土(うと)郡不知火町なんじゃ! ……「宇土郡」?……「宮古郡」?……何だか、字が似てねえっかってんだよ!!
儂はピンと来たね! 宇土郡の崩し字を見て、沾涼(他人の記録を見て無批判に安易に写して調べもしなかったケース)か版元の彫師(これは沾涼が正しく書いたそれを誤判読したケース)が「宮古」と誤読したんじゃねえか? ってね。
なお、実は「不知火町」は別に今一つ、福岡県大牟田市不知火町(しらぬひまち:ここも歴史的仮名遣)が存在する(ここ(グーグル・マップ・データ))。位置的にはこちらの方が有明海湾奧の東岸で狭義の「筑紫」じゃけん、ロケーションとしてはバッチリなんじゃが、しかし、私はやはり、宇土郡を採る。何故か? ウィキの「不知火(妖怪)」を見て貰いたいのだ。そこに研究者『丸目信行は文献集『不知火』に、『不知火町永尾剣神社境内から阿村方面へ時間経過による不知火の変化』と題し、多数の写真を載せている』(注に一九九三年の資料とある)とあるのだが、その不知火町永尾の剣神社というのは、ここ(グーグル・マップ・データ)で、宇城市の方の不知火町だからさ(「阿村」というのは八代海の西に浮かぶ上島(かみしま)の熊本県上天草市松島町阿村のこと。ここ(グーグル・マップ・データ))。「不知火」はね、八代海や有明海に現れるんだ。宇城市は八代海の湾奥だもの!
『これで不知火町近くの古地名に「甲浦」があったら、儂の推理はピッタシカンカンなんだけどなぁ……』と思いながら、地図を探していると……おや?
――宇城市三角町郡浦
ってあるぞ! なんて読むのかな?
――みすみまち こおのうら
だっツ! これだ! 「甲の浦」=「郡浦(こうのうら)」だ! やったぜ! ベイビー! ここだよ(グーグル・マップ・データ)! 宇城市不知火町の西の直近の八代海を望む絶景だもんね! 久々に僕の憂鬱が完成したわ!!!
最後にウィキの「不知火(妖怪)」を引いておこう。『不知火(しらぬい)は、九州に伝わる怪火の一種。旧暦』七『月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるという』。『なお、現在も見え、大気光学現象の一つとされている』。『海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現する。それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶ。その距離は』四~八『キロメートルにも及ぶという』。また、『引潮が最大となる午前』三『時から前後』二『時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされる』。『水面近くからは見えず、海面から』十『メートルほどの高さの場所から確認できるという』。『また』、『不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行く』。『かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていた』。『『日本書紀』『肥前国風土記』『肥後国風土記』などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述がある』。『大正時代に入ると、江戸時代以前まで妖怪といわれていた不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、蜃気楼の一種であることが解明された。さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が』六『メートルも下降して干潟が出来ることや』、『急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説された。この説は現代でも有力視されている』。『宮西道可は熊本高等工業から広島高工の教授であり、専門的な研究をした。彼によると、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため』、『漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して』、『目の錯覚も手伝い』、漁火が『怪火に見える』のだという』。『また山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である。そして、その光源は民家等の灯りや漁火などである。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である」と述べている』とある。但し、『現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっている』とする。
「初更」午後七時頃又は八時頃からの二時間を指す。
「松山」八代海からやや内陸だが、熊本県宇城市松橋町松山なら、ある。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし内陸でいいんだ。後で「山森」と言っているもの。
「鷄(とり)」ニワトリ。
「捻(ねぢ)あひて」互いの炎がぶつかり合い、捩じれ合って絡まったりして、恰も闘鶏を見るようなのだろう。本書の挿絵は正直、上手くないが、この絵はその感じを上手く出している。
「來歴、しれず」沾涼は暗にだから「知らぬ火」だと言いたそうな感じはする。]