諸國里人談卷之四 小町芍藥
○小町芍藥(こまちしやくやく)
出羽國雄勝(おかち)郡院内、湯沢といふ驛(むまやぢ)は、秋田より會津への往還也。此宿の間、小町村といふあり。むかし、此所は出羽(でわの[やぶちゃん注:ママ。])郡司好實(よしざね)の住居地なるよし、小町村は小㙒の小町の出生の所也といへり。小町の宮(しや)あり。その流れといひつたへて、さもとらしき百姓あり。むかしより、此家は女子ばかり生じて男子を生ぜず。代々(よ〔よ〕)、聟をとつて相續する事、今以、かはらず。又、田畑の畔(あぜ)に、芍藥、九十九株あり。小町の植(うへ[やぶちゃん注:ママ。])られし其種(たね)といひつたへたり。此芍藥を、わけて他(た)にうゆるに、そだゝず。そのまゝ枯(かる)る也。花の盛のころ、子供・わらんべにても、此花を折れば、そのまゝ祟りありて、大熱(だいねつ)などする也。よつて、垣をきびしくかこみ置(おく)也。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]
私云〔わたくしにいふ〕、
九十九といふ事を小町の事にいふは、深草の少將、もゝ夜通ひし事より、世にいひつたへたり。又、「もゝとせにひとゝせたらぬつくもがみ」の哥は、うたひ物には小町の事のやうにいへども、「伊勢物語」には、かつて、小町の事にはあらず。此所の芍藥、九十九株にさだまる事はいぶかしき事也。かの少將の緣によりて、九十九かぶ、のこる事か。外に仔細あるにや、しらず。
[やぶちゃん注:「伊勢物語」は①は「伊物」。③を採用した。
「出羽國雄勝(おかち)郡院内、湯沢」「小町村」「小町の宮(しや)」現在の秋田県湯沢市秋田県湯沢市小野小町(おのこまち)にある小町堂。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「出羽(でわの)郡司好實(よしざね)」ウィキの「小野小町」によれば(下線太字やぶちゃん)、『小野小町の詳しい系譜は不明である』(生没年も未詳である)『彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い』。『系図集『尊卑分脈』によれば』、『小野篁の息子である出羽郡司小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から』、『小町の生没年は』天長二(八二五)年頃~昌泰三(九〇〇)年の『頃と想定されるが、小野篁の生没年』(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)を『考えると』、『篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘』、『あるいは小野滝雄』なる人物の娘『とする説もある』。『血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが』、『存在が疑わしい。さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている』。『また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある』。『生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説』、『熊本県熊本市北区植木町小野とする説』、『神奈川県厚木市小野とする説』『など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父』ともされる『小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという』。『前述の秋田県湯沢市小野で過ごしたという説の他、京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年』、『この地で過ごしたとの説がある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている』。『小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される』。『秋田県湯沢市小野には二ツ森という深草少将と小野小町の墳墓がある。なお、近隣には、小野小町の母のお墓とされる姥子石など、小野小町ゆかりの史跡が多数存在している』とある。その他の伝承はリンク先を見られたい。
「さもとらし」如何にももっともらしく由緒ありげだ。然るべき様子である。
「芍藥、九十九株あり」深草少将は、ウィキの「深草少将」によれば、『室町時代に世阿弥ら能作者が創作した、小野小町にまつわる「百夜通い」の伝説に登場する人物。深草の里の欣浄寺(京都市伏見区)に屋敷があったともされる』。『欣浄寺の池の横には「少将の通い道」とよばれるものがあり、訴訟を持っている者がここを通るとかなわないと言われる。その他、小野小町供養塔と並んで深草少将供養塔がある。また、随心院(京都市山科区)には、深草少将等が書いた手紙を埋めたとされる「文塚」等がある。小野小町を愛したといわれ、小町が私の元へ百日間通い続けたら結婚しようと言い、九十九夜通ったが、雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとも言われている』とあるように、まさに小町伝説の産んだ架空の人物である可能性が濃厚な男である。サイト「京都通百科事典」の「百夜通い伝説」には幾つもの同伝説のヴァージョンが記されているが、その中に――小野小町は、深草少将が毎日運んできた九十九本の芍薬を植え続けてきたが、百日目の夜、秋雨が降り続く中、途中の森子川にかかった柴で編まれた橋で、百本目の芍薬を持った深草少将が橋ごと流されてしまう。小野小町は、月夜に船を漕ぎ出し、深草少将の遺骸を探し、岩屋堂の麓にあった向野寺に安置して、芍薬一本一本に九十九首の歌を詠じ、「法実経の花」と称した。その後、小野小町は、岩屋堂に住み、香をたきながら自像をきざみ、九十二才で亡くなった。――という話を載せるが、この話の森子川や岩屋堂は、既にしてこの生地の一つとされる秋田県湯沢市小野なのである。「秋田県あきた未来創造部地域の元気創造課活力ある集落づくり支援室」の作るサイト「ああきた元気ムラ!」の「小町の伝説(1)小町の誕生」や、「小町の伝説(2)深草少将の百夜通い」及び「小町の伝説(3)小町の晩年」を参照されたい。また、強力な個人サイト「小野小町」の「岩屋堂」や同サイトのその他の湯沢市小野地区の「小町堂(芍薬塚)」・「桐善寺(長鮮寺跡)」(深草少将が仮住まいしたとされる)・「二ツ森」(小野小町と深草少将の墳墓の地とされる場所)等(トップページ下方)も必見である。
「もゝとせにひとゝせたらぬつくもがみ」「伊勢物語」第六十三段に出る、
百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくも髮われを戀ふらしおもかげに見ゆ
である。「つくも髮」は諸説あるものの、「九十九髮」で「百」に一画足りぬ「白」で白髪の意と解される。在原業平は小野小町と同時代人ではあるが、沾涼の附記する通り、この章段の相手の大年増の女性は小町ではなく、全く関係はない。
「うたひ物には小町の事のやうにいへども」観阿弥が謡曲「卒塔婆小町(そとばこまち)」で「百夜通い」伝説に引っ掛け、この歌の上句を、老残の小町の告白(深草の少将の霊が彼女に憑依する直前)の、地歌に、
〽百歳(モモトセ)に 一歳(ヒトトセ)足らぬつくも髮(ガミ) かかる思ひはありあけの 影(カゲ)恥づかしきわが身かな
と使っている。]