諸國里人談卷之四 大竹
○大竹
駿河國府中の寺に、元祿年中の頃、一夜(あるよ)の中、庭に假山(つきやま)のごとくに、地、凸(たかく)になりたり。「あやし」と見るに、一兩日たちて、笋(たかんな)、生出(ひいで)たり。近隣に、藪、なし。異(こと)なるに、日を追(おつ)て成長し、竹になりたる所、目通りにて、凡(およそ)三尺周(まは)りあり。「未聞(みぶん)の事なり」と、諸人(しよにん)、見物す。一年(あるとし)、御番衆(ごばんしゆ)、見物に來り、座興のやうに所望ありしに、住僧の云〔いはく〕、「所詮、此竹ありて、人、かしまし。幸に、まいらせん」と無下に伐(きり)たり。人々、これを配分して、おもひおもひの器物(きぶつ)に拵(こしら)へけり。丸盆・たばこ盆・樽などにして珍とす。或人、飯注子(めしつぎ)にして江戸へ持來(もちきた)り、土産などにせしよし也。其器(き)を當(まさ)に見たる人の談(ものがたり)也。其大〔おほい〕さ、徑(わたり)、八、九寸ありし、となり。
[やぶちゃん注:「駿河國府中」所謂、駿府。現在の静岡市葵区の静岡駅周辺の中心市街地一帯。
「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。
「假山(つきやま)」「築山」に同じい。
「笋(たかんな)」=「筍」。竹の子。
「目通り」成人男子が起立した際の目の高さに相当する位置の植物(通常は木本類。タケ(被子植物門単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連 Bambusea)が草本か木本かは意見が分かれる)の幹の太さを指す語。
「三尺周(まは)り」円周で約九十一センチメートル。これだと、直径は約二十九センチメートルになるから、竹としては明らかに異様に太い。最後に「おはち」に加工したものの直径が「八、九寸」(二十四~二十七センチメートル)とするのともほぼ一致するから、異常な太さの巨大竹であったことになる。本邦産のタケ類の最大種は、中国原産のマダケ属モウソウチク(孟宗竹)Phyllostachys
heterocycla f. pubescens で、高さ二十五メートル、直径八センチメートルから二十センチメートルで、最大個体では直径が二十五センチメートルに達すると、サイト「三河の植物観察」のこちらの孟宗竹のページにはある。但し、そのページには孟宗竹の伝来を十八世紀前半(薩摩藩に渡来)とするので、孟宗竹ではないことになってしまうのは、ちょっと残念。
「御番衆」駿府在番であろう。ウィキの「駿府城」の「駿府在番・勤番」によれば、『駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番』(おおばん)『が駿府城に派遣されていたが』、寛永一六(一六三九)年には『大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後』、約百五十年間に亙って、『駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる』(後、寛政二(一七九〇)年には、この『書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた』とある)。
「座興のやうに所望ありしに」調子に乗って、この竹が欲しいと言ったところが。
「無下に」(「てっきり渋って断わるかと思っていたところが、豈に謀らんや」のニュアンスで)冷淡にも。そっけなく。あっさりと。
「飯注子(めしつぎ)」炊き上がった飯を移し入れる飯櫃(めしびつ)。おはち。]