諸國里人談卷之四 物見松
○物見松(ものみのまつ)
美濃國垂井と赤坂の間、靑野原(あをののはら)に「熊坂が物見の松」あり。相傳ふ、むかし、長範(ちやうはん)、此松のうへに潛(ひそま)りて、往來(ゆきゝ)の人をうかゞひけるといへり。熊坂は越後國關川と小田切との間に熊坂村といふあり、此所の出生(しゆつしやう)なりと云。
[やぶちゃん注:「美濃國垂井と赤坂の間、靑野原(あをののはら)」現在の岐阜県不破郡垂井町とその東に接する岐阜県大垣市赤坂町の間、現在の岐阜県大垣市青野町附近(グーグル・マップ・データ)。
「熊坂が物見の松」熊坂長範(くまさかちょうはん)は平安後期にいたとされる伝説上の盗賊(但し、初出は室町後期。以下の引用参照)。ウィキの「熊坂長範」より引く。『室町時代後期に成立したとされる幸若舞『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する。牛若丸(源義経)とともに奥州へ下る金売吉次の荷を狙い、盗賊の集団を率いて美濃青墓宿(または赤坂宿)に襲ったが、かえって牛若丸に討たれたという』。源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられた』。『幸若舞『烏帽子折』による、熊坂長範に関わる話の筋は次のようなものである』。『鞍馬寺を出奔し』、『金売吉次の供に身をやつした牛若丸は、近江鏡の宿で烏帽子を買い求め、自ら元服して九郎義経を名乗った。美濃青墓宿の長者の館に着いたとき、父義朝、兄義平・朝長の三人が夢に現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集結していることを知らされる。このとき、熊坂長範は息子五人を始め、諸国の盗賊大将七十余人、小盗人三百人足らずを集めていた。青墓宿を下見した「やげ下の小六」は義経の戦装束を見て油断ならぬものと知らせるが、長範は常ならぬ胸騒ぎを覚えるものの、自らの武勇を恃んで青墓宿に攻め寄せた。待ちかまえていた義経は長範の振るう八尺五寸の棒を切り落とし、三百七十人の賊のうち八十三人まで切り伏せる。長範は六尺三寸の長刀(薙刀)を振るって激しく打ちかかるが、義経の「霧の法」「小鷹の法」に敗れ、真っ向から二つに打ち割られた』。『謡曲『烏帽子折』『熊坂』は、舞台を美濃赤坂宿とし、義経との立ち回りに細かな違いは有るものの長範に関わる筋立ては同様である』。『牛若丸が奥州へ下るさいに盗賊を討つ、という逸話は』十三『世紀半ばに成立した『平治物語』においてすでに現れている。ここでは、黄瀬川宿(現沼津市)付近で身の丈』六『尺の馬盗人を捕縛し、百姓家に押し入った強盗』六『人を切り伏せている』。『『曽我物語』では、盗賊を討ったのは美濃垂井宿のこととされ』、『室町時代前期に成立したと考えられる『義経記』では、出羽の由利太郎と越後の藤沢入道に率いられた信濃・遠江・駿河・上野の盗賊勢』百『人ほどを鏡の宿において討ったとする』。『熊坂長範の名が現れる幸若舞『烏帽子折』と謡曲『烏帽子折』『熊坂』の先後関係は明かでないが』、『内容から見るといずれも『義経記』、なかでも越後の住人で大薙刀を操る藤沢入道の記述を元に創作された可能性が江戸時代から指摘されている』。『幸若舞『烏帽子折』で自ら語るところによれば、越後との国境にある信濃国水内郡熊坂に生まれた』(現在の長野県上水内郡信濃町熊坂。ここ(グーグル・マップ・データ)南端外の長野県上水内郡信濃町野尻側に彼が根城としたと伝え、その埋蔵金が眠るという長範山(ちょうはんやま)がある)。『もとは仏のような正直者であったが』、七『歳のとき伯父の馬を盗んで市で売った。これが露見しなかった事に味を占め、以来日本国中で盗みを働き、一度も不覚をとらなかったという』。『義経に討たれた時は既に老境(齢六十三)に差し掛かっていたが、棒や薙刀(幸若舞『烏帽子折』・謡曲『熊坂』)、或いは五尺三寸の大太刀(謡曲『烏帽子折』)などを振るう豪傑として、小柄で素早い義経と対照的な描写がされている。謡曲『烏帽子折』では投げ込んだ松明を義経に三つとも消され、縁起が悪いとして一旦は退散を考えるものの、「いや熊坂乃長範が。今夜の夜討を仕損じて。何処に面を向くべきぞ。たゞ攻め入れや若者ども」と叱咤する』。『このような人物像はさらに脚色され、例えば『謡曲拾葉抄』に引く『異本義経記』では張良と樊噲の字を取って熊坂張樊を名乗ったとし』、『『義経地獄破り』においては地獄を攻める義経に伊勢義盛』『の仲介で勘当を許され地獄の釜の蓋を盗み出す』、また、『高野山で発心したさまが『新著聞集』に記されるなど』、『さまざまな伝承が発生し、江戸時代には歌舞伎・浄瑠璃・草双紙などにおいて盗賊・義賊の代名詞として諸作品に登場することとなる。現在この松は垂井町綾戸(あやど)の綾戸古墳(ここ(グーグル・マップ・データ))で「長範物見の松」として比定されている。手水舎氏のサイト「寺さんの川柳&ウォーク」の「綾戸古墳と長範物見の松」がよい。
「越後國關川と小田切との間」「關川」は新潟県妙高市関山の誤りであろう。「小田切」は長野県長野市山田中にあるが、飯縄山南麓でかなり離れるので、不審。熊坂を南東に下ると小布施であるから、それと混同したものか?]