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2018/07/20

譚海 卷之二 肥後國めもら主膳殿事

 

肥後國めもら主膳殿事

○肥後の圖にも米良(めら)主膳と稱するもの、一村の主人にて、近來まで年貢等も不持出(さしいださず)、深山中(しんざんちう)の一村に居たるものなり。五千石の知行に被仰付(おのせつけられ)、今は交代寄合(こうたいよりあひ)に入置(いれおか)れしと也。古來よりの所帶高(しよたいだか)いか程(ほど)といふ事を知らず、五千石は當時の御定高(ごじやうだか)也とぞ。

[やぶちゃん注:標題の「めもら」はママ。底本の竹内利美氏の注に、『肥後ではなく日向の米良氏。宮崎県米良谷』(米良村は(グーグル・マップ・データ))『は椎葉谷』(椎葉村は米良村の北に接する、(グーグル・マップ・データ))『とならび称される山の里で、一種の隠里であった。無年貢で、後にその主は五千石の交代寄合』(江戸幕府の職名で、一万石以下三千石以上の非職の旗本で幕府と特殊な関係にあった家系の者に限られた。老中支配で、身分格式は譜代大名に準じ、領地に常住したが、隔年に参勤交代した。凡そ三十余家があった)『になったという』とある。平凡社「世界大百科事典」の「米良荘」によれば、宮崎県中部を東流する一ッ瀬川の上流一帯を指す地域名で米良山地ともいう。行政的には西都市東米良地区と児湯(こゆ)郡西米良村に属する。山地は中生代の四万十(しまんと)層群に属する粘板岩と砂岩を主体にした九州山地を一ッ瀬川の本・支流が浸食したもので、高い所で標高千メートル内外であるが、谷の傾斜が急で、古くから、北方の椎葉とともに平野部から隔絶した地域として隠田集落的性格を持ち、独特の民俗を有した。古い時代の歴史は不詳ながら、十五世紀初め、肥後の菊池氏が後醍醐天皇の子孫を奉じてこの地に入山し,米良氏と改姓して支配したと言われている、とある。

「米良(めら)主膳」彼と相良藩との関係については、熊木大学寿PDF)の「3)研究成果」の「A)藩政期の支配関係」と「B)藩政期米良の社会経済構造」がよい。事実どうであったかは別として、米良氏自身は菊池氏の子孫であると信じていたらしく、『米良主膳則重の墓には、氏は菊池としるしている。米良氏は米良の山地によって明治の初めまでよく家運を支え、幕末には山中から勤王運動にのりだし』たと、宮本常一(つねいち)の「山に生きる人びと」(未來社『日本民衆史』二・昭和三九(一九六四)年刊)にはある。]

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