諸國里人談卷之一 塩の井
○塩の井
陸奧國會津若松より米澤への往還、「六十里越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])」といふ山の梺(ふもと)に、大塩といふ驛(むまぢ)あり。若松より五里余、此所、町の川岸に、「潮(うしほ)の泉(いづみ)」、大小、二ケ所あり。大木を刳(くり)て、底なき桶のごとくにして、その泉を、かこふ。此木、年來(ねんらい)、塩に朽(くち)て岩のごとし。此潮(うしほ)を汲(くみ)て塩に燒く也。民屋(みんをく)、七、八十軒、皆、塩を燒(やき)て産とす。此所より、海邊(かいへん)へ四日路(ぢ)より近きはなし。唐(もろこし)雲南省・四川省にある所の塩井も是也。○夏、此潮(うしほ)を浴(あび)て乾(かはけ)ば、惣身(そうしん)より塩のこぼるゝ事、燒(やき)たる塩のごとし。又、浴衣・手拭等(とう)に「さらさら」と塩のこぼるゝなり。
[やぶちゃん注:本条の挿絵がここに載る(①)。海塩でない、内陸産の塩である。塩分を含んだ地下水や塩泉の温泉水を汲み揚げて煮詰めて作るもの。「たばこと塩の博物館だより」の同館学芸員高梨浩樹氏の第十五回『「移動」をともなわない塩適応(その2)』(及びそこからリンクされている前回分)を見ると、我々の知識としては馴染みの薄い、本邦の内陸性製塩の歴史が垣間見えてきて、必見である(本条関連と思われる西会津の事例も見られたい)。また、そこでも紹介されてある、長野県下伊那郡大鹿(おおしか)村(海のない同県でしかもこの村の標高は七百五十メートルである)の塩泉製塩については、「JA長野」公式サイト内の「塩水の湧泉から採取される大鹿村の山塩の謎」に詳しく、その歴史は古く、伝承では、『太古の昔、信濃の国を開拓した建御名方命(たてみなかたのみこと)が狩りをしたとき、鹿など動物が集まる水場を調べると、そこは「塩泉(しおせん)」であったと、伝えられて』いるとし、史実上は『ひも解くと、西暦』八百『年代にまでさかのぼ』るとして、『当時、上下諏訪社の領地として管理され、塩を産出するこの地には、多くの牧場が作られ、貴重な塩分が与えられた良馬が育ち、諏訪社の祭りや農耕に重宝されていたと伝えられて』いるという(『草食動物は、尿と一緒にカリウムと多量のナトリウムが出ていくため、補うためにどうしても「塩」が必要にな』る)。『南北朝地時代になると、後醍醐天皇の第八皇子「宗良(むねなが)親王」が大鹿村に住み、親王を護衛する城が作られ』るが、『その中のひとつ、「駿木(するぎ)城」では、護衛と同時に、この塩を守ることも重要な任務で』、『この駿木城の遺跡からは、塩を作っていた製塩の様子を伝えるものも見つかってい』るとある。『江戸時代になると、塩を「塩壷(しおつぼ)」で製塩するようになり』、明治八(一八七五)年に『旧徳島藩士である黒部鉄次郎という人物を中心に岩塩を見つけようと』、『大きな夢を抱いた人々が鹿塩地区へやってきます。後に「白い鉱山師(やまし)」と呼ばれる彼らは、塩水を煮詰めるなどの製塩事業をしながら、山を掘り』、『岩塩発見に執念を燃やしますが、結局発見でき』なかった。則ち、何故、この大鹿『村に塩水が湧き出るの』『か』は、『実は』、『その理由は』現在も『解明』されていないのであり、まさに『これは、神秘の塩なの』だとある。うん! ゼッタイ、この塩、欲しい!!!
「六十里越」現在の新潟県魚沼市と福島県南会津郡只見町との間にある峠。ここ(グーグル・マップ・データ)。最高標高は八百六十三メートル。
「大塩といふ驛(むまぢ)」(「むまぢ」は「馬路」の当て読み)「大塩」の宿場名に拘るなら、六十里越と会津若松(「若松より五里余」は短過ぎるが)とのスパンを考えると、福島県大沼郡金山町大塩としか私には思われない。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「此所より、海邊(かいへん)へ四日路(ぢ)より近きはなし」この大塩村から海辺に辿り着くまでには、どの道を通ったとしても、丸四日の行程がかかり、それ以上近い位置には海辺はない。
「唐(もろこし)雲南省・四川省にある所の塩井」雲南省の例は個人ブログの「中国貴州省とそこで暮らしている苗族トン族等の少数民族を紹介しています。」の「雲南省の塩造り」がよい。それによれば、『雲南省の各地では、意外にも多くの場所で塩が採れ』、『雲南の塩は岩塩ではなく』、『井戸などから汲み上げた塩分を含んだ水を煮詰めて造る所が多いよう』だとある(製塩写真有り)。同ブログには別に「雲南省楚雄市石羊鎮の塩造り」もあり、そこでは本邦の流下式塩田の装置に酷似したものを画像で見ることが出来、必見。四川省については、白九江氏の論文(水盛涼一訳)「四川盆地における古代の塩業技術 ―考古遺跡や遺物を焦点として――」(PDF)によれば、製塩が太古の昔まで溯れ、『四川盆地内の塩はおおむね井塩』(せいえん)『の形式であり、ほかに少量の岩塩が存在する。四川盆地での井塩生産の歴史はとても長く、考古的発見からみれば、現在の状況からしても少なくとも今から四千五百年ほど以前の新石器時代晩期にまで溯ることができ』、『その長い歴史もあって古代における煎熬』(せんごう:製塩に於いて塩水を濃厚にして得た鹹水(かんすい)を煮つめて塩を製すること)『採塩技術の際立つ代表となっている』とあり、『近年』、『考古学発掘隊は相次いで重慶市忠県の中壩遺跡』を始めとした遺跡群に於いて、『一連の塩業に関する考古調査や試掘』を進めており、『これら塩業遺跡の周辺の地域での発掘活動においても少々ながら古代の塩業に関する考古学的発見があった。この一連の発掘により得られた重要な成果により、四川盆地の井塩の発展の歴史研究は大きく前進し、おおむね古代』、『なかでも先秦時代における塩生産工程が解明され、古代の井塩技術の歴史研究はさらなる高みに到達したのであった』とある。また、ウィキの「自貢市」(現在、四川省の重要な化学工業基地の一つ)によれば、同地区は『古代よりこの地で産出される「井鹽」(井塩)という塩は貴重なものとして各地へ売られ、製塩業や塩の売買、塩に関係する工業で財をなした富裕な商人が多く住んだ。近代的な製塩技術が導入されるまでは、製塩と塩取引で栄える自貢は中国でも豊かな都市の一つであった』とあり、事典類にも、自貢市は古くから岩塩の産地として知られ、塩井が多く、製塩が盛んなため、「塩都」の称があり、現在も四川産塩の二分の一以上を同市が産しているとか、戦国末期から塩井を掘り、天然鹹水を汲み上げて煮つめ、井塩を採取しきた。唐代になると規模も拡大され、各王朝は塩税を課して塩の専売を行った。また、塩井とともに「火井(かせい)」と呼ぶガス井(せい)から天然ガスを採取し、それをまた、塩の精製に利用してきたとある。
「惣身(そうしん)」「總身」。]