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2018/07/04

諸國里人談卷之三 短册塚

 

    ○短册塚(たんざくづか)

奧州高舘(たかだち)の城跡(しろあと)は、今、過半、畑(はた)となり、僅に殘りける墁(なだらか)なる芝山也。小草(〔こ〕ぐさ)、茂合(しげりあひ)たるに、片岡・猿尾〔ましを〕・龜井等の討死の跡は、松を栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])て、むかしを殘せり。一とせ、芭蕉行脚の時、

   夏草やつはものどもが夢の跡   芭蕉

所の門人、此たんざくを茲(こゝ)に埋(うづみ)て碑を立〔たつ〕。此発句、彫(ほり)て「短尺塚〔たんざくづか〕」と号して、今に存す。

[やぶちゃん注:「高舘」現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所で義経堂が建つ。(グーグル・マップ・データ)。義経堂公式サイト。義経一党が自刃したのは、文治五年閏四月三十日でユリウス暦一一八九年六月十五日(グレゴリオ暦換算では六月二十二日相当)で享年三十一、芭蕉が訪れたのは、元禄二年五月十三日でグレゴリオ暦一六八九年六月二十九日で、当時、芭蕉は数え四十六歳であった。しかし、この「短册塚」或いは「短尺塚」(後者の本文ルビは私が振ったが短冊と短尺は同義で用いるので誤りではない。但し、③では後も「短册塚」となってはいる)は高館跡(判官館跡/義経堂)にない。私は当初、これはサイト「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の第三集「芭蕉と平泉」の高館たかだちについてに記載のある、明和六(一七六九)年に高館から毛越寺(もうつじ)に移した芭蕉真筆の句碑がそれであろうと思ったのだが、「平泉観光」の「芭蕉句碑」を見ると、この碑の建立年を宝暦七(一七五七)年とするのだ。これでは、本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、違う。ということは、そこには失われた芭蕉のプロトタイプの「短冊塚」がかつて存在したということであろうか? 私は疑っているわけではない。芭蕉の門人の中に、そんなフリーキーな奴がいたとしても、これは少しもおかしくはないとは言える。但し、そのためにはその閉区間での実在を証明する他の実地で見聞したとする一次資料が必要だ、というより、あったなら、これは複数の人が記していなくてはならない。それを御存知の方は、是非、御教授あられたい。なお、「奥の細道」の平泉寺訪問の下りは私の今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 31 平泉 夏草や兵ものどもがゆめの跡 / 五月雨を降りのこしてや光堂及び今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 32 平泉 光堂での棄てられた一句 螢火の晝は消えつゝ柱かなを参照されたい。

「片岡」片岡常春(生没年未詳)は義経とともに討ち死にしたとされる人物。ウィキの「片岡常春より引く。『平忠常の子孫である両総平氏一族・海上庄司常幹の子。通称は太郎、もしくは次郎、八郎とも。片岡氏は常陸国鹿島郡片岡を名字の地とするが、本領は下総国三崎(海上)庄であった』。養和元(一一八一)年三月、『片岡氏が源頼朝と対立した佐竹氏と縁戚であった事から、頼朝に謀反の疑いをかけられ、常春を召還すべく下総に雑色が派遣された。常春は領内に乱入したとしてこれを傷つけ、縛り上げて晒し者にした事から罪科が重なったとして所領を没収された』。『その後』、『許されて源義経の平氏追討の陣に従い、『延慶本平家物語』では壇ノ浦の戦いで海中から浮かび上がった』神璽を『拾い上げる手柄を立てている』。文治元(一一八五)年十月、『常春は舅の佐竹義政に同心したとして』、『再び謀反の疑いをかけられ、所領である下総国三崎庄を没収され、千葉常胤に奪われている。その数日後、頼朝と対立して都から西国へ落ちる義経の一行の中に、「片岡八郎弘経(弘綱)」の名が見られる』。『『吾妻鏡』上では「片岡太郎常春」「片岡次郎常春」「片岡八郎常春」、「片岡八郎為春」「片岡八郎弘経」と名前や通称が不統一に散見されるが、次郎もしくは太郎を称した常春と、八郎為春(別名が弘経)という兄弟の存在が想定される』。文治五(一一八九)年三月に『三崎庄は常春に返還される沙汰が出されたが』、十三『世紀初頭には』、『この地は千葉常胤の子東胤頼の所領になっている事から、片岡氏は奥州合戦前後に滅亡したものと思われる』。『『義経記』では、片岡経春(片岡八郎)が義経の都落ちに従い』、文治五(一一八九)年)閏四月に』『平泉で自害した義経に殉じたとしている。兄弟とみられる弘経は都を落ちる義経に同行しているが、常春が都落ち後の義経に従っていたかどうかは不明。平泉付近には、彼が討ち死にした場所に植えられたという「片岡の松」が保存されている』とある。

「猿尾〔ましを〕」「猿尾の三郎」(「源平闘諍録」)は同じく義経に最期まで付き従った家臣の一人とされるが、詳細は不詳。猿尾氏は武蔵国比企郡北方の麻師宇(ましう/ましお)郷(現在の埼玉県比企郡小川町附近)を拠点としていた豪族である。

「龜井」亀井重清(?~文治五(一一八九)年)も同じく主君義経とともに果てたとする郎党の一人。ウィキの「亀井重清によれば、『穂積姓、藤白鈴木氏の一族、または佐々木氏の一族で、兄に鈴木重家がいた。弓の名手と伝わる』。「吾妻鏡」の文治五(一一八五)年五月七日の条に『兄頼朝の怒りを買った義経が、異心のない証として鎌倉へ起請文を送った使者として亀井六郎の名が見られる。この起請文は、義経がそれまで勝手な振る舞いをしてきて、今になって頼朝の怒りを聞いて初めてこのような使者を送って来たものとして許されず、かえって頼朝の怒りを深める原因になった』。また、「源平盛衰記」では『一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する』。「義経記」では『義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年』二十三『」と名乗り、奮戦したのち』、『兄と共に自害した。弓の名人であったと』する。『重清の兄とされる重家は』、「源平盛衰記」にも『義経郎党』として名が見え、また、「続風土記」の『「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で鈴木重家と義兄弟の契りを交わしたとされる。鈴木は紀伊国熊野三党の一つで、海南市藤白に鈴木屋敷と伝えられる所がある』とある。]

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