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2018/07/11

諸國里人談卷之三 千方火

 

    ○千方(ちかたの)火

勢州壱志郡〔いしのこほり〕家城〔いへき〕の里、川俣川の水上より、挑灯(ちやうちん)ほどなる火、川の流(ながれ)にそひて、くだる事、水より、はやし。これを「千方の火」といふ。むかし、藤原の千方は此所に住しけると也。大手の門の礎(いしずへ)の跡、今に存せり。それより、簱屋(はたや)村・的場村・丸之内村・三之丸・二の丸・本丸といふ村々あり。今、凡(およそ)七千石程の所なり。千方は今見(まみ)大明神と云。則(すなはち)、此所のうぶすな也。

[やぶちゃん注:最後の「と云。則(すなはち)、此所のうぶすな也。」の部分はでは割注形式で小さく二行に書かれているが、続いていて割注ではおかしく、これはがここが帖の終りで詰めた結果であるので、に従った。

「壱志郡家城」「川俣川」これは思うに、「卷之二 窟女」と同じロケーションではないか? そこで私はそちらの「勢州壱志郡川俣川」について、『「壱志郡」は一志(いちし/いし)と読み、伊勢国及び旧三重県にあった郡。しかし、「川俣川」という川は不詳。「川俣」という地名はあるが、ここは旧一志郡内ではない。しかし、後の「川向(〔かは〕むかひ)の家城村」が判った。これは「いえきむら」で、現在の三重県津市白山町南家城を中心にした一帯である。(グーグル・マップ・データ)。現在、ここを貫流する川の名は「雲出川」であるが、一つのロケーションの可能性は雲出川が東へ屈曲する辺りか。東から支流が入って俣になっているからである』と述べた。ここでもそれに従いたい。

「藤原の千方」平安時代に鬼を使役したとされる豪族で、同名の人物は藤原秀郷の子であった千常の子(「尊卑分脈」)に見え、或いは千常の弟ともされる。但し、後に示す「太平記」のそれは天智天皇の御世としていて話が合わない。ウィキの「藤原千方の四鬼」によれば、『三重県津市などに伝えられる伝説の鬼』で、『様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名』とし、『その話によると、「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる』。『他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。 また、この四鬼は忍者の原型であるともされる』とある。「太平記」巻第十六「日本朝敵事」の当該の一節は以下である(新潮日本古典集成版を元に恣意的に漢字を正字化した)。

   *

また天智天皇の御宇に藤原千方(ちかた)といふ者有つて、金鬼・風鬼・水鬼・隱形鬼(おんぎやうき)といふ四つの鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立たず。風鬼は大風(たいふう)を吹かせて、敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地(ろくち)に溺(でき)す。隱形鬼は其形を隱して、にはかに敵をとりひしぐ。かくの如くの神變、凡夫の智力を以て防ぐべきにあらざれば、伊賀・伊勢の兩國、これがために妨げられて王化に從ふ者なし。ここに紀朝雄(きのともを)[やぶちゃん注:不詳。]といひける者、宣旨をかうむつて、かの國に下り、一首の歌を讀みて、鬼の中へぞ送ける。

 草も木も我大君の國なればいづくか鬼の棲(すみか)なるべき

四つの鬼、此歌を見て、「さては、我等、惡逆無道の臣に從つて、善政有德(うとく)の君を背(そむ)き奉りける事、天罰遁るるところ無かりけり」とて、たちまちに四方に去つて失せにければ、千方、勢ひを失ひて、やがて、朝雄に討たれにけり。

   *

 また、落王氏のサイト「U-dia」の「藤原千方伝説を訪ねて」には、『首謀者の藤原千方は、家城付近の雲出川の岸の岩場で酒宴をしてゐるところを、対岸から紀友雄に矢で射られて死んだ(または、一騎打ちに望んだが激戦の末生け捕られた)。千方は首を切られ、その首は川を遡って川上の若宮社の御手洗に止まったので、若宮八幡宮にまつられたと言う。この地方では節分に「鬼は外」とは言はない。鬼は人と神の仲取り持ちをする眷族とされるからで、伊勢・伊賀地方では鬼に関はる行事も多いといふ。紀友雄は勝ちどきを上げ』『、志賀の都(近江)へと帰還した。千方が籠もったと言われる千方窟は忍者発祥の地と言われ、かつての伝説を今に伝えている』とあるのであるが、この『家城付近の雲出川』とはまさに私がここのロケーションと否定した先の地と完全に一致し、「千方窟」(三重県伊賀市高尾中出。(グーグル・マップ・データ))は家城はここから東北東九キロメートルと比較的近い(画面右中央が家城)のである。さらに、落王氏の上記のページの下方からリンクされてある窟」訪問記録ページを見ると(写真豊富)、ここは明らかに古い山寨の後であることがよく判り、千方城郭の正門跡とされる「大門跡」があり、そこは大門の『石柱が折損したところと言われ、西に数百メートルの大通』り『があったと伝えられる』とあって、これはまさに本文の「大手の門の礎の跡」と合致すると言える。

「簱屋(はたや)村・的場村・丸之内村・三之丸・二の丸・本丸といふ村々あり」現在の三重県津市及び伊賀市には孰れにも「的場」や「丸之内」という旧地名は見出せる。そもそもが伊賀地方は江戸時代、伊勢津藩領である。因みに、津藩は総石高十一万八百四十三余石で、その内、伊賀郡は三万二百九十八余石であった。「七千石」というのは伊賀郡では四分の一強になるが、千方窟周辺は山間部であるから、ここは現在の津市に跨った広域で概略計算したものであろう。

「今見(まみ)大明神」不詳。「今見」もこれを「まみ」と読む読みも、私は出逢ったことがない。先の落王氏の窟」ページの「千方明神」の写真に、宝暦一〇(一七六〇)年『建立の石神で藤原千方と若宮明神(高尾 若宮神社)を祀っている』とある。ただ、「まみ」といえば、「猯(まみ)」・「魔魅」で、これは穴居性のタヌキやニホンアナグマ及びそれらに由来する妖怪であるから、穴に住んだ四鬼及びそれを使役した藤原千方のシンボライズとしては私は腑に落ちる。おぞましき悪鬼悪霊にずらした目出度い漢字名を与えて封印するのは御霊信仰の常套手段ではある。

「うぶすな」産土神。土着の古からの土地神。]

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