進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(五) 六 血淸試驗上の證據
六 血淸試驗上の證據
血液は無色透明な血漿と、その中に浮べる無數の血球とから成り立つたものであるが、人間或はその他の獸類から新鮮な血液を取つて、コップにでも入れて、暫時据ゑて置くと、直に膠の如くに凝固する。尚捨て置くとその表面に少し黃色を帶びた透明な水の如きものが滲み出るが、之が卽ち血淸である。初の赤い塊は漸々收縮し、血淸は漸々增して、終には血淸が赤塊を全く浸すやうになつてしまふ。
さて人間の血液から取つた血淸を、兎などに注射するに、少量なれば兎は之に堪へる。二三日後に再び注射を行ひ、また二三目を經て注射を行ひ、六囘乃至十囘位も斯く注射をした後に、その兎を殺してその新鮮な血液から血淸を取ると、この血淸は普通の兎の血から取つた血淸とは大いに性質が違ふ。ここに述べた如くに特別に造つた血淸を便利のため人兎血淸と名づけるが、之を人間の血から取つた血淸の溶液に混ずると、忽ち劇しい沈澱が出來て濁る。普通の兎の血淸では、このやうなことは決してない。
馬の血淸を數囘注射した兎の血から、馬兎血淸を取り、牛の血淸を數囘注射した兎から、牛兎血淸を造るといふやうにして、種々の動物の血淸を製し、また種々の動物の血液から單にその血淸を製し、これらの血淸を種々に相混じて、試驗して見ると、馬兎血淸は馬の血淸とでなければ沈澱を生ぜず、牛兎血淸は牛の血淸とでなければ沈澱を生ぜぬこと、全く人兎血淸は人の血淸と混じなければ沈澱を生ぜぬのと同樣である。卽ち甲の動物の血淸を乙の動物に數囘注射した後に、乙の動物から取つた血淸は、たゞ甲の動物種類の血淸と相合[やぶちゃん注:「あひがつ」。]しなければ沈澱を生ぜぬといふ性質を有するのである。
馬兎血淸は馬以外の動物の血淸と合しては、少しも沈澱が出來ぬが、之には幾らかの例外がある。例へば驢馬の血淸と混ずれば、忽ち沈澱が出來る。驢馬兎血淸を馬の血淸と混じても同樣である。但し馬兎血淸と馬の血淸とを混じ、驢馬兎血淸と驢馬の血淸とを混じたときに比すれば、聊か沈澱の量が少い。豚兎血淸を野猪の血淸に混じても同じく沈澱が出來る。犬兎血淸を狼の血淸に混じてもその通りである。かやうに互に混じて著しい沈澱の出來る動物は、如何なるものかと見ると、孰れも極めて互に相類似し、その間には子[やぶちゃん注:別版や講談社学術文庫では「間(あひ)の子」。]の出來る位のものばかりで、少しでも緣の遠い動物になると、少しもかやうなことはない。
以上は甚だ面白い現象故、特に之を研究した學者は既に幾人もあるが、その中の一人は動物の血淸を五百種も造り、猿類の血淸だけでも殆ど五十種ばかりも用意して、人兎血淸と混ぜた結果を調べたが、猿類以外の動物と混じては、少しも沈澱は出來ず、また猿類の中でも普通の猿類では或は單に極めて少量の沈澱が生ずるか、或は全く沈澱を生ぜぬが、人猿類の猩々などの血淸に混ずると忽ち著しい沈澱が出來る。この反應から考へて見ると、人間と猩々との類似の度は恰も馬と驢馬と、豚と野猪と、犬と狼と等が相類似する度と同じで、まだ實驗はないが、その間には確に間の子が出來得る位に相近いものである。語を換へれば、人間と猩々とが共同の先祖から相分かれたのは比較的餘程近い頃で、兩方の體質の間にまだ著しい相違が起るまでに至らぬのである。
先年のドイツ國出版の人種學雜誌に、ストラオホといふ人の猩々兎血淸に關する研究の結果が載せてあつたが、やはり前と同樣である。或る動物園に飼ふてあつた牝の猩々が病死したので、直にその血液を取うて血淸を製し、之を數囘兎に注射して、後にその兎の血液から、猩々兎血淸を取り、種々の動物の血淸に混じて試驗して見た所が、その結果は人兎血淸と殆ど同樣で、人間の血淸に混ずると忽ち著しい沈澱が出來た。たゞ人兎血淸と違ふたのは、他の猿類の血淸に混じても、相應に沈澱が出來たとのことである。他の動物の血淸試驗の結果に照らせば、この事は人と猩々との極めて相近いものであることの證據で、人兎血淸を猩々の血淸に混じても、猩々兎血淸を人間の血淸に混ぜても、必ず沈澱が生じ、他の動物の血淸と混じては沈澱が出來ぬのは、卽ち全動物界中に猩々ほど人に緣の近いものはなく、また人ほど猩々に緣の近いものはないからである。今日の血淸試驗に關する知識を以ては、殆ど試驗管内の反應によつて動物種屬の親類緣の濃淡を目前に示すことが出來るというて宜しい。
[やぶちゃん注:ここに書かれた血清交差実験に始まる系統研究は現在、遺伝子やDNAレベルでの分子系統学によってより精密に分析が行われている。颯田葉子氏の論文「霊長類の系統関係と祖先集団の多型」(同じ颯田氏の「ヒト・チンパンジー ・ゴリラの系統関係」も有り)斎藤成也氏の論文「霊長類のゲノム解読と分子系統」(孰れもPDF)等、幾つかの新知見の論文をネット上でも見ることが出来る。
「ストラオホ」不詳。]
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