諸國里人談卷之四 八橋杜若
〇八橋杜若(やつはしのかきつばた)
三河國碧海郡(へきかいの)八橋山(やつはしさん)無量寺の杜若は、世に聞(きこ)たる名草なり。此杜若は四葩(よひら)にして燈臺の蛛手(くもで)のごとし。「水行(ゆく)川の蛛手」といふは僻(ひが)事也。蛛手は流(ながれ)の事にあらず。花形(くはぎやう)の名なり。
[やぶちゃん注:
「八橋山(やつはしさん)無量寺」誤り。愛知県知立市八橋町寺内にある臨済宗八橋山(やつはしさん)無量壽寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。寺伝によれば、慶雲元(七〇四)年に慶雲寺として別な場所に創建され、弘仁一二(八二二)年には密円が現在地に移転させて、真言宗無量寿寺として整備したとされる。参照したウィキの「無量寿寺(知立市)」によれば、境内には『在原業平を追って想い叶わずに自殺したとされる小野篁の娘杜若を祀る』「杜若姫供養塔」や『荻生徂徠の弟子が在原業平の逸話を書き付けた』「亀甲碑(八橋古碑)」があるとある。
「杜若」八橋地区は古来から知られるカキツバタ(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ
Iris laevigata)の名勝地で、かの花札の五月の十点札「菖蒲と八ツ橋」(「杜若に八ツ橋」とも)は当地がモデルであり、京銘菓「八ツ橋」は一説には、この八橋に因むとされる、とウィキの「無量寿寺(知立市)」にある。知られた「伊勢物語」第九段を引いておく。
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むかし、男(をこと)ありけり。その男、身を要(えう)なきものに思ひなして、
「京にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めに」
とて、行(ゆ)きけり。もとより友とする人ひとりふたりして行(い)きけり。道知れる人もなくて、まどひ行(い)きけり。
三河の國、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋とはいひける。その澤のほとりの木の蔭に下(お)りゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その澤に、かきつばた、いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
「『かきつばた』といふ五文字(いつもじ)を句の上(かみ)にすゑて、旅の心をよめ。」
と言ひければ、よめる、
からころも着つつなれにしつましあれば
はるばる來ぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、乾飯の上(うへ)に淚おとして、ほとびにけり。
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業平は天長二(八二五)年生まれで元慶四(八八〇)年没であるから、本寺は現在地に既にあったし、東国下りのルート上として問題はないから、このロケーションがこの寺の直近であったと考えることには無理はないと思われる。なお、本「諸國里人談」の刊行(寛保三(一七四三)年)から七十九年後のこととなるが、文化九(一八一二)年に方嚴賣茶(ほうがんばいさ)翁によって無量壽寺の再建が行われた際、同時に「杜若庭園」も完成したとウィキの「無量寿寺(知立市)」にはある。
「四葩(よひら)」四弁。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)を指す。
「燈臺の蛛手(くもで)」屋内の照明用の灯台は、平安以降、円型の台に長竿(ながさお)を立てて、その先端に「蜘蛛手」という四方に放射状に広がった小さな木製の支え板をつけて、灯明皿を置くようになった。沾涼の薀蓄はそれなりに成程とは思わせるが、世に聞えた「伊勢物語」の名にし負う「蜘蛛手」が、水の四方への分流を指しているのを当たり前として語らずに、かく知ったようなことを断定して言うのは、イヤな感じの糞俳諧師という感じがしてくるのは私だけか?]