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2018/07/17

譚海 卷之二 平賀源内ヱレキテルを造る事

 

平賀源内ヱレキテルを造る事

○平賀源内と云(いふ)儒者讚州の人也、本草物産等に志(こころざし)有(あり)。石わたと云ものを取出(とりいだ)し、それにて火浣布(くわかんふ)を織らせ、淸朝へもわたしたり。人形上るりの文句をも工(たくみ)に作り、神靈矢口の渡など云(いふ)もの其(その)作にて、殊の外江戸にて行(おこなは)れ、操座(あやつりざ)の者(もの)活計(たづき)に誇(ほこり)たる事也。日時計・蟲めがねなど、おらんだの製を考へ作り出し、その巧(たくみ)彼(かの)邦の者と彷彿(はうふつ)たり。一とせヱレキテルセイルランといふ器(き)おらんだよりわたりたるに、源内工風(くふう)をこらし、其製にならひて造り出し、上の御覺(おんおぼえ)にも入(いり)、一時權門諸侯に傳翫(でんがん)し、奇特成(きとくなる)事にもてはやされたり。其事にたのみし鍛冶(たんや)又是を拵(こしら)ひ出(いだ)したるを、源内と公事(くじ)になり、終(つひ)に鍛冶屋入牢して獄中に死たり。此ヱレキテルといふ物は、一つの方(かた)なる箱の内に、水火の具をもうけ、箱の上に立たる木二本有(あり)、其木に金線(きんせん)にてよりたる繩をかけ、病者あれば其病者に此繩をもたしめ置(おき)、扨(さて)箱のかたはらにあやつり置(おき)たるふいごの木の如くなる物を、くるくる數度まはす時は、箱の内鳴動す。病人不快成(なる)所・頭痛或はすねなど痛む所へ、銅にて拵(こしらへ)たるくだをあつれば、そのくだより火の光(ひかり)針(はり)の樣に出(いで)て、不快立處(たちどころ)に治する樣にせし具なり。是(これ)病人體中(たいちう)の陽火を發(おこ)して、病氣を治する器なり。腰痛・步行疲勞などを治する事神(しん)の如し。加樣に奇工(きこう)に心をくだき、聰明なる男成(なり)しかども、いかゞ致せしにや亂心して、御勘定奉行松平伊豆守殿用人某、無二の知友なれば來りしを刄傷(にんじやう)し、幷(ならび)に商家米屋久左衞門悴久五郞と云(いふ)者同席に在(あり)しを切害(せつがい)いたし、卽刻源内入牢に及び、終に牢中にて病死せり、惜(をしむ)べき事也。是(これ)安永八年十月の事也、此日去年かぢや牢内にて死せし日にあたれりとぞ。

[やぶちゃん注:「平賀源内」(享保一三(一七二八)年頃~安永八(一七七九)年)は本草学者・戯作者・科学者・鉱山技師で本邦の博物学者の草分けと言ってよい人物である。讃岐志度浦(香川県さぬき市)生まれ。幼名は四万吉(よもきち)。伝次郎・嘉次郎とも称し、名は国倫(くにとも)または国棟(くにむね)。源内又は元内は通称。戯作者としては風来山人・天竺浪人・悟道軒・桑津貧楽など、浄瑠璃作家としては福内鬼外を用いている。父は高松藩の蔵番白石茂左衛門良房で、兄は夭折し、父の死で家を継ぎ、姓を平賀と改めた(平賀は祖先の旧姓とされる)。藩主松平頼恭(よりたか)に見出され、長崎に遊学、藩の薬園の仕事にも携わるようになったが、宝暦四(一七五四)年、突如、藩の役目を辞し、妹婿に家を譲り、江戸に出、本草学者田村藍水に師事、また、林家に入塾、本格的に本草学を学んだ。宝暦七(一七五七)年、田村藍水とともに江戸・本郷湯島で物産会を開き、以後、六年間に物産会を五回開催、とくに宝暦十二年閏四月に行った物産会では全国三十余国から千三百余点に上る展示物を集め、盛況であった。源内はこの物産会の出品物のなかから重要なもの三百六十種を選んで分類・解説して「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」(全六巻)を翌年に出版している。このなかには、藍水の朝鮮人参栽培法や、「天工開物」(明末に宋応星によって書かれた産業技術書)からとった甘蔗搾りの図、また蘭書から模写したサフランの図などの新しい知識も載せている。これらの活躍により、源内は新進の本草学者・物産学者として評価され、殖産興業・蘭癖の時流にのって多彩な活躍をすることとなった。明和元(一七六四)年には、秩父山中で発見した石綿を用いて、国産の火浣布(不燃布)を製作した(この火浣布について同年「火浣布説」を書き、翌年には「火浣布略説」を出版している。本文の「石わたと云ものを取出し」とはその事実(発見と採掘)を指している)。また、平線儀(水準儀)・タルモメイトル(温度計)などの理化学機器の製作で人々の目を惹き、紀伊・伊豆・秩父などに於ける薬物採集や鉱物などの物産調査などを精力的にこなし、幕府や高松藩の殖産策に尽力した。一方、当時、新興の談義本の世界に進み、「風流志道軒伝」(全五巻)・「根南志具佐(ねなしぐさ)(前編)」(全五巻)などを書いて、当時の澱んだ封建社会を風刺し、新作浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」(吉田冠子・玉泉堂・吉田二一との合作)は明和七(一七七〇)年に上演され、好評を博した。これらの文中には本草学・物産学・医学的な知識に加え、オランダ趣味などを採り入れて新しさを狙っている。前後して幕府老中田沼意次の知遇を得、二度目の長崎遊学を果たし、殖産興業(彼のいう「国益」)のための陶器や織物の考案、鉱山関係の事業と、一層、活動の場を広げていった。交友も中川淳庵・桂川甫三(ほさん)・森島中良ら蘭学系学者や、後藤梨春(りしゅん)・平秩東作(へつつとうさく)・大田蜀山人(南畝)らの学者・文人等、多方面に亙った。また、秋田支藩角館(かくのだて)の小田野直武に洋画法を教授し、秋田蘭画誕生のきっかけを与えた。しかし、安永三(一七七四)年、秩父鉱山の経営に失敗、苦境に陥ってしまう。その二年後の安永五年には、かつて長崎で入手した「エレキテル」(摩擦式起電機)の修理に成功、模造品も製作し、一時、評判となって、これを「硝子を以つて天火を呼び、病を治す」医療用具として大名富豪の前で実験し喧伝したものの、期待した後援者は得られず、生活も荒(すさ)み、「放屁論」をはじめとする『風流六部集』では「憤激(ヂレ)と自棄(ワザクレ)ないまぜの文章」で世間を揶揄した。失意のうちに、安永八(一七七九)年十一月のこと、人を殺傷して入牢(じゅろう)、十二月十八日に獄中で破傷風のために世を去ったとされる(以上は概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)ウィキの「平賀源内」によれば、捕縛の一件は、彼は『大名屋敷の修理を請け負っ』ていたが、ある夜、『酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いし』、その場にいた『大工の棟梁』二『人を殺傷したため』とされる。『獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされて』おり、『杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった』という。但し、『晩年については諸説あり』、実は『逃げ延び』、或いは秘密裏に釈放され、『書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない』といった内容が記されてある。

「火浣布」は石綿糸(せきめんし)で織った不燃性の布のこと。煤(すす)や垢などの汚れも火の中に投入して焼けば、布は燃えず、汚れだけが落ちるところから、「火で浣(すす)ぐ(=濯ぐ)」という意で、この名がある。石綿布とも称し、アスベストの一種。耐熱性耐火性に優れており、高熱作業や汽缶などの保温用に使われた。中国では古くからこの製法が知られていることを青木昆陽が指摘している。日本では、この平賀源内が中川淳庵らとともに製作したものが国産第一号とされる。現在は肺線維症・肺癌・悪性中皮腫の原因物質として使用が禁止されている。理科実験の五徳の石綿が懐かしい。但し、古くから存在は知られており、ここにある通り、中国南部の火山に住むとされた想像上の動物である「火鼠」の毛で織り、汚れたら、火に投げ入れれば、汚れが燃え落ち、本体は焼けることがないと伝えられた織物として「竹取物語」にも「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かはごろも)」として、右大臣あべのみむらじへ出される難題として登場し、中国人のイカサマ商人「わうけい」を介して入手するも、かくや姫が火の中へくべさせると「めらめらと」美事に焼けてしまう、という滑稽はご存じの通りである。

「淸朝へもわたしたり」これはまさに逆輸入のハシリでもあると言うべきか。

「人形上るり」「人形淨瑠璃」の当て字。

「工」「巧み」。台詞の巧妙さ。

「操座(あやつりざ)」人形浄瑠璃の一座。

「活計(たづき)に誇(ほこり)たる」評判をとって興行が大成功を修め、それを大いに自慢、喧伝した。

「日時計」印刷された紙にに季節に合わせた短冊状の紙製の紙縒(こよ)りを立て、それを太陽に向け、その影の先端の長さの時刻の数字を読みとるタイプは江戸後期には一般化していたらしいが(サイト「TIMEKEEPER 古時計どっとコム」の1. 紙日時計 江戸時代参照。これ、アナログさ加減が凄くいい。何となく欲しくなる)、源内のは、そんなもんじゃなかろう。二〇一四INAXライブミュージアム企画展手のひらの太陽「時を知る、位置を知る、姿を残す」道具『ひさご型根付日時計』という真鍮製の江戸時代の国産携帯用機械的な日時計の写真が載り、そこには伝平賀源内考案てあるもん! これだわ!

「蟲めがね」これは恐らく、次に本書の載る「おらんだ蟲めがねの事」の条を読む限り、所謂、天眼鏡なんぞではなく、実体顕微鏡クラスのものと考えられる。但し、源内手製ではなく、後のエレキテルのように、オランダ人の持ち込んだ顕微鏡の壊れたものを修理したものかと思われる。「日本顕微鏡工業会」公式サイト内の「7-1 江戸・明治時代の顕微鏡」に、『日本における最初の光学機器は、1551(天文20)年宣教師ザビエル F. Xavier らが周防(山口)の国主・大内義隆に贈った眼鏡とされています。また望遠鏡もその発明からわずか5年後の1613年にはイギリス人により日本へもたらされ、徳川家康に献上されました。望遠鏡は遠眼鏡(とおめがね)として江戸中期には日本でも作られるようになり、軍事や測量、天体観測のほか景色を眺める目的で、幕府・大名だけでなく庶民の間にも広まっていきました』。『一方、顕微鏡が初めて日本に輸入されたのは、望遠鏡よりずっと遅く、オランダの貿易商により1750年頃』(寛延三年)『とされています。1765年』(明和二年)『に後藤梨春が著した「紅毛談(おらんだばなし)」には「虫目がね」として顕微鏡が紹介されています。1781(天明元)年には日本最初の木製顕微鏡が大阪で作られました』とあり、国産顕微鏡が出来た時には源内は没しているが、顕微鏡を紹介した後藤梨春は源内の仲間だからである。

「おらんだの製を考へ作り出し」オランダ渡りの技術を真似て諸機器を器用に手作りし。

「巧(たくみ)」機械工学的技術の才能。

「ヱレキテルセイルラン」オランダ語(元はラテン語)の“elektriciteit”(「電気」「電流」の意)の訛り。源内は「ゐれきせゑりていと」(ヰレキセヱリテイト)と表記している。ネイティヴの発音を聴くと「エレクトリシタィ」と聴こえる。ウィキの「エレキテル」によれば、『オランダで発明され、宮廷での見世物や』静電気を利用した怪しげな医療器具『として用いられていた。日本へは江戸時代に持ち込まれ』(太字下線やぶちゃん)、宝暦元(一七五一)年頃、『オランダ人が幕府に献上したとの文献がある。後の』明和二(一七六五)年に『後藤利春の『紅毛談(おらんだばなし)』で紹介され、それを読んだ平賀源内が長崎滞在中の』明和七(一七七〇)年に『破損したエレキテルを古道具屋あるいはオランダ通詞の西善三郎から入手し、工人の弥七らとともに』、安永五(一七七六)年に『江戸深川で模造製作に成功した』。『構造は外部は木製の箱型、または白木作り。内部にライデン瓶(蓄電瓶)があり、外付けのハンドルを回すと』、『内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電する』。『源内は電気の発生する原理を』、『陰陽論や仏教の火一元論などで説明しており、電磁気学に関する体系的知識は持っていなかったとされ、アメリカの科学者フランクリンが行った実験の情報が伝わっていたとも考えられている。日本でも見世物や医療器具として利用されたが、主に好奇による注目であった。また、寛政の改革による贅沢の禁止や出版統制などにより、電気に関する科学的理解・研究は後の開国以降や明治期まで停滞することとなった』。『源内製造とされるエレキテルが現存しており、うち』一『台が「エレキテル(平賀家伝来)」として』一九九七年に『国の重要文化財(歴史資料)に指定された。これは現在、東京都墨田区の郵政博物館に収蔵されている。他に平賀源内先生遺品館(香川県さぬき市)にも蓄電瓶がない』一『台が現存している』とある。

「傳翫(でんがん)」広く知られ、面白がられることであろう。

「奇特」特別に優れていると評価されること。

「たのみし」「恃みし」。技術を勝って信頼していた。

「鍛冶(たんや)」鍛冶屋。

「又是を拵(こしら)ひ出(いだ)したるを」源内と一緒に製作したその構造や技術を盗んで真似て「エレキテル」と同様な摩擦式静電気発生装置を造り出したのを。

「公事(くじ)」裁判。今で言うところの著作権・パテント絡みの民事裁判相当。

「水火の具」不詳であるが、後で淙庵は「箱の上に立たる」「其木に線(きんせん)にてよりたる繩をかけ」とあり、さらに「病者あれば其病者に此繩をもたしめ置(おき)」というのはその人間は地面()に立っているか座っているか寝ているわけで、先のウィキの「エレキテル」に『源内は電気の発生する原理を』『陰陽論』で説明・理解していたらしい、という意見やを見るに、これは思うに、淙庵自身も「木・・土・金・の陰陽五行説の相生(そうじょう:互いに他のものを生み出す関係。木が火を、火が土を、土が金を、金が水を、水が木を生むとする(反対語は相克(そうこく)で、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木にそれぞれ勝つ)機序によって強力な電気(静電気)が発生すると考えているのではなかろうか?

「扨(さて)箱のかたはらにあやつり置(おき)たるふいごの木の如くなる物を、くるくる數度まはす時は、箱の内鳴動す」前半は横の回転式ハンドルを指す。You Tube バリアフリー2015国際ロボット平賀源内 「エレキテル」のレプリカ(使用資材は同じではないが、内部構造がよく判る)をご覧あれ。

「病人體中(たいちう)の陽火を發して」陰気に支配されている病者の体内に潜在している陽気を電気的現象として外部から起動させることで治療すると考えたものであろう。

「御勘定奉行松平伊豆守殿」不審。この時期に松平姓で伊豆守の勘定奉行はいない。以下の殺害事件も地位や人物が知られているものとは異なり、輪をかけて不審。ウィキの「平賀源内」には彼に殺された大工の名を『秋田屋九五郎』とするのが『商家米屋久左衞門悴久五郞』の名と一致しているのも、なんだかなぁ、である。同ウィキにはまた、『男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる』とあり、商家米屋久左衞門悴久五郞は、そっちの方面か? などとかんぐったりしてしまう。

「此日去年かぢや牢内にて死せし日にあたれりとぞ」淙庵の聴き書きなのだが、話者は明らかに怪奇談(因果応報譚)を狙っていること、疑いない。]

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