譚海 卷之二 遠州見附冷酒淸兵衞事
遠州見附冷酒淸兵衞事
○遠州見付宿に植村淸兵衞と云(いふ)もの有。一名は冷酒淸兵衞と號する由、此由來は東照宮御敗軍の時、此者の先祖に酒御乞(おこひ)被ㇾ成(なられ)、あたゝめて參らせよとありしを、かやうの牽迫(ひつぱく)成(なる)際にてはあたゝめずと召せとて冷酒のまゝまゐらせしより此號有。今も二三年に壹度づつ江戸へ罷出(まかりいで)、御老中𢌞(ごらうちうまは)り致し、御禮申上候由、此(この)供(とも)の人足は片桐家より仕(し)たて出(いだ)す事、古例ある事なるよしいへり。
[やぶちゃん注:享和三(一八〇三)年成立の「遠江古蹟圖會」の「冷酒之由緒」に(国立国会図書館デジタルコレクションのここから。但し、リンク先は写本)、『慶長年中、關ヶ原戦の砌り、神君御通行有ㇾ之(これある)節(せつ)、見附宿の側松原に出(いで)て酒賣者有(ある)折節、冬御陣なれば、軍卒も寒空(さむそら)を凌ぎて右の酒店(しゆてん)にて八文酒を飮(のみ)をる』。『家康公も酒店御立寄』になられ、家康に冷酒を勧めたことから、帰陣の後、帯刀御免となり、植村清兵衛と名乗り、毎年正月、江戸へ年頭の御礼に出るとあり、穴が一つある「アケヅノ箱」を伝来、家が没落に及ぶならば大公儀へ持出すべしとの墨付を添えているといったことが絵入りで書かれてある。
「遠州見付宿」現在の静岡県磐田市中心部。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。
「東照宮御敗軍」前の話では「関ヶ原の戦い」への出陣の途中とするが、「中遠広域事務組合」公式サイト内の「中遠昔ばなし」の第六十二話「冷酒清兵衛(ひやざけせいべえ)(磐田市)」では、『家康をねらっていた武田方の武士に追われて、命か』ら『がら見付宿まで逃げて来ました。清兵衛は、家康を何とか追っ手から守らなければと、見付宿のあちこちに火を放ち、敵が街の中に入れないようにしました』(この清兵衛訪問は二度目)。『武田方は三本松(富士見町)まで追ってきましたが、既に見付宿は火の海になって通れません。南を回れば水田で遠く、北は山道で追うこともできず、立ち往生していました。この間に、家康は、清兵衛の案内で、橋羽(浜松市中野町)の妙音寺まで逃げ、その夜は一泊し、翌日、無事、浜松城へ帰ることができました』とある。菊蔵氏のブログ「菊蔵の旅と歴史ブログ」の「徳川家康四百回忌・遠州の家康伝説 二十二話」には「遠江古蹟圖會」と同じく関ヶ原出陣とした話とこれを併載してあるのでそちらも参照されたい。この実話伝には幾つかのヴァージョンがあるらしい。
「牽迫」「逼迫」。
「片桐家」豊臣家の家老で豊臣秀頼の傅役を務めたが、家康に協力的な立場をとり、方広寺鐘銘事件の際に大坂城を退出し、徳川方に転じた片桐且元から始まる片桐家(且元直系は明暦元(一六五五)年に無嗣断絶で絶えたが、大和小泉藩藩主となった弟片桐貞隆の家系が明治まで大名として存続している)。]
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