諸國里人談卷之三 狐火玉
○狐火玉(きつねのひだま)
元祿のはじめの頃、上京(かみぎやう)の人、東川(ひがしがわ[やぶちゃん注:ママ。])へ夜川(よ〔かは)〕に出〔いで〕て、網を打(うち)ける。
加茂の邊(へん)にて、狐火(きつねび)、手もとへ來りしかば、とりあへず、網を打かけゝれば、一聲(ひとこへ[やぶちゃん注:ママ。])鳴(ない)て、去りぬ。
網の中に、光るもの、とゞまる。
玉のごとくに、その光り、赫々(かく〔かく〕)たり。
家に持歸り、翌日(あけのひ)、これを見れば、その色、うす白く、鷄(とり)の卵のごとし。
晝は光(ひかり)なし。夜(よ)に入れば、輝(かゝや)けり。
夜行(やかう)の折から、挑灯にこれをうつせば、蠟燭より明らか也。
「我(わが)重宝。」
とよろこび、祕藏してけり。
ある時、又、夜川に出けるが、かの玉を紗(しや)の袋に入〔いれ〕、肘(ひぢ)にかけて網を打しが、大さ、一間ばかりの、大石とおぼしきもの、川へ、
「ざんぶ。」
と落(おち)て、川水、十方(じつぽう)へ、はねたり。
「これはいかに。」
と驚く所に、玉の光、消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。
袋をさぐれば、ふくろ、破れて、玉、なし。
二、三間むかふに、光りあり。
「扨はとりかへさる。」
と口おしく、網を擔〔になひ〕て追行(おひゆき)しが、終にとり得ずして、むなしく歸りぬ。
[やぶちゃん注:直接話法が多いので、特異的に改行した。
「元祿のはじめ」元禄は一六八八年から一七〇四年までの十七年。
「東川」京の東を流れる賀茂川の異称。対語は西を流れる桂川の「西川」。
「夜川」は「夜川網漁」(よかわあみりょう:現代仮名遣)即ち、夜の川漁のこと。但し、狭義には「鵜飼い」をする川に於いて夜に行う漁に用いる語であるらしい。
「加茂の邊」より山が近い上賀茂神社と採っておく。別に、当時の下賀茂神社でも草木深くはあるから、それを外すものではない。
「一間」約一メートル八十二センチ。
「二、三間」三メートル六十四センチから五メートル四十五センチほど。]