諸國里人談卷之三 阿漕塚
○阿漕塚(あこぎづか)
伊勢國安濃津(あのつ)阿漕浦(あこぎのうら)の野中(のなか)に、榎(ゑのき)の古木(こぼく)を栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])し塚あり。漁獵(ぎよりやう)平次が塚也。【あこぎの事は世にしれる所なり。略ㇾ之。】」毎年七月十六日、津の岩田橋(いはたのはし)にて、深更にきけば、沖に網引(あびき)の聲するといひつたへたり。また、孟蘭盆(うらぼん)の内、近在の子供・童(わらんべ)、大勢つらなり、燧(ひうち)・火打石を以〔もつて〕、大路を切火(きりび)する事、あり。「あのゝこのゝなんあみだ、あこぎ菩提、なんまみだ」とはやしてあるく事、おびたゞし。これを制(せい)すれども、あへてきかず、隱れしのび出〔いで〕て、此事をなすなり。いつの頃、誰(たれ)人のはじめたるといふをしらず。阿漕がぼだいを吊(とふ)謂(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])なり。
[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。
「阿漕塚」現在の三重県津市乙部にある浄土真宗太楽山上宮寺(じょうぐうじ)。津市最古の寺(ここ(グーグル・マップ・データ))に現存する。サイト「日本伝承大鑑」の「阿漕塚」を見られたい。
「伊勢國安濃津阿漕浦」現在の三重県津市津興(つおき)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「あこぎの事」阿漕ヶ浦は古くより伊勢神宮に供える魚を獲るための禁漁域であったが、「阿漕の平次」と呼ばれる漁夫が、禁制を犯して繰り返し密漁を行ったために捕らえられたという伝承があり、古くは「古今和歌六帖」の歌「逢ふことを阿漕の島に引く網のたび重ならば人も知りなむ」が知られ、この話から能「阿漕」などのさまざまな話が創作された。室町期に成立した「源平衰退記」では、既に「あこぎ」を「度重なること」の比喩として使い、近世以降には「しつこいさま」の意味で使われるようになり、その後、「しつこくずうずうしいこと・義理人情に欠けていてあくどいこと・無慈悲に金品を貪ること」の意に定着した。以下、WEB画題百科事典「画題Wiki」の「東洋画題綜覧」の「阿漕が浦」を引く。『阿漕が浦は勢州阿濃郡にある、昔から阿古木の浜辺に古墳一堆榎一本あつてこれを阿漕の明神と云ふ、昔納所村から太神宮へ御供調進の砌此の浦にて贄の佳肴を漁した、其故に伊勢の海士の世を渡る漁りを禁戒してゐた処、あこぎといふあま、夜々忍んで網を引き渡世としてゐた処遂にあらはれて罪科に行はれ、此の浦の波間に沈められた、その悪霊祟りをなすので、十の祢宜より社を祠り悪霊邪気の沙汰も鎮まつた、それから毎七月十六夜はかの幽霊が網を引いた日とて、その夜に限り漁を断絶した(勢陽雑記)』。『謡曲の『阿漕』は此の伝説を骨子とした元清の作、前シテ漁翁、後シテ阿漕、ワキ旅僧である、一節を引く』(恣意的に漢字を正字化し、踊り字「〱」を正字化し、読点も追加した)。
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此浦を阿漕が浦と申す謂御物語り候へ、「總じて此浦を阿漕が浦と申すは、伊勢太神宮御降臨より以來、御膳調進の網を引く所なり、されば、神の御誓によるにや、海邊のうろくづ此所に多く集まるによつて、浮世を渡るあたりの海士人、此處にすなどりを望むといへども、神前の恐れあるにより、堅くいましめて、是を許さぬ所に、阿漕といふ海士人、業に望む心の悲しさは、夜々忍びて網を引く、しばしは人も知らざりしに、度重なれば、顯はれて、阿漕をいましめ、所をもかへず、此浦の沖に沈めけり、さなきだに伊勢のをの、海士の罪深き身を苦しみの海の面、重ねておもき罪科を受くるや、冥度の道までも「娑婆にての名にしおふ今も阿漕が恨めしや、呵責の責もひまなくて、苦しみも度重なる罪弔らはせ給へや、「恥かしや、古を、語るもあまり、實に阿漕が浮名もらす身の、なき世語のいろいろに、錦木の數積り千束の契り忍ぶ身の阿漕がたとへ浮名立つ、憲淸と聞えし其歌人の忍妻、阿漕々々といひけんも責一人に度重なるぞ、悲しき。
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但し、先のサイト「日本伝承大鑑」の「阿漕塚」にも載るが、伝承のヴァージョンの一つでは、母の病いを癒すためにヤガラ(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヤガラ科ヤガラ属 Fistularia。本邦近海ではアカヤガラ Fistularia petimba 及びアオヤガラ Fistularia
commersonii が棲息)を漁をし、役人に捕まり、莚に巻かれて阿漕浦に投げ入れられて死んだことになっている。「三重県」公式サイト内の「阿漕平治」を参照されたい。そこにはその後の怪奇現象(真夜中に沖で網打つ音が聴こえ、その網の音や泣き声を聴いた者が病いとなる)と彼の慕っていた上宮寺の西信(さいしん)津師が彼の霊を鎮めたことも記されてある。
「七月十六日」先の「三重県」の「阿漕平治」では八月十六日となっているが、旧暦旧盆であろう。
「岩田橋(いはたのはし)」現在の三重県津市の岩田川に架かる国道二十三号(伊勢街道)の橋。ウィキの「岩田橋」によれば、『初めて岩田橋が架橋された時期は不明であるが、江戸時代初期には木橋が架けられ、欄干が擬宝珠で装飾されていた。「参宮道中の橋に擬宝珠をつけたのは、瀬田の唐橋とこの岩田橋以外には天下にない」といわれていた。当時の橋の大きさは幅
三間』(約五・四メートル)、長さ 三十六間(約六十五メートル)『だった』という。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「網引(あびき)」万葉以来の古語の読み。
「燧(ひうち)・火打石」衍字ではなく、前が鋼鉄片の「火打金(ひうちがね)」で、後が石英などの「火打石」であろう。この二つを打ち合わせて、清めのための「切火(きりび)」、火花を打ち出すのである。ここには平次(平治)を御霊(ごりょう)とし、それを鎮める意味が込められているように思われる。
「大路をする」街道を行き来する。
「あのゝこのゝなんあみだ、あこぎ菩提、なんまみだ」「阿の」を「のこ」(或いは「阿の「漕「の子」)「の南無阿彌陀、阿漕」が「菩提」、「南無阿彌陀」か。
「これを制(せい)すれども、あへてきかず、隱れしのび出〔いで〕て、此事をなすなり」権力(役人というよりも神宮のそれ)への民衆の秘かな抵抗意識、特に前の念仏から浄土真宗信徒を中心としたそれが私には強く感じられる。三重県の浄土系の仏教徒は現在、八十%で全国的にも実は非常に高い。
「吊(とふ)」言わずもがなであるが、「とふ」には「弔(とむら)う」の意がある。]