小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(46) 社會組織(Ⅱ)
日本の奴隷制度の起原に關しては、多くの學ぶ可き事が殘つて居る。つぎつぎに移住が行はれた證據があるが、少くとも、極古い日本の移住者の内には、其後に來た侵入者のために、奴隷の狀態に陷れられたのもある。なほ朝鮮人支那人の移住者も隨分澤山にあつて、其の中には、奴隷よりも遙かに惡るい禍を逃れるために自ら進んで奴隷の服役を望んだ者もあつたらしい。併し此の問題は、甚だ曖昧である。【註】吾々は上古にあつては、奴隷に墮とされるといふ事が普通の刑罰であつた事、竝びに負債を拂ふ事の出來ない債務者は債務者の奴隷となる事、又窃盜は被盜難者の奴隷となるやうに判決された事を聞いて居る。言ふまでもなく隷屬の狀態にも、澤山の相違が在つた。奴隷の慘めな部類に屬する者には、家畜に近いものもあつた。併し、農奴の中には、賣買されることが出來ず、或る特殊な仕事以外には使用する事を許されないものもあつた。これ等のものは主人の血旅で、糊口又は安全のために、自ら進んで奴隷狀態に入つたものであるらしい。彼等と主人との關係は、ローマの食脚と其の庇護者との關係を想ひ起こさせる。
[やぶちゃん注:「血旅」原文“kin”(血縁・親族・親類の意)。「血族」の誤植と思われる。]
註 六九〇年に、持統天皇の發布した勅令は、父が其子息を奴隷に賣却し得ることを制定してゐる、併し債務者は單に農奴にのみ賣られ得るとされて居る。勅令には恁う書いてある、『一般人民の間に在つて、弟が其兄に依つて、賣られたる場合、その弟は自由の人と一緖に置かれ得る、子が其親に依つて賣られた場合には、その子は奴隷と一緒にされる、債務の利子支拂ひのために、奴隷となつた人々は、自由の人と一緒にされる。それ等の人と奴隷との間に生まれた子は、すべて自由の人と同列にされる』――アストン譯『日本紀』第二卷、四〇二頁
若有ハ百姓ノ弟爲ニㇾ兄ノ見一ㇾ賣者。從ㇾ良(ヲホミタカラ)ニ。若子爲二父母一見ㇾ賣者。從ㇾ賤(ヤツコ)ニ。若准(なすらへ)テ一貸倍(カリモノノコ)ニ。沒(イ)レラハㇾ賤者(ヤツコ)ニ。從[やぶちゃん注:原本「徒」。誤植と断じて特異的に訂した。]良(ヲホミタカラ)。其子雖ㇾ配(タグ)ヘリト二奴婢一ニ。所ㇾ生亦皆從ㇾ良。
[やぶちゃん注:「日本書紀」の持統五(六九一)年の「三月癸巳」(二十二日)の条を改めて引く。
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詔曰。若有百姓弟爲兄見賣者。從良。若子爲父母見賣者。從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配奴婢。所生亦皆從良。
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やはり平井呈一氏の訓読文を参考に読み下しておく。
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詔(みことのり)して曰はく、「若し、百姓(おほみたから)の弟(おとと)有りて、兄(このかみ)の爲に賣られなば、良(おほみたから)に從へ。若し、子、父母(かぞいろ)の爲に賣られしかば、賤(やつこ)に從へ。若し、貸倍(かりもののこ)に准(なぞら)へて賤(やつこ)に沒(い)れらば、良(おほみたから)に從へ。其の子、奴-婢(やつこ)に配(たぐ)へりと雖(いふと)も、生む所(ところ)は亦、皆、良(おほみたから)に從へ。
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今日の處では古代の日本社會に於ける自由にされた人と本來の自由人との間に、明確なる差別を立てることは困難である。併し支配階級の下位に屬する自由な人民は、二大區分に分かれてゐたことを吾々は見るのである、則ち國造と伴造(ともつこ)とがそれである。前者は農夫であつて、恐らく極古い蒙古の侵入者の後裔らしく、中央政府とは獨立して自分等獨自の土地を保有することを許されてゐた、彼等は自分の土地を領有して居たのであるが、貴族ではなかつた。伴造は工匠であつて――恐らく其の大部分は朝鮮人若しくは支那人の後裔で――その氏族は百八十もあつた。彼等は世襲の職業に從事し、其氏族は皇族に屬して居て、皇族のためにをの技能を振ふやうにさせられて居た。
[やぶちゃん注:「國造」(くにのみやつこ)
は古代大和の王権に服属した地方首長の身分の称。地方統治に当たらせ、大和政権は国造制の下に地方支配体制を固めた。「大化の改新」による国郡制の施行により、その多くは郡司に優先的に登用されたが、一部は律令制下の国造として祭祀を掌り、世襲の職とされた。
「伴造」「大化の改新」前に皇室所有の「部(べ)」、則ち「品部(ともべ)」(忌部(いんべ)・山部・鍛冶部(かじべ)とった特定の物資や労役を世襲的に提供させられた集団。身分は公民であるが,良賤の中間に位置した)・「名代(なしろ)」(皇族の私有部民(べみん)。諸国の国造の民から割いて設け、皇族名を付した)・「子代(こしろ)」(皇室の私有部民。天皇が皇子・皇女のために設けたものらしい)を率い、その職業によって朝廷に奉仕した中央の中下層の豪族。その姓(かばね)は造(みやつこ)・首(おびと)・連(むらじ)が普通であるが、大伴・物部両氏のように大連(おおむらじ)となって朝政を左右する豪族にまで発展したものもある。このような伴造の中で有力なものは令制下にあって、一般貴族に名を連ね、他は令制の下級官人に編成され、律令諸官司の品部・雑戸(ざっこ:律令時代の大蔵省・兵部省造兵司・中務省図書寮などのような特定の省・司・寮に属して手工業などの技術的業務に従事した集団)を率いて朝廷に奉仕するようになった。]
本來から云へば、大氏でも小氏でも、みなぞれぞれ自己の領土、主長、從屬、農奴、奴隷を所有してゐた。主長の職は世襲――原始の族長から直系に依つて、父から其の子へ讓られるもの―であつた。大氏族の主長は、それに從屬する小氏族の主長の上に立ち、其の權力は宗教と武力との兩方に及んだ。但し宗教と政治とが同一のものと考へられて居たことは、忘れてはならない。
日本の氏族の全部は、皇別、神別、藩別の三部に分かたれて居た。皇別(『皇室の一門』)は所謂皇族を表はし、日の御神(天照皇大神)の後裔とされて居る。神別(『神の一門』)は日の御神以外の地上と天上との諸〻の神々の後裔とされて居る氏族である。藩別(『外來の一門』)は多數の人民を代表して居る。斯樣な次第であるから、支配階級から見れば、一般人民は本來外國人であると考へられたのである――只だ迎へられて日本人とされて居るものと考へられたに過ぎない。或る學者に依れば、藩別と云ふ言葉は、最初支那人か朝鮮人かの子孫の農奴或は自由にされた人に、與へた名稱であつやのださうである。併し之は證明されたわけではない。只だ祖先の如何に依つて、全社會が三階級に分かれてゐたこと、三階級の中二つは、【註】統治する寡頭政治を作り、又第三階級は則ち『外國』の階級で、國民の大部分――庶人であつた事だけは事實である。
註 フロレンツ博士は、皇別と神別との區別を、二個の武力的支配階級――侵略と移住との二つの相續いた波浪から生じたも――の存在に依るものとして居る。皇別は、神武天皇に從屬して居たもの、神別は、神武天皇の降臨以前に、大和の地に定住して居た遙かに古い征服者のことであると。博士の考へる所に依れば、最初のこれ等の征服者達は、驅逐されなかつたのである。
[やぶちゃん注:「フロレンツ」ドイツの日本学者カール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年)。明治二二(一八八九)年に来日し、東京帝国大学でドイツ語・ドイツ文学・比較言語学を講じながら、日本文化を研究、明治三十二年には神代紀の研究によって東京帝大より文学博士号を受けている。他にも「日本書紀」や日本の詩歌・戯曲などを翻訳した。]
姓階(カスト)――かばね若しくは姓――を以てする區分もあつた。(私は『姓階(カスト)』なる言葉を、フロレンツ博士に從つて用ひる。博士は日本の古代文明硏究者の第一の權威であつて、姓の意義に就いては『姓階』成は『種族』“
Colour ”を意味するサンスクリツトのVarna の意味に等しきものとして居る)日本社會の三大區分に於ける各家族は、孰れかの姓階に屬してゐた、而して各姓階は、最初は或る職業を表はしてゐたものである。姓階は、日本に於ては、何等確たる發達をしなかつたらしく、古い頃から既に、かばねは混和せられる傾向を示して居た。第七世紀の頃に及び、この混和は非常に甚だしくなり、天武天皇は姓の組織を新たにする必要を感じられ、玆にすべての氏族は、再び八個の新しい姓階に組み更へられるに至つた。
[やぶちゃん注:最後のそれは「八色の姓(やくさのかばね)」。天武天皇が天武一三(六八四)年に整理再編した八種の姓。「真人(まひと)」を第一として、以下、「朝臣(あそん)」・「宿禰(すくね)」・「忌寸(いみき)」・「道師(みちのし)」・「臣(おみ)」・「連(むらじ)」・「稲置(いなぎ)」の八姓。「大化の改新」後の政治的変動によって従来の姓の序列に動揺が生じたため、皇室との親疎・政界での地位を規準として、元皇族の姓の「公(きみ)」(「君」)の一部に「真人」を、有力な臣に「朝臣」を、有力な「連」に「宿禰を、有力な帰化姓諸氏や国造諸氏に「忌寸」の姓を授けたもの(「道師」・「稲置」は実例がなく、不明である)。「臣」・「連」はこの新姓授与に漏れた旧来の臣・連であった。]
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