諸國里人談卷之四 伐ㇾ櫻
○伐ㇾ櫻(さくらをきる)
京都東福寺の兆殿司(てうでんす)は名画なり。
將軍義持公、愛し給ひ、時々招かれけるが、一日(あるひ)、兆の志(こゝろざし)を謂(いは)しめ、
「望む所あらば、則〔すなはち〕、達(たつ)せん。」
と也。
明兆(めいてう)の曰(いはく)、
「財貨・官爵(くわんしやく)、元より、望(のぞみ)なし。一衣一鉢(いちゑいつはつ)、吾におゐて、足(た)れり。しかれども、今一〔ひとつ〕の願ひあり。近來頃(ちかきころ)、東福寺の衆僧、好(このん)で櫻樹(さくら)を栽(うゆ[やぶちゃん注:ママ。])る事をなす。後世に至らば、精舎(しやうじや)變じて遊園の地場(ちじやう)とならん。これ、予が歎く所なり。ねがはくば、命(めい)を奉りて、これを伐らん。」
と也。
義持公、大きに感じ給ひ、その請(こう)所にまかせて、則(すなはち)、伐らしむ。
今に至〔いたつ〕て、寺中に、櫻、なし。
[やぶちゃん注:読み易さを狙って、特異的に改行を施した。
「兆殿司(てうでんす)は名画なり」「画」(略字は①③とも)は「畫師」(「ゑし」と訓じたい。「畫工」はイヤ)或いは「画僧」の脱字であろう。室町前・中期の臨済宗の画僧吉山明兆(きつさんみんちょう 正平七/文和元(一三五二)年~永享三(一四三一)年))の通称。ウィキの「吉山明兆」によれば、『淡路国津名郡物部庄(現:兵庫県洲本市物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市塩屋』二『丁目)で出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い』、『東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。第』四『代将軍・足利義持』(元中三/至徳三(一三八六)年~応永三五(一四二八)年/在任:応永元(一三九四)年~応永三〇(一四二三)年)。父の義満死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。彼の将軍在職二十八年は歴代室町将軍中最長。ここはウィキの「足利義持」に拠った)『からもその画法を愛されている。僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主(でんす)の位にあったので、兆殿主と称された』。『東福寺には、『聖一国師像』や『四十八祖像』、『寒山拾得図』、『十六羅漢図』、『大涅槃図』など、多くの著名作品がある。東福寺の仏画工房は以前から影響力を持っていたが、明兆以後は東福寺系以外の寺院からも注文が来るようになり、禅宗系仏画の中心的存在となった。工房は明兆没後も弟子達によって受け継がれ、明兆画風も他派の寺院にも広まって、室町時代の仏画の大きな流れとなって』いった、とある。
「今に至て、寺中に、櫻、なし」事実、現在の東福寺には殆んど桜の木はないそうであるが(この明兆の一件を契機としてと伝わる)、但し、ネット情報によれば、一箇所だけ、光明院にはあるそうである。但し、ここ(グーグル・マップ・データ)は東福寺南三門外直近の境外塔頭である。]