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2018/07/15

諸國里人談卷之四 油が池

 

    ○油が池(あぶらがいけ)

越後國村上の近所の山中、黑川村【高田領也。】に、方十間余の池あり。水上に、油。浮ぶ。土人、芦(あし)を束(つかね)て水をかき搜(さが)して穗(ほ)をしぼれば、油、したゝる。それを煑かへして、灯の油とす。其匂ひ、臭(くさ)し。よつて「臭水油(くさうづのあぶら)」と云。○「天智帝御宇、自越州可ㇾ代油薪之水土。」とあるは、則(すなはち)、是也。又、薪(たきゞ)にかはる土(つち)あり。方一尺ばかり、平(ひら)の瓦(かはら)程に切(きり)、日にほしかためて薪とす。【或人、越後にて此土を得て、出羽へ立越〔たちこえ〕へけるが、出羽にて、これを燒〔やけ〕ば、燃〔もえ〕ざりし、となり。】○又、土中より掘出(ほりいだ)す薪(たきゞ)は、伊賀近江にもあり。石にあらず、土にあらず、木の朽(くち)たるやうのもの也。二、三尺ほどにして掘出し、數日(すじつ)乾し、水氣(すいき)なくなる時、焚(たく)也。上品(〔じやう〕ほん)の炭(すみ)より堅し。是を「ウニ」と云。

[やぶちゃん注:漢文部分は、原典の返り点ではそのまま正常に読むことが出来ない。ここは特異的に吉川弘文館随筆大成版にある甲乙点を挿入した

「越後國村上の近所の山中、黑川村」現在の新潟県内には複数の「黒田」地区が存在するが、恐らくここに示されたものは(「高田領也」が不審であるが)そのほかの要件を総て満たす、現在の新潟県胎内市下館(旧黒川村)にある、国指定史跡「奥山荘城館遺跡・臭水油坪跡」の後者と推定する。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図を拡大すると、この地区には日本最古の油田跡である「シンクルトン記念公園」が併設されていることが判るが、新潟県公式観光情報サイト「にいがた観光ナビ」の「シンクルトン記念公園」の解説に、『自然に湧出した原油を、天智天皇(西暦』六四八『年)に献上したといわれている油つぼと』、『横たて穴の油井戸が当時のまま保存されており、日本最古の油田とされている』。『明治』六(一八七三)年、イギリス人『医師シンクルトンが来村し、採油法を指導したことから』、『公園が命名されている』とあり、その「シンクルトン記念館」では『日本最古の石油史資料、採油資料展示。ハイビジョンで旧黒川村(胎内市)の歴史や文化、胎内の大自然を紹介している』とあるからである(太字下線やぶちゃん)。リンク先の三枚目の写真が、この「油が池」であろう。さらに四枚目の写真を見られたい。まさに稲穂のようなもので採取した石油を扱いて桶に絞っている画像が見られるのだ! 最後にやっぱり「高田藩領也」というのが気になって仕方がない。飛び地領としても余りに離れ過ぎており、しかも資料を見てもここに高田藩の重要な飛び地領があったことを探し得ない。というより実はここはまさに黒川藩の藩領であったのだ。ウィキの「黒川藩」によれば、『越後国蒲原郡黒川(現在の新潟県胎内市黒川)に黒川陣屋を構え』、『付近を領有した藩』で、第五代将軍『徳川綱吉のもとで活躍した有名な側用人・柳沢吉保の長男・柳沢吉里が』、享保九(一七二四)年三月十一日、『甲府藩から大和郡山藩に移封された後の同年』閏四月二十八日に吉保四男である柳沢経隆が一万石を『与えられて立藩したのが始まりである。初代藩主・経隆は藩の支配体制を固めるため、同年』十月に三十四条に『及ぶ法度を制定した。ところが経隆は在職』一年あまり後の享保十年八月二十三日に死去してしまい、『そのため、跡を継いだ柳沢里済が経隆の遺志を受け継いで藩の基盤固めを行なったが、同年のうちに百姓の大友村惣左衛門らが江戸に税金・川下げ運賃御免などを求めて出訴、さらには年貢未納までもが相次ぐという非常事態が起こった。これに対し』、『里済は百姓を徹底して力で処罰し』た。享保十五年には『宿場人馬の制度を整備して藩の支配制度を定めた』。『ところで、黒川藩の財政基盤は』一『万石であったが、藩領は山地が多かったために新田開発が不可能であり、実質的な石高は』一『万石を切っていたとも言われている。おまけに歴代藩主のほとんどは江戸に定府していたために出費がかさんでいた。そのため、厳しい年貢増徴は勿論のこと、本家の郡山藩から借金してやり繰りする有様であった。しかし財政は悪化』の一途を辿り、天保一四(一八四三)年には五千両余りの『借金を抱えていたと言われている』とある。どこにもこの一角が高田藩領に分地されたことは書かれていない。識者の御教授を乞う。

「方十間余」十八メートル強四方。

「煑かへして」ゆっくりと温めて水分を蒸発させるのであろう

「臭水油(くさうづのあぶら)」石油。私の、文化九(一八一二)年刊橘崑崙随筆集「北越奇談 巻之二 古(いにしへ)の七奇(しちき)」に、「燃水(もゆるみづ)」が出る。そこでは冒頭にここに記す「人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)」(ユリウス暦六六八年)の石油献上記録も、よりしっかりと記載されてあり、本文では遙かに詳しく述べられてあるので、必ず見られたい。但し、そちらの注でも不審を示したが、この記録は「北越奇談」では「日本書紀」とするのであるが、私の所持するものでは、それを確認出来ないのである。なお、リンク先には「燃水」の産地の一つとして「黑川館村(くろかはたてむら)」が挙げられてある。

「天智帝御宇、自越州可ㇾ代油薪之水土。」私の推定訓読を示しておく。

 天智帝の御宇に、越州より、油(あぶら)・薪(たきぎ)に代はるべきの水土(すいど)を獻(たてまつ)る。

この場合の「油」は菜種油等の植物性精油。

「薪(たきゞ)にかはる土(つち)」先の「北越奇談 巻之二 古(いにしへ)の七奇(しちき)」に、「燃土(もゆるつち)」として「燃水」(石油)の前に詳述されている。そこで私は以下のように注した。

   *

 この「燃土」は、永らく、「石炭」或いは「泥炭」とされてきたが(私は本文の叙述から今日まで何の疑問もなしに「石油」が染み込んだ腐葉土のようなもの思い込んでいたのだが)、近年の研究では、これは実は天然アスファルトnatural asphalt:土瀝青(どれきせい)。原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のもので、ここは地表面まで滲出した原油が、長い年月をかけて軽質分を失い、それが風雨に晒され、酸化されて出来た天然のそれ)であるとされている。既に縄文後期後半から晩期にかけて、日本海側の現在の秋田県・山形県・新潟県などで天然アスファルトは産出され、発見されており、縄文人はこれを熱して、後の項に出る石鏃(せきぞく:石製の鏃(やじり))や骨銛(こつせん:動物の骨(ほね)で出来た銛(もり))などの漁具の接着や破損した土器・土偶の補修などに利用していたのであった。

   *

私と同じように安易に思い込んで読み棄ててしまう諸君もいると思うので、敢えて太字で示した。

「出羽にて、これを燒〔やけ〕ば、燃〔もえ〕ざりし」理由不明。思うに、当地での燃える土の産出をアピールするための作話ではなかろうか。

「土中より掘出(ほりいだ)す薪(たきゞ)は、伊賀近江にもあり」これは石炭(ここの場合は以下に見るように亜炭(lignite)である。石炭の中でも炭化度の低いものを指す。石炭よりも水分・酸素の含有量が多く、炭素含有量が少ないので発熱量は低い)であるから、科学的には「燃える土」(天然アスファルト)とは異物。サイトさんち 〜工芸と探訪~」ら(伊賀焼土鍋ついページ)に、『三重県伊賀の土は、はるか』四百『万年前の琵琶湖の湖底に堆積してできた土です。太古の樹木が石炭化して生まれる亜炭(アタン)などを含み、火に強く細かな穴(気孔)がたくさんあるのが特徴です。火にかけると』、『気孔が熱を蓄えて中の食材をじっくりと温め、火から降ろしても保温性が高いのだそう。まさに土鍋にうってつけなのですね』とあるので、「伊賀」だけでなく、沾涼の「近江」もカバー出来る内容となっていると私は思う。特に亜炭の内でも木質亜炭は木理(きめ)を有し、灰分が少ないものの、採掘後、放置して乾燥すると、板状に湾曲して剥離してしったり、小片に破砕し易いと「ブリタニカ国際大百科事典」にはあるので、まさに沾涼の「石にあらず、土にあらず、木の朽(くち)たるやうのもの」と謂いに適合すると私は感ずる。

「二、三尺ほどにして」地表から六十一~九十一センチメートルほどの位置から。

『是を「ウニ」と云』この「ウニ」とは棘皮動物のそれと同じく「雲丹」と漢字表記をするようであるが、伊賀・伊勢・尾張地方での亜炭・泥炭等の品質の低い石炭の古称で、伊賀山中では古山(ふるやま)で採掘されていた。松尾芭蕉の、

 香にゝほへうにほる岡の梅のはな

の「うに」はまさにそれを詠んだものである。私の「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 香にゝほへうにほる岡の梅のはな 芭蕉を参照されたい。]

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