諸國里人談卷之三 火浣布
○火浣布(くはくわんふ)
元祿のころ、長崎の住花明(くわめい)といふ人【はいかい師也。】、小袋(こぶくろ)を所持しけり。白キ茶宇(ちやう)の地組(ぢぐみ)なるもの也。これを「火浣布」といふとぞ。中華雲南省の南海に火山(くはさん)といふ所あり。其山の洞(ほら)に常に火熖あり。その中に、鼡(ねづみ)あつて、火を喰(くら)ふ。毛、長く細くして、糸のごとし。捉(とらへ)て水中に入〔いる〕れば、則(すなはち)、死す。その毛を紡績して、布に織(をり[やぶちゃん注:ママ。])、用(もちゆ)るなり。垢(あか)づける時は、火中に入〔いれ〕て、これを燒くに、淸(きよ)うして本のごとしと云。唐(もろこし)にても此布を本奔(ほんぽう)しけるにや。淸(せい)明(みん)戰ひの時、明朝より、國性爺(こくせんや)を味方に賴むに、數(かず)の宝を贈りけるが、その中に、是、㐧一なり。
[やぶちゃん注:「火浣布」(かかんふ)は石綿糸(せきめんし)で織った不燃性の布のこと。煤(すす)や垢などの汚れも火の中に投入して焼けば、布は燃えず、汚れだけが落ちるところから、「火で浣(すす)ぐ(=濯ぐ)」という意で、この名がある。石綿布とも称し、アスベストの一種。耐熱性耐火性に優れており、高熱作業や汽缶などの保温用に使われた。中国では古くからこの製法が知られていることを青木昆陽が指摘している。日本では、本書刊行(寛保三(一七四三)年)から二十一年後の明和元(一七六四)年、かの博物学者平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年:彼は鉱山技師でもあった)が秩父山中で発見した石綿を用いて、中川淳庵らとともに製作したものが国産第一号とされる(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。現在は肺線維症・肺癌・悪性中皮腫の原因物質として使用が禁止されている。理科実験の五徳の石綿が懐かしい。但し、古くから存在は知られており、ここにある通り、中国南部の火山に住むとされた想像上の動物である「火鼠」の毛で織り、汚れたら、火に投げ入れれば、汚れが燃え落ち、本体は焼けることがないと伝えられた織物として「竹取物語」にも「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かはごろも)」として、右大臣あべのみむらじへ出される難題として登場し、中国人のイカサマ商人「わうけい」を介して入手するも、かくや姫が火の中へくべさせると「めらめらと」美事に焼けてしまう。
「元祿」一六八八年~一七〇四年。
「住花明」全く不詳。「長崎」といい、俳号としても如何にも日本人離れした名前であるが、俳諧師とする以上、日本人なのであろう。
「茶宇(ちやう)」「茶宇縞」(ちゃうじま:現代仮名遣)の略。インドのチャウル地方から産出し、ポルトガル人によって伝来したことからの名称。琥珀織りに似て、軽く薄い絹織物。日本では天和年間(一六八一年~一六八四年)に京都で製出した。主に袴地に用いられた。こういうものらしい(サイト「染織のホーム」)。
「地組(ぢぐみ)」不詳。織物全体の基本の織りを指すか。
「中華雲南省の南海に火山(くはさん)といふ所あり」不詳。現在の海南省の大部分を占める海南島を指すか。最高のピークは五指(ウーチー)山で千八百四十メートル(ここ(グーグル・マップ・データ))。鉱物資源の豊富な島ではある。
「本奔(ほんぽう)」不詳。ある対象求めるために、何もかも擲って「本」気で奔走するの意か。
「淸(せい)明(みん)戰ひ」七世紀初頭、明の冊封下に於いて満洲に住む女直(ジュルチン・女真族)の統一を進めたヌルハチ(太祖)が一六一六年に建国した後金国が清の前身で、ここから南下して明の制服を狙って、明とは戦争状態となる。一六一九年にヌルハチが「サルフの戦い」で明軍を破り、さらにその子ホンタイジが渤海の北の明の領土と南モンゴルを征服、一六三六年に女真族・モンゴル人・漢人の代表者が瀋陽に集まって、大会議を開き、そこで皇帝として即位するとともに女真の民族名を満洲に改めた。ついで一六四四年、明では農民反乱指導者李自成が北京を攻略、西安に入った李自成は国号を順(大順)改め、この地で順王を称して明は滅んだ。しかし、同年、清は明の遺臣呉三桂の要請に応じて万里の長城を越えて李自成を破り、清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した。
「國性爺(こくせんや)」明の軍人で遺臣の鄭成功(ていせいこう 一六二四年~一六六二年)。諱は森。字は明儼。日本名は福松。日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。父鄭芝龍は福建省泉州府の人で、「平戸老一官」と称し、平戸藩主松浦隆信の寵を受け、川内浦(現在の長崎県平戸市川内町字川内浦)に住んで、田川マツを娶った。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼時は平戸で過ごしたが、七歳の時、父の故郷福建に移った。鄭一族は泉州府の厦門島・金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のため、私兵を擁して武力を持っていた。十五歳で院考に合格、泉州府南安県の生員になった。以後、明の陪都(国都に準じる扱いを受けた都市)南京で東林党の銭謙益に師事した。清に滅ぼされようとしている明を擁護して抵抗運動を続け、台湾に渡り、鄭氏政権の祖となった。様々な功績から、南明(明の皇族によって一六四四年から一六六一年までの間、華中・華南に建てられた明の亡命政権)の第二代皇帝隆武帝は、明の国姓である「朱」と称することを許したことから「国姓爺」とも呼ばれた(但し、鄭成功は固辞している)。台湾・中国では民族的英雄として人気が高く、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文・蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。本邦では、日中の混血児であることと明への忠節のゆえに「和唐内」と愛称されたこと、近松門左衛門の名作浄瑠璃「国性爺合戦」で、やはり人気が高い。隆武帝の軍勢は北伐を敢行したものの、大失敗に終わり、隆武帝は殺され、彼の父、鄭芝龍は抵抗運動に将来性を認めず、清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたものの、彼は翻意せず、ここで父子は今生の別れを告げた。その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫朱由榔を明の正統と奉じ、抵抗運動を続け、厦門島を奇襲して従兄弟達を殺すことによって鄭一族の武力を完全に掌握した。一六五八年、鄭成功は北伐軍を立ち上げたが、南京で大敗、勢力を立て直すために台湾を占領してそこを拠点とすることを目論んだ。当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していたが、鄭成功は一六六一年に澎湖諸島を占領した後、同年三月からゼーランディア城(知らない方は私の「佐藤春夫 女誡扇綺譚 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の冒頭の注を参照されたい)を攻撃、翌一六六二年二月、遂にこれを落として、オランダ人を一掃、台湾に鄭氏政権を樹立、ゼーランディア城跡に安平城を築いて王城として清に対峙する国家体制を固めたものの、熱病に罹患し、死去した(以上は主にウィキの「鄭成功」に拠った)。
「數(かず)の」沢山の。]