諸國里人談卷之四 高野の毒水
○高野の毒水(こうやのどくすい)
紀州高野山上に「玉川」と云〔いふ〕あり。此水に毒あり。傍(かたはら)に碑を立ツ。
弘法大師
わすれても汲やしつらん旅人の高野の奧の玉川の水
[やぶちゃん注:伝承では、高野山奥の院に向かう川(御殿川(おどがわ)の支流。ここ(グーグル・マップ・データ))は上流には毒虫が多いため、水が毒化するからとされてきたが、聖カタリナ大学玉井建三教授二〇〇四年十二月二十二日の亜細亜大学アジア研究所第5回研究会の記録「玉川の文化環境 六ヶ所ある玉川を中心にして」によれば、古来の名数六玉川の内、『高野玉川だけは他の』五『つの清流とは異なり、辰砂(赤色硫化水銀)』(HgS)『が採れる毒水の流れる川である。高野山の開祖弘法大師が水銀の製法を中国からもたらし、辰砂を産する高野山を丹生族(にうぞく)からゆずりうけたのもアマルガムを作る水銀が目的ではなかったか。弘法大師が四国に足跡を多く残しているのも、中央構造線上に辰砂が多く産するからではないか。愛媛県の玉川町の鈍川(にぶかわ)も丹生川がなまったものと考えられる』。『先生は実際に辰砂とベンガラ(酸化鉄)のサンプルを持参された。色は鈍い赤茶色であるが、辰砂の比重はベンガラの』二『倍はあろうか』、『ズッシリと重い』とある。検索をかけたが、この石碑は現存しないか?
「わすれても汲やしつらん旅人の高野の奧の玉川の水」「風雅和歌集」(南北朝時代の勅撰和歌集(勅撰集第十七番目)。全二十巻。正平三/貞和四(一三四八)年頃完成)の「巻大十六の「雜歌 中」に弘法大師作として載る一首(一七七八番)、
高野の奥の院へ參る道に、玉川といふ
河の水上(みなかみ)に毒蟲の多かり
ければ、此の流れを吞むまじきよしを
しめしおきて後、詠み侍りける
わすれても汲みやしつらん旅人の高野のおくの玉川の水
であるが、完全な偽作。Q&Aサイトの回答に、目から鱗の解説が載るので引用させて戴く。『空海の時代の和歌のスタイルではない。その上、二句のところ、後の世代の人に警告を発する意味なのだから、「くみやせむ」(汲んでしまうだろうか)と言うべきであるのに、(和歌の文字数の関係で)そうは言いにくいので、「しつらむ」と言ったのであろうが、この言葉は適切でない。「しつらむ」は「汲んだのだろうか」と過去を振り返る言い方だからである。どうして「くみやしぬべき」(汲んだりすることがあるべきだろうか、あってはならない)などと詠まなかったのだろうか。一般に、「べき」「べし」と言うべきことを知らないで、当然「べき」「べし」を使うべきところを「らむ」と言うのは、後世の人がよくやることである。この歌は風雅集に掲載されていて、その詞書に「(高野の奥の院へまゐる道に、玉川といふ河の水上に毒虫おほかりければ)此流を飲まじきよしをしめしおきて後よみ侍りける」とあるのは、「しつらむ」という言葉がおかしいから、無理矢理(この歌の意味が通じるように読み手を)助けようとして、このように書いてあるのに違いないけれども、この歌の本来の意味は、警告を発して後に詠んだということではない。この歌の詠み手が言いたかったのは「これから後、もしかしたら汲んでしまうだろうか」という意味だったのだ』。]