諸國里人談卷之四 観音寺笹
○観音寺笹(くわんのんじのさゝ)
三河國保飯(ほいの)郡、小松原観音寺の本尊は馬頭観音にて、行基菩薩の作也。毎年二月初午に此山に入て、參詣の人、隈笹(くまざゝ)を得て歸る也。馬の煩(わづらへ)る時、御影(みゑい[やぶちゃん注:ママ。])を厩(むまや)に呈し、この笹を飼(か)ふに、忽(たちまち)、癒(いゆ)る事、奇なり。又、南海を渡る舩、此堂の前を過(すぐ)る時、帆を下(さげ)ざれば、敢(あへ[やぶちゃん注:ママ。])て、難あり。よつて、もろ船、ともに帆を下(さげ)る也。
[やぶちゃん注:後半の帆云々は寺の前を畏れ多く通る船として敬意を表するということであろう。帆前船は或いはそれで動けなくなることもあろうはずであるが、そこは馬頭観音の法力によって順調に渡れるとならば、誰もが素直に敬虔に帆を下ろしたということであろうか。
「三河國保飯(ほいの)郡」三河国(愛知県)「寶飯郡」の誤りであろう。但し「寶飯」も誤認で、本来は「寶飫(ほお)」であった。
「小松原観音寺」現在の愛知県豊橋市小松原町坪尻(渥美半島の根の東岸。遠州灘の沿岸)にある臨済宗小松原山東観音寺(とうかんのんじ)。本尊は馬頭観音菩薩。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「東観音寺」によれば、寺伝では天平五(七三三)年に『行基によって開かれたとされる。かつては真言宗の寺院であったが、その後』、『現在の臨済宗に改められたという。江戸時代に入ると徳川家から寺領を寄せられ、江戸時代には多くの末寺を有していた』。正徳六(一七一六)年に『現在地に移されたという』とあるが、本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、ロケーションに問題はない。]