諸國里人談卷之四 ㊆水邊部 水辯
諸國里人談卷之四 菊岡米山翁著
㊆水邊部(すいへんのぶ)
○水辯(みづのべん)
水は坎(かん)の象(かたち)なり。其文(もん)、横にする時は、則〔すなはち〕、「☵」とす。縱にする時は、則、「※[やぶちゃん注:「※」には「☵」を九十度回転させたもの(縦にしたもの)がここに入る。以下同じ。]」す。其體(たい)は純陰、其用(やう)は純陽、上(のぼ)ル時は雨露霜雪(うろさうせつ)たり。下ル時は海河泉井(かいかせんせい)たり。流止(りうし)・寒温(かんうん)は、氣の鍾(あつまる)所、既(すでに)、異(こと)也。甘淡(かんたん)・鹹苦(かんく)は味(あじはひ)の入〔いる〕所、同じからず。水は萬化(ばんくは)の源(みなもと)たり。土は万物(ばんぶつ)の母たり。飮(のむ)は水に資(より)、食(しよく)は土に資(よる)。飮食(いんしい[やぶちゃん注:ママ。])は人の命脉(いのち)なり【「本艸」。】。水は火より柔(やはらか)にして、水の患(うれひ)は火より慘(はなはだ)し。火は避(さく)べし。水は避(さく)べからず。火は撲滅(うちけす)べし。水は如何ともする事なし。男女陰陽(いんよう)の氣性(きいせい)、然(しか)なり。○「茶經〔ちやきやう〕」ニ云〔いはく〕、『山水を上とす。江水、これに亞(つ)ぐ。井の水、下とす【下略。】』。○「谷響集〔こつきやうしふ〕」云、『沙(すな)を盆に、又、盆に水をし添へ、滿つるに、溢(こぼ)れず。沙水(すなみづ)、同処にして、兩(ふたつ)ながら相礙(あいさはら)ず。復(また)、塩一升を以〔もつて〕、一升の水に和(まぜ)るに、其水、増(ま)さず。
[やぶちゃん注:基本、陰陽五行説に基づいた「水」の総論と分類学。前半の「本草綱目」のそれは、巻五の目録「水部」冒頭にある以下。但し、これと同じ部分を寺島良安は「和漢三才図会」の巻第五十七「水類」の冒頭の「水」で引いているから、やはり沾涼はそれを参照(孫引き)している可能性が濃厚である。
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李時珍曰、水者、坎之象也。其文橫則爲☵、縱則爲※。其體純陰、其用純陽。上則爲雨露霜雪、下則爲海河泉井。流止寒溫、氣之所鐘、既異。甘淡鹹苦、味之所入不同。是以昔人分別九州水土、以辨人之美惡壽夭。蓋水爲萬化之源、土爲萬物之母。飮資於水、食資於土。飮食者、人之命脈也。而營衞賴之。
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「坎(かん)」易卦の八卦の一つ。「☵」で示され、下から初爻(こう)は陰、第二爻は陽、第三爻は陰で構成される(爻は一つの横棒と真ん中が途切れた二つの短い横棒の二種があり、「経(けい)」(儒教原典)では前者を「剛」、後者を「柔」と呼ぶが、「伝」(儒教経典の注釈書)では「陽」と「陰」とする。陽爻と陰爻は対立する二面性を表わし、陽爻は男性・積極性などを、陰爻は女性・消極性などを表わす。これらを三つ組み合わせた三爻により八卦が、六爻により六十四卦が作られる。このように陽爻と陰爻を組み合わせることにより事物のさまざまな側面を説明する)。ウィキの「坎」によれば、『原義は「外陽にして中は陰」。外側に陰柔の卦があるが、内部は陽剛である。「中に何かがある」と捉え』、『水・陥・豕・耳・秘密・姦計・色情・専門性・交渉・冷静・重病・中男などを象徴する。方位としては北(地支では子)を示す。実際の占断で坎の卦がでると』、『病勢は重症か、かなりの困難を考えなければいけない』とある。ここで「☵」をわざわざ縦にして「※」と示す意味は易に興味がない私にはよく判らぬ。但し、要はこの八卦は純粋な時空間を示す記号であるから、縦で示すことで、それらを全的に表示することが出来ると考えているいるものかも知れない。或いはこの横と縦のデザインが示すところから「水」「川」「雨」などのシミュラクラを狙った確信犯かも知れない。比喩好きの中国人ならば有り得るようには思う。
「鍾(あつまる)」「集まる」に同じい。
「茶經」唐(八世紀頃)の陸羽によって著された、当時の茶に関する知識を網羅した書。「五之煮」に『其水、用山水上、江水中、井水下』と出る。以下前後の省略部は中文サイト「中國哲學書電子化計劃」の「茶經」のこちらを参照されたい。
「谷響集」「寂照堂谷響集」。江戸前期の真言僧泊如運敞(はくにょうんしょう 慶長一九(一六一四)年~元禄六(一六九三)年:大坂出身の智山派最大の学匠。十六歳で出家し、智積院の日誉・元寿に師事し、醍醐寺の寛済らからも密教を修学した。また他に師を求めて華厳・法相・天台等も学んでいる。寛文元(一六六一)年、智山第七世能化(学頭)に就任。綱紀を粛正し、将軍家綱や後水尾上皇の帰依を受け、智山派黄金時代を築いた。文献学や実証研究に優れた。霊力も抜群で、寛文八(一六六八)年の大旱魃の際には雨乞の祈請を成就したとされる)が、能化を辞し、寂照堂に隠棲していた頃、来客の質疑に応じて説いたものを、侍者に筆録させて成ったものが原型で、元禄二(一六八九)年の板行に際し、自ら「谷響集(こっこうしゅう)」と名づけたもの。探すのに苦労したが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該箇所を視認出来た。左頁冒頭の「盆沙水不ㇾ溢附鹽水」である。以下、それ(塩水が増えないこと)は何故か? という答えは、
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鹽從ㇾ水出。得ㇾ水依舊。
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「鹽は水より出づ。水を得れば、舊に依ればなり。」であろうか。]