譚海 卷之二 おらんだ蟲めがねの事
おらんだ蟲めがねの事
○此比(このごろ)おらんだの蟲めがねをみたる人の語りしは、微妙の類(たぐひ)甚(はなはだ)分明にみゆる事奇妙なること也。蠅の背には總身に小蟲取つきてあり。つらかまちはゑぞ錦の如くうつくしきもの也。又あぶは殊におそろしきよし、上下の齒くひちがひて牙(きば)白く生ひて、口のあたりすべて螺毛(らもう)有(あり)、鼻上より尾に至るまで紫の筋一すぢ通りてあり、形の色は殘らずすゞ竹に鼠色也。又のみも恐しき形也。しらみはひらめの魚の如く也。酢を一滴落して目鏡(めがね)にて見たるに、酢の色ことごとく蟲にてうごめきいたるとぞ。物にかびの生(はえ)たるをみたるに、殘らず小き松茸也(なり)、亭々(ていてい)として高低をなして生(お)たりといへり。
[やぶちゃん注:明らかに、ただの虫眼鏡ではなく、相応な拡大率を持った顕微鏡であることが判る。ここまで来ると実体顕微鏡レベルのものでもなく、本格的なそれのように思われる。
「微妙」ここは「微細」の意。それも裸眼は勿論、所謂、虫眼鏡(ただの拡大鏡)でも見られない程度の微小である。
「蠅の背には總身に小蟲取つきてあり」これは寄生虫ではなく、蠅の体表を覆っている、微細な毛を誤認したものであろう。
「つらかまち」「輔」或いは「面框」などと書く。原義は頭部の上下の顎の骨・頰骨を指すが、そこから転じて「顔つき・面構(つらがま)え」の意となった。
「ゑぞ錦」「蝦夷錦」。「山丹服(さんたんふく)」とも呼ぶ。ウィキの「蝦夷錦」によれば、『江戸時代にアイヌ民族が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜(うんりゅう)などを織り出した中国産絹や清朝官服のことである』。『かつて、アイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、彼らと山丹交易と呼ばれる交易を行っていた。ツングース系民族は大陸の中華王朝と交流があったため、中華王朝の物産がツングース民族を介してアイヌにも伝わった。その代表的な例が、蝦夷錦である』。『江戸時代、アイヌは松前藩の半支配下に置かれ、不平等な交易をさせられた。その交易の中で、中華王朝の清からツングース民族を介してアイヌにもたらされた満州風の錦の衣服が、松前藩にも伝わった。当時の参勤交代の際、松前藩主がその満州風の錦を着て将軍に謁見したところ、将軍は華美なその錦を大いに気に入った。以降、松前藩は錦を幕府に献上するようになった』。『その際、松前藩はこれが清からもたらされたものだということを知っていたが、それを隠して蝦夷錦と呼び、錦の輸入を独占した』。私も北海道の博物館で現物を見たが、非常に美しいものである。
「あぶ」「虻」。
「すゞ竹」「篶竹」。ここは篠竹と同じであろう。ここは色で薄くくすんだ緑色か。
「のみ」「蚤」。
「しらみ」「虱」。
「ひらめ」「鮃」。非常に腑に落ちる。
「酢を一滴落して目鏡(めがね)にて見たるに、酢の色ことごとく蟲にてうごめきいたるとぞ」これは酢ではなく、戸外の水溜りの一滴であろう。話し相手に「酢」と言えば、気持ち悪がるのを目当てにやらかしたのに違いない。
「かび」「黴」。
「小き松茸」これも腑に落ちる。
「亭々」樹木などが高く真っ直ぐに聳えているさま。同前。]