大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラの仲間)
海藻 本草ニノセタリ集解ニイヘル處ナノリソニヨクカナヘリ
ナノリソト名ツケシ事ハ日本紀允恭帝紀ニ見ヱタリ倭
俗又神馬藻ト云和名ヲナノリソト云ユヘニ神馬ニハノ
ル事ナカレト云義ヲ以テ神馬草トカケリ下學集曰神
功皇后之攻異國時舩中無馬秣取海中之藻飼
馬故云神馬草也篤信曰此説イマタ出處ヲ見ス神
馬藻ト書故ニカクノ如ク附會セルナルヘシ是ナノリソト
名ツケシ日本紀ノ本緣ヲシラスシテ妄ニ云ナリ凡下
學集ノ説信シカタシ萬葉集第七第十卷ニナノリソヲ
ヨメリ其老タルヲホダハラト云倭俗正月春盤ノ上ニヲ
クモノ也海中ニ生ス短キ馬ノ尾ノ如ク細葉如絲節々
連ル枝多シ生ナル時黑シ湯ニ入レハ靑クナル魚ノ脬ノ如
クナルモノ多ク枝ニツケリ見事ナル藻ナリ毒ナシ俗ニ疝
氣ヲ治スト云海草ノ上品ナリ本草ニ甘草ニ反ストイ
ヘリワカキ時ユヒキ或煮テ食ス脆ク味ヨシ
○やぶちゃんの書き下し文
「海藻(ナノリソ[やぶちゃん注:これは右ルビ。斜線の下は左ルビ。]/ホタハラ)」 「本草」にのせたり。「集解」にいへる處、「ナノリソ」によくかなへり。「ナノリソ」と名づけし事は「日本紀」〔の〕「允恭帝紀」に見ゑたり。倭俗、又、「神馬藻〔(じんばさう)〕」と云ふ。和名を「ナノリソ」と云ふゆへに、神馬にはのる事なかれ、と云ふ義を以て「神馬草」と、かけり。「下學集〔かがくしふ〕」に曰はく、『神功皇后、異國を攻む。時に舩中、馬の秣(まくさ)無し。海中の藻を取り、馬を飼(か)ふ。故に「神馬草」と云ふ也。』〔と〕。篤信曰はく、此説、いまだ、出處を見ず。神馬藻と書く故に、かくのごとく附會せるなるべし。是、「ナノリソ」と名づけし「日本紀」の本緣をしらずして、妄〔(みだり)〕に云ふなり。凡そ「下學集」の説、信じがたし。「萬葉集」第七・第十卷に「ナノリソ」をよめり。其の老いたるを「ホダハラ」と云ふ。倭俗、正月、春、盤の上に、をくものなり。海中に生ず。短き馬の尾のごとく、細葉、絲のごとく、節々、連なる枝、多し。生〔(なま)〕なる時、黑し。湯に入〔(いる)〕れば、靑くなる。魚の脬(みつふくろ)のごとくなるもの、多く枝につけり。見事なる藻なり。毒、なし。俗に疝氣を治すと云ふ。海草の上品なり。「本草」に甘草に反す、といへり。わかき時、ゆびき或いは煮て食す。脆く、味、よし。
[やぶちゃん注:狭義のホンダワラは不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属バクトロフィクス亜属 Bactrophycus テレティア節 Teretia ホンダワラ Sargassum fulvellum であるが、専門家の記載を読むと、この真正のホンダワラは日本近海では稀であるとするので(事実、二〇〇四年平凡社刊の田中二郎氏解説の「基本284 日本の海藻」には狭義の「ホンダワラ」を種として挙げておられないのである。則ち、とりもなおさず、本種は「日本の海藻」の一般的「基本」種には含まれないことを示唆している)、
ホンダワラ科 Sargassaceae
或いは、
ホンダワラ属 Sargassum
に止めておくのが正しい。では、「種は?」と聴かれれば、鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の「ヒバマタ目」 Fucales の「ホンダワラ科 Sargassaceae」の膨大なリスト、或いは、同サイト内の「ホンダワラ属」のページを見て戴ければ、列記する私の意欲が失われることが判ることと存ずる。さて、宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」の「第二章 古代人海藻」の「莫鳴菜(ナノリソ) 神馬藻(ナノリソ)」によれば、『和名は不明』としつつ、「塵袋」『という江戸期の書物は、これを食べると「ハラハラ」と鳴ってうるさい』(気泡体を噛み潰す音が、であろう)『ので「菜莫鳴(ななり)」(鳴るな)の藻と名付けたのだと説いて』おり、また、『ノリに神仙菜、トサカノリに鳳尾菜の雅名を贈った古代中国は、莫鳴菜も「神馬草」の雅称で呼んだ』が、ここでも益軒が記すように、『神馬は神聖だから「莫乗(なのり)」(乗ってはならぬ)藻だから、われわれの祖先は「ナノリソ」としゃれて読んだ』としつつも、『神馬藻の文字は、中国伝来ではなく』、本邦の『つぎのような故事から生まれたものだとする説もある』として、やはり益軒の掲げる神功皇后の三韓征伐時のエピソードを示しておられる。
《引用開始》
「神功皇后が、三韓征伐のため九州から渡航する途中、船中の馬秣(まぐさ)が不足して困った。そのとき海人族[やぶちゃん注:「あまぞく」。]の勧めで、ホンダワラを採り、馬を飼ったので、神功皇后[やぶちゃん注:底本は「神宮皇后」であるが、訂した。]のひきいる神馬の食べる藻…神馬藻と書くようになった」
《引用終了》
また、それとは別に益軒が『「ナノリソ」と名づけし事は「日本紀」〔の〕「允恭帝紀」に見ゑたり』とするだけで内容を記していない一説を以下のように紹介されておられる。
《引用開始》
「允恭天皇は、皇后の妹、衣通郎姫(そとおりいらつめ)をも愛するようになったが、皇后に知られることを恐れて、和泉国(大阪府)の海辺に建てた茅淳宮(ちぬのみや)にかくまった。
逢瀬もままならかったが、ある日やっとのことで天皇を迎えることができた姫は、切ない胸のうちを浜藻にたとえて訴えた。
とこしへに君もあへもや漁(いさな)とり
海の浜藻の寄する時々を
天皇は、この歌が皇后に知れれば一騒動持ち上がると案じて固く口止めしたのだが、いつのまにか世間に知れ渡ってしまった。そこで人々は浜藻を「莫告」(人に告げるな)の藻と書くようになったという」
《引用終了》
さらに以下、『奈良朝時代の正倉院文書には「奈能利僧」、万葉集には「名乗藻」「莫告藻」と書いてある』とあるが、他に「万葉集」では「莫謂」「勿謂」「莫語」「名乘曾」等もある。
因みに、「万葉集」では以下の十三首に出現する。「万葉集」のサイトは腐るほどあるのに「なのりそ」歌群を纏めたサイトはないようなので、ここでオリジナルに示すこととする(中西進氏の講談社文庫版を参考にした)。語注や歌意は附さない。国家大観番号で検索され、有象無象の訳注サイトで読まれたい。
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みさご居(ゐ)る磯𢌞(いそみ)に生ふる名乘藻(なのりそ)の名は告(の)らしてよ親は知るとも (山部赤人(巻第三(三六二番))
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みさご居る荒磯に(ありそ)に生ふる名乘藻のよし名は告らせ親は知るとも 山部赤人 (巻第三(三六三)・前の歌の別稿で「或本歌曰」の前書有り)
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丹比眞人笠麿(たぢひのまひとかさまろ)、
筑紫國に下りし時に作れる歌一首
幷(あは)せて短歌
臣女(おみのめ)の 匣(くしげ)に乘れる 鏡なす 御津(みつ)の濱に さにつらふ紐解き離(さ)けず 吾妹子(わぎもこ)に 戀ひつつ居(を)れば 明け晩(く)れの 朝霧隱(あさぎりこも)り 鳴く鶴(たづ)の 聲(ね)のみし泣かゆ 吾(わ)が戀ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 家(いへ)のあたり 我が立ち見れば 靑旗の 葛城山(かつらぎやま)に たなびける 白雲隱(しらくもがく)る 天ざかる 夷(ひな)の國邊(くにべ)に 直(ただ)向ふ 淡路を過ぎて 粟島(あはしま)を 背(そがひ)に見つつ 朝なぎに 水手(かこ)の聲(こゑ)呼び 夕なぎに 楫(かぢ)の音(と)しつつ 波の上(へ)を い行きさぐくみ 岩の間(ま)を い行き𢌞(もとほ)り 稻日都麻(いなびづま) 浦𢌞(うらみ)を過ぎて 鳥(とり)じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯(ありそ)の上に うちなびき 繁(しじ)に生ひたる 莫告(なのりそ)が などかも妹に 告(の)らず來にけむ (巻第四(五〇九)。短歌(五一〇)も併記しておく)
白栲(しろたへ)の袖解きかへて歸り來(こ)む月日を數(よ)みて行きて來(こ)ましを
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敏馬(みぬめ)の浦を過ぎし時に、
山部宿祢赤人の作れる歌一首
幷せて短歌
御食向(みけむか)ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の 沖邊(おきへ)には深海松(ふかみる)採り 浦𢌞(うらみ)には 名告藻(なのりそ)刈る 深海松の 見まく欲(ほ)しと 名告藻の 己(おの)が名惜しみ 間使(まつかひ)も 遣らずて吾(われ)は 生けりともなし (巻第六(九四六)。反歌(九四七)も併記しておく)
反歌一首
須磨の海人(あま)の鹽燒衣(しほやきぎぬ)の馴れなばか一日(ひとひ)も君を忘れて念(おも)はむ
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漁(あさり)すと磯に吾が見し莫告藻(なのりそ)をいづれの島の白郎人(あま)か刈るらむ (巻第七(一一六七))
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梓弓(あづさゆみ)引津(ひきつ)の邊(へ)なる莫謂(なのりそ)の花摘むまでに逢はざらめやも勿謂(なのりそ)の花 (巻第七(一二七九))
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海(わた)つ底沖つ玉藻の名乘曾(なのりそ)の花妹とわれ此處にしありと莫語(なのりそ)の花 (巻第七(一二九〇))
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沖つ浪寄する荒礒(ありそ)の名告藻(なのりそ)は心のうちに疾(やまひ)となれり (巻第七(一三九五))
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紫の名高(なたか)の浦の名告藻(なのりそ)の礒(いそ)に靡(なび)かむ時待つ吾(われ)を (巻第七(一三九六))
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梓弓引津の邊なる名告藻の花咲くまでに逢はぬ君かも (巻第十(一九三〇)・先の出した巻第七(一二七九)の旋頭歌を短歌に改作したもので、続く古歌(一二八〇)と組み合わせたもの)
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住吉(すみのえ)の敷津(しきつ)の浦の名告藻(なのりそ)の名は告(の)りてしを逢はなくも怪し (巻第十二(三〇七六))
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みさご居(ゐ)る荒礒(ありそ)に生ふる勿謂藻(なのりそ)のよし名は告(の)らじ父母(おや)は知るとも (巻第十二(三〇七七))
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志賀(しか)の海人(あま)の礒(いそ)に刈り干す名告藻(なのりそ)の名は告(の)りてしを何(なに)か逢ひ難(かた)き (巻第十二(三一七七))
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なお、現行の民俗行事に於いては「なのりそ」をホンダワラとして「穂俵」の漢字を当てている。その気泡体が米俵に似ていることから、豊作に通じる縁起物とされ、正月飾りに利用されているのはご承知の通りである。
『「本草」にのせたり。「集解」にいへる處、「ナノリソ」によくかなへり』「本草綱目」巻之十九の「草之八」の「海藻」の「集解」は以下。
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「別錄」曰、『海藻生東海池澤、七月七日采、曝乾。』。弘景曰、『生海島上、黑色如亂髮而大少許、葉大都似藻葉。』。藏器曰、『此有二種。馬尾藻生淺水中、如短馬尾細、黑色、用之當浸去鹹味。大葉藻生深海中及新羅、葉如水藻而大。海人以繩系腰、沒水取之。五月以後、有大魚傷人、不可取也。「爾雅」云、「綸似綸、組似組、東海有之、正爲二藻也。」。』。頌曰、『此卽水藻生於海中者、今登、萊諸州有之、陶隱居引「爾雅」綸、組注昆布、謂昆布似組、靑苔、紫菜似綸。而陳藏器以綸、組爲二藻。陶說似近之。』。時珍曰、『海藻近海諸地采取、亦作海菜、乃立名目、貨之四方云』。
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但し、ここに記されたものが確かに限定的にホンダワラを指しているかどうかは、私はやや疑問である。
「下學集〔かがくしふ〕」全二巻から成る、意義分類型の辞書。室町中期の文安元(一四四四)年の成立であるが、板行されたのは、百七十三年後の江戸初期の元和三(一六一七)年である。著者は「東麓破衲 (とうろくはのう)」の自序があるが未詳。室町時代の日常語彙約三千語を天地・時節・神祇・人倫・官位・人名・家屋・気形・支体・態芸・絹布・飲食・器財・草木・彩色・数量・言辞・畳字」の十八門に分けて、それぞれに簡単な説明を加えたもの。但し、その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにある。室町時代のみならず、江戸前期にはよく利用され、それにとって代わった類似の「節用集」(基本、漢字の熟語を並べ、読み仮名をつけただけのもの)に影響を与えたと考えられている。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該条を視認出来る(写本)。
「篤信」「あつのぶ」。貝原益軒の本名。
「妄〔(みだり)〕に云ふなり」ろくな根拠もなく、いい加減に言ったものに過ぎない。
『「萬葉集」第七・第十卷に「ナノリソ」をよめり』前注参照。二巻で六首ある。巻第七は計六種で「万葉集」中「なのりそ」を最も多く所載する。
「ホダハラ」「穗俵」であろう。冒頭注末参照。
「正月、春、盤の上にをくものなり」盤は正月飾りの「蓬莱(ほうらい)飾り」のこと。関西で、新年の祝儀の飾り物の一つで、三方(さんぼう)の盤の上に白米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)・搗(か)ち栗・昆布・野老(ところ:山芋)・馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・海老などを飾りつけたもの。江戸では「食い積み」と呼んだ。「蓬莱山」或いは単に「蓬莱」とも呼ぶ。
「魚の脬(みつふくろ)」「魚の浮き袋」のことを指している。「脬」(音「ホウ・ヒョウ」)は中国語では「膀胱」のことであるから、ここは魚のそれとして「みづぶくろ」(尿を入れる「ゆばりぶくろ」の認識か)と読んでいるように思われる。
「疝氣」下腹部の痛む病気。
「海草の上品なり」これが少なくとも江戸時代の一般的な庶民の通年だったのである。因みに、私も大好物である。佐渡産が美味!
『「本草」に甘草に反す、といへり』「本草綱目」の「海藻」の「氣味」には『苦、鹹、寒。無毒【權曰、「鹹有小毒」。之才曰、「反甘草」。時珍曰、「按東垣李氏治瘰癧馬刀散腫潰堅湯海藻甘草兩用之。葢以堅積之病非平和之藥所能取捷必令反奪以成其功也。」。】。』とある。甘草(かんぞう:マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza の根(一部の種類は根茎を含む)を乾燥させた生薬)と同時に用いると、有害な作用がある、という意である。
「ゆびき」湯引き。]