進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(六) 六 住所の廣さによる變異 / 第十七章 變異性の研究~了
六 住所の廣さによる變異
[ものあらひ貝]
[やぶちゃん注:講談社学術文庫版のものを用いた。]
如何なる理由によるか、少しも解らぬが、多くの動物は實際その身體の大きさが、住處の廣さに比例し、同一種の魚でも、廣い所では大きく生長し、狹い所では如何に餌が十分にあつても、一定の大きさまでにより生長せぬ。こゝに圖を掲げたのは、淡水に産する「ものあらひ貝」といふ貝であるが、斯く大きさの違ふのは、同一の親から生れた卵塊を四組に別ち、各〻大きさの異なつた器に入れて飼養した結果である。餌は孰れにも十分に與へたのであるから、大小の相違のあるのは、決して養分の不足などより起つたわけでない。全くたゞ容器の大きさの同じからざるより直接に影響を受けた結果と考へねばならぬ。これはセンベルといふ動物學者が、先年態々行ふた實驗であるが、實際ヨーロッパの或る小さな池では、鱒が十分生長せぬから、一定の大きさに達すると、之を他の大きな湖に移して生長させ、然る後に之を漁する所がある。かやうなことは少しく注意して見ると、外國の例などを擧げるに及ばず、我が國にも幾らもある。鮎などでも大きな川に産するものに比べると、小さな川で取れるものは常に小い[やぶちゃん注:「ちいさい」。]。川の幅が、たとひ二倍あつても、半分であつても、鮎の身體の大さに比すれば、孰れでも遙かに大きなもので、鮎の生活上廣いとか狹いとかいふことは、到底感ずることはないであらうに、斯く産物の大きさに著しい相違の起るのは何故であるか、今日の所では、その理由が全く解らぬが、人間などでも丈の高い人と低い人とを比べると、單に身長に差がある外に、體の諸部の間の割合にも著しい相違があるから、魚類や貝類でも、大小の違ふものは、恐らく頭・腹・尾等の割合いも異なるであらう。隨つて素性を知らぬ分類家に見せたら、或はそれぞれ種屬の別なものと見倣すことがないとも限らぬ。
[やぶちゃん注:「ものあらひ貝」物洗貝でモノアラガイのこと。本邦産種ならば、腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科モノアラガイ属イグチモノアラガイ亜種モノアラガイ Radix auricularia japonica であるが、これがヨーロッパでの実験例(次注参照)であったとするならば、全体が長卵型を成すこと、殻口が縦に有意に大きくて殻高の約半分を占めることなどの特徴から見て、モノアラガイ科 Lymnaea 属コシダカヒメモノアラガイ Lymnaea truncatula ではないかと推測する(なお、本種はそもそもが標準個体が非常に小さい。殻高五ミリメートル、殻幅二ミリメートル前後である。本邦でも各地に棲息するが、外来種である可能性が濃厚である。また、本種はモノアラガイ科 Austropeplea 属ヒメモノアラガイ Austropeplea
ollula と同様、ヒトに感染する肝蛭(カンテツ:二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属 Fasciola。カンテツ(肝蛭)とは厳密には Fasciola hepatica のことを指すが、巨大肝蛭 Fasciola gigantica、日本産肝蛭 Fasciola sp. を含め、総てを「肝蛭」と称することが多い)の中間宿主であるから、扱いには注意が必要である)。
「センベル」ドイツの動物学者で探検家カール・ゴットフリート・センペル(Karl Gottfried Semper 一八三二 年~一八九三年)か。一八六八年にヴュルツブルク大学の動物学及び比較解剖学教授となっている。
「鱒」ヨーロッパで「マス」と言った場合は概ね、河川型(fario)及び降湖型(lacustris)である、条鰭綱サケ目サケ科タイセイヨウサケ属ブラウントラウト(Brown trout)Salmo
trutta を指す(同一種であるが、降海型(trutta)は「Sea trout」と呼んで区別する)。但し、ウィキの「ブラウントラウト」によれば、『産卵のために川を遡るグループと遡らないグループは、同じ川に住むものであっても遺伝的に異なることが知られている。 但し、他の地域に移植した場合、河川型(fario)も降海型(trutta)になる可能性がある』とし、また、『ブラウントラウトは標準的なサイズの魚で、ある地域では20kg以上になり、また小さな川では1kg程度以下のものもある』とあって、本記載を裏付けている。なお、本種は外来種として本邦に侵入している。
「鮎」キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis。]
以上の如き事實を態々こゝに掲げたのは、動植物と外界との間には密接な關係があるが、之に關する我々の知識は、現今尚極めて不十分なことを示すためである。餌を十分に與へて、他に何も生長を妨げるものがないやうに十分に注意して養つても、小さな器に入れてある「ものあらひ貝」は、大きな器で飼ふたものに比べると、十分の一にも足らぬ大きさまでより生長せぬを見ても察せられる通り、外界からは我々の思ひ及ばぬやうな方面に於て、動植物の身體に直接の影響を加へることのあるもので、既にダーウィンも注意した如く、獅子・虎の類は動物園に飼はれて居ながら盛に繁殖するが、同じく猛獸の中の熊は、如何に滋養分を十分に與へても滅多に子を産まぬ。また鷲・鷹の類は、人に飼はれて隨分達者に長生きをするが、雌雄揃つて居ても決して卵を産んだ例がないといふことなども、今日の所、一向その理由の解らぬ事實である。斯くの如くまだ解らぬことばかりで滿たされてある時代には、先づ實驗によつてなるべく多くの事實を確めることが最も必要であるが、已に本章に述べた如き種々の面白き實驗的研究もあるから、今後は年々新しい事實が發見になつて、生物の變異性と進化との關係も追々明瞭に成るであらう。
尚附け加へていうて置くべきことは、外界から動植物の身體に及ぼす影響の結果が、幾分なりとも子孫に傳はるとすれば、たとひ世の中に自然淘汰といふことがないとしても、生物各種が漸々變化すべきであることである[やぶちゃん注:この「べき」は当然の意。]。特に分布の區域が擴がつて、從來の産地から氣候・風土の異なつた所へ移るもののある場合には、自然に原種とは違つた種類とならざるを得ない。例へば前に例に擧げた、蛾の類でも、溫帶から熱帶へ移住すれば、翅の色なども漸々變化し、終には原種とは全く異なつた一變種となるであらう。實際に於ては自然界に生存競爭の絶えるときは訣してなく、隨つて自然淘汰は如何なる場合にも働いて居るであらうが、外界から生物體に及ぼす影響には、敵味方の差別はないから、勝つたものにも敗けたものにも、その結果は現れ、若しこれが幾分かなりとも子に傳はるとすれば、代の重なるに隨ひ少しづゝ著しくならざるを得ない。而して土地が違へば、溫度のみならず、食物・濕氣・土壤の成分、その他總べての點に幾分かの相違があるであらうから、たとひ同一種の生物でも、違つた土地に棲むものが、外界から幾分か違つた影響を受け、たとひ同一の標準で淘汰せられたとしても、その子孫は漸々互に少しづゝ相異なるを免れぬであらう。彼のダーウィンが特に注意したガラパゴスの列島で、鳥類の各種に島每に僅づゝ違つた變種のある如きも、或は斯かる原因から生じたものではなからうか。
« 進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(五) 五 特殊なる習性の變異 | トップページ | 諸國里人談卷之四 櫻が池 »