諸國里人談卷之三 虎宮火
○虎宮火(とらのみやのひ)
攝津國島下〔しましも〕郡別府村の虎の宮の跡といふ所より出て、片山村の樹(き)のうへにとゞまる、火の玉なり。雨夜(あまよ)に、かならず、いづる也。これに逢ふ人、こなたの火を火繩などにつけてむかへば、其まゝ消(きゆ)る也。「虎の宮」又「奈豆岐宮(なづきのみや)」ともいふ。是、則(すなはち)、前(さき)にいふ所の「日光坊」の一族、其腦(なづき)を祭る神といひつたへたる俗說あり。又、云、「延喜式」に、『攝州武庫郡、「名次神(ナヅキノカミ)を祭ル。』歟〔か〕。
[やぶちゃん注:これは「摂津名所図会」(京の町人吉野屋為八が計画、編集は俳諧師秋里籬島(あきさとりとう)が、挿絵は竹原春朝斎が担当した。秋里籬寛政八(一七九六)年から同一〇(一七九八)年に刊行)に「虎宮火」として出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像こちらの「虎宮火(とらのみやのひ)」を視認して電子化しておく。
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別府村田圃(でんぽ)の中、虎の宮といふ神祠の古跡あり。此森より雨夜(あまよ)に火魂(ひのたま)出て、其邊を飛(とび)めぐり、片山村の樹上(じゆじやう)に止(とまる)といふ。これに遇ふ人、大ヒに恐る。又、土人曰(いはく)、「火繩を見すれば、忽(たちまち)消(きゆ)る」といへり。按ずるに、初夏より霖雨(りんう)の後(のち)、濕地に暑熱籠りて、陰陽剋(こく)し、自然と地中より火を生じ、地を去る事、遠からず。往來(ゆきゝ)の人を送り、あるひは人に先立つて飛(とび)めぐるもあり。みな、地中の陰火の發(はつ)するなり。恐るゝに足らず。陽火を以て向ふ時は狐狸(きつねたぬき)の火(ひ)とても、消ゆるなり。日中に顯はれざるにて知るべし。腐草(ふさう)化(け)して螢となるの大なる物也。「天文志」にも見へ[やぶちゃん注:ママ。]たり。
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以上は本書刊行(寛保三(一七四三)年)から五十三年後であり、記載も本書を一部援用している可能性があるが、以上を見てもオリジナリティに富み、当時の通俗地誌・観光案内書としては優れた記載である。「天文志」は後漢の班固・班昭らによって編纂された前漢史である「漢書」の中の「天文志」のことであろう。
「攝津國島下郡別府村」現在の摂津市別府附近(グーグル・マップ・データ)。
「片山村」現在の吹田市片山町。ここ(グーグル・マップ・データ)。別府の西直近。
「虎宮」bittercup氏のブログ「続・竹林の賢人」の「虎宮火」に「摂津名所図会」の考証記事と地図が載るが、現在、既に「虎宮」は存在せず、近くの「味舌(ました)天満宮」に合祀されていることが判る。同ブログのオリジナルな書き込みのなされた地図でそれぞれの大体の位置が判る。
「日光坊」前の「二恨坊火」を参照。
「腦(なづき)」ここは頭蓋骨・髑髏の意。これは如何にもおどろおどろしくていいじゃない!
「攝州武庫郡」現在の兵庫県西宮市名次町にある廣田神社の境外社(但し、同じ名次町内)である名次神社は「延喜式」の「神名帳」に載る。これだとすれば、後代に分祀されたということか? と沾涼は言っているのだろうか? 今一つ判らない。
「名次神(ナヅキノカミ)」戸原氏の個人サイト内に「名次神社」のページがあり、その解説によれば、『社頭に掲げる由緒では名次大神というが、これは祭神を特定しない一般的神名であ』るとあるから、沾涼の言うような附けたりはいらない気がする。則ち、この「虎宮」もそうした祭祀神を特定しない(出来ない・憚れる)ものとしてかく「なづきのかみ」としたに過ぎず、この名次神社とは関係がないとした方が、すっきりするのである。]
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