明恵上人夢記 76
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一、同十一月七日の夜、夢に、一つの大きなる池、有り。廣博(こうばく)也。上師有りて、樋口の女房に仰せて云はく、「此の池へ躍(をど)るべし。」【水、連(つら)なる時に躍る心地す。】。然るに、此の女房、飛ぶ鳥の如く、橫さまに飛びて、此の池に入る。後に來れる時、其の衣服(えぶく)、濕(うる)はず。上師等(ら)、之を御覽ず。
[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月七日と採る。
「廣博」池が非常に広く大きいのであろうが、本来、この熟語は「知識・学問が多方面に亙っていること」の意である。或いは、この池は正法(しょうぼう)の深遠な「仏智」の池なのかも知れない。但し、エンディングで、入水した「樋口の女房」が、その水に全く濡れそぼっていなかったというシーンが如何なる意味を示しているのかは、全く分らない。しかし、彼女が一滴も濡れていないというコーダが稀有驚愕の霊験的事態である(明恵は勿論、上師にとっても)ことは、確かであるように思われる。因みに、河合隼雄氏は『「ぬれる」という表現は男女の性関係を連想させる』と珍しくフロイト的な分析の可能性を示唆されながらも、『どう解釈するかは難しい』と抑えておられる。
「上師」前例に倣い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。
「樋口の女房」底本に『覚厳』(かくごん)法師『の妻か』とある。底本の他注では彼を明恵の庇護者の一人とする。彼は「55」夢に登場する。
「水、連(つら)なる時に躍る心地す」ここは覚醒時の明恵自身の補注割注であるが、ちょっと意味が採り難い。「私は『池に漣(さざなみ)が連なり立った時こそ、彼女が躍り入ったと判るはずだ』という心持ちでいたことを思い出す。」という夢の中の明恵の意識の流れを覚醒時の明恵が補足細述したものか?]
□やぶちゃん現代語訳
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承久二年十一月七日の夜、こんな夢を見た――
一つの非常に大きな池がある。対岸がはっきり見えぬほどに広く深いのである。
上師がおられ、そこにいた樋口の女房に仰せられることには、
「この池へ躍(おど)り入るがよい。」
と。
[明恵注:この時、私は、『池に漣(さざなみ)が連なり立った時こそ、彼女が躍り入った証しである』という、覚醒時の今の私には今一つ、よく意味は解らないのだが、確かに、そういう確信的な心持ちでいたことを、今、思い出す。]
ところが、この女房は、あたかも飛ぶ鳥のように、美しく横ざまに――さっと――飛んで、この池に――すうっと――波も立てずに入った。
しばらくした後、彼女が私たちの前に、再び姿を現わし来った時、何と、その衣服は、これ、全く濡れていなかったのである。
上師らも、これを確かに、ご覧になられたのである。