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2018/07/03

諸國里人談卷之三 室八島

 

     ○室八島(むろのやしま)

下野國惣社(そうじや)村室八嶋明神【壬生にちかし。】、野中に淸水あり。其水氣(すいき)、立登(たちのぼり)て、煙(けむり)のごとく見ゆるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、「むろのやしまの煙」とはよめり。法性寺(ほうしやうじ)内大臣の歌合(うたあはせ)の時、攝津(せつつ)が、「絶えずたく室のやしま」とよみけるを、判者俊基(としもと)[やぶちゃん注:ママ。]、「たえずたく」の五文字を難じけるなり。まことの煙にあらざるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、とぞ。

                    實方

 いかでかはおもひありともしらすべきむろのやしまの煙ならでは

返し                   女房

 しもつけやむろの八嶋にたつ煙おもひありとも今こそはしれ

[やぶちゃん注:「室八島」「室八嶋明神」は栃木県栃木市惣社町にある大神神社(おおみわじんじゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。名の由来は歌枕として知られる境内にある池の八つの島(前の地図の左下の写真をクリックされたい)を指すということになっているが、これは如何にもこじつけっぽい個人ブログ「ハッシー27のブログ」の「旅 656 大神神社(栃木市)(1)」は現地案内板を丁寧に電子化しておられ、その辺に転がっている同神社に関する半可通なページよりも遙かに勝れている。その境内地の案内図を見て貰っても、凡そ行って見たくは全然ならないショボさである。要は八百坪ばかりの何の変哲もない濁った汚い池塘に八つの小島があって、その島を太鼓橋風のもので繋げ、それぞれの島に筑波・天満・鹿嶋・雷電・浅間・熊野・二荒山・香取の各小祠を配してあって、お手軽に神(権現)を全部経巡れるというだけのことである。私には全くの後代の付会としか思われない。私は、この怪しげな「室の八島」については、既に『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉』で拘って考証しているので、それを繰り返すつもりはない。芭蕉は日光への道程をわざわざ三里(約十一・八キロメートル)も遠回りして折角訪れた歌枕であったが、その実際の景観は残念ながら芭蕉が想像していたものとは激しく異なっていたようである。まだ、チンケならチンケなりに池と島があればマシで、実は芭蕉が訪れた当時は池の面影もなかった可能性もあるのである。要は「野中に淸水」は、ある。しかし「其水氣」が「立登」って「煙のごとく見」えることは、そうそうは、ない。冷え込んだ早朝などに、外気よりも、池や川の水温の方が高くなると、暖かい水面上に冷たい空気が接触して水面から蒸気が起つことはあるが、これはここに限ったことではない。或いは、野面で起こった規模の大きな陽炎(かげろう)ででもあったのかも知れぬが、そういう意味では「まことの」燃えた「煙にあらざる」というのは科学的には正しいわけだ(しかし、そんなこと言ったら、比喩は成立せんじゃろうになぁ)。しかし、何も行けもしないし、行きもしない東国の田舎にわざわざ妖しげな設定をするまでもなく、そうした川池から生ずる水蒸気は、寒暖差の激しい水域では結構見られるし、陽炎は京の近場でも幾らも見られる。まあ、〈鄙(ひな)の幻想的なミラージュ〉としては魅力だったものかも知れず、それに神や権現を関係付ければ、歌枕の一丁出来上がりというわけだろうが、私は俳句の季語嫌いと同じように、和歌の歌枕嫌いでもあるので、どうもこういうわけの判らぬ有り難がったところは最も生理的に不快を感ずるところなのである。

「法性寺(ほうしやうじ)内大臣の歌合(うたあはせ)」法性寺(ほっしょうじ)関白正二位内大臣藤原忠通(承徳元年(一〇九七)年~長寛二(一一六四)年)が元永元(一一一八)年一〇月二日に自邸で催したもの。三十六番の歌合で、参加した歌人は二十四人で、判者は源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)と藤原基俊(康平三(一〇六〇)年~永治二(一一四二)年)。以下の判定は「袋草紙」(保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書)の下巻に載っており、「戀」一番である

「攝津(せつつ)」摂津君(生没年未詳)。二条太皇太后宮令子内親王家の女房で、藤原佐宗の娘。「金葉和歌集」以下に十四首に入集している。

「絶えずたく室のやしま」摂津君は、

 たえずたくむろのやしまの煙(けぶり)にもなほたちまさる戀もするかな

と読み、左は源顕国(永保三(一〇八三)年~保安二(一一二一)年)で、

 さかづきのしひてあひみんとおもへばや戀しきことのさむるまもなき

であった。しかし歌合では、「左俊勝」「右基勝」となっており(佐藤雅代氏の論文「王朝和歌表現論 : 平安中期から院政期へ」(PDF)で確認した)、この「判者俊基」というのは「俊賴」の誤りであることが判明する。則ち、俊頼は摂津君の歌の方を勝ちとしたのある(俊基は顕国の歌を勝ちとしている)。それについて「袋草紙」では、

   *

俊賴云はく、『「たえずたく」といへる、僻事(ひがごと)ともや申すべからむ。かのむろのやしまは、まことに火をたくにはあらず。野中に淸水ありけるが、けのたつが烟とみゆるなり。それを「たく」といはんこと、かたし。右は[やぶちゃん注:顕国の歌。]、たくみのおもしろけれど、かならずよまるべき「さけ」のなきなり。また「のむ」といふこと大切なり。さきのうたは歌めきたれば、勝ともや。」。

   *

と評していて、俊頼は「まことの煙にあらざる」という点では『「たえずたく」の五文字を難じ』ているものの、勝負は摂津君の勝ちとしたのである。因みに、基俊はやはり「むろのやしま」の持つ二つの意味、一つはこの「室の八島」だが、今一つは「人家にある竈(かまど)に土壁を塗り込めたもの」(宮中の「大炊寮(おおいづかさ)」の壁に塗り込めた(それを「室」という)竃が原義かという。これは竈神で「大八島竈神」と呼ばれており、女房詞でその竈を「室の八島」と呼んだというのである)の意(この時代、既にこの「室の八島」という言葉の意味が判らなくなりつつあった証左である)を挙げて、どっちの場合(竈だって、始終、火をつけっぱななしにはしていないという謂いらしい)も絶えず火を焚いちゃいないんだから、おかしい、と訳の判ったような判らないようなことを言って、やはり彼も初五を批判しているから、或いは沾涼は二人の判者をごっちゃにした結果、名前まで合成してしまったようにも見受けられるのである。或いは沾涼は『判者俊・基』と二人のつもりで使ったものか? いや、だったら「としもと」とルビはせんだろう!(ルビは①にもある)。

「實方」藤原実方(天徳四(九六〇)年頃~長徳四(九九八)年)。左大臣師尹の孫。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか、叔父の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任したのち、長徳元(九九五)年に陸奥守となって赴任し、任地で没した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首が入集し、藤原公任や大江匡衡及び恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、逆に歌合などの晴れの場の歌は少ない。慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、和歌だけでなく、舞いにも優れた。華やかな貴公子として清少納言など、多くの女性と恋愛関係を持ったが、奔放な性格と、家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として、一条天皇の怒りを買い、「歌枕、見てまゐれ」といわれて、陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くから、さまざまに説話化された(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「いかでかはおもひありともしらすべきむろのやしまの煙ならでは」「詞花和歌集」巻第七の「戀 上」の二首目、

   題不知        藤原實方朝臣

 いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙(けぶり)ならでは

「いかでかは」は反語。この歌が「室の八島」の歌枕の濫觴とされるようだが、これは実は「大八島竈神」の方らしいのである。しかも「金葉和歌集」(三奏本)にもあり、その詞書は「はじめたる人のもとにつかはしける」とあり、第二句は「思ひありとは」であるとある(水垣久氏のサイト「やまとうた」の「藤原実方」に拠る)。而して、その事実から考えてみれば、これは下野なんぞに行く前に読まれたものであって、下野国の「室の八島」なんで「一昨日来やがれ!」だ。

女房」不詳。前のプレイ・ボーイ実方の歌に合わせて相聞歌に仮託したのであろう。本歌の作者は公卿で学者・書家でもあった大江朝綱(仁和二(八八六)年~天徳元(九五八)年)とされるが、この作者比定は私は頗る怪しいと思う。

「しもつけやむろの八嶋にたつ煙おもひありとも今こそはしれ」これは現在知られている「室の八島」を詠った最古の一首とされるもので、「古今和歌六帖」第三帖の「水」の「島」に載る読人知らずの、

 しもつけやむろのやしまにたつけふりおもひありともいまこそはしれ

であり、これを後に、

 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日(けふ)こそは知れ

と大江朝綱がいじったとするのだが、このショボい剽窃は大学者の彼のしそうなことではない。何より、「古今和歌六帖」は成立が不詳で、現在の研究では貞元元(九七六)年から永観元(九八三)年まで、或いは、永延元(九八七)年までの間が一応の目安とされているのであるが、まあ、それでも「下野」「室の八島に立つ煙」は実方以前にその歌枕が形成されていたという有力な証左の一つではあることになる。個人サイト「kyonsightの「神社」では、この問題を取り上げ(コンマを読点に代えさせて貰った)、『朝綱はえらい人なので任地が分かっており、下野には来ていない。すると『古今和歌六帖』の「読人不知」の謎の人物が下野で詠んだか、下野出身者または任を終えた国庁関係者が都で詠んだか。消失した歌人の歌を朝綱が感銘を受けて』二『字かえて詠んだか。いかなる経緯で下野の八島が『古今和歌六帖』に収録されたかは不明』とされる。一つ、サイト「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の十七芭蕉と室の八島で、「奥の細道」の「室の八島」の段(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉』を参照)を解説して、『これは、古事記にある「一夜で懐妊したため貞操を疑われた木花咲耶姫が、不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずと、身の潔白を誓って無戸室に入って火を放ち、燃え盛る炎の中で無事に彦火々出見命ら三柱を産み落とした」という神話に依るもので、大神神社が「かまど(古くはかまどを『やしま』といった)のごとく燃え盛る無戸室」で出産した咲耶姫を祭っていることから「室の八島」と呼ばれるようになったことを説明している』とあるわけだが、そこまで神話の世界に飛び込んで焼かれないと出てこない解釈は、私はどうも胡散臭い。]

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