進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(三) 三 後天的性質非遺傳説
三 後天的性質非遺傳説
後天的性質は遺傳するといふ説と、遺傳せぬといふ説とが有つて、今日尚議論を鬪わして居ることは、已に前に述べたが、その實際を調べて見ると、事實に關する議論よりも寧ろ文字の解釋に就いての議論と思はれる場合が多い。例へば前章に掲げた種々の例の如きは、著者より見れば、當然後天的性質の遺傳と認めるが、後天的性質は遺傳するものでないと論ずる學者は、斯かる場合を如何に説明するかといふに、略〻次の如き論法を用ゐる。卽ち高い溫度の所で飼養せられたために、蛾の翅の黑くなつたのは、後天的の性質であるが、その生んだ子を平常の溫度の所で育てても、幾分か翅が黑いのは、決して親の後天的性質が遺傳したわけではない。何故といふに、外界の高い溫度が蛾の身體に影響を及ぼす場合には、翅の色を黑からしむるだけに止まらず、恐らく體の内部にも達して、生殖腺内の生殖細胞にも何等かの變化を起すであらう。さればかやうな親から生れた子が、普通のものに比して幾分か違ふて居るのは、親からその新な性質を遺傳したのではなく、生れぬ前に親と同時に外界から影響を受けた結果である。それ故、これは眞に遺傳と名づくべきものでないと、かやうに論じて居るのである。
右の如き議論は、先づヴァイズマンの生殖物質繼續説を採り、生物の身體は、生殖物質と身體物質との二つに判然分けられるものと見倣した後に初めて成り立つものである。著者の如きは、身體といへば無論全身を指すものと見倣し、生殖腺をもその中に込めて考へるが、後天的性質の遺傳を否定する論者は、身體の中から生殖細胞だけを除外し、全身から生殖細胞を引き去つた殘りだけを身體と名づけて居るのであるから、已に身體といふ言葉の用ゐ方が違ふ。而して彼等は生殖細胞を除いた殘りの體部だけが、先づ外界からの影響を受けて、一定の變化を起し、次に生殖細胞を通じてこの變化を子に傳へたのでなければ、後天的性質の遺傳とは見倣さぬといふのであるから、何時まで議論しても容易に果(はてし)の附かぬ筈である。
ヴァイズマンは生物の身體を生殖物質と身體物質とに分け、身體を容器、生殖細胞を内容物の如くに考へたから、身體が一生涯の間に新に獲た性質は如何なるものでも、決して子に傳はることはないと明に斷言した。卽ち重箱の表面に幾ら傷が附いても、内の牡丹餅に何の變化も起らぬのと同じであるやうに見倣して居たのであるが、後に成つて、高溫度で飼育した蝶や蛾の變化が子に傳はるといふ確な實驗の報告を見るに及んで、外界からの影響も身體内の生殖細胞までに達するときは、次の代にも變化が現れるといひ出した。然し之は容器なる身體と内容物なる生殖細胞とが同時に外界からの影響を受けたのであるから、竝行感應とでもいふベきもので、遺傳の範圍には屬せぬと論じて、後天的性質非遺傳説を立て通そうとして居るのである、されば今日の所では、外界から生物體に及ぼす影響はその一代に止まらず、後の代までも繼續することがあるといふ事實は、實驗によつて證據立てられたことで、之に對しては誰も疑を插むことは出來ず、たゞ之を後天的性質の遺傳と名づけるか、竝行感應と名づけるかといふ言葉の上の爭があるに過ぎぬ。而して生物の進化を論ずるに當つては、親が新に獲た性質が、子孫にも引き續き現れるや否やといふ事實上の問題ならば、極めて大切であるが、斯かることが確にあると知れた上は、之を遺傳と名づけようとも、竝行感應と名づけようとも一向構はない。
後天的性質が子に傳はるというても、無論總べてが傳はるといふわけではない。外界から生物體に及ぼす影響の中には、一局部だけに限られて、他に餘り關係のないものもある。ただ一囘の怪我によつて身體の一部を傷けた場合の如きはその例で、試に鼠の尾を切り捨てても、その他の體部には餘り變化を生ぜぬ。肺にも胃にも、心にも肝にも、大した變動を起さぬ如く、卵巢や睾丸にも恐らく變動は生ぜぬであらうから、尾の無くなつたといふ性質が子に傳はらぬのは寧ろ當然である。この點からいふと、ヴァイズマンが十幾代も續けて鼠の尾を切つても、遂に一疋も尾の短い鼠の子が生れなかつたといふ實驗は、後天的性質の遺傳を否定するためとしては頗る不適當であつた。これに反して、溫度・食物・地味・風土等の變化は、生物體の全部に影響を及ぼすもので、身體の一部なる生殖腺も、そのため幾分かの變化を免れぬであらうから、子孫にもその結果が引き續き現れるであらう。アメリカからドイツヘ移し植ゑた「たうもろこし」が、一代每に變化の進むのは、その一例である。高山の植物を平原に植ゑ、鹹[やぶちゃん注:「しほけ」と訓じておく。]の濃い海から鹹の淡い海へ動物を移しなどすれば、恐らく同樣の結果を生ずるであらう。また後天的性質が遺傳するというても、勿論目立つ程に現れるわけではない。若し著しく現れるものならば、今日これに對して議論などは素よりない筈である。されば、人爲的に生活狀態を著しく變更して實驗して見る場合などの外は、恐らく極めて微に傳はり、多くの代を重ねて初めて明になる位に過ぎぬであらう。尚後天的の性質と先天的の性質との區別の如きも、二三の例だけに就いて考へると、極めて明瞭なやうに思はれるが、あらゆる場合を集めて見ると、到底その間に到然した境界を定めることの出來ぬことが知れるが、これ等に關する議論は略する。
生物の身體を生殖物質と身體物質との二つに區別する人々が、後天的性質の遺傳を否定する主なる理由は、後天的性質が如何にして身體から生殖細胞に傳はるか、その道筋が考へられぬといふ點にあるが、我々の現今の知識を以て考へられぬからといふて、直にその事の存在を否定し去るのは大なる誤りである。生殖腺と他の體部との間には奇妙な關係があつて、生殖腺に故障が起つたり、なくなつたりすると、全身に種々の變化が現れることは常に人の知る所で、例へば男の子の睾丸を切り取れば、年頃になつても鬚も生えず、聲も變らず、性質までが普通の男とは違つたものになる。牡鹿を去勢すれば、角が生えなくなるが、腹の後端にある生殖腺を除いたために、頭の頂上に角が生えぬことも隨分不思議である。姙婦が子を産むまでは乳が出ぬが、子を産めば直に乳が出るやうになる。雌鷄の生殖器に故障があると、往々雄のやうな羽毛が生じて、雄のやうな擧動をするやうになる。近頃は種々の實驗によつて、生殖腺からは一種の物質を血液中に分泌し、その物が身體の各部に循つて、以上の如き現象が生ずることが推察せられるやうになつたが、それにしてもやはり不思議である。斯くの如く不思議な道筋を通つて、生殖腺から他の體部に著しい影響を及ぼすことを思へば、その反對に、他の體部に變化の生じた場合に、生殖腺内の生殖細胞にその影響が及ぶことも、必ずしも考へられぬこととはいはれぬであらう。實は外界からの影響を蒙つて、生物體に變化が起るといふ場合には、身體の一部なる生殖腺にも同時に幾分かの變化が起るであらうから、初め身體が變化し、次にこれが生殖細胞に移る如くに態々段を別けて考へる必要はないのである。
« 進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(二) 二 生殖物質繼續説 | トップページ | 進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(四) 四 遺傳單位不變説 / 第十八章 反對説の略評~了 »