諸國里人談卷之三 迯水
○迯水(にげみづ)
武藏野にあり。むさし野と云ふは中野の西、代々木野(よゝぎの)・宇陀野(うだの)といふ邊(へん)より、府中の邊までの曠野(くはうや)なり。迯水は、まことの水にあらず。むさし野の漭䍚(ばうろう)の草もわかく生(おい)たちて、麗(うらゝか)なる春のそらに、地氣(ちき)立(たち)て、こなたより見れば、草の葉末(はすえ[やぶちゃん注:ママ。])をしろじろと水の流るゝごとくに見ゆる也。その所に至りて見れば、その影、なくて、また、むかふに、流るゝごとくの影あり。いづれまでも其(その)所を、さだめず。行(ゆく)ほど、先へ行(ゆき)て、迯行(にげゆく)やうなるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、かく名付(なづけ)たり。春より夏かけて、あり。秋冬は、なし。
夫木
俊賴
あづま路にありといふなる迯水のにげかくれても世を過すかな
[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。お馴染みの気象現象としての「逃げ水」は地表近くで見られる蜃気楼現象の一種で、晩春から夏にかけて、よく晴れた日に、強く熱せられた道路のアスファルト面などを遠くから視線を低くして見ると、水たまりがあるように見えることがある。これは、地面付近の気温が非常に高くなったために起こる光象で、「地鏡(ちかがみ)」「擬水面現象」とも呼ぶ。しかし、気象学者がこの現象を専ら「逃げ水」と呼ぶようになったのは、大正末期からのことであり、古来、歌に詠まれて有名な「武蔵野の逃げ水」が、このような蜃気楼現象を挿したかどうかの確証はない。ここに書かれた古来の「逃げ水」の正体として、これを武蔵野特有の伏流水(末無(すえなし)川。小川の末流が地中に浸み込んで消滅してしまう現象)とする説もあるが、「逃げ水」は、江戸時代の儒者斎藤鶴城(かくじょう)が「武蔵野話」で述べているように、山裾のような地帯の、ほんの一メートルくらいの高さで低く這うような形で発生する霧か靄(もや)ではないかと思われる。そのような所を人が歩いて行くのを遠くから見ると、見え隠れしながら、水中を歩いて行くように見えるといわれる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠ったが、これはなかなか目から鱗だ)。
「代々木野(よゝぎの)・宇陀野(うだの)」サイト「すむいえ情報館」の「【ヨヨギ】代々木の由来 1丁目~5丁目」によれば、「代々木」の地名は『①』として「東都一覧武蔵考」(書誌不詳)によれば、『駒場野まで続く原野(代々木原)』(=「代々木野」)『に明治神宮も代々木練兵場(代々木公園)もなかった頃はサイカチの木が多く自生していて、その実は当時の石鹸』の代用品『であり、漢方では利尿・去痰(たん切り)に効く薬となるので、村では代々』、『収穫していた。つまりサイカチは「代々受け継ぐ木」だった』とし、『②』として『明治神宮は元は加藤清正の下屋敷で、同家断絶後は井伊大老家が継ぎ、維新後は皇室御料地となっていたが』、大正九(一九二〇)年十一月一日、明治『神宮が造営された』が、その『東門のところに一本の樅の巨木があり、代々受け継がれてきた。「代々の樅の木」→「代々の木」→「よよぎ」と転訛して何時しかそれが村名になった』(これは「大日本名所図会」に拠るらしい)。『この木は幾代か植え継がれたものらしく、幕末のものは高さ』五十メートル、幹周り十メートルもあって馬三頭を繋いでも、その姿が隠れて『見えなかったという。写真で見る限りそんな風には見えないが、確かに巨木ではあった。安藤広重が『代々木村の代々木』に描いており、当時は東京タワーのように遠くからも見え、旅路の目印だったとも伝わる』。『幕末に黒船が来た時、井伊家ではこの木に登ってそれを監視している。明治の中ごろに枯れたとも、戦災で焼け落ちたともいわれ』、昭和二七(一九五二)年四月三日、『新しい樅ノ木が植えられ』、看板が添えられてういるらしい。孰れの説にしろ、『代々木は代々木の杜の木』であるとする(ここに明治天皇御製三首が入るが、省略する)。続いて、『代々木村』についての記載があり、本書の作者菊岡沾涼が本書に先立つ九年前に板行した江戸の地誌(現在のムック本)「江戸砂子」(「江戸砂子温故名跡志」とも称する。享保一七(一七三二)年刊。編集に八年をかけ、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している)によれば、江戸以前、代々木本町の北の辺り、現在の初台一~二丁目・西原一~三丁目・代々木四~五丁目は「宇陀野」と称し、渋谷川の支流である宇田川(現在は完全に暗渠化。町名としての「宇田川町」に名が残る)は「宇陀野を流れ出た川」の意であるとする。また「武蔵野」はこの「宇陀野」と「武蔵府中」の間のことを指すのだと言う。『村としての起立は江戸時代初期のようで、それ以前には宇陀村も代々木村も見られない。村名はともかく、古代遺跡が八幡神社にあることからして』、『集落があり』、『人々の生業(なりわい)があったことは疑う余地はない。宇田川流域(代々木本町から富ヶ谷の低地)が、古代においては江戸湾の深い入江で、江戸末期まで深町一円(代々木深町交差点からNHKの西側低地)は巨大な池沼だったことが判っており、明治初期に泥中から古い巨船が発掘されたという記録からして、他地域との交易もあったと考えられる』とある。
「漭䍚(ばうろう)の草」「漭」(ボウ)も「䍚」(ロウ)も「広大」なさまであるから、見渡す限りの広野の草の意。
「夫木」「夫木和歌抄」。鎌倉後期の私撰和歌集。全三十六巻。藤原長清撰。延慶三(一三一〇)年頃の成立とされる。「万葉集」以後の家集・私撰集・歌合などの撰から漏れた歌一万七千余首を四季・雑に部立てし、約六百の題に分類したもの。以後の勅撰集に備える目的と、歌道に志す人の参考書という性質としても編まれたものである。「夫木和歌集」「夫木抄」とも呼ぶ。
「俊賴」前出の歌論書「俊頼髄脳」で知られた歌人源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)。堀河院歌壇の中心的存在であり、白河法皇の命により、「金葉和歌集」を撰進しており、勅撰集には二百十首も入集している。篳篥(ひちりき)の名手でもあったが、官途に恵まれず、木工頭(もくのかみ)で終わり、後年は不遇であり、遅くに出家をしているようである。或いは本歌は、一般的観念詠ではなく、そうした晩年の出家遁世の孤独な彼の影を偲ばせるものなのかも知れぬ。
「あづま路にありといふなる迯水のにげかくれても世を過すかな」「夫木和歌抄」の巻二十六の「雑八」にある。]