諸國里人談卷之五 伯藏主
○伯藏主(はくざうす)
江戶小石川傳通院(でんつういん[やぶちゃん注:「いん」はママ。])正譽(しよふよ[やぶちゃん注:ママ。])覺山(かくさん)上人、京都より下向の節、道づれの僧あり。名を伯藏と云〔いへ〕り。則(すなはち)、傳通院の會下(ゑげ)に属(しよく)して學文す。每度の法問に、前日より、その語(ご)を知りて、一度も、おくれをとらず。「いかさま、たゞものにあらず」と、衆僧、希有におもひける。一日(あるひ)、熟睡し、狐の性(しやう)をあらはせり。是を恥(はぢ)てや、それより逐天(ちくてん)してげるが、猶、當山の内にあつて、夜每に所化寮(しよけれう)に徘徊し、外面(そとも)より、法を論じける也。此伯藏の著述の書物、一櫃(ひとひつ)ばかり今にありとぞ。その頃は、人にも貸し、寫させなどしけるが、今見れば、誠の文字にあらずと也。寶永のころまで存命なりし也。今、「伯藏主稻荷」と稱して鎭守とす。元來、此狐は下總國飯沼にありしと也。弘敎寺にも、これにおなじき事ありと云〔いふ〕。
○開山上人、蛙(かはづ)の聲は額文の妨(さまたげ)なり、と封ぜられたり。一山(いつさん)の蛙、今、以て、鳴(なか)ず。
[やぶちゃん注:「伯藏主」狂言「釣狐」の素材となったことで知られる、大阪府堺市堺区にある臨済宗萬年山少林寺の「白蔵主(はくぞうす)」(「伯」とも表記する)の変形異伝であろうが(同妖狐伝承はウィキの「白蔵主」を参照されたい。なお、「蔵主」は狭義には禅寺に於いて経蔵を管理する僧職で、因みに「白」は妖狐「白」狐を、「伯」は白蔵主伝承の中で登場人物の「伯」父である僧に白狐が化けることを臭わせるものであろう)、調べてみると、東京都文京区小石川にある浄土宗無量山傳通院(でんづういん:現行では一般に「でんづういん」と読むが、清音で「つう」とも読む。本書は濁音を落とし易い傾向にあるから、沾涼も「づう」と読んでいたかも知れぬ)寿経寺には、まさにこの通りの狐が僧に化けて学んだという「澤蔵司(たくぞうす)」伝承があることが判った(蔵司は蔵主の居室或いは蔵主と同義。この呼称は禅宗以外でも転用された)。但し、「はく」「たく」の音の類似性からも同根異伝であることは間違いない。ウィキの「澤蔵司」によれば、天保四(一八三三)年(後で問題にする)、『江戸にある伝通院の覚山上人が京都から帰る途上、澤蔵司という若い僧と道連れになった。若い僧は自分の連れが伝通院の覚山上人だと知ると、学寮で学びたいと申し出てきた。若い僧の所作からその才を見抜いた覚山上人は入寮を許可し、かくして澤蔵司は学寮で学ぶことになった』。『澤蔵司は入寮すると』、『非凡な才能をあらわし、皆の関心を寄せた。が、あるとき』、『寝ている澤蔵司に狐の尾が出ているのを同僚の僧に見つかってしまい、上人に自分に短い間ではあったが、仏道を学ばせてもらったことを感謝し、学寮を去った』。『その後一年ほどは、近隣の森に住み、夜ごと』、『戸外で仏法を論じていたという』。『澤蔵司は僧であった頃』、『蕎麦を好んで食べていた。澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋では、澤蔵司が現れた日、銭に必ず木の葉が混じるので怪しみ、ある晩』、『店の男は蕎麦を買った澤蔵司をつけて行くと、森の中に蕎麦を包んだ皮が散らばっていたという。また、この出来事から』、『店の男が澤蔵司は狐だと感づき、それが原因で澤蔵司は上人に自分が狐であることを打ち明けたと言う説もある』。『現在でも澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋(稲荷蕎麦萬盛)は残っている』。『澤蔵司が人間に化ける能力を得たのは、太田道灌が千代田城を開く際に掘り出した十一面観音像を手に入れ、それを拝んだためだと言う説もある』とある。まず、現行の位置であるが、現在、傳通院の東に慈眼院(じげんいん)という浄土宗の寺があり、その境内に澤蔵司稲荷がある(ここ(グーグル・マップ・データ)。同慈眼院の「澤蔵司稲荷」には公式サイトがあり、慈眼院本堂には澤蔵司尊像が安置されており、境内には霊窟「お穴」まである(「境内」でオンライン参拝可能)。その「沿革」によれば、元和六(一六二〇)年、『傳通院中興廓山上人により』、『傳通院山内慈眼院を別当寺としてその境内に祀られた』。『小石川無量山傳通院は中興正譽廓山上人の時、徳川家康公の帰依が篤く、家康公の生母於大の方の追善の為に墓所を建立し菩提寺と定め』、『於大の方のお戒名が傳通院殿』であったことから、『傳通院寿経寺と呼ばれてい』る。傳通院は『関東十八檀林(今で言う全寮制仏教専門学校のような組織)の一つとして浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内には多くの坊舎(修学僧の宿舎)が有り多くの修行僧が浄土教の勉学をして』いた。『縁起によると』、元和四戌午(つちのえうま)年(一六一八年)四月のこと、学寮主であった『極山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね』、入門したが、彼は『才識絶倫優秀にして僅か』三『年余りで浄土教の奥義を修得し』、元和六庚申(かのえさる)年五月七日の『夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立ち』、『「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり』。『今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」』と言い残し、『暁の雲に隠れたと記されてい』るとある(下線太字やぶちゃん。以下同じ。同ページの「文京区教育委員会」の解説板の写真も参照されたい)。『その為、この慈眼院が別当寺となり』、元和六(一六二〇)年、『澤蔵司稲荷が建立され』、『現在に至って』おり、『開創以来、傳通院ならびに地元の鎮守のみならず』、『江戸時代から板橋、練馬方面の農業を営む方々、日本橋、神田方面の商家の方々のご信仰が篤く現在に至っております』と記してある。これを読むと、この寺は傳通院の附属寺院のように思われるであろうが、しかし、「傳通院」公式サイトその他を調べる限りでは、この寺を境内地としておらず、記載も全くない。されば、現在、この慈眼院は傳通院からは独立した寺として存在しているようである。
なお、同ページでは『稲荷蕎麦「萬盛」の由来』(店名は「まんせい」と読む)として、『澤蔵司が傳通院で修行中、傳通院の門前に蕎麦を商う店が有り、よく蕎麦を食べに行っていたと記されて』おり、『主人も亦』、『よく』、『その徳を慕いて常に供養していたとされ、澤蔵司稲荷尊として祀られてから社前に蕎麦を献じていたと記されてい』る。『江戸中期、後期の縁起、略縁起にも』、『まだ蕎麦の奉納が続いていると記され、明治や昭和初期の記録にも奉納が続いていると書かれて』いるとし、『現在でも』、『その日の初茹で(初釜)のお蕎麦が朱塗りの箱に収められ奉納されており』、『縁起、記録からも判りますが、開創』以来、三百八十有余年、『連綿とお蕎麦の奉納が続いていると言う事にただただ驚きと共に』、『代々続く店主の御信仰、澤蔵司稲荷尊の御利益を拝するのみです』と結んであり、『傳通院前交差点、向かい側の茶色のマンション、コンビニの隣りに「稲荷蕎麦萬盛」は』あるとして、リンクも添えられてある。
さて、まず、ウィキの記載の時制である天保四(一八三三)年には全く従えない。何故なら、本「諸國里人談」は、その九十年も前の寛保三(一七四三)年の刊行だからである。しかし、「澤蔵司稲荷」公式サイトの元和四(一六一八)年四月の澤蔵司の入寮ならば、本書刊行の百二十五年前となり、全く問題ない(伝承形成には十分な時間である)。
「正譽覺山上人」これが胡散臭い。当時の傳通院の上人は「傳通院」公式サイトの「歴代上人」のリストによれば、第十世涼蓮社(りょうれんじゃ)信誉厳宿(前の第九世源蓮社真誉相閑は天和三(一六八三)年に遷化している。信誉厳宿は貞享四(一六八七)年遷化)で違う。寧ろ、この「覺山(かくざん)」というのは、先に引いた慈眼院の縁起に現われる方丈の廓山(かくざん)と学寮長の極山(ごくざん)との関連の方を強く感じさせる。
「會下(ゑげ)」会座(えざ:法会・講説などで参会者が集う場)に集まる門下の意で、特に禅宗や浄土宗などで師の僧の下で修行する所やその集まりを指す語。
「屬(しよく)」所属。
「學文」学問。
「每度の法問に、前日よりその語(ご)を知りて」師が法問で採り挙げて、その意を学僧らに問うところの仏語を、何故か、前日に既に知り得て、しっかりとそれについて経典類を渉猟した上で、法莚に出るのである。「一度も、おくれをとら」ぬは当たり前である。ここにして、摩訶不思議な予知能力を発揮している訳である。
「熟睡し、狐の性(しやう)をあらはせり」ウィキにある通り、尻尾を出してしまったのであろう。
「逐天(ちくてん)」逐電。
「所化寮(しよけれう)」学寮。「所化」は教え導かれて仏法によって救済されるべき衆生や悟りを得る資格を持った者を指す。俗に、一人前でない修行僧をも指す。対語は「能化 (のうけ) 」で、これは学寮の学長である僧をも指す語である。
「誠の文字にあらず」所謂、異界の存在が用いる不可思議な文字で書かれていたということである。しかし、以前には「貸し」出し、それを「寫し」たりした学僧もいたというとなのであるから、嘗てはちゃんと読める普通の文字だったに違いない。時を経て、呪力が消え、文字も妖狐の使う奇怪な文字に変じたということなのであろう。
「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。本書刊行の三十余年ほど前。直近の時制で、まさに都市伝説(アーバン・レジェンド)としての体裁を備えている。「つい、こないだまでその狐の僧は生きてたんでごぜえやすぜ! あのでんづ院で!」。
「伯藏主稻荷」既に見た通り、「澤蔵司稻荷」が正しい。
「下總國飯沼」歴史的仮名遣「しもふさのくにいひぬま」。現在の千葉県市原市飯沼(いいぬま:ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、私は「下總國」は「下野國」の誤記であろうと思う。次注参照。
「弘敎寺にも、これにおなじき事あり」私の「譚海 卷之一 下野飯沼弘教寺狸宗因が事」を見られたいが、これは、恐らく、現在の茨城県常総の北西部の豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐきょうじ)の誤りと思う(ここ(グーグル・マップ・データ))。但し、こちらは狐の化けたのではなく、狸の化けた僧の話で、「宗固狸(そうこたぬき)」の名で知られる。
「開山上人」これは傳通院のことであろうから、浄土宗第七祖聖冏(しょうげい 興国二/暦応四(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年)で、号は酉蓮社(ゆうれんじゃ)了誉。ウィキの「聖冏」によれば、『常陸国・椎尾氏の出身。同国瓜連常福寺の了実について出家し、同国太田法然寺の蓮勝に師事した。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く仏教を修めた。宗徒養成のために伝法の儀式を整備し、五重相伝の法を定めた。神道・儒学・和歌にも精通し』、「古今集序註」「麗気記拾遺抄」を著してもいる。『門弟に聖聡・了知などがおり、第』八『祖となった聖聡とともに、浄土宗鎮西義を教学面から興隆した人物として評価される。また、江戸小石川伝通院を開創したことでも知られる』とある。]
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