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2018/07/21

甲子夜話卷之四 37 明安の頃風俗陵遲の事 / 甲子夜話卷之四~完遂

 

4-37 明安の頃風俗陵遲の事 

明安頃は風俗陵遲極りたる中に、又思ひよらぬことこそありける。是は享保中の遺老尚ありし故とぞ。畫工の狩野榮川、殊の外田沼氏の心に叶ひ、醫院の列にさへ陛りしが、年始に御流れ時服賜はるとき、醫師衆は無紋の服に白を重ねて下さる古例なり。是流品の外なりとして、御紋は下されぬ界限の古法、元日の御式にのみ殘れり。田沼氏榮川を贔屓の餘り、總醫官へ賜る品を御紋服にせんとて、同朋頭をして納戸頭を諷せしめ、納戸頭の意を以て、御紋服にはからふようにとし成たり。そのとき納戸頭勤めし某、承服せず。此局創りしより定れる例を破ることは、得こそ致すまじ。てさあらんに於ては、書付を以て下知せらるべし。老職の屹と下知せらるることならば、是乃上の令なれば、其時は畏り奉らんと、手堅く申張りしかば、其事沙汰無くなりしとなり。その頃田沼氏の權勢中外を傾し中に、某獨り屈せず。我守る所の官局の法を張りしは、信にけなげなることなり。又上州絹運上の一件より、土民服せず。徒黨を結び、都下へ訴に及ばんとす。其數百千に至り、中々代官等の手に合はず。既に訴人ども鋤鍬鎌など携へ出立する由の注進、所々より櫛の齒を引が如し。そのこと司農府より申出て、政府にも評議區々なりしが、遂に先手頭の鐵炮組を、淺草御門に出張せしめらるゝことに定り、政府より命を傳られしとき、先手頭の筆頭にてありし老人伺出けるは、訴の百姓ども御門外まで來り候はゞ、組の者をして利解を説聞せ、もしそれを承引なく、て御門内へ亂入するの勢あらば、御道具【御預り鐵砲等のこと】を以て打ひしぎ候半と申ければ、政府の面々、それほどには及ぶまじとの旨なりしかば、然らば此御用は御免を蒙るべし。參遠以來我々が先役ども、討死せし跡は兎も角も、左なくして御紋付御道具の前に、敵を通したる事は一度も無候と言切りければ、政府の衆中あきれて其事は止み、御徒目付を淺草御門に泊番申渡したりとなん。幸に訴人をなだむるものありて、出に及ばず無事になりぬ。柔懦の極りし世なりしが、此事傳へ聞しもの、流石は御譜第御旗本衆の氣概よと感心しつゝ、それに付ても、御徒目付の泊りは何事ぞ迚、政府の措置を笑はぬものはなかりけり。總て此頃は、世態人情なり下りたる極なりし中に、又如ㇾ此こともありしは、陰窮りたる時に陽を生じ、否極りし後は泰に至るの兆朕なる歟。幾程も無くして、寛政維新の御代に移り、衆賢彙進の盛時となりにき。

■やぶちゃんの呟き

これを以って「甲子夜話卷四」は終わっている。

「明安」明和・安永。一七六四年から一七八一年まで。徳川家治の治世。所謂、田沼時代。

「陵遲」(りようち(りょうち))の原義は「丘陵が次第に低くなること」であるが、転じて、「盛んであった物事が徐々に衰えてゆくこと」から「道義が薄れていくこと」の意となった。

「是は享保中の遺老尚ありし故とぞ」これは享保年間(一七一六年から一七三六年)の節を重んじた御大(おんたい)の方々がまだ存命であられたからであるとのこと。

「狩野榮川」(かのうえいせん 享保一五(一七三〇)年~寛政二(一七九〇)年)江戸中期の画家。狩野栄川古信の長男。狩野受川の養子となったが、養父の早世により、二歳で木挽町狩野家を継いだ。江戸城や御所の障壁画・朝鮮贈呈屏風などの制作に携わり、法印となった。将軍徳川吉宗や家治の厚遇を受け、奥絵師の中で木挽町狩野家の地位を最上位にまで押し上げた人物。

「醫院の列」中世・近世以降、僧侶に準じて儒者・仏師・絵師・連歌師・医師などに僧位と同じ法印・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の三階位が与えられたことを指す。ただ、ここではこれ以外に「總醫官」とも言っているとこから、医官としてそれらを授与される者が圧倒的に多かったと考えてよかろう。実際、私が諸本で見かけるのは殆んど医師である。

「陛りし」「のぼりし」。本寺の原義は土で出来た階(きざはし)で、屋外にあって館に導く階段である。

「年始」「御流れ時服」「おながれじふく」。江戸幕府で年始に大名・旗本などに対して、下賜された衣料。綿入れの小袖が与えられた。現在、目上の人から貰う使い古しの品や不用品を「御下がり」というのと原義は同じ。

「流品の外なりとして」意味不明。最低限の衣料の資とせよとして戴くのが「御流れ品」の主意であるから、紋付の小袖など贅沢の極みで、慮外の品であるという意味か。識者の御教授を乞う。

「界限の古法」厳しい制限(限界)を定めた神君家康公以来の古式ということか。

「總」「すべて」。

「同朋頭」(どうぼうがしら)若年寄に属し、同朋(将軍に近侍して雑務や諸芸能を掌った僧体の者。若年寄支配で大名の案内・着替えなどの雑事を勤めた)及び表坊主・奥坊主の監督を掌った。

「納戸頭」(なんどがしら)。将軍の居所である中奥に勤務した中奥番士の一つで、将軍の手許にある金銀・衣服・調度の出納を掌り、大名旗本が献上した金銀・衣服、将軍の下賜下贈する金銀衣類一切を取り扱った。定員二名で元方(収蔵買入)と払方(下贈品)に別れていたから、ここは後者。

「諷せしめ」それとなく仄めかして伝えさせ。自分はあくまで関与していないという現在のもり・かけ・スパ汚れの安倍政権みたような、流石に陰で私腹を肥やした意次ならではの仕儀である。

「はからふ」処理する。

「し成たり」「しなしたり」。

「某」「なにがし」。静山殿、こここそ実名を明記して、永くその賄賂権勢意次に正面切って物申した御仁の心意気を伝え残すべきで御座った。

「此局」納戸方(なんどがた)。

「創りしより」「はじまりしより」。

「定れる」「さだまれる」。

「得こそ致すまじ」「得」は不可能の副詞「え」。それに打消意志の「まじ」を呼応させたところに、強烈な拒否感がよく評言されている。

て」「しひて」。

「書付」幕府内に於いて上役(特に将軍・老中・若年寄など)から下された命令書。老中御書付が一般的。平凡社「世界大百科事典」によれば、老中御書付は奉書紙を横半截した切紙の形で、伝達内容のみが記され、差出人や宛所の記載も省略されており(宛所の必要なものは文書の袖に記された),老中よりの口頭伝達を文字化した覚書としての性格を持っていた、とある。

「屹と」「きつと」。副詞。オノマトペイア「きと」の促音添加。「屹度」「急度」は当て字。確かに・必ず・間違いなく(~する・~である)。

「是乃」「これ、すなはち」。

「上」「かみ」。

「畏り」「かしこまり」。

「手堅く申張りしかば」「てがたくまうしはりしかば」。非常にきっぱりと(拒絶の意を)言い張りつつ申し上げたために。

「中外を傾し中に」「うちそとをかたむけしなかに」。幕府内外を問わず、意次の権勢に誰もが節操なく傾き靡いていた中にあって。

「信に」「まことに」。

「上州絹運上の一件」「絹一揆(きぬいっき)」或いは「絹運上騒動(きぬうんじょうそうどう)」とも称した、田沼時代の天明元(一七八一)年に上野国西部一帯から展開された絹市に対する課税反対を求める一揆。参照したウィキの「絹一揆」から引く。江戸『中期、上野国や武蔵国の農村では、養蚕業が盛んになり、生糸や絹織物が生産されるようになり、各地に絹市と呼ばれる市場が形成され、江戸や京都などの問屋から原料や商品の買い付けに訪れる買付人が増加していた。江戸幕府では元禄元年』(一六九八年)『と宝暦元年』(一七五九年)『に上野・武蔵の絹に対して課税を行う計画が立てられたが、この時は桐生などの絹織物生産地の反対があって中止された。ところが天明元年』(一七八一年)『になって地元の有力者である小幡(現在の甘楽町)の新井吉十郎他』二『名が他の賛同者の名簿とともに上野・武蔵の』四十七ヶ『所の絹市に対して』十ヶ『所の反物并絹糸貫目改所』(かんめあらためじょ:ここで製品・原料の量・質を検査し、買人から「改(あらた)め料」を徴収した)『を設置する申請が江戸幕府に出された。有力者たちは改所に関与して』、『絹の販売を独占しようと図り、一方田沼意次を中心とする江戸幕府首脳も米に依存した財政に対する限界から代わりの財源を求めており、絹製品の品質向上と運上に代わる改料確保につながるこの計画を許可したのである。そこで、幕府は現地に対して改所設置と』、反一疋に対して銀二分五厘、糸百目につき銀一分、真綿一貫目につき銀五分の『改料を買取人から徴収することが伝えられると、現地の農民はこれに強く反発した。しかも同様に反発した買取人たちも買取を拒否したために絹市が事実上停止してしまったのである。これに激怒した上野の人々は対策を講じ始めた。桐生などの上野国東部の人々は幕府に訴願を行って取消を求めようとした。だが、西部の人々は今回の改所設置の背景に西部の地主や商人達が』関わっていた『ことを知り』、『激昂』、『西部の人々は』八月二日の『上州藤岡での寄合をきっかけに一揆として蜂起』、八日に神流川(かんながわ)に『集まった人々は当初』、『江戸を目指すことも検討したものの、協議の結果、改所構想の申請者を追及する方針に変更した』。八月九日、『小幡の新井吉十郎の屋敷が打ち壊され、続いて他の申請者やそれに賛同した地主や商人の屋敷が打ち壊されただけではなく、七日市藩陣屋も攻撃され、更に一揆は今回の申請に許可を出した老中松平輝高が藩主を務める高崎藩に向かってなだれ込んだ。これに驚いた幕府は』八月十六日に『改所中止を決定して翌日には現地にも伝えられたが、この報が広まる直前の』八月十八日には『高崎城を包囲した一揆軍と高崎藩兵が衝突した。だが、直後に双方に改所中止が伝わったために一揆は解散したのである』とある。本条のこの部分は、この天明元(一七八一)年の八月二日の蜂起辺りから、八月九日の七日市藩陣屋への攻撃、八月十八日の老中松平輝高が藩主であった高崎藩への侵攻・衝突の期間の幕府内の混乱を描いていると考えてよかろう。

「櫛の齒を引が如し」「くしのはをひくがごとし」。櫛の歯は一つ一つを小さな鋸で挽(ひ)いて作ったところから、物事が絶え間なく続くことの譬え。

「司農府」幕府内の農政を掌る部局らしい。

「區々」「まちまち」。異なった意見がさまざまに出ること。

「淺草御門」江戸城外堀の神田川で最も隅田川寄り(神田川が隅田川に注ぐ手前)の番所、浅草見附があった枡形の浅草橋見附門。見附門にある橋は浅草寺に通じることから「浅草橋御門」「浅草口」とも呼ばれ、平時から警護人を置き、浅草観音や奥州方への街道を往来する人々を監視した。ここ(グーグル・マップ・データ。但し、正確にはここに神田川対岸位置と思う)。

「定り」「さだまり」。

「伺出けるは」「うかがひいでけるは」。

利解」「理解」。

「説聞せ」「とききかせ」。

「候半」「さふらはん」。

「無候」「なくさふらふ」。

御徒目付」「おかちめつけ」。目付の指揮のもとに江戸城内の宿直・大名登城の監察・幕府諸役人の執務内偵等に従事した。徒目付(かちめつけ)・徒横目(かちよこめ)とも呼ぶ。

「泊番」「とまりばん」。宿直。

柔懦」「じうだ(じゅうだ)」。気が弱く意気地のないこと。「柔弱」の同じい。

「極り」「きはまり」。

「迚」「とて」。

「政府の措置を笑はぬものはなかりけり」いやいや、激甚災害の真っ最中に宴会を開いて記念写真を撮る輩に比べたら、遙かにマシで御座るよ、静山殿。

「世態」「せたい」「せいたい」孰れにも読む。世の中のありさま。世情。

「極」「きはみ」。

「如ㇾ此」「かくのごとき」。

「否極りし後は泰に至る」「易経」の言葉。「乾坤」「泰否」は宇宙のエネルギの相反的状態とその消長を前後対で著わしたもので、「泰否」は「泰」が生命の活動の隆盛を、「否」はその停滞・減衰を指す。それぞれの状態の極限は反対の状態を逆に生み出し、それによって宇宙というエネルギ体は永続するといった意味であろう。

「兆朕」「てうちん(ちょうちん)」。この「朕」は「兆」に同じ意で、これで「きさし・徴候」の意。

寛政維新の御代」田沼意次が失脚し(天明六(一七八六)年。八月二十七日、老中辞任)、翌年松平定信が老中就き、その在任中の天明七(一七八七)年から寛政五(一七九三)年の主導で行われた「寛政の改革」時代。

「彙進」(いしん)は元は同類の者が朝廷に進み出ること。そこから、類を以って集まることの意となり、ここは賢人たちが陸続と幕府に集まって来たことを指す。

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