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2018/07/18

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(44) 大乘佛敎(Ⅲ) / 大乘佛敎~了


 佛敎の說に從へば、佛陀の外に實在するものなく、其の他の一切のものは業に過ぎぬ。一個の生命、一個の自我あるのみ、人間の個性、及び人格と云ふも、必竟自我の現象に他ならぬ。物質は業であり、精神も業である――卽ち吾人の知る精神はさうである。業報はその像を現はす時、集合の一體と質とを表はし、その無形の名のを現はす時、性格と傾向とを表はす。本源的實體――一元論者の『分かつ可からざる
原質(プロタイル)』に相應するもの――は五個の要素から成り立つて居り、此の要素は、神祕的に五體の佛陀に合致せしめられ、それが又一體の佛陀の五相に過ぎないとされて居る。此の本源の實體に關する思想は、當然宇宙を感性あるものと見る思想とに關係を持つて居る。物質は又生きてゐるのである。

[やぶちゃん注:『分かつ可からざる(プロタイル)原質』「プロタイル」は「分かつ可からざる」に振られたように見えるルビであるが、原文では(左の「242」ページの中央やや下)、“protyle”であり、これは、化学用語で「(仮想された原始物質としての)原質」の意味であるから、「分かつ可からざる原質」全体に振られるべきルビであるので、敢えて位置を変えた。

 さてドイツの一元論者にとつても亦、物質は生命あるものである。ヘッケルは、「微分子と雖も感覺と意志の元始的なる形をもつて居る――更に適切に云へば、感情aesthesis)と向き方(tropesisとをもつて居るものである――卽ち、尤も單純なる類の遍在的心靈をもつて居る。』 と云ふ確信の基礎を、細胞生理學の現象の上に置く事を主張して居る。次にヘッケルの『宇宙の謎』から、ヴオグトや其他の人々に依つて主張される、實體の一元論的思想を語る章句を引用して掲げて見よう――

[やぶちゃん注:「ヘッケルの『宇宙の謎』」ヘッケル晩年の自然哲学の代表作“ Die Welträtse (一八八九年刊)。今年に入って、栗原古城訳版(大正六(一九一七)年刊・PDF縦書版)がサイト「科学図書館」で公開されており、全文が読める。それで示すと、以下の引用は「第十二章 本質の法則」の「本質に関する凝集的の解釈」(208ページ)の一節である。

「感情(aesthesis)」音写すると「アスティセス」。「刺激に対する直接的で基本的な認知」の意。

「向き方(tropesis)」「トロピィセス」。「傾向・動向」の意。

「ヴオグト」ヨハン・グスタフ・フォークト(Johann Gustav Vogt 一八四三年~一九二〇年)はイタリアのフィレンツェ生まれの博物学者。先の『宇宙の謎』の訳本の引用部分の次の段落で、実は以下の説が、ヘッケルのものというより、ヘッケルが賛同するフォークトの説であることが判る。引用しておく。

   *

 J・G・フォークト(J. G. Vogt)が説いた此学説に対しては、私はこれ以上精細に此処(ここ)に述べることが出来ぬ。されば尚お詳細のことを知り度(た)い読者は、 前述のフォークト(Vogt)の著述の第二巻の方に、 此難しい理論が通俗に解説してあるから、直接それに付いて見られんことを希望する。私はフォークト(Vogt)の此説について、其可否を明言し得る程、物理学や数学の造詣が無いけれども、自然の一致を確信せる生物学者としての立場から云えば、今日の物理学に於て一般に採用されている振動説よりも、此凝集説の方が、より多く信用出来るように思われるのである。フォークト(Vogtが此密集の順序を説くのには、普通の運動の現象と矛盾したところがあった為めに、或は誤解を生ずる虞(おそれ)があるかも知れぬ。併(しか)しながら彼は振動運動と云うことを、物理学者の言うような意味に於て説いたのであると云うことは、是非とも記憶して置かねばならない。彼の凝集の仮説は、矢張(やは)り振動の仮説のように、本質の運動と云うような意味なのである。唯此両個の仮説に於て相違する点は、運動の種類及び其運動的要素に対する関係に存する。されば此凝集説と衝突するのは、決して振動説全部ではないが、併(しか)し其の重要なる部分なのである。

   *

 なお、底本は引用の後に改行して、すぐ本文が続くが、一行空けた。 

 

 『實體に關する二個の基本的形態、秤量し得べき物質とエエテルとは、決して死滅するものでなく、單に外來的力に依つてのみ動かされて居る、併しそれ等は(當然、最小の程度に於てではあるが)感覺と意志とを附與されて居るのである、それ等は凝縮の傾向と、緊張の嫌惡を體驗する、卽ちそれ等は前者を求め、後者と抗爭する』

 シユナイダアの說いた極めて有り得べき假定說――感性は一種の結合の形成と共に始まるといふ事――感情は、恰も有機體が無機體から展開し來る如くに、無感情より展開し來るものであるといふ說は、昔の鍊金術師の夢想の復活よりもたよりないものである。併し斯樣な一元的思想は、物質を觀ずるに、完うされたる業とする佛敎の敎と、驚くなかり合一するのである。それ故にこれ等兩思想は、此處に竝べて論ずる價値があるのである。佛敎の考察に依れば、一切の物質は有情である――有情卽ち感性は事情に從つて變化する、日本の佛教の經文は『岩や石たりとも、佛陀を禮拜することが能きる[やぶちゃん注:「できる」。]』と敎へる。ヘツケル敎授一派のドイツの一元論者に依れば、微分子の特性と親和性とは。感情と向き方、卽ち『尤も單鈍なる心靈』を表はして居る、佛敎に於ては、これ等の性質は業から生まれる――卽ち、これ等の性質は、[やぶちゃん注:ここは、底本では、空白であるが、特異的に読点を打った。]先在の狀態から生まれた傾向を表はすものである。此の兩假定說は非常に近似してゐるやうに見える。併し西歐の一元論と東洋の一元論との間には、非常に重大なる相違がある。西歐の一元論は、微分子の性質を、單に遺傳の一種さ無限の過去を通じて作用し來たつた偶然の影響の下に、發展したる固執力强き傾向――に歸して居る。東洋の一元論は、微分子の歷史を以て、純なる道德であると云つて居る! 佛敎に從へば、一切の物質は、其の固有の傾向に依り、苦樂、善惡の方に向ふ有情の綜合である。『マハアヤアナ哲學槪論』の著者は恁う云つて居る。『不鈍の行爲は不純の土地を生み、純なる行動は、宇宙の各方面に、純なる土地をもたらす』と。換言すれば、道德的行爲の力に依つて完成されたる物質は、遂に幸多き世界を建設するに至る、これと反對に、不純なる行爲の力によつて、形成されたる物質は、不幸な世界を作るに至るといふのである。一切の實體は、一切の精神の如く、その業を有つて居る。遊星は、人間の如く、行爲と思考との創造力に依り形成せられる。而して各微分子は、その內に潜んで居る道德的若しくは不道德的なる傾向に從ひ、晩かれ早かれ、其の行く可き場所に落ち着くのである。人間の行爲思想の善惡は、ただにその來世に影響を及ぼすのみならず、無數の幾萬年の周紀の後、再び住まなければならない世界の性質に何等かの影響を與へるのである。勿論、此の壯大な思想は 現代の進化哲學中には、何等これに近似するものを有つては居ない。スペンサア氏の立場は、よく知られてゐるが、私は佛敎思想と科學思想との對照を强く示すために、氏の言葉を引用しなければならない、――

[やぶちゃん注:「シユナイダア」不詳。ドイツの進化論的心理学者ゲオルグ・ハインリヒ・シュナイダー(Georg Heinrich Schneider  一七四一年~一八〇一年)か?

「『マハアヤアナ哲學槪論』の著者」既出で既注の通り、著者も書誌も不詳。改めて、識者の御教授を乞うておく。【2018年7月19日:追記】既にに追加注した通り、何時も種々私の電子テクスト注の疑問や誤謬について情報や補正指摘を頂戴しているT氏の御教授により、これは浄土宗の僧で、仏教学者であった黒田真洞(くろだしんとう 安政二(一八五五)年~大正五(一九一六)年)が明治二六(一八九三)年九月に「シカゴ万国博覧会」の一部として開かれた「万国宗教会議」で配布したOutlines of The Mabâyâna as Taught by Buddha(「大乗仏教大意」)であることが判明した(詳しくは注追記を必ず参照されたい)。ここの小泉八雲の引用原文は、

   *

bring forth the Pure Lands of all the quarters of the universe ;  while impure deeds produce the Impure Lands.

   *

で、T氏の御教授によって、これは“ Outlines of The Mabâyâna as Taught by Buddha の、

CHAPTER IV.  Pure and impure causes and conditions.

からの省略引用であることが判明した。原文は、

   *

Pure actions bring forth the Pure Lands of all the quarters of the universe (lands produced by the pure mind)  and the sages of “Triyâna”; while impure deeds produce the Impure Lands everywhere (lands produced by impure mind)  and good or bad results. Where there are actions there are corresponding results ;  and as the varieties of actions are innumerable, so are the fruits infinite.

   *

である。日本語は「四 緣」のこちらを参照されたい(国立国会図書館デジタルコレクション)。最後に再び、御教授戴いたT氏に謝意を表するものである。]

 

 『吾人は、星雲の凝縮に關しての倫理も、恆星の運動に關しての倫理も、將又遊星の進化に關しての倫理も有つては居ない、かくの如き考へは無機體とは無關係のものである。又有機體を見ても、倫理が植物の生命の現象に何等關係のある事を認めない、よし生存競爭に於ける成功と失敗とに至らしめるものとして、それを植物の優秀なるものと劣等なるものとに歸しはするが、吾々は決してそれを、賞又は非難の點とはしない。倫理の問題が生ずるのは、動物界に有情が發生してのことである』――『倫理の原則』第二卷三二六頁

 

 これに反して、佛敎は、スペンサア氏の言葉を藉りて言へば、『星雲凝縮の倫理』とでも言つて然るべきものを、事實敎へる、――よし佛敎の星學では、『星雲凝縮』と云ふ言葉の科學的意味は少しも知らなかつたのでありはするが。勿論、この假說は、證明反證共に遠く人智の及ばざるものである。併しそれは宇宙の純なる道德的秩序を闡明し、人間行爲の瑣事にも、殆ど無限の結果を關係させてゐるのが面白い。古代の佛敎の形而上學者が、近代化學の眞實を知つてゐたならば、彼等は驚く程巧みに、その敎義を化學的事實の解釋說明に應用したことであつたらうと思ふ。彼等は、微分子の活動の說明にも、分子の親和の說明にも、エエテル震動の說明にも、業の理論をひつさげて、頗る面白く恐怖すべきほどに、これを用ひたであらう……。此處に暗示の世界が在る――最も不思議な暗示の――蓋し何人でも新宗敎を作る試驗を、敢てなし得る人若しくは爲さんと欲する人、或は少くとも無限の世界に於ける道德的秩序といふ考へに基礎を置いた鍊金術の廣大なる新體系を作らんとする人に取つては、これは暗示の世界である。

 併し大乘佛敎に於ける業の形而上學は、微分子の結合に關する鍊金術上の假說よりも、更に理解し難いものを多くもつて居る。通俗佛敎の敎へるところに依れば、再生の敎義は至極簡單である――輪𢌞と同意味で、人は過去に於て、既に何百萬遍も生まれて居たのであり、同樣に未來にも亦、多分何百萬遍となく再生するであらう――再生する度每の境遇は一つに過去の行ひにかかつてゐる。一般人の考へる所に依れば、此の世に肉體を消して、尙ほ若干期間滯留して後、靈魂は次に生まれる場所へと導かれる。人々は勿論心靈を信じて居るのである。併し大乘佛敎の教義は輪𢌞を否定したり、心靈の存在を否定したり、人格を否定したりして、如上の事は全然その內に見當たらない。再生すべき自我もなければ、輪𢌞もない――併しそれにも拘らず再生はある! 苦しみ若しくは喜ぶ眞の『我』はない――しかも受けるべき新たなる苦しみ、得らるべき新たなる幸福はある! 吾々が自我――個性的意識――と呼ぶ名のは、肉體の死と共に分散する、併し生存中に形戌せられた業は、新しい肉體及び新しい意識の組織完成を行ふ。若し生存中に苦しいことがあれば、それは前世の行ひの報いである――併し前世の行爲の實行者は、現世の我と同一人ではない。然らば、他人の過失に對して現世の我は責任をもつのであるか?

 佛敎の形而上學者は、恁う答へる『そは君の疑問の形式が間違つて居る。君は個性の存在を假定して居るが――個性といふものはないからである。君の問ふやうな「現世の我」と云ふ如きそんな個人は、實は無いのである。苦難と云ふは、事實先在した或る一個の存在か、または多くの存在が犯した罪の結果である、併し個性が無いのであるから、他人の行爲に對する責任はない筈である。轉變無常の生の連鎖の中で、嘗て昔の「我」と現在の「我」とは、行爲と思想とによつて創造されたる一時的の總和を表はして居るのである。そして苦痛は質から生まれ出る事情としての總體に屬するものである』と。此の答へは、全く漠然としてゐる、眞の理論を知らうと思へば、非常に困難な事であるが、個性の槪念を排除しなければならない。連續的に生まれ代るといふことは、普通の意味に於ける輪𢌞を意味しない、それは只だ業の自己傳播を意味するのみである。若し生物學上の言葉を藉りるならば――靈の發芽とでも云ふものに依つて、或る狀態の恆久に積み重ねられると云ふことを意味する。佛敎的の說明に、併しこれを譬へれば、一個のラムプの心から他のラムプの心へと燃え移つて行く炎の如きものである。かくして一百のラムプは一個の炎に依つて點される。そしてその間の炎はみな異つて居る、しかも其の本源は同一の炎である。各轉變無常の生命の空虛な炎の中に、只だ一つの實體の部分のみが包藏されてゐるのである。併しそれは輪𢌞する心靈ではない。生誕の度每に顏を出すのは、業――性質或は境遇――のみである。

 如何にしてかかる敎義が、少しでも道德上の影響を起こし得るかとは、當然發生すべき疑問である。未來が私の業に依つて、形成せられるとして、その未來は決して私の現在の自我とは同一ではないとすれば――また未來の意識が私の業に依つて展開されるとして、その未來が本質的に私とは別の意識であるとすれば、――どうして私は未だ生まれざる人間の苦痛を、考慮するやうに感じられ得よう。佛敎徒は答へて言ふ。『君の疑問は今度も亦間違つてゐる。此の敎義を理解しようといふには、君は個性の槪念を脫却しなければならぬ。そして個人を考へずに、感情と意識とのつぎつぎの各狀態は、互に其の次の發芽の原となり、生存の鎖は相互に結合されて居る――其狀態を考へなければならぬ。』 と……。私は今一つの說明を試みる事にする。一切の人間は、吾々が此の言葉を解する限りでは、絶えず變化して行くものである。肉體の各構造は、不斷の消粍と修理とを受けて居る。從つて此の瞬間の君の身體は、其の本質に於て、君の十年以前の身體とは同一でない。生理上から云つて、君は同一人ではないのである、それにも拘らず、君は同じ苦痛を嘗め、同じ快樂を味ひ、同一條件に依つて、其の力を制限されて居るのである。君の體內で、如何なる分解、如何なる改造が、其の組織の上に行はれようとも、君は十年以前の特性と等しき、肉體上竝びに精神上の特性を持つてゐるのである。君の腦細胞は、分解されたり、改造されたりして居る。が、しかも尙ほ君は同一情緖を經驗し、同一の追憶を囘想し、同一の思想を思惟する。到る處で、新鮮な實體は、換へられたもとの實體の性質と傾向とをとつて居る。かくの如か事情の固執してつき纏つて行くのが業に似てゐる。總體は變化しても、傾向の傳達は殘つて居る。――

 以上佛敎の形而上學の奇異なる世界を除いた、二三の瞥見はこれだけで十分であらう、大乘佛敎(多く論議されて、しかも理解さるれこと少き涅槃の敎義はこの內にある)が抽象的思念を作る事の殆ど出來ない幾百萬人の宗敎――宗敎的進化の比較的初期に於ける民衆の宗敎となり得なかつた事を、聰明なる諸君に納得せしめるに十分であつたらうと私は信じる。それは全然人々に理解されなかつた。又今日でも尙ほ人々に、敎へられては居ない。それは形而上學者の宗敎であり、學者の宗敎であり、哲學的に訓練されたる或る種の人々にとつてさへも、了解するに困難なる宗敎であるがために、それが全然否定の宗敎であると誤解されたのも無理のない事である。讀者諸君は今や個性ある神、靈魂の不滅、死後に於ける個性の存續等を否定するからと云つて、其の人を――特にその人が東洋人であつた場合――無宗敎の人と呼ぶのは當を得た事でないといふ事を了知し得たであらう。宇宙の道德的秩序、未來に對する現在の倫理的責任、一々の思想と行爲との無量の結果、惡の究極の絕滅、無限の記憶と無窮の幻想との境界に到達する力、等を信仰する日本の學者は、偏執か無智なる者の外、これを呼んで無神論者とか唯物論者とかと云ふ事はできない。日本の宗敎と、吾々西洋の宗敎との差異は、思想の象徴と樣式とに關する限り、如何に深大であるにしても。兩者が到達する道德的結論は、殆ど同一なるものである。

[やぶちゃん注:この最終章は、特異的に、小泉八雲の謂わんとする核心を理解するのに――私は――甚だ難渋した。部分的には、よく判らない箇所を無意識に判ったと思い込んでいる可能性もある。向後も、この章は――私にとって――聊か難物――であり続けるであろう。]

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