進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(二) 二 溫度による變異
二 溫度による變異
溫度が動植物の發育に直接の影響を及ぼすことは、最も明なことで、同一の植物でも、暖い處と寒い處とでは、葉の大きさ厚さなどに著しい相違がある。動物の方で特に面白いのは、溫度と彩色との關係で、蝶類の如きは寒暖の度に隨ひ、種々の異なつた色を呈する種類が甚だ多い。我が國に産する「あげは蝶」の類も、春出るものと夏出るものとでは、色も大きさも餘程違ふ。「ひおどし蝶」の類も溫度次第で、種々の斑紋・彩色を現し、從來二種或は三種と見倣されてあつたものが、飼養實驗の結果、同種に屬することの確に解つた例が幾らもある。前に第五章に掲げた黃蝶の如きもこれと同樣な例で、飼養實驗によつて、始めてその悉く一種であることが明に知れた。
[やぶちゃん注:「蝶類の如きは寒暖の度に隨ひ、種々の異なつた色を呈する種類が甚だ多い」所謂、「季節型」と呼ばれる季節性個体変異。中日新聞平針専売店 ㈱村瀬新聞店 大角守氏のサイト内の「季節型」にアゲハチョウを含め、何種かのそれが写真で掲載されているので、見られたい。
「あげは蝶」鱗翅目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae のウラギンアゲハ亜科 Baroniinae・ウスバアゲハ亜科 Parnassiinae・アゲハチョウ亜科 Papilioninae に属するアゲハチョウ類。我々が普通に目にし、イメージするそれはアゲハチョウ亜科アゲハチョウ族アゲハチョウ属亜属Papilio
(Sinoprinceps)アゲハ Papilio xuthus である。
「ひおどし蝶」アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科タテハチョウ族タテハチョウ属ヒオドシチョウ Nymphalis xanthomelas。
「第五章に掲げた黃蝶」「第五章 野生の動植物の變異(2) 一 昆蟲類の變異」に例示した鱗翅目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科シロチョウ科モンキチョウ亜科キチョウ属キチョウ Eurema
hecabe(但し、厳密には現行では二種。リンク先の私の注を参照されたい)。]
[「ひとりむし」の變異]
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。左右に番号が振られているのは、右手がページの綴じ込みで見難いかも知れないとの配慮に違いない。ちょっと感動した。丘先生! 素敵! 「ひとりむし」は本邦産種ならば、鱗翅目有吻亜目二門下目ヤガ上科ヒトリガ科ヒトリガ亜科ヒトリガ属ヒトリガ Arctia caja であるが、これは科レベル(Arctiidae)での、その仲間としておく方が無難であろう。]
斯くの如く、蝶類の色や模樣は溫度次第で種々に異なるもの故、人工的に溫度を加減して飼養すれば、夏に出るべき形のものを冬に造り、秋に出るべき色のものを春に造ることも、決して困難ではない。尚この方法によつて、實際天然には生存して居ないやうな變つた蝶を造ることも出來る。この種類の實驗で最も古く行はれたのは、已に前世紀の中頃であるが、たゞ溫度の高低によつて、蝶の彩色に種々の變異の起ることを實地に試驗しただけで、その新な性質が子に傳はるものであるや否やまでは試驗して見なかつた。その後今より十數年前に至つて、フィッシュルといふ人が頗る多數の材料を用ゐて同樣の實驗を試み、且溫度の高低によつて人爲的に造つた變種を更に繁殖せしめて、初めてかやうな後天的の性質が確に子に傳はることを證據立てたのである。次[やぶちゃん注:ここでは前に掲げた。]に示す圖の中で㈢は「ひとりむし」と名づける蛾の一種で、普通にはこの圖に見る如き斑紋が翅にあるが、之を卵の時から溫度を高くして育てると、終に成長して㈡の如き黑色の勝つた變種が出來る。次にこの黑色の勝つた變種に卵を生ませ、之を普通の溫度の所で飼育したら、㈠に示す如き蛾と成つた。これはその親なる㈡に比べると、黑い處が幾分か減じて居るが、㈢なる普通のものに比ベて見ると、尚著しく黑色が勝つて居る。卽ち、㈡なる親蛾は、溫度の高い所で飼育せられたために、その影響を受けて、普通のものよりは遙に黑色が勝つたといふ新な性質を獲たが、その産んだ卵を普通の溫度の所で育てて見て、それから出た蛾が、普通の㈢に比べて尚著しく黑いのは、全く以上の後天的の性質が親から子に傳へられたものと考へねばならぬ。從來用ゐ來つた普通の意味でいへば、之は確に後天的性質の遺傳であつて、若し之を遺傳と名づけぬとすれば、遺傳といふ字の意味を改めて、特別の極めて狹いものとせねばならず、隨つて從來遺傳と稱し來つたことの大部分は、その範圍以外に出てしまふであらう。
[やぶちゃん注:「フィッシュル」不詳。識者の御教授を乞う。]