子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十五年 糸瓜の水も間に合わず / ブログ「鬼火~日々の迷走」十三周年記念 全オリジナル電子化オリジナル注完遂
糸瓜の水も間に合わず
いよいよ最後の九月になった。「仰臥漫録」の「麻痺剤服用日記」は七月二十九日で絶えてしまったが、巻末に記された歌や俳句はその後も絶えなかったらしい。短歌では
九月三日椀もりの歌戲(たはむれに)寄隣翁(りんおうによす)
麩(ふ)の海に汐みちくれば茗荷子(みやうがこ)の葉末(はずゑ)をこゆる眞玉白魚(またましらうを)
というのが最後のものであろう。隣翁はいうまでもなく羯南翁である。
[やぶちゃん注:「仰臥漫録二」の『おくられものの歌數首「病牀六尺」の中にあり』と記した巻頭にあるもの。]
「仰臥漫録」には記されてないけれども、九月五日の「病牀六尺」に左の長歌が出た。
[やぶちゃん注:ブラウザでの不具合を考え、頻繁に改行して示した。後も同じ。以下は「子規居士」で校合したものを示した。後で初出(表記が異なる)を改めて示す。]
くれなゐの、旗うごかして、夕風の、
吹き入るなべに、白きもの、
ゆらゆらゆらぐ、立つは誰、
ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ、
人か花かも、花の夕顏
「くれなゐの旗」というのは、佐藤肋骨氏が天津から送って来た樺色の旗で、それが三二旒(にりゅう)床の間の鴨居にかけ垂(たら)してあった。この夕顔は前年「仰臥漫録」によく出て来た扁蒲(へんぽ)ではなしに、夜会草と称する鉢植の花の方である。彼の旗の下にこの鉢を置くと、また変った花の趣になる。「この帛(はく)にこの花ぬひたらばと思はる」といって詠んだのがこの長歌なので、これが最後の歌であった。
[やぶちゃん注:改めて初出で全部(「百十六」回分)を示しておく。
*
○暑き苦しき氣のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請にかしましき大工左官の聲もいつしかに聞えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉の膳おしやりあへぬ程に、向島より一鉢の草花持ち來ぬ。綠の廣葉う並びし間より七、八寸もあるべき眞白の花ふとらかに咲き出でゝ物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓に紙ぎれを結びて夜會草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るに其傍に細き字して一名夕顏とぞしるしける。彼方の床の間の鴨居には天津の肋骨が萬年傘に代へてところの紳董[やぶちゃん注:「しんとう」。地方の高位の身分の有識者らをさす。]どもより贈られたりといふ樺色の旗二流おくり來しを掛け垂したる、其もとにくだり[やぶちゃん注:「件(くだん)に同じい。]の鉢植置き直してながむれば又異なる花の趣なり。此帛に此花ぬひたらばと思はる。
くれなゐの、旗うごかして、夕風の、吹
き入るなへに、白きもの、ゆらゆらゆ
らく、立つは誰、ゆらくは何ぞ、かぐ
はしみ、人か花かも、花の夕顏
*
長歌中の清音はママ。なお、実は初出ではこの本文の後に、罫線が入り、四字下げで『鉢植の朝顏の明日の朝初めて』(改行)『咲くべきを蕾を見手よめる』という後書があるのであるが(現行の刊本にはない)、これは『日本』の編者が添えた半可通の添書きのように思われるが、如何?
「佐藤肋骨」(明治四(一八七一)年~昭和一九(一九四四)年:旧姓は高橋。養嗣子。肋骨は本名らしい)は後、陸軍少将で衆院議員・俳人。既出既注であるが、再掲しておく。『在外武官として』は二十『年余に及び、退役後は衆院議員、東洋協会理事、拓殖大学評議員、大阪毎日新聞社友などを務めた。支那通として知られ』、『「満蒙問題を中心とする日支関係」「支那問題」などの著書がある。近衛連隊に在職中五百木瓢亭、新海非風らに刺激されて俳句の道に入り、子規の薫陶を受けた。日清戦争で片足を失い』、別号を「隻脚庵主人」また「低囊」とも称した。『句集はないが』、『新俳句』『春夏秋冬』などに『多く選ばれている。蔵書和漢洋合わせて』三『千余冊と拓本』一『千余枚は拓殖大学に寄贈された』と、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」にある。
「樺色」(かばいろ)は赤みのある橙色。
「扁蒲(へんぽ)」「夜会草」孰れも通常、被子植物門双子葉植物綱スミレ目ウリ科ユウガオ属Lagenaria
siceraria 変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida のことを指す。宵曲はあたかも違う種類のように記しているが(食用の実を成らせることを専らの目的とした本種に対して、鉢植えにして専ら花を楽しむだけのために改良した品種の可能性もあるかも知れぬが)、私は全くの同一種と思う(子規の「病牀六尺」の記載もそう読める)。因みに、「仰臥漫録」の「二」に二枚の子規自筆の写生図が載る。私のこの本電子化注も最後なので、岩波文庫版に載るそれ(図のみ)を以下に転写する。
二枚目に「卅五年」/「九月三日写」/「夜会草ノ花」と手書きで添えてある。]
この年居士は「煮兎憶諸友歌(うさぎをにてしょゆうのうたをおもう)」をはじめ、比較的多くの長歌を作っている。八月には「おくられるものくさぐさ」六首があり、旱(ひでり)の歌二首がある。旱の歌が
天なるや旱雲(かんうん)湧き、
あらがねの土裂け木枯る、
靑人草(あをひとくさ)鼓(つづみ)打ち打ち、
空ながめ虹もが立つと、
待つ久に雨こそ降らめ、
しかれども待てるひじりは、
世に出でぬかも
といい、
旱して木はしをるれ、
待つ久に雨こそ降れ、
我が思ふおほき聖、
世に出でゝわをし救はず、
雨は降れども
といい、二首とも聖ということに言及しているのは注目に値する。
[やぶちゃん注:長歌は前と同様、恣意的に頻繁に改行した。
「煮兎憶諸友歌(うさぎをにてしょゆうのうたをおもう)」「国文学研究資料館所」の「近代書誌・近代画像データベース」内の高知市民図書館・近森文庫所蔵「定本 子規歌集」の「煮兎憶諸友」で画像で読める。
『「おくられるものくさぐさ」六首』上記画像でも続けて読め、一部は以前にその中の一つ、新免一五坊が子規に贈ったヤマメの返礼歌を「歌の写生的連作」の「一五坊」の注で示したが、このは全部が「病牀六尺」の「九十九」(八月十九日)に載る。初出をリンクさせておく。
「旱(ひでり)の歌二首」「国文学研究資料館所」の「近代書誌・近代画像データベース」内の高知市民図書館・近森文庫所蔵「定本 子規歌集」の「旱の歌 二首」で読める。それで以上は校合した。各句改行したのは、実は校合したものが、明らかに読点の後を一字分ほど空けているからでもある。
「あらがねの」枕詞。一説に、粗金(あらがね:精製されていない金属)が土中にあるところからとも、また、金属を打ちきたえる鎚 (つち) の縁で同音の「土(つち)」にかかるとも言う。
「靑人草」人民・民草のこと。「古事記」に出る上代語。「人が増える」ことを「草が生い茂る」のに譬えた語とされる。
「わをし」「吾をし」で「し」は強意の副助詞であろう。]
八月中の居士の手紙には、苦言忠告の書がぽつぽつ見えるが、九月に入ってからの「病牀六尺」にもまたそれがある。「近頃は少しも滋養分の取れぬので、體の弱つた爲か、見るもの聞くもの悉く癪にさはるので、政治といはず實業といはず新聞雜誌に見る程の事皆われをぢらすの種である」とあるように、癪に障った結果が「病牀六尺」に現れたのだとも解釈出来るし、何か目に見えぬ力が居士をしてこの種の文をなさしめたのだとも考えられる。
[やぶちゃん注:以上は「病牀六尺」の「百十九」(九月十日)の頭の部分。例の国立国会図書館デジタルコレクションの初出切貼帳のここで校合した。]
九月九日には左千夫、四方太、節(たかし)の諸氏が枕頭にあった。居士の足にはすでに水腫(すいしゅ)が来ており、病の重大なることを思わしめたが、煩悶叫喚の間にはいろいろ雑談の出る余裕があった。「病牀六尺」百二十二回(九月十一日)には足の腫(は)れたことからはじまって、当日の談片が材料になっている。
[やぶちゃん注:「百二十二」回を初出で示す。
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○一日のうちに我瘦足の先俄に腫れ上りてブクブクとふくらみたる其さま火箸のさきに德利をつけたるが如し。醫者に問へば病人には有勝の現象にて血の通ひの惡きなりといふ。兎に角に心持よきものには非ず。
四方太は八笑人の愛讀者なりといふ。大に吾心を得たり。戀愛小説のみ持囃さるゝ中に鯉丈崇拜とは珍し。
四方太品川に船して一網にマルタ十二尾を獲[やぶちゃん注:「え」。]而[やぶちゃん注:「しかも」]網を外はずれて船に飛び込みたるマルタのみも三尾あり、總てにて一人の分前[やぶちゃん注:「わけまへ」。]四十尾に及びたりといふ。非常の大漁なり。昨[やぶちゃん注:「また」。]隅田の下流に釣して沙魚[やぶちゃん注:「はぜ」。]五十尾を獲[やぶちゃん注:「え」。]同伴のもの皆十尾前後を釣り得たるのみと。その言にいふ釣は敏捷なる針を擇ぶことゝ餌を惜しまぬことゝに在りと。
左千夫いふ。性の惡き牛、乳を搾らるゝ時人を蹴ることあり。人之を怒つて大に鞭撻を加へたる上、足を縛り付け、無理に乳を搾らむとすれば、その牛、乳を出さぬものなり。人間も性惡しとて無闇に鞭撻を加へて教育すれば益〻其性を害ふて[やぶちゃん注:「そこなふて」。]惡くするに相違なしと思ふ。云々。
節[やぶちゃん注:「たかし」。]いふ。かづらはふ雜木林を開いて濃き紫の葡萄圃[やぶちゃん注:「ぶだうほ」。葡萄畑。]となさむか。
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「八笑人」は「花曆八笑人」(はなごよみはしょうじん:現代仮名遣)のこと。滑稽本。滝亭鯉丈(りゅうていりじょう ?~天保一二(一八四一)年)らの作。五編十五冊(第五編上巻は一筆庵主人作、中巻と下巻は與鳳亭枝成作)。文政三(一八二〇)年から嘉永二(一八四九)年にかけて刊行。気楽な江戸庶民の八人の仲間が集って、文化文政期に盛んであった茶番狂言を仕組むが、思わぬ手違いから美事に失敗するという筋を滑稽に描いたもの。「マルタ」は「丸太」で、条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属マルタ Tribolodon brandtii。ウィキの「マルタ」によれば、最大で五十センチメートル、千五百グラム程度にはなり、大型個体では『近縁種のウグイ』(ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)『より大型になる。ウグイとの違いは、オスの婚姻色(赤色縦条)がウグイは』二『本であるのに対し、マルタは』一『本しかないことである。自然の状態でウグイと』『容易に交雑するか』どうか『は不明である』。『主に沿岸部から河川河口部の汽水域に生息し、春の産卵期には川を遡上する遡河回遊魚である。幼魚は』一『年ほど河口付近で過ごし』、七~九センチメートル『ほどに成長して海に降る』。『寿命は』十『年ほどと比較的』、『長命である。動物食性で、貝類やゴカイ類、エビなどの甲殻類といった小動物を捕食する』とある。]
十日の『蕪村句集』輪講は居士の加わった最後の輪講である。前日より元気はなかったけれども、なお輪講が済んでから、かつて「病牀六尺」で評した鳴雪翁の句について、翁が『ホトトギス』で応酬したのに対し、切れ切れながら再駁(さいばく)するだけの気力を失わなかった。
十二日以後「病牀六尺」の記事が目立って短くなる。その文句も未曾有(みぞう)の苦痛を帯ぶるに至った。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。初出で校合した。]
百二十三
○支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以來晝夜の別なく、五體すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。(九月十二日)
百二十四
○人間の苦痛は餘程極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像した樣な苦痛が自分の此身の上に來るとは一寸想像せられぬ事である。(九月十三日)
百二十五
○足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石(だいばんじやく)の如し。僅(わづか)に指頭を以てこの脚頭に觸るれば天地震動、草木號叫、女媧氏(ぢよかし)未だこの足を斷じ去つて、五色の石を作らず。(九月十四日)
[やぶちゃん注:「女媧氏」古代中国神話で人類を創造したとされる女神。姓は風、文化文明の創造者伏羲(ふっき)とは兄妹又は夫婦とされ、二人が蛇身人首の絡みついた姿で描かれることがある。ウィキの「女媧」によれば、『女媧が泥をこねてつくったものが人類のはじまりだと語られている。後漢時代に編された『風俗通義』によると、つくりはじめの頃に黄土をこねてていねいにつくった人間が』、『のちの時代の貴人であり、やがて数を増やすため』、『縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている』。『『楚辞』「天問」にも「女媧以前に人間は無かったが女媧は誰がつくったのか」という意味のことが記されており、人間を創造した存在であるとされていた』。『また『淮南子』「説林訓」には』七十『回生き返るともあり、農業神としての性格をも持つ』。『伏羲と共に現在の人類を生みだした存在であると語る神話伝説も中国大陸には口承などのかたちで残されている。大昔に天下に大洪水が起きるが、ヒョウタンなどで造られた舟によって兄妹が生き残り、人類のはじめになったというもので、この兄妹として伏羲・女媧があてられる。このような伝説は苗族やチワン族などにも残されている』。『聞一多は、伏羲・女媧という名は葫蘆(ヒョウタン)を意味する言葉から出来たものであり、ヒョウタンがその素材として使われていたことから「笙簧」』(しょうこう:笙のようなリード楽器)『の発明者であるという要素も導き出されたのではないかと推論仮説している』。『『淮南子』「覧冥訓」には、女媧が天下を補修した説話を載せている。古の時、天を支える四極の柱が傾いて、世界が裂けた。天は上空からズレてしまい、地もすべてを載せたままでいられなくなった。火災や洪水が止まず、猛獣どもが人を襲い食う破滅的な状態となった。女媧は、五色の石を錬(ね)りそれをつかって天を補修し(錬石補天)、大亀の足で四柱に代え、黒竜の体で土地を修復し、芦草の灰で洪水を抑えたとある』とある。子規の「五色の石を作らず」とはそのカタストロフの天地の修復・再生・蘇生を引っ掛けた洒落である。阿鼻叫喚の痛みとともにこの期に至っても諧謔を忘れぬ子規は、やはり、タダモノではない。]
十四日の朝、前夜一泊した虚子氏に口授して文章を筆記せしめた。「九月十四日の朝」がそれである。居士は「病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持(もっ)てこの庭を眺めた事はない」といい、「何だか苦痛極(きわま)って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われた」といっている。一種いうべからざる沈黙の気が文章全体に添っていて、「たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚二枚だけびらびらと動く」というような小さな描写も、そのままには看過しがたいような気がする。納豆売が来たのを聞いて、自分が食いたいわけではないが少し買わせる。「余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるので、この小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極て少いのである。それでたまたま珍しい飲食商人が這入(はい)って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる」というのである。居士の心持はこの期に至っても決して曇っていなかった。
[やぶちゃん注:以上の「九月十四日の朝」の引用部は、口述筆記であることを考慮して、敢えて全くいじらず、底本のママとした。明治三五(一九〇二)年九月二十日発行の『ホトトギス』に掲載された。子規が没する前日である。「青空文庫」のこちら(「病牀に於て」の副題がある)で正字正仮名版が、こちらで新字新仮名版が読める。]
居士が世の中に通した文章としては、先ずこの一篇を最後のものと見るべきであろう。「病牀六尺」は十五日には出たが、十六日は休み、十七日の百二十七回分は西芳菲山人(ほうひさんじん)の来書を以てこれに代えた。山人も「病牀六尺」の二、三寸に過ぎず、頗る不穏なのを見て見舞を述べ、「俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」という狂歌を寄せ来ったのである。これが終に「病牀六尺」の最後になった。
[やぶちゃん注:「西芳菲山人(ほうひさんじん)」西芳菲(にしほうひ 安政二(一八五五)年~?:子規より十二歳歳上)は長崎生まれの理学士。東京帝国大学卒。工業学校長。教職の傍ら、狂歌などをよくし、正岡子規などとも交流があった。明治二二(一八八九)年二月十一日の大日本帝国憲法発布の日、森有礼文部大臣が暴漢に殺害された事件を題材にした狂句「ゆうれいが無禮のものにしてやられ」「廢刀者出刃包丁を橫にさし」を新聞『日本』に投句、これが後に同紙が川柳欄を開設する契機となり、明治新川柳の牙城となる端緒となった。後に彼は『日本』の時事句欄の選者ともなっている(以上は冨吉将平氏の論文「前田伍健の新出史料について」(二〇一六年十月発行の『松山大学論集』(第二十八巻第四号)の抜刷(PDFでダウン・ロード可能)に拠った)。達磨の収集家でもあったらしい。]
何か写生するつもりで画板に紙の貼ってあったのを、無言で傍に持ち来らしめ、
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
をとゝひのへちまの水も取らざりき
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
の三句をしたためたのは、十八日の午前である。これが居士の絶筆であった。
[やぶちゃん注:辞世三句は、全く別に、絶筆画像を見て、表記文字を比定した。句の提示順序は宵曲のそれに従った。因みに「へちま水」は鎮咳・利尿・むくみの除去などの効果があるとされ、古くから化粧水としても用いられた。]
この日はあまりものもいわず、昏睡状態が続いていたが、その夜母堂も令妹も、一人残って泊っていた虚子氏も、誰も気づかぬうちに、居士の英魂は已に天外に去っていた。あまり蚊帳の中の静なのを怪しんで居士の名を呼んだ時は、手は已に冷え渡って、僅に額上に微温を存するのみであった。時に九月十九日午前一時、虚子氏が急を報ずるために外へ出たら、十七夜の月が明るく照っていたそうである。
[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年九月十九日は前日十八日が満月で、子規が没する一時時間前のその日が旧暦八月十七日であったのである。]
『ホトトギス』第六巻第十一号は八月に出るはずのが出ず、九月二十日に至って漸く発行された。居士の文章は「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」及「九月十四日の朝」の二篇がこの号に載っている。
[やぶちゃん注:「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」既出既注。]
「天王寺畔の蝸牛廬」は「月の都」執筆当時の回想を述べたもので、以前に筆記してあったのが偶然この号に掲げられたのである。「子規子逝く。九月十九日午前一時遠逝せり」という簡単な広告を「九月十四日の朝」の余白に辛うじて組入れることが出来た。
[やぶちゃん注:先に示した「青空文庫」のこちら(「病牀に於て」の副題がある)の正字正仮名版の末尾に、
*
子規子逝く
九月一九日午前
一時遠逝せり
*
とある(字下げはママ)のがそれである。]
居士の遺骸は二十一日午前九時、滝野川(たきのがわ)村字田端大竜寺(だいりゅうじ)に葬られた。会葬者は百五十余名に及んだ。戒名は「子規居士」と定め、明治三十八年に至って羯南翁の筆に成る墓石が建てられた。
以上が子規居士三十六年の生涯の大体である。著者はここに至って更に結語や論讃めいたものを附加えようとは思わぬ。それは最初に予定した頁を超過したためばかりではない。居士の一生を要約して全体を結ぶような、適当な言葉を発見し得ないためである。
孫悟空のように一度伸した如意棒を、また縮めて耳の中に収める手際を有せぬ限り、この辺で筆を擱くより仕方があるまいと思う。
[やぶちゃん注:三段落前と二段落前の間の一行空けは底本のママ。以上が本書のコーダである。
「滝野川(たきのがわ)村字田端大竜寺」現在の東京都北区田端の真言宗和光山(わこうさん)興源院大龍寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ミネコ氏のブログ「本トのこと。」の「正岡子規のお墓参りと田端文士村記念館へ行ってきました」がバーチャルによい。
「子規居士三十六年の生涯」正岡子規は一八六七年十月十四日(慶応三年九月十七日)生まれで明治三五(一九〇二)年九月十九日であるから、満三十五歳に満たずして亡くなっている。
最後に。本章を以って私のオリジナルな柴田宵曲「子規居士」(「評伝 正岡子規」の原題)の電子化注を終了する。因みに、私はこの最終章の公開を、このブログ「鬼火~日々の迷走」の十三周年記念日(2005年7月5日始動)に合わせた。私のブログを愛読して下さる諸氏に心より感謝申し上げる――2018年7月5日朝 藪野直史――]