譚海 卷之二 同國本土寺竹田萬千代母堂墓の事
同國本土寺竹田萬千代母堂墓の事
○同國平塚と云(いふ)所に本土寺(ほんどじ)といふ日蓮宗有(あり)。寺格その宗門の上席也。日藏上人所持有(あり)し高祖のまんだら有、比類なきもの也とぞ。此寺に數百年に及ぶ古松あり。竹田萬千代母堂の墳墓なるを、戰國已來知る人なかりしに、水戸光圀卿往來ありし時此松を賞し給ひ、植直(うゑなほ)し然(しかる)べしとて掘返(ほりかへ)したるに、其下に石廓(せきかく)有、因(より)て右の墳墓なる事相知(あひし)れ、光圀卿碑文を製し給ひ、松下に安置あり。其石正面には秋山夫人墓とありて、殘り三面に碑文有、母堂は秋山氏也とぞ。
[やぶちゃん注:「同國本土寺」前条を受けて、「下總國」で、現在の千葉県松戸市平賀にある日蓮宗長谷山本土寺(ほんどじ)。ウィキの「本土寺」によれば、『池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗門の三長三本」(さんちょうさんぼん)(新潟県三条市の長久山本成寺を含めて四長四本ということもある)と称されている。「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上記』三『か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が含まれることによる』。『本土寺過去帳は、歴史を語る重要な資料である』。『本土寺は元々』、『日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡と伝えられ、後に日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立したとされている。後に日朗が本土寺として開堂供養した(実質的な開山は、日朗門人の日伝であったとする説もある』)。「平賀本土寺史要」によると、文永六(一二六九)年、『日蓮に帰依した蔭山土佐守が「小金の狩野の松原」の地に法華堂を建てたのが本土寺の起源という』。建治三(一二七七)年、『曽谷教信(胤直)が平賀郷鼻輪に法華堂を移し、日蓮の弟子日朗が開堂供養した。日蓮の直弟子である日朗、その異母弟にあたる日像(四条門流の祖)、日輪(池上本門寺』三『世)は平賀氏の出身で、平賀郷はこれら日蓮宗の祖師ゆかりの地であった』。延慶二(一三〇九)年、『曽谷教信の娘・芝崎(千葉胤貞の妻)より、土地の寄進を受け、寺が整備された。芝崎夫人は夫の胤貞の死後、出家し、日貞尼とも称される』。延文三(一三五八)年、『台風により、本堂が倒壊するが、その後再建された』。九世日意及び十世日瑞は『火災で焼失した本堂再建のための勧進事業をきっかけに布教を行い、地元の高城氏やその同族の原氏の支援を受けて寺を整備した』。『高城氏が小田原征伐で改易されると、徳川家康の』五『男で甲斐の穴山武田氏を継承した武田信吉が母の秋山夫人(家康の側室、於都摩)とともに小金城に封じられたが、間もなく』、天正一九(一五九一)年に『夫人が亡くなったため、十五世日悟がこれを厚く葬り、家康も朱印地』十『石を与えた』(下線太字やぶちゃん。以下同じ)。『本土寺は元々』、『不受不施派』(日蓮宗徒以外からの布施やそれへの法施を拒絶する日蓮宗のファンダメンタルな一派で江戸時代を通じて弾圧対象となった)『の影響が強く』、寛永七(一六三〇)年の身池対論でも十八世日弘が『参加している。ところが、江戸幕府が不受不施派弾圧の方針を取ったために、日弘は伊豆に流され、続いて』二十一『世日述も伊予国に配流された。その結果』、寛文五(一六六五)年に、『受不施派の久遠寺の支配下に組み込まれることになった』。『その後』、『派遣された』二十二『世日令の元で受不施派寺院としての改革が行われた。日令の』時代の貞享元(一六八四)年に『前述の秋山夫人の甥にあたる徳川光圀の申し出により』、『秋山夫人の墓が本堂脇に移されて参道の整備と寺領』二十『石』六『斗の寄進が行われている』。『その後』、享保二〇(一七三五)年から安政二(一八五五)年にかけて、『江戸浅草にあった末寺の本法寺での』五『度にわたる出開帳によって、寺の名は江戸でも知られるようにな』り、安政三(一八五六)年には末寺四院六坊七十五寺を数えた、とある。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る内容であるから、まさに最後に記されているような、本寺の再勃興期前期に当たる。
「日藏上人」誕生寺貫首九世日蔵上人(永正三(一五〇六)年入寂。「十世」ともするが、「誕生寺」公式サイト内のこちらの考証に従った)。
「高祖のまんだら」日蓮直筆の曼荼羅本尊(「南無妙法蓮華経」を中央に配した文字曼荼羅。軸装)。現存し、本邦の日蓮のそれでは三番目に大きいものとされる。『やさシティ、まつど』の『企画展「本土寺と戦国の社会」について』(PDF)で画像が見られる。
「數百年に及ぶ古松あり」本土寺公式サイトを見る限り、現存しない模様。
「竹田萬千代」前に出た通り、徳川家康五男武田(松平)信吉(のぶよし 天正一一(一五八三)年~慶長八(一六〇三)年)。ウィキの「武田信吉」によれば、『幼名は福松丸』、また『武田万千代丸。正しくは松平信吉であるが、同名の松平信吉がいるため、区別するため武田信吉と呼ばれる』。浜松生まれ。『母は甲斐武田氏家臣・秋山虎泰の娘・於都摩(下山殿・妙真院)。穴山信嘉(信邦、信君の弟)の妻であったとの説もある。一説には家康が側室に武田の血族を求めていたため、表向きは武田信玄の末娘として、信君の養女となり、家康に輿入れしたともいう』。天正一〇(一五八二)年三月の『織田・徳川連合軍の甲州征伐に際して、甲斐河内領主の穴山信君(梅雪)は織田・徳川方に臣従する。同年』六『月の本能寺の変に際して信君は上方で横死し、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱では穴山衆は家康に帰属した。穴山氏は信君と正室・見性院の子である勝千代(武田信治)が当主となるが』、天正一五(一五八七)年に十六歳で『死去したため、穴山武田氏は断絶』した。『信君は織田・徳川方に臣従する際に、武田家臣・秋山氏の娘である於都摩の方(下山殿)を養女として家康に差し出しており、於都摩の方は家康の側室となる。家康と於都摩の方の間には五男・福松丸(万千代丸)が生まれる。万千代は見性院が後見人となり、武田氏の名跡を継承させ、甲斐河内領のほか、江尻領・駿河山西・河東須津を支配させ、元服して武田七郎信吉と名乗らせた。ただし、家康が駿府城に移ったことで駿河国が徳川氏の本国となり、その関係で信吉の武田氏継承時に江尻領などは没収されたとする説もある』。天正一八(一五九〇)年二月から七月の『小田原征伐後、同年には家康の関東移封に従って下総国小金城』三『万石へ移る。信吉は松平姓に復し、松平信吉と改名する。豊臣秀吉の正室・高台院の甥である木下勝俊の娘を娶ったため、家康から秀吉への配慮もあり、信吉に領地を増やした』。翌天正十九年、『母が死去したため、見性院が信吉の養母となった』。文禄二(一五九三)年には下総国佐倉城十万石を与えられ、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では『江戸城西ノ丸にあって留守居役を務め』ている。慶長七年、『先の合戦で西軍に属した疑いをもたれた佐竹氏に替わり、その領地であった常陸国水戸』二十五『万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した』が、『生来病弱であったらしく』、慶長八年に二一歳で夭折した。『死因は湿瘡(痒みなどが激しく長く続くと死にいたる病)』とされる。『子女もいなかったので、これにより』、『武田氏は再び断絶した。なお、信吉に女子があるとの説があるが、もう一人の松平(藤井)信吉との混同の可能性が高い』。『水戸藩は異母弟の頼将(のちの頼宣)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖となる。信吉の家臣の多くは水戸家に仕えることになる。墓所は茨城県那珂市瓜連にある常福寺。法名は浄巌院殿英誉善香崇厳。後に甥にあたる徳川光圀により、瑞龍山に葬られた』とある。
「母堂」(永禄七(一五六四)年?~天正十九年十月六日(一五九一年十一月二十一日))は以上に出る徳川家康側室「秋山夫人」で、通称「下山殿(しもやまどの)」。ウィキの「下山殿」によれば、『名は都摩、津摩。秋山夫人とも称される』。『父は武田一門で家臣の秋山越前守』で、彼は江戸後期の「甲斐国志」に於いては『名を「虎康」としている』。「甲陽軍鑑」に『よれば、越前守は御一門衆・武田龍芳の家臣であったという。後に同族の穴山信君の養女となる。下山殿の由来は信君が甲斐国河内領の下山(身延町下山)に本拠である下山館を持っていたためであると考えられている』。天正一〇(一五八二)年、『穴山信君が織田氏に臣従した際に、織田氏と同盟関係にある三河国の徳川家康の側室とな』り、翌年、『家康の五男・万千代(武田信吉)を出産する。信吉は前の主君・武田信玄の娘で養父の正室である見性院の養子とした。良雲院と家康の間に生まれた家康三女の振姫の母も下山殿とする説もある』。『下総国小金にて死去。享年』二十八歳『(諸説あり)。戒名は長慶院殿天誉寿清大姉』。『同国平賀(現・千葉県松戸市平賀)の本土寺に葬られ』たとある
。因みに、脚注に「徳川幕府家譜」では『「武田信玄の六女」とする説を採り上げている』ともある。]