譚海 卷之二 江戸深川にて川太郎を捕へし事
江戸深川にて川太郎を捕へし事
○安永中江戸深川入船町にて、ある男水をあびたるに、川太郞其人をとらんとせしを、此男剛力なるものにて、川太郞を取すくめ陸(おか)へ引上(ひきあげ)、三十三間堂の前にて打殺(うちころ)さんとせしを、人々詫言(わびごと)して川太郞證文を出(いだ)しゆるしやりたり。已來此邊にて都(すべ)て河太郞人をとる間數(まじき)由、其證文は河太郞の手判を墨にておしたるもの也とぞ。
[やぶちゃん注:「安永」一七七二年~一七八一年。
「江戸深川入船町」現在の東京都中央区入船。旧京橋区の京橋地域内。ここ(グーグル・マップ・データ)。ああ、その頃には、まだ、江戸に河童が生き生きと生きて居たんだなぁ。
「川太郎」河童の異名。
「三十三間堂」江戸三十三間堂。江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目附近。ここ(グーグル・マップ・データ))にあった仏堂で本尊は千手観音であった。現在の入船町とは隅田川挟んで東へ二キロメートルほど行った位置であるが、隅田川の中で格闘して東へ流れて行って、ここで陸へ上がったものと思えば、不審なロケーションではない。ウィキの「江戸三十三間堂」によれば、『京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて』、寛永一九(一六四二)年に『弓師備後という者が幕府より』、『浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる』。翌寛永二十年四月の『落成では、将軍徳川家光の命により』、『旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った』。その後、元禄一一(一六九八)年の『勅額火事により焼失したが』、三年後の元禄十四年に『富岡八幡宮の東側』『に再建された。しかし』、明治五(一八七二)年、悪名高き神仏分離と廃仏毀釈によって、『廃されて堂宇は破却された』。『京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行した。記録達成者は「江戸一」を称した』とあり、寧ろ、剛腕の主人公が河童を平伏させ、詫び請文を書かせるに相応しいロケーションと言うべきであろう。]