明恵上人夢記 67
67
一、同廿四日の夜、夢に云はく、解脱の御房、來り給ふ。予、行水の爲に御湯帷(おんゆかたびら)を借り奉る。心に無禮(むらい)の思ひを作(な)す。卽ち、申し請ひて、御形見に擬(なずら)へむと欲す。時に、一つの作りたる蓮花を與へ、又、紙の裹物(つつみもの)を賜はる。此の蓮花は邪輪の如し。心に思はく、先日、又、賜はりきと思ふ。
[やぶちゃん注:「同廿四日」前条からの続きとして、「66」の四日後の承久二(一二二〇)年九月二十四日と採る。
「解脱の御房」底本注によれば、既に七年前に没している法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)である。ウィキの「貞慶」によれば、『祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。号は解脱房。釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たした。その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上した『興福寺奏状』の起草者としても知られる』。『祖父信西は』「保元の乱」(一一五六年)の『功により』、『一時権勢を得たが』、「平治の乱」(一一五九年)では『自害させられ、また父藤原貞憲も土佐に配流された』。『生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り』、十一『歳で出家叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ』。寿永元(一一八二)年、『維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って』建久四(一一九三)年、『以前から弥勒信仰を媒介として信仰を寄せていた笠置寺に隠遁した。それ以後般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し』、『弥勒講式を作るなど』、『弥勒信仰をいっそう深めていった』。元久二(一二〇五)年『には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めた。しかし、法然に師事したのが』(『その時は既に亡くなっていたが』)『貞慶の叔父(父貞憲の弟)の円照(遊蓮房)であった』ともある。承元二(一二〇八)年、『海住山寺に移り』、『観音信仰にも関心を寄せた』。彼の没後の建長五(一二五三)年に『書かれた「三輪上人行状記」に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作』の『薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され』て『行ったとあるように』、『慶円三輪上人とは無二の親友であった』とある(下線太字やぶちゃん)。明恵が法然が没する建暦二(一二一二)年に法然批判の書「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著し、翌年にも「摧邪輪荘厳記」を著して追加批判をさえしていること、明恵が建久元(一一九〇)年に法然が「選択本願念仏集」を著わすまでは、四十歳も年上の法然を非常に高く評価し、尊敬もしていた事実と強い親和性を持つ人物であると言える。なお、明恵の歌に、
解脱上人の御許へ、花嚴善知識の曼荼羅、
かきて送りたてまつり給ひけるついでに
善知識かきたてまつるしるしには 解脱の門に入らむとぞ思ふ
という一首がある。底本注によれば、「花嚴善知識の曼荼羅」とは、「華厳経入法界品」に『説く、善財童子の求法を描いた曼荼羅』とある。
「行水」これは禊(みそぎ)を暗示させるものであろう。
「湯帷(ゆかたびら)」「湯帷子」。平安以後の上層階級で入浴時又は入浴後に着た麻の単 (ひとえ)麻や木綿でしつらえた。ここは入浴(禊)の際のそれであろう。
「無禮(むらい)の思ひ」湯帷子を借りたことを無礼なことであったとする、明恵の内心忸怩たる思いを指すと採る。
「申し請ひて、御形見に擬(なずら)へむと欲す」懇請した湯帷子が貰えたのか、貰えなかったのかは書かれていない。無論、貰えたのであろうが、寧ろ、夢の中では、その湯帷子が「作り物の蓮華」及び「裹物」に変ずるのだとした方が私は「夢」らしいという気がする。
「此の蓮花は邪輪の如し」「邪輪」は「よこしまな誤った法説」の意であり、前に「一つの作りたる蓮華」とあるから、これは「作り物」「紛い物」の偽の「蓮華」で、法然の専修念仏の虚説をシンボライズする黒アイテムであろうか? 則ち、ここで貞慶がその似非物の蓮華を明恵に与えるのは、専修念仏への論難を明恵が正当に受け継ぐことの象徴であり、「裹物」は正法(しょうぼう)の白アイテムであろうように私には見える。]
□やぶちゃん現代語訳
67
承久二年九月二十四日の夜、こんな夢を見た――
解脱の御房が私のもとへと来られた。
私は、その時、禊(みそぎ)の行水をしようとしたが、自分の湯帷子(ゆかたびら)が何故か手元になかったため、解脱上人さまの御湯帷子を、乞うて、借り申し上げた。が、しかし、そのことについて、内心、無礼な気が強くしてならなかった。
そこで、言上申し上げて、強いて請うて、その御湯帷子を上人さまの御形見に擬(なぞら)えて、頂戴したい旨、強く望んだのであった。
すると、その時、上人さまは、一つの、如何にも作りものであることが判然としたちゃちな蓮花を私に与え、また、紙で包んだ「ある物」を賜はられた。
この蓮花はまさに邪輪――邪法――そのもののようなものなのであった。
私はその時、心の中で、確かに、思ったのだ。
『先日もまた、これを私は、上人さまから、確かに、賜はったのであったなあ。』
と。