諸國里人談卷之四 錢掛松
○錢掛松(ぜにかけまつ)
勢州窪田と椋本(むくもと)の間、豐國野(とよくの)にあり。相傳ふ、むかし、參宮する人、此㙒埜〔の〕の長きに倦(あき)て、「此松原は行程(みちのり)何(なに)ほど、ある」と、とふ。里人、たはむれて、「十日行〔ゆく〕、豐國野、七日行、長野の松原」といふに茫然(あきれ)て、一貫文の錢(ぜに)を此松がえ[やぶちゃん注:ママ。]にかけて、玆(こゝ)より、大神宮を拜(おがみ)て、國へ歸りける。他(た)の人、彼(かの)錢を見るに、蛇の蟠(わだかま)りたるやうにおもひて、あへて取(とる)人、なし。彼(かの)もの、故鄕へ歸りて後、あざむかれたる事をきゝて、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]思ひ、又、參宮してこれを見れば、かけたる錢、そのまゝにして、ありける。これによつて此名ありと云〔いへ〕り。
[やぶちゃん注:本件は柴田宵曲「續妖異博物館」の「巖窟の寶」や、同「續妖異博物館 錢と蛇」で詳細を考証済みなので、そちらを参照されたい。そちらの方が怪奇談性がよく出ているのに対し、沾涼の叙述はここでは擬似笑談奇談に終っていて、ショボい。
「豐久野」現在の三重県津市芸濃町椋本豊久野(とよくの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。伊勢神宮までは直線で四十八キロメートルほど。
「長野の松原」これは嘘の距離を誇大に表現するためのもので、地名ではないように思われる。
「一貫文」一貫文は千文で、江戸初期から中期にかけての金一両(四千文)は十万円相当とされるので、二万五千円に相当(但し、幕末にかけては激しいインフレに見舞われ、一貫文は七千円程度まで下落した。以上はネットのQ&Aサイトの回答に拠った)。]