譚海 卷之二 安永九年房州へ南京の舶漂着の事
安永九年房州へ南京の舶漂着の事
○安永九年四月、房州南浦へ漂着船あり、南京の人也。船の長さ廿八間有、朱欄金碧(しゆらんきんぺき)の飾(かざり)等所々損じたれ共(ども)美麗也とぞ。船中の人七十八人あり。船は大なるものゆゑ、其まゝ浦に差置(さしおき)、船中の人は殘らず相州浦賀へ御引取被ㇾ成(なられ)、御扶持米下され、程なく歸國被二仰付一(ほせつけられ)、船は其浦にて燒捨(やきすて)られたりとぞ。大岡兵庫頭殿領分の海邊也。
[やぶちゃん注:「安永九年」一七八〇年。
「四月、房州南浦へ漂着船あり、南京の人也」「南浦」は地名ではなく、「南の浦邊」の意であろう。私は「みなみのうら」と訓じておきたい。「館山市立博物館」公式サイト内の「南京船房州沖漂着一件」に、
《引用開始》
安永9年(1780年)4月末、房州千倉浦(南房総市)へ中国の交易船「元順号」が漂流、座礁するという事故がありました。外国船漂流者の扱いには規則が多いなか、近隣の村人たちは大暴風にもかかわらず、乗員78人全員を救助します。当初は、漂着地域の領主であった岩槻藩が対応にあたり、やがて幕府代官に引き継がれました。海岸には竹矢来の囲いを設けて、全員を仮小屋三棟へ囲い込み、その周囲には役人が詰める番所が設置され、人足が詰める番屋も置かれました。
北は安馬谷・白子から南は白浜(共に南房総市)までの村々21か村では、米などの食料や竹木・縄・俵などの資料を提供し、炊出しや小屋番などの人足を出して世話をしています。やがてその範囲は広がり、犬石村や中里村(館山市)などでも人足を出すようになりました。7月2日に館山から海路で長崎へ向かい、帰国するまでのあいだ、61日間の滞在でした。
この一件についての記録は多く残されており、房総各地でも、船主沈敬贍{ちんけいせん}の書を所蔵するお宅が館山市内にあるほか、館山にいた当時の絵師勝山調{かつさんちょう}のように乗員が落していったカルタを手に入れ、元順号の絵を描き残した人物もいるなど、大勢の見物人がいたようです。江戸から近いこともあってこの事故への関心は高かったようです。
《引用終了》
とあり、検索を掛けると、ここに記された通り、「安永九年安房千倉漂着南京船元順號資料」とする出版物もあることが確認出来る。また、「船の科学館」のこちらで、「安永九年 房州朝夷浦漂着南京船図」とする絵図を見ることが出来、そこで漂着船のクリアーな絵とともに、詳細データが墨書されているのも見られる。確かに「美麗」である(必見)。
「船の長さ廿八間」五十メートル九十センチメートル。前注リンク先の絵図では「舩長九丈二尺」(二十七メートル八十七センチメートル弱。幅)とあり、えらく短いのは不審。絵図の方の数値が信憑性が高いと思われる。
「大岡兵庫頭」武蔵国岩槻藩(武蔵国埼玉郡、現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田にあった藩)第二代藩主大岡忠喜(ただよし 元文二(一七三七)年~文化三(一八〇六)年)。ウィキの「大岡忠喜」に、この時、『岩槻藩の飛び地である安房国朝夷郡に清国の商船が漂流すると、郡奉行であった藩士の児玉南柯を派遣して対応している』とある。]