諸國里人談卷之三 風穴
○風穴(かざあな)
泉州和泉郡牛滝山に岩窟(いわはや)あり。深さ量(はかり)なし。常に烈風あり。よつて風穴と号す。當山は役行者(ゑんのぎやうじや)の草創なり。弘法大師・惠亮(ゑりう)和尚の經歷する所なり。大威德寺といふ。大瀧三つあり。一の滝【二丈。】・二の滝【十丈。】・三の滝【四丈。】。
叡山の惠亮和尚、此山にて大威德の法を修(しゆ)せられし時、大威德尊、三の滝より出現ありしと也。其乘(のり)たる所の牛、石に成(なり)て伏せるがごとし。其長サ、四丈。よつて「牛滝」と云。又、風穴は諸國に多し。
[やぶちゃん注:「泉州和泉郡牛滝山」「大威德寺」現在の大阪府岸和田市大沢町にある天台宗牛瀧山(うしたきさん)大威徳寺。紅葉の名所として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大威徳寺」等では『牛滝山の山中にある』とするが、国土地理院の地図やグーグル・マップでは「牛滝山」の名は見えない。西南の後背地の二つのピーク(葛城山へ続く)辺りかと思ったが、多くのネット記載を見ると、圧倒的にこの寺自体を牛滝山と呼んでいるので、これ以上、調べる気がしなくなった。悪しからず。
「岩窟」三井寺の公式(?)ブログ「修験の道」の「妙経法師品第十、大沢神福寺跡、高座山轉法輪寺」に『葛城嶺中記 国立国会図書館蔵版』(調べたところ、「葛城嶺中記」というのは修験文書で天文一四(一五四五)年の成立らしい)として(思惟的に漢字を正字化し、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂した)、
*
牛瀧、石藏王山。法師品第十、一千百六十三字。大威德の瀧有り。峯分けて二十丁、藏王湧出地なるべし。この嶽に如法經。口傳有り。野多輪、忍辱岩。次、大に入りて釋迦の御鉢有り。惠比壽、行者、百濟國持ち來たれり。韋駄天、聖天、辨才天、三天を祝惠りて[やぶちゃん注:二字で「はふりて」と訓じているか。]如意寶珠と譽へ不問[やぶちゃん注:その由緒は語らていない、の意か。]。次、求聞持堂。行者堂、大威德が本尊也。御戸の内に牛の玉、馬の桶有り。本尊の寶也。
大威德、惠良和尚の作。不動は行者の御作也。
奧に不動の瀧有り。惠良[やぶちゃん注:「惠亮」の誤字か。]、會ひ奉り行動石高座、四尺餘方の石、此の上にて大威德を作れり。湧出し玉へし時、惠良、是を見玉ひ形を作れり。瀧大日、岩通の岩屋と行者云へり。之に依り爰にて惠良、如法經を行ぜり。後、一切諸經の文を問答へる所也。行者七寶の寶、岩堀に有りと云ふ也。
*
とあり、「忍辱岩」(にんにくいわ)「岩通の岩屋」や「岩堀」(しかしこれは地名らしい)に、この風穴らしきものを感じることは出来るが、現在の大威徳寺の記載には「風穴」の記載は見当たらないようである。「風穴学習会資料―2」の、風穴の専門家阿部勇氏の書かれた「風穴の歴史 Ⅱ ―風穴利用の起源を求めて―」(二〇一六年・PDF)には、『最近、江戸時代の風穴に関する記録が、上田市塩田地域の旧家で発見された』。『この記録の付箋には、文化十一年』(一八一四年)『一月二十三日に書写されたとの注記があるので、文書はこの年より前に記されたされたものであることがわかる』として、まさにここの風穴の叙述が載り、『現地へ行って調査したいという思いにかられる』と書いておられるのであるが、リンク先を見て戴くと判るが、残念ながら、その新発見という文書は明らかに本「諸國里人談」の文章を写したに過ぎないことが判明する(本書の刊行は寛保三(一七四三)年)。専門家でさえこう書いてしまう以上は、この「風穴」なるものは、少なくとも現存しないのではないかとさえ私には思われるのである。識者の御教授を乞う。
「恵亮」(えりょう 弘仁三(八一二)年(或いは延暦二一(八〇二)年とも)~貞観二(八六〇)年)は平安前期の天台宗の僧。信濃国水内郡の人。比叡山に入り、義真から戒を受け、円澄に従う。定心院十禅師・惣持院十四僧の役を勤め、円仁から三部大法の灌頂を受けた。内供奉十禅師として清和天皇を護持したことで知られ、同天皇(惟仁親王)が惟喬親王と立太子を争った際には、本文に出る呪殺祈願として知られる秘法「大威徳法」を修したとされる。貞観元(八五九)年に賀茂神・春日神のために延暦寺の年分度者(毎年一月得度にあずかる一定数の者)の二名増を申請して許され、西塔宝幢院の検校となったが、翌年、洛東の妙法院で遷化した。「大楽大師」と称された(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「二丈」六メートル六センチ。なお、これらの瀧は現存する模様。
「十丈」約三十メートル三十センチ。
「四丈」十二メートル十二センチ。
「大威德尊」大威徳明王。密教特有の尊格である「明王」の一尊。五大明王の中で、西方の守護者とされる。]