フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2018年7月 | トップページ | 2018年9月 »

2018/08/31

甲子夜話卷之五 12 鍋嶋勝茂、御勘氣に就て寺建立幷西國衆寄進帳

 

5-12 鍋嶋勝茂、御勘氣に就て寺建立西國衆寄進帳

鍋島氏、關原の役に敗れて、やうやうに歸國し、色々に御詫をせしが、本領安堵なを覺束無き樣子により、足利學校を憑み、手を盡して陳謝し、久して後始めて御憤り解たりと也。此忝さに、圓光寺を【寺は京にあり。乃足利學校の本寺なり】、別に佐嘉の城下に新刱し、弟子を請て住職せしめ、今に其侯の壇緣第一の寺院たり。當年新創の時の寄進帳を、寺に祕藏するに、加藤、黑田の面々を始め、名高き輩は不ㇾ殘寄進に入りて、材木何千本、銅何百斤、銕何萬貫目などゝの寄附なりと云。足利學校の御眷顧を蒙るによりて、皆其爲めにしたることと聞ゆ。鍋嶋は敗軍の將なる故、止事を得ざるとも云べし。其餘御家に力を戮せたる輩まで、恐怖の餘りやはりかゝる事迄もせしは、當年御勢の雄偉なること、誠に推し知るべく、猛將と聞へし輩にても、諂諛風靡の有樣は、想ひの外なるものにて、人情はいつもかはらぬものなるべし。同上。

■やぶちゃんの呟き

最後の「同上」とは、前の「5-11 神君御花押の事」の末尾の「林氏」(林述斎)「話」の「同上」。

「鍋嶋勝茂」(天正八(一五八〇)年~明暦三(一六五七)年)は肥前国佐賀藩初代藩主。ウィキの「鍋島勝茂によれば、龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男。天正一七(一五八九)年)、豊臣秀吉より豊臣姓を下賜され、慶長二(一五九七)年からの「慶長の役」では『父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では当初、『西軍に与し、伏見城攻めに参加した後、伊勢国安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力の一人として行動した。しかし、父・直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、立花宗茂の柳川城、小早川秀包の久留米城を攻撃した。関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に』、『黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵を認められた』。慶長一九(一六一四)年からの「大坂の陣」では『幕府方に属した』。寛永一四(一六三七)年から「島原の乱」にも『出陣するが、家臣が軍律違反を犯したため』、『幕府に処罰され』てもいる、とある。

「足利學校を憑み」「憑(たの)み」。これは、鍋島勝茂の旧家臣の中に、足利学校第九世庠主(しょうしゅ:学頭。校長)で、徳川家康のブレーンともなった臨済僧三要元佶(さんようげんきつ 天文一七(一五四八)年~慶長一七(一六一二)年)がいたことによるものと思われる。ウィキの「三要元佶によれば、『現在、一般的には閑室元佶とよばれている』。『肥前国(現在の佐賀県)において』、『小城郡晴気城主・千葉氏の家臣・野辺田善兵衛の子として生まれる。父・善兵衛はもともと千葉胤連の家臣であったが、後の佐賀藩祖・鍋島直茂が、養家の千葉氏から実家の鍋島氏に復籍する際、胤連から直茂に与えられた』十二『人の家臣のうちの』一『人であった。なお、実弟・善兵衛も直茂の家臣となった』。『幼少時に都に上り、岩倉の円通寺で得度する。足利学校第』九『世の庠主となるが』、「関ヶ原の戦い」の『折には徳川家康の陣中に随行し、占筮によって功績をたてた』。『江戸幕府開府後、以心崇伝とともに徳川家康のブレーンとして寺社奉行の任にあたり、西笑承兌』(さいしょう(せいしょう)じょうたい)『の後を引き継いで』、『朱印状の事務取扱の役目に就くなど、朱印船のことにも関わった。また、家康によって伏見の修学院に招かれ、円光寺の開山ともなり、伏見版の出版に尽力した』。『晩年は、鍋島直茂より』、『故郷に三岳寺を寄進され、家臣(寺侍)の谷口杢太夫(三岳寺の僧石井浄玄の実父)らを随えて、三岳寺に赴いた』とある人物である。

「久して」「ひさしくして」。

「解たり」「とけたり」。

「此忝さに」「このかたじけなさに」。

「圓光寺」現在の京都市左京区一乗寺にある臨済宗瑞巌山(ずいがんさん)圓光寺。南禅寺派の寺院。開山は閑室元佶、開基は徳川家康。ウィキの「円光寺京都市左京区)によれば、『当寺では徳川家康の命により、日本における初期の活字本の一つである「伏見版」の印刷事業が行われた』。『家康の命により』慶長六(一六〇一)年に足利学校第九代庠主であった『閑室元佶を招き』、『伏見城下に円光寺を建立したことに始まる。その後、京都御所北辺の相国寺内に移』り、さらに寛文七(一六六七)年に『現在地に移された』。『円光寺は学校の役割も果たし、家康から与えられた木活字を用いて、『孔子家語』(こうしけご)『貞観政要』(じょうがんせいよう、貞観参照)、『三略』などの儒学・兵法関連の書物を刊行した。これらの書物は伏見版、あるいは円光寺版と呼ばれ、そのとき使用された木製の活字が保存されている。その数は約』五『万個にのぼり』、これはまさに『日本最古の活字であり』、『重要文化財となっている』。『他に本尊の千手観音像や開山像、円山応挙筆の雨竹風竹図屏風などがある』とある。公式サイト歴史も読まれたい。

「乃」「すなはち」。

「足利學校の本寺なり」こういう言い方は少なくとも現在の記載には認められない。上記圓光寺公式サイトによれば、『徳川家康は内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し』、『学校とし』、『圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず』、『入学を許した』とあるから、足利学校が本校で、こちらが分校というのなら、判る。一方、足利学校は寺ではなく、あくまで僧俗の学ぶ学校・文庫であり、歴代の庠主が概ね臨済僧であったことを考えれば、その庠主三要元佶が開山となった圓光寺は足利学校の「本寺」的存在であったとも言えるようには思う。

「佐嘉」「佐賀」。

「新刱」「しんさう(しんそう)」「刱」は「始める」の意。

「今に其侯の壇緣第一の寺院たり」先の引用に出た、現在の佐賀県小城市小城町池上にある三岳寺のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。

「加藤」加藤清正。

「黑田」黒田長政。

「銕」「てつ」。「鐡」に同じい。

「眷顧」「けんこ」。特別に目をかけること。贔屓(ひいき)。

「戮せたる」「あはせたる」。「戮」には「殺す」以外に「力を合わせる」の意がある。

「當年御勢の雄偉なること」当時の三要元佶の背後にあった家康のそれを指していよう。

「諂諛」「てんゆ」。諂(へつら)うこと。

反古のうらがき 卷之一 母を熊と見る事

 

    ○母を熊と見る事

 予が家より北に、榎町といへる所ありて、組屋敷なり。その中程に明屋敷(あきやしき)ありて、今に人の住(すむ)事なし。

 百年ばかり跡の事かとよ、同心何某といへる人、或時、外より家に歸りけるに、燈火、かすかに見へて、留守を守るは其母なり。

「今歸り侍る。」

といへど、音もなし。

 入(いり)て見てければ、いとも大きなる熊の、打伏(うちふ)してありければ、矢庭(やには)に、刀もて、一打(ひとうち)に切付(きりつけ)たり。

「あ。」

と、いいて[やぶちゃん注:ママ。]、おき上るを、おこしも立(たたさ)ず、切伏(きりふせ)たり。

「母人、母人。」[やぶちゃん注:後半は底本では「々々」。]

と、いく聲か呼(よび)たれども、答(こたへ)、なし。

 隣あたりより、集りて、

「何事にや。」

と、とふに、

「今、家の内に、大熊、入(いり)てあれば、打留(うちとめ)たり。人々、見玉へ。」

とて、よりて見れば、熊にはあらで、母なり。

「こは、いかに。」

とて、いだきおこしけれども、深手、數箇所なれば、はや、事切(こときれ)たり。

 人々、

「親殺しよ。」

とて取圍(とりかこ)み置(おき)て、其事は頭(かしら)つかさにつげたり。

 自(みづ)からも生(いく)べき罪にしもあらぬこともしりたれば、尋常に、おきての如く行はれける。

[やぶちゃん注:以下は底本も改行している。]

 此人、常にかゝる惡事なすべき人にもあらざりけれども、如何なる因果の報ひにや、母を熊と見しより、打留(うちとめ)たれば、是非もなし。もし實(まこと)の熊ならば、打取間敷(うちとりまじき)ものにもあらず、されども、人家多き所に熊の入(いる)べき理(ことわ)りもなし。又、入間敷(いるまじき)と定(さだめ)たる事にもあらず。

 打留たるは、是非なし。但し、狂氣の俄におこりし事なるべけれども、かゝる大逆(だいぎやく)となりしは、口惜しきことなりけり。

 されば、妖恠は多くは眼の眩惑(げんはく[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])して、『恠しき物を見るよ』と心得て、打留ざる方(はう)、武士の心懸(こころがけ)なるべし。妖怪は打留て、させる手柄にもあらず、驚(おどろき)おそれて逃(にぐ)る事さへなくば、手出しせぬこそ、よけれ。もし、飛(とび)かゝりて喰殺(くひころ)さんとせば、其時こそ、日頃の嗜(たしな)みもあれば、妖恠に取らるべきこともあるまじ。實(まこと)の妖怪も手取(てどり)にこそすべけれ。刄物用ゆるは第二義(だいにぎ[やぶちゃん注:底本のルビ。])【にのつぎ】なり、まして心の迷ひより出(いづ)る恠を哉(や)[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:前半は臨場感を出すために、後半は読み易さを考えて改行を施した。

「榎町」既出であるが、再掲しておくと、底本の以前の条の朝倉氏の注に、『新宿区内。榎町御先手組屋敷があった』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「百年ばかり跡の事かとよ」「百年ほども前の、昔の出来事とか言うようだ」。この言い方と、えらく昔の出来事なれば、都市伝説の可能性が高い。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃(第十二代将軍徳川家慶の治世)であるから、単純計算なら、延享五・寛延元(一七四八)年~寛延三年前後で、第九代徳川家重の治世である。

「おこしも立(たたさ)ず、切伏(きりふせ)たり」読みは自然な感じにするための、私の推定訓。

「母人」「ははびと」と訓じておく。

「頭(かしら)つかさ」この主人公は「同心」とあり、榎木町が御先手組屋敷であったことから考えると、御先手組の統括者である先手頭のことと考えてよいように思われる。

「自(みづ)からも生(いく)べき罪にしもあらぬこともしりたれば」江戸時代の親殺しは主(しゅう)殺しに次ぐ、最大級の重罪(刑法の旧尊属殺人。養子でも同じ)とされ、如何なる事情があっても、情状酌量の余地は一切なく、磔獄門となった。しかも彼が武官で、荒っぽいことで江戸庶民から恐れられた御先手組同心であれば、なおのことである。

「母を熊と見しより」単なる錯誤(誤認)とは思われない。急性の統合失調症或いは内因性脳疾患による強い幻覚症状によるか。

「入間敷(いるまじき)と定(さだめ)たる事にもあらず」熊が榎木町の人家に絶対に侵入しないと決まったものでもないことである、の意。無論、自然のツキノワグマが江戸にいることはないにしても、香具師が興行のために捕まえて市中に持ち込むことは普通にあったから、それが逃げて、入り込むことを考えれば、絶対ない、とは言えない。

「口惜しきこと」被害者にとっても親殺しになってしまった子の同心双方にとって「残念なこと」である。

「眩惑(げんはく)」歴史的仮名遣でも「げんわく」。目が眩(くら)んで正しい判断が出来なくなること。

「妖怪は打留て、させる手柄にもあらず」「妖怪は打」ち「留」め「て」も「させる手柄にもあら」ざるものにして。

「驚(おどろき)おそれて逃(にぐ)る事さへなくば」やや判りにくいが、「あまりの驚きと怖ろしさのために、居ても立ってもいられず、自分の家であってもそこから逃げ去らざるを得ないような事態でない限りは」の謂いであろう。要は、多少、奇怪な存在や現象であっても、直接の人的・物的な損傷を伴う危険性が殆んど認められないものなのであれば、というような感じである。

「日頃の嗜(たしな)み」武士としての常日頃の武芸の鍛錬。

「手取(てどり)」素手或いは棒などの鈍体を用いて制圧或いは確保すること。

「まして心の迷ひより出(いづ)る恠を哉(や)」最後の「を哉」は間投助詞「を」+間投助詞「や」の「をや」で、程度の低いものを述べた後、程度の高いことを類推させて、これを強調する、漢文訓読的用法。「まして、本人の心の迷い(ここは神経の違乱・乱心)から生じた幻覚としての怪異となれば、これ(相手を殺傷するような刃物を用いてはいけないこと)はもう、言うまでもないことである」。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(53) 忠義の宗敎(Ⅰ)

 

  忠義の宗敎 

 

 『社會學原理』の著者は曰ふ、『武權專制の社會は、自分等のその社會の勝利を以て、行動の最高目的とする一種の愛國心を有する必要がある。彼等は權力者への服從心の源泉である忠義の心を收攬して居る必要がある、――而して、彼等の從順なるがためには、彼等は充分なる信仰を有たなければならぬ』と。日本人の歷史は鞏固にこの眞理を例證してゐるものである。いづれの他の人民の間にあつても、忠義の念が、この國民以上に感銘を與へるやうな且つ異常な形を採つた事は未だ曾てない事である。又いづれの他の人民の間にあつても、その服從心がこれ以上の信仰を以て培はれた事はない、――信仰とは祖先の祭祀から出た信仰である。

[やぶちゃん注:「社會學原理」既注であるが、再掲しておくと、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の『総合哲学体系』(“ System of Synthetic Philosophy ”)全十巻の第三巻“Principles of Sociology”(一八七四年~一八九六年)。

「收攬」人心等を捉えて、手中に収めること。]

 讀者はお解りの事と思ふ、如何にして孝道の敎へ――服從に就いての家族的な宗敎なる孝道――社會の進化と共に擴がり、且つ頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]それが分かれて社會の要求した政治的服從竝びに戰略が要めた[やぶちゃん注:「もとめた」。]軍事的服從――その服從の意のみでなく、情をこめたる服從であり――責任の感のみでなく、本分を守るといふ情である――となるかを了解された事であらう。その起原から考へて、かくの如き本分を守るといふ服從はその本質上宗敎的である、そして忠義の感に表はれた場合、それは尙ほ宗敎的性質を有つてゐる――一種の自己獻身の宗敎の不斷の表明となつてゐる。忠義の感は早く武人の歷史の中に發達して居て、吾々は最古の日本の年代記の中に、その感動すべき例を見るのである。吾々はまた恐るべき話を知つて居る――自己犧牲の話を。 

 家臣はその天孫である領主から總てのもの――理論上計りでなく實際に、則ち持物、家庭、自由及び生命を――貰つて居た。これ等の物の一部又は全部を、家臣は領主のためには、要求に應じて苦情を言はずに、提供しなければならなかつた。而して領主に對する義務は、自家の祖先に對する義務と同樣、主人が死んでもなくなるものではなかつた。兩親の亡靈がその生きて居る子供達に依つて食物を供へられる通りに、領主の靈魂も、その在世中直接その服從して仕へてゐた人々に依つて禮拜を以て奉仕されるべきであつた。統治者の靈魂が、何等從者を伴なはずして、只だ一人影の世界に人つて行く事は、許すべからざる事であつた。少くともその生存中仕へてゐた者の幾人かは、死んでその人に從はなければならなかつた。かくの如くして上古の時代には生贄の習慣――初めは義務的に、後には任意的に行つた――が起つたのである。前章にも述べた通り、日本では生贄なるものが、大きな葬式には缺くべからざるものであつた、それは第一世紀頃迄殘つてゐたが、その頃から始めて燒いた粘土の人の形(埴輪)なるものが公然の犧牲に代つたのである。この義務的殉死、則ち死を以てその主君に從ふと云ふ事が廢止されて後も、自己の意志から出た殉死なるものは、第十六世紀に至るまで存續し、それが武權に伴なふ風俗となつた事は、既に述べた所である。大名が死んだ時には、十五人や二十人の家臣が腹を切る位の事は普通の事であつた。家康はこの自殺の習慣を禁止しようとした。その事は彼の有名な遺訓の第七十六條に次のやうに述べられてゐる――

主人死而其臣及殉死事非ㇾ無古例其聊以無其理君子已誹作俑直臣は勿論陪臣以下迄堅可ㇾ制ㇾ之若違背せは却非忠信之士其跡沒收して犯法者の鑑たらしむへき事

[やぶちゃん注:自己流で訓読しておくと、

主人、死して、其の臣、殉死に及ぶ事、古への例に無きに非ざれども、其れ、聊(いささ)かも以つて其の理(ことわり)無く、君子、已に「誹作俑(ひさくよう)」たり。直臣(ぢきしん)は勿論、陪臣以下迄、堅く、之れを制すべし。若(も)し、違背せば却つて忠信の士に非ず。其の跡、沒收(もつしゆ)して犯法者(ぼんはうしや)の鑑(かがみ)たらしむべき事。

「誹作俑」(俑を作るを誹(そし)る)は「悪しき前例を批難する」こと。俑は人形。埋葬に際して兵馬俑の如きもの作って殉ぜしめた習慣が、後世、生身の人間を以って葬に殉ぜしめることの悪しき端緒となった、の意から。「孟子」の「梁惠王」に由る。「陪臣」上級領主の直臣の臣下。]

 

 家康の命令はその家臣の間に殉死の風をなくさしたが、その死後にはつづいて行はれた、むしろ復活した。一六六四年、將軍家は訓令を發して、何人を問はず殉死をなした者の家族は罰せられる旨を闡明し、實際將軍はそれに熱心であつた。則ちこの訓令を右衞門之兵衞なるものが侵して、その主奧平忠正の死に際し切腹した時、政府は直にこの自殺者の家族の土地を沒收し、その二人の子息を死刑に處し、他の者を流罪にした。現在の明治の世にさへ殉死は屢〻行はれはしたが、德川幕府の決斷的な態度は、大體に於てその實行を阻止し得たのである、それで後には最も忠烈な家臣も、宗敎を通じてその犧牲を行ふことを通則としてゐたのであつた。則ちはらきりを爲さずに、家臣はその君主の死に際して頭を剃り、佛門に入るやうになつたのである。

[やぶちゃん注:第四代将軍徳川家綱が「武家諸法度」の付則として口頭伝達された(殉死禁止を成文法化すべきであるという意見もあったが、殉死を美風と見る意見が幕閣内にも存在したためとされる。ここはウィキの「追腹一件」の注釈に拠った)、殉死を不義無益として禁止した殉死禁止令は寛文三(一六六三)年に発令されている(これは実は第一には殉死が幕府が公的には禁じていた男色の延長線上にあるものと見做されたことによる)。なお、狭義の殉死(源平以後の戦時のそれではなく、平時に病気・事故・処罰等で亡くなった主君に対して追腹(おいばら)をすること)は、室町時代の明徳三(一三九二)年に室町幕府管領であった細川頼之の病死(享年六十四)に際し、殉死した三島外記入道(享年六十四)を嚆矢とするとされているようである。

「この訓令を右衞門之兵衞なるものが侵して、その主奧平忠正の死に際し切腹した時……」「奧平忠正」(平井呈一氏もそう訳しているが)は「奥平忠昌」の誤りウィキの「追腹一件」によれば、殉死禁止令発令から五年後の寛文八年二月十九日(一六六八年三月三十一日)、『下野国(いまの栃木県)宇都宮藩の』『藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死した。忠昌の世子であった長男の奥平昌能』(まさよし)『は、忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し』、『「いまだ生きているのか」と詰問し、これが原因で杉浦はただちに切腹した』(太字下線やぶちゃん)。『家臣が主君の死後、その後を追う風習は当時は「追腹(おいばら)」と称され、家臣が主君に殉じるのは、「一生二君に仕えず」とする武家社会のモラルに由来していた。当初は戦死の場合に限られていたが、のちには病死であっても』、『追腹が盛行し、江戸時代初期に全盛期をむかえた』。『徳川家綱のもとで文治政治への転換を進めていた江戸幕府』は既に注した通り、殉死禁止令を発していたことから、『昌能・杉浦の行為を』、『ともに殉死制禁に対する挑戦行為ととらえ、御連枝の家柄とはいえ』(忠昌は徳川家康の曾孫)、『奥平家に対し』、二『万石を減封して出羽山形藩』九『万石への転封に処し、殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど』、『厳しい態度で臨んだ』。『これにより、殉死者の数は激減したといわれる』。『なお、忠昌没後』十四『日目には、奥平内蔵允』(くらのすけ:奥平家譜代衆である五老の家柄。千石取)『が、法要への遅刻を「腰抜け」となじった奥平隼人』(主君奥平家の傍流にあたる七族の家柄。千三百石取。奥平内蔵允とは従兄弟同士であったが、平素より仲が悪かった)に対して、『武士の一分を立てるため』、『と斬りつけた事件(興禅寺刃傷事件)』(双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となったが、その夜、内蔵允は切腹した。詳しくはウィキの「宇都宮興禅寺刃傷事件」を参照されたい)『がもとで、内蔵允の子奥平源八らによって』、『江戸牛込浄瑠璃坂での仇討ち事件(「浄瑠璃坂の仇討」)がのちに起こっている』とあり、これらはひとえに奥平昌能の無能による不幸な事件であったことが判る。

「現在の明治の世にさへ殉死は屢〻行はれはした」これは西南戦争などの戦時の広義の殉死。本書は明治三七(一九〇四)年の作であり、言わずもがなであるが、乃木希典の明治天皇への殉死は大正元(一九一二)年九月十三日)は小泉八雲の没(明治三七(一九〇四)年九月二十六日)後のことなので、注意されたい。小泉八雲が生きていたら、乃木の殉死をどう考えたか、興味深いことではある。]

 殉死の風は日本の忠義の念の只だ一面を表はしたものに過ぎない。殉死の他に、よしそれ以上とは言はれないまでも、それと同樣に意義の深い風習があつた。――例へば殉死としてではなくて、武士の敎訓の傳統から要められた自己に被らす[やぶちゃん注:「かうむらす」或いは「かぶらす」。]處罰としての武人一流の自殺の習慣の如きがそれである。處罰の上の自殺としての、はらきりを禁ずる明白なる理由から成る立法上の法令はなかつた。かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事であつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から傳來したものであるかも知れない。古代の日本人は縊死に依て、自殺を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の證明する所である。腹切を一つの風習として又特權として始めたのは武人階級であつた。以前は、敗軍の將や、包圍軍の襲にあつた城塞の守將は、敵の手に落ちるのを避けるために自盡した――それは現在に至る迄殘つてゐた習慣である。武士に死刑の辱を受けさせる代りに切腹する事を許した武人の慣習は、第十五世紀の絡り頃に、一般に行はれるやうになつたと考へられる[やぶちゃん注:私の前段の冒頭の注の太字下線部を参照されたい。]。爾後武士は一言の命令で自殺するのが、當然の本分となつた。武士は總てこの規律的な法律に從はせられ、地方の領主と雖もこれを免れる事は出來なかつた。そして武士たるものの家族では、子供等は男女共に、自分一身の名譽のためか、或は君の意志でその要求のあつた場合、何時でも自殺の出來るやうに、その方法を訓へ[やぶちゃん注:「をしへ」。]られてゐた……私は言つて置くが、婦人ははらきりでなく、自害をした――委しく言へばただ一突きで動脈を斷ち切るやうに短刀で咽喉を突く事である……切腹(はらきり)の儀式の詳細の事に就いては、それに關する日本文をミツトフオド氏が飜譯したものに依つて充分よく知れ亙つてゐる故、私はその事に觸れる必要はあるまい。ただ記憶すべき重大な事實は、武士(さむらひ)たる者の男子や歸人に、何時でも剱を以て自殺の出來るやうに、心がけてゐる事を要求したのは名譽と忠義の心とのためであると云ふ事てある。武士に取つては、あらゆる破約(有意的にせよ無意的にせよ)、難かしい使命を果たし得なかつた事、見苦しい過失、否、君主から不機嫌な一瞥を受けただけでも、はらきり、則ち好んで難かしく言へば、漢語で言ふ切腹の充分なる理由になつた。高い位の家臣の間では、君主の非行に對して、それを正しくする、あらゆる手段が盡きた時、切腹に依つて諫めると云ふ事が、矢張り一つの本分であつた――その雄壯な風習は、事實に基づいた幾多の人氣ある戲曲の主題となつて居る。武士階級の結婚した婦人の場合は――直接に關係あるのはその夫に對してであつて、君主に對してではないが――戰時に於て名譽を維持する手段として、大抵は自害の方法を取つた。尤も時には、【註】夫の死後その靈に貞節を誓ふために爲された事もあつたが、處女達の場合に於ても同樣であつた。その理由に至つては異る所がありはしたが、――武士の娘達は往々貴族の家庭に召使として入つたものであるが、その家での殘酷な陰謀は容易に娘達の自殺を招致し、若しくは又君主の奧方に對する忠義の念が自殺を要める事もあつた。召使としての武士の娘は、普通の武士が領主に對すると同じやうに、親しくその奧方に忠節を盡くさなければならなかつた。されば日本の封建時代には幾多の雄壯な女が居る次第である。

註 日本の道學者益軒は恁ふいふ事を書いた、『女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服從すべし』と。

[やぶちゃん注:「かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事であつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から傳來したものであるかも知れない」ウィキの「殉死によれば、『考古学的に見て』、『具体的な殉死の例は確認できず、普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また』、五『世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている』。中国の歴史書「三國志」の「魏志倭人傳」には、「卑彌呼以死大作冢徑百餘步徇葬者奴婢百餘人」『とあり、邪馬台国の卑弥呼が死去し』、『塚を築いた際』、百『余人の奴婢が殉葬されたという。また』、「日本書紀」の「垂仁紀」には、『野見宿禰が日葉酢媛命』(ひばすひめのみこと ?~垂仁天皇三十二年:垂仁天皇皇后)『の陵墓へ』、『殉死者を埋める代わりに』、『土で作った人馬(埴輪)を立てることを提案したという』。また、「日本書紀」大化二(六四六)年三月二十二日の条によれば、『大化の改新の後に大化薄葬令が規定され、前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化が進むが、この時に人馬の殉死殉葬も禁止されている』とある。

「古代の日本人は縊死に依て、自殺を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の證明する所である」「日本書紀」の天武天皇元(六七二)年七月二十三日の条に、「壬申の乱」で敗れた大友皇子が首を吊って自害するシーンが記されてある。

   *

男依等斬近江將犬養連五十君及谷直鹽手於粟津市。於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。

   *

「ミツトフオド氏が飜譯したもの」複数回既出既注の、イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年:既出既注)が一八七一年に刊行した“ Tales of Old Japan ”の附録の冒頭にある“An Account of the Hari-Kiri”(「『腹切り」の理由)を指すか。

「益軒」福岡藩士で本草学者・儒学者の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。

「女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服從すべし」当該原文相当のものを探し得なかったが、益軒の「和俗童子訓」(宝永七(一七一〇)年作)の第五巻「敎女子法」の第八条、

   *

婦人には三從の道あり。凡(およそ)婦人は柔和にして、人にしたがふを道とす。わが心にまかせて行なふべからず。故に三從の道と云(いふ)事あり。是亦、女子にをしゆべし。父の家にありては父にしたがひ、夫の家にゆきては夫にしたがひ、夫死しては子にしたがふを三從といふ。三のしたがふ也。

   *

を意訳したものを、戸川が文語訳したものか。]

 極古い時代には死罪に處せられた役人の妻たるものは、自殺するのが習慣となつて居たらしい――古代の年代記にはその例が澤山ある。併しこの風習は恐らく幾分古代の法律に依つて說明される、則ちその法律は、事件とは關係なくして、罪人の家族は、その罪に對して、罪人自身と同じ責任を有するものとしてゐたからである。併し又夫を失つた妻が、失望のためではなくて、他界まで夫に從ひ、生存中と同じやうに夫に仕へようとする願ひから、自殺をするのは、また正に極めて當然な事であつた。死んだ夫に對する舊い義務の觀念をあらはす女の自殺の例は、最近にもあつた事である。かくの如き自殺は尙ほ昔の封建時代の規則に從つて爲される――この場合女は白裝束をする。最近の支那との戰爭の時に、この種の驚くべき自殺が一つ東京に起つた、その犧牲者は戰死した淺田中尉の妻であつた。彼女は僅二十一歲であつた。彼女は自分の夫の死を聞くや、直に自分の死の用意にかかつた――昔の慣例に從つて親戚の者に別離の狀を書き、身の𢌞はりの始末をつけ、家中を綺麗に掃除して、それから彼女は死の裝束を身につけ、客室の床間に向つて筵を敷き、夫の寫眞を床間に飾つて、その前に供物をあげた。用意が萬端整ふと、彼女は寫眞の前に坐つて、短刀を取りあげ、そして見事な一突きを以て、咽喉の動脈を斷つたのである。

[やぶちゃん注:「淺田中尉の妻」「日清戦争」の清国軍の拠点であった鳳凰城への攻撃(明治二七(一八九四)年十月)で重傷を負い、治療の甲斐なく、陣中で亡くなった丸亀第三大隊所属の田中中尉の妻「シン子」(奇しくも同第三大隊大隊長岡見中佐の娘であり、戦死報(但し、戦場で死亡と誤認している)は父から齎された)。征清美談上野羊我二九一八九六)教育書房刊)の「田中尉夫人ノ自殺で読める。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。彼女は浅田に嫁して僅か二年であった。]

 名譽を維持するために自殺するといふ義務の他に、武士の女子にとつては、道德上の抗議として自殺をする義務があつた。既に述べた如く、最高なる家臣の間には、君主の非行に對する諫告として、あらゆる說得の手段もその效果のなかつた時、はらきりを行ふ事は、一つの道德上の義務であると考へられてゐた。さむらひの婦人――自分の夫を、封建的な意味での君主と思へと訓へられてゐる――の間では、夫の不名譽な行ひに對して、忠言や諫告をしてもそれを夫が聽き入れない場合、自分の本分を表白するために自害する事は、一種の道德的義務とされてゐたのである。かくの如き犧牲を奬勵する所の妻たる者の義務に就いての理想は今尙ほ殘つてゐて、道德上の非行を叱責するために生命を惜しげもなく投げ出した例は、最近に於ても一つならず舉げられる。一八九二年、長野縣に於ける地方選舉の時に起つたものは、恐らく最も感動を與へる例であらう。石島といふ名のある物持ちの選舉人が、或る候補者の選舉に立派に助力すると公約した後、寢返りして反對黨の候補者を援助した。この約束の破棄を聞くや、石島の妻は、白裝束に身をかため、昔のさむらひの仕方に從つて自害し果てたのである。この剛氣な婦人の墓は、尙ほその地方の人達に依つて花を以て飾られて居り、その墓石の前には香の煙が絕えない。

[やぶちゃん注:「一八九二年、長野縣に於ける地方選舉の時に起つたもの」明治二十五年。この事件は調べ得なかったが、これは同年二月十五日に行われた、第二回衆議院議員総選挙ではなかろうか。しあわせ信州 長野県魅力発信ブログい~な 上伊那天竜川と選挙のお話」に、当時の有権者は国税十五円以上を収める二十五歳以上の男子のみで、記名投票で行われたとあり、『この選挙では吏党と民党との対立が激化』『(吏党:政府側の政党、民党:自由民権運動を推進した民権派各党)』し、『各地で両者の候補者や運動員が衝突』、『全国で死者』が二十五人も出たらしいとある』。『伊那でも選挙干渉が激しく、選挙当日』、ある民党側の議員を支持していた『有権者は、天竜川の橋の上で対立派が雇った壮士や博徒に通行を妨害され(壮士:職業的な政治活動家)』、『寒い雪の降る中を天竜川を泳いで投票に行った』という驚くべきことが書かれてある。]

2018/08/30

反古のうらがき 卷之一 賊心

 

    ○賊心

 予が友小野竹崖子が祖父(おふぢ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])の時の事とて語られしは――

……家に久しくつかゆる[やぶちゃん注:ママ。]僕(しもべ)ありける。年も四十をこへ、其質(さが)、正直にして、よくつかへける。

 祖父、さりがたき入用(いりよう)の事ありて、

「金子五兩を用立(ようだつ)べし。」

と藏宿(くらやど)にいゝ[やぶちゃん注:ママ。]やりけり。

 彼(かの)僕に命じて、

「金子、請取(うけとり)、來(きた)れよ。」

とて遣しけるに、時刻も大に延び、日も暮に及ぶに、歸り來らず。さりとても、此者、中々惡心出(いづ)べき者にあらず。

「必(かならず)、不測(おもはざる)のわざはひにても起りて、手間取(てまどる)事にもや。」

と疑ひけるに、早(はや)、夜も暮六(くれむ)つ過(すぐ)る頃、おもての方(かた)に物音して、つぶやく聲する樣、常に聞覺(ききおぼ)へ[やぶちゃん注:ママ。]たる僕(しもべ)が聲也。

「扨は、歸りけり。」

とて出迎へ、

「何とて、かくは遲かりつるぞ。」

ととへば、僕は物もいはず、狀箱、其(その)あたりしに差置(さしおき)て、しばらく、主人が顏、見詰(みつめ)てありし樣(さま)、いぶかしかりければ、

「如何にや。如何にや。」

ととへば、

「扨々、君は不覺の人よ、すでの事、一大事に及び、君も吾も再び相見ることもならずなりぬべかりしを、吾なればこそ、無事にして濟(すみ)けるよ。」

といふ。

「何事にて有(あり)ける。」

ととへば、

「いや。外の事にあらず。かゝる大金を奴僕(ぬぼく)をして持(も)てあるかしむること、不覺にあらずや。君もしろしめす如く、吾、わらじ、作り、繩、なひて、一年には金二分斗りも餘し侍る。それに給われる[やぶちゃん注:ママ。]祿のうち、少しづつも殘して、一兩づゝも、たくわへり[やぶちゃん注:ママ。]。『これを、六、七年も積(つん)で、在所に歸り、妻子等も少々はゆるやかなるやしなひをもせめ』と思ふこと、年久し。されども思ふ程にもあらで、君が家にあること已に、三、四年に及び、いまだ其事を果さず。かゝれば、

『金五兩もあらんには、僕等が大願は成就すべし。此上、幾年ともなくかくてあらんより、此こがね、持ちて走らんに、何んの子細あらん。』

と思ふより、引立(ひきたて)らるゝよふ[やぶちゃん注:ママ。]に覺(おぼえ)て、故鄕【常陸とか、上野とか。】の方に向ひて走る事、數里、千住といへる宿迄行(ゆき)しが、

『まて。しばし。よくよくおもふに、本意(ほい)なる事にあらず。是迄、恩義深き主人が黃金(こがね)を奪ひて、何地(いづち)へか行(ゆか)ん。』

と、心を改め立締ること、五、六町、又、思ふ、

『さりとて、此期會(きくはい[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])【しあわせ[やぶちゃん注:ママ。]】、又とあるべき事にもあらねば、少しの恩義は捨(すて)たり。』

とて、再び、

『得がたき黃金(こがね)にかふるに、何の仔細あらん。』

と、又、立止(たちどま)りて、故鄕の方に向ひて、行けり。

 かかりける程に、西の日、後の山の端(は)に入(いる)におどろき、

『扨も主人の待(まち)わび玉ふらん。殊に急用とて「金子かりてこよ」とて出(いだ)し玉ひしを、かゝる時刻迄歸らずば、いかばかりかいぶかり給ふらん。』

と思ふにぞ、又、一足も行(ゆく)事能はず。

『いやいや。それも一時のことぞ。よしよし。』

とて、ゆかんとするに、日も暮果(くれは)て、行方(ゆくかた)いと暗きに、只獨り行(ゆき)つ戾りつすること、五、七度にして、又、思ふ。

『世の中の賊もかゝる處にて心亂るゝより、不義のことども、なすならん。』

とおもへば、

『吾も賊なりけり。昨日迄は人也(なり)。今日よりは賊なり。』

とおもへば、いとかなしくて、

『さりとては、人を惱(なやま)す黃金(こがね)かな。』

とて、其儘、捨(すて)もやりたくおもふものから、

『扨、かゝる物、何とて、かく、ほしと思ひたけるよ。』

と、心のあさましきを自(おのづ)からしりて、今、かく、御家(おいへ)には歸りけるなり。さればこそ、時刻も移り侍るなり。

 凡(およそ)奴僕たる物は、みな、吾と同じ心なるべし。黃金(こがね)五ひらといふを見て、心動かぬものはなきものを、うかうかと持(もた)しめ給ふ不覺さよ。殊に要用(いりよう)とあるなれば、常とは事もかわりぬべし[やぶちゃん注:ママ。]。返々(かへすがへす)も不覺の君よ。

 吾に逢ひて、仕合(しあわ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])せし給ひけり。

 此(これ)以後とも、必々(かならず かならず)奴僕に、黃金、な渡し給ひそよ。」

と、深くいましめて、

「吾も是(これ)にてこゝろおちゐぬ。」

とて、人の上のことの如く言罵(いひののし)りて、部屋に入りて臥(ふし)ぬ。

「嗚呼(おこ)の者よ。」

と打寄(うちより)て笑ひぬれども、其言葉は理(ことわ)りに近ければ、父の代・吾(わが)代に至る迄、語り侍へて戒(いましめ)とは、なし侍る。……

――とて、語り給ひき。

[やぶちゃん注:直接話法が多く、特に下僕の微妙な心の動きを追い易くすために、細かく改行を施した。また、全体がまた、入れ子の会話形式となっていることから、例外的に本文にダッシュとリーダを挿入して改行した箇所がある。なお、これに酷似した話に、「耳囊 卷之三」の「下賤の者は心ありて可召仕(めしつかふべき)事」がある。そちらでは「百両」と二十倍の金額であるが(その方がより強力なリアリティはある。本話の五両は「下僕」が人生晩年の夢を見るには、インフレで一両の価値が下落していた江戸後期では金額として今一つである。たかが五両で儚い夢を見たとするのも逆にリアリティがあるとも言えなくはないが)、そちらも「御藏(くらまい)前取(まへとり)にて御切米(きりまい)玉落(たまおち)ける故、金子」「百兩」「請取(うけとり)に右(みぎ)札差に」「中間」(ちゅうげん)を遣らせる設定であること、横領を謀ったそちらの中間も、一度は「江戸表を立退(たちのき)候(さふらう)心にて、千住(せんじゆ)筋迄至り、大橋を越(こえ)て段々行(ゆき)しが、熟々(よくよく)考(かんがふ)れば……」とあって、逃避行方向が一致し、ロケーションに同じ「千住」まで登場すること、なにより、中間の心内のアンビバレンツの触れ方が、この「下僕」のそれと極めて似た形で激しく極点間で振れ動くことから見ても、これは全く別の話が偶然一致したものとは、私は思えない気さえするのである。「耳囊」の最も新しい記事は筆者根岸鎭衞の没する前年(彼は文化一二(一八一五)年没)までであるが、「耳囊」の第三巻は鈴木棠三氏に検証によれば、天明六(一七八六)年以前の内容と下限の時制の線が引ける。一方、「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるものの、本話柄は作者鈴木桃野と恐らくは同年代の友人の祖父が当主であった時の話とするからには、執筆時よりも軽く五十年以上は前の話ととってよかろう。さても「耳囊」のそれと「反古のうらがき」のこれの記事内時制の間は最低で六十二年である。確かにここでは、「予が友小野竹崖子」(事蹟不詳であるが、既に「尾崎狐 第二」に登場している桃野の親友)「が祖父」の体験談として「竹崖」によって語られた実録として記されてあるのであるが、或いはこの二つのよく似た話は同一のソースが元なのではないかと私には思われてならない実話条件としては、本「反古のうらがき」の方が、人物も話者の縁者であって、作者には実名が知れているわけで、所謂、怪しげな噂話でさえないという肝心な点、また、ショボいけれども五両という信じられる金額である点などから、明らかに「反古のうらがき」に軍配は挙げられる。また、私は「耳囊」版の終り方が、その中間が自ら、『「……かゝる惡心の一旦出(いで)し者、召使ひ給はんもよしなければ、暇(いとま)を給るべし」といひしに、主人も誠(まつこと)感心して厚く止(とど)め召仕(めしつか)ひけると也』という如何にもな大団円の幕を引いている辺りに、実は逆に、強い作話性の跡を嗅ぎつけているとも謂い添えておきたい

「つかゆる」「仕へる」であろう。

「僕(しもべ)」「下僕」。桃野の友人の小野の家は明らかに武士と考えてよく、とすれば、武家の下僕は「耳囊」の「中間」である。

「さりがたき」火急の、のっぴきならない金子の必要。

「藏宿」浅草蔵前(くらまえ)に店(たな)を張って、旗本・御家人の蔵米(くらまい)を受取り、その売買を行なった「札差」や(先の「耳囊」の原文と設定と参照)、大坂で回米の水揚げから納入までを引受ける「納宿(おさめやど)」のことをこう呼んだ。

「金子、請取(うけとり)、來(きた)れよ。」「金子、確かにしっかりと受け取って、気をつけて帰って参れ。」。

「時刻も大に延び」時間が意想外に経って。

「暮六(くれむ)つ」定時法で午後六時頃。

過(すぐ)る頃、おもての方(かた)に物音して、つぶやく聲する樣、常に聞覺(ききおぼ)へ[やぶちゃん注:ママ。]たる僕が聲也。

「其(その)あたりしに差置(さしおき)て」「し」は文節強調の副助詞。「そのあたりにしも差し置きて」。自分の座っている近くに、その五両が入った文箱を、ぽんと置いたまま。異常に遅れてやっと帰ったのであるから、遅延の弁解をしつつ、主人に文箱を恭しく差し上げるのが普通なのに、という感じである。以下の「しばらく、主人が顏、見詰(みつめ)てありし樣(さま)」と相俟って、映像的効果がすこぶるよく出ているシーンである。

「如何にや。如何にや。」「どうした? 何があったのじゃ!?」。

ととへば、

「君」主人。小野竹崖の祖父。

「何事にて有(あり)ける。」「どういうことじゃッツ?!」。前の下僕の台詞が、かなり不遜なだけに、ここは、竹崖の祖父、かなり気色ばんで言っているととった方がよい。

「金二分」金一両は金四分(ぶ)。幕末期だと、現在の一万五千四百三十八円相当となるようだ。

「五、六町」五百四十六メートルから六百五十五メートル弱。

「期會(きくはい)【しあわせ】」「機會【幸(しあは)せ。】」。

「ものから」近世には誤って順接の確定条件(~なものだから)として使用されたが、ここは正規表現の逆接の確定条件で採る。「この五両を路傍に捨ててしまいたいとさえ、思ったので御座いますが、」。

「ほし」「欲し」。欲しい。

「殊に要用(いりよう)とあるなれば、常とは事もかわりぬべし」特に、危急の御用立ての金子となればこそ、普段とは格段に扱いが格別であるべきものにて御座いましょうに。「返々(かへすがへす)も不覺の君よ」の台詞が主人の心に確かに響く。この「下僕」、なかなかに鋭い。

「吾も是(これ)にてこゝろおちゐぬ。」私(わたくし)めも、まず、ここいらで、心が落ち着いて参りました。

「言罵(いひののし)りて」吐き捨てて。

「嗚呼(おこ)の者よ。」「何とまあ、正直に馬鹿のつく、愚かな奴じゃ!」。]

反古のうらがき 卷之一 物のうめく聲

 

  ○物のうめく聲

 

 秋の末つかた、月のいと隈なくて、いと明(あきら)なる夜、内海氏と伴ひて、高田の馬場に遊び侍り。

 野菊の薄紫なるが、夜は白々と見へて、ところどころに咲亂れたるに、いろいろの蟲の音(ね)、こゑごゑに呼(よび)かわして、あわれなり[やぶちゃん注:ママ。]。

 すゝき尾花も風になびきて、さやさやと聲すなり。

 宵の間は、ともに月をめづる人も有(あり)けるが、夜ふくるまゝに、みな、かへり果(は)て、馬場守(ばばも)りが家の燈火もかすかになりぬ。

「西の果(はて)の土手の上あたり、殊に勝れて見所多し。」

とて、ともにこし打(うち)かけて、歌よみ、詩作ることもなく、おのがまに、また思ひいづることども、かたり合(あひ)て、かへる心もなく、うかれ遊びけり。

 予がほとり、五、七間が内とおぼしくて、物のうめくよふ[やぶちゃん注:ママ。]なる聲、聞へければ、

「あれはいかに。」

といふ。

 内海氏も耳をそばだてゝ、

「されば、さきより、此聲、あり。いか樣(さま)、此(この)あたりと思ふが、土手下あたり、尋ねて見ん。」

とて、かしこ、ここと尋(たづぬ)るに、其聲、いづこともなく、遠くもなく、近くもあらず聞へて、さだかにはあらざりけり。

 又、一時もふる内に、夜は、いよいよ更渡(ふけわた)りて、蟲の聲、いよいよ高く、其外、四方に聲なし。

 されども、さきの聲は、いよいよ高く聞へけり。

「さるにても、恠(あや)しの聲や。歸り樣(ざま)、其所(そのところ)をしらん。」

とて、西の方、一町ばかり行(ゆき)ても、同じよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]にて、おりおり絕(たえ)るが如く、聞ゆ。

 東の方は歸路に便りよければ、此方(こなた)に向ひて尋るに、同じよふにて、いづくとも定(さだまら)らず、東の果(はて)近く、馬場の中を橫に過(すぐ)る路も越(こえ)て、初(はじめ)て、少し近く聞ゆるまゝに、

「此方なりける。」

とて尋るに、はたして東のはてより、廿間斗(ばかり)こなたの北の方に家ありて、其所(そのところ)なり。

 籬(まがき)の外に立(たち)よりて聞(きけ)ば、人の聲も聞へ、燈火もかすかに見ゆ。

 よくよく聞(きか)ば、病人のうめくにて、看病の人の、傍(かたはら)にて語り合(あふ)も、ありけり。

 こゝにて聞(きく)に、さまで高くはなきに、二町餘(あまり)も隔てて、同じよふに聞へしは、あたり、靜まりし故なるにや。

「扨は、恠しき物にてはあらざりけり。」

とて、打連(うちつれ)て家に歸りける頃は、丑の刻にも過(すぎ)たりける。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行されてある。]

 ケ樣(かやう)のことも、なれざることは「恠し」と思ふなれば、物におどろく癖ある人の言(げん)は、信じがたし。

 又、舟にて大洋(おほうみ)をのるに、「舟幽靈」といふもの出(いで)る、といふ説、よく、人のいふこと也。『其(それ)、形(かたち)ありて、「ひさく」を乞ふ時、底なきひさくを與ふ。然らざれば、水をすくひて舟に入る』といふ。これは、逢ふもの、少(すくな)く、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]は、『沖の方にて、泣叫ぶ聲、哀しく、或は、近く、或は、遠く聞(きこ)ふ[やぶちゃん注:ママ。]。又、物語する聲、間(ま)のあたりに聞へて、目に見えず』といふ。『遠州灘などにては、度々、有り』と聞(きけ)り。

 予、釣するとて、沖中にて、四方の物音を聞くに、陸(くが)にて思ふより、十倍遠き所の音、間のあたりに聞へて、始めて聞(きき)たる時は、驚(おどろく)ばかり也(なり)しが、聞(きき)なるれば、常と思ふ。

 東風(こち)の起(おこ)る頃は、總州・房州の網引(あみびき)の聲、やゝ言語も分(かか)る程に聞ゆること、あり。

 又、沖の方、目の界(かぎ)りは、舟もなくて、言語は甚(はなはだ)分明なる聲、聞ゆることもあり。

 夜舟(よぶね)の恠(かい)も、多くは、是等も有るべし。

 聞(きき)なれざる人の、『恠(あやし)』といふも理(ことわり)なる歟(か)。

 兎角に、耳目(じもく)に慣(なれ)ざることは、あやしきこと、多き物なり。

[やぶちゃん注:至って〈科学の人〉である鈴木桃野の、現実主義・実証主義的立ち位置がよく判る、擬似怪談現象の、本人が体験した実録解明譚である。大気の逆転層などによって、驚くほど遠くの音が間近に聴こえる現象で、しばしば起こる。私は登山で何度も経験した。本条は既に柴田宵曲續妖異博物館「地中の聲」の私の注で電子化しているが、今回は一から総てをやり直し、今まで通り、推定(ごく一部は底本にルビがある)で読みを附し、臨場感と読み易さを狙って、改行を施した。

「内海氏」不詳。但し、今までの条々で母方の姓が内海である(本来の姓は多賀谷であるが、曽祖父以降、内海を名乗っている)から、そうした母方親族の内の近しい人物にして、同世代ではないかという推測は、シチュエーション全体から逆に窺えるように思われる。

「高田の馬場」ウィキの「高田馬場によれば、現在の東京都新宿区高田馬場ではなく、その東側の西早稲田三丁目にあったとあるので、注意が必要。(グーグル・マップ・データ)である。寛永一三(一六三六)年、『徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営された』のが最初で、『一説に、この地が家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母、高田殿(茶阿局)の遊覧地(景色のよい遠望を楽しむために庭園を開いた所)であったことから、高田の名をとって』、『高田馬場としたとする。だが、それ以前に、この一帯が高台である地形から俗称として高田とも呼ばれていたため、その名を冠したとの説』もあって、『その』二『つの由来が重なったためとの説もあるとある。ともかくも、当時は江戸市街地の東の辺縁部で、切絵図を見ても、畑地や寺院が目立つ。

「すゝき尾花」一語と採る。すらりと立ち延びるススキの茎を「すゝき」、馬の尾に似ているススキの花穂を「尾花」と呼んだ、としても構わぬ。

「馬場守(ばばも)り」「高田の馬場」の現地の管理人。

「西の果(はて)の土手の上あたり」「高田の馬場」は北直近を神田川が流れており、その流れに概ね平行して馬場が作られていた。現在の都電「面影橋」の南内側辺りが「馬場」の東の三分の一地点附近に当たる(前注の地図を参照)。

「五、七間」九メートル強から十二メートル七十三センチほど。

「物のうめくよふなる聲」「よふ」は「やう」で「樣」。人か動物か、なにものかが呻いているような声。

「一時」二時間。

「ふる」「經る」。

「一町」百九メートル。

「廿間」三十六・三六メートル。

「丑の刻」午前二時頃。

「形(かたち)」目に見える姿形を持っていること。舟幽霊(ふなゆうれい)は概ね、人形をした白っぽいものとして描かれることが多い。

「ひさく」柄杓(ひしゃく)。

「水をすくひて舟に入」れることを繰り返し、その舟を沈没させるのである。

「おゝく」「多(おほ)く」。

「予、釣するとて、沖中にて」後の「總州・房州の網引の聲」から、現在の品川沖あたりか。東京湾湾奥部の適当な位置を置いて見ると、千葉辺りで二十二キロメートル、富津辺りで二十四キロメートルほど離れる。

「やゝ言語も分(かか)る程に聞ゆること、あり」漁師らが喋っているその言葉も、具体的に、部分的ながらその意味が判るほどまで聴こえることさえ、ある。]

2018/08/29

反古のうらがき 卷之一 狼

 

  ○狼

 「麻布、靑山のへんに狼出(いづ)る」とて、おそれあへり。

 或人の家に、六、七歳なる男子、夜半に雨を細く明(あけ)て小便せしに、

「あなや。」

といふ聲聞へければ、父母、おどろき出(いで)て見るに、もゝのあたり、喰切(くひき)りて、垣のあたり捨置(すておき)たり。近鄕より合(あはせ)て、各(おのおの)、わり木・おうご[やぶちゃん注:ママ。]など、とり持(もち)てかり出(いだ)しけれども、行衞しれずとて、やみぬ。子は、陰囊へかけて、つよく喰(くは)れたれば、死(しに)けり。其後、さだかに見たる者もなけれども、

「狼に相違あらじ。」

とて、夜は外に出(いづ)るものも稀なりけり。もし止(やむ)を得ざる用ありて出る事あれば、必(かならず)、貮、三人づつ打連れて行けり。後には四谷邊にも出るといふ。赤坂へんにも出るといふ。みな、暗(やみ)の夜、獨り行(ゆく)者、必、すねのあたりを喰はるゝ事にて、疵(きず)を受(うけ)たるもの、幾人といふことを、しらず。

[やぶちゃん注:ここは底本でも改行。]

 是を其人に問ふに、

「多く、細きこうぢを過(すぐ)るに、忽然と來りて、喰付(くひつき)、振離(ふりはな)ち逃(にぐ)るに、敢て追(おひ)も來らず、其疵、皆、齒の入(いり)たる跡、四、五箇所、引裂(ひきさき)たるよふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に付(つく)。」

といへり。

 一人ありて、ある細きこうぢを過るに、忽ち後ろより喰付たり。此人、力強く殊に膽(きも)太かりければ、組伏(くみふせ)て打殺(うちころ)さんと思ひて、挑燈にててらしけるに、其形と覺しき物はなくて、槿(はちす)の籬(まがき)の、よくこみ合(あひ)たる間に、こそこそと聲して入(いり)けり。其樣、細き紐など引入(ひきいる)るよふに覺(おぼえ)たれば、

「さては狼にてはあらざりけり、ま蟲(むし)・大へびなどにて有(あり)けるよ。」

とて、歸りて其疵を見れば、齒形(はがた)ありて、血、出(いで)たり。其樣(そのさま)、又、ま蟲の類とも覺へず。

 よりて、或夜、足のあたりよく包みて、齒の立(たた)ぬ程になし、挑燈は、わざと持たで、手頃の棒を持(もち)て、彼(かの)あたりを行通(ゆきかよ)ひしに、又、後(うしろ)より喰付ければ、其儘、棒にて、顧(かへり)み樣(ざま)に、つよく打(うち)けるに、物、なし。又、

「こそこそ。」

と、音して、籬(まがき)に入る。

 此邊は、みな、植木屋なりければ、奧の方に家ありて、燈、かすかにみえけり。よりて、大に呼(よば)はりて、

「狼あり、今、此籬の内に入(いり)たるぞ。」

と、いく聲となく、叫びつゝ、共(とも)に籬をおし破りて入けり。

 此聲におどろきて、人々、打寄(うちより)、燈火、照らしつゝ、あなたこなたと、かり出(いだ)しければ、植込(うゑこ)みのしげみに、物、ありけり。

 打圍(うちかこみ)てかり出しければ、狼にはあらで、面(つら)を包みたる、人、なり。

 直(ただち)にからめ取(とり)て、引出(ひきいだ)し、問詰(とひつ)めければ、無宿の賊なり。

「何をか、つかひて、喰付(くひつか)せし。」

と問ひしに、物にてはあらで、細き桶のたが程の竹に、短き釘を打(うち)て齒となし、二筋あるを、左右に裊(たわ)置(おき)て、人の通(かよ)ふとき、左右、一時に放つ。打合(うちあひ)て、物の喰付たる如く也。驚きて引放つ者は多く疵を受(うく)るなり。かくして追落(おひおとし)をなせしなり。

 初(はじめ)の程は、誠(まこと)の狼にてもありけん、後は、みな、此賊の所爲にてぞ、ありける。

 此者を取らへてより後は、かゝること、絶(たえ)て止(やみ)けり。

 隨(つづき)て、誠の狼も、いづち、行けん、再び出(いで)もやらずなりぬ。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。さてもさても、都市伝説の装いをした、実録の擬似怪奇犯罪物という贅沢な話である。最後に細工の種明かしをしつつも、しかし、最初に少年を一噛みで殺した狼(野犬(のいぬ/現在の野犬(やけん))の狂犬病に罹ったものだったか)は、その一件だけで、忽然と姿を消した、というエンディングが、却って慄然とさせるではないか。私は実は、冒頭のシークエンスを読むや、直ちに、明治三五(一九〇二)年三月二十七日に東京府東京市麹町区下二番町(現在の東京都千代田区二番町)で発生した「臀肉(でんにく)事件」(別名「野口男三郎(のぐちおさぶろう)事件」)を直ちに想起してしまったからである。近所に住む十一歳の少年が何者かに両眼を抉り取られた上、尻の肉を切り取られて殺された猟奇事件である(御存じない方はウィキの「臀肉事件」を見られたい。但し、自己責任で、どうぞ)。

「わり木」薪(たきぎ)。

「おうご」「朸」。歴史的仮名遣は「あふご・あふこ」が正しい(現代仮名遣は「おうご」)。物を担うための天秤棒。或いは、そうした有意に長い棒。

「こうぢ」「小路」。

「引裂(ひきさき)たるよふに付(つく)」「よふ」は「樣(やう)」。この「ひきさき」は「ひきさかれ」と受け身で読もうと当初思ったが、「狼」が噛み付いて「ひきさ」いたように傷跡がついていた、と読むことで、生きた凶悪な「狼」のイメージを喚起するのがよいと考えた。

「槿(はちす)」アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus

「籬(まかき)」「かき」と読もうとも思ったが、貯木地などもあるやも知れぬ植木屋のそれ(民家としては少しは広い庭を想定)であるわけだし、槿(むくげ)の垣根は少しお洒落な感じがしたことから、少し差別化して読んだ。

「ま蟲(むし)・大へび」「蝮・大蛇」。

「歸りて其疵を見れば、齒形(はがた)ありて、血、出(いで)たり。其樣、又ま蟲の類とも覺へず」という被害者自身の傷がアップで示され、その観察に基づいて、蛇の類いが噛み付いたものではないことが、まずは判明するという展開設定が非常に上手い。

「此邊は、みな、植木屋なりければ」飛田範夫氏の論文「江戸の植木屋と花屋 ―柳沢信鴻著『遊宴日記』より―」PDF)に『植木屋が集まっていたという植木屋坂(港区麻布永坂町)』とある(ここ(グーグル・マップ・データ))から、このシークエンス、この辺りがロケーションかも知れない

「左右に裊(たわ)置(おき)て」「たわ」は底本のルビ。「裊」(音「ジョウ・ニョウ・チョウ」)には「しなやか」の意があるから、「撓(たわ)める」で、「たわむように成す・弓なりに曲げる」の意であろう。道の一方の脛の高さの所に、先に釘の歯の附いた竹片二本を一方の端を合わせた状態で強く左右反対にたわめて置き、夜陰に人が通った際、この左右を打ち合わしたのである。人影がすぐ横では目撃されていないことから、恐らくは撓めたものを、強い凧糸などで少し離れたところから操作したものであろう。

「追落(おひおとし)」追剥(おいはぎ)のこと。通常は往来で人を脅して物を奪うことで知られるが、時には問答無用で人を突き倒したり、或いは怖ろしい剣幕で追いかけたりして、その弾みで、落とした物を奪い取るといった手法もよくとられた。]

大和本草卷之十三 魚之上 ヲモト (カワムツ或いはヌマムツ)

 

ヲモト 嵯峨ニアリハヱニ似テ背ニ有斑點爲群水面ニ

 ウカブ河ノヨトミニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

ヲモト 嵯峨にあり。「ハヱ」に似て、背に、斑點、有り。群を爲して水面にうかぶ。河のよどみにあり。

[やぶちゃん注:桂川水系に棲息し、「ハヤ」類に含まれるか或いは近縁種で、背部に斑点があり、河川の淀みに群れを成している種――「ヲモト」――聴いたことがない。搦め手から攻める。現在まで出現した「ハヤ」類の内で登場したものの、今一つ、バイ・プレイヤーの種の異名を探った。すると、ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のカワムツ」ヌマムツ」の各ページの「地方名・市場名」の欄に、孰れも『アカモト』と『モト』とあるのを発見した。しかも前にも書いたが、

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

であるが、後者「ヌマムツ」は実は二〇〇〇年頃までは「カワムツ」と同種とされていたのである。ウィキの「ヌマムツによれば、しかし、『カワムツとの交雑がないこと、鱗が細かいこと(側線鱗数』がカワムツは四十六~五十五片であるのに対し、ヌマムツは五十三~六十三片と有意に多い)、『体側の縦帯がやや薄いこと、胸鰭と腹鰭の前縁が黄色ではなく赤いこと』。『カワムツが河川上中流などに住む流水適応型に対し』、『ヌマムツは用水路などの緩やかな流れを好む止水適応型である』こと『などから』、『別種とされ』、二〇〇三年に『新和名「ヌマムツ」が決まった』とあり、学名も新たに作られている。されば、孰れかに限定比定する必要はあるまいが、敢えてこの記載の「背に、斑點、有り」というのを優位に濃い背鰭前縁の赤色斑だったとするならば、これはカワムツである。サイト日本淡水魚愛護会」ヌマムツ or カワムツを見られたい。]

大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ

 

ゴリ 二種アリ一種腹下ニマルキヒレアリ其ヒレノ平ナル

 所アリテ石ニ付ク是レ眞ノゴリナリ膩多シ爲羹味ヨ

 シ形ハ杜父魚ニ同シテ小ナリ但背ノ文黑白マシレ

 リ又名イシブシ賀茂川ニ多シ漁人トリヤウアリテ多

 クトル一種ヒレ右ノ如クナラズ膩ナシ味ヲトレリ然トモ

 是亦羹トシテヨシ賀茂川ニ多シ筑紫ニテウロヽコト云

 物ナリ順和名抄引崔禹錫食經曰性伏沉在石

[やぶちゃん注:「」は実際には(へん)と(つくり)の間に縦一画が入った字体。]

 間者也順和名曰伊師布之○或曰生所〻山谷

 澮溝伏石間小魚不過一寸又一種長一二寸有斑文

 其形狀似河豚而小常在山谷至五月隨水流落

 其大者至夜而鳴其聲淸亮而可愛土人謂之河

 鹿其味極美甘平無毒補脾開胃

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:ある意図があって、改行を施した。]

ゴリ 二種あり。一種、腹下に、まるきひれあり。其のひれの平〔ら〕なる所ありて、石に付く。是れ、眞の「ゴリ」なり。膩(あぶら)多し。羹〔(あつもの)〕と爲し、味、よし。形は「杜父魚〔(とふぎよ)〕」に同〔(おなじく)〕して、小なり。但し、背の文、黑・白。まじれり。又の名、「イシブシ」。賀茂川に多し。漁人、とりやう、ありて、多くとる。一種。ひれ、右のごとくならず、膩〔(あぶら)〕、なし。味、をとれり。然れども、是れ、亦、羹として、よし。賀茂川に多し。

筑紫にて「ウロヽコ」と云ふ物なり。

順〔が〕「和名抄」、崔禹錫が「食經」を引きて曰はく、『の性〔(しやう)〕、伏沉〔(ふくちん)〕して石の間に在る者なり。順、和名、曰はく、「伊師布之(イシブシ)」。○或いは曰ふ、「所々の山谷・澮溝〔(くわいこう)〕に生ず。石〔の〕間に伏す。小魚。一寸に過ぎず。又、一種、長さ、一、二寸。斑文、有り。其の形狀、河豚〔(フグ)〕に似て、小なり。常に山谷に在り。五月に至りて、水に隨ひ、流れ落つ。其の大なる者、夜に至りて鳴く。其の聲、淸亮にして愛すべし。土人、之れを「河鹿(カジカ)」と謂ふ。其の味、極美。甘、平。毒、無し。脾を補し、胃を開く。」〔と〕。

[やぶちゃん注:「ゴリ」ウィキの「ゴリ」が多様な種を含む「ゴリ」の総説としてよいので、まず引用させてもらう。『ゴリ(鰍、杜父魚、鮖または鮴)は、一般的には典型的なハゼ類の形をした淡水魚を指す一般名、地方名である。ただし、一部にメダカ類』(条鰭綱ダツ目メダカ科Adrianichthyidae memeメダカ亜科メダカ属 Oryzias)『やシマドジョウ類』(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科シマドジョウ属 Cobitis)『を指す地方も存在する』。「ゴリ」は特定魚類の『標準和名ではなく、ゴリの名で呼ばれる魚は地方によって異なる。スズキ目』(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目 Perciformes)及びスズキ目『ハゼ科』(スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae)『に属するヨシノボリ類』(ハゼ科ゴビオネルス亜科Gobionellinae ヨシノボリ属 Rhinogobius)・『チチブ類』(ゴビオネルス亜科チチブ属 Tridentiger)・『ウキゴリ類』(ゴビオネルス亜科ウキゴリ属 Gymnogobius)などの『小型のハゼ類や』、概ね、淡水産の『カサゴ目』(棘鰭上目カサゴ目 Scorpaeniformes)及びカサゴ目『カジカ科』(カジカ亜目カジカ上科カジカ科 Cottidae)『に属するカジカ類、あるいはその両方を合わせて呼ぶ場合などがある』。但し、『「ゴリ」という語が標準和名に組みこまれているのは、ハゼ科・ウキゴリ属のウキゴリ類だけである』(下線太字やぶちゃん。以下、同じ)。『これらはいずれも川底に生息する淡水魚で、ハゼ類に典型的な大きな頭部、飛び出した目、大きな口などが特徴である。体色は褐色から暗褐色』で、概ねかく呼称される魚類は全長数センチメートル程しかない『小型魚である。一般に種類ごとの特徴がわかりにくく、よく似ている。ハゼ科の「ゴリ」では』、二枚の腹鰭が合わさって一つの吸盤のような役割を担っていて、『これで水底の岩などに吸い付くことで流れの比較的速い川にも生息できる。また、宮城県、島根県、高知県、大分県などの沿岸地域ではハゼ類の幼魚をゴリとよぶ場合がある』(カジカ類の腹鰭ではこうした吸盤化は見られない)。『青森県の南部地方、石川県の一部などでメダカを指す例があり、岐阜県郡上市ではシマドジョウを指す例がある』。『全国的には、淡水に生息するハゼ類がゴリと呼ばれる場合が比較的多い。しかし、琵琶湖近郊やその重要市場である京都市や徳島県などでは、ハゼ科のヨシノボリのことを』特に『ゴリと呼ぶ』。『高知県、特に四万十川、それに和歌山県の東部ではハゼ科のチチブの幼魚をゴリと呼ぶ』。『地方によっては、ゴリカジカ、ゴリンベト、ゴリンチョ、ゴリンジョ、ゴリンドーなどの呼び名を使う例もある』。『日本語で「鰍」は「ゴリ」を意味するが、中国語で「鰍」はドジョウを意味する。中国語で「ゴリ」は、「杜父魚」と書かれる』。なお、慣用句の「ごり押し」について、『ハゼ科の「ゴリ」は、吸盤状の腹ビレで川底にへばりつくように生息するため、漁の際には網が川底を削るように、力を込めて引く必要がある。この漁法が、抵抗があるところを強引に推し進めるという意味の「ごり押し」の語源となっているという説がある』とある。

『一種、腹下に、まるきひれあり。其のひれの平〔ら〕なる所ありて、石に付く。是れ、眞の「ゴリ」なり。膩(あぶら)多し。羹〔(あつもの)〕と爲し、味、よし。形は「杜父魚〔(とふぎよ)〕」に同〔(おなじく)〕して、小なり。但し、背の文、黑・白。まじれり。又の名、「イシブシ」。賀茂川に多し。漁人、とりやう、ありて、多くとる』「とりやう」は「漁(と)り樣(やう)」で漁獲方法にコツがあることを言っている。この叙述は実は悩ましい。というのは「イシブシ」というのは現在では、

ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属ウキゴリ Gymnogobius urotaenia

の異名とすることが多いのであるが、「まるきひれ」(丸き鰭)「あり。其の」鰭「の平〔ら〕なる所ありて、石に付く」、則ち、吸盤状の腹鰭で、川底の石や護岸に吸するという性質は、若魚の場合、ふらふらと遊泳をするウキゴリ(だから「浮きゴリ」)ではなく、

ゴビオネルス亜科ヨシノボリ属 Rhinogobius

のヨシノボリ類に特徴的なものだからである。なお、ヨシノボリ類は現在、多数の種(或いは亜種)らしきものが確認されている。詳しくはウィキの「ヨシノボリ」を参照されたいが、そこには現行の日本産ヨシノボリ属の種として実に十五種が掲げられている。

 ところが、さらに悩ましいのは、私が六年間を過ごした北陸で「ゴリ料理」(金沢が名物)と言えば、上記の種ではないのである。ウィキの「ゴリ」によれば、『北陸から丹後にかけての地方では、カサゴ目・カジカ科のカジカ、ウツセミカジカ、アユカケ(カマキリ)などの淡水産カジカ類をゴリと呼ぶ。特に石川県金沢市周辺ではこれらの魚を用いた佃煮、唐揚げ、照り焼き、白味噌仕立てのゴリ汁などの「ゴリ料理」が名物となっている』とあるからである。以上の「ゴリ料理」の種はそれぞれ、

条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux(日本固有種。北海道南部以南の日本各地に分布。「ドンコ」の異名でも知られ、ここに出る「杜父魚」(とふぎょ)も現行ではこのカジカの異名とされることが多い

カジカ属ウツセミカジカ Cottus reinii(日本固有種。北海道南部・本州・四国・九州西部の分布(主に太平洋側とも)。嘗ては琵琶湖固有種とされたが、全国的に広がっている小卵型の個体群と琵琶湖産のそれは遺伝的な差が僅かにしかないことが判明している)

カジカ属アユカケ Cottus kazika(日本固有種。「カマキリ」は異名。胸鰭は吸盤状ではなく、分離している。鰓蓋には一対の大きい棘と、その下部に三対の小さい棘を持ち、和名は、この棘に餌となる鮎を引っ掛けるとした古い伝承に由来する)

 ここまでくると、益軒どころか、古えも今も何を「ゴリ」に比定するか、とことん、迷ってしまうのである。、私が嘗て、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「石斑魚(いしぶし)[ウキゴリ?]」の注で同定迷走した時には、例えば、辞書を引いても、それは解消されなかった。

・「広辞苑」 川魚ウキゴリの別称。「和名抄十九」

・「大辞林」 ウキゴリ、ヨシノボリ、カジカの異名。

・「大辞泉」 (1)ウキゴリの別名。(2)ドンコの別名。(3)ヨシノボリの別名。

・「角川新版古語辞典」 かわかじか。夏の季語。

しかし、まんず、以上を綜合すると、票が多い当確二名は、

スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属ウキゴリ Gymnogobius urotaenia

カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux

としてよいだろうとは思うし、何となく「源氏物語」なんぞに出るのは、「ブサイクなカジカじゃあなくて、やっぱ、ヨシノボリかなあ?」などと思ったのを思い出した。ところが、それでは最初の鰭の吸着がヤバクなるのだ! されば、やはり、

ゴビオネルス亜科ヨシノボリ属 Rhinogobius

が、『眞の「ゴリ」』に穴馬で当たっちゃうことになるのである。取り敢えず、疲れて来たので

「背の文、黑・白。まじれ」るという『眞の「ゴリ」』は「ヨシノボリ」

そうでない「膩(あぶら)」のない「ゴリ」は「ウキゴリ」

としておく。番外の「カジカ」は異形で、益軒の叙述では論外となる。脂の有無はカジカは食ったことがあるが、「ヨシノボリ」も「ウキゴリ」も食ったことがない私には判らぬ。

これにて、この考証は終りとする。

『筑紫にて「ウロヽコ」と云ふ物なり』何故、ここを改行したか? 実はぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カワヨシノボリ」Rhinogobius flumineusのページの「地方名・市場名」の欄を見たからである。同ページによれば、生息域の中に『九州北部』が含まれており、滋賀県琵琶湖周辺で稚魚のことを『ウロリ』・『ウリンコ/福岡県久留米市』(下線太字やぶちゃん)・『ウルリ/岐阜県岐阜市、関市』・『ウルル/岐阜県岐阜市、関市』・『ウロリ/岐阜県岐阜市、関市』とあったからである。この「ウリンコ」を始めとする、異名群は見るからに「ウロロコ」に親和性があるからである。ここを改行したのは、続いていると、『眞の「ゴリ」』じゃない方の、私が「ウキゴリ」とした方を『筑紫にて「ウロヽコ」と云ふ物なり』と読めてしまって、始末に負えないからである。いや、考えてみれば、ここでブレイクが入り、京附近で言っている複数の種を指す「ゴリ」は、筑紫で「ウロロコ」と呼んでいる魚類と同じものだ、と益軒が言っていると考えることは、何ら不自然ではないのだ。文句のある人は、私とは別に一から種同定をされるがよかろう。私より真に論理的に正しい正確なそれが出来たとならば、是非是非、お教え下され。謹んで御拝聴申し上げまする。

」(「」は実際には(へん)と(つくり)の間に縦一画が入った字体)この字体でもよいのであれば、後で出る通り、中文サイトの漢字辞典にも、漢名ではこれは「河豚」の別名と出るのである。「和名類聚鈔」原本でも確認した。しかし……う~ん……これは困る気もするぞ……河豚は膨らんで浮かぶんだよ……そうなんだよ……これは「ウキゴリ」の若い魚の遊泳習性と親和性を持った呼び名なんじゃないかってちっらと思っちゃったんだよなぁ……まあ、「其の形狀、河豚〔(フグ)〕に似て、小なり」だけってことで。

「伏沉〔(ふくちん)〕」伏せるように沈んでいること。

「澮溝〔(くわいこう)〕」「澮」は「細い小川」「用水路」「溝」。

『其の大なる者、夜に至りて鳴く。其の聲、淸亮にして愛すべし。土人、之れを「河鹿(カジカ)」と謂ふ』無論、「ゴリ」類は孰れも鳴かない。これは所謂、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri の誤認であろう(江戸時代にはカジカガエルは鳴き声の美しさがもて囃され、贈答なんぞもされていたのだが、知らぬ人は知らぬものなのである。ある動物の鳴き声を全く別の生き物に誤認していた例は江戸期の随筆にも多数登場する。いい例が螻蛄(ケラ)の鳴き声を蚯蚓(ミミズ)とした例で、これは近代に至るまで民間では信じられていた。お時間のある方は北越奇談 巻之五 怪談 其三(光る蚯蚓・蚯蚓鳴く・田螺鳴く・河鹿鳴く そして 水寇)を読まれたい)。いやいや、とすれば、この鳴くと誤認されているのは、それこそ「其の味、極美」の、ほれ! 蛙じゃない「カジカ」、カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux なんじゃぁ、ないのかなぁ?]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(52) 武權の勃興(Ⅳ) / 武權の勃興~了

 

 吾人の見た如く、日本に於ける武力的統治の歷史は、信賴するに足る歷史の殆ど全期間を包含して、近代に迄至り、國民的完成の第二期を以て終つて居るのである。量初の第一期は、諸氏族が初めて最大なる氏族の主長の指導を受け容れた時に始まつた、――爾後この主長は天皇として、最高の司祭として、最高の審判者として、最高の司令官として、且つ又最高の長官として尊敬されて居た。この族長的王國の下にあつた最初の完成の出來るまで、どれ程の時日が要せられたか、それは解らない、併し二頭政治の下にあつた後の完成が、優に一干年以上を占めてゐたことは既に述べた通りである……。今や注意すべき異常な事實は、これ等の世紀を通じて、皇室の祭祀はみかどの敵すらも大事にこれを守つて來たと云ふことである。みかどは、國民的信仰の唯一の正統なる統治者であり、天子則ち『天の子息』――天皇則ち『天の王』である。騷亂の各時代を通じて、日の子孫は國民的禮拜の的であり、又其の宮殿は、國民的信仰の神社であつた。偉大なる武將は、或は天皇の意思を制肘した場合もあつた、併しそれにも拘らず、彼等は自分自身を神の化身の禮拜者であり、奴隷であるとしてゐた。そして法令を以て宗敎を悉〻く廢棄してしまはうといふやうなことを考へる者もなかつたと同樣に、皇位を占奪しようといふやうな事を考へるものもなかつたのである。ただ一度、足利將軍の專橫なる愚舉に依り、宮廷の祭祀は甚だしく阻害されたこともあつた。そして皇室の分裂から起つた社會上の地震は、纂奪者等をして、その過失の如何に大なるかを思ひ至らしめた……。萬世一系の皇位、皇室禮拜の連綿たる繼續のみが、家康をしてすらも、社會の融和し難き諸單位を纏めて、鞏固にする事を得せしめたのであつた。

[やぶちゃん注:「皇位を占奪しようといふやうな事を考へるものもなかつた」或いは、平安中期に「新皇」を名乗った平将門を想起して「彼はどうか?」と主張される向きもあるかも知れぬが、ウィキの「新皇によれば、『この将門の新皇僭称は、朱雀天皇を「本皇・本天皇」と呼んでおり、藤原忠平宛ての書状でも「伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門はまぎれもなく桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい。」とあり、また除目も坂東諸国の国司の任命に止まっている事からも、その叛乱を合理化し』、『東国支配の権威付けを意図としたもので、朝廷を討って全国支配を考えたものではなく』、『「分国の王」程度のつもりであったと思われる』とあることで、八雲の謂いは有効である。]

 ハアバアト・ベンサアは、社會學の徒に次の事を認めるやうに敎へた、則ち宗敎的な王朝は異常な永續性を有つてゐる。それは變化に抵抗する異常な力を有つてゐるからである。然るに武力的王朝は、その永續性が主權者の個性に據るので、特に崩れ易いのであると。日本皇室の偉大なる永續性は、單に武力的支配を代表する幾多の幕府や執權府の歷史と對照して、この說を最も著しく說明してゐる二千五百年を振り返つて見る時、吾々は皇位繼承の連綿たるを辿り、終に過去の神祕の中にその姿を沒するに至るのを見るのである。玆に吾々は宗敎的保守主義の本來の特質である、あらゆる變化に抵抗する絕大な力の證據を見る次第である。それと共に一方に、幕府や執權府の歷史は、何等宗敎的基礎を有たず[やぶちゃん注:「もたず」。]、從つて何等宗敎的凝集力を有たない制度の、崩壞に至る傾向をもつて居る事を證明して居る。藤原氏の統治の、他に比較して著しく繼續した事は、藤原氏は武力的と云ふよりも、寧ろ宗敎的貴族であつたと云ふ事實に依つて說明され得るであらう。家康が工夫した驚異すべき武力的構造すらも、異國の侵入がその避くべからざる崩壞を早めた以前、既に衰退し始めてゐたのである。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(51) 武權の勃興(Ⅲ)

 

 かくして一時、行政上の全權はみかどの手に復歸した。天皇御自身にとつても、又日本の國にとつでも、不幸なことには、後醍醐天皇の性格が、餘りに弱きに過ぎたため、此の得難き大事な機會を有利に用ふることができなかつた。天皇は、御子を將軍に任命して、すでに無くなつた將軍職を再興した。天皇は、優柔不斷で、忠義と勇氣とによつて、自分を舊の位に復さしめてくれた人々の功績を無視し、かへつて愚かにも、當然恐れて然るべき人々の勢力を大にするやうな事をした。其の結果として、日本歷史中の、最も重大なる政治的危機、卽ち皇室そのものの分裂を招致したのであつた。

 

 北條執權の傍若無人な專制は、かくの如き事件の起り得べき道を作つたものであつた。第十三世紀の晚年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廢帝が居られた。されば皇位繼承の爭ひを招致するのは容易な事であつた。そしてこの事は、後醍醐天皇が不覺にも特別の恩寵を與へられた二心ある武將足利尊氏に依つて果たされたのであつた。足利は既に後醍醐天皇の復位を助けるために北條に反き、次いで彼は政權を握らんがためには後醍醐天皇の御信任をさへ裏切らんとしてゐたのである。天皇がこの奸計に氣づかれた時は既に遲かつた。そし軍隊を足利に向け給うたがそれは敗られてしまつた。それからなほ紛爭のあつた後、足利は首都を占有し、後醍醐天皇を二た度[やぶちゃん注:「ふたたび」。]流謫し、その仲違ひの天皇を立て、新しい將軍職を設立した。ここに於て[やぶちゃん注:「於」は底本脱字。推定で補った。]始めて、皇室の二派は、それぞれ有力な領主達に支特せられて、繼承權を爭つた。後醍醐天皇を尙ほ實際の代表者とした一派は、歷史上南朝として知られ、それを日本の歷史家は唯一の正統派としてゐる。他の方は北朝と呼ばれ、京都にあつて足利一族の勢力に依つて支持せられてゐた。一方、後醍醐天皇は、佛敎の僧院に難を避けられ帝國の國璽を保持して居られた……。爾後五十六年間、日本は二方のみかどを戴いてゐたのである。その結果として生じた亂脈は、國家の保全を危からしめたのであつた。孰れの天皇が正しい權利を有つて居られたかを決定する事は、人民にとつて、容易な事ではなかつたであらう。それ迄は天皇の一身は國家の神性を代表し、宮廷は國家の宗敎の宮と考へられてゐたのである。それ故、足利の纂奪者に依つて始められたこの分裂は、現社會が依つて以て建立されたる全傳統の破壞に外ならなかつた。混亂は益〻甚だしく、危險は愈〻增し來たつて、終には足利氏自身も驚いてしまつたのである。ここに於て足利一族はこの苦境を切り拔けんとして、南朝の五代のみかど、後龜山天皇を說き奉り、國璽を時の北朝のみかど、後小松天皇に讓り給ふやうにと願つた。これが一三九二年に實行されて、後龜山天皇は退帝としての稱號を贈られ、後小松天皇が正統の天皇として國民から認められる事になつた。然し北朝の他の四人の天皇の御名は、尙ほ公儀の表からは除かれてゐる。

[やぶちゃん注:「第十三世紀の晚年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廢帝が居られた」「三人」の「廢帝」は原文“three deposed emperors”である。平井呈一氏も『廃帝』と訳して居られるが、これは日本史学上は誤った用法である。「廃帝」は公的・準公的に内部抗争のために形式的な本人の承諾を全く得ずに強制退位させられた天皇のことで、諡号や廟号を持たずに廃帝後には以前に天皇であったことも認められなかった存在を廃帝(はいてい)と呼ぶからである。なお、現時点では歴代天皇には、総て追号・諡号が与えられており、「廃帝」は存在しないことになっている。しかし、明治までは、明治天皇によって追号されるまで、「淡路廢帝(あわぢはいたい・あわぢはいてい)」(「藤原仲麻呂の乱」により孝謙上皇によって廃位されて淡路に流され、享年三十三で殺害されたと考えられている天武天皇の皇子舎人親王の七男であった淳仁天皇(在位:七五八年~七六四年))と、「九條廢帝」(「承久の乱」直前に四歳で践祚するも、朝廷方の敗北により鎌倉幕府によって廃位となった仲恭天皇(在位:承久三(一二二一)年四月二十日~同年七月九日)。僅か七十八日で廃されており、即位式も大嘗祭も行われなかった。廃位後は母の実家摂政九條道家の邸宅に引き渡され、天福二(一二三四)年に十七歳で亡くなった。彼は歴代天皇中、在位期間が最も短い)の二人が存在し続けた。この“deposed”は、単に、実際には天皇家内の内部抗争と鎌倉幕府の朝廷支配の思惑のために事実上「退位させられて」上皇になった天皇が、同時期に三人も併存していたことを指している。但し、これも厳密に短期閉区間で言えば、「三人」ではなく、史上最多の「五人」であった時期もあるので、正確とは言えない。則ち、鎌倉時代の第九十四代天皇(後宇多天皇(③)第一皇子。後醍醐天皇の異母兄)で大覚寺統の、

後二条天皇在位130132日(正安3121日)~1308年910日(徳治3825日)

の治世で、この時は、後嵯峨天皇の皇子(母は西園寺実氏の娘の中宮西園寺姞子。父母が自分よりも弟亀山天皇()を寵愛して彼を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立を生じさせる端緒となった)で元第八十九代天皇にして持明院統の祖である、

後深草上皇生没年1243628日(寛元元年610日)~1304817日(嘉元2716日))

と、後嵯峨天皇第七皇子で后腹で後深草天皇次男に当たる元第九十代天皇で大覚寺統の祖である、

亀山上皇生没年124979日(建長元年527日)~ 1305104日(嘉元3915日)))

と、亀山天皇第二皇子で大覚寺統の元第九十一代天皇、

後宇多上皇生没年12671217日(文永4121日)~1324716日(元亨4625日)

と、持明院統の後深草天皇の第二皇子と生まれるも、父後深草上皇の働きかけにより、建治元年(一二七五)年に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり、親王宣下、次いで後宇多天皇の皇太子になり、弘安一〇(一二八七)年に後宇多天皇の譲位を受けて即位した(これ以降、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代が暫く続いたが、正応二(一二八九)年に自分の皇子胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まった)元第九十二代天皇、

伏見上皇生没年1265510日(文永2423日) - 1317108日(文保元年93日))

と、持明院統の、伏見天皇第一皇子であった元第九十三代天皇、

後伏見上皇生没年128845日(弘安1133日)- 1336517日(延元元年46日))

がおり、実に、

130132日(正安3121日)から後深草上皇が亡くなる1304817日(嘉元2716日))の凡そ三年五ヶ月の間は実に五人の上皇の並立があった

のである。]

 足利將軍は、かくしてこの非常な危樅を脫し得たのである。然し、一五七三年迄続いたこの武力主宰の時代は、尙ほお日本歷史に於ける最も暗黑な時代たることを免れなかつた。足利氏は十五人の統治者を置いて國政に當たらしめたが、その中には有能な士も多くあつた。彼等は產業を奬勸し、文藝の發達に務めた。然し平和をもたらす事は出來なかつた。爭ひが後から後からと起つた、そして領主達は將軍の命に服せず、互に干戈[やぶちゃん注:「かんくわ(かんか)」。]を交じへた。首都は亂れて、恐怖の狀を呈し、宮廷の貴族達は逃れ出て、自分達を保護して吳れる力のある大名の許に走らなければならぬ程になつた。盜賊は全國到る處に出沒し、海賊は海を脅かした。將軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた。終には農業も商工業も、有力な領主の領土以外では存在しなくなつてしまつた。各地方は荒廢し、飢饉と地震と疫病との恐怖は、絕え間なき戰亂の慘苦に加へられた。貧困の一般であつた事は、後土御門として歷史に知られてゐる天皇――天津日嗣の第百二代なる――が一五〇〇年に崩御された時、大葬費が支出されなかつたため、その御遺骸が四十日も、宮廷の入口に止め置かれてゐたと云ふ事實から、最もよく想像される事と思ふ。一五七三年迄、この慘狀はつづいた。そして將軍職はその間に無力無能に墮落してしまつた。その時一人の健な武將が起つて、足利家を亡ぼし、支配の權を握つた。このこ簒奪者は織田信長で、その纂奪は非常に要求されて居たものであつた。若しこの纂奪が起こらなかつたなら、日本は遂に平和時代に入らなかつたであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「一五七三年」同年八月二五日(元亀四年七月二十六日)に第十五代将軍足利義昭が宇治槇島城を明け渡して降伏、織田信長に追放され、室町幕府は、これを以って事実上、滅亡したとされる。

「將軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた」明との「勘合貿易」での双方の立場の違いを言っているのでだが、小泉八雲はコンパクトに纏めたために、必ずしも事実を伝えているとは言えない。ウィキの「日明貿易」によれば、『当時の明王朝は、強固な中華思想イデオロギーから朝貢貿易、すなわち冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認めなかった。そのため』、『勘合貿易は、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前であった。日本国内の支配権確立のため』、『豊富な資金力を必要としていた義満は、名分を捨て』、『実利を取ったといえる。しかし』、『この点は当時から日本国内でも問題となり、義満死後』、四『代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは』、応永一八(一四一一)年に『貿易を一時停止する。具体的な理由として、足利義持が重篤な病にかかった時に、医療への再認識が高まり、朝貢貿易の主要物が薬膳(生薬)と合薬で、それも南方産の香薬が主で、それらは中国では産しないことから』、『朝鮮・琉球との通交が確保できることを前提に、対明断交に踏み切ったとされている。朝鮮・琉球との貿易で日明間の朝貢貿易を肩代りさせ、評判の悪い冊封関係を断ち切ろうとしたものであ』った。しかし、第六代将軍足利義教時代の永享四(一四三二)年には復活している。『明は貿易を対等取引ではなく、皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の豊かさと皇帝の気前のよさを示すため、明からの輸入品は輸出品を大きく超過する価値があるのが通例だった。日明貿易がもたらした利益は具体的には不明であるが、宝徳年間に明に渡った商人楠葉西忍によれば、明で購入した糸』二百五十文が日本で五貫文(五千文)で売れ、反対に、日本から銅十貫文を一駄にして持ち込んだものが、明では四十~五十貫文で『売れたと記している。また、応仁の乱以後』、『遣明船を自力で派遣することが困難となった室町幕府は』、『有力商人にあらかじめ抽分銭を納めさせて遣明船を請け負わせる方式を取るようになるが、その際の抽分銭が』三千~四千貫文であった。そのため、その十倍に『相当する商品が日本に輸入され、抽分銭や必要経費を差し引いても』、『十分な利益が出る構造になっていたと考えられている』という。また、文明一五(一四八三)年に『派遣された遣明船は大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していたことが知られ、貿易の収益の一部は朝廷に献上されている』。『勘合貿易が行われるようになると』、逆に『倭寇(前期倭寇)は一時的に衰退し、輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など』、『室町時代の文化に影響した』とあり、文化史家として本書を書いている小泉八雲としては、見落とせない内実をカットしてしまったという印象が私には感じられる。]

 何となれば、五世紀以來平和と云ふものはなかつたからである。天皇も、執權も、將軍も、全國にその統治を確立する事は出來なかつたのである。何處かで、終始氏族同志は互に戰爭をして居た。第十六世紀の頃には、一身の安全なるものは、僅に、保護を與へる代償として自分の欲する處を行ひ得るやうな有力な武將の、その保護の下にあつてのみ得られるのであつた。皇位繼承の問題――第十四世紀の間殆ど帝國を碎破した――は無法な黨派に依つて何時再び超こらむものでもなかつた。そしてその結果は恐らく文化を滅ぼし、國民をひてもとの野蠻な狀態に戾すのであつた。この時程日本の將來が暗黑であつた時はなかつたのであるが、その時突然織田信長が帝國に於ける最者として顯はれ、これ迄一人の頭首に服從したもののうちの尤も恐るべき軍隊の主將となつたのであつたのである。信長は神道の神官の末裔であるが、何よりも先づ愛國者であつた。彼は將軍の名稱などはほしがらなかつたし、又それを受けもしなかつた。彼の望みはこの國を救ふ事であつた。彼は、この希望を達するには、何うしてもあらゆる封建的の力を一つの支配の下に集中し、法律を制する他はないと考へた。この集中をなし遂げる方法と手段とを探し求めた結果、彼は、先づ最初に除かなければならない障害の一つは佛敎の戰鬪力――北條執權の下に發達した封建的佛敎、特に大なる眞宗[やぶちゃん注:原文は“Shin”。言わずもがなであるが、これは以下で示される通り、浄土真宗のことである。]、天台宗に依つて代表されるそれに依つて創られた障害であることを察知した。この兩宗派は既に信長の敵に助けを與へて居たのであるから、爭ひの口實を得るのは容易な事であつた。それで彼は先づ天台宗を相手として向つた。戰爭は猛烈な勢ひを以て行はれ、比叡山の僧院なる城塞は襲擊せられ全滅せしめられ、僧侶は盡〻く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]皆その門徒と共に刄にかけられた――女子供に至る迄も少しの慈悲も加へられなかつた。元來信長の性質は殘忍ではなかつた。然しその政策は嚴酷であつた。そして、如何なる場合に、又何故に烈な攻擊を加ふべきかを知つて居た。この虐殺以前に於ける天台宗の大であつた事は、比叡山で燒かれた僧院の數が三千もあつたと云ふ事實を以て想像し得られるであらう。大阪に本山を有つてゐる東本願寺の眞宗派も、それに劣らず勢力があつた、そして今の大阪城の立つて居る所を占めてゐたその僧院は、國中最の城塞の一つであつた。信長は幾年か待つて居たが、ぞれはただ攻擊の準備をするためであつた。僧兵はよく防戰した、この包圍中に五萬の生命が失はれたと言はれて居る。しかも天皇親ら[やぶちゃん注:「みづから」。正親町(おおぎまち)天皇。]の御仲裁が、確にこの要塞の襲擊と城壁內の人々の殺戮とをとどめ得たのであつた。天皇に對する尊崇の念から、信長は眞宗僧侶の生命を助ける事を承諾し、彼等僧侶は只だ所有を沒收せられ、分散せしめられただけで濟んだが、その勢力は爾來永久に碎かれたのであつた。佛敎をかく有功に挫き果たしたので、信長はその注意を互に相爭つて居る氏族の方に向ける事が出來た。この國民がこれ迄生んだ最大の武將等――秀吉及び家康――の支持を得て、彼は更に進んで平和と秩序とを敷かうとした。そして彼の雄圖が正に成らんとした時、一人の家臣の復仇的謀反のため、彼は一五八二年に敢へなく最期を逡げた。

[やぶちゃん注:「信長は神道の神官の末裔である」織田信長の祖父信定は戦国初期の武将で、尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の一つであった織田弾正忠家の当主にして勝幡城城主であったが、彼は越前国織田庄劔神社の祠官の系譜を引いており、本姓はこの頃には藤原氏(越前織田氏は忌部氏を称した)を称していたが、後に信長が平姓に改めた、とウィキの「織田信定にある。

「天皇親ら御仲裁が、確にこの要塞の襲擊と城壁內の人々の殺戮とをとどめ得たのであつた」正親町天皇であるが、この両者の長い「石山合戦」(元亀元(一五七〇)年九月~天正八(一五八〇)年八月)の果ての講和は事実上、双方の戦略上の結果であって、正親町の成果ではない。]

 

 その血管に平氏の血を有つてゐた信長は、根本的に貴族であつて、行政に就いては、その大宗族[やぶちゃん注:有力な「氏族」としての藤原氏。前注参照。]の有して居た才能を繼承し、外交のあらゆる傳統を體得してゐた。彼のための復仇者であり且つは後繼者であつた秀吉は、信長とは全く異つた型の武人であつた、彼は一農夫の子であつたが、その銳敏と勇氣と、自然に備つた武藝の技と、戰爭の掛け引きに對する生まれながらの一才能とを以て、その高位をかち得た訓練を經ざる天才であつた。信長の雄圖に對して、彼は常に同情をもつて居り、そして實際その雄圖を遂行した――彼に關白の位を授け給うた天皇の名に於て、南北に亙つて全國を平定したのである。かくして全國の平和は一時打立てられた。然るに秀吉が集め且つ訓練した大武力はやがて制御し難いものとなる徵候を現はし始めた。ここに於て彼は彼等に仕事を與へんがために、朝鮮に對し理由なき戰ひを宣し、それに依つて支那征服を果たさんと希望した。朝鮮との戰爭は一五九二年に始まり、一五九八年迄不滿足な狀態で長引き、その年に終に彼は歿したのである。彼は正に不世出の偉大なる武人である事を示したが、最良なる統治者の一人ではなかつた。朝鮮征討も、若し彼が自分親ら、その事に當つたならば、もつといい結果が獲られたかも知れないのである。事實は、その戰爭は兩國の力を消耗せしめただけであつた。そして日本は奈良の『耳塚』――それは外國の殺された者の頭を鹽漬けにして、それから切り取つた三萬對の耳を、大佛の御堂の境內に埋めて、その場所を明示したものである――を除けば、海外に高價を拂つて得た勝利として、他に殆ど示すべきものを有つて居なかつたのである。

[やぶちゃん注:「奈良の『耳塚』」「奈良」は京都の誤り。現在の京都市東山区にある豊国神社の門前に現存する。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 次いで權力の位置のなくなつた場所へ入つて行つたものは、日本に生まれた最大の偉人――德川家康であつた。家康は源氏の嫡流で、何處までも貴族の人であつた。秀吉を一度敗つた事あつた程で、武人として彼は秀吉に劣つては居なかつた、――然し彼は武人以上の人物であつた。則ち彼は達觀の經世家[やぶちゃん注:政治家。]であつた、絕倫の外交家であつた、更に學者とも言はるべき人であつた。冷靜に、愼重で、權謀あり、――疑ひ深くしかも寬容に、――嚴格にしてしかも情味あり――その天才の廣く且つ多樣なるは、ジユリアス・シイザアに對比するも敢て劣るとは言はれなかつた。信長や秀吉が爲さんと欲して爲し得なかつた處を、家康は迅速に完成した。『異國にさまよふ亡靈となるやうに』――則ち祀られざる靈魂の狀態で――朝鮮に軍隊を殘して置かないやうにといふ、秀吉臨終の命令を果たした後、家康は自分の支配權に抗議するために結束した諸侯の同盟に面を向けなければならなかつた。關ケ原の激戰は、彼を全國の元首とした。それで直に彼は、自分の權力を鞏固[やぶちゃん注:「きようこ」。強固に同じい。]にし、武權政府の仝機關を、微細に亙つて完成すべき手段を講じた。將軍として、彼は大名制度を改造し、封地の大部分を、自分の信賴し得る者の間に分かち、新しい武權階級を設け、且つ大藩主の勢力を、殆ど謀反の出來ないやうに秩序を定めてこれを平均した。後には大名達は自分の他意なき所行に對しては保證をさへ差し出す事を要求された。【註】則ち大名は一年中の或る期間を、將軍の首都で過ごし、その殘りの期間は人質として、その家族を殘して置かなければならなかつた。行政全體が簡潔にして賢明なる企畫の上に建て直された。事實、家康の法律は彼が非凡な立法家であつた事を證明して居る。ここに日本歷史上始めて國民は完成されたのである――少くとも社會的單位の特質が、それを可能ならしめた限りに於て、完成されたのである。この江の建設者の勸告した事は代々の後繼者の從ふ所となり、又一八六七年迄續いた德川將軍家は、國に十五人の武權の主君を與へたが、その下に日本に二百五十年の間、平和と繁榮とを享有し得たのである。そして社會はかくしてその獨得の型の最大限度迄發展する事が出來たのてある。產業や藝術は新しく驚くべき程に發達し、文學は立派な後盾を得たのであつた。國家の祭祀は大事に支持され、第十四世紀に國を殆ど危殆[やぶちゃん注:「きたい」。「危険・危機」に同じい。]に頻せしめたかの皇位繼承の爭ひの、再び起こる事を防ぐためには、あらゆる愼重な注意がとられたのである。

註 江戶に義務的在住(參勤)の期間はすべての大名に對して同一ではなかつた。或る場合にはその義務は六箇月に及び、また或る場合には一年置きに首府に居る事もあつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「参勤交代によれば、慶長五(一六〇〇)年に「関ヶ原の戦い」で『徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため』に、『江戸に参勤するようになった。家康は秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与え、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)を江戸に住まわせる制度を立てた。当初、参勤自体は自発的なものであったが』、『次第に制度として定着して』行き、寛永一二(一六三五)年、徳川家第三代将軍徳川家光が「武家諸法度」を『改定したことによって』、『諸大名の義務となっ』た。『制定後、諸大名は一年おきに江戸と国元を往復することが義務となり、街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の居城と江戸藩邸の両方の維持費などにより』、『大きな負担を強いられた。これに依って諸藩の国力低下に繋がり、徳川家が支配する長く戦争のない江戸時代が確立されて』行くことにはなった。『この制度は江戸時代を通じて堅持されたが』、享保七(一七二二)年に、徳川吉宗が、「上米(あげまい)の制」と呼ばれる、石高一万石に対し、百石の『米を上納させる代わり、江戸滞在期間を半年とする例外的措置をとったことがある。この措置には幕府内に反対意見もあったようではあるが、幕府の財政難を背景に制定されたということもあり』、結局、享保一五(一七三〇)年まで続けられた、とある。]

2018/08/28

大和本草卷之十三 魚之上 カマツカ

 

【和品】

カマツカ 京都ニテカマツカト云又賀茂ニテ河キスゴ或ハ

 カナクシリト云カモ川ニ多シ其形ハゼ又キスゴニ似タリ

 頭方ニシテカトアリ色モ味モハゼニ似タリ長六七寸地

 ニツキテ上ニヲヨカス或沙中ニカクル膾トスヘシ性平無毒

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

カマツカ 京都にて「カマツカ」と云ふ。又、賀茂にて「河キスゴ」或いは「カナクジリ」と云ふ。かも川に多し。其の形、「ハゼ」、又、「キスゴ」に似たり。頭、方(けた)にして、かど、あり。色も味も「ハゼ」に似たり。長さ、六、七寸。地につきて、上に、をよがず。或いは、沙中に、かくる。膾とすべし。性、平。毒、無し。

[やぶちゃん注:条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ属カマツカ Pseudogobio esocinus

『京都にて「カマツカ」と云ふ』ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のカマツカのページには、『鎌柄』で『琵琶湖周辺での呼び名。鎌の柄のように硬い。煮ると』、『鎌の柄のように締まるため』とある。

「賀茂」京都府京都市にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の周辺域。この一条、「京都」と「賀茂」と「かも川」(鴨川)という京都を殆んど知らぬ私などにとっては「そないな細分区分が本当に出来るんかいな!?」と激しくツッコミたくなる。

「河キスゴ」「キスゴ」は海水魚の条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica のこと。生態や細身のスマートな体型が似ており、白身魚として調理法も塩焼き・天ぷらなどにして美味という点でも似ていることによる。

「カナクジリ」ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のカマツカのページには異名が沢に載るが、その中にカナキシ・カナクジ・カナクジリ・カナビシャの類似名の中に出る。「カナ」は「金」で「硬いもの」か。カマツカの頭部が後に出るように四角い方形を成し、それが一見、硬く見え、さらに臆病な性質から、驚いたり、外敵が現れたりすると、その頭で素早く川底の砂に穴を掘って中に潜り込み(これが「クジリ」(くじる:穴を空ける))、目だけを出して身を隠す習性を持つことからの異名であろうと思われる。

「ハゼ」条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei に分類される魚の総称。漢字では「鯊」「沙魚 」「蝦虎魚」など書く。ウィキの「ハゼ」によれば、二千百『種類以上が全世界の淡水域、汽水域、浅い海水域のあらゆる環境に生息し、もっとも繁栄している魚のひとつである。都市部の河川や海岸にも多く、多くの人々にとって身近な魚に挙げられる』とし、『運動能力の低い底生魚ゆえ、体色は砂底や岩の色に合わせた保護色となっているものが多い。ただし温暖な海にはキヌバリ、イトヒキハゼ、ハタタテハゼなど派手な体色をもったハゼも生息する。シロウオなど透明な体色のものもいる』とある。

「方(けた)」四角の意。「四」を表わす「十」文字の形「+」(桁状)及びそれが合わさって形成される「」から。

「六、七寸」十八~二十一センチメートル程。カマツカは体長十五~二十センチメートルほど(長く下に尖った吻を特徴とし、吻の下部には一対の触手としての鬚(ひげ)を持つ。

「をよがず」表記はママ。「泳がず」。 

「膾」大型個体は刺身も美味いとされるあ、寄生虫が恐いのでやめましょう。

「平」漢方で、寒涼や熱温の作用が顕著ではない緩和的薬性を持っていることを指す語。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 嶋タカノハ魚 (タカノハダイ)

 

嶋タカノハ魚

 

Simatakanoha_2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。今まで本巻子本で複数個体同定してきた種であるが、これっくらい安心して、はっきり、スズキ目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Cheilodactylus zonatus に同定出来る図版はない。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 コマイシダイ (イシガキダイ)

 

Komaisidai

 

コマイシダイ

   石ダイノ類

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。標題和名は実は「ゴマイシダイ」の意ではないかと踏んだ。而してイシダイ(スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus)に似ていて、黒い丸い「胡麻」状斑点があるとなれば、これはもうあれだと思った。「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イシガキダイを見よう。側扁し、体高が高く、横から見ると、楕円形に近い点、黒い不定形の斑文があるが、それがやや不明瞭になりつつあるらしい個体であることから見て、スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシガキダイ Oplegnathus punctatus の青年魚と同定してよいのではあるまいか。なお、ウィキの「イシダイによれば(この部分はウィキの「イシガキダイの同様の記載よりもより良い。かなり以前から自然交雑が行われていたことが判るからである)、『自然環境下でのイシガキダイ O. punctatus との交雑も確認されている』。明治から昭和初期にかけて長崎で活動した実業家で水産学者の倉場富三郎(くらばとみさぶろう 明治三(一八七一)年~昭和二〇(一九四五)年八月二十六日(長崎にて自死。混血であった故の晩年の不遇はウィキの「倉場富三郎を是非見られたい):「グラバー邸」で知られるイギリス人貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover 一八三八年~一九一一年)と淡路屋ツルの長男。正式な英名はTomisaburo Awajiya Glover(トミサブロー・アワジヤ・グラバー))が編纂した『「グラバー図譜」にはこの交雑個体が載っており、「ナガサキイシダイ」という名前で呼ばれたことがある。交雑個体(Oplegnathus fasciatus × Oplegnathus punctatus)はイシダイの横縞とイシガキダイの黒斑の両方が現れるが、鰭条数等は母親の影響が強いとされている』。二〇一〇年十一月十一日には『北海道寿都町の沖合で漁師に捕獲されて』おり、『人工交雑は近畿大学水産研究所で』一九七〇年に『成功した。この雑種は「イシガキイシダイ」、または交雑に成功した近大に因み「キンダイ」とも名付けられている』(個人的には後者の和名はなんだかなぁと思う)。『雑種は生殖機能を持たないため』、『子孫を残せず、学名もつけられていない』とある。]

反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第二

 

   ○尾崎狐 第二

 

 靑梅海道に阿佐ヶ谷といふ村あり、堀之内より二十町程あり、其名主を喜兵衞といふ。叔氏醉雪翁の婦(つま)の姻家(さとつゞき)なり。

 別家あり、同村にあり、虎甲といふ。其家に妖恠出で、四月下旬より八月に至る迄止まず、七月下旬、醉雪翁が末子(ばつし)弟次、行(ゆき)て見しに、

「此日はさしたることなし。梁上より錢一文を抛(なげう)つ。暫くして椽(えん)の下より竹竿を出(いだ)し、振𢌞(ふりまは)す。此外、恠しきこともなかりし。」

よし。

 其後、八月に至(いたり)て消息を問ふに、猶、怪しきこと言盡(いひつく)すべからず、或人、寶劍のよしにて、一刀を持來(もちきた)るに、寶劍、自(おのづ)から拔出(ぬけい)で、飛(とび)あるく。人々、驚(おどろき)、箒を以て打落(うちおと)し、からくして、室に收め、面目なく逃歸(にげかへ)る。

 又、或人、「蟇目(ひきめ)の法」を修したるよしにて來りしが、是も、弓を引(ひき)たるまゝ、棒しばりの如く、作り付(つけ)たる人形の如く、放つ事、能はず、稍々(やや)暫くして、力盡きてゆるまりければ、亦、赤面して逃去(にげさ)るよし。

 其外、單衣(ひとへ)を腰より切離(きりはな)ち、半てんとなし、別なる半てんの下に、右單衣の下を綴り付たる樣、人工と殊なることなし。

 又、飯櫃に入(いり)たる牡丹餅(ぼたもち)は蓋(かぶ)せし儘に失せ、茶釜の茶は水となり、又、沸湯となり、見る間(ま)に、かはる。茶碗、宙を飛び、煙草盆、天井に付くなどの類、說盡(ときつく)し難し、といふ。

 予、小野竹崖を訪ひて、談(ものがたり)、これに及び、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「子は射術の師範なれば、定(さだめ)て蟇目を行ふこともあるべし。右の說、虛說ならばよし、もし實(まこと)に是等のことあらば、如何(いかに)か處(しよ)し玉ふ哉(や)。予、寶劍をば持たずといへども、兩刀を帶(おび)たれば、これが飛出(とびいで)たらんには面目なし。狐狸、彌(いよいよ)かかる技能ありや。若(も)しさあらんには、是迄、あなどりて、ことともせざりしは不覺也。吾(われ)、道にては邪は正に勝(かつ)能はずなどいへれど、かゝる術あらば、鬼神と同じく、敬するにしかず。武力施す所なく、正道、邪に勝つこと、能はず。吾(われ)事を好むにはあらねども、窮理の爲(ため)なれば、彼(かの)地に行向(ゆきむか)ひて實否を正し、其上にて工夫を用ひんと欲す。子(し)、ともに去り玉ふまじや。」

といへば、

「尤(もつとも)。」

とて同(どふ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])じけり。

 一日、朝まだきに出で、彼家に趣く。途中に四谷傳馬町「ドウミヤウ」といふ藥店の人に逢ふ。此人も右の恠異の不思議さに、是迄、訪(おとな)ひ來りしよしにて、同道せり。

 阿佐ケ谷の入口なる水茶やにて辨當を遣ひ、亦、其風聞を聞くに、猶、大(おほい)に恠敷(あやしき)ことども有り。

「八朔の日は、江戶の人々、來り、大言して恠異の物語すると、其儘、土砂を頭より蒙りたり。或(あるい)は、恠を罵(ののし)る者は、必ず、其祟りに遇ふ。みぞ・堀などに入者(いるもの)もあり、糞坑(くそあな)に入物(いるもの)もあり。」

となり。

 これにて藥種や、恐ること甚(はなはだ)し。予が輩も、隨分、小心にして、敢てみだりなる言を出さず。

 先(まづ)、名主に至りて案内を賴み、扨、凶宅に至り、暫く休息を乞ひけり。其間、六、七町也。

 扨、寒溫を舒(の)べ、次に歲の豐凶など語り、敢(あへ)て「怪」の字、半句も說かざりけり。小半時にして、何ごともなし。予、默禱(くちのうちにいのり)【もくとう。】して曰(いはく)云々。呪文の大意は、

「これ迄來(きた)ること、事を好むにあらず。實(まこと)に吾輩、狐狸の恠を信ぜず。大(おほい)に慢(あなど)り汚(けが)すことあるべし。これ、吾道に於て其說なく、且は、未だ目に見たることなき故のこと也。彌(いよいよ)其術あらば、吾等の惑ひ、とくる程に技能をあらわし[やぶちゃん注:ママ。]、以後を警(いま)しめ玉へ。」

と如ㇾ此(かくのごとく)呪(じゆ)して、しばしあれども、ことなし。

 又、默禱して、いふ。

「かく迄、其技を見んことを望むに、おしみて、肯(うべなひ)て示さざるは如何に。さればこそ、吾道にて常に慢(あなど)ることあるは、かゝるいゝ[やぶちゃん注:ママ。]甲斐なき業(わざ)をなし玉ふ故也。吾去りて後、如何樣に技能を逞(たくまし)ふし玉ふとも、吾、決(けつし)て其術を信ぜず。されば、慢(あなど)る心、やまず。以後、禮を失ふこと、多かるべし、其時に、怒り玉ふことなかれ。」

といふに、時ありて、又。事もなし。

 於ㇾ是(ここにおいて)、大(おほい)に罵りて、いふ。

「かく迄、理(ことわり)を盡し、辭(ことば)を盡しても感應なきは、靈に通ぜし者にあらず。口より出(いで)ざる言(ことば)は耳に入(いる)ことなきに似たり。然(しか)れば人と殊(こと)なることなく、技能も人に勝ること、覺束なし。果して、吾、常に思ふの外には出ざりけり。あたら、ひまを費して、窮理の爲に是迄來りたるは、大に無益なりけり。さらば、大言せしとて祟りあるべからず。此頃のはなしをきかんとて、主人と恠の談(ものがたり)に及び、委細を尋(たづぬ)るに、果して、十に八九は、虛說なりけり。其實、瓦礫(ぐはれき)を抛(なげう)ち、食を竊(ぬす)むの外は、恠といふ程の事はなし、といふ。予、其時、思ふ、此(この)行(おこなひ)や、究理に能はずといへども、別に一事を得たり。是より以後、世の風說、十の壹二と聞くべし。吾、今日、理(ことわり)を究(きはめ)たり。」

とて笑ひ罵りて、竹崖・藥種やを促して立歸る。

 此日、四つ半時より、八つ頃迄、凶宅に居しが、何事もなし。興、索然として、又、靑梅街道を淀橋通り來り、十二社にて休(やすら)ひ、内藤新宿、通り、歸家す。

 天保八年八月七日、大風雨の、一日降(ふり)て後なれば、殘暑も大(おほき)に退(しりぞ)き、遊行(いうかう)には甚(はなはだ)美(よき)日にてぞありける。

[やぶちゃん注:次は底本でも改行されてある。]

 門人興津生の父、幼少の頃、家に池袋の奉公人を置(おき)て、此祟りあり。其頃、人のいふをきくに、不思議なる事ども也。

 或日、昨夜より釜に米を仕掛置きて飯を燒きしに、櫃に移すとき、釜の膚(はだへ)に付(つき)たる所より、さなだの紐、出(いづ)る。段々と飯を移して盡(つく)るに至れば、主人の越中犢鼻褌(ふんどし)、疊みたる儘に下にしきて有り。其紐のはし、先(まづ)、あらわれたるなり。

 或時は、人にかわりて膳立(ぜんだて)をして置(おく)に、銘々の膳椀、一つも間違ひたる事なし、などいへり。

 阿佐ヶ谷より歸りて後、興津生の父と、談(ものがたり)、恠の事に及びし故、古への話を聞(きき)しに、

「是も十の一二なり。畢竟、此種の狐、野狐(やこ)よりも、性(しやう)、愚(ぐ)にして、さしたる能(のう)なきに似たり。大體、猫のいたづらに異ならず、人事にも通ずることなし。一月餘(あまり)の間に、唯(ただ)、一事、やゝ人事に通じたる事ありけり。臺所の膳棚にありける下男が膳に、さらの有(あり)たるに、生のむかご、一つ、靑とうがらし、一つ、おきたり。此一事のみ。其餘は見るに足(たる)事なし。」

と語りき。

[やぶちゃん注:以下の頭の「《御徒目付となる。》」は当該箇所の頭書(かしらがき)と本文割注の下にあるものをここへ、かく配したものである。「興津彌八郞」に就いてのそれである。ここは底本では改行されていない。]

《御徒目付となる。

 興津彌八郞【其頃、廿騎町與力、今、御裏門與力。其(その)子鉉一郎、予、門人なり。】、其頃、興津が家僕、早朝、庭の掃除に出(いで)しに、異獸、孳尾【じひ】して居(をり)し故、一棒に打殺(うちころし)、其一つは佚(にが)せり。其さま、いたちより大にして、尋常狐より小なり。唯、羣集して害をなすを如何ともしがたき、よし。

 

[やぶちゃん注:長いので、改行を施して読み易くした。先の「尾崎狐 第一」の続編である。

「阿佐ヶ谷」東京都杉並区佐谷北附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「堀之内」東京都杉並区堀ノ内。ここ(グーグル・マップ・データ)。中心は上記の北の端の中央線阿佐ヶ谷駅から南東に二キロメートルほど。

「二十町」二千百八十二メートル。

「叔氏醉雪翁」二度、既出既注。筆者鈴木桃野の叔父多賀谷仲徳。先手組与力で火付盗賊改方を兼務した。「魂東天に歸る」の話と注を参照のこと。

「婦(つま)の姻家(さとつゞき)」妻の実家の親族。

「虎甲」「とらかつ」か。屋号であろうか。主人が甲寅(きのえとら/コウシン)年の生まれででもあったか。

「弟次」「おとつぐ」か。

「からくして」からくも。やっとのことで。

「蟇目(ひきめ)の法」弓を用いた呪術。「蟇目」とは朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったものを指す。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注を参照。これらを見ると、特に狐憑きに効験があったと考えられていたことが判る。精神病者に対する乱暴なショック療法である。

「單衣(ひとへ)を腰より切離(きりはな)ち、半てんとなし、別なる半てんの下に、右單衣の下を綴り付たる樣、人工と殊なることなし」判り難いが、しまっておいた単衣の衣が腰から下が切り取られて半纏状にされており、別にあったもともと半纏であったものの下に、その切り離した単衣の腰から下の部分が、知らぬうちに綴りつけられてあった、その裁断や綴り合せの仕儀は、普通に人間が成したものと全く変わりがなかった、というのである。

「飯櫃に入(いり)たる牡丹餅(ぼたもち)は蓋(かぶ)せし儘に失せ」蓋がちゃんとしてあって、誰も開けていない(はずな)のに、中の牡丹餅は全く消えうせており。

「茶碗、宙を飛び、煙草盆、天井に付く」前の「狐狸字を知る」で私が注した、典型的「ポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist:騒ぐ霊)である。

「小野竹崖」不詳。

「狐狸、彌(いよいよ)かかる技能ありや」この「や」は反語的疑問。

「ともに去り玉ふまじや」同道して行っては下さるまいか?

「四谷傳馬町」伝馬町は、江戸府内から五街道にかかる人足・伝馬の継ぎ立てを幕府の命により行なった「道中伝馬役」を請け負った「大伝馬町」及び「南伝馬町」と、江戸府内限定の公用の交通・通信に当たる「江戸廻り伝馬役」を請け持った「小伝馬町」があったが、ほかに「大伝馬町」と「南伝馬町」に付属する町として、寛永一五(一六三八)年に設けられた「四谷伝馬町」と「赤坂伝馬町」があった。前者は現在の新宿区四谷一~三丁目に相当する。の中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「ドウミヤウ」漢字不詳。

「八朔の日」八月一日。

「藥種や」薬種屋。先の四谷伝馬町の「どうみょう」という店の主人である。

「予が輩」同行していた桃野の弟子(書生のような者)或いは従者であろう。薬種屋主事はいいとしても、弓術師範の小野竹崖を指したのでは、それこそ不遜であるからである。

「其間、六、七町」六百五十五~七百六十四メートルほど。先の弁当を食べた阿佐ヶ谷の入口にあった水茶屋から、その怪異の起こるとされた家までの距離である。当時の読者なら、「ああ、あの辺だ」と判るリアリズムがある。面白い明記ではないか。

「寒溫を舒(の)べ、次に歳の豐凶など語り」凶宅の主人に時候の挨拶を成し、当地の実りの良し悪しを訊ねたのである。訪問したのが「八朔の日」であったことを思い出されたい。丁度、この頃に早稲の穂が実り、農民の間では、その初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、当日は「田の実の節句」とも称したのであった。

「小半時」(こはんとき)は「半時」の半分。「一時」の四分の一。現在の三十分。

「大(おほい)に慢(あなど)り汚(けが)すことあるべし」怪異の主体たる「物の怪」或いは「鬼神」が実在するとならば、私のこの態度は尊大にして不遜であり、その威力や神力を侮り、穢すこととなるであろう。

「吾道に於て其說なく」私の認識の範疇に於いては、そうした超自然的存在について認める部分は、全く、なく。

「肯(うべなひ)て示さざるは如何に」私の要求を了解して、怪異を示さないというのは、どういことか!

「以後、禮を失ふこと、多かるべし、其時に、怒り玉ふことなかれ」こちらがここまで譲って怪異出来を乞うておるにも拘わらず、そちらがひるんで怪異を示さぬ上は、以後、ますます拙者はそなたらに非礼を成すことが多くあるに相違ないことに、当然、なるのであるが、その時になって、遅きに失して、お怒りなさいますなよ!。

「四つ半時より、八つ頃迄」午前十一時頃から午後三時頃まで。

「興、索然として」すっかり興醒めしてしまって。桃野はどこかで、怪異に遭遇して、それを冷徹に分析することを楽しみにしていたことが判る。

「淀橋通り」淀橋(よどばし)は現在の東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋((グーグル・マップ・データ))の名であるが、現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。

「十二社」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『熊野の十二社権現のある地。池があり』、『幽邃の地で、茶屋が列んでいた。新宿区』とある。現在の新宿区西新宿二丁目にある新宿総鎮守熊野神社のこと。(グーグル・マップ・データ)。

「天保八年八月七日」グレゴリオ暦一八三七年九月六日。

「釜の膚(はだへ)に付(つき)たる所」釜の内側の底のことであろう。それを移しているのが「池袋の奉公人」なのである。

「人にかわりて膳立(ぜんだて)をして置(おく)に、銘々の膳椀、一つも間違ひたる事なし」その「池袋の奉公人」は、膳出しの役は一度もやったことがなかったのにも拘わらず、という前提があっての謂いである。

「臺所の膳棚にありける下男が膳に、さら」(皿)「の有(あり)たるに、生のむかご、一つ、靑とうがらし、一つ、おきたり」これは実は謎だ。この下女とこの下男との間には、何か、あったのではないか? 或いは、この下女は彼女に気が合ったとか? 最後の最後に、怪異とは別の謎が出されているようで、却って面白いではないか。

「興津彌八郞」息子とともに不詳。

「御徒目付」既出既注

「廿騎町」既出既注

「御裏門與力」江戸城の裏門は平川門の警備主任か。大奥に最も近く、日常的には大奥の女中達の出入りする通用門であり、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったらしい。この門は別名「不浄門」とも称され、罪人や遺体はここから出されたともいう。

「孳尾【じひ】」「じひ」この漢字の音で「ジビ」であろう。「孳尾(つる)ぶ」で「交尾(つる)む)」の意である。

「尋常狐」「尋常」の「狐」。

「羣集して害をなすを如何ともしがたき」これが尾崎狐の正体と言うわけか。またしても、最後の最後に狐でない狐という妖獣を示して、怪奇完全否定では終わらせない(まさに十の内の一の解明不能の超常現象の匂わせ)。なかなか桃野、やるじゃないか!

ブログ1130000アクセス突破記念《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寒夜

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作文で、底本(後述)では明治四〇(一九〇七)年頃の作とする。明治四十年ならば、龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二・三年次(当時の旧制中学は五年制)で、満十四、十五歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れており、上述の通り、これはおかしい(龍之介の一高入学は明治四三(一九一〇)年九月である)。なお、作品末の葛巻氏の註では、これは、先に電子化した「菩提樹」「ロレンゾオの戀物語」同様、この『「寒夜」も、同じ』学校に提出した『「作文」答案かも知れない。――が、必しも、そうとのみは云い切れないものも、持っている。それらは半紙にも書かれている跡がある』とある。

 下線(底本は右傍線)及び句読点なしの字空け、第三段落の「絶ゑ」はママである。踊り字「〱」は正字化した。

 本文最終段落冒頭には「この事ありてより早くも十とせを經たり」とある。これを葛巻氏の執筆年代クレジットで逆算するなら、作品内時制は明治三十年か三十一年辺りとなる。当時の龍之介は(既に芥川家の養子)四歳から六歳、江東(えひがし)尋常小学校付属幼稚園入園(明治三〇(一八九七)年四月)から翌年の江東尋常小学校(現在の両国小学校)入学年に当たる。芥川家は当時も執筆時も本所小泉町(現在の墨田区両国三丁目)にあった

 本作内にはこの十年の間に亡くなった作者の主人公「童」の「姊」(あね:「姉」)が登場するが、これは芥川龍之介の事蹟に合わせると、事実ではない(芥川家には子はいない)。彼の実の次姉である「新原(にいはら)ヒサ」は健在であり(龍之介より四歳年上。葛巻義定(底本編者義敏の実父。離婚するも西川の自殺後に復縁)・西川豊に嫁す。昭和三一(一九五六)年没)、長姉の「新原ハツ」は龍之介の生まれる前の明治二一(一八八八)年に三歳に満たずして夭折しているからである。私には、この本文に出る「姊」とは、この次姉「ヒサ」を事実上のモデルとしながらも、実は、龍之介が逢ったこともないにも拘わらず、終生、特異的な親しみを感じ続けた長姉「ハツ」の面影が感じられて仕方がないのである。龍之介晩年の名品で、大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した點鬼簿(私の古い電子テクスト)の「二」を、是非、見られたい。

 「伯父なる人」は不詳。系図を見るに、新原・芥川家には該当する「伯父」はいないように思われる。架空の設定か。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを、昨日、突破した記念として公開した。【2018年6月28日 藪野直史】]

 

 

     寒 夜

 

 ほのかなるラムプの火影に、二人の女ありて衣を縫へり。一人は若く、一人は老いたれども、縫へるは共に美しき紅の絹なり。部屋の中狹ければ、うすけれどもともしび隈なく流れて、縫針の寒うきらめくも見ゆ。

 芍薬描ける二枚折りの屛風引きよせたるかたへには、八つあまりのわらべありて、炬燵に足をさし入れつゝ寢ころびて、眞鍮の竪笛を弄べり。古りたれど頰赤きすこつとらんどびとが くゆり濃き琥珀の酒に醉ひて、草野の宵月にふきふくはこれなりと云ふ。伯父なる人の遠き海の彼方より贈りたるを、童は幼き心にもそのさびたる響の中に 白楊と湖との國を夢みて、日も夜も手を離さず弄ぶなり。

 戸の外は雪、未、止まずと覺ゆ。道を行く人は絶ゑたれども庭には折々八つ手のひろ葉をすべり落つる雪の音す。童は西洋紙の手帳を、黄なる書物の上におし廣げつゝ、覺束なき平假名にて其日の日記をつけ始めぬ。書物は、朽葉色の地に紅の蘭の花を描きたるが、そが上に、あらびあんないと物語の金文字うつくしく光りつ。

 二人の女は猶、紅の絹を縫いて止めず。老いたるは鼈甲の緣ある大なる眼鏡をかけたり。折々手をとゞめてほゝえむは童の物かくとてむづかしき顏したるが可笑しければなるべし。若きは手も止めで、童の方を偸み見つゝほゝ笑む 縫へる絹とかたへのすびつの火との赤く頰にうつれる床しく見ゆ。

 母上 またかの薔薇と頰白との物語してきかせ給へ、日記をつけ了れる童は 再 竪笛を手まさぐりつゝ云ふ。母はよべも語りつと老いたる女笑へば、さらば姊上こそと童は若き女の眉をゆすりね。

 風やふき出でし、さらさらと雪の窓をうつ音す。「朝よりふりて止まず。やがて道も絶えなむ」と老いたるが呟けば、若きはともしびをとりつゝ立ちて窓をひらきぬ。童も炬燵より出でてその後に從ふ。よはき燈の光に 白く雪に輝ける道と、向ひの家の掛行燈のおぼろめきたるとが見えたり。「文鳥も寒からむ」と窓を閉しつゝ若き女云ひぬ。「文鳥も寒からむ」 こだまの如く童も答へつ。部屋の隅には朱骨の鳥籠ありて 長く紫の紐を垂れたり。二人は眉を合せつゝ靜に籠の中をさしのぞきつ。されど文鳥は動かず、眼をとぢ頭をたれて止り木にうづくまりたる、眞珠鼠の羽がひもほろろ寒げに見ゆ。「文鳥は眠りぬ われも眠らむ」 程へて童は云ひぬ。

 

 この事ありてより早くも十とせを經たり。その夜の童なりし我の今も雪ふる夜每に思出づるは其宵の雪のびゞき、其宵のともしびの色なり。紅き絹を縫ひ給へる姊上も 眞鍮の竪笛を贈り給へる伯父上も今は共に此世を去り給ひて、彼の薔薇と頰白の物語し給ひし母上のみ、猶、日夜 我が側に衣を縫ひ給ひつゝ、時にふれて我亡き姊上の上を語り給ふも悲し。なつかしきは、其宵の雪のびゞき、其宵のともしびの色なり。あはれ、昔を今になすよしもがな、昔を今になすよしもがな。

 

ブログ1130000アクセス突破記念 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) ロレンゾオの戀物語

  

[やぶちゃん注:芥川龍之介の第一高等学校時代の作文で、底本(後述)では大正元(一九一二)年頃の作かとする。大正元年(明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御により改元)ならば、第一高等学校二・三年次(当時の旧制高校は九月進級)で、満十八、十九歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。本文末に丸括で括られた『我がのれる汽船の舵手が、嗅煙草かぎつゝ、語れる物語をしるす。九月二十二日――「休暇中の事ども」。』とはあるが、この年及び前年の夏季休暇中には汽船に乗るような旅はしていない。大正元八月十六日から二十日まで友人(中塚癸巳男(きしお)か)と信州から木曾・名古屋を旅してはいる。しかし、言わずもがなであるが、そもそもがこの附記全体が私は作品本文にリアリズムを与えるための確信犯の虚構であると言ってよい。それは、この「嗅煙草かぎつゝ」「汽船の舵手が」「物語」「語れる」というシークエンスが、すこぶるハマりまくった西洋画風の素材であり、この大正元年の七月から八月にかけて龍之介はオスカー・ワイルドの作品を複数読んでおり(宮坂年譜の書簡からの確認で三冊)、この潮風と嗅ぎ煙草の匂いは私には主人公ロレンゾオの故郷イタリアの、ヴェニスやナポリは言うに及ばず、如何にもそれこそ、この「語りの男」の姿はアイルランドの船乗りにこそ相応しいと感じるからである。因みに、この執筆されたとも推定し得る大正元年九月には、東京帝国大学一年の山宮允(さんぐうまこと)に伴われて、吉江孤雁を中心とした「アイルランド文学研究会」に初めて出席してさえいるのである。また、宮坂年譜ではこのクレジット(同年とするならば)の直前の九月二十三日にはガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)の一九〇〇 年の小説Il fuocoの英訳 The Flame of lifeを読了しており、長崎まで流れ流れてきた主人公イタリア人水夫ロレンゾオの香りと親和している事実である。以上から見ても、大正元年執筆の可能性は堅いと私は思う。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。作品末の葛巻氏の註によれば、これは先に電子化した「菩提樹」同様、『「ロレンゾオの戀物語」も、「寒夜」』(これに続けて電子化する)『も、同じ「作文」答案かも知れない。――が、必しも、そうとのみは云い切れないものも、持っている。それらは半紙にも書かれている跡がある』とある。

 以下、私が躓いた語に注を附す。

 三段落目の「蛋白石」(たんぱくせき)はオパール(opa l)の和名。

 四段落目の「ゐや」は「禮(礼)(ゐや(いや)」で敬意を表わして頭を下げることの意。

 同じ四段落目の「マルクス寺」はヴェネツィアで最も有名な大聖堂サン・マルコ寺院 Basilica di San Marco)のこと。

 同じく四段落目の「ヘリオトロウプ」はムラサキ目ムラサキ科キダチルリソウ属ヘリオトロープ Heliotropium arborescens 及びその仲間を広く指す。ウィキの「ヘリオトロープによれば、『ペルー原産』であるが、『フランスの園芸家が』一七五七年(宝暦七年相当)に『パリに種子を送り、ヨーロッパ』から『世界各国に広まった。日本には明治時代に伝わり、今も栽培されている』。『ヘリオトロープには約』二百五十『種があるといわれる』。『日本語で「香水草」「匂ひ紫」、フランス語で「恋の花」などの別名がある』。『バニラのような甘い香りがするが』、『その度合いは品種によって異な』り、また、『花の咲き始めの時期に香り、開花後は、香りが薄くなってしまう特徴がある』という。『ロジェ・ガレ社(フランス)の『Heliotrope Blanc』(フランスでは』一八九二年(明治二十五年相当)に』『発売)は、日本に輸入されて初めて市販された香水といわれている』。『大昔は南フランスなどで栽培されており、天然の精油を採油していた』が、『収油率の低さ、香りの揮発性の高さというデメリットから、合成香料で代用して香水が作られるようになった(有機化合物であるヘリオトロピンがヘリオトロープの花の香りがすることが』一八八五年(明治十八年相当)に『判明し、それを天然香料の代用として普及した』)。夏目漱石の「三四郎」(明治四一(一九〇八)年)の第九章にも、ヘリオトロープの香水が登場している、とある。

 同じ四段落の「ミルテ」とはフトモモ目フトモモ科ギンバイカ属ギンバイカ Myrtus communis のドイツ語呼名(Myrte)。ウィキの「ギンバイカによれば、地中海沿岸原産の常緑低木で、『花が結婚式などの飾りによく使われるので「祝いの木」ともいう』。『夏に白い』。『弁の花をつけ、雄蕊が多く目立つ。果実は液果で、晩秋に黒紫色に熟し』、『食べられる』。『葉は揉むとユーカリに似た強い芳香を放つことから、「マートル」という名でハーブとしても流通している』らしい。『サルデーニャとコルシカ島では、果実や葉を用いてミルト(Mirto)というリキュールを作る。古代ローマにおいてはコショウが発見される以前はコショウの地位を占めており、油と酒の両方が作られていたと言われる』。『シュメールでは豊穣と愛と美と性と戦争の女神イナンナの聖花とされ』、『古代ギリシアでは豊穣の女神デーメーテールと愛と美と性の女神アプロディーテーに捧げる花とされた。古代ローマでは愛と美の女神ウェヌスに捧げる花とされ、結婚式に用いられる他、ウェヌスを祀るウェネラリア祭では女性たちがギンバイカの花冠を頭に被って公共浴場で入浴した。その後も結婚式などの祝い事に使われ、愛や不死、純潔を象徴するともされ』て、『花嫁のブーケに使われる』。『生命の樹』『や、エデンの園とその香りの象徴ともされる』とある。

 同じ四段落の「覆盆子」は「いちご」と読む。

 同じ段の末に出る「きほふ」は「競ふ」で「争う・張り合う」の意。

 第五段落「ひさぎぬ」の後の空欄は(句点たるべきところ)はママで、その下の「絶ゑて」の表記もママ。

 第六段落「ジェルザレムメリベラアタの曲」は不詳。識者の御教授を乞う。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを、昨日、突破した記念として公開した。【2018年6月28日 藪野直史】]

 

     ロレンゾオの戀物語

 

 やよひになりて、ロレンゾオは懸になやみぬ。

 悲しくうれしき思たえまなく胸にあふれて、あやしき旅やどりのすまゐなれど、そこはかとなくかぐはしきもののといきのかよひ來て、くれなゐの罌粟の花ざかりにも似たりや。あはれサンタルチアも見そなはせ、ふる里以大利亞(イタリア)を去りしより――かのなつかしきヴェニスの水と鍾のびゞきと白きくゞひの歌とにわかれしより、あるは南、埃及、亞刺比亞の國々、睡蓮の花さく川ぞひの市に黄玉の首環したる遊び女のむれに親み、あるは東印度支那の島々無花果の葉かげの港に、おしろい靑きざればみたる女の數々を見たれど、未此處日本の長崎にて始めてかのひとにあひしばかり、あつきまことの戀を覺えしはあらず。ゆひ髮ふくよかに、小猫の眼ざししたるかのひとのまぼろし、薄べにの薔薇(さうび)の如く、うつゝにもロレンゾオの眼にうかびぬ。かくて蔦の葉しげき赤瓦の軒に群つばめのさゞめきとだえて蛋白石の空に夕月の光うすくにほひそむれば、かれはさびしくひとり夕餉ものしつ。

 やがて色褪せたる天鵞絨のきぬに、靑き更紗模樣のはんけちを頸に結びて、古びしマンドリンをかい抱きつゝ、ものうげにすまゐを出づるは近き海べの酒場に其日のかてを得むとてゆくなり。黃色き窓かけをかけたる酒場の窓は暗き長崎の入江にのぞみて、其處にあかきともしびの光にてらされつゝ、にがよもぎの精なりと云ふ異國の酒を酌みかはす船乘の一むれつどひぬ。ロレンゾオは、物怯ぢしたるさまにて主の翁にゐやをなしつゝ、部屋のかたすみなる椅子に腰かけて、さながら懸人を撫するが如くうれしげにマンドリンを手まさぐるが常なり。もし客の一人「歌へ」と命ずれば直に立ちて歌ふ。歌ふは南歐の俗歌なれども、此時ばかりかれの面の晴れやかなるはあらず。マンドリンの糸のびゞきははなれて久しき以大利亞の夢をよびかへして、其上に櫻草の色したる思ひ出の經緯をひろぐ。日は暖にマルクス寺の金の十字架を照らして、狹き水路は月桂の若葉のかほりにみちたり。白き鳩のむれたや石甃に紅き帽の土耳古人ありて忙しく步みゆくが見ゆ。靑き水にのぞめる家々の窓にはヘリオトロウプ、薔薇、黃水仙などにほへり。音もなくリアルトオの橋をすぎゆくゴンドラよ、いましは何處に行かむとする。南國の日の光に橄欖の如く黑めるロレンゾオの面は、醉心地に赤らみて、マンドリンのトレモロはミルテの靑葉をふく風のやうにすゝりなきぬ。曲終れば、人々拍手して銀貨を投ぐ。其時もしかのひと入り來ればロレンゾオは一杯の麥酒に疲れをいやすさへ忘れて、再マンドリンをかいならしつゝ歌ふ。かのひとはこのあたりの町々に林檎、蜜柑、覆盆子など商ふ「むすめ」の一人なり。年は十五六なるべし、黄なる「べべ、ニッポン」に長き帶むすびさげて、黑く淸らかにほゝゑめる目の媚びたるも、髮にかざせる紅椿のやうに艷なり。ロレンゾオが心には昔ブエノスアイレスの謝肉祭に樓の窓よりかざしの花を落して、待ちたる戀人にくちづけなげたる人と、きほふとも見劣りすまじくや。

 かのひとはかく夜每に來りて果物をひさぎぬ されど絶ゑて、こ若き以大利亞びとがやるせなき思ひをさとらざりき。ロレンゾオはかく夜每に來りて歌ひぬ。されど彼は、かのひとの聲をきく每に絃を彈ずる指のあやしくもをののきて、マンドリンの調べの屢亂るゝを知らざりき。

 卯月これの夜、ロレンゾオは黄さうびの鉢おきたる酒場の机にひと夜を明したれども、かのひとの影は見えざりき。つぎて七夜かれはあだにかのひとを待ちぬ。かくて八日の夜、アプサントの醉頰にのぼりて玻璃圓閣にたばしる霰の如くマンドリンかきならしつゝ、ジェルザレムメリベラアタの曲をうたへる時、客の一人は主の翁にむかひて問ひぬ。「かの果物うる娘はいかにしたる」、耳遠き翁の答はものうかりき。「熱をやみてうせぬ、今宵にて三日目なりときゝしか、あはれなることしてけり。」

 たちまち人々は、青琅玕を碎くやうなるもののびゞきにおどろかされぬ。ロレンゾオがマンドリンの絃斷へたるなり。「如何にしたる」と人々たづぬれど、かれは唯うつむきて聲もなく泣きぬ。黄さうびのかほりほのかにたゞよへる酒場に、唯聲もなく泣きぬ。

 そのあしたより、酒場の人々はロレンゾオの影をみずなりぬ。かれの住める家のあるじに問へど知らずと答ふ。あるは身投げて死しぬと云ひ、あるは以大利亞に歸りぬと傳ふ。かれが部屋の壁には猶、絃斷えたるマンドリンかゝりて、きらびやかなる蔦の葉のまつろへる軒には今も懸わたる燕のかたらひしげけれども。(我がのれる汽船の舵手が、嗅煙草かぎつゝ、語れる物語をしるす。九月二十二日――「休暇中の事ども」。)


 

2018/08/27

ブログ1130000アクセス突破記念 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 菩提樹――三年間の回顧――

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の第一高等学校時代の作文で、底本(後述)では大正二(一九一三)年の作とする。同年は七月一日に第一高等学校を卒業し(卒業成績は二十六名中二番で、首席は龍之介の盟友井川(後、婿養子となり、恒藤に改姓)恭であった)、九月に東京帝国大学文化大学英吉利文学科に入学しているから、本作は、底本クレジットが誤りでないとすれば、同年一月から恐らくは五月(六月二日に卒業謝恩会が開かれており、十二日から二十日までが卒業試験、二十二日から二十六日までは井川・長崎太郎・藤岡蔵六と赤城山(登頂)・伊香保に旅に出ている)までの間に書かれた、満二十、一歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。作品末の葛巻氏の註によれば、『これは、高等学校の、いわゆる「作文」かとも思うが、ほとんど同一の原稿が二種類ある。一は添削を受けたもので、朱点が入っている。その方が「答案」なのであろうと思うが、何故殆ど同じに近いものを二通書いたのかは、今はわからない。この文は、それらの句読点を、兩方共に参酌した』(下線太字やぶちゃん)とある。句読点のない字空けも底本のママである。

 最後に私のオリジナルの簡単な注を附した。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年6月27日 藪野直史】]

 

     菩提樹

      ――三年間の回顧――

 

 校庭に菩提樹あり。四月のはじめ、にほひよき芽をふきて、たちまち、幅廣き若葉をなす。その綠は、橡にも鈴懸にもみる可らざる、やはらかくあかるき色なれば、まばゆき白日の光は其ひろ葉に落つる每に、すゞしき木かげを、さながら靑琅玕の管玉にともせるともしびの下に、夢ならぬ夢をたどるがごとくほのめかしむるが常なり。秋づけば もののあはれをしること、梧桐にもまさりて、霜の朝霧の夕、大なる鬱金の葉 紛々として樹下に堆をなす。葉落ちつくせば、枝々 珊瑚珠に似たる赤く小さき實をつく。雪もよひの日、鶴の群のなきかはしつゝ、此樹の梢に來るは皆此實をはまむとてなり。

 あゝ、われ 如何にこの菩提樹を愛したる。

 すぎし三年の月日は、まことに此樹下に夢みくらせし三年の月日なりき。われ若くしてうれひ多く、草をしき石に踞して、夕日のむらさきの影にしみたる、おそ春の空のたゝずまひ、若葉のまよりもるゝうす雲のゆきかひに、心 何時しか現ならぬ現におもひふけりて、我にもわかぬ淚の徒に零々として頰をうるほすを覺えしも、亦 この菩提樹の木かげなりき。心なき人と心なきものがたりする ものうきを避けて、ほのかなる若草のかほりと いと遠き小鳥の聲との中に橫はりつゝ、ひとり季長吉の詩集によみふけりて この若くして逝きたる詩人の 見はてぬ夢のうらみてもかひなき生涯をかなしみしも、亦 此菩提樹の樹かげなりき。

 此樹下に母のかきおこせる消息をよみつゝ、葉落ちつくしたる梢の空のほの赤きに百舌の聲のけたゝましきを聞きしは今もわすれず。わが友と、黃なる紅なるあるは代赭なるこの樹の落葉をふみつ、夕空のかすかなる星を仰ぎて沙門悉達のさびしき涅槃の教をかたりしこと そもいくたびぞ。わが新しきふみをひらきし處 新しき友と語りし處 手帳に幼き歌を走りがきせし處 長き日のつれづれに口笛をふきし處 あゝ又これ靑空にそよげる此菩提樹の木かげなりき。

 圖書館の廊下に佇みて、ふみよむにつかれたる身をやすむるとき、教室の机によりて才高く志大なる人々に伍する時、窓硝子のかなた、ほの赤きさうびのかほりにかすかなる雨のびゞきに、さびしげにうなづけるは同じく 此菩提樹の老い木なりき。

 あゝ菩提樹よ、わが三年のよろこびとかなしみとをしるものは汝のみなり。わが三年の心のさゝやきとたましひのすゝり泣きを聞きしものは汝のみなり。菩提樹よ 菩提樹よ、わが祕密をしるものは唯汝のみなり。われ 今近く母校を去らむとして汝と別るゝ日の旬日にあるを思ふ われまた、淚なきを得むや。今 汝にかりて三年の追憶をもらす。言は短なれども意はまことに長し。菩提樹よ さらばわれら長く相別れむかな。

 

[やぶちゃん注:「菩提樹」この木は、まさに、十四年後の芥川龍之介自死の最後の手記「或舊友へ送る手記」のコーダに登場する、あの菩提樹である(同作は昭和二(一九二七)年の死の当日の七月二十四日日曜日の夜九時、自宅近くの貸席「竹村」で久米正雄によって報道機関に発表され、死の翌日の二十五日月曜日には『東京日日新聞』朝刊に掲載された)。

   *

 附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた。

   *

アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属種ボダイジュ Tilia miqueliana であろう。

「橡」「とち」と読んでおく。ならば、ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata

「鈴懸」「すずかけ」。ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis。プラタナスのこと。

「靑琅玕の管玉」「せいらんかんのくだだま」。青碧色をした半透明の硬玉で出来た、装飾用の管。糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして用いられ、本邦では縄文時代に既に作られていた。

「梧桐」「あをぎり(あおぎり)」と読んでおく。アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex

「鬱金」「うこん」・濃い黄色。鮮黄色。

「堆」「たい」。高く積み上がっていること。堆(ずたか)くなっていること。

「珊瑚珠」「さんごだま」。

「踞して」「きよして(きょして)」。しゃがんで。

「現」「うつつ」。

「わかぬ」「分かぬ」。何ゆえのそれとはっきりとは判らぬ。

「徒に」「いたづら(いたずら)に」。

「零々として」「れいれいとして」。零(こぼ)れ落ちるさま。

「橫はり」「よこたはり(よこたわり)」。

「季長吉」「りちやうきつ(りちょうきつ)」。私も高校時代から偏愛する、中唐の詩人で「鬼才」と呼ばれた李賀(七九一年~八一七年)の字(あざな)。病いのために二十六の若さで亡くなった。よろしければ、「南山田中行 長平箭頭歌 李賀 やぶちゃん訳」をどうぞ。

「母」養母芥川儔(トモ)。実母フクは明治三五(一九〇二)年十一月二十八日、龍之介十歳(江東小学校高等科一年)の時に満四十二歳で病没している。「かきおこせる消息」とあるのは、寮にいたためである(第一高等学校は二年まで、原則として全寮制を採っていたが、一年次は「通学願書」を提出して自宅(芥川家は内藤新宿の実父新原敏三の持家に龍之介が一高に入学した翌月である明治四三(一九一〇年)十月に本所小泉町から転居している)から通学したが、二学年に進級した九月からはしれは認められず、一年間、寄宿舎南寮に入っている(同室者は井川を含め、十二人。しかし、龍之介は寄宿舎生活に馴染めず毎週土曜には自宅に帰っていた。三年時には寮を出た)。

「ふみつ、」読点はママ。ここは句点、或いは、踊り字「ゝ」であるべきところと思う。

「沙門悉達」「しやもんしつた(しゃもんしった)」梵語「シッダールタ」の漢音写「悉達多」の略。「目的を達した」の意)釈迦の出家以前従って厳密に言えば「沙門」(=僧)はおかしいの名。誕生した際に一切の吉祥瑞相を具えていたことから、この名がつけられたとされる。

「教」「をしへ(おしえ)」。

「志」「こころざし」。

「さうび」「薔薇(さうび)」。バラ。]

大和本草卷之十三 魚之上 モロコ (アブラハヤ)

 

モロコ ハヱニ似テ頭小キニ腹少シヒロク形マルシ西州ニアブラ

 メト云又アフラハヱト云本草ニノセタル黃鯝魚ナルヘシ油

 ハエニ堅筋數條アルモノアリ白黑相マシハル嶋魚ト云ヲリ物

 ノシマノ如シ

○やぶちゃんの書き下し文

モロコ 「ハヱ」に似て、頭、小さきに、腹、少しひろく、形、まるし。西州に「アブラメ」と云ひ、又、「アブラハヱ」と云ふ。「本草」にのせたる「黃鯝魚」なるべし。「油ハエ」に、堅筋(たてすぢ)、數條あるものあり。白黑、相ひまじはる。「嶋魚」と云ふ。をり物の「しま」のごとし。

[やぶちゃん注:これ、原文たった四行の中に、四つの名が出る。しかし、主記載は「ハヤ」類に似ていること、頭が小さく、腹部が少し広くて、魚体全体は丸い印象を与えるという点が、四つの名の中で現代の標準和名の種として存在する「ハヤ」類のそれと一致することから、これはもうウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri と断定してよい。アブラハヤは腹部の銀白色部分が実際に広いし、頭はコンパクトで尖らず、全体に丸みを帯びた魚体である。読者の中には、何を慎重になっているのかと不審に思われる方もあろうが、実は標題の「モロコ」が大変なクセモノなのである。「モロコ」という和名異名を持つ魚は実は淡水魚に限っても、複数存在するからである。まず、

コイ目コイ科バルブス亜科タモロコ(田諸子)属タモロコ Gnathopogon elongatus elongates

コイ科カマツカ亜科スゴモロコ属デメモロコ Squalidus japonicus japonicus

を挙げねばならぬ。これに琵琶湖固有種である、

タモロコ属ホンモロコ Gnathopogon caerulescenss

と、同じく琵琶湖固有亜種である、

スゴモロコ属スゴモロコ Squalidus chankaensis biwae

も挙げねばならぬ(固有種だからいいだろうとは言えない。既に上記二種は各地に放流されて棲息域は拡大しているからである)。しかも、面倒なことに、似たような発音の、

コイ目コイ科モツゴ(持子)属モツゴ Pseudorasbora parva

がいる。私には幼少時代の「クチボソ」(関東)の呼称とともに馴染み深い名なのであるが、「モロコ」と「モツゴ(或いはモッゴ)」じゃ違うだろうと言うなかれ! ウィキの「モツゴによれば、「モツゴ」には『地方名として、ヤナギモロコ(岐阜)、イシモロコ(滋賀)』があっちゃったりするわけだ。以上で五種、しかも、海産であるが、イシナギ(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini・コクチイシナギ Stereolepis gigas :肝臓に多量のビタミンAを含む有毒魚である)の別称だったり、クエ(スズキ亜目ハタ科ハタ亜科マハタ属クエ Epinephelus bruneusの別称だったりもするのである。たかがモロコ、されどモロコ、である。なお、同定種「アブラハヤ」の「あぶら」は表面がぬめぬめして油がついたような感触であることに由来する。

『「本草」にのせたる「黃鯝魚」なるべし』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」の以下。

   *

黃鯝魚【音「固」。「綱目」。】

釋名黄骨魚。時珍曰、魚腸肥曰鯝。此魚腸腹多脂、漁人煉取黃油燃燈、甚腥也。南人訛爲黃姑、北人訛爲黃骨魚。

集解時珍曰、生江湖中小魚也。狀似白魚、而頭尾不昻、扁身細鱗、白色。闊不踰寸、長不近尺。可作鮓葅、煎炙甚美。

氣味甘、溫。無毒。主治白煮汁飮、止胃寒洩瀉【時珍。】。

主治瘡癬有蟲、燃燈、昏人目【時珍。】。

   *

但し、私は益軒のようにこれを「アブラハヤ」に同定するのには躊躇を感じる。それは、漁師は本種の内臓から燈明の油を採取すると言う部分で、これ、とても「アブラハヤ」では信じられないからであり、「アブラハヤ」は沿海州や中国東北部の河川にしか棲息していないからである。調べてみると、現代中国語では似たような漢名で鯉科クセノキプリス亜科属黄尾 Xenocypris davidi という淡水魚(和名は見当たらない)はいる(中文百度百科」「黄尾)。但し、これが「本草綱目」のそれであるかどうかは判らぬ。しかし、サイトデータを見ると、標準体長十一・八センチメートルで、最大長三十五・七センチメートルとあるので、アブラハヤなどよりも遙かに大きい。

『堅筋(たてすぢ)、數條あるものあり。白黑、相ひまじはる。「嶋魚」と云ふ』「シマウオ」という「アブラハヤ」の異名は確認出来なかったが、アブラハヤは普通に体側に黒色の縦帯がある

「をり物の「しま」のごとし」「織物の「縞」の如し」。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 小タカノ羽 (ヒメクサアジ?)

 

小タカノ羽

 

Kotakanoha

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。小さな図で、幼魚っぽい感じもしないでもない。しかし、これ、背鰭前部の軟条が異様に長く伸びているために、かえって同定に時間がかかった。標題名と体側の縞模様及び口吻が有意に飛び出ているところは、スズキ目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Cheilodactylus zonatus にそっくりなのだが、いろいろ調べてみたが、彼ら(幼魚を含む)にはこんな背鰭前部軟条突起は見受けられないようなのである。されば、他の種で似たものを探していたのであるが、これがなかなかいない。そうこうしているうちに、最後のアップから二十五日も経ってしまった。今日、改めて、軟状突起に特化して画像を調べていたところが、レアな種であるが、「これは?!」と思うものを見つけた。

アカマンボウ上目アカマンボウ目クサアジ科ヒメクサアジ属ヒメクサアジ Metavelifer mutiradiatus

である。「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「ヒメクサアジを見ると、側偏して正円に近い楕円形を成すこと、背鰭前部の軟条が長く伸びることがよくこの図と似るのである。体側の縞が、生魚では、斜にならない横縞であるものの、かなりはっきりと見てとれるからでもあった(abyss_nyサイト「ダイビング魂」ヒメクサアジの写真を見られたい)。最初のリンクでは、棲息域を『大陸棚斜面域、海山、遊泳性』とし、本邦では『千葉県館山湾、伊豆大島』、『駿河湾(沼津)、和歌山県白浜、土佐湾、愛媛県深浦』の他、沖縄とし、『駿河湾、相模湾などでは希にとれる魚』とあるので、丹洲が管見したとしても、おかしくはない。但し、特異なY字の尾鰭の形が図ではぺろんとしたハゼ見たようで全く異なるのは、如何ともし難く、これだけでアウトな気もしたのだが、丹洲は正確な模写をしない傾向があるし、少なくともこの長い軟条は正確なのだろうと思い直し、取り敢えず、タカノハダイよりはこっちの方がまだマシという風に私は傾いたのであった。また、これ以上は私には探しようもなく、テクスト作業の中でのペンディングが長過ぎて、そろそろ限界(後がちっとも進まず、ここでポシャるのも厭)と判断した。悪しからず。よりよい同定種がおれば、御教授あられたい。]

反古のうらがき 卷之一 術師

 

  ○術師

 野州は人氣質樸なる所にて、邊鄙(へんぴ)は殊に甚し。

 いづくより來りしや、術師、來りて、いろいろの不思議なる事をなすとて、人集りもてはやすことありけり。其人、いふ。

「吾、深山に入(いり)て一道人(いちだうじん)に逢ひ、いろいろの奇術を學びたり。これより江戶にいでて、人の爲になることども致(いたさ)んと欲す。此わたりの邊鄙にてはさしたる教(をしふ)べきことなし。但(ただ)、水に入て死なざる法位(ぐらゐ)の事なり。」

といふ。

 人々、いふ。

「それは容易ならざる事なるべし。」

といへば、

「左(さ)にあらず、口傳(くでん)也。一度學べば、終身、水に死(しぬ)ることなし。然れども、其法を修するに、荒業をなさざれば、教ゆること、能はず。得難き供物等を、多く山神(やまがみ)に備(そな)ふる事なれば、金八兩斗(ばか)り、物入(ものいり)もかゝる事也。一度、かくすれば、一度に廿人斗りは、教ゆべし。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 人々、

「一段の事なり。」

とて、廿人斗り寄合(よりあひ)て、金八兩を出(いだ)す。

 されば、金二兩、請取(うけとり)、山に入、日々、荒業するよしにて、

「七日滿ずる日に至らば、人々、寄合べし。他聞(たぶん)を諱(い)む事なれば、書付となして、授くべし。」

とて、日々、山に入けり。

 六日の夜、金子不ㇾ殘(のこらず)請取、紙に幾重となく包みたる者を出(いだ)し、

「又、山に入(いる)。」

とて、

「此包(つつみ)、今夜、四つ時に寄合て、ひらくべし。水に入て死(しな)ざる法、自然(おのづ)と會得すべし。」

といへり。

 其夜、刻限迄に寄合て、段々と開きて、最後に至れば、ほうしやうの紙に、人の足を畫(ゑが)き、すねの中程に、朱にて橫に筋を引(ひき)、「これより深き水に入べからず」と書(かき)て有(あり)けり。

 人々、顏を見合せて、急に解しがたく、いろいろ考ふれども、別に深義ありとも覺へず、

「扨は。あざむかれたり。」

とて、其人を尋(たづぬる)に、山に入とて出(いで)しは、午時(ひるどき)前の事なれば、いづち行けん、見へず。

 跡にて、其術を聞くに、

「刀、自然(おのづ)と拔出(ぬけいづ)る法」

「盃に酒を盛上(もりあぐ)る法」

「釣花活(つりはないけ)・はら人形(ひとがた)手の平に立(たつる)」

「燈心にて大石(おほいし)を釣る法」

等にて、皆、緣日に出(いで)て、「手づまの傳授」とて、する法なり。

 かく邊鄙にては珍らしき故、あざむかれし也けり。

[やぶちゃん注:イカサマ妖術師譚。臨場感を出すために、改行を施した。

「野州」下野(しもつけ)の国の異名。現在の栃木県。

「質樸」「質朴」に同じい。

「邊鄙」田舎。

「道人」世捨人。ここは、仙人みたような人物を指す。

「一段の事なり」格別なる術で御座いますな!

「他聞を諱(い)む事なれば」世間に知られると、差し障りがある秘法であるからして。

「四つ時」午後十時頃。

「ほうしやうの紙」奉書紙(ほうしょがみ)のことであろう(但し、こうは読まない)。中世に始まり、特に近世になって最高級の公文書用紙として盛んに漉かれた楮紙(こうぞがみ)。公文書の形式、将軍など上位の者の命令を直接その名前を出さずに下位の者が仰せを奉って書く「奉書」という間接的下達(かたつ)の方式があり、その奉書を記した上等な楮紙をも、次第に「奉書」と呼ぶようになった。江戸時代に各藩の御用漉きなどを中心として、数多くの産地で奉書紙が漉き出されるようにあったが、その中でも日本一と称されたほどに高い評価を得たのは、越前五ヶ村で漉かれた「越前奉書」であった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。八両も詐欺で得るのであるから、最後の最後のそこだけは、いい紙を用いたのであった。なかなか狡猾な演出である。

「すね」脛。

「急に解しがたく」朴訥にして無学な民であったが故に、その絵に何らかの呪的な意味がある(「別に深義あり」)ものかとも思い、しかし、そこに書かれた「有り難い」呪文の意味が直ぐには判らずに。無論、意味は実はマンマで、脛の中ほど以上の水に入らなければ、溺れ死ぬことはないという分かり易いトンマな呪言(?)なのであったが。

「午時(ひるどき)」既に十時間以上が経過している。

「刀、自然(おのづ)と拔出(ぬけいづ)る法」人が触れることなく、刀が、鞘から自然に抜け出る秘術。脂(鯉口に塗る)と細い絹糸などを用いたマジックであろうと思われる。

「盃に酒を盛上(もりあぐ)る法」当り前の表面張力。

「釣花活(つりはないけ)・はら人形(ひとがた)手の平に立(たつる)」読みは総て推定。最後に「法」が省略されたもの。「はら人形」は恐らく、「夏越(なごし)の祓(はらひ(はらい))」等に用いる、紙で出来た人形代(ひとかたしろ)のことで、底が平たくなく、そのままでは安定しない釣花生けの瓶や筒やぺらぺらの人形(ひとがた)を掌に直立させるマジック。

「燈心にて大石を釣る法」灯芯にごく細い針金を仕込み、張りぼての石にすり変えれば、容易。

「緣日に出(いで)て「手づまの傳授」とて、する法」「てづま」は「手妻・手爪」などと書き、ちょっとした手先で巧みに見せる他愛ない手品・奇術のこと。ありがちな、祭りの縁日の怪しげな香具師(やし)の怪しいそれである。]

反古のうらがき 卷之一 廿騎町の恠異

 

   ○廿騎町の恠異

 

 余が祖母、常に話(はなし)しは、

「加賀屋敷、御旗本屋敷なき以前は、みな、原なり。久貝(くがひ)・久志本・服部・巨勢(こせ)・三枝(さへぐさ)・長谷川、是れ程の野原にて、組屋敷うち、常に恠異あり。或時は鉦太鼓、面白くはやしなどするに、西かと思へば、東なり。誰(たれ)ありて見屆(みとどけ)たる人、なし。

 山崎といへる家にては、夜な夜な、猫、おどり、椽頰(えんづら)にて足音す。明日(あくるひ)見るに、矢をふく手拭をかぶりたる樣子なり。

 又、或時は、誰ともなく、障子を、

『さらさら。』

とすりて、橡頰を行かよふ。明(あけ)て見るに、人、なし。

 又、深夜に、

『しほ。しほ。』

と呼賣(よびう)る聲ありて、誰(たれ)見當りしこと、なし。

 或時、余が曾祖父内海彥右衞門、對門【むかふやしき】なる山崎に行(ゆき)て、夜更(よふけ)て歸らんとて立出(たちいづ)るに、門の扉に大の眼、三つあり。光輝(ひかりかがやき)、人を射る樣(さま)、明星の如し。大膽なる人なれば、

『こは、珍らし。獨りみんも本意(ほい)なし。」

とて、家に歸り、余が大叔父内海五郞左衞門を呼びて、

『面白き者あり。行(ゆき)てみるべし。』

とて誘ひて行けるに、最早、一つ消て、二つ、殘れり。

『扨は。消ゆる者とみへたり。皆、消ゆる迄、見果(みはて)ん。』

とて、父子、まばたきもせず、にらみ居(ゐ)たりしに、漸(やうやう)光薄くなりて、又一つ、消たり。程もなく、今一つも薄くなりて消けり。父子、笑ひて、

『初(はじめ)より、かくあらんと思ひし。』

とて歸りし。」

と、祖母善種院、語らる。

「今の人よりは、皆、心(こころ)剛(かう)にありける。」

といましめられし也。

 

[やぶちゃん注:祖母の怪談語りの雰囲気を出すために細かな改行を施した。

「廿騎町」底本の朝倉氏の注に『新宿区廿騎町』(にじっきまち)。『御先手与力十騎二組があったので、この俗称があった』とある。現在のここ(グーグル・マップ・データ)の内(以下参照)。サイト「すむいえ情報館」の『地名の由来「新宿区編」』の「【ニジッキマチ】二十騎町の由来」によれば、御先手一組は寄騎馬(与力)十騎なので二組で二十騎、実際二十区画に与力の二十の家があったことに依る。『「騎」とは馬に人が乗った状態の数詞で、与力には乗馬が義務付けられた。「旗本八万騎」というように』、『戦闘状態での騎馬武者の数え方。「寄騎」は、「騎を寄せる」で、「従う」の意、「与力」は江戸時代に入ってからの言い方だが、「力を与』(あず)『ける」で、やはり「従う」意。「同心」は「心を同じうす」で、「協力する」の意。したがって同心は与力より格が上』。『牛込村。天龍寺境内』天和三 (一六八三)年に『天龍寺が焼けて新宿』四『丁目の現在地に移転していった跡地の一部に』、『西丸御先手与力』二『組に』対して『与えられた大繩地』(おおなわち:下級武士の宅地は職務上、同じ組に属する者に纏まって屋敷地が与えられたが、これは土地を一括することから、「大縄地」「大縄屋敷」と呼ばれた。別な言い方をすれば、大番以下の旗本の組屋敷。家だけではなく、拝領地も含めて、かく呼ぶ)『の俗称。明治』四(一八七一)年に『正式に町名となり』、明治四四(一九一〇)年に『牛込の冠称を外し』、その後、昭和二二(一九四七)年に『新宿区二十騎町』となった。平成二(一九九〇)年、『新住居表示を実施、市谷甲良町・納戸町・市谷加賀町』一~二『丁目の各一部をあわせた町域を現行の「二十騎町」とした』とある。

「加賀屋敷、御旗本屋敷なき以前は、みな、原なり」底本は「加賀屋敷・御旗本屋敷」となっているが(国立国会図書館蔵版も同じ)、私はこれは読点でないとおかしいと思う。「加賀屋敷」とは、随分、離れた現在の東京大学のある加賀前田家上屋敷のそれを指すではなく、このまさに二十騎町の南の旧地名だからである(現在も市谷加賀町である)。則ち、ここは

――「加賀屋敷」と通称する今は「御旗本屋敷」が林立する「二十騎町」辺りは「御旗本屋敷」がなかった以前は、「皆」、野っ原であった。

と言っているのだと思うのである。所持する「尾張屋(金鱗堂)江戸切絵図」(嘉永四(一八五一)年刻・安政四(一八五七)年改版)には、現在の二十騎町の通りに「二十キクミ」と記し、その北の端の通りには「此邊加賀屋敷ト云」と記してある。なお、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。

「久貝」上記切絵図を見ると、二十騎町の西直近で「加賀屋敷」通りの端に「久貝因幡守」の屋敷がある。これは旗本久貝正典(くがいまさのり 文化三(一八〇六)年~慶応元(一八六五)年))のことである。天保一二(一八四一)年、大番頭。安政五(一八五八)年、大目付。「安政の大獄」の処断に関与し、安政七年には御側御用取次に転じ、同年に起こった「桜田門外の変」では吟味役を務めている。しかし、後、吟味不手際によって文久二(一八六二)年に免職・隠居となった。

「久志本」上記切絵図の「久貝因幡守」の屋敷の道を隔てた東側に「久志本左京」の屋敷がある。これは旗本久志本家で、元は三重の神主の家系で、徳川家康の侍医に召し抱えられ、後裔の久志本左京常勝も幕医として第五代将軍綱吉の病を治療している。

「服部」上記切絵図の二十騎町の道を隔てた南の「加賀屋敷」地区の通りに面した馬場の北に「服部中」と記した屋敷がある。或いはこの「中」は「中奥番」か? だとすると、中奥番に旗本服部貞徳の名を見出せる。

「巨勢(こせ)」上記切絵図の「服部中」の屋敷の道を隔てた東側に「巨勢鐐之助」の屋敷がある。ネット上で五千石の旗本に巨勢鐐之助の名を見出せる。

「三枝(さへぐさ)」上記切絵図の「巨勢鐐之助」の東隣りが「三枝靭負」(さえぐさゆきえ)の屋敷。彼は寄合席(三千石以上の旗本で非役の者)である。

「長谷川」上記切絵図の「三枝靭負」の屋敷の道を隔てた東側に「長谷川能登守」の屋敷がある。駿河が本地の四千石の旗本である。

「鉦太鼓、面白くはやしなどするに、西かと思へば、東なり、誰(たれ)ありて見屆(みとどけ)たる人、なし」これは本書の後の方の「反古のうらがき 卷之三」にある番町の「化物太鼓の事」と強い親和性がある。実は当該話は既に「諸國里人談卷之二 森囃」の私の注で電子化しているので見られたいが、そこで桃野はこれを真正怪談ではなく、擬似怪談現象として分析し、実は番町は囃子の好きな人の多い地区で殆んど毎晩囃子をやっており、喧しさを憚って土蔵や穴倉に籠って囃すために、近くでは却って聴こえず、風に乗って思いがけない遠方で聴こえることがあるのだと、怪異の解明をしている。

「山崎といへる家」上記切絵図の二十騎町内に「山嵜栄太郎」という名を見出せるが、ここか。

「夜な夜な、猫、おどり」手拭いを被って踊ったり、人語を操ったりという猫の怪は猫怪談の定番で、私の電子化したものの中にも、腐るほどある。代表して『柴田宵曲 妖異博物館 「ものいふ猫」』を引いておく(私の江戸怪奇談へのリンクがあるので使い勝手はいいであろう)。一つだけ例示しておくと、特に「耳囊 卷之四 猫物をいふ事」は、この二十騎町の北直近の「山伏町」の寺での出来事であり、甚だ親和性が高い

「椽頰(えんづら)」既出既注であるが、再掲しておく。大きな屋敷などで、主だった座敷と廊下の間にある畳敷きの控えの間のこと。襖の立て方によって廊下の一部分とも、部屋の一部分ともなるようになっている。「椽」は「縁」のこと。芥川龍之介など、近代以降も「緣」を「椽」(本来は「垂木」を指すので誤り)と書く作家は多い。

「矢をふく手拭」所謂、矢羽根を図案化した「矢羽手拭い」のことと思うが、「矢をふく」の意が不明。手拭全体にびっしりと「葺(ふ)く」か。国立国会図書館版も「ふく」なので、「かく」の誤植ではないと思われる。

「明(あけ)て」ここは障子を「開けて」である。

「しほ」「鹽」。塩。行商の塩売りの掛け声。

「誰(たれ)見當りしこと、なし」出てみると、塩売りの姿は影も形もない。

「余が曾祖父内海彥右衞門」【以下の注は2018年9月24日改稿】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、鈴木桃野の父白藤(本名・成恭)についての膨大な資料情報を頂戴し、幾つかの私の誤認が判明したので注を改稿した。まず、国立国会図書館デジタルコレクションの潤三郎鈴木桃野とその親戚及び師友大正一四(一九二五)刊)によれば、桃野の父白藤の母(以下に出る「祖母善種院」。「ぜんじゅいん」(現代仮名遣)と読んでおく)の父(桃野の曽祖父)は御先手与力内海五左衛門とある。さらにT氏は、同じ森潤三郎氏の著「紅葉山文庫書物奉行」(初版一九八八年臨川書店刊)には上記リンク先論文では(以下鍵括弧はT氏のメール本文より引用。下線太字は私が附したもの)『略された内海家関連の記載があり』、その『母方の項目に』、

   *

伯父内海彦右衛門死娘

一 従弟女 御先手組雨宮権左衛門組与力之節 内海彦右衛門 死 後家

   *

とあり、『内海彦右衛門は桃野の大伯父』(曽祖父内海五左衛門の子で祖母の兄)『に当たるようで』ある、とお教え下さった。以上から推察するに、筆者桃野或いは父白藤を始めとする親族の伝聞者)は彼らの通称名や伯仲を混雑して誤認記憶していたものと考えられる。最後に私の誤りを気づかせてくれ、資料提供をして下さったT氏に改めて感謝申し上げるものである。

「對門【むかふやしき】」道を隔てた向かいの屋敷。因みに、先の上記切絵図の二十騎町内にある前に出した「山嵜栄太郎」の道を隔てた斜向かいの屋敷は「内海源五郎」である。偶然か? それともこれがまさにその内海家の後裔なのか?

「本意(ほい)なし」残念だ。面白くない。

「いましめられし也」「誡められしなり」。武士としての正真の剛勇を忘れてはなりませぬという含みである。]

2018/08/26

反古のうらがき 卷之一 窮して智出る事

 

   ○窮して智出る事

 大橋一九郞、御徒(おかち)の頃【今、御徒目附。】、余に語りしは、名前失念、御納(おなんど)何某、頭か【組頭か、平か。】、失念。組下同心、不時の事有りて、申立(まうしたて)、御仕置になるに極(きはま)りしに、其者、いふ樣、

「今は包むによしなし。御役所品々は、私(わたくし)全く壹人(ひとり)の所爲にあらず。御頭方(おかしらがた)よりの御差圖(おさしず)にて、多年、賣(うり)さばき、尤(もつとも)、其御蔭にて德分も付(つき)、御贔屓も厚く、久々相勤(あひつとめ)たる也。此言(このこと)、他言(たごん)すまじと思ひ候へども、此度(このたび)、誰殿(たれどの)御申立(おまうしたて)は、全く御身(おんみ)逃れにて、私に、罪、御着被ㇾ成候(おきせなられさふらふ)段、御情(おんなさけ)なき次第に付(つき)、此儀、無ㇾ據(よんどころなく)申上候也。」

と申す。

 因(よつ)て、早速、御呼出(およびいだ)し、御吟味の處、彼(かの)者、申(まうす)條にては、

「誰殿と私、差向ひのことにて、外にしる者、一人もなし。」

といふ。

 何某、竊(ひそか)に考(かんがふ)るに、

『彼(かの)者、殘念の餘り、同罪に引入(ひきいれ)しなれども、工(たくみ)に申出(まうしいだ)せし故、申分(まうしわけ)決(けつし)て無ㇾ之(これなく)、無實の難、逃(のが)しがたし。されども、天地鬼神(てんちきじん)ありて守り給はゞ、如何(いか)で申譯(まうしわけ)なからんや。』

と覺悟して、一言も口を開かず、上(あが)り屋に行(ゆき)けり。

 此人、養子にて、かゝることにて養家を潰す事、殘念なれども、是非なし。

 母公(ははぎみ)、大に悲しみ、水をあび、不動明王を念じたるも尤(もつとも)也。

 神佛呵護[やぶちゃん注:底本、「呵」の右に編者のママ注記有り。]にや、忽然として、名策(よきはかりごと)、出(いで)たり。

 上り屋の内、獨り、應酬、反覆して、已に其理(ことわり)、分明に心に得たり。

 扨、其次(そのつぎ)の呼出(よびだ)しに對決を乞ひ、扨、何某、申(まうす)樣、

「其方、申上(まうしあぐ)る條々にては、實(まこと)に、申分(まうしわけ)、一言もなし。しかし、これ程のこと、每々度々のことならば、誰壹人(たれひとり)知らざる理(ことわり)、なし。何(いづ)れにてか、對談せしや。」

といふ。

「元より、御懇命(ごこんめい)を受(うけ)たる私(わたくし)なれば、常々、御目通り、御奧通(みおくどほ)りにて、外仲間(ほかなかま)どもと一樣の取扱(とりあつかひ)にあらず、此(この)談(はな)しある每に、御居間の御次御部屋(おつぎおへや)にて、人を退(しりぞ)けての御談(おはな)し、いつも如ㇾ此(かくのごとく)、定(さだめ)て御覺(おんおぼえ)なしとは被ㇾ申間敷(まうされまじき)。」

といふ。

「されば、吾家(わがや)に入來(いりきた)り、奧通り・表通りとも、幾度(いくたび)計(ばか)か。」

といふ。

「幾度といふ數を知らず。」

と答ふ。

「然(しか)らば、申譯(まうしわけ)なし。かく迄、深く入込(いりこ)みし人の申出(まうしいで)る條、『いつはりなり』といふとも、誰(たれ)か信ぜん。但し、吾家(わがや)、格別に廣きにあらず、如ㇾ此(かくのごとく)度々入(いり)いたらば、屋つゞき・間取り、大略、見覺(みおぼえ)たるべし。表通り・奧通り・あひの間・客の間・つぎの間・かこひ・小座敷・部屋、入つては、雪陰(せつちん)・物置・藏・稻荷(いなり)に至るまで、大略、繪圍面にいたし、見すべし。いづれの處にて應對し、何れの處にて内談せしと、一つ一つ、承り可ㇾ申(まうすべし)。」

とて、則(すなはち)、紙・筆を與(あた)へ、繪圖を引かせけり。

 扨、圖、なりて、何某、一覽し、

「此圖を以て、拙者住居(すまひ)へ御引合(おひきあは)せ被ㇾ下(くださる)べし。彼(かの)者、申條(まうすじやう)、いつわりといへども、申開(まうしひら)くべき證據(しやうこ)なし。彼者、年來(としごろ)、奧通りにて一大事を内談せし者か。表屋敷より内は入(いり)たる事なければ、繪圍面、皆、相違せり。此(これ)、いつはりの一證なり。其外、申開くべき辭(ことば)なし。」

と申上(まうしあげ)られたれば、彼者、閉口し、繪圖、果して相違なり。

 卽日、上り屋を出(いづ)る。

 公儀も、首尾よく、其後、出身も有りしとなり。

[やぶちゃん注:対話劇形式の対決劇であるので、改行を施した。標題「窮して智出る事」は「窮(きゆう)して、智、出(いづ)る事」。

「大橋一九郞」不詳。「いっくろう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「御徒」御徒組。徒士(かし)。将軍の外出の際に徒歩で先駆(さきがけ)を務め、また、沿道の警備などに当たった。ウィキの「徒等によれば、徳川家康が慶長八(一六〇三)年に九組をもって組織し、後、人員・組数が増員され、幕府安定期には二十組が徒歩頭(かちがしら:徒頭。若年寄支配)の下にあり、各組毎に二人の組頭(徒組頭とも称した)が、その配下には各組二十八人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は七十俵五人扶持。礼服は熨斗目(のしめ:練貫(ねりぬき)の平織り地で仕立てた小袖。腰の辺りに多くは筋や格子を織り出しただけのもので、武士が礼装の大紋や麻裃(あさがみしも)の下に着用した)・白帷子(しろかたびら)、平服は黒縮緬(くろちりめん)の羽織に無紋の袴の決まりであった。家格は当初抱席(かかえぜき:以下の「譜代」に次ぐもので第五代将軍徳川綱吉以降に新たに御家人身分に登用された者)であったが、文久二(一八六二)年には譜代(元来は江戸幕府草創の初代徳川家康から第四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫である。ここはそれ相当の御家人最上級の家格扱い)となった。

「御徒目附」交代で江戸城内の宿直(とのい)を行った他、大名の江戸城登城の際の監察・幕府役人や江戸市中における内偵などの隠密活動にも従事した警備・公安職。目付支配。参照したウィキの「徒目付」によれば、伝承では、元和九(一六二三)年、『徳川家光が征夷大将軍として江戸城本丸に移った時、道の途中で欠伸をしていた者を無礼であるとして討ち取った草履取りを賞して任じたのが最初とされている。定員は』享保三(一七一八)年に四十名となり、幕末期には八十名と増え、享保六(一七二一)年では役高百俵五人扶持と定められている。『徒目付の上には役高』二百俵の『徒目付組頭』三『名が置かれていた。徒目付の番所は江戸城本丸御殿の玄関右側に設置され、その奥に組頭の執務室が置かれていた。他に目付部屋の』二『階に詰める組頭がおり、老中・若年寄から目付を経由して命令が伝えられ、それを番所に伝えた。命令を受けた徒目付は自身及び配下の小人・中間・黒鍬者などを駆使して職務にあたった。特に隠密を専門に担当する「常御用」と呼ばれる』三~四名の『徒目付が存在し、内容によっては老中が人払いの上で直接命令を下すことがあった。徒目付は小人目付や遠国勤務の下級役人から任じられたが、後には小普請世話役や表火之番、徒などからも登用され、徒組頭や闕所物奉行・林奉行・油漆奉行・畳奉行などに昇進することができた』とある。

「御納」御納戸役。将軍の居所である中奥に勤務した中奥番士(本丸御殿は幕府組織のある「表御殿」、将軍の居所である「中奥」、御台所や側室の居所の「大奥」に別れていた)の一つ。将軍家の金銀・衣服・調度の出納、大名・旗本からの献上品、諸役人への下賜の金品の管理などを掌った。若年寄支配。下役は御納戸組頭が四名(旗本)、御納戸衆が二十四名(旗本)、御納戸同心が六十名(御家人)。

「平」ここは以下に「組下同心」とあるから、前注の「御納戸衆」(与力格か)のこと。

「不時の事」思いがけない事件。

「申立(まうしたて)」「申し立てられ」であろう。告発されたのである。

「今は包むによしなし」かくなっては隠し立てしても致し方ない。

「御役所品々は」御納戸役方にあった多くの物品類(の横流し)は。大橋一九郞と関連はないが、まさに彼の現在の職である「御徒目附」辺りが、市中や一部の武家等に御納戸方が管理しているはずの物品が横流しされているらしいという情報が舞い込み、隠密捜査の結果、この御納戸方同心の男が捜査線上に確かな実行犯として浮かび上がってきたものであろう。

「御頭方(おかしらがた)」この場合は御納戸方同心の上役の意。この主人公が本文の前で御納戸方の頭か平かは不明と言っていたから、「御納戸組頭」か、その下の同心らを支配していた「御納戸衆」の孰れかとなる。

「德分」私個人の資産も増え。

「御贔屓」横流しの闇のネットワークの中で親しくなり、何かと面倒を見て呉れる人々(商人とは限るまい)。

「久々相勤(あひつとめ)たる也」長年、この違法行為に手を染めて御座った。

「誰殿(たれどの)」この主人公たる、同心の上役某のこと。

「御申立」この同心の自白に基づき、既に上役某の事情聴取が行われたが、彼は全く承知していないと証言したのである。

「御呼出(およびいだ)し、御吟味の處」この同心と上役何某二人を拘引連行し、それぞれに対して正式な公事(くじ)としての尋問が行われたのである。

「殘念」自分一人で犯した犯行であったが、このまま自分一人が死罪となることに、諦めがつかず、全くの利己心なのであるが、悔して、上司を巻き込んで、教唆犯として主犯にしてやれという自棄(やけ)のやんぱちの思いが残ったことを言うのであろう。

「工(たくみ)に申出(まうしいだ)せし故」巧妙に現実的で「あり得る」という印象を審判方に与える横領背任犯罪をデッチアゲて自白したのであるから。この場合はこの同心の自白が事実と認定されてしまえば、共同正犯ではなく、同心は従犯で、教唆犯として上役の方が重罪となる。まあ、孰れも恐らくは死罪ではあるが。

「申分(まうしわけ)決(けつし)て無ㇾ之(これなく)」どんなに私が無関係であるという陳述をしても、それらは、決して真実と見做されることはなく。

「無實の難、逃(のが)しがたし」無実の罪、不当極まりない冤罪を蒙ることからは、最早、逃れ難い。

「天地鬼神ありて」「天神地祇」(てんじんちぎ)、いや、もう「鬼神」でもよい、そうした超自然の力を持った何ものかが存在して。

「如何(いか)で申譯(まうしわけ)なからんや」反語。どうして真実正当な私の申し開きが通らぬことがあろうか、というか、ここは直後に「一言も口を開かず」とあるので、私の誠心(せいしん)が審判者の心に遂に届かぬことがあろうか、いや、きっと届く、知れる! という「覺悟」なのである。

「上(あが)り屋」「揚(あが)り屋」。江戸の伝馬町牢屋敷や、長崎の桜町牢などにあった特別な牢房。ウィキの「揚屋(牢獄)より引く。『江戸の牢屋敷は中央部に当番所と称される監視施設があり、これを挟むように』、『東西に牢が置かれていた。東西の牢は外側に向かって口揚屋・奥揚屋・大牢・二間牢の順に配列されており、揚屋はこのうちの口揚屋と奥揚屋の部分に該当する。口揚屋は』一『部屋あたり』、『広さ』二『間半の部屋が』三『部屋(』十五『畳相当)、奥揚屋は』一『部屋あたり広さ』三『間の部屋が』三『部屋(』十八『畳相当)、いずれも』、『半間ほどの大きさの雪隠が設けられていた。また』、安永四(一七七五)年には『江戸の町人出身収容者と』、『地方の百姓(農民)出身収容者を分離するため』、『百姓牢が増設されるが、その中にも別途』、『揚屋が設けられた。なお、大坂の松屋町牢屋敷にも』元文四(一七三九)年)に『「男揚屋」(』六『畳)が設置されている』。『揚屋は原則雑居拘禁であり、ここに収容される人々は』以下の通りであった(因みに、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である)。

・『女性(身分は問わない)』。『原則として西の口揚屋に収容されたことから、同所を「女牢」とも称した。だが、後に囚人が増加すると、東の口揚屋が転用されることもあった。百姓牢の揚屋設置も女性の収容を目的とした』。

・『遠島の判決が確定した者』。『原則として東の口揚屋に収容されたことから、同所を「遠島部屋」とも称した』。

・『御目見以下の旗本・御家人、大名・旗本の家臣(陪臣)、中級以下の僧侶・神官』。『御目見以上の旗本・御家人や上級の僧侶・神官は牢屋敷の隣に設けられた揚座敷に収容されたが、陪臣は家老であろうが、下級武士であろうが、全て』、『揚屋に収容された』(この場合がこれに相当する)

・『病人』。安永五(一七七六)年『以後、一般の収容者が入る大牢に収容された者でも、病人については隔離を目的として揚屋内に「養生牢」』が一『部屋』、『設けられた』。

・『海難事故に遭って遭難し、海外から外国船によって帰国した漂流民』。『身柄が日本側に引き渡された際、一汁一菜の食事を与えられ、お白洲で簡単な吟味が行われた後、揚屋に収容された』。『しかし』、『キリスト教圏からの帰国者に対する吟味は厳しく、長期間に及んだため』、『自殺者が出ることもあった』。『吟味終了後、キリシタンの疑いが晴れた者は、帰国者の故郷の藩に身柄を引き渡され、藩士付き添いのもと』、『帰郷した』。

なお、『その他にも、囚獄(牢屋奉行)に手を回して揚屋に収容される者もあったという』。『揚屋に送られる人々は牢屋敷の庭まで乗物で護送され、牢役人らによる本人確認(揚屋入)の後に収容された。揚屋も』、『一般の収容者が入る大牢も』、『待遇面には大差が無かったが、揚屋の方が凶悪な収容者と同室になる可能性が低かった。また、大牢とは別に揚屋にも牢名主が設けられていた。また、軽微な罪を受け』、『有宿の者数名が揚屋の付人とされ、世話係としての役目を行った』。『なお、諸藩の武士は身分を問わず、一律に揚屋に収容されたことから、歴史的に著名な人物が収容されていた事例もある。例えば、蛮社の獄の渡辺崋山、安政の大獄の吉田松陰などはその代表例である』とある。

「母公(ははぎみ)」実母か養母か。養母と採っておく。

「呵護」「加護」。

「名策(よきはかりごと)」底本のルビ。

「上り屋の内、獨り、應酬、反覆して、已に其理(ことわり)、分明に心に得たり」牢の中で、下準備のため、たった独りで(実際に同牢の者はいなかったのかも知れない。少なくとも対立している同心と一緒ではなかったと考える)、その考え出した方法を実際に行った場合のことを想定して同心の役も二役で演じ、論争の応酬をやり、それを何度も繰り返して、言い方や使う細部の単語まで十二分に検討修正を行い、遂に論理的に相手を追い詰めることの出来る「問答法」のシナリオを確定し、はっきりと『これで確かに行ける、相手を完璧に負かすことが出来る』という確信を摑んだ。

 扨、其次(そのつぎ)の呼出(よびだ)しに對決を乞ひ、扨、何某、申(まうす)樣、

「申上(まうしあぐ)る」御上(おかみ)に、である。

「實(まこと)に、申分(まうしわけ)、一言もなし」確かに、自分が実行犯であることについては、それを否定する弁解や言い訳などは、一言も差し挟んではおらぬ。

「何(いづ)れにてか、對談せしや」どこで、この私と横流しのそれらの犯罪計画の謀議を行ったのか?

「懇命」他人から受けた命令を敬って言う語。

「御奧通(みおくどほ)り」御屋敷の奥の間。或いはそこ「まで通して戴き」のニュアンスか。

「外仲間(ほかなかま)」他の御納戸方同心の同僚。

「一樣の取扱にあらず」同じい待遇では、当然、なく。

「御居間の御次御部屋」「お次の間(ま)」。高貴な人の居間の次の間。

「然(しか)らば、申譯(まうしわけ)なし」そうであるならば(貴殿の申すことが事実であるならば)、最早、私は申し開きのしようは、最早、ない。

「かく迄、深く入込(いりこ)みし人」文脈から言えば、「かくまで、死罪を免れぬ謀議に深く関わった御仁」であるが、ここは後の展開に掛けて、「かくも、私の屋敷の奥深くまで、親しく、数え切れぬほど、尋ねて参った御仁」の意を持たせているに違いない。

「屋つゞき」屋敷内の建物の続き方。

「あひの間」主要な二つの部屋の間に設けられた間の部屋。

「かこひ」「圍ひの間」。「茶室」又は「離れ座敷」。

「部屋」その他の小部屋の意か。

「雪陰(せつちん)」「雪隱」(便所)の意でルビした。

「稻荷(いなり)」屋敷内の稲荷の社祠。

「此圖を以て、拙者住居(すまひ)へ御引合(おひきあは)せ被ㇾ下(くださる)べし」この台詞は、既に、対面していた同心を無視し、審理を担当している同席している役方に対しての陳述である。

「彼者、年來(としごろ)、奧通りにて一大事を内談せし者か」この「者か」の「者」は当て字で、形式名詞「もの」+終助詞「か」であって、反問の意を表わしており、「かの者は、長年、拙者の屋敷の奥まで親しく入って、かのおぞましき横領の一大謀議を内密に致いたと、まあ、申しておるが?! それは全くあり得ぬことがここではっきりとして御座った!」の謂いである。

「表屋敷より内は入(いり)たる事なければ」彼は某の配下の同心であったから、某の屋敷の表座敷には上ったことがあるのであろう。

「公儀も、首尾よく」本事件の公儀の判決も、この同心の単独犯と認定され、上役某を無罪とし、首尾よく終わり。

「出身」出世。より上位の官に挙げられ用いられること。]

譚海 卷之三 公家束帶取𢌞 所司代束帶の事

 

公家束帶取𢌞 所司代束帶の事

○公家衆束帶の取まはしは、はだかにて稽古有(ある)事とぞ。着座は足うらを合して趺座(ふざ)す。幼稚より習(ならひ)て性(しやう)と成(なり)たるが如し。總て盛服の時は二便(にべん)とも失する事あたはず、夫(それ)故御會始又は公宴などは終日の事故(ゆゑ)、老人或は二便に堪(たへ)ざる人は大かた所勞を申立て缺席有(ある)也。公家衆參内の途中は裾をば卷(まき)て腰にはさまるる、大抵步行にて參内也。草履取斗(ばか)り具せられ、又は若黨を加へ具せらるゝも有(あり)、上﨟は駕籠にて唐門(からもん)の下までゆかるゝもあり。每日京都見物に諸國より上りたるものは、唐門の向ひに居て拜見する事也。いづれも門の下にて草履を沓(くつ)にはきかへ、笏を端(ただ)し裾を曳(ひき)て甃道(いしきみち)をねり入らるゝ。一進一止、步々(ほほ)儀則(ぎそく)ありて刻(とき)を移す事也。足取(あしどり)に家々の式(しき)ありて、足ぶみの拍子もかわれり[やぶちゃん注:ママ。]。遙(はるか)に進み入らるゝ迄、沓(くつ)の聲遠く門外へ徹して聞ゆる也。

[やぶちゃん注:標題の関係上、二条をセットで続ける。「公家稼業も楽じゃない」話。

「趺坐」足を組み合わせて座ること。

「二便」大便と小便。

「所勞」病気。

「唐門」宜秋門(ぎしゅうもん)か。位置や出入りの格式等については、夢見る獏(バク)ブログ気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録の「京都御所(京都史跡めぐり 大江戸散歩)を参照されたい。京都御所の六つの総ての門について書かれてあり、地図もある。

「端(ただ)し」礼式通りに持ち。

「甃道(いしきみち)」「いしだたみみち」とも読むが、どうも間延びして厭だ。

「步々(ほほ)儀則(ぎそく)ありて」一足出す歩き方についてさえ儀礼の式(約束事)があって。

「刻(とき)を移す」時間が有意にかかる。]

 

○所司代禁裏付(きんりづき)の武家など上洛のはじめは、第一束帶難儀せらるゝ故、極(きめ)て裝束付(そくたいづき)とて非藏人(くらうど)か北面衆の中をたのむ事也。參内の度每に此人を請(しやう)じて裝束してもらふなり。その度ごとに謝禮の目錄を遣はす事ゆへ、後々は自身に裝束をつけて出仕する事あれども、禁中簾内出入の俯仰(ふぎやう)に、多(おほく)は帶ゆるみ、はさみたる衣ぬけ落(おち)て狼籍に曳(ひき)ちらし、ひろごりありき、赤面に及ぶ事有(あり)。夫(それ)ゆゑうは帶(おび)を隨分かたく結びてぬけ落ぬやうにすれば、一日の進退みぐるしくもあらねど、背をかたく結びつむるゆへ、腹腰くびられてはなはだ息づかひくるしきもの也。たのみたる人に裝束つけてもらひ參内する日は、帶もゆるやかにさのみかたくむすびたる樣にも覺えねど、終日出入俯仰にも衣ぬけおちる事なしとぞ。裝束平生(へいぜい)の事に成(なり)たるゆゑ、着用の覺悟ある事成(なる)べし。延享年中關東にて法華八講御法事ありし時、御家門の近臣大名衆初めみな束帶にて詰られし折節、別事にて下向の公家衆拜見を許され、同樣に出仕ありしに、兩三輩いづれも下﨟の仁(じん)なりしかども、束帶の儀貌(ぎばう)雲泥にわかれて、優美成(なる)事ども成(なり)しとぞ。

[やぶちゃん注:「武家の束帯男はつらいよ」話。

「所司代」京都所司代。京都の市政を管轄するため、安土桃山時代から置かれた。元は室町期の「侍所所司代」に由来する。職務は京都の防衛と治安維持、朝廷及び公家の監察、京都町奉行・奈良奉行・伏見奉行の管理、近畿八ヶ国の天領に於ける訴訟処理、西国大名の監察等であった。定員一名で譜代大名から任ぜられた。

「極(きめ)て」訓は推定。決まって。

「自身に」配下の者に命じて自分で。

「俯仰」原義は「俯(うつむ)くことと仰ぎ見ること・見回すこと」であるが、ここは「立ち居振る舞い・起居(挙止)動作」の意。

「狼籍に」ばたばたになって見苦しい状態になるさま。副詞的用法であろう。

「たのみたる人」「賴みたる人」は依頼した人の意ではなく、束帯を着たり、着せることにごく馴れた、信頼出来る公家方或いはその礼式に精通した人物の意であろう。

「延享」一七四四年から一七四八年まで。

「延享二(一七四五)年三月十三日から十七日まで紅葉山御宮に於いて「御染筆法華八講」が執行されている。将軍は徳川吉宗(彼はこの半年後の九月二十五日に将軍職を長男家重に譲った)。]

2018/08/25

大和本草卷之十三 魚之上 ヲイカハ (オイカワ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は『【同】』。前条のそれで示した。]

ヲイカハ 本草ニノセタル石鮅魚ナルヘシト云説アリ未知是

 非ヲヒカハヽ山中ノ川ニアリハヱニ似テ赤白色マシリ口

 ノハタ黑ク疣ノ如クナルモノ多シ京畿ニテハヲイカハト云筑紫

 ニテハアサギト云又アカバエトモ山ブチトモ云ウグヒ

 似テ味マサレリ大ナルハ六七寸アリハヱヨリ大ナリ爲

 膾食ス味美シハエノ一種トスヘシ無毒乾タルハ温補ス

 ミソニテ煮食ヘハ止久瀉

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ヲイカハ 「本草」にのせたる「石鮅魚」なるべしと云ふ説あり。未だ是非を知らず。「ヲヒカハ」は山中の川にあり。「ハヱ」に似て、赤・白、色、まじり、口のはた、黑く疣のごとくなるもの多し。京畿にては「ヲイカハ」と云ふ。筑紫にては「アサギ」と云ひ、又、「アカバエ」とも、「山ブチ」とも云ふ。「ウグヒ」に似て、味、まされり。大なるは、六、七寸あり。「ハヱ」より大なり。膾〔(なます)〕と爲〔(な)〕し、食す。味、美〔(よ)〕し。「ハエ」の一種とすべし。毒、無し。乾〔(ほし)〕たるは、温補す。「みそ」にて煮〔て〕食へば、久〔しき〕瀉を止〔(とど)〕む。

[やぶちゃん注:やっと特定種が出た(但し、「ヲイカハ」は歴史的仮名遣としては正しくない。「オヒカハ」(追河)である)。条鰭綱コイ目コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypusウィキの「オイカワ」より引く(下線太字はやぶちゃん)。『西日本と東アジアの一部に分布し、分布域ではカワムツやウグイなどと並ぶ身近な川魚である。釣りの対象としても人気がある』。『成魚は体長』十五センチメートル『ほどで、オスの方がメスより大きい。背中は灰青色、体側から腹側は銀白色で、体側に淡いピンクの横斑が数本入る。三角形の大きな尻びれをもち、特に成体のオスは大きい。背中の背びれの前に黄色の紡錘形の斑点がある。上から見ると』、同じハヤ類として総称される『カワムツ』(Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii)『やヌマムツ』(カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii)『に似るが、各ひれがより大きく広がってみえる。ハス』(Oxygastrinae 亜科ハス属ハス Opsariichthys uncirostris)『の若魚にもよく似るが、ハスは横から見ると口が大きく、唇が「へ」の字に曲がっているので区別できる』。『日本国内では利根川水系と信濃川水系以西の本州各地、四国の吉野川水系、九州に自然分布する。国外では朝鮮半島、中国東部、台湾に分布する』。『近年』、『改修によって多くの河川は流れがより緩やかになり、河床は平坦にされている。水の汚れや河川改修にも順応するオイカワにとって、近年の河川は生息しやすい環境へと変化して』おり、二十一『世紀初頭の時点では東日本、屋久島、徳之島などでも記録される普通種となっている。日本国内の移動で生態系への影響も比較的少ないとはいえ、外来種であることに変わりはない。改修への順応が低いウグイ』(コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)『やカマツカ』(コイ科カマツカ亜科カマツカ属カマツカ Pseudogobio esocinus)『などの魚が減少する中、生息数が増えている』。『琵琶湖産アユ』(Plecoglossus altivelis の琵琶湖産種(通称和名は「コアユ」。琵琶湖に棲息するアユの陸封型。正式な亜種指定はされてはいないが、明らかに亜種である)『やゲンゴロウブナ』(コイ亜科フナ属ゲンゴロウブナ Carassius cuvieri)『など有用魚種に紛れて放流されることにより東北地方など各地に広がった。また、従来生息していた河川などにも進入した結果、琵琶湖産オイカワと在来オイカワの混在が確認されている』。『台湾に生息する個体のミトコンドリアDNAを解析したところ、遺伝的に琵琶湖産と極めて近い関係にあるとする研究があり、アユの移植に伴った人為移植と考えられる』。『徳之島では』一九七〇『年代に鹿児島県天降川からアユの移植を試みた際に、アユ稚魚に混ざっていたオイカワが定着し増殖している。なお、オイカワの増殖により徳之島在来種の陸封型ヨシノボリ類』(ズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ヨシノボリ属 Rhinogobius)『の減少が報告されている』。『川の中流域から下流域にかけて生息するが、湖などにも生息する。カワムツなどと分布域が重複するが、オイカワのほうが』、『平瀬で水流が速く』、『日当たりのよい場所を好む。またカワムツに比べると』、『水の汚れに強く、河川改修され』、『生活排水が流れこむ都市部の河川にも生息する』。『川那部浩哉の宇川での研究によるとカワムツとオイカワが両方生息する川では、オイカワが流れの速い「瀬」に出てくるのに対し、カワムツは流れのゆるい川底部分』である『「淵」に追いやられることが知られる。さらにこれにアユが混じると、アユが川の浅瀬部分に生息し、オイカワは流れの中心部分や淵に追いやられカワムツは瀬に追い出され』、『アユと瀬で共存する。このことから河川が改修され』て『平瀬が増えると』、『オイカワが増えて』、『カワムツが減ることがわかっており』、『生物学の棲み分けの例として教科書等に載っている』但し、『近年は関東地方の一部の河川ではオイカワからカワムツが優先種となる逆のパターン』『も見られ』、『これも河川改修等が原因と考えられ』ことから、『両者の関係には今後も注意すべきである』。『雑食性で、藻類や水草、水生昆虫や水面に落ちた小昆虫、小型甲殻類、ミミズ、赤虫などを食べる』。『複数回の産卵を行うが、一回目の産卵の後好ましくない条件下(出水・増水による環境不適)では体内に残っている卵は産卵されない事もある。この残った卵(残存卵巣卵)は過熟卵となるが、コイと同じように体内に吸収されると考えられる』。『成熟雌は産卵活動を行ない』、九『月までに死ぬ』。『繁殖期』は五~八月で、『この時期のオスは顔が黒く、体側が水色、腹がピンク、尾びれを除く各ひれの前縁が赤という独特の婚姻色を発現し、顔に追星と呼ばれる凹凸が現れる』。『体長と孕卵数には一定の相関があり』、一尾当たり三百八十『粒程度を孕』み、一回の『産卵で全てを放出せず』、『複数回の産卵行動を行う。産卵水温の範囲は広く』、約摂氏十六度から三十度程度。一回に十粒から数十粒『程度を産卵する』ため、『潜在的な産卵能力は』三『ヶ月程度維持される』。『産卵行動は水通しの良い浅瀬に群がり、砂礫の中に非粘着性の卵を産卵する。親魚は卵を保護しないが、産卵に参加しない個体や他の魚種等の捕食者から保護するため』、『砂を巻き上げ埋没させる』。『低水温』だと、『産卵から孵化までの日数が増加するが、卵は』二日から八日『ほどで孵化し』、水温が二十度から二十三度では三日『程度で孵化する。産卵と同じく』、『孵化水温の範囲も広く』、十七度から三十程度であるが、二十五・四度『以上になると』、『孵化率の低下や奇形の発生が始まり』三十三・五度で『急激に悪化する、適水温は』十九度から二十七度『程度とされる』(ここに孵化適温範囲内に於ける「水温」と「ふ化日数」との関係式が出るが、省略する)。『孵化直後は、水流のほとんど無い止水域で群集し、成長度合いにより』、『生息場所を変えていく。成熟には』二年から三年がかかる。『河川改修による平坦化や農業用用水取水の影響による水量減少のために、もともとは棲み分けをしているオイカワと近縁種のヌマムツ又はカワムツの産卵場所が重なることで、交雑が生じて』おり、『オイカワとヌマムツの交雑種』、『オイカワとカワムツの交雑種』『の雄は共に両種の特徴を持った婚姻色となる。渡辺昌和氏の越辺川の支流での観察によると』、『ヌマムツのペアにオイカワの雄が飛び込んで放精する姿が観察された。これはオイカワ、カワムツ、ヌマムツは基本的に雌雄』一『対で産卵を行うが』、『その回りには小型の雄が徘徊し』、『産卵の瞬間に放精に参加するという共通の習性を持っており、渡辺氏の観察ではヌマムツのペアにオイカワの雄が放精するパターンのみが観察され』、『オイカワのペアにヌマムツの雄が放精する逆のパターンは観察されなかった。産卵期にはヌマムツの雄は体側の縦帯を緑色に変えるために、オイカワの雄が飛び込む引き金となっているとも考えられている』。以下、「地方名」のリスト。『ハヤ、ハエ、ハイ、ブリーク(各地・混称)、ハス(淀川流域)、シラハエ、シラバエ、チンマ(近畿地方、北九州)、ヤマベ(関東地方と東北地方の一部)、ジンケン(東北地方・長野県の一部』『)など』。『各地に多くの方言呼称があるが、多くの地方でウグイやカワムツなどと一括りに「ハヤ」と呼ばれる事もある。地方名の「ヤマベ」はサケ科のヤマメ』(条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou)『を指す地域もあり』、『注意が必要である。淀川流域ではオイカワを「ハス」、ハスを「ケタバス」と呼んで区別している。なお』、『標準和名「オイカワ」は』、『元来』、『婚姻色の出たオスを指す琵琶湖沿岸域での呼称であった。このほかにオスがアカハエ、メスがシラハエとも呼ばれる。また大分ではシラハエより体長も長く大きい腹の赤いものを「ヤマトバエ」と呼んでいるようだ』。『ちなみにカワムツを初めてヨーロッパに紹介したのは長崎に赴任したドイツ人医師シーボルトで、オイカワの属名』Zacco『は日本語の「雑魚」(ザコ)に由来する。このオイカワ属にはオイカワとカワムツとヌマムツが含まれていたが、現在はオイカワはハス属』Opsariichthys『に、カワムツとヌマムツがカワムツ属』Nipponocypris『となっている』。本種は『釣りの対象、または水遊びの相手としてなじみ深い魚である。餌は練り餌、川虫、サシ、ミミズ、毛針、ご飯粒、パスタなど。釣りの他に刺し網や投網、梁漁などでも漁獲される。泳がせ釣り用の活き餌として釣られることもある』。『甘露煮、唐揚げ、テンプラ、南蛮漬けなどで食用にされる。滋賀県ではなれずしの一種である「ちんま寿司」に加工される。長期熟成による醗酵臭が強く硬い鮒寿司より、ちんま寿司の方が食べやすいという向きも少なくない』。『美しい婚姻色から、アクアリウムなどで観賞用として飼育されることがある。人工飼料を利用し育てる事が出来るが、長期飼育は比較的難しい部類に入る。定期的な水替えと温度管理が重要で、狭い水槽での飼育は困難とされている』とある。このウィキの記載は飛びっ切りに優れている

『「本草」にのせたる「石鮅魚」』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」に以下のように出る。

   *

石鮅魚【「拾遺」。】

集解藏器曰、「生南方溪澗中。長一寸、背裹腹下赤、南人以作鮓云甚美。」。

氣味甘、平。有小毒。

主治瘡疥癬【藏器。】。

   *

短いが、「オイカワ」らしくは見える。ウィキの記載に生息域として東アジアの一部を挙げているから、おかしくない。

「赤・白。色、まじり、口のはた、黑く疣のごとくなるもの多し」前のウィキの引用の太字下線部を参照のこと。

『筑紫にては「アサギ」と云ひ』ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「オイカワ」のページの異名欄に『アサジ』があり、『福岡県久留米市』採取とある。

「アカバエ」前条本文と私の注を参照。

「山ブチ」現行では見当たらぬが、体色の「山斑(やまぶち)」で最も納得でき、また棲息流域の「山淵」でも腑に落ちるように思われる。

「ウグヒ」「ハヤ」類の一つであるコイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis。歴史的仮名遣は正しい。益軒はウグイに勝ると言っているが、私は二十代の頃、友の結婚式に戻った高岡で、父母と一緒に行った庄川沿いの川魚料理屋で食べた、婚姻色の朱色の条線の美しく出た「サクラウグイ」の味が忘れられない。私にとって川魚の最上の味は、あのウグイだったと断言出来る

『「ハヱ」より大なり』こう言っているところからは、益軒が狭義の「ハエ」を「オイカワ」や「ウグイ」でない種として認識していることを明らかにしている。これらの種より小さいとなると、ウグイは標準成魚の大きさが三十センチメートル(但し、大型個体では五十センチメートルに達するものがいる)で、オイカワは十五センチメートルであるから、後者より小さな「ハヤ」類を益軒は「ハヱ」と呼んでいることになる。

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri 標準体長は十五センチメートル

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi 標準体長は十センチメートル

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii 十五~二十センチメートル

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii 十~十五センチメートル(但し、は二十センチメートルに達する個体もある)

とあった。益軒は福岡から殆んど出ることがなかったから、九州に分布しないアブラハヤ(アブラハヤの本来の分布域は、日本海側で青森県から福井県にかけて、太平洋側で青森県から岡山県である)はまず削除出来る。さすれば、体長から、一番の益軒の「ハヱ」候補は「タカハヤ」ということになろうか。

「膾〔(なます)〕」刺身の意もあるが、ここは野菜や魚介類を刻んで酢に和えたものととっておこう。一般に川魚の完全な生食は恐るべき顎口虫や肺吸虫の感染があるからね。しかし酢締めでも全く以って危ない種も多いからね、やっぱ、塩焼きにしましょう! その方がマジ! 美味いって!

「温補」漢方で健康な人体にとって必要な温度まで高める力を補うの意。散々注したので、もう、この注は附さない。

「久〔しき〕瀉」慢性の嘔吐或いは下痢だが、ここは後者であろう。]

大和本草卷之十三 魚之上 𮬆 (ハエ) (ハヤ)

 

【和品】

𮬆 何レノ川ニモアリ類多シ白ハヱアリ大ナリ赤ハヱアリ

 アフラハヱアリ昔ヨリ倭俗𮬆ノ字ヲハエトヨム万葉集

 ニモ書ケリ出處未詳順和名抄ニハ𮬆ノ字ヲハエト訓ス是

 亦出處不詳國俗ノ説ニ甘草ニ反スト云性味鰷ニ不

 及サレ𪜈頗溫補ス乾タルハ最佳シ補脾止瀉


○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

𮬆(ハエ) 何れの川にもあり、類、多し。「白ハヱ」あり、大なり。「赤ハヱ」あり、「アブフラハヱ」あり。昔より、倭俗、「𮬆」の字を「ハエ」と、よむ。「万葉集」にも書けり。出處〔(でどころ)〕、未だ詳らかならず。順〔が〕「和名抄」には「𮬆」の字を「ハエ」と訓ず。是れ亦、出處未だ詳らかならず。國俗の説に「甘草に反す」と云ふ。性・味、鰷〔(アユ)〕に及ばず、されども、頗る溫補す。乾〔(ほし)〕たるは、最も佳〔(よ)〕し。脾〔(ひ)〕を補し、瀉を止〔(とど)〕む。

[やぶちゃん注:の「鰷魚(アユ)」の項で注したが、再掲すると、「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属カラアブラハヤ(アムールミノー)亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri (日本固有亜種)

アブラハヤ属コウライタカハヤ(チャイニーズミノー)亜種タカハヤRhynchocypris oxycephalus jouyi (日本固有亜種)

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii (日本固有亜種)

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。漢字では「鮠」「鯈」「芳養」と書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。

「𮬆(ハエ)」困ったのは、この標題漢字で、魚偏の漢字は国字が多いのであるが、これも国字である(因みに、常用漢字表にある魚偏の漢字は「鯨」と「鮮」のたった二字だけである)。

 因みに、四季を旁(つくり)に配した字は、「鰆」が国訓で「さわら」で、条鰭綱スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius を指す。漢語としての「鰆」(音「シュウ」)は(音「ソウ」:イシモチ(スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata 或いはニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii を指す)の俗字である。また、「鰍」は国訓が複数あって、一つは「いなだ」(出世魚であるスズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata の関東での小・中型の個体(関東での呼称は「モジャコ」(稚魚)ワカシ(三十五センチメートル以下)「イナダ」(三十五~六十センチメートル)「ワラサ」(六十~八十センチメートル)「ブリ」(八十センチメートル超)の順)で、別に「かじか」(条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux:「杜父魚」「鮖」とも書く。日本固有種であるが、地方によっては形が似るものの、全くの別種であるハゼ科 Gobiidae の魚と一緒くたにして「ゴリ」とか「ドンコ」とも呼ばれる。 大別して大卵型の河川陸封型・中卵型の両側回遊型・小卵型の両側回遊型がいるが、分類研究は進んでいない)、また「うなぎ」(条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica)を指す。漢語としての「鰍」(音「シュウ・シュ」)は「鰌」(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatusと同義である。そして、「鮗」国字で「このしろ」(条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus)である。

 さても、この「𮬆」の字であるが、所持する「廣漢和辭典」にも所収しない。よくお世話になる「真名真魚字典」のこちらの記載によれば、「日本魚名集覧」の「水産名彙」の引用には『ハエ・ハヤ・フグ・フクベ』(「フクベ」は「フグ」の異名であろう)とし、同じく「日本魚名集覧」の「摂陽群談」の引用では『魚』で『サメ』とするとある。別に「あわび」に当てる記載もあった(しかしこれは「鰒」(あわび)の誤読のようにも思われる)。ところが、調べてみると、これはやはり、国字で、出世魚であるブリ(スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata)の関東での幼魚を指す「ワカシ」(関東では「モジャコ」(稚魚)「ワカシ」(十五~三十五センチメートル以下)「イナダ」(三十五~六十センチメートル)「ワラサ」(六十~八十センチメートル)「ブリ」(八十センチメートル超)の順)で、「初夏に釣れること」から「夏」を旁に当てたものであるらしい。

 ただ、上記の通り、「日本魚名集覧」の「水産名彙」の「ハエ・ハヤ」もあるから、益軒の表字と訓は誤りではないということにはなる。

 ともかくも、前条「ハヤ」類を指す「鰷魚」を「アユ」と読んでしまった関係上、益軒は「ハヤ」にこの字を宛てるしかなかったものと私は読むのである。なお、実は次の独立項は「ヲイカハ」なのである。

「白ハヱ」ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「オイカワ」のページに、オイカワの異名の一つに「シラハエ」(関東・東海(愛知県津島市・旧海部郡))を挙げてある。ところが、同時に続く「赤ハヱ」と同じく、「アカバエ(赤バエ)」も挙がっていて、『夏になって婚姻色の出たもの』として、『岡山県高梁市備中町』での採集名とする。個人サイト「川のさかな情報館」の「ハス属」を見ても、「オイカワ」の異名に『シラバエ(和歌山県)』・『シロバエ(宮崎県)』。『シラハエ(岐阜県)』を認め、ネット上では他にも「シロバエ」を「オイカワ」とする記載があるので、ここは「白ハヱ」「赤ハヱ」の二つともに同一のコイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys
platypus
で、その生活史上の色彩変異(婚姻色の出る前と後)と採ってよいように思われる。ウィキの「オイカワによれば、『標準和名「オイカワ」は』、『元来』、『婚姻色の出たオスを指す琵琶湖沿岸域での呼称であった。このほかにオスがアカハエ、メスがシラハエとも呼ばれる。また大分ではシラハエより体長も長く大きい腹の赤いものを「ヤマトバエ」と呼んでいるようだ』とあるので、間違いない。

「アブフラハヱ」ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

『昔より、倭俗、「」の字を「ハエ」と、よむ』益軒先生には出典を明記して、例を複数、挙げて貰いたかった。

『「万葉集」にも書けり』調べて見たが、不詳。識者の御教授を乞う。

『順〔が〕「和名抄」には「𮬆」の字を「ハエ」と訓ず』国立国会図書館デジタルコレクションで「和名類聚鈔」を見てみたが、少なくとも「𮬆」の字は見出しになかった。識者の御教授を乞うものであるが、同書には、

   *

鮠 四聲字苑云鮠【巨灰反漢語抄云波江又用*[やぶちゃん注:「*」=「魚」+「軰」。]字。所出未詳。】魚似鮎而白色

   *

とあり(ここ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像)、「波江」とあるのを見つけた。「鮠」は現行の「ハヤ」に当てる漢字である。「出處未だ詳らかならず」というところが、益軒の叙述と酷似するの偶然だろうか? 今までの水族のパートではこういう言い方は滅多に出てこないのだが?

「國俗の説」本邦の民間の処方。

「甘草に反す」甘草(マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza の根を乾燥させた生薬。漢方では緩和作用・止渇作用があるとされる)の効果を相殺してしまうと言った意味であろう。

「鰷〔(アユ)〕」前の「鰷魚(アユ)」の項に従って訓じた。

「溫補」漢方で健康な人体にとって必要な温度まで高める力を補うの意。

「脾」伝統中国医学に於ける五臓の一つ。ほぼ腹の中央にあり、水穀(すいこく)の気を取り込む働きをするとされている。旁の「卑」は「扁平な樽」を意味する。現代医学に於ける脾臓とは関係ないので注意。

「瀉」嘔吐或いは下痢。]

大和本草卷之十三 魚之上 鰷魚 (アユ)

 

鰷魚 春初海ト河トノ間ニテ生レテ河水サカ上ル夏一

 漸長ス八月以後サヒテ味ヨカラス秋ノ末河上ヨリ下

 リテ潮サカヒニテ子ヲウンテ死ス沙川ノ鰷ハ小ニ乄瘦

 ス大石多キ大河ニアルハ苔ヲ食フ故大ニ乄肥ユ大ナルハ

 尺ニ至ル又香魚ト名ツク香ヨキ故也雨航雜錄

 香魚鱗細不腥春初生月長一寸至冬月長盈則

 赴潮際生子生已輙稿一名記月魚稿トハアユノサ

 フルヲ云豊後國早見郡立石村ノ淺見川ノ鰷ハ冬

 ニ至ルマテ下ラスサヒス其川ニ温泉イテヽ水温ナル故

 ナルヘシ凡鰷性温補香味共ニヨシ背ニ脂アリ滯痰

 氣膓ノ醢ヲ俗ニウルカト云久泄利ヲ止ム初症ニハ不

 可也宿食及有痰人不可食鰷ノ子ヲマシエタルハ味尤

 美也又鰷肉ヲ切テ醢トス亦可也鰷ニ雌雄アリ雌ハ

 首小ニ身廣ク皮薄ク色黃ナリ子ハ粟ノ如シ白子

 モアリ秋半二胞アリ雄ハ頭小身狹ク色雌ヨリ淡

 黑ナリ雌ヨリ長シ粟子ナシ白子二胞アリ雌ハ味ヨ

 シ雄ハ味劣ル雄ハ秋半早ク枯ル雌ハヲソクサフル鰷ヲ[やぶちゃん注:「ヲソク」はママ。]

 セイゴ云説アヤマリ也又鮎ヲアユトヨムモ誤也鮎ハ諸

 書ヲ考ルニナマツナリ日本紀神功皇后紀ニ細鱗魚

 ヲアユトヨメリ

○やぶちゃんの書き下し文

鰷魚(アユ) 春の初め、海と河との間にて生まれて、河水にさか上る。夏一〔(なついち)に〕、漸〔(やうや)く〕長ず。八月以後、さびて、味、よからず。秋の末、河上より下りて、潮さかひにて、子をうんで、死す。沙川の鰷は小にして、瘦(や)す。大石多き大河にあるは、苔を食ふ故、大にして肥ゆ。大なるは尺に至る。又、「香魚」と名づく。香〔(かをり)〕よき故なり。「雨航雜錄」に云はく、『香魚、鱗、細く、腥〔(なまぐさ)〕からず。春の初め、生ず。月に長ずること、一寸、冬月に至り、長盈〔(ちやうえい)〕し、則ち、潮〔の〕際〔(きは)〕に赴き、子を生む。生み已〔(をは)〕つて、輙〔(すなはち)〕、「稿」は[やぶちゃん注:「は」は不要な送り字のように思われ、ここで原文は小さくブレイクしているものと思う。或いは送るなら、「となる」辺りが適切と考える。]、一名、「記月魚」。』〔と〕。「稿」とは、あゆのさぶるを云ふ。豊後國早見郡立石村の淺見川の鰷は、冬に至るまで下らず、さびず。其の川の温泉いでゝ、水、温〔(あたたか)〕なる故なるべし。凡そ、鰷の性、温補す。香・味、共によし。背に脂あり、痰氣を滯〔(とど)め〕しむ。膓(わた)の醢(なしもの)を俗に「うるか」と云ふ。久しき泄利を止〔(とど)〕む。初症には不可なり。宿食及び痰有る人、食ふべからず。鰷の、子をまじえたるは、味、尤も美なり。又、鰷〔の〕肉を切りて醢〔(なしもの)〕とす、亦、可なり。鰷に雌雄あり、雌は、首、小に〔して〕、身、廣く、皮、薄く、色、黃なり。子は粟のごとし。白子もあり。秋半ば、二胞〔(ふたはら)〕あり。雄は、頭、小に〔して〕、身、狹く、色、雌より淡黑なり。雌より長し。粟子、なし。白子、二胞〔(ふたはら)〕あり。雌は、味、よし。雄は、味、劣る。雄は、秋半ば、早く、枯(さぶ)る。雌は、をそく、さぶる。鰷を「セイゴ」と云ふ説、あやまりなり。又、鮎を「アユ」とよむも誤りなり。「鮎」は諸書を考ふるに「ナマヅ」なり。「日本紀」「神功皇后紀」に「細鱗魚」を「アユ」とよめり。

[やぶちゃん注:条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis(属名「プレコログロッツス」はギリシャ語の「襞のある」と「舌」の合成で、種小名「アルティベリス」は「帆を張ったような高い背鰭」の意)。ウィキの「アユ」によれば、『北海道・朝鮮半島からベトナム北部まで東アジア一帯に分布』するが、『日本がその中心である』。他に正式な亜種として、リュウキュウアユ Plecoglossus altivelis ryukyuensis(絶滅危惧IA類(CR)。琉球列島固有亜種で、現在は奄美大島のみに棲息する。かつて棲息していた沖縄本島北部西海岸に注ぐ河川の在来個体群は一九七〇年代に絶滅した)及び中国産亜種 Plecoglossus altivelis chinensis や、朝鮮半島産個体群(『予備的な研究により』、『日本産と遺伝的に有意の差があるとの報告がされている』)がいる外、琵琶湖産の「コアユ」と呼んでいる個体群は『アイソザイム(アロザイム)分析の結果、日本本土産の海産アユから』十『万年前』に分かれたもの『と推定されて』(但し、正式な亜種として分類されてはいない)おり、また、本州のアユも『遺伝的に日本産海産アユは南北』(『天塩川が日本の分布北限』)二つの『群に分けられる』とある。

「鰷魚(アユ)」益軒は最後の方で『鰷を「セイゴ」と云ふ説、あやまりなり。又、鮎を「アユ」とよむも誤りなり。「鮎」は諸書を考ふるに「ナマヅ」なり』と如何にも自慢げに記しているが、自分の表記自体の誤りを微塵も認識していない(但し、この「鰷」を「アユ」とする誤認は、江戸時代、巷間は勿論、こうした本草書にも蔓延してはいた)。「鰷」は昔から中国でも本邦でも「ハヤ」類を指す(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)。これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称である。則ち、この「鰷魚」(じょうぎょ)とは、「荘子」の「秋水篇」の私の大好きな「知魚楽」の論理対話に登場する「鯈魚(ゆうぎょ)」と同じなのである。あの魚を「アユ」とする注を私は見たことがない(実際には小アユであったものよいのだが、諸注は皆、「ハヤ」の類とする)私の漢文の授業思い出される諸君も多かろうから、折角だから、私の「橋上 萩原朔太郎 + 荘子 秋水篇 『知魚楽』」をリンクさせておく。注で原文と訓読及び私の語注、さらにオリジナル現代語訳(今回全面的に新訳したもの。特に現在時制にしてシナリオのように示すことで新味が出たとは思う)を配してある。さても……益軒先生、多数者の誤認を鬼の首を捕ったように指弾しているあなたも、実は結局、トンデモ誤認の渦中にいた一人であったことを理解されていなかった「井の中の鯰(なまず)」だったのですよ……なお、ウィキの「アユ」の「名称」の部分を引いておくと、『漢字表記としては、香魚(独特の香気をもつことに由来)、年魚(一年で一生を終えることに由来)、銀口魚(泳いでいると口が銀色に光ることに由来)、渓鰮(渓流のイワシの意味)、細鱗魚(鱗が小さい)、国栖魚(奈良県の土着の人々・国栖が吉野川のアユを朝廷に献上したことに由来)、鰷魚(江戸時代の書物の「ハエ」の誤記)など様々な漢字表記がある』。『また、アイ、アア、シロイオ、チョウセンバヤ(久留米市)、アイナゴ(幼魚・南紀)、ハイカラ(幼魚)、氷魚(幼魚)など地方名、成長段階による呼び分け等によって様々な別名や地方名がある』。『アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある』。『現在の「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説』、『アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含めほとんどがアユを年魚と表記している』。『中国で漢字の「鮎」は古代日本と同様ナマズを指しており』、『中国語でアユは、「香魚(シャンユー、xiāngyú)」が標準名とされている。地方名では、山東省で「秋生魚」、「海胎魚」、福建省南部では「溪鰛」、台湾では「』=「魚」+「桀」)『魚」、「國姓魚」とも呼ばれる』とある。また、実は次の独立項が「※(ハエ)」(「※」=「魚」+「夏」)なのである。

「春の初め、海と河との間にて生まれ」親アユの産卵は水温が摂氏十五度から十八度の時節を産卵の最盛期とし、東北・北海道では八月下旬から九月上旬、本州中部附近では十月下旬から十一月上旬、南日本では十二月中旬である(ここは個人サイト「渓一郎の鮎迷人」の「鮎の生態と現況」に拠った)。則ち、産卵は概ね秋で、産卵場所は遡上した河川を下った河川下流域である。水温十五度から二十度の間では二週間ほどで孵化する。ウィキの「アユ」によれば、『孵化した仔魚はシロウオのように透明で、心臓やうきぶくろなどが透けて見える。孵化後の仔魚は全長約』六ミリメートルで、『卵黄嚢を持つ』とある。その後、『仔魚は数日のうちに海あるいは河口域に流下し』、『春の遡上に備える。海水耐性を備えているが、海水の塩分濃度の低い場所を選ぶため、河口から』四キロメートル『を越えない範囲を回遊』し、『餌はカイアシ類などのプランクトンを捕食して成長する。稚魚期に必要な海底の形質は砂利や砂で、海底が泥の場所では生育しない。全長約』一センチメートル程度になると、『砂浜海岸や河口域の浅所に集まるが、この頃から既にスイカやキュウリに似た香りがある。この独特の香りは、アユの体内の不飽和脂肪酸が酵素によって分解されたときの匂いであり、アユ体内の脂肪酸は餌飼料の影響を受けることから、育ち方によって香りが異なることになる。香り成分は主に2,6-ノナジエナールであり、2-ノネナール・3,6-ノナジエン-1-オールも関与している』(しばしばアユの香りは川苔を捕食するからとする言説を聴くが、あれは誤りである)。『稚魚期には、プランクトンや小型水生昆虫、落下昆虫を捕食する』とある。

「河水にさか上る。夏一〔(なついち)に〕、漸〔(やうや)く〕長ず」ウィキの「アユ」によれば、体長五・九~六・三センチメートルになると、『鱗が全身に形成され』、その後、『稚魚は翌年』の四月から五月頃、五~十センチメートル程に成長した上で、川の遡上を開始する。『この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上の藻類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化する。川の上流から中流域にたどり着いた幼魚は水生昆虫なども食べるが、石に付着する藍藻類および珪藻類(バイオフィルム』:Biofilm:菌膜(きんまく):微生物により形成される構造体『)を主食とするようになる。アユが岩石表面の藻類をこそげ取ると』、『岩の上に紡錘形の独特の食べ痕が残り、これを特に「はみあと(食み跡)」という。アユを川辺から観察すると、藻類を食べるために』、『しばしば岩石に頭をこすりつけるような動作を行うので他の魚と区別できる』。『多くの若魚は群れをつくるが、特に体が大きくなった何割かの若魚は』餌となる『藻類が多い場所を独占して縄張りを作るようになる。一般には、縄張りを持つようになったアユは黄色みを帯びることで知られている』。『特にヒレの縁や胸にできる黄色斑は』、『縄張りをもつアユのシンボルとされている』。『アユの視覚は黄色を強く認識し、それによって各個体の争いを回避していると考えられている』。縄張りは、一尾のアユにつき、約一メートル四方ほどで、『この縄張り内に入った他の個体には』、『体当たりなどの激しい攻撃を加える。この性質を利用してアユを掛けるのが「友釣り」で』ある、とある。

「八月以後、さびて、味、よからず」やはりウィキの「アユ」から引く。『夏の頃、若魚では灰緑色だった体色が、秋に性成熟すると』、『「さびあゆ」と呼ばれる橙と黒の独特の婚姻色へ変化する。成魚は産卵のため』、『下流域への降河を開始するが、この行動を示すものを指して「落ちあゆ」という呼称もある。産卵を終えたアユは』一『年間の短い一生を終えるが、広島県太田川、静岡県柿田川などの一部の河川やダムの上流部では』、『生き延びて越冬する個体もいる』。『太田川での調査結果からは、越年アユは全て雌で』、『再成熟しての産卵は行われないと考えられている』とある。

「雨航雜錄」明代後期の文人馮時可(ふう(ひょう)じか)が撰した雑文集。魚類の漢名典拠としてよく用いられる。四庫全書に含まれている。

「長盈〔(ちやうえい)〕」「盈」は「満ちる・満たす・余る」の意で、ここは十分に体が大きく成長すること、生殖可能な成魚となることを指す。

「稿」には「枯れた稲」の意がある。「錆(さび)鮎」の色に相応する。

「記月魚」まさに一年の「月」(季節)を「記」す、数えるように生きたことを、体表に「さび」を以って「記」した「魚」の意であろう。

「豊後國早見郡立石村の淺見川」現在の大分県別府市南立石の近くを流れる朝見川であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)が南立石地区で、その北端を横切って東南に下って別府湾にそそいでいるのが朝見川で、支流にはまさに「鮎返川(あゆかえりがわ)」がある。なお益軒は福岡藩士であるから、近場である。

「冬に至るまで下らず、さびず。其の川の温泉いでゝ、水、温〔(あたたか)〕なる故なるべし」残念ながら、幾つかのフレーズ検索を頻りに掛けてみたが、現在の朝見川に越年アユが棲息する事実には行き当たらなかった。というより、現在の朝見川で鮎釣りをしているという記載自体が見つからない。現地の方の情報を俟つものである。

「温補」漢方で健康な人体にとって必要な温度まで高める力を補うの意。

「背に脂あり、痰氣を滯〔(とど)め〕しむ」背の部分の脂が痰の詰まりを抑える効果を持つと言っている。ここは「背の脂」に限定しているのであって、後の鮎の「膓(わた)の醢(なしもの)」=内臓の塩辛である「うるか」が「痰有る人、食ふべからず」とあるのとは矛盾しないので注意が必要。

「うるか」平仮名書きが現在も普通。ウィキの「うるか」より引く。「鱁鮧」「潤香」「湿香」と書く。アユの塩辛。「鮎うるか」とも称する。『鮎の内臓のみで作る苦うるか(渋うるか、土うるか)、内臓にほぐした身を混ぜる身うるか(親うるか)、内臓に細切りした身を混ぜる切りうるか、卵巣(卵)のみを用いる子うるか(真子うるか)、精巣(白子)のみを用いる白うるか(白子うるか)等がある』。『鮎が捕れる地域の名産品であり、日本全国で見られるが、岐阜県の長良川』、『熊本県の球磨川、島根県の高津川』、『大分県の三隈川』、『大野川』『のものなどが知られている。以下、「身うるか」の製法。『ひれ、うろこを取り、頭、尾びれを切り取る。内臓は残す』。『骨ごと細かく切り、包丁でたたいてミンチ状にする』。『塩を加えて、さらに擦り潰す』。その後、一日に四回ほど『かき混ぜながら』、一『週間ほど置く』と出来上がり。『酒の肴』『にするほか、サトイモやナスに加えて煮物にしたり、うるか汁にしたりする』とある。

「久しき泄利」慢性的な下痢。

「初症」下痢の初期や急性の下痢症状を指すのであろう。

「宿食」(しゅくしょく)は飲食物が胃腸に停滞してしまう病証を指す。「食積」「傷食」「宿滞」などとも称し、食べ過ぎ或いは脾虚を原因とし、上腹部の脹痛・酸臭のあるゲップ・悪心・食欲不振・便秘或いは下痢を主症状とし、悪寒・発熱・頭痛などを伴うこともある。

「鰷の、子をまじえたる」鮎が子持ちであること。

「鰷〔の〕肉を切りて醢〔(なしもの)〕とす」前注「うるか」の「身うるか」。

「鰷に雌雄あり」以下に益軒はうじゃうじゃ対照しているが、これでは区別は出来ない。そもそもアユは捌かないと実際には判り難い。一般には、尾鰭の前方下側に生えている三角形の尻鰭を広げて横から見た際、

――丸みが少なく、幅が狭く、全体に三角形に見えるのが♂

――同時期の成魚の♂に比べ、丸みと膨らみがあり、中心よりもやや後ろ側にV字型の窪みがあり、鰭全体が歪んだハート型のような感じに見えるのが♀

とするが、これも素人では確かな雌雄を並べられて見て、初めて差違が判るものとも言える。「鮎処 こしじ茶」の対象写真をリンクさせておく。

「雌は、首、小に〔して〕、身、廣く、皮、薄く、色、黃なり。子は粟のごとし。白子もあり」不審。雌に白子があろうはずがない。現在のおぞましいバイオ技術では雌雄同体アユは作り出されているがね。

「二胞〔(ふたはら)〕」読みは私の推定。二腹。

「枯(さぶ)る」「錆びる」に同じい。寧ろ、この当て字の方が中国語の「稿」に相応しい。

「をそく」「遲く」。

「セイゴ」出世魚で、海産でありながら、驚くべき上流まで川を遡上して平気でいられるスズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の、若年期の呼称。関東では一歳から二歳で全長が二十~三十センチメートル程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶが、それより小さな十五~十八センチメートルのものを指す地域も多く、愛知県では小型のスズキを概ね「セイゴ」と呼び、大きさと出世呼称名は地方によって異なる。

『「鮎」は諸書を考ふるに「ナマヅ」なり』室町幕府第十四代将軍足利義持の命で、瓢箪でナマズを押さえるという禅の公案を描いた国宝「瓢鮎図」が知られる。応永二二(一四一五)年以前の作で、京都妙心寺塔頭退蔵院所蔵。画面上半には大岳周崇の序と玉畹梵芳など三十一人の禅僧による画賛がある。これ(リンク先はウィキの「瓢鮎図の画像)。則ち、知識人は「鮎」がナマズであることは知っていたのである。

『「日本紀」「神功皇后紀」に「細鱗魚」を「アユ」とよめり』「日本書紀」の「神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)四月甲申」の条に、

   *

夏四月壬寅朔甲辰。北到火前國松浦県。而進食於玉嶋里小河之側。於是皇后勾針爲鉤。取粒爲餌。抽取裳縷爲緡、登河中石上。而投鉤祈之曰。朕西欲求財國。若有成事者、河魚飮鉤。因以舉竿。乃獲細鱗魚。時皇后曰。希見物也。故時人號其處曰梅豆羅國。今謂松浦訛焉。是以其國女人。每當四月上旬。以鉤投河中。捕年魚、於今不絶。唯男夫雖釣、以不能獲魚。

   *

と出るのを指す。他にも「日本書紀」では「阿喩(あゆ)」の文字を当てている箇所がある。また、「古事記」にも同じ仲哀天皇神功皇后のシークエンスに「年魚」が出、現行ではこれは「あゆ」と訓読されている(他に崇神天皇の冒頭に妃の名に「遠津年魚目目微比賣」とあって、現行では「とほつあゆめまくはしひめ」と訓じている。「万葉集」には、十五首もの歌に「あゆ」が読まれており、「年魚(あゆ)」(四七五・九六〇・三三三〇・四一五六番)・「阿由(あゆ)・和可由(わかゆ:若鮎)」(八五五~八五九・八六一・八六三・八六九番(異形)・「鮎(あゆ)」(三三三〇(「年魚」とは別箇所で使用)・四一五八番)・「安由(あゆ)」(四〇一一・四一九一番)と上代特殊仮名遣で表記され、現行では、かく読まれている。また、ネットの情報では藤原京(六九四年~七一〇年)出土の木簡に献上品目「上毛野國車評桃井里大贄鮎」と出、これはナマズではなくアユと考えられ、養老五(七二一)年の正倉院文書にも「阿由」が使用されているという。則ち、上古(特に奈良時代)には既に「鮎」は普通に「あゆ」と読まれ、現在のアユのことを指していたと考えてよいのである。]

2018/08/24

譚海 卷之三 中院通茂公關東逗留事

 

中院通茂公關東逗留事

○中院通茂(なかのゐんみちしげ)公、傳奏にて關東へ下向ありし此、臺德院公方樣(たいとくゐんくばうさま)通茂公へ古今傳授御所望ありしに、和歌堪能の人ならでは傳授成(なり)がたきよし言上に付(つき)、御氣色惡敷(あしく)、傳奏の御暇(おんいとま)出(いだ)されずして、龍の口傳奏屋敷に三年までをはせしに、種々京都よりも御詫ありて免ぜられ歸京ありしと也。彼公の集・後水尾院の御製集などにも此事見えたり。

[やぶちゃん注:「中院通茂」が武家伝奏に補任されたのは寛文一〇(一六七一)年九月で、延宝三(一六七五)年二月に伝奏の任を解かれている。この時代の将軍は第四代将軍徳川家綱である。ところが、次に出る「臺德院」とは第二代将軍徳川秀忠の法号であり、全くおかしいことになる。秀忠は寛永九(一六三二)年に没しているからである。また、通茂の事蹟にこのように江戸に半ば軟禁されたという記録はない。これは中院通村の誤りであり、その相手は第三代将軍徳川家光であるウィキの「中院通村によれば、『将軍徳川家光に古今伝授を所望されたが、これを断ったという硬骨漢である』とあり、中院通村は元和九(一六二三)年に武家伝奏に補任されたが、寛永七(一六三〇)年九月、前年の十一月に彼を信任していた後水尾天皇が勝手に興子内親王に譲位してしまい、この謀議を関知しながら、それを武家伝奏として幕府に報告しなかったという理由で武家伝奏を罷免された上、五年後の寛永一二(一六三五)年三月には、その正謀議参画の罪によって江戸へ召喚され、寛永寺に幽閉された。しかし、七ヶ月後の十月には天海の請願によって赦免されて帰京している。津村は、この通村の関係のない二つの事蹟を、ごちゃごちゃにした上、当事者たちの名もめちゃくちゃにして誤認していたのではなかろうか?

「龍の口傳奏屋敷」「龍の口」は現在の東京都千代田区丸の内1の「日本工業倶楽部ビル」が建つ附近の旧地名で、江戸城大手門外に当たり、伝奏屋敷があった。(グーグル・マップ・データ)。]

甲子夜話卷之五 11 神君御花押の事

 

5-11 神君御花押の事

昔の花押は、人々異體にして、いかにも五雲體の起本を失はざりしが、偃武の御世となりしより、下に必一字を引こと法の如く成しは、列祖の御押に倣ふより昉れり。因て世に其形を德川判と稱す。後水尾帝の御押二樣あり。内一つも正しく德川判なり。當時の主上まで御家の和風に傚ひ玉へば、その以下はさあるべきこと勿論。この一つにても風靡の大なるを見るべしと、林氏話。

■やぶちゃんの呟き

「五雲體」不詳。ウィキの「花押」にある、『江戸中期の故実家伊勢貞丈(いせさだたけ)は、花押を』五『種類に分類しており(『押字考』)、後世の研究家も概ねこの』五『分類を踏襲している』、その『分類は、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体である』とするものを指すか。そのリンク先の説明によれば、「草名体(そうみょうたい)」は草書体に崩したもの、「二合体」は実名二字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化したもの、「一字体」は実名の一字のみを図案化したもの、「別用体」は文字ではない絵などを図案化したものを指し、最後の「明朝体」がまさにここに出た家康のそれで、上下に並行した横線を二本書き、その中間に図案を入れたものを指す。「明朝体」という呼称は明の太祖が、この形式の花押を用いたことに由来するとされ、家康が採用したことから、徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり、「徳川判」とも呼ばれたとある。

「起本」基本。

「偃武」「えんぶ」とは、武器を伏せて使わないこと。戦争が熄(や)み、世の中が治まること。「書経」の「周書」の「武成篇」の中の語「王來自商、至于豐。乃偃武修文。」(王、商より來たり、豐に至る。乃(すなは)ち、武を偃(ふ)せて文を修(おさ)む。)に由来し、特に、慶長二十・元和(げんな)元(一六一五)年五月の「大坂夏の陣」によって、江戸幕府が大坂城主羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、「応仁の乱」(東国にあってはそれ以前の「享徳の乱」)以来、実に百五十年近くに亙って断続的に続いてきた大規模な軍事衝突が終了し、江戸幕府は同年七月に元号を元和と改め、天下の平定が完了した事を内外に宣したことから、特に「元和偃武」と呼ばれた(以上はウィキの「元和偃武に拠った)。

「下に必一字を引こと法の如く成しは、列祖の御押に倣ふより昉れり」「昉れり」は「はじまれり」(「昉」は「夜が明ける」から「始める」の意)。サイト歴人マガジン個性あふれるデザイン】花押の歴史と武将たちが込めた意味が非常に良い。ぐだぐだ説明する必要がなく、一見にして開明!!!

「後水尾帝」在位は慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年。彼の代を以って朝廷は江戸幕府の管理下に置かれた。

「林氏」林述斎。複数回既出既注。最初の「甲子夜話」初回へのリンクをし、もうこの注は示さない。

大和本草卷之十三 魚之上 鰧魚 (ビワマス)

 

鰧魚 本草綱目鱖魚ノ附錄ニノセタリ鱖ノ類也トイ

 ヘリサケニ似テ味ヨシ琵琶湖ニ多シ鯇ヲアメノウヲト

 訓ス未是

○やぶちゃんの書き下し文

鰧魚(アメノウヲ) 「本草綱目」、「鱖魚」の「附錄」にのせたり。鱖の類なりといへり。「サケ」に似て、味よし。琵琶湖に多し。鯇を「アメノウヲ」と訓ず。未だ是(ぜ)とせず。

[やぶちゃん注:何か、杜撰な書き方である。益軒の言う「鮭」「に似て」「味」がよく、「琵琶湖に多」くて、『「アメノウ」オ』と呼ばれていると言う部分なら、これはもう、文句なしに、琵琶湖にのみ棲息する本邦固有種である、条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus ということになる。ウィキの「ビワマスによれば、『産卵期には大雨の日に群れをなして河川を遡上することから、アメノウオ(雨の魚、鯇、鰀)ともよばれる』。『体側の朱点(パーマーク)は、体長』二十センチメートル『程度で消失し』、『成魚には見られない。成魚の全長は』四十~五十センチメートルほどであるが、大きい個体では全長七十センチメートルを『超えることもある。サクラマス』(Oncorhynchus masou masou の内で、降海型の個体群)『と同じくヤマメ』(Oncorhynchus
masou masou
 の内で、降海せずに一生を河川で過ごす河川残留型(陸封型)個体群)『の亜種であり、DNAの特徴も外観もサクラマスに近いが、サクラマスよりも眼が大きいことと、側線上横列鱗数が』二十一~二十七で、『やや少ない事で見分けられる。琵琶湖固有種だが、現在では栃木県中禅寺湖、神奈川県芦ノ湖、長野県木崎湖などに移殖されている。また、人工孵化も行われている』。『他のサケ科魚類と同様』、『母川回帰本能を持つため、成魚は』十月中旬から十一月下旬に『琵琶湖北部を中心とする生まれた川に遡上し、産卵を行う。餌は、主にイサザ、スジエビ、アユを捕食している』。『産卵の翌春』に『孵化(浮上)した稚魚は』、『サケ類稚魚によく見られる小判型のパーマークと、アマゴに似た赤い小さな朱点がある。約』八センチメートル『に成長すると』、『スモルト化』(Smolt:サケ・マス類に於いてパーマークなどの特有の体色が薄くなるとともに全体に銀色になった個体を指す。「銀毛(ぎんけ)」「シラメ」とも呼ばれる。ヒポキサンチンやグアニンなどの色素量の増加が外観上の変化を起こしたもので、これは同時に海水への適応が完了した稚魚の特徴でもある)し、『体高が減少すると』とも『に体側と腹部が銀白色となる。但し、ビワマスの特徴として』アマゴ(サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の内の陸封型個体群)より四センチメートル『程度小さくスモルト化し』、『パーマークは完全に消失せず』、『朱点も残る個体が多い』。『スモルト化した個体は』五月から七月に『川を下って琵琶湖深場の低水温域へ移動し、コアユやイサザ等の小魚、エビ、水生昆虫等を捕食しながら』二年から五年『かけて成長する。小数の雄はスモルト化せずに川に残留する』。『生育至適水温は』摂氏十五度『以下とされ、中層から深層を回遊する。孵化後』、一年で十二~十七センチメートルとなり、四年経つと四十~五十センチメートルに『成長する。産卵期が近づくと、オス・メスともに婚姻色である赤や緑の雲状紋が発現し、餌を取らなくなる。オスは特に婚姻色が強く現れ、上下の両顎が口の内側へ曲がる「鼻曲がり」を起こす。メスは体色がやや黒ずむ。川への遡上は』九月から十一月で、『産卵が終わると』、『親魚は寿命を終える。なお、琵琶湖にも近縁亜種のアマゴが生息』『しており』、『本種と誤認されている場合もある』。『琵琶湖産稚アユと混獲され』、『各地の河川に放流されていると考えられるが、下降特性が強い事と海水耐性が発達しないことから、放流先での定着は確認されていない』という。『生態は湖沼陸封期間が』十『万年と長かったことから、サツキマス(アマゴ)と比較すると』、『海水耐性が失われ』ており、『スモルト化した個体でも海水耐性は発達せず』、純『海水では死滅』してしまう。『遺伝子解析の結果ではサクラマスよりはサツキマスに近く、サクラマスとサツキマスの分化以降に』、『ビワマスとサツキマス(アマゴ)は分化している。つまりサツキマス(アマゴ)との共通祖先のうち』、『淀川水系を利用していた個体群が陸封され、ビワマスとなった』ものである、とある。

 ところが、問題は益軒がしょっぱなから「本草綱目」の「鱖魚」の「附錄」のそれを持ち出したのが、どうもギクシャクする(感じが私にはする)こととなる。既に「鱖魚」で引いているが、再掲すると、

   *

附錄鰧魚 時珍曰、按「山海經」云、洛水多鰧魚。狀如鱖、居于逵、蒼文赤尾、食之不癰、可以治瘻。郭注云、鰧音滕。逵乃水中穴道交通者。愚按、鰧之形狀居止功用俱與鱖、同亦鱖之類也。日華子謂、鱖爲水豚者、豈此鰧與。

   *

である。何故、ギクシャクすると私が言うか? 「鱖魚」の注で述べた通り、益軒の考える「鱖魚」は条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta であるにしても、「本草綱目」の「鱖魚」というのが、現代中国語では全く別種の、鰭上目スズキ目スズキ亜目 Percichthyidae 科ケツギョ属ケツギョ Siniperca chuatsi を指し、「本草綱目」のそれは、サケではない可能性さえ孕んでしまっているからである。

 さらにややこしやなことに、「鰧」は本邦では海産のゴッツう怖い(が美味い)条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科(或いはオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus を筆頭としたオコゼ類を指すのである。といより、正直、益軒がどうして「鰧魚」に「アメノウヲ」のルビを当てたのかも実はさっぱり判らんのである。

 しかもそれに加えて益軒は、言わんでもええのに、最後に『鯇を「アメノウヲ」と訓ず。未だ是(ぜ)とせず』などと言い添えて、話を宙ぶらりんにして終わってしまっているのである。何故、言わんでもいいと私が言うか? それは、「鯇」が琵琶湖固有種である「アメノウオ」=「ビワマス」であろうはずは百%ないことに加えて、「鯇」が、これまた、現代中国語では、全くの別種で、しかも中国では「四大家魚」(他にコイ科 Oxygastrinae 亜科アオウオ(青魚)属アオウオ Mylopharyngodon piceus・コイ科ハクレン(白鰱)属ハクレン Hypophthalmichthys molitrix・コイ科ハクレン属コクレン(黒鰱)Hypophthalmichthys nobilis)の一種として古くから好んで食べられる著名な、条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Oxygastrinae 亜科ソウギョ(草魚)属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus を指すからなのである。正直、益軒先生には、ごくすっきりと、

   *

雨ノ魚 サケニ似テ味ヨシ琵琶湖ニ多シ鯇ヲアメノウヲト訓スハ未ダ是トセズ

   *

でやめて欲しかったのである。]

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 今泉村

 

○今泉村〔伊麻伊豆美牟良〕 岩瀨村より分れし地なり〔大永二年の文書に、岩瀨鄕の内、今泉村。永祿中の物に岩瀨の内今泉と見ゆ。〕。されば、小坂鄕中なるべけれど、今、傳を失ふ。江戸より行程十二里。大永二年三月、北條左京大夫氏綱、當村に制札を出せり。これ、山ノ内明月院の所領たるを以てなり〔明月院文書曰、「制札。相州岩瀨鄕之内、今泉村竹木之事、從他鄕、剪取之事令停止畢。若於違犯輩者、可處罪科狀。仍如件。大永二年壬午三月七日。明月院傳藏主」。北條氏綱の華押あり。〕。永祿の頃も明月院領たり〔【役帳】曰、「明月院領。三十一貫九百七十文。東郡岩瀨之内、今泉。〕。家數二十。東西二十八町餘、南北十二町餘〔東、上之村。西、大船・岩瀨村二村。南、二階堂・山之内二村。北、公田・桂二村。〕。檢地は寶永七年、飯田彈右衞門・高倉伴左衝門、改む。新田あり。今、松平大和守矩典領す〔慶長中より加藤源太郎成之の采地なりしが、延享四年、御料となり、寶曆十二年、酒井平左衞門に裂賜ひ、御料の地、少しく殘れり。文化八年、子孫作次郎の時、御料を合て、一圓に松平肥後守容衆に賜ひ、文政四年六月、當領主に賜へり。〕。

[やぶちゃん注:現在の神奈川県鎌倉市今泉及び今泉台。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大永二年」一五二二年。室町幕府は第十代将軍足利義稙(翌年死去)であるが、既に戦国時代。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。

「小坂鄕」「小坂」は「おさか」と読む。「鶴岡社務職次第」では鎌倉郡谷七郷の一つに挙げられ、「遠佐可」と読まれている。「小坂郡」とも称され、「山内荘」を中心とした鎌倉郡の大部分の広域を含むまでに広がっていた。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などとする記録が残り、本「相模国風土記稿」では二十八ヶ村が相当されると記される広域地域であった。小坂郷としての中心は山内と推定される(「いざ鎌倉プロジェクト」代表鎌倉智士氏作成のこちらに拠った)。

「北條左京大夫氏綱」(長享元(一四八七)年~天文一〇(一五四一)年)は後北条氏第二代当主。ウィキの「北條氏綱」によれば、『伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる』。但し、『当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは』、『父の死後の』大永三年か大永四年から『である。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を』二『代目と数える』とある。

「山ノ内明月院の所領」明月院へは現在の今泉台の住宅地の奥(南端)から尾根伝いに西南西に下ると、直近である。私は若い頃、二度ほど踏破したことがある。十二所の「お塔が窪」同様、「マムシ注意」の札が建っていた。

「明月院文書」「鎌倉市史」(正編)の「史料編 第三 第四」の「三九七」文書。

「明月院傳藏主」「三九七」文書編者注に『以心僧傳』とあるが、不詳。

「二階堂」現在の今泉台の奥から南に山越えすると、現在の鎌倉市二階堂地区である。

「寶永七年」一七一〇年。徳川家宣の治世。

「松平大和守矩典」川越藩四代藩主松平斉典(なりつね)の初名。既注

「慶長」一五九六年~一六一五年。

「加藤源太郎成之」「関ヶ原の戦い」の際の家康の旗本として、御鉄砲頭に加藤源太郎の名が見える。彼か。

「延享四年」一七四七年。

「御料」幕府直轄領のこと。「今泉町内会」公式サイト内の年表に、加藤氏五『代目成像(なりやす)の代に幕府から咎めを受け改易となり』、『領地没収され』、『幕府直轄の御』料『となり、一部を残して酒井政栄の所領となる』とある。

「寶曆十二年」一七六二年。

「酒井平左衞門」不詳であるが、前注の酒井政栄の後裔であろう。

「裂賜ひ」「さきたまひ」。分割封地し。

「文化八年」一八一一年。

「合て」「あはせて」。

「松平肥後守容衆」(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)は陸奥会津藩第七代藩主で会津松平家第七代。満十八になる前に夭折している(既注であるが、再掲した)。

「文政四年」一八二一年。]

○高札場

○小名 △小泉谷戸 △福泉 △中村 △のろけ谷戸

[やぶちゃん注:位置不明であるが、「のろけ谷戸」という名は気になる。]

○山 東南北の三方を包めり。東方の山上に秣場あり〔岩瀨・大船等の村々と入會の持なり。〕。山中を穿て、まゝ古瓦を得るといへり。村南山上に小塚あり。「鷹塚」と呼り。塚上に松樹あり〔圍一丈許。賴朝の鷹を埋し所と傳ふ。〕。

[やぶちゃん注:「秣場」「まぐさば」。馬草。農家にとって農耕馬牛の飼料の重要な供給地だから、「入會」地(いりあひち(いりあいち))、入会権(一定地域の住民が一定の山林原野(入会地)を共同で薪炭用・肥料用の雑木・雑草の採集等のために利用する慣習上の権利。用益物権の一つ)が行使されたのである。

「穿て」「うがちて」。掘ると。

「鷹塚」「かまくらこども風土記」によれば(以下の引用は第十三版)、現在の今泉白山神社(後に出る「白山社」。ここ(グーグル・マップ・データ))の『真南の山中に頼朝の鷹を埋めたという「鷹塚(たかづか)」といわれる小塚があります』(現在形で書かれている)。『大きな松が生えていたそうですが、今は、塚だけが残っています』とある。なかなか丹念に調べ歩いておられる武衛氏のサイト「鎌倉遺構探索」のこちらで、それらしい箇所が示されてある。必見。但し、サイト主が『鷹のお墓にしては大き過ぎるような気も』するとされており、以下の周囲「一丈」とあるのに比すと、その画像の塚は大き過ぎるようには見える。

「圍」「めぐり」と訓じておく。]

○林 字新山にあり〔一町三段三畝十步。〕。領主の雜木林なり。此餘、村民の持とする。雜木林あり〔二十二町一段二畝。〕、元文二年、金子覺右衞門、檢地す。是は御料に屬し、永錢を貢ず。

[やぶちゃん注:「元文二年」一七三七年。

「永錢を貢ず」年貢を納めたことを言う。]

○川 村内不動堂瀑布の下流なり〔幅三間許。〕。岩瀨村に沃て、砂押川と云。

[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチメートル。

「沃て」「そそぎて」。]

○神明宮 村持。下同。

〇八幡宮

〇一牛王社

○山神社

○荒神社

○子神社

[やぶちゃん注:以上の祠は廃絶したか、白山神社辺りに纏められている可能性が高い。]

○毘沙門堂 村の鎭守とす。建久元年、賴朝の建立と云ふ〔緣起に據に、賴朝上洛のついて、鞍馬寺に詣で、行基作の毘沙門に體あるを瞻禮し、其一體を請得て、鎌倉に歸り、此地に安ぜしなりと云へり。〕。本尊は行基、楠樹を以て作ると傳ふ〔長六尺許。臺座に「享祿五年九月廿八日 奉行□左衞門 名主長島彦右衞門」の銘ありしと云。是は當堂再建の時、再修の施主にて、彦右衞門が子孫、代々、村内の里正を勤め、今、「多時」と稱す。〕。祕して猥に拜する事を許さず、別に前立を置く〔長四尺六寸五分。〕。脇立には辨天〔長二尺九寸五分。〕・大黑〔長二尺六寸五分。各運慶作。〕を安ぜり。享祿五年九月再建棟札の寫を藏す〔其文に、「禪興寺莊園、相州山之内庄今泉村、毘沙門天王、自古造立、犬吉祥天音女、脇付幷修造再興。領主大勸進本願比丘 前禪興指月僧祗四十四歳 今泉寺□□華押 佛匠大藏長□□天堂棟上 享祿五壬辰九月廿七日」とあり。按ずるに、文中、當村を禪興寺庄園と記せしは、全明月院の本坊なるをもて、かく記せしにて、當村は元より、かの院領なること、論なし。當時明月院は、禪興寺塔頭なり。〕。

[やぶちゃん注:現在の白山神社。現在、参道入り口に「禪宗今泉寺」(「こんせんじ」と読む)の石碑が残り、参道左手には、建長寺の塔頭として今泉寺(こんせんじ)が建つが、これは昭和五二(一九八二)年に建立された新しい寺であって、この石柱の寺とは全く別物である。毘沙門天は現在、白山神社に祀られているが、この元の今泉寺は、これが本来祀られていた毘沙門堂(現存しないが、実際には現在では鎌倉時代以前から存在したと考えられている)の別当寺であったこと以外は、開山や沿革は不詳である。

「建久元年」一一九〇年。「かまくらこども風土記」は建久二年とする。

「毘沙門に體あるを瞻禮し」よく意味が判らぬが、この「體」は「てい」で、「それらしい立派な様子が感じられるもの」の意か。「瞻禮」は「せんれい」で、仰ぎ見て拝礼すること。

「享祿五年」一五三二年。「かまくらこども風土記」によれば、この銘は現在は見えず、修理した年号として宝永四(一七〇七)年のみが見えるとある。

「里正」庄屋。

「禪興寺」山ノ内の浄智寺の向かいの明月谷にあった禅寺であるが、現在は存在しない。本文でも述べている通り、現在ある明月院は同寺の塔頭の一つであった。元は北条時頼がここに建立した最明寺が廃寺となったのを、息子の時宗が再興したものが禅興寺であったが、明治の初めに廃寺となった。

「犬吉祥天音女」別本でも「犬」であるが、不審。「大」の誤字ではあるまいか?

「全明月院」「前」の誤りか、副詞で「まつたく」と訓じているか。]

△辨天社

△白山社

[やぶちゃん注:前に注した通り、現在の今泉白山神社。]

△別當今泉寺 壽福山と號す。臨濟宗〔鎌倉建長寺塔頭廣德院末。〕。享祿の棟札寫にも寺號見えたり。出山釋迦〔長九寸五分。行基作。〕を本尊とす。

[やぶちゃん注:寺に就いては既注。「出山釋迦」「出山(しゆつさん)の釋迦」像。二十九歳で出家した釈迦は、山に籠もって六年の難行苦行を終えるが、真実(まこと)の悟りを得ることが出来ない。その彼が更に真の悟りを求めんがために、雪山を出る、という釈迦悟達の直前の場面を言う。多くは水墨画禅画の画題として描かれるが、立像もある。一般には、ここでの釈迦は痩せこけたざんばら髪・伸びた爪・浮き出た肋骨といった姿で造型されることが多い。釈迦の真の悟りは、その直後、ガンジス川の畔ブッダガヤの菩提樹下で達成されるのであった。

 以下は前の底本は改行せずに「△別當今泉寺」の後にベタで続いているが、改行し、ここに底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像にある不動堂の境内図をトリミング補正して示す。]

 

Imaizumihudou

 

[やぶちゃん注:図中キャプションは、右上から左上、左上から左下の順で電子化した。]

     
不動堂境内圖

男瀧

女瀧

前不動

不動堂

鐘樓

地藏堂

常念佛堂

別當稱名寺

 

○不動堂 今泉山と號す。弘仁元年、空海が創建の靈場と云ふ。石階三町許を攀緣して堂前に至る。本尊不動〔長二尺八寸。弘法作。前立及二童子あり。〕を安じ、大黑〔同作。長一尺二寸。像背に「承和元年」と彫る。〕を置。幷に石像なり。鎌倉繁榮の頃は代々の將軍、屢、參詣ありしとなり。後進の星霜を歷て、堂宇廢壞し、不動・大黑の二像も僅に窟中に安ぜしを、貞亭元年六月、直譽蓮入と云へる僧、宿願に依り、江島辨天に參寵し、靈夢を蒙り、此地の靈場を搜り得、村長永島氏と謀り、遂に再建の事を企て、三年にして堂宇落成せしとなり。 △鐘樓 元祿十五年鑄造の鐘をかく。 △常念佛堂 三尊彌陀を置く〔中尊、長二尺七寸五分。左右各長二尺六寸五分。幷に定朝作。〕。又、二十五菩薩あり〔各一尺六寸五分。同作。〕。 △地藏堂 △辨天社 今、廢社となり、脇士大黑・毘沙門及十五童子を合て、假に地藏堂中に置く。 △瀧 堂の南方にあり。二瀧、相對す。男瀧・女瀧と呼べり。 △岩屋 窟中に不動の石像を安ず。「前不動」と唱ふ。 △別當稱名寺 今泉山一心院と號す。淨土宗〔芝增上寺末。〕。古は密宗にて弘法大師の草創なり。中古、八宗兼學となり、圓宗寺と號せり〔按ずるに、上之村白山社神主の家系に、中納言法印の弟子寂心法師、寬文三年、當寺を開きしこと、見ゆ。盖、圓宗寺を開建せしなるべし。【鎌倉志】にも圓宗寺の事、見えたり。〕。後、本堂、廢壞し、此寺も無住となりしを、貞享元年六月僧蓮入〔單蓮社直譽と號す。寶永二年九月十二日寂。〕本堂を再建してこゝに住し、元祿六年、增上寺貞譽の時、彼末寺となり、今の山寺號を受くと云ふ。貞譽・祐天兩大僧正の名號二幅を什物とす。 ○榮泉寺 今圓山萬德院と號す。淨土宗〔岩瀨大長寺末。〕。開山存龍〔信蓮社貞譽と號す。天文十一年六月廿三日寂す。〕。本尊彌陀〔長二尺二寸五分。惠心作と云。〕 ○東光庵 淸光山と號す〔本寺、前に同じ。〕。本尊藥師〔長二尺二寸五分。行基作。〕を安ず。文明中、矢神右馬允某〔上杉氏の臣と云ふ。〕、開基す。後年、兵火に躍りしを、貞享三年九月、法譽是心〔作蓮社と號す。〕と云僧、再興して今の庵號を負すと云〔古鬼簿に、淸光山專修寺と記す。是、昔の寺號なるべし。〕。 ○地藏像 村東山中の徑側、岩腹に鐫れり。是は空海の彫せしなりと云。後年、首の缺崩れしより、俗に「首切地藏」と呼べり。

[やぶちゃん注:これは、本文内にも出る、現在の同地区にある浄土宗今泉山一心院称名寺(通称は今泉不動。(グーグル・マップ・データ))である。元は円宗寺という八宗兼学の寺で、空海が開いたと伝える不動堂の別当を兼ねていた。後年、廃絶したが、貞享元(一六八四)年に直誉蓮入が本堂を再興し、元禄六(一六九三)年、増上寺末寺となり、山号寺号を改めて浄土宗寺院となった。第二次世界大戦前は滝修行で賑わったらしい。私も十九の頃、この水で顔を洗ったが、洗った傍から、散歩していた土地の老人がにこにこしながら、「いい瀧でしょ。夏場には子供が水浴びしたりしてるんですがね。実はこれは背後の住宅地から流れ出てるんですよ。でも彼らには可哀想だから言わないことにしています。」と忠告して呉れた。チョー! 遅過ぎ!

「弘仁元年」八一〇年。サイト「鎌倉ん」高山記載称名寺の縁起では、弘仁九(八一八)年頃、『弘法大師が金剛峰寺を開いてから』二年後とする。それによれば、『弘法大師が諸国巡行のおり鎌倉に至った際、紫雲に包まれ光明のさす山に出会い』、『人伝えに神仙の棲む金仙山と云うことを知った』。『大師がこの山に踏み入ると』、『忽然として翁・媼が現れ、「我等は此の山に数千年住み 大師の来るのを待っていた。此の山は二つとない霊地である。速やかに不動明王の像を刻み、密教道場の壇を築き』、『末世の衆生を救いなさい」と告げた』。『大師は、即刻二尺八寸の尊像を石で刻み本尊と定め、又同時に一尺二寸の大黒天を彫り』、『伽藍の守護神として祭った』。『時に彼の翁・媼は「此の地は水が乏しい。村里も困っているから豊かな水を進ぜよう」と傍の岩を穿ち』、『陰陽の滝をながし』、『村里に恩恵を与え、以後』、『金仙山を改め』、『今泉山と称することとなった。この翁は不動明王の化身で、また媼は弁財天の生まれ代わりと伝えられる』と縁起を記し、『称名寺は、初め』、『不動堂の別当で円宗寺と称し』、建久三(一一九二)年、『頼朝が征夷大将軍に就任の年』、『「上野村白山社家系中納言法師の弟子寂心法師」が寺を開き、密教に属し』、『頼朝も深く信仰していた』。『その後、北条九代に至った貞享二年』(一六八四年)『の夏、武州深川の僧・直誉蓮入師が江ノ島弁財天のお告げで、この山に七日独座念仏したところ』、『不思議にも、大黒天の背負い袋から毎朝』、二~三合の『米が漏れ出して』、『飢えの患いがなくなり、是から近郷の男女が帰衣し』、『お互いに協力、まもなく不動堂・阿陀堂の建立がなされた』。『時に元禄六年』(一六九三年)『芝の増上寺・貞誉大僧正より、「今泉山一心院称名寺」の山号寺号請け、当時』より『修験者道場として著名』となるとともに、『現在の浄土宗寺院としてその基礎を確立した』とある。本文とは時制に若干の違いがあるが、誤差範囲内ではある。

「攀緣」(階段を)頼りにしてよじ登ること。

「幷に」どちらも。

「元祿十五年」一七〇二年。

「寂心法師」不詳。

「寬文三年」一六六三年。

「盖」「けだし」。

「【鎌倉志】にも圓宗寺の事、見えたり」新編鎌倉志卷之三の「○不動堂〔附男瀧 女瀧〕」に、

   *

不動堂は今泉村の内にあり。今泉山と額あり。不動の石像、弘法の作と云ふ。堂の向ふに瀧あり。高さ一丈計あり。南北に相ひ向て落つ。南を男瀧(をだき)と云、北を女瀧(めだき)と云ふ。寺號は圓宗寺と云ふ。今八宗兼學也。

   *

「榮泉寺」廃寺。位置不詳。

「東光庵」「淸光山專修寺」廃寺。位置不詳。

「古鬼簿」古い過去帳。言わずもがなであるが、寺院で檀家・信徒の死者の俗名・法名・死亡年月日などを記しておく帳簿のこと。点鬼簿。

「鐫れり」「ほれり」。

「首切地藏」不詳。現存しないと思われる。江戸時代、博徒間で地蔵の首を懐に忍ばせておくと勝負に勝つというジンクスがあった。少なくとも、今泉から一山越えた直近の「百八やぐら」の地蔵群の首がないのは、皆、その難に遇ったものである。これは崖に彫られたもののようだが、小さなものなら、そうした結果と考えることも可能である。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶡雞(かつけい) (ミミキジ)

Katukei

かつけい

鶡雞【音曷】

 

アツキイ

 

本綱鶡雞狀類雉而大黃黑色首有毛肉如冠性愛其黨

有被侵者直徃趣鬪雖死猶不置故武人以爲冠象此也

性復粗暴毎有所攫應手摧碎【凡物黃黑色者曰褐】此鳥褐色故名

鶡 一種青黑色者名曰性耿介也

 

 

かつけい

鶡雞【音、「曷」。】

 

アツキイ

 

「本綱」、鶡雞、狀、雉に類して大に〔して〕、黃黑色。首に毛〔の〕肉有りて、冠のごとく、性、其の黨〔(たう)〕を愛す。侵さるゝ者有れば、直〔(ただち)〕に徃〔(ゆ)〕き趣きて鬪ふ。死すと雖も、猶を[やぶちゃん注:ママ。]置かず。故に、武人、以つて冠〔(くわん)〕と爲(す)ること、此れを象〔(かたど)〕るなり。性、復〔(ま)〕た、粗暴なり。毎〔(つね)〕に攫(つか)む所有れば、手に應じて、摧-碎(くだ)くる【凡そ、物、黃黑色の者、「褐」と曰ふ。】。此の鳥、褐(きぐろ)色なる故、「鶡」と名づく。

一種、青黑色の者、名づけて「〔(かい)〕」と曰ふ。性、耿介〔(こうかい)〕なり。

[やぶちゃん注:キジ目キジ科ミミキジ(耳雉)属ミミキジ Crossoptilon mantchuricum中国の河北省及び陝西省の高地性の固有種同種中文ウィキを見ると、北京周辺の山地も生息域とする。北京は河北省の内にあるが、直轄市で省と同格)。全長九十六センチメートル~一メートル。翼長はで二十七~三十一・二センチメートル、で二十六・五~二十九センチメートル。体重はで一・六~二・五キログラム、で一・五~二キログラム。尾羽の枚数は二十二枚。頬から後方へ羽毛が伸長し、全身は褐色の羽毛で被われている。頭頂・頸部は黒や濃褐色、腹部は淡褐色の羽毛で被われている。腰・尾羽基部の上面(上尾筒)は白い羽毛で被われ、尾羽の色は白く、先端は紫みを帯びた褐色を呈する。顔には羽毛がなく、赤い皮膚が露出し、嘴の色は赤みを帯びた黄色。後肢は赤い。標高千三百~三千五百メートルにある森林・岩場・草原などに棲息し、雑食で植物の根・果実・種子・昆虫・ミミズなどを捕食する(以上は主にウィキの「ミミキジに拠った)。なお、サイトの「鶡雞も非常に参考になる。必見。良安は附言をしていないので、短い「本草綱目」の記載(但し、上記は総てではなく、抜粋の、順列の組み替えが行われてある)の形態・生態及び色彩の叙述から、本邦には産しない鳥と判断したのであろう。

「其の黨〔(たう)〕」同種の仲間たち。

「侵さるゝ者」他の鳥獣(前で「其の黨を愛す」(広義の同種総ての意で採る)と言っている以上、そう理解する)で、彼らの一部の縄張りを犯して侵入或いは攻撃してくるもの。

「徃き趣きて」「往き赴きて」に同じい。

「死すと雖も、猶を置かず」相手が退かぬ限りは、死に至るまで闘いを止めない。

「武人、以つて冠〔(くわん)〕と爲(す)ること、此れを象〔(かたど)〕るなり」東洋文庫版現代語訳では、『それで武人はこの鳥の羽毛を冠の飾りとして勇猛の象徴としているのである』とある。

「攫(つか)む所有れば、手に應じて、摧-碎(くだ)くる」後肢に触れて摑(つか)むことの出来る対象物が存在すれば、必ず、それを即座に強く摑み獲ると、完膚なきまでに粉砕してしまう。

〔(かい)〕」不詳。ミミキジの近縁種か。「説文」には「出羌中」とあるから、中国西北部の羌(きょう)族(西羌。現在のチャン族)の住んでいる地域に棲息しているらしいから、やはり高地性である。

「耿介〔(こうかい)〕」堅く志や節を守ること。別に「徳が光り輝いて偉大なさま」の意もあるが、ここは前者。]

2018/08/23

反古のうらがき 卷之一 狐狸字を知る

 
  ○狐狸字を知る

[やぶちゃん注:これも読み易さを狙って、改行を施した。]

 植木玉厓が親戚に、妖怪、出(いづ)る。大害なし。唯、障子其外の處へ文字を書く。文理(ぶんり)も大體通るよし。たわひも無き事斗(ばか)り書く。其内に、折々、滑稽ありて、人の心をよくしる。其主人の母、戲場を好み、其頃の立役(たちやく)八百藏(やおざう)、贔屓(ひいき)にて、常々、稱譽(しやうよ)せしに、其節、狂言餘り入(いり)もなくはづれなりしが、妖怪、大書して、

「八百藏大はたき」

といふ。又、常に一家親類の人を評することあり。

「誰(たれ)、こわくなし[やぶちゃん注:ママ。次も同じ。]」

「誰、少しこわし」

など著(しる)す。大體、

「こわくなし」

といふ方、多し。

 或時、人、來りて、

「野瀨の黑札、よく狐狸を退(しりぞく)る。」

とかたりければ、直(ただち)に障子に大書して、

「黑札 こわくなし」

と著す。これ等は大害なき事ながら、不思議なる狐狸なり。

 玉厓、予に語りしは、

「狐狸の書、至(いたつ)て正直なる、よくよめる山本流などの如し。よくもなき手也。ひらがなの内に、少しづゝ近き文字交(まざ)りて、平人(へいじん)の書く通りなり。」

とぞ。

[やぶちゃん注:以下、底本では本条最後まで全体が二字下げ。途中の「天狗の文」はさらに一字下げなので、ブラウザの不具合を考え、改行を施した上、前後を一行空けた。]

 

 これにて見れば、狐狸、人に化して、山寺にて學問修業せしなどいふ事、よく言傳(いひつた)ふる事なるが、文學などは學びなくて覺ゆることはなるまじければ、人に化して學びたるも、必(かならず)、虛談とせず。

 

 文政の季年、赤坂の酒店にて大だらひを失(しつ)す。數日の後、自然(おのづ)と元のところに歸りてあり、書一通を添たり。文(ふみ)、云(いはく)、

 鞍馬山、大餅、舂(つく)に付(つき)、
 借用候處、最早、御用濟に付、返却す
 る 者也。一度、御用相立(あひたち)
 候品(しな)、以來、大切にいたすべし。
 家内繁昌、疑なきもの也。
 仍如ㇾ件(よつてくだんのごとし)。

  月日           鞍馬山執事

其書、美濃紙一枚程に大書す。

「書法絕妙、米元章(べいげんしやう)の風(ふう)也。「諸藝高慢なる物、天狗になるといゝ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]傳ふるによれば、これは書家天狗の書たるなるべし。」

といゝて、笑ひたりしが、

「かの狐狸に比すれば、書、大(おほい)によし。狐狸と天狗との別、これにて、上下、判然たり。」

といゝし。

 然れども、此事、信ずるに足らず。事は實(じつ)なるべけれども、彼(かの)書を作りたる物は、近きわたりのいたづら者、遺恨にてもありしや、大だらい[やぶちゃん注:ママ。]をかくし置(おき)、其後、程經て歸すに、手持なく、又、手風(てぶり)の人の見しりあらんをおそれ、出家などに賴みて書(かき)てもらひたる者なるべし。

[やぶちゃん注:「植木玉厓」(うえきぎょくがい 天明元(一七八一)年~天保一〇(一八三九)年)は幕臣で儒者にして詩人・狂詩作家。本姓は福原。名は飛・巽・晃。字(あざな)は子健・居晦。通称、八三郎。別号に桂里など、狂号は半可山人。大番与力植木彦右衛門の養子となった。昌平黌に学んだ。狂詩集「半可山人詩鈔」に収めた「忠臣蔵狂詩集」で知られる。

「文理(ぶんり)」書いた文章の内容。文脈。

「戲場を好み」芝居小屋見物が好きで。ここは歌舞伎狂言。

「立役八百藏」八百蔵を名乗った歌舞伎役者はかなりいるが、時制上と、立役で知られたことから見て、四代目市川八百蔵(安永元(一七七二)年~弘化元(一八四四)年)が最も可能性が高いように私には思われた。舞踊藤間流の家元初代藤間勘十郎の弟で、天明四(一七八二)年に四代目岩井半四郎の門下に入り、「岩井かるも」を名乗った。天明七(一七八七)年十一月、「岩井喜世太郎」と改名し、若女形として舞台を勤めた。文化元(一八〇四)年十一月、三代目八百蔵が二代目助高屋高助を襲名した際、四代目「市川八百蔵」を襲名して、立役に転じた。その後、上方で舞台を勤め、文化十年に江戸に戻った。文政元(一八一九)年に二代目助高屋高助が没したのを機に「市川伊達十郎」と名乗り、旅回りに出たが、文政一〇(一八二七)年に江戸に戻ると、再び「市川八百蔵」を名乗っている。天保五(一八三四)年以降に舞台を引退した。容姿に優れ、華のある役者で実事・和事・所作事を得意とした(以上はウィキの「市川八百蔵(4代目)」に拠った)。

「稱譽」称讃。称揚。

「はたき」評判が悪いこと・不評の意の語。

「野瀨の黑札」「野勢の黑札」の誤り。「日本国語大辞典」に『江戸、神田和泉町の旗本野勢熊太郎の邸内に勧請した稲荷社で、初午』『に出した御札。狐憑』『を治すのに効果があったという』とある。

「よくよめる山本流などの如し。よくもなき手也」「山本流」は不詳だが、「よくよめる」(誰が見ても判読は出来る読み易い)書法であったか。而してその狐の文字は、凡そ達筆ではなく、繊細でも綺麗でもないが、やはり書いてある字は判読出来る字だったのであろう。

「ひらがなの内に、少しづゝ近き文字交(まざ)りて、平人(へいじん)の書く通りなり」この言いからみて、この狐、漢字はあまり書けなかったのではないか? しかも「ひらがな」も崩し方(というより書き方)がおかしいものが混じっていたのである。これは漢字を殆んど知らない、書けない、しかも「ひらがな」も正規にちゃんと習い上げたものではなく、自己流で見様見真似で書いたものであることを明確に示している。さすれば、正体見たり! まず、その植木玉厓の親戚の家には、若い女中がいるはずである。そうして、その彼女がこの怪奇現象の真犯人である可能性が極めて高いと言えるのである。江戸時代には既に、人気が全くないのに、突如、屋根や室内に石が投げられたり、ないはずの物がひとりでに移動したり、隣室で巨大な物が落ちる音がしたりするといった、ポルターガイスト現象(ドイツ語:Poltergeist:騒ぐ霊)は、が多数記録されており、これらは「天狗の飛礫(つぶて)」などと呼ばれたりした。また、明治にかけても同様の現象が起こり、調べてみると、その家には若い女中(時には特定の地域から雇った)が必ずいるのである。これはまた「池袋の女」という話柄でよく知られるが、他に「池尻の女」「沼袋の女」「目黒の女」という土地の鎮守の神霊絡みの実話怪談として広まっていたのである。例を挙げるなら、私の「耳囊 卷之二 池尻村の女召使ふ間敷(まじき)事」や、「北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)」がよかろう。而して後者の注でも述べた通り、私はこれらは、基本的に、霊感を持っているということで他者とは違うという特別な存在という意識を持つことを志向する思春期の少女らによる似非怪奇現象と捉えており、近代以降の無意識的或いは意識的詐欺師としての霊媒師の存在と全く同じものであると考えている。因みに、ここまで黙っていたが、実は後の「尾崎狐 第二」では、まさに同様のポルターガイスト現象が扱われ、そこにまさしく『池袋の奉公人』が登場するのである。

「文學などは學びなくて覺ゆることはなるまじければ」その通りであるが、ちょっと違和感がある。ここで「文學」を出す必然性は、ない。全体を見渡す時、ここは実は「文字」の誤記なのではあるまいか? と疑うのである。但し、国立国会図書館蔵版も『文學』ではある。

「虛談とせず」「完全な空事として退けることはしない」の意。ここまで読んでくると、鈴木桃野は本作で怪奇談を蒐集してはいるものの、怪談に対しては、実はかなり懐疑的で現実主義的傾向を持っていることが判る。だから、ここも狐狸が人に化けて学問を修めるということが、時には在り得る、などと玉虫色に言っているのでは全くなく、怪奇談集の体裁上、全否定を敢えて抑えて表現しているのであろうぐらいに捉えておく必要があると私は思う。

「文政の季年」文政の末年。文政十三(一八三一)年。この挿入と以下の評によって、植木の話がこれより前であることが判る。

「大だらひ」「大盥」。

「米元章」北宋末の文学者で、特に書画の専門家として知られた米芾(べいふつ 一〇五一年~一一〇七年)元章は字(あざな)。湖北襄陽の人。後に潤州(現在の江蘇鎮江)に住んだ。参照したウィキの「米芾によれば、『書においては蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称されるが、米芾は』四『人の中で最も書技に精通しているとの評がある』とある達人である。なお、この評言を言っているのは鈴木桃野であり、この二字下げの全文全体は、「天曉翁」浅野長祚の添書きの評言ということになるので注意されたい。

「手持なく」読みは「てもちなく」であろうが、意味不明。推理したように「遺恨」なら奪ったことへの謝罪の金子の「手持ち」というのは如何にもヘン。「遣(や)り様」で、「犯人が自分であることがばれないように上手く酒店へ大盥を返す手段」の意か。

「手風(てぶり)」手跡。]

反古のうらがき 卷之一 富士山

 

   ○富士山

[やぶちゃん注:長いので、適宜、改行を行い、そこに注を挟んだ。]

 榎町同心内藤濱次郞、國學に通じ、尾州にて大内裏のひな形を作るに、やとわれて、古實を專(もつぱら)とせし人なり。

[やぶちゃん注:「榎町同心」前の条々に徴せば、やはり御先手組同心である。

「内藤濱次郞」国学者で御先手同心内藤広前(寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)。名は広庭、後に広前に改めた。通称、浜次郎。号は賢木園。国史・律令に通じ、江戸の和学講談所出役となった。歴史や古典和歌の編著を多くものしたが、文化年間(一八〇四年~一八一八年)に尾張藩主の命を受けて校訂した「大内裏図考証」は、最もよく知られている。これは前に公家裏松光世が蟄居中に著した考証を補正したものである。また、紀州新宮城主水野忠央の下で編纂された「丹鶴叢書」では、黒川真頼ら幕末期の江戸を代表する国学者とともに寄与した(以上は個人的に敬愛するロバート・キャンベル氏の「朝日日本歴史人物事典」の解説に拠った)。]

 駿州神職の子のよしにて、富士登山、幾度といふをしらず、委敷(くはしく)硏究せしに、孝靈五年出顯(しゆつけん)といふ説、古記に見へず、是れ程の山出顯なれば、數十里内、大變なるべきに、其説一言も見へざれば、幾千年以前出顯といふことしるべからず。孝靈五年の頃、見出したるなるべし。

[やぶちゃん注:「光靈五年」底本では「孝靈」となっているが、誤り。国立国会図書館蔵版で補正した。第七代天皇とされる存在の怪しい孝霊天皇(在位は孝霊天皇元年から孝霊天皇七十六年とする)の治世となり、機械的西暦換算では治世は紀元前二九〇年から二一五年となり、「孝靈五年」はそれに従うなら、紀元前二八六年となる。中国では秦朝末期に当たり、本邦は古墳時代初期に相当する。さて、古富士山は地質学上では八万年前頃から一万五千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高三千メートル弱まで成長したウィキの「富士山」にあり、また、富士山についての最も古い記録は「常陸国風土記」(養老五(七二一)年成立)の中の「福慈岳」という語であるとされるとある。さらに、山頂部からの最後の爆発的な本格的噴火は二千三百年前を最後とし、これ以降は山頂部からの噴火は発生していないとあり、以下、延暦十九年から二十一年(八〇〇年~八〇二年)に「延暦噴火」が、貞観六(八六四)年に青木が原溶岩を噴出した「貞観大噴火」が発生しており、現在のところ、最後の富士山噴火は宝永四(一七〇七)年の「宝永大噴火」で、『噴煙は成層圏まで到達し、江戸では』約四センチメートルの『火山灰が降り積もっ』ているとある。因みに、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。]

 固より燒山(やけやま)にて絶頂は十三町の穴なり。其端、今に鐡をとかしかけたる如く、其𢌞りに三つの峯ありて各(おのおの)名あり。行者、白衣を着て穴の向ふを行(ゆく)を見るに、音羽九丁目橋より觀音前の人を見るより遠く覺へ、唯、白衣の人と斗(ばか)り見ゆるなり。定(さだめ)て十三町斗りなるべし。其穴、見下ろすこと、甚(はなはだ)危し。地(はらばひ)に據(よつ)て見る。常に霧立込(たちこめ)て、深さ量り難く、四時、雪あり。六月の頃、雪の消(きゆ)る事ありても、斑(まだら)に消るなり。風の起る聲とて、やゝもすれば、穴の内、「ごうごう」と鳴響(なりひび)きて、すさまじ。

[やぶちゃん注:「燒山」活火山。

「音羽九丁目橋より觀音前の人を見る」現在の文京区音羽の南端にある神田川に架かる江戸川橋か? 「觀音前」はよく判らぬが、ここから見えたであろう観音を祀った寺となると、徳川将軍家菩提寺として知られた文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)か? 本尊は阿弥陀如来であるが、無量聖観世音菩薩も祀り、江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所でもある。ここだと、江戸川橋から直線で千四百メートルほどであり、以下の数値と合致する。

「十三町」千四百十八メートル。現在の頂上火口は国土地理院のデータによれば、最深部の標高が三千五百三十八・七メートル、火口の深さが約二百三十七メートル、火口底直径が百三十メートル、山頂火口直径が七百八十メートルとする。六百三十八メートルも長いが、これは辺縁部の安全な位置の距離を含めたものとすれば、腑に落ちる。]

 或年の夏、登山せしに、此日、晴天にて、穴の内、甚、明らかなり。かゝる事は幾年の内にも稀なること也。地(はらばひ)に據りて臨むに、風の起る聲は瀧の聲に似たり。よく見るに、川、二つ有り。大河なり。瀧と覺しき者は見へねども、川あるを見れば、瀧もあるべし。果して、水音なり。水の色は靑く、其わたりは、雪の斑消(むらぎえ)ありて、分明に見ゆる。其時、深さを量るに、穴の口十三町より少し遠く見ゆる樣(さま)、思ふに、廿町足らずもあらんか。此日、霧なしといへども、四方の壁、陰映(いんえい)【まりましうつりあひ】して薄暗(うすらぐ)らく、たとへ十三町斗りなるも、かけ離れたる處の如くならず。絶頂の茶屋に出(いづ)る老翁を呼びていふよう、

「穴の内に川有(あり)といふこと、此迄、人の見ることなし。今日、初(はじめ)て見ること如何(いかん)。」

といへば、老翁も、

「僕(やつがれ)、數十年、此處にあれども、如ㇾ此(かくのごとく)なる穴の内、明らかなることは見たることなし。いか樣(さま)、水有るよふに[やぶちゃん注:ママ。]みゆるは初てなり。」

といゝし[やぶちゃん注:ママ。]。此穴口は十三町なれども、底にては幾里にひろがりてあるやらん。これ、燒出(やけいだ)しの口なり。かゝる形の山は、みな、燒出し山なり。近頃、八丈島に、山燒、出(いだ)したり。形、覆盆(ふぼん)【すりばちをふせたる】のごとし、其理(ことわり)、蟻封(ありのとう)を見てしるべき也。富士の煙り常に立上るといふ古歌によれば、近古【ちかきころ】迄、淺間などの如く、矢張、火氣、有(あり)けると見ゆ。此考へは古人も言へること也。

[やぶちゃん注:「其わたり」その辺り。

「廿町」約二千百八十二メートル。

「陰映(いんえい)【まりましうつりあひ】して」ここで桃野は変わった割注の使用をしており、前の漢語をまず音読みし、それに割注で和訓を附している。ただ、この「まりまし」という語の意味が判らぬ。識者の御教授を乞う。

「僕(やつがれ)」謙譲の一人称人代名詞。「奴吾(やつこあれ)」の音変化とも言う。古くは「やつかれ」と清音。上代・中古では男女を通じて用いたが、近世以降は男性がやや改まった場で用いるに限られた。

「いか樣(さま)」感動詞。相手の言葉に同意を表わす語。「なるほど・いかにも」。

「よふに」「樣(やう)に」。

「近頃、八丈島に、山燒、出(いだ)したり」三原山の近世の大噴火は天和四(一六八四)年から元禄三(一六九〇)年にかけての噴火と、安永六(一七七七)年の噴火が大きなものであるが、それ以降も散発的に噴火しているし、本「反古のうらがき」の成立が嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であることを考えると、安永六年以降の中規模噴火を指しているように思われる。

「蟻封(ありのとう)」蟻塚。ここは大きな蟻の巣の成層火山状に摘み上がった頂きにある、入口を富士の火口を想像して貰うために比喩したものである。

「富士の煙り常に立上るといふ古歌」「万葉集」には富士山自体は十一首で詠まれているが、確かに煙を詠み込んでいるものは、以下の類似性を持った二首であろう(二六九五番及び二六九七番)。

吾妹子(わぎもこ)に逢ふ緣(よし)を無(な)み駿河なる不盡(ふじ)の高嶺(たかね)の燃えつつかあらむ

妹が名も我が名も立たば惜しみこそ布士(ふじ)の高嶺の燃えつつ渡れ

また、和歌ではないが、「竹取物語」のエンディング、

   *

 かの奉る不死の藥に、又、壺、具して、御使ひに賜はす。勅使には、「調石笠(つきのいはかさ)」といふ人を召して、駿河の國にあなる山の頂きに持(も)てつく[やぶちゃん注:そのように仕儀する。或いは、持って行って置く。]べき由、仰せ給ふ。嶺(みね)にてすべきやう、教へさせ給ふ。御文(おほんふみ)、不死の藥の壺、並べて、火をつけて燃やすべき由、仰せ給ふ。

 その由、承りて、兵(つはもの)ども、あまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。その煙(けぶり)、いまだ、雲の中へ立ち昇るとぞ、言ひ傳へたる。

   *

を私は直ちに思い出す。私は「竹取物語」は、まっこと、全篇が好きだ。中古の古文教材の授業案(ダイジェスト・プリントを作って全編を取り敢えず通した)では、あれだけが私の完全オリジナルなものだったと言ってよい。]

 扨、橫穴、いくつともなくあり。新田四郞、穴に入(いり)、大河におふて歸る。

「此處、別世界ありて天日の光りを見る。」

と、いひ傳ふ。是、正しく此水の所迄、行(ゆき)たるならん。燒拔けの穴なれば、穴每(ごと)に、これに達したるは其(それ)理(ことわり)なり。上の口、十三町もある穴の底なれば、別世界ともいふえべし。天日の光りも、黑暗(くらやみ)の橫穴より、此所に到れば、殊に分明に見へし事、疑(うたがふ)べくもなし。穴の底、幾里に廣がり、此水、いづくよりいづくへ流るゝといふこと、しるべからずといへども、山上の湖水、數里のもの、いくつともなく有るを見れば、又、恠(あや)しむに足らず。此穴、大鳥獸・妖恠(ようかい)、山精(やまひろ)抔(など)の住家(すみか)にはよろしき處なれば、いか樣(さま)のものありしも、しるべからず。

[やぶちゃん注:「新田四郞」仁田士朗忠常(にったしろうただつね 仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年)の誤り。伊豆国仁田郷(現在の静岡県田方郡函南町)の住人で、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵に十三歳で加わった。頼朝の信任厚く、文治三(一一八七)年正月、忠常が病いのために危篤状態に陥った際には、頼朝自らが見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦、文治五(一一八九)年の奥州合戦においても戦功を挙げた。建久四(一一九三)年の「曾我兄弟の仇討ち」の際には、兄の曾我祐成を討ち取っている。頼朝死後は第二代将軍頼家に仕え、頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父(めのと)となったが、建仁三(一二〇三)年九月二日に頼家が危篤状態に陥り、比企能員の変が起こると、忠常は掌を返して北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚比企能員を謀殺している。ところが三日後の五日に回復した頼家からは、逆に時政討伐の命令を受けてしまう。翌晩、忠常は能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かったが、彼の帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由として、逆に謀反の疑いをかけられ(無論、これも時政の謀略である)、時政邸を出て御所へ戻る途中、加藤景廉に殺害されてしまった(以上はウィキの「仁田忠常」に拠った)。以上が事実の事蹟であるが、彼は中でも「富士の人穴」(現在の静岡県富士宮市にある古代の富士山噴火によって形成された溶岩洞穴)探検の逸話で頓に知られる。それについては、私の北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士入穴に入るに詳しいので、参照されたい。

「山上の湖水」ここは富士山の裾野辺縁を含めた広義の「山」塊で、所謂、富士五湖等を指しているのであろう。

「山精(やまひろ)」山の精。山の霊。或いは妖怪としての「山彦」。「やまひろ」は底本のルビであるが、不審。「やまわろ」(山童:主に西日本に伝わる童子程の背丈の毛むくじゃらの妖怪)なら判るが。]

 山のうしろの下りは、石のごろごろする物を踏(ふみ)て下る。其れ石の内にて團炭程の丸き物を得たり。

「鐡丸(てつぐわん)也。」

といゝき[やぶちゃん注:ママ。]。これ、燒出しの時、丸(ま)るくかたまりし鐡氣(かなけ)也。されば東の國、未だ開(ひ)らけざる以前、此山、燒出(やけいで)て、其わたり、數里内(のうち)、人の種(たね)、盡(つく)る程の大變ありて、其後、駿河に行(ゆき)たるもの、雲霧にて、折ふし、此山を見ざりしが、光靈の頃、忽然、雲晴(はれ)て、如ㇾ此(かくのごとき)端正(ただしき)形(かた)ちを見たれば、一夜に出顯といゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳へしならんか。内藤、此説を詳記(つまびらかにしる)して圖を作り、一卷とせしよしなりしが、

「畫師雪庵が家に置(おき)て、火に燒(やけ)たり。」

と語りし。

[やぶちゃん注:「端正(ただしき)」底本のルビ。

「雪庵」ありがちな雅号で複数見かけるが、同定は不能。]

大和本草卷之十三 魚之上 鱖魚 (サケ)

 

鱖魚サケ 鱖ハ案本草决乄サケトスヘシ集解ノ説ヨク

 合ヘリサケニ非トスルハ非ナリ性甚ヨシ本草ニ詳也

 本草ニ癆瘵ヲ治ス国俗ニモ亦然リト云鱖ノサケ

 ナル叓コレヲモ證トスヘシ鱸魚ノ集解云狀類似

 鱖云リスヾキノ形サケニ似タレハナリ本邦東北州ノ

 大河ニ多シ南洲ニハ無之順和名抄曰鮏和名佐

 介俗用鮭字非也又曰崔于錫食經曰鮏其子似

 苺赤光一名年魚春生年中死故名之順和名鱖

 アサチト訓ス非是サケノ鮞ヲ国俗ハラヽゴト云南天

 燭子ノコトシ

 

○やぶちゃんの書き下し文

鱖(ケイ)魚【サケ。】 「鱖」は「本草」を案ずるに、决〔(けつ)〕して「サケ」とすべし。集解の説、よく合へり。「サケ」に非ずとするは非なり。性、甚だ、よし。「本草」に詳かなり。「本草」に『癆瘵〔(らうさい)〕を治す』〔とす〕。国俗にも亦、然り、と云ふ。鱖の「サケ」なる叓〔(こと)〕、これをも證とすべし。「鱸魚」の集解に云ふ狀、鱖に類似す、と云へり。「スヾキ」の形、「サケ」も似たればなり。本邦、東北州の大河に多し。南洲には、之れ、無し。順〔が〕「和名抄」に曰はく、『鮏、和名「佐介(サケ)」。俗に「鮭」の字を用〔ふは〕非なり。又、曰はく、崔于錫〔(さいうしやく)が〕「食經」に曰はく、鮏、其の子、苺(いちご)に似、赤〔く〕光〔れりと〕。一名「年魚」。春、生じ、年中に死す故、之れを名づく。順〔が〕「和名」、「鱖」を「アサチ」と訓ず〔は〕是れに非ず。「サケ」の鮞(こ)を、国俗、「はらゝご」と云ふ。南天燭(なんてんしよく)の子(み)のごとし。

[やぶちゃん注:条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta。ここはまず、主に「本草綱目」との対照によっているので、先同第四十四巻「鱗之三」の「鱖魚」を引いておく。益軒が「集解の説、よく合へり」と言っているので、その部分を太字とした。

   *

鱖魚【居衛切。「開寶」。】

釋名罽魚【音薊。】・石桂魚・【「開寶」。】・水豚。時珍曰、鱖、蹶也。其體不能屈曲如僵蹶也。罽、𦇧也。其紋斑如織𦇧也。大明曰、其味如豚故名水豚。又名鱖豚。志曰、昔有仙人劉憑、常食石桂魚。桂、鱖同音、當卽是此。

集解時珍曰、鱖生江湖中。扁形濶腹、大口細鱗。有黑斑、采斑色明者爲雄、稍晦者爲雌。皆有鬐鬛刺人、厚皮緊肉、肉中無細刺、有肚能嚼、亦啖小魚。夏月居石穴、冬月偎泥罧。魚之沈下者也。小者味佳、至三五觔者不美。李廷飛延壽書云、鱖鬐刺凡十二、以應十二月。誤鯁害人、惟橄欖核磨水可解。蓋魚畏橄欖故也。

附錄鰧魚 時珍曰、按「山海經」云、洛水多鰧魚。狀如鱖、居于逵、蒼文赤尾、食之不癰、可以治瘻。郭注云、鰧音滕。逵乃水中穴道交通者。愚按、鰧之形狀居止功用俱與鱖、同亦鱖之類也。日華子謂、鱖爲水豚者、豈此鰧與。

氣味甘、平。無毒。「日華」曰、微毒。

主治腹内惡血、去腹内小蟲、益氣力。令人肥健【「開寶」。】。補虛勞、益脾胃【孟詵。】。治腸風瀉血【「日華」。】。

發明時珍曰、按張杲「醫説」云。越州邵氏女年十八、病勞瘵累年、偶食鱖魚羮遂愈。觀此、正與補勞、益胃、殺蟲之説、相符。則仙人劉慿隠士、張志和之嗜此魚、非無謂也。

主治小兒軟癤、貼之良【時珍。】。

【氣味】苦、寒。無毒。主治骨鯁、不拘久近【時珍。】。

附方【舊一】骨鯁竹木刺入咽喉【不拘大人小兒、日久或入臟腑、痛刺黃瘦甚者、服之皆出。臘月、收鱖魚膽、懸北簷下令乾。每用一皂子、煎酒溫呷。得吐、則鯁隨涎出。未吐再服、以吐爲度。酒隨量飮、無不出者。蠡・鯇・鯽、膽皆可。「勝金方」。】

   *

確かに、一見、この「鱖魚」とサケを同一と考えて問題ないようにも見えるのであるが、実は必ずしもそうではない。何故なら、現代中国語では「鱖魚」は全く別種の、

条鰭上目スズキ目スズキ亜目 Percichthyidae 科ケツギョ属ケツギョ Siniperca chuatsi

の漢名となっているからである。しかも、この鱖魚も本来は北方水域を好む淡水魚で、ウィキの「ケツギョによれば、『中国大陸東部沿岸の黒竜江省(アムール川)から広東省にかけての各水系に分布するが、華南よりも華北に多い。本来、海南島や雲南省などの内陸部には分布しない』『現在は、養殖のために台湾にも移植されている。また、広東省を中心に大規模な養殖が行われている』。『成魚は全長』三十センチメートル『程度、最大で』六十五センチメートルに達し、『体は側扁する。体長は体高の約』二・五『倍程度』で、『吻は前に突き出ていて、口が大きい。尾鰭(おびれ)はうちわのような円形をしている。背鰭(せびれ)は前後で形態が異なり、前部には硬い刺がある。体色は黄緑色で、腹部は淡灰色。体側には中央付近に太く黒い筋模様が』一『本あり、不規則の暗褐色の斑点がいくつかあり、周辺環境に紛れる保護色となる。吻から目を通って背鰭の下まで、黒い竪筋模様がある。腹鰭・背鰭の後部・尾鰭の各軟条部には暗褐色の黒点が並び、全体で軟条を横切る帯模様に見える』。『大河川の中流域、ダム湖などの淡水域に生息する。食性は捕食性の肉食で、魚類・水生昆虫・甲殻類等を食べる』『中国語の標準名は「鱖」または「鱖魚」であるが、この「鱖魚」を音読みしたものを和名としている。旧満州において、日本人はヨロシと称した』。『中国語では同音の当て字で「桂魚」、また、これから類推した「桂花魚」と呼ばれたり、その当て字で「季花魚」と書かれることもある。「桂花」はギンモクセイを意味するが、鱖魚とは無関係である。他に地方名に「翹嘴鱖」、「胖鱖」(湖北省)、「母猪殻」(四川省、重慶市)、「花鯽魚」、「鰲花魚」(東北)』『などがある』。『属名 Siniperca は、「中国(Sini)のパーチ(Perca)」を意味する』。『白身で癖がなく、食感もぷりっとしていて良く、小骨がないため、中国では高級食材として扱われている。ネギ、ショウガまたは豆豉と共に蒸し魚にしたり、唐揚げにすることが多い』。『中国では活魚としてホテルや料理店などに販売されているが、日本においては外来生物法の特定外来生物(第二次指定種)として、活魚での輸送や保管は禁止されている』。『古来、美味なる魚として漢詩にもたびたび現れる。例えば、唐の張志和の『漁歌子』には「西塞山前白鷺飛,桃花流水鱖魚肥。」の一節がある。また、絵画や陶器などの題材にもされることがある』から、文化史的に見ても、本種を考えずに益軒の言うように「鱖魚」=「鮭」とすることは不可能である。写真を見ると(リンク先を参照)、紋様を含め、かなり特異的な形状で「鮭」と似ているか似ていないかと聞かれれば、私は「似ていない」と答える則ち、益軒が特異になって『「サケ」に非ずとするは非なり』と断言してしまったことの方が誤りである可能性が極めて大であると言える。

「癆瘵」労咳。肺浸潤や肺結核を指す。

「国俗」本邦の民間(療法)。

「叓〔(こと)〕」原典は上部が「古」となった字体であるが、表記出来ないのでこれで示した。「事」の異体字である。

『「鱸魚」の集解に云ふ狀、鱖に類似す』「鱸魚は棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。「本草綱目」の「鱸」の当該主部を示す。

   *

集解時珍曰、鱸出中淞江。尤盛四五月方出、長僅數寸、狀微似鱖、而色白、有黒點、巨口細鱗、有四鰓。楊誠齋詩、頗盡其狀云、鱸出鱸蘆葉前、垂虹亭下不論錢、買來玉尺如何短、鑄出銀梭直是圓、白質黑章三四點、細鱗巨口一雙鮮、春風已有真風味、想得秋風更逈然。「南郡記」云、人獻淞江鱸鱠於隋煬帝、帝曰、金虀、玉鱠、東南佳味也。

   *

『「スヾキ」の形、「サケ」も似たればなり』全く似ていないとは言わないが、私はちゃんと区別がつくから、似ていないと断言できる。

「和名抄」には確かに、

   *

鮏 崔禹錫「食經」云、鮏【折青反。和名「佐介」。今案、俗用「鮭」字、非也。鮭、音「圭」。鯸鮔魚一名也。】。其子、似苺【音「茂」。今案、苺子卽覆盆也。見「唐韻」。】。赤光。一名「年魚」。春生、年中死、故名之。

   *

とする(「鯸鮔魚」はカジカ(条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux)の方言でちょっと不審であるが、注がエンドレスになるのでここでは問題にしないこととする)。ところが、益軒も誤魔化して言い添えているが、同書には別に、

   *

鱖魚 「唐韻」云【厥居衛反。「漢語抄」云、阿散知。】。魚名。大口細鱗有斑文者也。

   *

が項立てされて、かく記されてある。私が「誤魔化して」と言ったのは、益軒が源順が「鮏」と「鱖」を全くの別項立てとしたこと、則ち、順は「鮏」(サケ)と「鱖魚」(ケツギョ)を確信犯で別種扱いとしたことを明記した上で、それを批判していないことを問題としているからである。実際、以上の通り、実は「鮏」=「鮭」と、「鱖魚」は別種の可能性が濃厚なのであり、その点では結果としては益軒ではなく順の方が正しい可能性が大ということになるからである。因みに、「唐韻」は唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された「切韻」(隋の文帝の六〇一年の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐の科挙の作詩のために広く読まれた。初版では百九十三韻の韻目が立てられてあった)の修訂本。七五一年に成ったとされるが、七三三年という説もある。参照した当該ウィキによれば、『早くに散佚し』、『現在に伝わらないが、宋代に』「唐韻」を『更に修訂した』「大宋重修広韻」が『編まれている』。『清の卞永誉』(べんえいよ)の「式古堂書畫彙考」に『引く』中唐末期の『元和年間』(八〇六年八月~八二〇年十二月)の「唐韻」の『写本の序文と各巻韻数の記載によると、全』五『巻、韻目は』百九十五『韻であったとされる。この数は王仁昫』(おうじんく)の「刊謬補缺切韻」に『等しいが、韻の配列や内容まで等しかったかどうかはわからない』。『蒋斧旧蔵本』の「唐韻」『残巻(去声の一部と入声が残る)が現存するが、韻の数が卞永誉の言うところとは』、『かなり異なっており、元の孫愐本からどの程度の改訂を経ているのかは』、『よくわからない。ほかに敦煌残巻』『も残る』。「説文解字」の『大徐本に引く反切は』「唐韻」に依っており、かの「康熙字典」が、「唐韻」の『反切として引いているものも』、「説文解字」大徐本の『反切である』とある。

「崔于錫」「食經」「崔禹錫」の誤り。唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」では多く引用されている。

「アサチ」「アサヂ」(アサジ)であろう。これはコイ目コイ科ダニオ亜科オイカワ属オイカワ Common ninnow の異名で、この異名は福岡県久留米市での採取があり、福岡藩士であった益軒との親和性が強い。但し、同定自体は誤り(本邦にいないケツギョだから)ということにはなる。

「鮞(こ)」この場合は卵巣(卵塊)、スジコ・イクラを指す。

「はらゝご」「腹子」。広義には魚類の産卵前の卵を指すが、まさに特にサケの卵巣、及び、その塩蔵品を指す。

「南天燭(なんてんしよく)」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

「子(み)」実。]

2018/08/22

大和本草卷之十三 魚之上 鯽 (フナ)

 

鯽 一名鮒本草曰鮒魚泥食雜物不食冬月肉厚

 子多尤美呂氏春秋云魚之美者有洞庭之鮒日

 本ニテ近江鮒ヲ賞スルカ如シ近江鮒ハ肩廣ク味尤

 美シ他邦ニ異ナリ凡鮒ハ鯉ニツギテ上品ナリ性亦

 温補シ下血ヲ治ス燒テ食ヒ煮テ食ス脾胃ヲ峻

 補ス有宿食及滯氣人不可食氣ヲ塞ク大ナルヲ丸

 ナカラ煮タルハ尤氣ヲ塞ク薑椒ヲ加フヘシ丹溪曰

 鯽属土有調胃實腸之功〇本草曰脾胃虚冷不

 食ニ鯽魚ノ肉ヲ切テ豉汁ノ沸タルニ投シ胡椒茴香薑

 橘ノ末ヲ入テ食フコレヲ鶻突羹ト云今案味曾汁

 尤ヨシ又本草ニ酒ニテ煮テ食ヘハ酒積下血ヲ治ス

 又痔血下ルニ鯽ノ羹ヨシトイヘリ小兒ノシラクボ頭ニ

 アルニフナノ黑燒ヲ醬油ニテツクル〇魚 タナゴト

 云京都ノ方言也鯽ノ赤キ所アルモノ也筑紫ニテ◦シ

 ノナと云淀川ニ多シ關東ニテ苦鮒ト云海魚ニモタ

 ナゴアリソレトハ別也同名異物也○膳夫錄曰膾莫

 先于鯽魚膾ノ魚ノ第一トストナリ

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:一部に改行を施した。]

鯽〔(フナ)〕 一名「鮒」。「本草」に曰はく、『鮒魚、泥食〔(でいしよく)〕して雜物を食さず。冬月、肉、厚く、子、多し。尤も美〔(うま)し〕。「呂氏春秋」に云はく、「魚の美なる者は、洞庭の鮒〔に〕有り」〔と〕』〔と〕。日本にて近江鮒を賞するがごとし。近江鮒は、肩、廣く、味、尤も美し。他邦に異なり。凡そ鮒は鯉につぎて上品なり。性、亦、温補し、下血を治す。燒きて食ひ、煮て食す。脾胃を峻補す。宿食及び滯氣有る人、食ふべからず。氣を塞ぐ。大なるを、丸ながら煮たるは、尤も氣を塞ぐ。薑椒(はじかみ)を加ふべし。丹溪曰はく、『鯽は土に属す。胃を調へ、腸を實〔(みの)〕るの功、有り』〔と〕。

〇「本草」に曰はく、『脾胃虚冷〔にして〕不食〔なる〕に〔は〕、鯽魚の肉を切りて豉汁〔(みそしる)〕の沸〔(わき)〕たるに投じ、胡椒・茴香(ういきやう)・薑〔(はじかみ)〕・橘〔(たちばな)〕の末を入れて食ふ。これを「鶻突羹〔(こつとつこう)〕」と云ふ。今、案ずるに、味曾汁、尤もよし。又、「本草」に、『酒にて煮て食へば、酒積〔(しゆしやく)〕・下血を治す。又、痔血、下るに、鯽の羹〔(あつもの)〕よし』といへり。小兒の「シラクボ」、頭にあるに、「フナ」の黑燒を醬油にて、つくる。

魚 「タナゴ」と云ふ。京都の方言なり。鯽の赤き所あるものなり。筑紫にて「シノナ」と云ふ。淀川に多し。關東にて苦鮒〔(ニガブナ)〕と云ふ。海魚にも「タナゴ」あり、〔然れども〕それとは別なり。同名異物なり。○「膳夫錄」に曰く、『膾は、鯽-魚〔(フナ)〕より先なる〔は〕莫〔(な)〕し。膾の魚の第一とすとなり。

[やぶちゃん注:条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属 Carassius のフナ類。本邦産種は概ね以下。但し、ウィキの「フナ」によれば、『フナは生物学的な分類が難しいとされている魚のひとつである。姿・形・色だけで種を判別することはできないため、初心者が種類を見分けることは困難である。例えば、日本社会においては、「フナ」と呼ばれる魚は慣例的に細かい種類に呼び分けられている。しかし、その「種類」がそれぞれ生物学的に別種か、亜種か、同じ種なのかはいまだに確定されていない。なお、俗に言う「マブナ」はゲンゴロウブナと他のフナ類を区別するための総称で、マブナという』種は存在しないとある。

・ギンブナ Carassius auratus langsdorfi

全長三十センチメートルほど。日本・朝鮮半島・中国にかけて分布する。ほぼ全てがで、無性生殖の一種である雌性発生によってクローン増殖することが知られている。

・キンブナ Carassius auratus ssp.2 (「ssp.」は「subsp.」とも書き、「subspecies」の略。「亜種」の意)

本邦の関東地方・東北地方に分布する。全長は十五センチメートルほどで、日本のフナの中では最も小型である。名の通り、体が黄色っぽく、ギンブナよりも体高が低い。

・オオキンブナ Carassius auratus buergeri

日本西部と朝鮮半島に分布する。全長四十センチメートルほど。名の通り、キンブナに似るが、大型になる。近年では人為放流されたものか、関東方面でも見られるようになっている。

・ゲンゴロウブナ Carassius cuvieri

琵琶湖固有種。全長四十センチメートルほど。体高が高く、円盤型の体型を成す。植物プランクトンを食べるため、鰓耙(さいは:硬骨魚類の鰓弁の反対側にある櫛状の器官。吸い込んだ水の中から餌である小さなプランクトンを濾し採る役割を果たす)が長く発達し、数も多い。釣りの対象として人気があり、現在では日本各地に放流されている。本条の「近江鮒」は本種を指していると思われる。なお、一般に知られるヘラブナ(箆鮒)とはこのゲンゴロウブナを品種改良したもの。

・ニゴロブナ Carassius auratus grandoculi

琵琶湖固有種。全長三十センチメートルほど。頭が大きく、下腮(したあご)が角ばっているのが特徴である。滋賀県の郷土料理で、私の大好物である鮒寿司に使われることで知られるが、現在、絶滅危惧IB類に指定されてしまった。漢字表記は「煮頃鮒」「似五郎鮒」。本条の「近江鮒」には本種も含まれていると考えた方が自然である。

・ナガブナ Carassius auratus ssp. 1

諏訪湖周辺に分布。全長二十五センチメートルほど。名の通り、体高が低くて幅が厚く、円筒形に近い体型を成す。また、体に対し、頭と目が大きいのも特徴で、体色がやや赤っぽいことから、「アカブナ」とも呼ばれる。

「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう)は秦の百科全書的史論書。「呂覧」とも呼ぶ。秦の呂不韋編。全二十六巻。成立年未詳であるが、その大部分は戦国末の史料と想定されている。孔子が編したとされる五経の一つ「春秋」に倣い、呂が当時の学者を集めて作成させたとされる。そのため、全体的な統一を欠き、儒家・道家・法家・兵家・陰陽家などの諸説が混在している。しかし、中国古代史の研究上貴重な文献であることは言を俟たない(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「峻補」(しゅうほ)は補益効果が非常に強いことを意味する。

「宿食」(しゅくしょく)は飲食物が胃腸に停滞してしまう病証を指す。「食積」「傷食」「宿滞」などとも称し、食べ過ぎ或いは脾虚を原因とし、上腹部の脹痛・酸臭のあるゲップ・悪心・食欲不振・便秘或いは下痢を主症状とし、悪寒・発熱・頭痛などを伴うこともある。

「滯氣」気の流れが停滞したために起こる病的状態。自律神経・精神・呼吸などに変調を来たす。

「薑椒(はじかみ)」生姜。

「丹溪」元代の医師朱震亨(しゅしんこう 一二八一年~一三五八年)の号。初め、儒学を学んだが、後に医学に転じ、李杲(りこう:号は東垣)の系統の医学を学んだ。後に李杲と併称されて「李朱医学」と呼ばれた。著書に「局方発揮」「格致餘論」「丹溪心方」などがある。但し、以下の「鯽は土に属す。胃を調へ、腸を實〔(みの)〕るの功、有り」という引用は、思うに、明の楊慎撰の「異魚圖贊箋卷一」の「鯽魚」の『李時珍云、「鯽喜猥泥不食雜物。故能補胃。冬月肉厚、子多其味尤美」。丹溪云、「諸魚屬火、獨、鯽魚屬土。有調胃實腸之功。但多食亦能動火』からの孫引きではないかと私はちょっと疑っている

「腸を實〔(みの)〕るの功」どうもピンとこないが、これ例外の読みが打てない。要は腸の状態を充実させるの意ではあろう。

「茴香(ういきやう)」かのスパイスやハーブとして知られるセリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare

「鶻突羹〔(こつとつこう)〕」益軒は「養生訓」でも、『鶻突羹は鮒-魚(ふな)をうすく切(きり)て、山椒など、くはへ、味噌にて久しく煮たるを云(いふ)。脾胃を補ふ。脾虛の人・下血(げけつ)する病人などに宣(よろ)し。大(おほき)に切(きり)たるは氣をふさぐ。あしゝ』と述べている。

「酒積〔(しゆしやく)〕」酒による肝臓疾患。

「シラクボ」「白癬(はくせん)」のこと。「禿瘡」等とも漢字表記する。多く幼小児の頭皮に出来る糸状菌感染による皮膚病。硬貨大の円形斑が次第に拡大し、灰白色に変色して乾燥し、頭髪が抜ける。

「つくる」「傅(つ)くる」。貼り付ける。

魚」「タナゴ」コイ科亜科タナゴ亜科 Acheilognathinae のタナゴ類。模式種はタナゴ属タナゴ Acheilognathus melanogaster。模式種でウィキの「タナゴから引用しておくと、『日本固有種で、本州の関東地方以北の太平洋側だけに分布する。分布南限は神奈川県鶴見川水系、北限は青森県鷹架沼とされ、生息地はこの間に散在する。各地で個体数が激減しており、絶滅が危惧される状況となっている』。体長は六~十センチメートル。『タナゴ類としては前後に細長く、日本産タナゴ類』十八『種のうちで最も体高が低いとされる。体色は銀色で、肩部には不鮮明な青緑色の斑紋、体側面に緑色の縦帯、背鰭に』二『対の白い斑紋が入る。口角に』一『対の口髭がある』。『繁殖期になると』、は鰓蓋から胸鰭にかけて、薄いピンク色を呈する一方、『腹面は黒くなり、尻鰭の縁に白い斑点が現れる。種小名 melanogaster は「黒い腹」の意で』の婚姻色に由来する。には明らかな婚姻色は発現せず、基部が褐色を呈しており、先端には『灰色の産卵管が現れる』。『湖、池沼、川の下流域などの、水流がないか』、『緩やかで、水草が繁茂する所に生息する。食性は雑食で、小型の水生昆虫や甲殻類、藻類等を食べる』。『繁殖形態は卵生で、繁殖期は』三~六月で、『産卵床となる二枚貝には大型の貝種を選択する傾向がみられ、カラスガイやドブガイに卵を産みつける。卵は水温』摂氏十五度前後では五十時間ほどで『孵化し、仔魚は母貝内で卵黄を吸収して成長する。母貝から稚魚が浮出するまでには』一『ヶ月ほどかかる。しかしそのような貝もまた減少傾向にあることから』、『個体数の減少に拍車をかけている』。『河川改修や圃場整備といった開発にともない、産卵床となる二枚貝類とともに多くの生息地が破壊された。また、ブラックバス・ブルーギルによる食害やタイリクバラタナゴとの競合といった外来魚の圧迫を受けており、各地で生息数が激減している。観賞魚として商業流通するため、業者による乱獲も脅威である』。『関東地方の生息地は近年特に減少している。分布南限の神奈川県ではすでに絶滅し、東京都でも同様とみられ、現在のまとまった生息地は霞ヶ浦水系と栃木県内の一部水域のみである。霞ヶ浦では環境改変や外来魚の食害で減少が続いており、生息密度がかなり希薄になっている』。現在、本種も絶滅危惧IB類となってしまった。「」は恐らく体型の曲線が櫛を連想させることに由るものと推定される。

「鯽の赤き所あるものなり」前注の下線太字部を参照。

『筑紫にて「シノナ」と云ふ』思うに、これは「シブナ」の彫り損ないではないか。実際、調べてみると、大分県日田市(ひたし)サイト日田の自然の「日田の自然(小さな魚 カゼトゲタナゴ)に(「郷土日田の自然調査会」の文責表示がある)、『こどものころ、近くの小川で魚とりをすると、紅や緑の色鮮やかな小さい魚が網の中で、跳び跳ねていたのを想い出す人も多いと思います』。『この小型の魚は日田地方の方言で、シビンタとかシブナと呼ばれるコイ科のタナゴ属で、三隈川や花月川流域に五種類が分布しています。このタナゴの仲間で最も小型のカゼトゲタナゴは、九州北西部の河川にしか分布していない九州特産魚です』とあるからである。コイ科バラタナゴ属カゼトゲタナゴ Rhodeus smithii smithii は日本固有亜種で、九州の北部から中部(佐賀県・福岡県・熊本県)及び壱岐島(長崎県)にのみ分布している(但し、中国浙江省にもよく類似するものが生息しているので、分類学的な再検討が必要とされる)。分布南限は熊本県八代市の球磨川で、模式産地(原記載標本の産地)は筑後川であるとウィキの「カゼトゲタナゴにある。而して、この「シビンタ」「シブナ」という名を見つめていると、確信が湧いてくるのを覚えた。ウィキの「タナゴ亜科によれば、『タナゴ類はフナ・モツゴ・モロコなどとともに一般的にみられる淡水魚で、地域ごとにさまざまの種類や地方名(方言)がある。地方名には、ニガブナ(日本各地)、ボテ(琵琶湖周辺)、ベンチョコ(福岡県)、シュブタ(筑後川流域)、センパラ(濃尾平野)などがある。「ニガブナ(苦鮒)」という呼称は、食べると苦味があることに由来する。これはタナゴの英名"Bitterling"(苦い小魚)にも共通する』とあり(鮒も苦味がある)、「シブナ」とは「渋い鮒」「渋鮒(シブブナ)」の転訛ではないかと思い至ったのである。

『海魚にも「タナゴ」あり、〔然れども〕それとは別なり。同名異物なり』棘鰭上目スズキ目ウミタナゴ科ウミタナゴ属ウミタナゴ亜種ウミタナゴ Ditrema temmincki temmincki。体型がタナゴ類に似ていることからの和名であるが、全く類縁関係はない海産魚である。特に胎生で知られる。

「膳夫錄」唐の鄭望之の撰になる食譜。元末明初の学者陶宗儀の編した「説郛(せっぷ)」(早稲田大学図書館古典総合データベースの)に載るそれで原文を確認出来た。]

反古のうらがき 卷之一 飛物

 

   ○飛物

 

 四ツ谷裏町の與力某、打寄(うちより)て、棊(ご)を打けるが、夜深(よふけ)て、各(おのおの)家に歸るとて立出しに、一聲、

「がん。」

といひて、光り物、飛出で、連立(つれだち)し某が、ながし元(もと)あたりと思ふ所落たり。

 直(ただち)に打連(うちつれ)て其所に至り、挑燈振り、てらして尋ねけるに、なにもなし。

 明(あく)る朝、主人、立出(たちいで)て見るに、流し元のうごもてる土の内に、ひもの付(つき)たる、しんちうの大鈴一つ、打込(うちこみ)て、あり。

 神前などにかけたる物と覺へて[やぶちゃん注:ママ。]、ふるひも付たり。

「かゝる物の此所に打捨有(うちすてある)べき道理もなければ、定(さだめ)て夜前(やぜん)の光り物はこれなるべし。」

と云へり。

 此大鈴、何故、光りを放して飛來(とびきたり)けるや、其譯、解しがたし。天保初年の事なり。

[やぶちゃん注:底本では、ここは実際に改行されてある。]

 此二十年斗(ばか)り前、十月の頃、八つ時頃なるに、晴天に少し薄雲ありて、余が家より少々西によりて、南より北に向ひて、遠雷の聲、鳴渡(なりわたり)れけり。

 時ならぬことと斗り思ひて止(やみ)ぬ。

 一、二日ありて、聞くに、早稻田と榎町との間、「ととめき」といふ所に町醫師ありて、其玄關前に二尺に壹尺計りの玄蕃石(げんばいし)の如き切り石、落(おち)て二つにわれたり。

 燒石(やけいし)と見えて、餘程あたゝかなり。

 其所にては響(ひびき)も厲(はげ)しかりしよし、淺尾大嶽、其頃、其わたりに住居して、親しく見たり、とて余に語る。

 これも何の故といふことをしる者、なかりし。

 後に考(がんがふ)るに、南の遠國にて、山燒(やまやけ)ありて吹上(ふきあげ)たる者なるべし。切石といふも方正(はうせい)に切(きれ)たる石にてはなく、へげたる物なるべし。

[やぶちゃん注:読み易さと効果を考えて改行を施した。標題は「とぶもの」でよかろう。

「四ツ谷裏町」切絵図集を複数見ても「表町」「仲町」は見出せるのだが、「裏町」は遂に見出せなかった。識者の御教授を乞う。

「棊(ご)」底本は右に『(碁カ)』と編者注があるのだが、これで普通に「碁」のことである。

「連立(つれだち)し某が、ながし元(もと)あたり」連れ立って帰っていた某の家の近くまで来ており、その「流し元」(台所の流しのあるところ。ここはその流しから外に排水する場所であろう)附近。

「うごもてる」「墳(うごも)つ」は「土などが盛り上がる」の意。盛り上げてある。

「しんちう」「真鍮」。

「打込(うちこみ)て、あり」突入していて一部が土に埋まってあった。

「ふるひ」「振るひ」で、鈴緒(すずお)のことであろう。

「天保初年」元年は一八三一年。

「此二十年斗(ばか)り前」本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、そこを起算とすると、文政一一(一八二八)年から天保元・文政一三(一八三〇)年頃となる。

「十月の頃、八つ時頃」午前二時頃。昼間の午後二時の可能性もあるが、「時ならぬこと」と言い、後の石の落下発見などから見ても、夜間である。

「早稻田と榎町」この中央辺りであろう(グーグル・マップ・データ)。

「ととめき」底本の朝倉氏の注には『轟橋を、土地でかく呼んだ』とある。調べてみると、「轟橋」は「どどめきばし」と読むらしい。個人ブログ『神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!』の「轟橋」に拠ったが、現在は暗渠(多分)で存在しないが、その記載と旧地図を照応すると、現在の榎町の南西直近の弁天町交差点の近くにあったことが判る(グーグル・マップ・データ)。

「玄蕃石(げんばいし)」敷石や蓋石(ふたいし)に用いる長方形の板石。

「淺尾大嶽」画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)の門人に、同姓同名(号)の名古屋藩藩士で、名は「英林」とするデータが、サイト「浮世絵文献資料館にあった。

「山燒(やまやけ)」噴火。

「方正(はうせい)」方形にきっちりと綺麗に切り出されたような石。

「へげたる」「剝(へ)げる」は「剝(は)げ落ちる・剝がれる」の意。]

反古のうらがき 卷之一 高村源右衞門

 

  ○高村源右衞門

 高村源右衞門は榎町(えのきちやう)同心にて、召取(めしとり)の名人也。數年相勤しに付、御天守番となる。文政季年の頃也。これよりさき、上毛(かみつけ)の國は大盜(ぬすびと)多く、熊が谷の土手に出(いで)て強盜をなすこと、古(いにしへ)より今に至りて止時(やむこと)なし。所謂、「長脇指(ながどす)」といへる惡徒(わるもの)也。其頃、十餘人、嘯集(しふしふ)して往來の害をなせしかば、源右衞門に命じて是をとらへしむ。彼(かの)徒も源右衞門と聞(きき)て、「面白し。出迎へて打取べし」とて、手ぐすね引(ひき)て待(まち)かくる。源右衞門、人數は召連れず、唯壹人、上野(かうづけ)の堺(さかひ)へ入(いり)たるといふかと思へば、いづち行けん、影をだに見たるものなくなりぬ。惡徒等、「それ。おし寄(よせ)て打取(うつと)れ」とて、所々尋ね求(もとむ)れども、影もなし。人家々々に亂入して搜索すること、每日なり。遂に行衞をしらず。止(やむ)ことを得ずして、吾と吾身を立隱(たちかく)れぬれども、兎角、安からず。追々(おひおひ)、一人、逃(にげ)、二人、逃して、盡(ことごと)く逃出(にげいで)る。其先々に天網(あみ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を張置(はりおき)て一人宛(づつ)召取(めしとり)、終に不ㇾ殘(のこらず)召取、熊ケ谷を引(ひけ)て歸る時分は十餘人なり。これにて盡(つき)たりとみへて[やぶちゃん注:ママ。]、途中にて奪ふなどゝいふ事もなく、江戶に入(いり)しよし。其間、源右衞門は何國(いづく)に隱れけん、誰(たれ)もしる物なし。但し、壁を切破(きりやぶ)りて逃たることもありし、と自(みづ)から、いひしよし。

[やぶちゃん注:「高村源右衞門」この人物、種々の古文書類に見出すことが出来る。例えば、「慶應義塾大学所蔵古文書検索システム」のこちらの、文化一〇(一八一三)年一月附の上野(こうずけ)村・新田村・太田村に於ける『盗賊入紛失の品并びに怪火にて焼失の始末御尋に付下書』の一札に『火附盗賊御改 松浦大膳様御組 高村源右衛門様』と出る。この人物と見て間違いあるまい。

「榎町」底本の朝倉氏の注には『新宿区内。榎町御先手組屋敷があった』とある。(グーグル・マップ・データ)。則ち、高村源右衛門は「同心」とあるが、これによって彼は町同心ではなく、先手組同心であって、加役(火附盗賊御改方)同心(当時)であったことが判るのである。私の言っていることが判らない方は、先の「魂東天に歸る」の私の注を見られたい。

「御天守番」江戸城の天守を守衛する職名。ウィキの「天守番によれば、『江戸城五重の天守は明暦の大火』(明暦三(一六五七)年一月発生)『で焼け落ち、保科正之の意見によって再築は控えられた。しかし』、『その職のみは存置され』、人員は四十名で、これを四組に分けた。百俵高五人扶持で躑躅間詰。天守下番二十一人とともに天守番頭四人が、それぞれ一組を支配した』とある。

「文政季年」「季年」は末年の意で採っておく。文政は一八一八年から一八三一年まで。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、二十年ほど前のこととなる。

「上毛(かみつけ)の國」上野国に同じい。現在の群馬県。

「熊が谷の土手」現在の熊谷は埼玉県であるが、北で利根川を挟んで群馬県と接しているから、この附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「長脇指(ながどす)」長脇指(長脇差)は本来は一尺八寸(約五十四・五センチ)以上の脇差を言う語であるが、これは幕令によって町人が差すことが禁止されていた。ここは、それを不法に差していた、不良浪人・博徒・渡世人或いは盗賊(団)を指す。小学館の「日本大百科全書」の「博徒」によれば、こうしたアウトローらは、賭け事が庶民階級に浸透していった平安初期には既に発生していたが、組織化して本格的武装をし始めたのは江戸時代で、幕府は文化二(一八〇五)年に関八州取締所を設置、彼らの取締りを強化した。それを避け、江戸及び近郊の博徒らは、このまさに上州付近に集まって、幕府に抵抗した。その後、幕府の取締りも効果がなく、二十年後の、まさに本話柄内時制に近い文政一〇(一八二七)年頃には鉄砲・槍などまで装備し、『ますます手のつけられない状態となった。博徒のことを長脇差(ながどす)というが、戦国時代に榛名(はるな)山の中腹にあった箕輪(みのわ)城の武士たちが好んで長い脇差(わきざし)を用いたところから、上州に集まった博徒たちが自然に長脇差で武装し、その別名となった』のであった。『博徒の集団は一家をなし、統率者を親分といい、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居という身分階級が定められていて堅い団結を信条としている。博徒の子分になるには、仲人(なこうど)をたて』た『厳粛な儀式』を経て、『「一家のため身命を捨てても尽くすことと、親分の顔に泥を塗るような行為はけっしてしないこと」を誓』ったとある。

「嘯集(しふしふ)」人々或いは同類の者どもを呼び集めること。また、呼び合って集まること。嘯聚(しょうしゅ)とも言う。

「上野(かうづけ)の堺(さかひ)へ入たるといふ」博徒のネットワークを通じてリアル・タイムで情報が伝わったことを指す。

「人家々々に亂入して搜索すること每日なり」言わずもがなであるが、主語は博徒である。

「吾と吾身を立隱(たちかく)れぬれども、兎角、安からず」博徒らが目に見えない高村源右衛門の影に怯え始め、不意打ちの捕縛を恐れて、逆に姿を隠してしまったのである。源右衛門の巧妙な神経戦の勝利である。

「熊ケ谷を引(ひけ)て」源右衛門は熊谷に密かに前線本部を置き、恐らくは隠密行動で配下の者もここにこっそりと集合させていたものであろう。でなくては、「十餘人」の罪人を徐々に捕縛して留置し、ここを引き払って江戸へ帰るに際して単独でその人数を連行することなどはとても出来ることではない。

「これにて盡(つき)たりとみへて、途中にて奪ふなどゝいふ事もなく」当該の盗賊団の輩葉はこれで掃討し尽くしたものと見えて、残党は全くおらず、途中で捕縛された連中を奪還に来るというような事態にも遭遇しなかった、というのであろう。

「壁を切破(きりやぶ)りて逃たることもありし」逮捕して熊谷で留置していた者の中には、牢の壁を突き破って逃げた者もいたということであろう。]

反古のうらがき 卷之一 きす釣

 

   ○きす釣

 きす釣は工拙によりて獲物多少あれば、釣道具・釣竿に至る迄六ケ敷(むつかしき)物なり。近來は左程迄六ケ敷事もなく、多く涌(わき)たる年は、はぜ同樣に釣ることもあれども、一體、釣にくき物也。故に釣竿の好(よ)きを選らみて、爭ひて買(かふ)に、價(あたい)、一竿、金壹步(ぶ)も出(いで)るよし。これを持て出(いづ)れば、衆にすぐれて獲物ある事なり。されども如ㇾ此(かくのごと)きは稀にて、皆、三、四匁(もんめ)位にて事を濟す者多し。獲物は其日の日並(ひなみ)によりて、大體には獲物あることぞかし。

 或士、釣りを好みて道具も相應なるを用ひ、獲物も相應に有りて、一日、快く樂(たのし)み、酒など取出(とりい)で數盃を傾け、氣げん一倍して釣(つり)けり。

 品川沖を東へと釣行(つりゆき)けるに、手ごたへして引上(ひきあぐ)るに、釣ばりとおもりと一具、かゝりたるにて、魚はなし。

 其儘に引上(ひきあげ)て、段々と引(ひく)に、糸、つきて、竿、出たり。

 又、これを引に、餘程、よき竿にて、高金(かうきん)の道具と見ゆる。

 大事に引上、竿の元に至れば、堅く握り詰(つめ)たる片腕、見へたり。

 其人も興醒(きようざ)めて見へしが、酒の力にか、膽太(きもふと)くも、其腕をとらへ、

「餘り、好(よき)竿なれば、おれがもろふ。」

と言(いひ)ざまに、腕を引離(ひきはな)ち突(つき)やりて、船を早めて乘(のり)かへしけり。

 よくよく見るに勝れし釣竿にて、つり合よし、思ふに此人、高金にて求めしが、如何(いかに)してか、過(あやま)ちて溺死するといへども、此竿の惜しさに、堅く握りて死(しし)けると思へば、

「吾も人も、同じ物好(ものずき)の餘り命を落すといへども、執着(しふぢやく)するならん。」

とて囘向(ゑかう)して、失張(やはり)、此竿を用(もちひ)て釣りに出(いづ)るよし、語り傳へしを聞(きき)ける。

[やぶちゃん注:展開の特殊性から、恣意的に改行した。全く同じ落語のネタ元を扱ったものでも、江戸趣味を気取った幸田露伴の、題名から見え見えの確信犯の、ヤラセ臭芬芬たる糞「幻談」なんぞより、遙かに絶妙の流れ(鱚釣りの当時のリアルな事情をさりげない枕としつつ、高価な竿を意識させて死者の執着を引き出し、好事家の、死者の執念より恐ろしい物欲がそれに勝ってしまうというオチを配する)を持った釣怪談である(私は露伴の怪談と称するものには一度としてリアリティも恐怖も感じたことがない人種である)。

「きす」スズキ亜目キス科Sillaginidaeの魚類で、シロギス Sillago japonica・アオギス Sillago parvisquamis・ホシギス Sillago aeol・モトギス Sillago sihama の四種が知られるが、単に「キス」と言えば、一般にシロギス Sillago japonica を指す。釣りも味わいもシロギスが一番であり、海釣りで正道である。まさにこのロケーションの品川芝沖は鱚釣りの名所であった。

「工拙」「巧拙」。

「涌(わき)たる年」鱚が沢山生じた年。

「はぜ」東京湾には条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae に属する多様な種が棲息するが、一般に東京湾内で「鯊(はぜ)釣り」の対象として昔から人気があり、天麩羅等にして美味いものは、ゴビオネルス亜科マハゼ属マハゼ Acanthogobius flavimanus ではある。

「金壹步(ぶ)」一歩銀であろう。天保八(一八三七)年に鋳造開始された天保一分銀が最初で、金貨である一分金と等価とされ、一両の四分一に相当した。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから問題ない。幕末期はインフレで貨幣価値が下がり、ネット記載では現在の七千七百十九円相当となるようだ。

「三、四匁(もんめ)」銀一匁は百六十五文であり、ネット記載の換算では当時、現在の百三十七円相当になるから、四百十一~五百四十八円相当。

「日並」プラグマティクなら、天候の良し悪し。別にその日の吉凶。総合的には日柄(ひがら)。

「氣げん」「機嫌」。

「つり合よし」竿を突き出した際のバランスを言っているのであろう。]

反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第一

 

  ○尾崎狐 第一

 

 鎗術師範伊能一雲齋は、予が先婦の叔父なりけり。築土(つくど)下に住す。門人もあまたもてり。

 其あたりに御旗本の門人ありて、其若黨も門人也。劍術も相應に出來たるよし。

 一日(あるひ)、忽然と狂氣して、大太刀引拔(ひきぬき)、あたるを幸(さいはひ)に切(きり)まくる。

 主人も是非なく、奧口(おくぐち)を引〆(ひきしめ)、門を鎖(とざ)して、狂人一人、玄關より表座敷・中(なか)の口のあたりを狂はせて、出向ふ者もなし。

 主人より使(つかひ)を以て伊能申越(まうしこ)すよふは[やぶちゃん注:ママ。]、

「御存(ごぞんじ)の家來某、狂氣致し、白刄を振𢌞し、手に餘り候也。何卒、とらへ玉わらんよふ[やぶちゃん注:総てママ。]主人より願ひ侍る。」

と也。

 伊能きゝて、

「是は存(ぞんじ)もよらぬ御賴(おたのみ)なり。それがし、是迄、鎗劍師範はいたせども、狂人を相手に無手取をせん心懸(こころがけ)なし。併(しかし)ながら、折角の御賴なれば、それがし、先(まづ)切られに參り申べし。各方(おのおのがた)、すかさず、御取押(おとりおさへ)被ㇾ成(ならる)べし。」

と、常の衣服に一刀を帶(おび)て、使の人とともに門より入、玄關に案内を乞ふ。

 狂人、其聲とともに走出(はしりいで)、玄關にて、大言(だいげん)して、

「誰(たれ)にても此内へ入らん者は眞二つなるべし。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、白刄を引提(ひつさげ)て玄關の敷臺に腰かけたり。

 伊能は何氣なき體(てい)にて玄關に通り、右の狂人と推並(おしなら)べて腰をかけ、右のかたに、

「むづ。」

と坐す。狂人、思ひの外、取もかゝらず、

「此刀の切(きれ)あぢ、今日、こゝろむべし。」

とて振𢌞し、スウチなどして狂ひけり。

 伊能、斜目(はす)に見やりて、

「寸、少々のびたれば、思ひの外、用に立(たた)ぬ事あるものぞかし。心して遣ひね。」

といゝければ、

「イヤ、吾には手頃也。」

といふ。

「見せ玉へ。」

といへば、

「いざ。」

とて、出(いだ)しけり。

 刀、請取(うけとる)と、其儘、遠く投捨(なげすて)、取(とつ)ておさへて組伏(くみふせ)たり。

 其時、人々、片影(かたかげ)より、一時に走寄(はしりよつ)て、終(つひ)に取押へける。

 此事、評判となりて、

「伊能は無手取の名人。」

など言(いひ)あへりしよし。

 伊能、大に憂ひ、

「狂人を相手に無手取をする不覺者やある。」

とて、いろいろと、

「無手取に非らず、賴まれたれば是非なく命を捨(すて)に出で、すき間ありし故、手取にせし事也。努々(ゆめゆめ)無手取などといふ事、云(いふ)べからず。」

と制しけるよし。

[やぶちゃん注:ここは、底本も改行している。]

 其後、これも門人の宅に、狐、出で、妖怪、やむ時なし。

「何卒、先生の武威を以て謐(しづ)め給われ[やぶちゃん注:ママ。]」

と申入る。

 伊能、聞て、

「是は目に見えぬ鬼神との爭ひ、鎗劍のほどこす所なし。修驗にても賴み玉へ。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]斷はれども、取用(とりもち)ひず。

「先(まづ)、兎角に一夕(いつせき)來りて、見屆けて玉(たまは)れかし。」

とて、終に引連れて其家に往(ゆき)けり【水道端と聞へし[やぶちゃん注:ママ。]。】。

 折節、冬の事なり、夜も永ければ、先づ、内に入て、四方山(よもやま)の物語して、一時餘(あまり)を經(ふ)れども、何もなし。

 主人、大に喜びて、

「扨こそ、先生の御武威におそれしか、一向に恠異なし。」

とて、皆、一同に稱しけり。

 伊能は、心の内に、

「未だ勝負もせぬ相手に恐るゝといふ道理なし。今に出(いづ)るに疑ひなし。餘りに左樣のことはいふ間敷(まじき)事。」

と制して、又、四方山のはなしに時移り、四つ過頃になる迄、何の事もなければ、

『今は家路におもむくべし。先(まづ)今夜は恠異なし。少しは、吾、來りし故にても有るや。』

と思ふ心、出(いづ)ると均(ひと)しく、二貫め斗(ばか)りの大石、伊能が鼻の先を掠(かす)めて、

「どふ。」

と落つ。

「これは。」

と、人々、驚く間に、茶碗・火鉢、飛廻(とびまは)り、ややしづまると思ふに、盆に盛(もり)たる蜜柑、一つづゝにころげて、牀(とこ)の間の下に竝ぶ。

 最後に、盆、ころげ出で、床の間の上に上(のぼ)ると均しく、右の下に並びたる蜜柑、十五、六、次第々々に飛上り、元の如く盆の上に山形に積上りたり。

 伊能、面目(めんぼく)なくて、

「吾は最初よりかくあらんと思ひつるに、果して夜の深(ふかま)るに隨ひ、怪異あり。宵の間(あひだ)の靜(しづか)なりしは、あてにならぬ事と思ひけることよ。」

と申(まうし)て立歸りけるとぞ。

 自(みづ)から語りけるよし。

 左(さ)れども、「一念の慢氣に百魔是に乘ずる」よしは、武人の常套語なれば、此話をかりて心の油斷・慢心を戒(いま)しめし作り話かもしらず。

 但し、尾崎狐の怪異は、珍らしからず。

[やぶちゃん注:「尾崎狐」(「おさききつね」と訓じているものと思う。次注参照)の「第二」はこの後の九話目に出る。臨場感を出すために、特異的に改行を施した。

「尾崎狐」底本の朝倉氏の注に『飼いならして、飼主の命により種々不思議なことをするう狐の意であるが、のち妖狐の意となった』とあるが、これは所謂、キツネの憑き物を指す「おさき」或いは「おさききつね」のことである。ウィキの「オサキ」によれば、『「尾先」と表記されることもある。「尾裂」「御先狐」「尾崎狐」などとの表記もある』。『関東地方の一部の山村で行われる俗信であり、埼玉県、東京都奥多摩地方、群馬県、栃木県、茨城県、長野県などの地方に伝わっている』。『多摩を除く東京には伝承が見られないが、これはオサキが戸田川』(現在の荒川の一部となっている蕨付近の流域の古称。江戸方から板橋宿及び志村の一里塚を過ぎた中山道は、ここを越えなければ、蕨(わらび)宿に辿り着けない。の中央附近(グーグル・マップ・データ))『を渡れないため、または関東八州のキツネの親分である王子稲荷神社があるため』、『オサキが江戸に入ることができないためという』。『もと那須野で滅んだ九尾の狐の金毛が飛んで霊となったものであり、九尾の狐が殺生石に化けた後、源翁心昭が祟りを鎮めるために殺生石を割った際、その破片の一つが上野国(現・群馬県)に飛来し、オサキになったとの伝説もある』。『名称については、九尾の狐の尾から生まれたために「尾先」だといい』、『曲亭馬琴らによる奇談集』「兎園小説」に『よれば、尾が二股に裂けているために「尾裂」だとあり』、『神の眷属を意味するミサキが語源との説もある』。『オサキの外観は土地や文献によってまったく違った特徴が語られている。曲亭馬琴』の「曲亭雑記」では、『キツネより小さいイタチに似た獣だとあり』、『群馬県甘楽郡南牧村付近ではイタチとネズミ、またはフクロウとネズミの雑種のようなもの、ハツカネズミよりやや大きいものなどといい、色は斑色、橙色、茶と灰の混合色などと様々にいわれ、頭から尾まで黒い一本線がある、尾が裂けているともいい』、『同郡下仁田町では耳が人間の耳に似て鼻の先端だけが白い、四角い口をしているなど、様々な説がある』。『身のこなしが早いために神出鬼没で、常に群れをなすという』。『オサキを持つ家をオサキモチ、オサキ屋』、『オサキ使いなどという』。『常には姿を見せず、金銀、米穀その他なんであれ心のままに他に持ち運ぶという。オサキモチを世間は避け、縁組することはなく、オサキモチどうしで縁組するという。オサキの家から嫁を迎え入れた家もオサキモチになるといわれたためであり、婚姻関係で社会的緊張の生まれる原因の一つとなることが多かった』。著者不詳の江戸の奇談集「梅翁随筆」に『よれば、家筋についたオサキはどんな手段を用いても』、『家から離すことができないとある』。『家ではなく個人に憑く場合もあり、憑かれた者は狐憑き同様、発熱、異常な興奮状態、精神異常、大食、奇行といった症状が現れる』と言い、また、『群馬県多野郡上野村ではオコジョを山オサキと呼び、よく人の後をついて走るものだが、いじめると祟りがあるという』。『同じく群馬県の別の村では、オサキは山オサキと里オサキに大別され、山オサキは人には憑かないが、里オサキの方は人に憑くという』とある。

「伊能一雲齋」(安永六(一七七七)年~嘉永七(一八五四)年)は江戸後期の槍術家で、江戸牛込の宝蔵院流の達人。名は由虎。上総貝淵藩の槍術指南となり、江戸藩邸で藩主林忠英(ただふさ)に仕えた。門弟には、かの水戸藩の儒臣で尊攘派の指導者藤田東湖や、勘定奉行兼海防掛として日露和親条約に調印し、外国奉行にも起用された幕政家川路聖謨(かわじとしあきら)が含まれている。また、神谷潤亭にならった一節切(ひとよぎり)尺八の名手でもあり、その普及に努めた。別号に無孔笛翁。底本の朝倉氏の注には筆者鈴木『桃野との関係については不明』とある。

「予が先婦の叔父なりけり」桃野には死別した先妻がいたか。

「築土」現在の新宿区津久戸町(つくどちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧口」家の奥の方へ通ずる出入り口。

「門」正門。

「中(なか)の口」屋敷の玄関と台所口の間にある入り口。

「よふは」「樣は」。

「無手取」読みは「むてどり」でよいか。得物(武器)を主たる法としては使用せずに、敵を討ち取る、組み伏せる術のことと採る。則ち、槍を用いたり、刀を抜いたりせずに(事実、彼はここでこの後、「一刀を帶(おび)て」向かっている)、今で言う、柔術や合気道のような技で、切創を与えずに捕縛することとする。

「取もかゝらず」突然の伊能の登場を気に掛ける様子もなく、何か有意に向かってくる感じや色を成して身構える挙動をしない、の意で採る。則ち、特に「取り掛かる風情もなく」「スウチ」底本の朝倉氏の注には『素打』とある。ネットのたのもうや@武道具店編の「剣道用語辞典」のこちらを読むと、剣道で正面の何も存在しない空間を力を籠めて「普通に対象物体を斬る運動をする」ことを指すようだ。我々が知っている「素振り」の「振る」というのは、斬るのではなく、「棒の一端を持って他の一端を動かす運動」を指し、意外かも知れぬが(私は一応、中学以来、大学まで剣道を選択してきた。ただ、幼年時に左肩関節の結核性カリエスに罹って変形しているため、遂に真っ直ぐに素振りをすることは出来なかった)、本来は自分の力を意識的に作用させて空間を斬っているのではない。同辞典によれば、『剣道で一番嫌うことは空間打突であり、空間で打突すれば』、『必ず』、『無駄な力でこれを空間でとめなければならない。その無駄力のブレーキが剣道上達の障害をなすものであり、それがいけないのである。素振りはどんなに早く激しくやってもよいが』、『素打ちはいけない』とあり、『今でも正面打ちを分解して一、二、三と掛声をかけながら』、『昔式の空間打突をやらせているところがあるが』、『これは即日改めるべきであろう』。『重心の上下動は剣道では禁物であり、正面打ちや上下振りも重心を落着けてすり足でやることが望ましい』とある。

「斜目(はす)」「なのめ」「ななめ」でもよいが、間延びして私は厭だ。

「寸、少々のびたれば」この「寸」は「ごく僅かな長さ」の意で採り、刀が(現在の自分が使うのに最も適した長さより)ごく僅かに長いだけでも、の意で採る。

「謐(しづ)め」「静謐(せいひつ)」の「謐」。「謐」も「静か。ひっそりと静かなさま。静かで平隠なさま」の意。

「水道端」神田上水路のあった現在の文京区小日向から東の文京区水道附近。(グーグル・マップ・データ)。

「四つ過頃」定時法ならば午後十時過ぎ。不定時法でも季節が冬と明記されているので、同時刻である。

「二貫め」七キロ五百グラム。]

2018/08/21

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅱ) 大長寺(他) / 岩瀨村~了

 

[やぶちゃん注:本条は非常に長いので、読み易さを考えて鍵括弧や中黒を使用し、注を本文に、注など不要な方は飛ばして読めるよう、ポイント落ちで入れ込んだ。また、多数登場する鎌倉御府外の寺名や関係僧及びその出典等については、煩瑣なだけで、必要とする人も限りなく少数であろうからして、而も本文自体が読み難くなることから、それ等は原則、注さないこととする。大長寺はここ(グーグル・マップ・データ)。最初に、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像から、添え図である「大長寺境内圖」を示し、そのキャプションを中央奥の仏殿から反時計回りに電子化しておく。]

 

Daityoujizenzu

 

   大長寺境内圖

[やぶちゃん注:右端中央にも同タイトル・キャプションがある。]

仏殿

吉祥水

北條氏墓

門山塔[やぶちゃん注:「開山塔」の誤記か。]

三社權現社

庭松院

中門

銀杏樹

鐘樓

方丈

梅 井

心蓮社蹟

 

○大長寺 龜鏡山護國院と號す。淨土宗〔京知恩院末。〕。天文十七年[やぶちゃん注:一五四八年。]五月の創建にして開山は存貞[やぶちゃん注:「そんてい」。]〔鎭蓮社感譽願故と號す。小田原の人なり。大道寺駿河守政繁の甥、大永三年[やぶちゃん注:一五二三年。]三月生る。成人の後、小田原傳長寺に投じて剃度し、後、飯沼弘經寺に掛錫して、法を鎭譽に嗣。舊里に歸て、傳聲寺に住す。天文十七年、當寺を建。又、四十八願[やぶちゃん注:阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた四十八誓願。]に應て、四十八寺を創し、永祿六年[やぶちゃん注:一五六三年。]、增上寺に轉住し、檀林の掟制三十三條を定。是より宗風、煽に起る。又、別時中[やぶちゃん注:別時念仏。特別の時日や期間を定めて称名念仏をすること。]、靈夢を感じ、傳法の規繩、法問の則儀を定め、一派の祖と稱せらる。其後、當寺二世靈譽圓治に、緣山[やぶちゃん注:増上寺のこと。増上寺の山号は三縁山。]の職を讓り、更に地方に遊化し、天正二年[やぶちゃん注:一五七六年。]九月當寺に歸遁し、明年五月十八日寂す。則、寺域に葬る。碑銘なきを以て、靈山寺前住秀海、其事實を撰し、文政四年[やぶちゃん注:一八二一年。]、現住單定、碑を建。【傳燈總系譜】曰、鎭蓮社感譽存貞、號願故、相州小田原人。北條氏家臣大道寺某の甥也。初投同所傳肇寺剃髮、下于武江、師事杲譽、長後皈古里、住傳肇寺。天文中、爲堪檀越大道寺駿河守母追福、於武州河越、建蓮馨寺。又、於同州、開建平方馬蹄寺・小林寺・淸長命寺・高澤大蓮寺・見立寺、又、於信州更級郡綱島開安養寺。永祿六年、爲江增上寺第十世。傳法照々、遂成一派。天正初、仍檀主請、爲相州鎌倉郡大長寺及深谷專念寺開山第一祖。天正二年五月十八日寂す。〕、開基は玉繩城主北條左衞門大夫綱成[やぶちゃん注:北条綱成(つななり/つなしげ 永正一二(一五一五)年~天正一五(一五八七)年。後北条氏家臣。ウィキの「北条綱成」によれば、玉繩城主として北条家主力部隊「五色備(ごしきぞな)え」の内の最強として知られた「黄備(きぞな)え隊」を率いた(黄色地に染められた「地黄八幡(じきはちまん)」という旗指物を使用したことで知られる)。綱成与力衆は「玉縄衆」とも呼ばれた。父は今川氏家臣福島正成とされ、父の死後、『小田原へ落ち延びて北条氏綱の保護を受けたといわれる。経緯については、大永元年』(一五二一年)『に飯田河原の戦いで父・正成ら一族の多くが甲斐武田氏の家臣・原虎胤に討ち取られ、家臣に伴われて氏綱の元へ落ち延び近習として仕えたとも』、天文五(一五三六)年に『父が今川家の内紛である花倉の乱で今川義元の異母兄・玄広恵探を支持したために討たれ、氏綱の元へ落ち延びたという』二『説がある』。『氏綱は綱成を大いに気に入り、娘を娶わせて北条一門に迎えるとともに、北条姓を与えたという。綱成の名乗りも、氏綱から賜った偏諱(「綱」の字)と父・正成の「成」を合わせたものとされる。その後、氏綱の子である北条為昌の後見役を任され』、天文一一(一五四二)年に『為昌が死去すると、年長である綱成が形式的に為昌の養子となる形で第』三『代玉縄城主となった』。『しかし、福島正成を父とする説をめぐっては異論があり、黒田基樹は『北条早雲とその一族』の中で上総介正成という人物は実在しないとしており、小和田哲男も『今川氏家臣団の研究』の中で福島上総介正成という名前は古記録や古文書に出てこないとしている。そのため』、『綱成の実父については、黒田(『北条早雲とその一族』)は』、大永五(一五二五)年の『武蔵白子浜合戦で戦死した伊勢九郎(別名・櫛間九郎)とし、下山治久(『後北条氏家臣団人名辞典』)も同様に櫛間九郎の可能性を挙げている』。『一方で高澤等は武蔵国榛沢郡の武蔵七党猪俣党野部(野辺)氏の後裔と考察している』。天文六(一五三七)年)より『上杉家との戦いをはじめ、各地を転戦する。北条氏の北条五色備では、黄備えを担当する』。天文一〇(一五四一)年、『氏綱が死去して北条氏康が家督を継いでも、その信頼が変わることはなかった』。特に天文十五年の『河越夜戦では、半年余りを籠城戦で耐え抜いた上に本軍と呼応して出撃し』て『敵を突き崩すなど、北条軍の大逆転勝利に大功を立てた。この功績で河越城主も兼ねることになったとされる。その後も北条家中随一の猛将として活躍』、弘治三(一五五七)年の『第三次川中島の戦い(上野原の戦い)では武田方への援軍を率いて』、『上田まで進出し』、『上杉謙信勢を撤退させ、里見義弘・太田資正との国府台合戦では奇襲部隊を率いて里見軍を撃砕し』ている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄一二(一五六九)年十月六日の『武田信玄との三増峠の戦いでは、綱成指揮下の鉄砲隊が武田軍の左翼大将浅利信種を討ち取ったという』。元亀二(一五七一)年の『駿河深沢城(静岡県御殿場市)の戦いも武田方に抗戦している』。同十月に『氏康が病死すると、綱成も家督を子の氏繁に譲って隠居し、剃髪して上総入道道感と名乗った』。病いのために享年七十三で死去、墓所は私の住む鎌倉市植木にある彼の開基になる曹洞宗陽谷山(ようこくざん)龍寶寺。]なり〔寺傳に、綱成、存貞の高德を欣慕し、城中に請て、功德鎭護の利益を問ふ。貞、無量壽經を説。綱成、兼て八幡を信ず。彌陀は其本地たるを以て、深く感喜し、一宇を建て、治國安民の祈願所とせんことを約す。偶、當所の靈地を得て買得し、山林東西三町餘、南北五町餘の寺域及餉田を附す。因て當寺を創し、感譽を開山第一祖とすと云。〕。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]九月十日、綱成の室、卒しければ〔法號大項院光譽耀雲と云ふ。〕、寺域に葬り、更に二十貫文の地を寄附す。綱成は天正十五年[やぶちゃん注:一五八七年。]五月六日卒す〔年七十三。道感院哲翁圓龍と號す。〕。二世は圓治〔秀蓮紅[やぶちゃん注:「紅」は別の刊本でもそうなっているが、これはどう見ても原典の「社」の誤記ではないかと強く思う。]雲譽と號す。永祿九年[やぶちゃん注:一五六六年。]、增上寺に轉住す。〕、三世は普光觀智國師〔貞蓮社源譽存應と號す。天正十二年[やぶちゃん注:一五八四年。]、亦、增上寺に轉ず。〕、四世は源榮〔星蓮社曉譽存阿凝信と號す。觀智國師の弟子。〕なり[やぶちゃん注:浄僧源栄(げんえい 天文二〇(一五五一)年~寛永一〇(一六三三)年)は。ウィキの「源栄」によれば、『俗姓や出自は不明だが、徳川家康に気に入られ、数々の寺の開山を務めた。源栄と家康の仲は親しい物であったらしく、駄洒落のやり取りをした記録』(本条に出る花下連歌的付合を指す)や、『数奇者として知られる源栄に茶器七種を下賜した記録が残る』とある。事蹟はリンク先に年譜形式で詳しいので参照されたい。戦後の農地改革までは門前の「家康お杖先の田」という農地があったという。例によって家康が鷹狩りの際、門前で杖を振り回し、その杖で指した土地を即座に大長寺に与え、それは凡そ三町歩(三ヘクタール)にも及んだという(「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)に拠る)。]。榮、住職たりし時、天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]小田原の役に、北條左衞門大夫氏勝[やぶちゃん注:北条氏勝(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)は下総国岩富藩初代藩主。北条氏繁の次男・北条綱成の孫。参照したウィキの「北条氏勝」によれば、『発給文書による初見は』天正一〇(一五八二)年五月に出された「氏勝」と署名されたもので、この頃に兄・氏舜の死により、家督を継承したとみられる。翌』天正十一年の『文書からは玉縄北条家代々の官途名である「左衛門大夫」を名乗っている』。天正十年、』伊豆大平新城の守備につき、武田方の戸倉城攻略に参加。同年』六月に勃発した「本能寺の変」後、『甲斐・信濃の領有を巡って』、『北条氏が徳川家康と争った際には同族の北条氏忠と共に御坂峠に進出したが、黒駒での合戦で家康の家臣鳥居元忠・三宅康貞らの軍勢に敗れている(天正壬午の乱)』。翌年には『上野厩橋城に入り』、四『月の下野皆川城や太平山城での合戦に出陣』、二年後の天正十四年にも『下野に出陣している』。天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城する。落城を前に氏勝は自害を図るが、家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出』、『本拠である相模玉縄城へ戻』って籠城した。その後、『玉縄城は家康に包囲されるが』、『戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門と、その一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により』(と大長寺の源栄をウィキは全く記さない。本文後文参照)、同年四月二十一日に『降伏した。以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。秀吉も同日に出された在京の真木島昭光あての書簡で氏勝の降伏を許可した件に触れて、前将軍足利義昭に対して豊臣方が優勢である事の言伝を依頼している』。『以後、家康に下総岩富』一『万石を与えられて家臣となり、領内検地などの基盤整備を進める一方』、「関ヶ原の戦い」などで功績を重ね、『徳川秀忠からの信頼も厚かった』とある。]、玉繩に籠城して降らず。當寺、檀緣の由緒あるを以て、東照宮の内命を蒙り、大應寺〔植木村龍寶寺、是なり。〕住僧良達と謀り、終に降參をなさしむ〔【北條五代記】等には、此事、良達のみ扱しと見ゆ。〕。御打入[やぶちゃん注:先に掲げた通り、玉繩城では包囲されたが、事実上の戦闘は行われず、無血開城でされたので、これは形式的な謂いである。]の後、此邊、御放鷹の時、兼て榮の才學を知し召れ[やぶちゃん注:「しろしめされ」。]〔三州大樹寺[やぶちゃん注:特異的に注する。現在の愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗成道山(じょうどうさん)松安院大樹寺大樹寺。徳川(松平)氏菩提寺。歴代当主の墓や歴代将軍(「大樹公」。「大樹」は征夷大将軍の唐名。後漢の時、諸将が手柄話をしている際、今に光武帝の功臣として知られる馮異(ふうい)は、その功を誇らず、却って大樹の下に退いた、という故事に基づく(「後漢書」「馮異伝」))の位牌が安置されている。]登譽より聞え上、兼て謁し奉りしことありしとなり。〕、屢、當寺へ[やぶちゃん注:「ちゆうひつ」。先払いして(蹕)立ち寄ること()。]あり、法儀を御聽聞あらせられ、舊に因て寺領をも寄賜ふ〔舊領は、玉繩岡本村なりしを、此時、願上て、門前にて替賜ひしと云ふ。〕。天正十九年、改て寺領五十石の御判物を賜ふ〔文祿元年三月の水帳[やぶちゃん注:「みづちやう」は「御図帳」の当て字で「検地帳」のこと。]を藏す。所謂、大半小[やぶちゃん注:「だいはんしやう」は本邦の古い面積単位。「大」は一反の三分の二・「半」は二分の一、「小」は三分の一で、当時の一反(現在の約四百坪・十アール相当)は三百六十歩(ぶ)であったので、それぞれ二百四十歩・百八十歩・百二十歩であった。一段の水田が畦によって六等分されているような場合に便利な単位であった。]の步數なり。〕。寺號、初は「大頂」と記せしを〔所藏雲版[やぶちゃん注:後の「【寺寶】」に図とともに掲載されている。]、天文十七年の銘及び天正小田原陣の制札に、「大頂寺」と記す。〕御判物の文面に今の文字に記し給ひしより改むと云〔傳云、東照宮、初て成せられし時、山號を御尋あり、龜鏡山と言上せしかば、僧は大長壽なるべしと、上意ありしとぞ。かゝる由緒を以て今の文字に改給ひしとなりと云ふ。〕又、或時、俄に成せられしと聞て、榮、急ぎ、門外に迎奉り、御放鷹にやと申上しを聞召れ、御戲に「南無阿彌陀佛鳥は取らざり」と上意ありしかば、榮、取敢ず、「有がたのえかうえかうで日の暮るゝ」と附申せしを興じさせ給ひ、扈從の人々に「記憶すべき」との命ありしとなり、慶長十三年[やぶちゃん注:一六〇八年。]、江戸營中にて淨蓮二宗論議の時、榮、本多上野介正純と共に奉行せられしと云〔「淨土日蓮宗論記」依上意以大長寺上人召高野山賴慶僧都云々と見ゆ。〕。貞宗院尼〔寶台院殿[やぶちゃん注:徳川秀忠の生母西郷局(お愛)の法号。彼女は天正一七(一五八九)年の没であるが、この号は三十九年後の寛永五(一六二八)年に与えられたもの。]の御實母。〕、玉繩に隱栖の頃、殊に榮を歸依せられしかば、戒を授け、遺言に任せ、導師を勤む。慶長十六年[やぶちゃん注:一六一一年。]、尼の爲に貞宗寺[やぶちゃん注:浄土宗玉繩山珠光院貞宗寺。本。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の町内である鎌倉市植木にあり、拙宅のごく直近。御建立の時、榮を開山に命ぜられ、當寺より兼帶す。同年十一月、東照宮、藤澤御殿[やぶちゃん注:藤沢宿にあった徳川将軍家御殿(別荘)。現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間(の附近(グーグル・マップ・データ))にあった。ウィキの「藤沢御殿」によれば、構築は藤沢宿が置かれる以前の慶長元(一五九六)年頃と推定され、明和三(一六五七)年に江戸で発生した「明暦の大火」に伴う江戸城再築のために取り払われた。]に御止宿の時、榮を召させられ、法義御談話あり。且、諸堂修理のため、銀若干を賜ふ〔【駿府記】にも、此事を載せ、源榮を幻惠に作る。曰、慶長十六年十一月十八日、路次御放鷹御着藤澤、及夜增上寺弟子玄惠上人出仕、有佛法御雜談、則、銀百枚賜之、彼堂以下上葺之料也。〕。又、江城或は駿府等へも屢召され、修學料三百石を賜ふ〔【洞漲集】にも此事を載す。〕。故に榮を中興と稱す。同十九年、三州大樹寺に轉住せり〔源榮、當寺住職中、江淺草正姨覺寺を中興し、當國高座郡座間宿、宗仲寺[やぶちゃん注:三度出るのでこれは注しておく現在の神奈川県座間市座間に現存する浄土宗来光山峯月院宗仲(そうちゅう)寺ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の本寺の解説によれば、この地の領主内藤清成が、慶長八(一六〇三)年に実父竹田宗仲の菩提を弔うため、この大長寺第四世源栄上人を開山として創建したと伝える。但し、『当地には』、『平安時代に宗仲寺の前身として伝えらる良真院、鎌倉時代には渋谷道場と呼ぶ修行場があり、その跡に当寺が建立されたと考えられてい』るとあり、元和三(一六一七)年の家康の柩を久能山から日光へと遷御する際には休息所として利用されたという。慶安二(一六四九)年には寺領七石四斗の『御朱印状を受領し』ているとある。]の開山となり、兼住す。元和二年[やぶちゃん注:一六一六年。]四月六日、大樹寺より駿府に召され、御遺命を蒙り、同四年、病に依て宗仲寺退隱し、寬永十年[やぶちゃん注:一六三三年。]十一月十日、同寺にて寂す。年八十三。〕。本尊、三尊彌陀〔彌陀は長二尺三寸。運慶作。[やぶちゃん注:運慶作は誤伝。但し、南北朝期の名品ではある(非公開)。]〕及如意輪觀音〔定朝作。長一尺。〕を置、又、大頂院[やぶちゃん注:大頂院(永正一三(一五一六)年?~永禄元(一五五八)年)は北条氏綱の娘で、玉繩城城主北条綱成の正室の戒名の院号。名は不詳。法号は大頂院光譽耀雲大姉。後に出る北条氏繁の母。]の木像〔一尺□五寸五分。〕、東照宮の御神影〔大猷院の御筆。增上寺十七世、照譽、奉納す。裏書に、「奉納大長寺。東照宮大權現御影。右家光公の御筆也。增上寺照譽華押」あり。〕、道幹君[やぶちゃん注:徳川家康の父松平広忠(大永六(一五二六)年~天文一八(一五四九)年)のこと(法号の一部)。]の御牌〔東照宮の仰により、安置し奉れりと云。牌面、昔は「瑞雲院應政道幹大居士淑靈」とありしを、東照宮二百回忌に、御代々の尊牌御厨子等、修復を加へ奉りし時、御贈官に改、「大樹寺殿贈亞相應政道幹居士」と記せり。〕、御代々の尊牌、及、傳通院殿[やぶちゃん注:徳川家康の生母於大の方。]・崇源院殿[やぶちゃん注:浅井長政三女であったお江(ごう)。母は織田信長の妹お市。三度に嫁したのが徳川秀忠。]・寶臺院殿の御牌、貞宗院尼・雲光院尼[やぶちゃん注:家康の側室。名は須和。号は阿茶局。]等の牌を安ず。寬永十年、增上寺照譽〔十七世。〕、御供養金〔東照宮・台德院[やぶちゃん注:徳川秀忠。]・大樹寺殿、御供養料三十兩。〕、及、三祖〔感譽・雲譽・觀智國師を云。三代相繼て、增上寺に轉ず。〕の供養金〔三十兩。〕を寄附す〔後年に至ても退轉なかるべきの文書あり。〕。佛殿に大長壽寺の額を掲ぐ〔寶永七年[やぶちゃん注:一七一〇年。]、知恩院尊統法親王[やぶちゃん注:有栖川宮幸仁親王の皇子。]、江の旅舘にて記す。〕。方丈は大頂院及北條氏繁室〔七曲殿と號す。〕[やぶちゃん注:七曲殿(ななまがりどの 生没年不詳)は北条氏康の娘で、従兄弟である玉縄城城主北条氏繁の正室となった。名は不詳。私の家の直近、玉繩城大手口七曲坂(私が役員を務める植木公会堂はまさにここにある)付近に居住したため、かく古呼称された。彼女の子である氏繁の次男が、先に示した玉繩無血開城をした北条氏勝である。]の殿宇を移し建しものと云。

[やぶちゃん注:以下は連続(各項の後は一字空け)しているが、読み難いので、各項ごとに改行した。]

【寺寶】

△四季詠歌短册四枚〔智恩院[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]

△詩箋一枚〔春は、後柏原院[やぶちゃん注:後柏原天皇(ごかしわばら 寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年)は室町から戦国期の天皇]、夏は、九條忠榮公[やぶちゃん注:九条幸家(天正一四(一五八六)年~寛文五(一六六五)年)。藤原氏摂関家九条流九条家当主。関白・左大臣。忠栄(ただひで)は初名。]、秋は仙洞[やぶちゃん注:不詳。春を書いたとされる後柏原天皇は後土御門天皇の崩御によって即位しており、生前に譲位して上皇にはなっていない。]、冬は、八條桂光院[やぶちゃん注:八条宮智仁親王(天正七(一五七九)年~寛永六(一六二九)年)八条宮(桂宮)家の初代、正親町天皇の孫で、誠仁親王第六皇子。]の筆と云。〕

△一枚起請一幅〔建曆二年[やぶちゃん注:一二一二年。]正月廿三日、源空[やぶちゃん注:法然。]が淨宗の安心起行、此一枚に至極する事を示せしものにして、靑蓮院尊鎭法親王[やぶちゃん注:(永正元(一五〇四)年~天文一九(一五五〇)年)は後柏原天皇の皇子。東山知恩院と百万遍知恩寺との本末争いに関わって、一度、青蓮院門跡を離れたが、後に帰住し、天台座主となった。]の眞蹟なり。〕

△短册一枚〔同筆。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]、大頂院卒せし頃、牌前へ手向し歌と云。〕

△山越彌陀二尊畫像一軸〔惠心筆。大道寺殿駿河守政繁寄附。〕[やぶちゃん注:「山越彌陀」は「やまごえのみだ」「やまごしのあみだ」と読む。阿弥陀如来の来迎図の一種。阿弥陀如来と菩薩とが山の向こうから半身を現して念仏する人のために来迎し、極楽に救いとろうとする様相を描写したもの。この図様は中国敦煌の壁画の中に既にあるが、本邦では浄土教のチャンピオンで「往生要集」で知られる恵心僧都源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)が比叡山横川(よかわ)で感得した形を伝えたものと伝える(ここは主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。「大道寺政繁」(天文二(一五三三)年~天正一八(一五九〇)年)は後北条氏家臣で北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた。駿河守は通称。ウィキの「大道寺政繁」によれば、『大道寺氏は平氏とも藤原氏とも言われるが、代々末裔では「平朝臣」を名乗っている。大道寺氏は後北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた』。『諱』『の「政」の字は氏政の偏諱を賜ったものだとも言われている(政繁の息子たちも氏直から』一『字を賜っている)。内政手腕に優れ、河越城代を務めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている』。『父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にも当たっていたと伝えられ』、『軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦いや神流川の戦いなど』、『北条氏の主要合戦のほとんどに参戦して武功を挙げた』。天正一〇(一五八二)年、『甲斐国の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上野国を』、『武田氏滅亡戦の余波のまま』、『織田信長が領有した。しかし同年、本能寺の変が起こり』、『信長が討死して織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野国を奪還し、逆に甲斐・信濃へ侵攻する(天正壬午の乱)。政繁は信濃小諸城主とされ』て、『最前線を担当』、『徳川家康と対峙するが、北条と家康の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上げ』た。『上野松井田城の城代であった』『政繁は』、天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、松井田が中山道の入り口であることから、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが、兵力で劣勢にあり敗北した。そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。水脈を断たれた上』、『兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した』。『その後、豊臣方に加えられ』、各地での旧主『北条氏の拠点攻略戦に加わっている。特に八王子城攻めにおいては、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し』、『最も働いたとされている』。しかし、七月五日の小田原城陥落後の同月十九日、『秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく』、『開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、北条氏の中心勢力を一掃させたかったなど諸説あり)、自らの本城である河越城下の常楽寺(河越館)にて切腹を命じられた』。『一説には江戸の桜田で処刑されたともいわれる。大道寺氏は政繁の死によって一旦』、『滅亡した』とある。]

△涅槃像一軸〔山角紀伊守定勝室寄附。〕[やぶちゃん注:(やまかどさだかつ 享禄二(一五二九)年~慶長八(一六〇三)年)は後北条氏、後に徳川氏家臣。紀伊守は通称。ウィキの「山角定勝」によれば、『北条氏政の側近を務め、その子・氏直の代に奉行人・評定衆として活躍した』。天正一〇(一五八二)年に『徳川家康と氏直が講和し、家康の娘・督姫が氏直と婚姻する際に』は『媒酌を務め』、天正十四年には『家康への使者として派遣されている』。天正十八年の『小田原征伐で小田原城が開城した後は氏直に従い』、『高野山に上った』。翌十九年に『氏直が没した』(氏直は翌天正十九年八月に秀吉と対面、赦免されて河内及び関東に於いて一万石を与えられ、豊臣大名として復活たものの、十一月に大坂で病死した。享年三十、死因は疱瘡と伝える)『後は徳川家康に仕えて相模国で』千二百『石を与えられている』。『隠居して』後、享年七十五で死去した。『嫡男・政定、次男・盛繁も徳川家康に旗本として仕えた』とある。前注の同じ後北条家臣大道寺政繁とは明暗を分けているのが、頗る対照的である。]

△佛舍利七粒〔文政三年、釋迦の座像を作りて、其れ腹籠とす。事は傳來の記に詳なり。〕[やぶちゃん注:「文政三年」一八二〇年。「腹籠」「はらごもり」と読む。仏像の腹中に入れ籠(こ)めてあることを言う。一般には製作札・小さな観音像・経典などが封入されていることが多い。「傳來の記」本書ではカットされている。]

△九條袈裟一領〔紺地の金襴なり。觀智國師の傳衣と云。〕[やぶちゃん注:「觀智國師」先に出た通り、本大長寺三世普光観智国師。]

△倶利伽羅龍墨畫一軸〔巨勢金岡の筆と云。北條氏康寄附。〕[やぶちゃん注:「倶利伽羅龍」不動明王の立像が右手に持つ倶利迦羅剣(くりからけん)は貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣であるが、その剣には倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって巻き纏いついてるが、それを描いたものである。「巨勢金岡」(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観十(八六八)年から十四(八七二)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室(おむろ)で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされるとか、朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わるが、その伝承の一つに、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしようという。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると、二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと、飛んで来て、絵の中に再び、納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり、筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であった、というエピソードが今に伝わる。彼の伝説は各所にあり、近場では現在の金沢八景の能見堂跡のある山に登り、その景観を描こうとして、余りの美景、その潮の干満による自在な変化に仰(の)け反(ぞ)って筆を擲った、という「筆捨松」の話柄は明らかにこうした伝説のありがちな変形譚であって、実話とは信じ難い。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(一)」同「筆捨松」を参照されたい。]

△説相箱一箇〔蓮・菊・蒲萄[やぶちゃん注:「葡萄」に同じい。]・瓜・唐草等の彫あり。小田原彫と云。氏康室寄附。寺記に、「氏康公御臺樣御寄附、法器七品之内」とあり。[やぶちゃん注:「小田原彫」不詳。少なくとも、現代には残っていない模様である。]

 

Daityoujidouunnbann

 

[やぶちゃん注:銅雲板の図。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。以下に図の刻印を電子化しておく。「旹」は音「ジ」で訓「とき」、「時」と同義。「天文十七戊申」(つちのえさる)年は一五四八年。□は私には判読出来なかった。ありがちなのは「歳」だが。識者の御教授を乞うものである。]

 

 相摸國東郡岩瀨邑

寄進龜鏡山護國院大頂寺

         如耒前

 

   施主

   北條左ヱ門大夫綱成

旹天文十七戊申□五月十日

 

△銅雲板一面〔長二尺六寸、幅二尺一寸五分。北條左衞門大夫綱成寄附。其図上の如し。〕[やぶちゃん注:前出。長さは約七十八・八センチメートル。幅は約六十三・二センチメートル。但し、残念ながら、この雲板は明治一六(一八八三)年に発生した火災(「鎌倉市史 社寺編」(昭和五四(一九七九)年第四版吉川弘文館刊)では明治十五年十二月とするが、先に示した新しい「こども風土記」版の記載を採用する)で旧本堂(現在のものは明治四四(一九一一)年の再建)とともに焼失し、現存しない。

△鎗二筋〔大道寺駿河守政繁所持と云。下に品同じ。〕

△轡一口

△鐙一掛

△鎗一筋〔北條新左衞門繁廣所持。〕[やぶちゃん注:(天正四(一五七六)年~慶長一七(一六一二)年)はウィキの「北条繁広」によれば、『北条氏繁の五男』とされ、『母は北条氏康の娘の七曲殿とされている』ものの、『年齢的に違うと』もされる。『兄である下総岩富藩主・北条氏勝の養子となる』。通称を新左衛門尉と称した。『小田原征伐では兄とともに伊豆国山中城で奮戦するが、敗退して相模国玉縄城で』、氏勝とともに『徳川家康に降伏した』。その後、『家康に一旦は仕えたものの、嫡男を失った氏勝に乞われ』、『その養子となり、兄の下総国岩富城に入る。しかし、これに対して不満を抱く家臣もおり』、慶長一六(一六一一)年)に『氏勝が死亡すると、反対派は秘かに家康の甥にあたる氏重を養子に迎えて家督を継がせ』た。『これに激怒した繁広は家康に訴訟』を起こしたが、その最中の翌慶長十七年六月に『駿府において死去した』。享年三七。『家康は繁広の』四『歳になる嫡男・北条氏長を召しだし』、『別個に』五百『俵取の旗本として遇した。北条氏長は後に甲州流軍学の学者として有名に成り、軍学北条流兵法の始祖と成った』。『菩提寺は鎌倉市大長寺(祖父地黄八幡北条綱成開基の寺)で』あるとし、そこで、大長寺は大河内松平家(摂津源氏源頼政の孫顕綱の後裔と称した一族で、室町時代には三河吉良氏に家老として仕え、江戸時代の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となって以後は大河内松平家と称した。大名・旗本として複数家あって、「知恵伊豆」と称された老中松平信綱などを輩出した)の菩提寺でもある、と記す。]

△制札一通〔豐太閤小田原陣の時、出す所なり。「相摸國東郡大頂寺」と記す。〕。此餘、名僧の筆蹟、古畫幅等、若干あり。

△三社權現社 中央に東照宮〔御座像三寸九分。源榮作。御臺座の裏に「爲報答神君之洪恩、彌陀名號一唱一刀、謹彫刻神影二軀而奉安之大長寺・宗仲寺、以永祝禱天下泰平矣。元和六年[やぶちゃん注:一六二〇年。]庚申四月十一日功畢 源榮」と彫す。〕、右に熊野、左に金毘羅を安置して鎭守とす。

△道祖神社 稻荷社〔豐岡稻荷と號す。〕 社稷明神社[やぶちゃん注:「社稷」は「しやしよく(しゃしょく)」と読み、「社」は「土地神を祀る祭壇」、「稷」は「五穀の神を祀る祭壇」の総称。大陸渡来の神で、元来は天壇・地壇や宗廟などとともに中国の国家祭祀の中枢を担った。元は本邦の産土神や田の神と集合したものと思われる。]

△鐘樓 文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。先に示した「鎌倉市史 社寺編」も文政三年だが、前掲の「かまくらこども風土記」は文政二年とする。]、現住、在譽單定、再鑄す。[やぶちゃん注:本「新編相模国風土記稿」(大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂)の成立は天保一二(一八四一)年である。]

△銀杏樹 本堂の前にあり。東照宮御手植と云傳ふ。[やぶちゃん注:残念ながら、先に示した明治一六(一八八三)年の火災で旧本堂とともに焼失、現存しない。]

△吉祥水 開山感譽、當寺草創の時、水に乏し。加持して此水を得たり。今に至て久旱にも涸れずと云ふ。

△梅ノ井 是も名水なり。

△北條氏墓 五基あり。一は北條綱成の室〔氏綱の女なり。牌に「大頂院殿光譽耀雲大姉 永祿元稔[やぶちゃん注:一五五八年。「稔」はしばしば見られる「年」の替え字。]戌午九月十日」〕、一は北條新左衞門尉繁廣〔表に「泰淸院殿惠雲常智大居士 慶長十七子天六月八日」、裏に「北條常陸介氏繁男 新左衞門尉繁廣」と彫す。〕、一は北條氏繁の室と云〔七曲殿と號す。五輪塔にて鐫字なし[やぶちゃん注:「鐫字」は「せんじ」。彫った字のこと。]。〕、一は「水月妙淸大姉」と彫る〔何人たるを傳へず、年月も詳ならず。下、同じ。〕。一は鐫字なし。

△支院

庭松院〔實應建と云。應は寬永十六年[やぶちゃん注:一六三九年。]九月十日寂す。本尊は彌陀座像長一尺三寸五分。宅間作。古は村内にありて、末寺なりしを、後年、境内に移す。其舊地、今に存す。〕[やぶちゃん注:「宅間」平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師として、しばしば登場する。]

心蓮社蹟〔正保(しやうほう)元年[やぶちゃん注:一六四四年。]、本坊六世永感、開基す。本尊彌陀は長二尺一寸。惠心作。今、假に本坊に置く。〕

△中門 四足門なり〔右は二天門なりしを、永應二年[やぶちゃん注:一三九五年。]正月回禄の後に改造す。〕。「護國院」の額を扁す〔文政五年、智恩院尊超法親王の筆。〕。[やぶちゃん注:「二天門」左右に一対の仁王像を安置した寺の中門。仁王の代わりに多聞天と持国天を置く場合もある。「永應二年」一三九五年。「文政五年」一八二二年。「尊超法親王」(享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五二)年)は有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の第八王子。幼名は種宮、諱は福道。文化二(一八〇五)年に空席となっていた知恩院門跡の相続が内定し、光格天皇の養子となって後に文化六年に徳川家斉の猶子となっている。文化七(一八一〇)年三月に親王宣下を受け、二ヶ月後に得度し、法諱を「尊超」と称した。は徳川将軍家の帰依を受ける知恩院門主を務めていた関係から、生涯、五回に亙って江戸を訪れ、時の将軍徳川家慶やその世子の徳川家祥らに授戒している。また、後には仁孝天皇や孝明天皇にも授戒している。教義の修学に励み、宮中で進講を行うほか、文才にも富み、書や彫刻を能くした。なお、彼は既に親王宣下を受けてから出家しているから、正確には尊超入道親王(にゅうどうしんのう)と呼ぶのが正しい。普通に耳にする法親王とは出家した後に親王宣下を受ける場合に限るからである。]

△總門 「龜鏡蘭若」の額をかく〔增上寺隆善大僧正筆[やぶちゃん注:第五十代便譽隆善法主。]。〕。

△下馬札 總門外に建つ。初、北條氏より建置しを、大樹寺殿、尊牌を安置の時、改建られしと云ふ。

△制札 下馬札に相對して立。天正小田原陣の制札なり。

[やぶちゃん注:以下、続くが、当時、大長寺末寺であった「西念寺」は現行では独立した寺院であるので、行空けした(というより、私の住んだ岩瀬のあのアパートを紹介して呉れたのは私の叔父の友人であった西念寺の住職であり、同和尚は新婚の時、私のいた部屋に住まっておられたという関係上、ちゃんと別立てにしたかったというのが本音である)。後の「彌陀堂」以下は、同格で並べた。]

 

〇西念寺 岩瀨山正定院と號す〔前寺末。〕。開山運譽〔慶蓮社と號す。天文三年[やぶちゃん注:一五三四年。]五月十八日寂す。〕。彌陀を本尊とす。

[やぶちゃん注:「岩瀨山正定院」は「がんらいざんしょうじょういん」(現代仮名遣)と読む。先の「かまくらこども風土記」によれば、開山の運誉光道が修行したと伝える、岩屋が現在の本堂の裏にあるが、事実は奈良から平安初期に築かれた横穴墓(おうけつぼ)である(なお、鎌倉時代に発生する「やぐら」とは外見は似ていても全く無関係である)。また、この寺には、有力な檀家で水田を寄附するなどした、江戸日本橋の刃物屋の大店「木屋(きや)」の主人が自分の姿を後世まで残したいとして作った、生人形(いきにんぎょう)風の夫妻の木造座像大小二体(妻のそれは非常に小さいフィギア大のもの)がある。これは顔の色を生き生きと綺麗に見せるために頭部の塗替えを容易にするため、首が抜けるようになっている。平安末から鎌倉期の寄木造り以降、こうした構造は珍しくもないが、年忌供養毎に行われたという、この首の塗替えのために珍事件が発生したという。これを昭和四八(一九七三)年刊の改訂八版「かまくらこども風土記」から引用する。先の新しい第十三版から引いてもいいが、結局、新訂のそれも、古い版のそれを踏襲して記事が書かれているのだから、まあ、殆んどそっくり真似しているわけだ。しかもこの改訂八版は、私の小学校時代(私は鎌倉市立玉繩小学校の卒業である)の恩師が半数近くを占めている。今の版のを電子化して、今の教育委員会から何か言われるぐらいなら(この程度の引用を問題視したら、鎌倉観光事業など、それだけで成り立たない。嘗て私の「新編鎌倉志」の電子化本文を無断転載した「鎌倉タイム」は未だに謝罪もなく、知らん振りしたままで平然と〈鎌倉のジャーナリスト〉を気取っている為体だ)今の版が真似している、私の恩師らのそれをこそ電子化転載しようと思った。以下に示す。「かまくらこども風土記 中」(当時のそれは全四巻)の「中」巻の「西念寺」の条の一部である。私が以上で纏めた枕のところから最後まで引く。

   《引用開始》

 ここの本堂に、おじいさんの坐像があります。これは木屋(きや)というおじいさんが自分の姿を後の世まで残したいと、顔も形もそっくりの木像を彫(ほ)らせたものだということです。このおじいさんは信心深く、寺のために水田を寄付したりして大変尽(つく[やぶちゃん注:底本は「つ」のみ。補った。])した人だといわれています。

 おもしろいことにはこの像の首が抜(ぬ)けるのです。いつまでも同じ顔色を残すには、どうしても塗(ぬ)り替(か)えをしなければなりません。そのために首が抜けるようにしてあったのです。それだけでは別に珍しいとはいえませんが、この首のために大事件が起こったのです。

 木尾というおじいさんがなくなってから、年忌のたびにこの首を塗り替える習慣になっていたのです。何回目かの法事のときのことでした。寺の人が首をふろしきにしっかり包んで、塗り替えのために江戸まで出かけました。神奈川を過ぎ、六郷[やぶちゃん注:(グーグル・マップ・データ)。]を渡って品川に来ると、日も暮れそうでした。そこで品川の宿場で泊まることにして、ある宿にわらじをぬぎました。一風呂浴びて疲れをとり、夕食をとりましたが、まだ寝(ね)るのも早いので、散歩に出ました。首がなくなっては大変なので、女中に預け、

「たいせつなものだから決してあけて見てはいけない。」

と言って出かけました。女中は見てはいけないと言われたので、かえって見たくなり、さわって見たり、さかさにしたりして、いたずらをしていたところへ、他の女中さんが来て話を聞いて、

「珍しい宝物でもはいっているにちがいない。」

と言ってふろしきをあけようとしました。

「でもふたりだけではもったいないから、みんなで見ましょう。」

と女中さんたちを呼び集めました。薄暗(うすぐら)いあんどんのそばで、ふたりの女中さんは胸をわくわくさせながら、ふろしきを解き始めました。他の女中さんたちも、どんな宝物だろうとかたずをのんでじっと見つめていました。箱のふたをそっとあけたとたん、

「キャッ。」

と言ったのは女中さんたちでした。箱の中からはまっさおな生首が、にらんだではありませんか。腰をぬかした者、気を失った者、二階からころげ落ちた者、女中さんたちは大あわてです。宿の主人も驚いていました。そこへちょうど帰って来た寺の人が、騒ぎのわけを聞いて笑いだしました。しかし、だれも木の首だとは信用しませんので、それではと二階へかけ上がり、首を持って来て、あんどんの光に当てました。それでも宿の人は信用しないどころか、逃げ出す人もありました。首の付けねに手をやり、

「このとおり木ですからご安心ください。」

と言われてやっとひとり、ふたりと目がさめ、どっと大笑いしたということです。

 皆さんも、この木尾の木像を見てごらんなさい、きっとびっくりすることでしょう。

   《引用終了》]

 

○彌陀堂 天文中、開基ありし一寺にて、阿彌陀院と號すと云ふ〔今、堂内に置る雙盤に「阿彌陀院」と彫す。〕。後年、衰微して小堂となれり。本尊は春日作なり〔長二尺三寸。〕。大長寺持。下同。

[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)も本書のデータとを転用するだけで、その他の情報が全く載らないから、位置も不明である。

「天文」一五三二年~一五五五年。

「春日」十二世紀後半の慶派の大仏師法師定慶(生没年不詳)がいるが、単なる伝であろう。]

○地藏堂 定朝の作佛を置〔長一尺七寸五分。〕。

[やぶちゃん注:同前で位置不明。

「定朝」定朝(じょうちょう ?~天喜五(一〇五七)年)は平安後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされるが、これも単なる伝と思われる。]

○不動堂 村持。

[やぶちゃん注:同前。位置不明。ここで「岩瀨村」は終わっている。]

2018/08/20

松の針   宮澤賢治

――今日送る友へ

 

   *

 

   松の針   宮澤賢治

 

  さつきのみぞれをとつてきた

  あのきれいな松のえだだよ

おお おまへはまるでとびつくやうに

そのみどりの葉にあつい頰をあてる

そんな植物性の靑い針のなかに

はげしく頰を刺させることは

むさぼるやうにさへすることは

どんなにわたくしたちをおどろかすことか

そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ

おまへがあんなにねつに燃され

あせやいたみでもだえてゐるとき

わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり

ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

   ⦅ああいい さつぱりした

    まるで林のながさ來たよだ⦆

鳥のやうに栗鼠(りす)のやうに

おまへは林をしたつてゐた

どんなにわたくしがうらやましかつたらう

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ

ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか

わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ

泣いてわたくしにさう言つてくれ

  おまへの頰の けれども

  なんといふけふのうつくしさよ

  わたくしは綠のかやのうへにも

  この新鮮な松のえだをおかう

  いまに雫もおちるだらうし

  そら

  さわやかな

     Turpentine(ターペンタイン)の匂もするだらう

 

   *

・( )はルビ。「Turpentine(ターペンタイン)」は油絵材として知られる、松脂(まつやに)を水蒸気蒸留して得られるテレピン油のこと。

2018/08/19

反古のうらがき 卷之一 訛言

 

   ○訛言

 

 文政の中年、さる屋敷より病人を釣臺(つりだい)にのせて持出(もちいだし)し事ありしに、何者か申出(まうしいだ)しけん、

「此へんに死人を釣臺にのせて、人なき所に捨(すつ)る者あり。人々、用心し給へ。」

といゝけること、市谷柳町へんより、初(はじま)りしよし。

 江戶中、大體一面に行渡(ゆきわた)り、本所・濱町・麻布・靑山へん迄、皆、屋敷々々に番人を出(いだ)し、高張り挑燈にて守りしに、二、三日にして止(やみ)けるとなん。

 其後(そののち)、一、二年過(すぎ)て、秋の末つかた、月、殊に明らかなりし夜、予、門外に出で、舍弟と倶に月を賞し居(をり)しに、四つ頃と思ふ頃、向ふより高聲(こうせい)に語りて來(きた)る人あり。「音羽」と書(かき)たる永挑燈(えいちやうちん)をともし、とびの者體(ものてい)なる人、二人也。其(それ)、語(かたる)に、

「世には殘忍なる人も有る者かな。あの女の首はいづこにて切(きり)たるか、前だれに包みたれば、賤(いや)しきものゝ妻にてもあるべし。切たるは、定(さだめ)て其夫なるべし。間男などの出入(でいり)と覺へたり。今、捨んとして咎められ、又、持去(もちさ)りしが、何(いづ)れへか捨つべし。其所は迷惑なる者なり。」

といふ話なり。

 予、是を聞(きき)て呼留(よびと)め、

「何(いづ)こにての事。」

と問へば、

「扨(さて)は。未だ知り玉はずや。こゝより遠からず、市ケ谷燒餅坂上なり。夜深(よふけ)て門外に立玉(たちたま)ふは、定(さだめ)て其(その)捨首(すてくび)の番人かと思ひしに、左(さ)にはあらざりけり。こゝより先は、皆、家々に門外に出で、番をするぞかし。」

といゝて、打連(うちつれ)てさりけり。

 予もおどろきて、前なる辻番所に右の趣(おもむき)申付(まうしつけ)、よく番をさせ置(おき)、入(いり)て眠りたりしが、兎角、心にかゝる上に、辻番所に高聲に右の物語りなどするが、耳に入(いり)て寢(いね)られず、立出(たちい)で見れば、最早、九つ今(ここのついま)の拍子木を打(うち)、番所の話を聞けば、

「組合より申付られたれば、眠る事、能はず。去ればとて、いつ、はつべき番とも覺へず、もし、油斷して捨首(すてくび)にてもある時は、申分に辭(ことば)なし、如何にせまし。」

といひあへり。

 予も、餘りにはてし無き事なれば、

「最早、程も久し。捨首あらば、是非なし。先(まづ)休むべし。」

と申渡し、入て寢(いね)けり。

 明(あく)る日、あたりを聞(きく)に、其事、絕(たえ)てなし。

「口惜哉(くちをしきかな)。あざむかれぬ。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ]やみけり。

 此訛言(くわげん)も小石川・巢鴨へん、本鄕より淺草・千住・王子在(ざい)などの方(かた)に廣がりて、北の方、いづこ迄かしらねども、大(おほい)におどろきさわぎたるよし、予、親しく聞(きき)たれども、誰(たれ)にも告(つげ)ざれば[やぶちゃん注:底本は「されば」。濁点を添えた。]、此あたりは却(かへつ)て、しる人なし。

 「音羽」といへる挑燈なれば、是水へ、かへりかへり、申觸(まうしふれ)たるか、其先迄、申傳へたるなるべし。

[やぶちゃん注:「訛言」(くわげん(かげん))とは「誤って伝えられた評判」の意。この話は既に『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二』の注で電子化注している。直接話法が多いので、臨場感を出すため、特異的に改行と段落を作った

「文政の中年」「中頃」ならよく目にするが、どうも「中年」というのはまず目にしない。まあ、文政は一八一八年から一八三一年までだから、中頃は文政六(一八二三)年前後となるが、しかし、これ、或いは「申年」の誤記ではなかろうか。とすれば、文政七(一八二四)年に特定出来ることになるのだが。但し、国立国会図書館デジタルコレクション版も「中年」ではある。

「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて、二人で担いでゆく運搬具。担架の駕籠舁き方式である。

「市谷柳町」現在の東京都新宿区市谷柳町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「濱町」東京都中央区日本橋浜町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の朝倉氏の注に『武家地で藩の中・下屋敷が多く』あった、とある。

「四つ頃」午後十時頃。

「永挑燈」提灯のサイズを指すようだ。縦が長くなると、直径もそれなりに大きくなる。ある提灯会社のメニューでは現行で「尺永」というのは、直径二十九センチメートル・高さ六十四センチメートルである。この上が既に「二永」である(三十三☓六十三)。

「市ケ谷燒餅坂」底本の朝倉氏の注に『いまの新宿区市ヶ谷甲良町のうち。幅四間』(七メートル強)『ほど、高さ四〇間』(七十二・七二メートル)で、『山伏町から柳町へ下る坂で、甲良町との境。附近は武家地』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「九つ今」だいたい午前一時丁度の意の一語と採る。

「組合より申付られたれば」それらしい町触れが少なくとも桃野のいる町内には廻っていたのである。

「あたりを聞(きく)に、其事、絕(たえ)てなし」では、先の町触れは何だったのか? 町触れを出した組合の大元の発信地を探れば、どのような形で生じた「都市伝説」であったかが判明するのに。実に惜しい。鳶風の二人がその場でデッチアゲただけの、ただの冗談であったとしたら、そう簡単に、町触れにはならない気もするのだが? 或いは、実は町廻り連中も実はコロリと騙されちゃったのかもね。「口裂け女」の時も小学校が登校指導したり、警察まで不審者として動いたぐらいだからねえ。

「巢鴨へん」「巢鴨邊」で巣鴨辺り。

「王子在(ざい)」現在の東京都北区王子附近の村落。但し、江戸の辺縁地ではあるが、当時の王子は田舎ではなく、人気の王子稲荷があり、しかも日光御成街道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され、十八世紀には八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山に桜が植えられたことを契機に江戸市民が頻繁に足を運ぶ、江戸市中からごく近い遊覧地として賑わった。

「音羽」東京都文京区音羽町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「是水へ」不詳。国立国会図書館デジタルコレクション版も同じ。識者の御教授を乞う。音羽から「市ケ谷燒餅坂」は真南であるから、この鳶職風体(ふうてい)の二人組は現在の「外苑東通り」を南下してきたと考えてよいのではないかと私は思う。とすれば、桃野と舎弟が涼んでいたのは現在の新宿御苑の東方、信濃町辺りではないかとも思われる。しかし、その先(南や東)には「是水」に似たような地名は見当たらない。「是方」(これがかた)の誤判読か。所持する所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の柴田宵曲の「奇談異聞辞典」の「流言」で本篇が採用されているが、単に『これへ』となっている。]

反古のうらがき 卷之一 强惡

 

  

 天保の初年、靑梅(おうめ)在に風呂敷づゝみを持(もち)あるきて、

「質(しち)におかん。」

といふ浪人ありて、所々にて迷惑することあり。

 其包みの内は生首なり。

 包みの儘、質に取るといふことは無き故、

「是非、改めん。」

といへば、何かと六ケ敷(むつかしく)いひて改(あらたむ)事を許さず、兎角に面倒なる事なる上に、其包みの樣子、外(そと)より見ても、人の生首と知らるゝなれば、事を穩便に計(はから)ふにはしかずとて、金子少々達し、辭す事あるよし。

 初(はじめ)の程は、

「故なく金子は取らず。」

などいへども、遂には取て歸るよし也。

 度び重りて、八州𢌞(はつしうまはり)といふ役人に召取られ、吟味に及びし處に、固より盜なれば、陳(ちん)ずべき心もなし、いひ上(あが)るよふ[やぶちゃん注:ママ。]は、

「駿甲(すんこう)あたりより、東海道にも出(いで)、此業(このわざ)をすること、六、七年、首をきること、廿に餘れり。金子を得しことは數をしらず、今、命數、盡(つき)て召取れぬれば、何も存殘(ぞんじのこ)す事なし。」

と申(まうし)けり。

 扨、

「首は如何して得たる。」

と問(とひ)しに、

「これは最初より一計ありて、いくたり切(きり)ても、皆、一法なれども、一人も漏らしたることなければ、往(ゆく)所にて行(おこな)わる[やぶちゃん注:ママ。]、其法は野伏(のぶせ)りの宿なしを語らひていふ樣は、

『吾、浪人物となり、爾(なんじ[やぶちゃん注:ルビは底本のママ。])をしばりて手打(てうち)にする。』

とて、村近き邊(あたり)へ連行(つれゆく)べし。

『爾(なんぢ)、大聲に、「衆人、吾を助けて給はれ」と呼ぶべし。故(かれ)、人集りて問ふ時、「吾(われ)召使ふ下人、餘が金子(きんす)壹兩を取逃(とりに)げせしに、今、ゆくりなく行合(ゆきあひ)たれば、手打となすなり」と云はゞ[やぶちゃん注:底本は「ゝ」であるが、濁点を附した。]、爾が命を助けんとて、少々づつ、金子を出(いだ)すもの、あるべし。其金を得たらば、山分(やまわけ)にすべし。土地にては後難(こうなん)あり。遠くへゆくべし。』

とて、乞食を連行(つれゆき)、河原などにて荒繩をもて、かたくいましめ、かくして、

『村へ行(ゆく)なり。』

といつはりて、人遠き所に引行(ひきゆき)、口に、手拭(てぬぐひ)にても、土砂(どしや)にても、推入(おしいれ)、推伏(おしふせ)て、首を切る。甚(はなはだ)手輕なる法なり。」

といへり。

 又、問(とふ)。

「匁物(はもの)は何を用ひしや。」

 答ふ。

「數年前より、『サスガ』一本、身を離さず、重寶(ちやうほう)なる物なり。人の首を切るにも、『サスガ』にて、少しづゝ、切發(きりはな)ち、骨計(ばか)りを殘し、仰向(あおむけ)にもぐれば、大體、取れる者也。少し、つゞきたりとも、『サスガ』にて切發(きりはな)すに難き事なし。第一は、河原にて面(つら)斗(ばか)り水に押伏(おしふし)て切(きる)が切(きり)よし。」

と云いし[やぶちゃん注:ママ。]よし。惡虐殘毒なるも如ㇾ此(かくのごとき)は、亦、珍らし。

[やぶちゃん注:直接話法が多く、肉声らしく読んだ方が、この極悪の人非人のおぞましさがよく伝わると考え、特異的に改行と段落を設けた。

惡」「ごうあく」と読んでおく。

「天保の初年」天保は一八三一年から一八四五年までの十五年であるが、元年は文政十三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)の改元であるから、二十日しかない。

「靑梅」東京都の多摩地域北西部にある青梅市附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「八州𢌞(はつしうまはり)」文化二(一八〇五)年に設置された関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)の略称。勘定奉行直属で、関八州(相模 ・武蔵・安房・上総・下総 ・常陸・上野 ・下野 の関東八ヶ国)を幕領・私領(水戸藩を除く)の区別なく巡回し、治安の取り締まりに当たった。

陳(ちん)ずべき」遜(へりくだ)って申し述べるような。

「いひ上(あが)るよふは」「言ひ揚がる樣は」であろう。異威丈高(いいたけだか)に声高(こわだか)に喋りたてることには。

「駿甲」駿河・甲斐。

「いくたり」「幾人(いくたり)」。

「野伏(のぶせ)りの宿なし」野宿をしている宿無しの放浪者。後で「乞食」と言い換えている。

「浪人物」「浪人者」。

「連行(つれゆく)べし」「これからお前を連れて行くわけよ。……まあ、怖がるな! 待て! 俺の話を聴け!」のニュアンス。

「故(かれ)」ここは「そうすると・そうすれば」という接続詞。別に読みは「ゆゑ」でもよいが、差別化するために、かく読んだ。古い読みは「かれ」である。

「ゆくりなく」副詞(形容詞「ゆくりなし」の連用形から)。思いがけなく・突然に。

「土地にては後難(こうなん)あり」「この地では、俺やお前を見知ってしまっている者がいるかも知れねえから、後でバレてまずいことになりかねねえ。」のニュアンス。

「サスガ」「刺刀(さすが)」腰に差す短刀。腰刀(こしがたな)。さても多くの方はここで、芥川龍之介の「中」を思い出すであろう(リンク先は私の古い電子テクスト)。真砂の所持したあの「小刀」だ。あれを龍之介は「さすが」とルビしていた。いやいや! この風呂敷生首を質入れする浪人の白状の如何にも自分のおぞましい悪行を誇るように語る様子やその「昂然たる態度」は、まさに白状する多襄丸を髣髴させるではないか!(或いは芥川龍之介はこの「反古のうらがき」の本条を読んでいて、あの台詞を書く際の参考にしたのではなかろうか? とさえ私は思うのだ) 「藪の中」は私の教師時代のライフ・ワークであった。何度も授業でやったし、独特の内容であったからして、多くの教え子諸君には今も記憶に残っているであろう。その都度、考証を加え、オリジナルの授業案を進化させ続けた。「藪の中」殺人事件公判記録サイト公開一九九〇年に原型を作製、最終改訂は二〇一〇年、早期退職する二年前である。よろしければ、ご覧あれ。懐かしく感じられるであろう。正直、私はネット上の如何なる「藪の中」推理を読んでも、自分のものよりも優れて現実的であると感じたことは、一度も、ない。

「切發(きりはな)ち」胴部と頭部を切り離し。

「骨計(ばか)り」脊椎骨の頸骨だけ。

「仰向(あおむけ)にもぐれば」首を仰向け、背部方向に捥(も)げば。この辺りの描出は、猟奇的といよりも頗るリアルで、本「反古のうらがき」で最初の怪談物ではない怪人・悪党・怪人物(かいじんもの)(怪談物以外の大きな範疇の一つ)の最初であるが、恐らく、最初に食らわされるスプラッター・ホラーの画面であると言える。

「殘毒」「殘」は「無殘」のそれ或いは「慘毒」(「むごたらしく傷つけること・むごたらしく苦しめること」、または「むごたらしい害毒」の意)の意。]

反古のうらがき 卷之一 幽靈

 

   ○幽靈

 

 麻布某の所の寺は、市(いち)に近き所なり。文化の頃、其墓所に幽靈ありて、夜な夜な物語りする聲聞ゆとて、人々、おそれあへり。其わたりに膽太(きもふと)き商人ありしが、或時、月もほのぐらき夜、宵の頃より、獨り、ひそやかに墓所に忍び入り、大(だい)なる墓所の蔭に身を潛(ひそ)めて窺ひける。夜も已(すで)に子(ね)を過(すぎ)て、蟲の音、彌(いよいよ)さへわたり、月も、おりおり出(いで)ては、又、雲に入る、夜風の身にしみて、ひとへぎぬ、しめりがちにて、ゑり元、ぞくぞくとして覺(おぼえ)けるが、こなたの芝がきのほとりより、人の立出(たちいづ)る樣に覺へしが、又、其あたりより、人、來(きた)ると覺へと[やぶちゃん注:清音はママ。]、相(あひ)かたろふ樣(さま)、いと睦(むつ)まじげなる物語りなり。商人(あきんど)、耳をすまして聞くに、多くは絶(たえ)て久しき離れをかたり慰(なぐさ)むるにてぞ有ける。『如何なる者にや』と、月の明るくなるを待得(まちえ)て、のび上りて見しに、一人は廿四、五の瘦(やせ)たる男なり。今一人は六十斗(ばかり)の老婦(うば[やぶちゃん注:底本のルビ。])にて、其(その)かたろふ樣(さま)は親子に似ずして、夫婦(めをと)に似たり。商人、一ゑん、解しがたく、猶、窺ひ居(をり)しが、折節、夜寒の風におかされて、高くはなびけるに、驚きて、かたちは見へずなりぬ。明(あく)る日、寺に行(ゆき)て、右の次第を語り、かの芝がきのあたりを見るに、合葬の墓ありて、今、無緣なり。「其墓のぬしは、去りし頃、廿四、五にて死せる商人なり。其妻、久しく生のびて洗(せん)だく婆々となり、此(この)二、三年跡(あと)に六十斗(ばかり)にて死せり。よつて合葬せし也。おもふに夫婦の者、無緣にて浮ぶこと能はず、幽靈となりて出(いづ)るなるべし。其樣は、皆、生前の形にて、其間(そのかん)、三十年も立(たち)たれば、不つり合(あひ)の姿なること、其理(ことわり)に當れり」と寺僧も申(まうし)あへりとぞ。しかし、其頃の、いたづらなる滑稽人の作りし話にや。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]

幽靈は尋常のことなり。男、廿四、五、女房、六十計(ばかり)といふところ、有爲轉變の相を顯(あらは)し、巧(たくみ)に考(かんがへ)たるところ、夜譚・聊齋の二書にもなき新趣向なり。

[やぶちゃん注:もしこれが作話ではないとすれば、寺の名も記されてあるはずであり、作話としても時制的には新しい「都市伝説」の類いに含まれから、今に伝わり、尾鰭がついておかしくないと思うのだが。麻布に詳しい方がおられるので、お伺いを立てておく。【2018年8月21日追記】Blog - Deep Azabuで素晴らしい麻布文化史の考証をなさっていらっしゃる方(以前にも情報を戴いたことがあり、フェイスブックでも知り合いである)にお願いしてみたところ、以下の詳細な情報提供があった。『私なりの見解』との謙辞を添えておられるけれども、本条が眉唾的で簡単に噓の皮が剝がれるような都市伝説ではなく、実際のロケーションに基づくものである可能性が確かめられたように私は思う。提供者のお許しを得て、以下に転載させて戴く。

   《引用開始》

よく考えたら私もこの事象と思われる記事を書いておりました。ただ、出典を記していないので「反古のうらがき」だったか覚えておりません。

Blog DEEPAZABU-無縁をかこつ夫婦

先日お伝えしたとおりこの文章で場所確定の手がかりとなるのは

「市(いち)に近き所なり」

であると考えていますが麻布で一番有名な「市」を思い出しました。

それは十番馬場で行われる「馬市」で、ここでは仙台坂の仙台藩伊達家から馬が出品され大変な賑わいであったと言います。またこの馬場で使用された乗馬用の袴は「十番袴(じゅうばんばかま)」として有名であったそうです。

BlogDEEP AZABU-十番馬場

この市があった場所は現在の東麻布三丁目あたりでその西側には今も残る不自然に広い大通りがあります。

この通りは現在「東京法務局港出張所」前の通りとなっており、このあたりで一番の繁華地であった東麻布イースト商店街の道幅より広く不思議に感じていました。

もしこの十番馬場の馬市がここでいう「市」であるならば近くの寺院は麻布永坂にある、

大長寺(麻布永坂から1965(昭和40)年府中市若松町5-9-5に移転)

光照寺(麻布永坂から戦後八王子市絹ヶ丘3-8-1に移転)

天徳寺(狸穴・現経緯度原点。移転先不明・虎ノ門は同名別寺)

あたりになるかと思われますが、その中でも近いのは①②です。 

 

39467473_10217330546839329_17772726

 

[やぶちゃん注:以上は提供者が添えて下さった地図である。]

にはこの話ではないのですが、念を残した女幽霊の話として以下の話が残されています。

Blog DEEP AZABU-扇箱の秘密

その他にも現在の麻布十番などでも市が立っていたとも思われますが、不明です。

また先ほどお伝えした法務局前の大通りですが江戸期の地図には麻布十番と記されていますが、現在はここを麻布十番とはいいません。

以上、私見ながらお伝えします。

   《引用終了》

 調べてみたところ、の大長寺は日蓮宗、の光照寺は話柄当時は浄土真宗である(はかつては現光寺と称して奈良県吉野にあったとし、その頃は天台宗で、元和年間(一六一五年~一六二四年)に浄土真宗に改宗し、寛永四(一六二七)年麻布永坂町へ移転している。は不明)。本話は宗派を匂わせるものは残念ながらないけれども、参考に教えて下さった「扇箱の秘密」というのは(因みに、この話は私が手掛けたことがある囊 之十 幽魂奇談の事のそれであった。但し、私が訳注したのは二〇一五年三月二日であり、「Blog
DEEP AZABU
」のそれは二〇一二年十一月七日の記事であるから遙かに速い。情報提供者の名誉を守るために一言言い添えておく)寺はちらっと霊の菩提を弔う寺とし出るだけであるが、怪談との親和性があるとは言えよう(それにしても、この「耳囊」のそれは細部まで緻密なリアリズムで構築された、極上の実話怪談として特異点的に凄いものである)。以上から私はこの光照寺が本条の「麻布某の所の寺」のモデルの最有力候補ではないかと感じている。最後に改めてBlog - Deep Azabuのブログ主である情報提供をして下さったT・I氏に、改めて感謝申し上げるものである。

「文化」一八〇四年~一八一八年。

「子」午前零時。

「其あたりより、人、來(きた)ると覺へと」この助詞の「と」は逆接の接続助詞「ど」であろう。その辺りから、人が来ている気配がしてくるのを感じた「が」(真夜中のことで、丁度、月も雲に入って陰っていたために視認は出来なかった)の含みである。さればこそ「月の明るくなるを待得て」という次のシークエンスとの繋ぎがスムースに流れるのである。

「離れ」「わかれ」と訓じたい。

「のび上りて見しに」商人が隠れ潜んだ墓が大きなものだったからである。映像的なインパクトがあるシーンだが、それ故にこれは実体験ではなく、寧ろ、作話された怪談という感じが私にはしてくる。カメラが一人称ではないからである。

「かたろふ」「語らふ」。

「一ゑん」「一圓」であるが、呼応の副詞。ここは打消ではなく「難し」の語を伴って「少しも・全く」の意。

「はなびける」「鼻びける」。くしゃみをしたのである。

「洗(せん)だく婆々」民家を巡って洗濯をしては僅かな手間賃を貰う婆さんのこと(静岡に伝わる妖怪に同名のものがおり、夜間、闇の中、川岸で洗濯をするような音が響く妖異を「小豆洗い」「米磨ぎ婆」などと同様に「洗濯婆」と呼び、狐の仕業などとするが、ここはそれとは無関係)。

「此(この)二、三年跡(あと)に」今から二、三年前に。

「三十年」されば、商人が亡くなった時の妻は二十歳前である。

「いたづらなる滑稽人」後の評言(本書の冒頭から見て桃野のものではなく、「天曉翁」浅野長祚のそれ)では知られた怪談には見られない新味の趣向があり、「巧(たくみ)に考(かんがへ)た」ところを高く評価しているから、或いは、そんな「いたづらなる滑稽人」=市井の滑稽談好きの好事家の作話ではなく、当時の本格的な戯作者が片手間に書いた怪奇小説ででも、あったものかも知れない。

「夜譚」不詳。以下の「聊齋志異」と併置するからには、それと並び得る中国の怪奇談集でなくてはならぬが、私もそちらのフリークの端くれであるが、ピンとこない。底本の朝倉氏の注も知らん振りしている。

「聊齋」私が小学生高学年より実に五十年も偏愛し続けている清初の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が書いた文語怪奇短編小説集「聊齋志異」。全約五百話。一六七九年頃に成立し、著者の死後、一七六六年に刊行された。]

反古のうらがき 卷之一 縊鬼

 

   ○縊鬼

[やぶちゃん注:直接話法が多いので、臨場感を出すため、特異的に改行と段落を作った。また、《とて、》はジョイントが悪いのを補填するために私が補ったもので、原典にはないものなので注意されたい。]

 これも叔氏(をぢ)醉雪翁が話に、元がしら某、屋敷、麹町也。組内同心某、よく酒を飮み、落し咄(ばなし)・身振りなどする者ありけり。

 春の日永き頃、同役より合(あひ)のことありて、夕刻より酒宴あり。彼(かの)同心は、

「給事(きふじ)ながら來るべし。」

と申約(まうしやく)せしに、其日、來らず、家人も、みな、其伎(わざ)を見るを興(きよう)として待(まて)ども、來らず、大に不興なりし頃、忽々(そうそう)として來たれり。

「やむを得ざるの用向にて、御門前に人を待(また)せたれば。」

《とて、》御斷(おんことわり)の趣(おもむき)申入(まうしいれ)、

「直(ただち)に立歸る。」

といひてさらんとせしかども、家來、ゆるさず、

「先(まづ)、主人及び一座の客人に其趣申通ずる間、ひかへ候へ。」

といへば、甚(はなはだ)難澁の趣なれども、先(まづ)其意に從ひけり。

 かくて主人に告げしに、

「何用なるかはしらねども、御頭衆(おかしらしゆう)より合(あひ)に、先程より相(あひ)待こと、久し。縱令(たとひ)さり難き用なりとても、聞(ぶん)にも出(いで)ず去ることやある。」

とて無理に引出(ひきいだ)し、用の趣を尋(たづね)させしに、

「其事(そのこと)、別事にあらず。『くひ違ひ御門』内にて、首を縊(くゝ)る約束せし間(あひだ)、やむを得ず。」

といひて、ひた物(もの)、去らんことを請ひけり。

 主(あるじ)賓(きやくも[やぶちゃん注:底本のルビ。])彌(いよいよ)あやしみて、

「思ふに、亂心と見えたり。かゝらんには、彌(いよいよ)引出(ひきいだし)して酒を飮(のま)すべし。」

とて、座に引出し、先(まづ)、大杯にて續けさまに、七、八盃を飮す。

 扨(さて)、

「これにて許し給へ。」

といふを、又、七、八盃飮せけり。

 主人、聲をかけ、

「例の聲色(こはいろ)所望也。」

といへば、無ㇾ據(よんどころなく)、一つ、二つ、伎(わざ)を奏(そう)し、又、立出(たちいで)んとするを、賓主、各(おのおの)盃を與(あた)へ、飴程、酩酊の色見へ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、賓主、是を興として、かわるがわる[やぶちゃん注:ママ。]に酒をすゝめ、動靜(どうしよう)を窺ひける。

 一時(いつとき)斗(ばか)りする内、先(まづ)去るを請ふ事は忘れたる樣にて、別に亂心とも見へずなりぬ。

 其時、家來、立出で、

「只今、『喰違ひ御門』内に首縊(くゝ)りありと組合より申通(まうしつう)ず。人、差出(さしいだ)すべしや。」

といひたり。賓主きゝて、

「扨は先頃の縊鬼(いき)、此者を殺すこと能(あた)はで、他人を取(とり)たると見へたり。最早、此者の縊鬼は離れたり。」

とて、先(さき)の樣子を尋(たづぬ)るに、

「夢の如く覺へてさだかならず。其頃、『喰違ひ』迄來りしは夕刻前なり。壹人ありて、

『此所にて首を縊るべし。』

といゝ[やぶちゃん注:ママ。]しが、吾(はれ[やぶちゃん注:底本のルビ。])辭(じ)すること能(あた)はず、

『如何にも縊るべし。今日は御頭(おかしら)の元(もと)御給事(おきふじ)に行(ゆく)約束なれば、其(その)斷りをなして後、其意に從ふべし。」

といへば、其人、

『さらば。』

とて、御門迄、付來(つきいた)り、

『早く斷(ことわり)をいゝ[やぶちゃん注:ママ。]て來るべし。』

といひたり。

 其言(そのげん)、背(そむ)きがたき義理ある者の如く覺へて、其人の義、そむきがたく思ひしは、何の故(ゆゑ)といふことを、しらず。」

といひけり。

 扨、

「今は縊る心ありや。」

と問ふに、自から首に環をかくる眞似して、

「穴、おそろしやおそろしや。」

といひけり。

「全く、約を踐(ふむ)を重んぜしと、酒を飮たるとの德にて、命を助りし。」

といひあへりき。

 かゝる事も、まゝある事にや。

[やぶちゃん注:「縊鬼」(いき/いつき/くびれおに)はウィキの「縊鬼によれば、『中国または日本の妖怪。人に取り憑いて』、『首を括らせるとされる』。『中国での縊鬼は「いき」と読み、『小豆棚』『太平御覧』『聊斎志異』などの中国の古書に記述がある』。『中国の伝承においては、冥界には一定の人口が定められており、この人口を常に保つ必要があるため、死者が別の人間として転生して冥界を去ろうにも、自分に代わる後任の死者が冥界に入らなければ、転生の許可が下りない。このとき、死者が生者の死をただ待っているだけではなく、積極的に自殺や事故死を幇助することで自分の代替を求めることを「鬼求代」という』。『亡者が生まれ変わるには他者に自分と同じ死に方をさせることが条件らしく、縊死した死者が生者に取り憑き、自分と同じように縊死させようとしているものが縊鬼とされる』。『民間伝承や昔話に見られる縊鬼の話はどれもほぼ同じである。宿に泊まった者が、紐を手にした何者かの影を見かけた後、隣室で女が縊死を図り、慌てて止めたところ、先の影は縊鬼であり、隣室の女は理由もないまま縊鬼によって縊死させられようとしていた、という筋が多い』。『中華民国の時代に入ると「吊殺鬼(ちょうさつき)」「吊死鬼(ちょうしき)」などと呼ばれ、同様に自分の身代わりに死ぬ者を求める霊のことが、民間伝承や昔話の中で語られている』(以下、本「反古のうらがき」の条が現代語で紹介されているが、省略する。その訳とこの原本を読み比べれば、如何に現代語訳というのものが、怪異性もオチの滑稽さも削ぎ落してしまうかがよく判る)。『昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、この縊鬼は水死者の霊とされ、これに取り憑かれた者は、川に飛び込んで自殺したくなるもの、などと解釈されている』。『江戸時代の奇談集『絵本百物語』には「死神」と題した絵があるが、これは悪念を持ったまま死んだ者の霊が、同様に悪念を持った者を首括りなどに遭わせようとしているものとされ』、『近世の宗教における死神より、本項の縊鬼に近いものと指摘されている』とある。これはそもそもが全体が、実は怪談仕立ての滑稽オチの落語なのである。

「叔氏(をぢ)醉雪翁」筆者鈴木桃野の叔父多賀谷仲徳。先手組与力で火付盗賊改方を兼務した。二つ前の「魂東天に歸る」の話と注を参照のこと。

「元がしら」以前の先手組組頭。

「落し咄」落語。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるが、文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)には江戸落語は隆盛を極め、ウィキの「落語」によれば、『文政末期には江戸に』百二十五『軒もの寄席があったといわれる』とある。

「身振り」滑稽な仕草や形態模写をしておどけること。

「より合(あひ)」「寄合」。

「給事(きふじ)ながら」雑用が御座いますが。

「來らず」言わずもがな乍ら、「なかなか来ない」の意。これを二度の畳み掛けて、しかし「來たれり」と出すのは話柄の展開を焦らす点で甚だ上手い。

「忽々(そうそう)として」如何にも何か忙しげな様子で。

「聞(ぶん)にも出(いで)ず」「聞」は「直接相手に話をすること」の意か。或いは「当然そうあるべきこと」の意(ここでは寄合の席に出て挨拶や芸をすること)か。

「くひ違ひ御門」江戸城外郭城門の一つで四谷門と赤坂門との間にあった喰違門(くいちがいもん)。ウィキの「喰違門」によれば、『清水坂から紀州家中屋敷に行く喰違土手の前に当たることからの名であるという』。寛永一三(一六三六)年の『外濠普請の際、この門の升形は丸亀城主生駒壱岐守高俊の助役で組み上げられたものであるという』。『万治年間』(底本の朝倉治彦氏の注では万治二(一六五九)年とある)『にも造営が行なわれ、「府内備考」には、「万治二年所々御門御造営の時、喰違御門は長谷川久三郎、日根半助を奉行に命ぜられしよし』、「万治年録」『に載たれば、古くは外々御門とひとしき造りなりしならん、今は仮そめの冠木門となれり、或は喰違土橋とも称す」とある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)にあった。なお、この元先手組組頭の屋敷のあった麹町は喰違門の北直近で((グーグル・マップ・データ))、近ければ直線で二、三百メートル、最も遠い東の半蔵門方向であっても、一キロ程しか離れていない。

「ひた物(もの)」「直物」「頓物」と漢字を当てるが、副詞。ひたすら。無闇に。

「聲色(こはいろ)」他人、特に役者や有名人の台詞回しや声を真似ること。歌舞伎役者などの声や口調を真似る滑稽芸や専門の芸人は既に元禄(一六八八年~一七〇四年)頃から存在した。

「一時」現在の二時間相当。

「約を踐(ふむ)」約束を履行する。]

2018/08/18

反古のうらがき 卷之一 官人天より降る

 

   ○官人天より降る

 予が祖父向陵翁、若かりし時、書齋に獨り居(をり)しに、忽然として、一人の衣冠の人、櫻の枝より降(くだ)り來る。よくよく見るに、盜賊とも見えず。但し、衣冠の官人、此あたりに居(を)るべき理(ことわり)なし、況や天より降るべき理、更に、なし。おもふに、『心の迷ひより、かゝるものの、目に遮(さい)ぎるなり』と、眼を閉(とぢ)て見ず、しばしありて眼を開けば、其人、猶、あり。降りも來らず、やはり、其邊りにあり。眼を開(ひら)けば、漸々に降り來(きた)る。また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、又、漸々近づき來る。如ㇾ此きこと、三、四度にして、終に椽頰(えんづら)迄來り、椽ばなに手を懸る。『こは、一大事』と思ひて眼を閉ぢたるまゝに、家人を呼びて、「氣分惡(あ)し。夜具を持來(もちきた)れ」と命じ、其儘打(うち)ふして、少しまどろみけり。心氣(しんき)しづまりて後、起出(おきい)で、見るに、何物もなし。「果して妖恠(ようかい)にてはあらざりけり」と、書弟子石川乘溪(じやうけい)に語りしとて、後、乘溪、予に語りき。此話、曲淵甲斐守といふ人も、此事ありしよし聞けり。これは、曲淵、心しつまりて驚かざれば、妖氣、鄰家(りんか)に移りて、卽時に、鄰(となり)主人、こし元を手打(てうち)にして狂氣せしよし、語り傳(つ)たへたりとなり。

[やぶちゃん注:この話、既に『柴田宵曲 妖異博物館「異形の顏」』で電子化している。そこで宵曲は「或は曲淵、川井兩家に同じやうな事があつたのかも知れない」などという無批判の肯定的解釈を示しているが、私はここは元にあった作り話から派生した都市伝説であるように思われる。そもそもがリンク先の注示した如く、酷似した話の登場人物が「河合」「川合」で、「かはひ」と「甲斐守」の「甲斐」(かひ)は音型が酷似しており、しかも「河合」「川合」「曲淵」は如何にも縁語染みて見えるからである(但し、後で注する如く「曲淵甲斐守」は実在する)。前話では超冷静だった鈴木桃野が、この「石川乘溪」(不詳)なる祖父の書道の弟子の怪しい話にコロリと騙されるとは、ちと、意外。

「祖父向陵翁」多賀谷向陵(たがやこうりょう 明和三(一七六六)年~文政一一(一八二八)年)。底本の朝倉治彦氏の注には、本文には「祖父」とあるのに『母の兄』とする(それについての注記はない)。『石を愛し、特に愛した五石を以て五石居士の別号があった。四谷佐門町に住し、環翠堂なる塾を経営した。能書を以て知られ』、『不忍池弁天堂の裏手の武道家櫛淵虚冲軒の碑はその筆』とある。【2018年10月1日追記】その後に知った森潤三郎著「藏書家白藤として知られたる書物奉行鈴木岩次郎成恭の事蹟」(大正一四(一九二五)年刊)の「十、成恭の子成夔の事蹟とその著書」(国立国会図書館デジタルコレクションのここ)を見ると、『叔父多賀谷向陵』とある。ますます不可解。

「遮(さい)ぎる」「さえぎる」(歴史的仮名遣もこのままで「さへぎる」は正しくない)の更に古形の読みで示した。

「降りも來らず、やはり其邊りにあり」この話の面妖な部分は私はここであろうと思う。最初に「櫻の枝より降(くだ)り來る」と言っているのに、ここでは「降りも來らず」と言って、更にこの後ではまた、「やはり、其邊りにあり。眼を開(ひら)けば、漸々に降り來(きた)る」、「また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、又、漸々近づき來る」これを実になお、「三、四度」も繰り返して、だんだん、だんだん、降りて来るというのだ。私はここにある種の作為的な嘘臭さ(怖がらせる時間を引き延ばす或いは最後に眼を開けた時に目の前に官人の顔がアップであるかも知れぬという恐怖を演出する手法)を感ずる一方で、別に私はこれは桜の枝から空中を浮遊して下って来ているのではないか、「竹取物語」の天人の使者のように、地面から浮き揚がった形でだんだん近づく(あれは地上の穢れに触れぬためだと私は思っているのであるが)のと同じではないか? と考えもしたのである。とすれば、これは或いは宇宙人の来訪ででもあったのかもね! などと軽口を叩きたくもなった。私が嘗てUFOを研究し、宇宙人を信じていた頃の後遺症である。

「椽頰(えんづら)」大きな屋敷などで、主だった座敷と廊下の間にある畳敷きの控えの間のこと。襖の立て方によって廊下の一部分とも、部屋の一部分ともなるようになっている。「椽」は「縁」のこと。前条で既注。

「椽ばな」「縁端」。

「心氣(しんき)」心の動揺或いはそれによって引き起された心悸亢進。

「曲淵甲斐守」旗本で町奉行であった曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)であろう。ウィキの「曲淵景漸によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』。寛保三(一七四三)年、『兄景福の死去に伴い』、『家督を継承、寛延元年』(一七四八年)『に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進』明和二(一七六五)年、四十一歳で『大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任され』た、明和六年には『江戸北町奉行に就任し、約』十八『年間に渡って』、『奉行職を務め』、『江戸の統治に尽力した』。『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した』。『経済にも精通しており、大坂から江戸への米穀回送などに尽力した』。『当時の江戸市中において曲淵景漸は、根岸鎮衛と伯仲する名奉行として庶民の人気が高かった』。明和八(一七七一)年三月四日に『小塚原の刑場において』、『罪人の腑分け(解剖)を行った際、その前日に「明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師達に伝令した。この通達により「解体新書」などで名高い杉田玄白と前野良沢・中川淳庵らは刑死人の内臓を実見することができ』、かのオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」の『解剖図と比較することで』、『日本の医学の遅れを痛感することにな』ったのであった。後の左遷と、勘定奉行への返り咲きはリンク先を読まれたい。

「こし元」「腰元」。

「傳(つ)たへたり」「た」を送っているのはママ。]

反古のうらがき 卷之一 魂東天に歸る

 

  ○魂東天に歸る

 予が叔父醉雪老人、加役(かやく)の吟味方を勤(つとめ)しが、科人(とがにん)をつよく詰問(きつもん)するとて、氣(き)上(あが)りしにや、休息所に入(いり)て其儘に打伏(うつぷ)し、中風の病(やまひ)起り、半身不隨にて人事を省(せい)せず、百藥驗(しるし)なく、凡(およそ)一月斗(ばかり)有(あり)けり。春の永き夜なれば、皆、看病につかれて、はては一人持(ひとりもち)となる。命、盡(つく)るの前夜は、予と甲麗生と二人也。半夜に至りて、あたり凄(すさま)じく、風、吹荒(ふきあ)れて、しばらくして止(やみ)ぬ。物靜(ものしづか)になりしは、さわがしきよりも、更にすさまじくて、打寄(うちより)て物語などする内に、屛風引𢌞したる外(そと)にて、殊に厲(はげ)しき物音して、一貫目斗(ばかり)のかたき物の、椽板(えんいた)などの上に落(おち)たる音也(なり)。出(いで)てみるに、物、なし。予、恠(あや)しみて燭を取(とり)て仔細に見るに、年久しく床の間に懸(かけ)ありし鯨骨(げいこつ)の腰差(こしざし)、挑燈の棹(さほ)なり、細き皮を以て釘にかけたるが、自然(おのづ)と切(きれ)て落たるにてぞ有ける。下に繪の具箱など重(かさなり)て有り。思ふに其上なる故に、殊に音もはげしかりしか。こなたの思ひよらぬ筋は、少しの事にもたまきゆる計(ばかり)におもふものなれば、世に人の死する前に、魂氣(こんき)、出(いづ)るなどいふも、此やうなる事などに驚きたる時、其事ありと思ふならん歟。

[やぶちゃん注:鈴木桃野自身の、日付も明確に分かる実体験擬似怪談である。桃野の、世間で怪異とされる現象に対する極めて冷静にして、近代的科学的心理学的な立ち位置がよく判る話柄であり、こうした事例を敢えて怪奇談集の頭の方に持ってくる態度は、私には優れて好ましく感ずるものである。標題「魂東天に歸る」は「魂(たましひ)、東天(とうてん)に歸る」。

「醉雪」底本の朝倉治彦氏の注に『母の弟。多賀谷氏。字』(あざな)『は仲徳。丈七と称す。兄のあとをついで先手与力』(先手組与力(さきてぐみよりき):江戸幕府の番方(軍制・武官)組織の一つ。若年寄に属し、江戸城各門の警備・将軍外出時の警護・江戸城下の治安維持等を担当した。同じ治安を預かる町奉行及びその配下の町与力・町同心が役方(文官)であるのと対照的に、先手組の組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。ここはウィキの「先手組」に拠った)となった。天保一〇(一八三九)年『三月十五日歿、六五歳。法号酔翁院古庭雪道居士』とあり、高円寺鳳林寺の彼の墓にある古賀侗庵筆の漢文の碑文が記されてあるが、それを見ると、読書や詩を綴ることを好み、最も耽ったのが絵を描くことであったとあり、この条の「繪の具」が腑に落ちる。「命、盡(つく)るの前夜」とあるから、このシチュエーションは天保十年三月十四日と考えてよかろう。さすれば当日はグレゴリオ暦で一八三九年四月二十七日に当たる。標題から見て、三月十五日の明け方、逝去されたもののようである。

「加役」彼が先手組であることが前の注で判明していることから、彼は、かの江戸で最も恐れられた「火付盗賊改方」(主に重罪である「火付け」(放火)・「盗賊」(押し込み強盗団)・たちの悪い集団「賭博」等の凶悪犯を専門に取り締まった)であることが判る。実は「火盗改(かとうあらため)」(略称)は本来は臨時役職であって、幕府常備軍である御先手組弓及び筒(鉄砲組のこと)の頭(かしら)から選ばれ、御先手頭職務との兼役であったことから、「火盗」(やはる略称)は単に「加役(かやく)」とも呼ばれたのである(ここはウィキの「火付盗賊改方」を参考にした)。

「氣(き)上(あが)りしにや」血が頭にのぼったものか。「中風」(ちゅうぶう)「半身不隨」とあるから、脳卒中(重い脳梗塞)や高血圧性脳内出血の可能性が高い。

「人事を省(せい)せず」人事不省となること。通常の知覚や意識を失う、或いは失ったようにしか見えない状態となること。意識不明の昏睡状態を指すのが普通。この場合の「人事」とは「人として普通に為し得ること」「見当識があること」を指す。

「一人持」枕元に就く看病人が一人となること。ここは少し前から、夜伽では一夜を二人が交代して担当するようになってことを指すのであろう。但し、シークエンスは病人の容態が悪化していて気が気でなく(実際に翌日亡くなったのだから)、風も激しく吹いていたりして、二人とも起きていた(「打寄て物語などする」)のである。

「甲麗生」「甲麗」が名で「生」は青年男子を示す添え辞であろうが、不詳。

「半夜」真夜中。

「一貫目」三キロ七百五十グラム。

「椽板」縁側の板。芥川龍之介など、近代以降も「緣」を「椽」(本来は「垂木」を指すので誤り)と書く作家は多い。

「年久しく床の間に懸(かけ)ありし鯨骨(げいこつ)の腰差(こしざし)、挑燈の棹(さほ)なり、細き皮を以て釘にかけたる」ちょっといみが採り難いが、私は――「永年、床の間に懸けてあった鯨の太い骨を刳り抜いて作った「腰差」(=腰刀(こしがたな):腰に差す鍔のない短い刀。いろいろな趣味を持っていたようだから、これも「醉雪老人」の手製の遺愛の品だったのかも知れない。でなければ、床の間には飾るまい)で、「挑燈の棹(さほ)」のような「なり」(=「形(なり)」)をした腰刀で、「細い皮を以」つて「釘に」掛けておいたのが」――という風に読んだ。

「こなたの思ひよらぬ筋」想定が思った以上に狭められている状況下。

「たまきゆる」「魂消ゆる」。]

反古のうらがき 卷之一 八歳の女子を産む

 

  〇八歳の女子を産む

 松平冠山老公の采地(さいち)は常州とか聞(きき)し。百姓何某が娘、八歳にて子を産みたるよし、江戶にての評判、甚し。板本(はんぽん)となして、市(いち)に賣るものも有けり。老公、家臣を召して尋給(たづねたま)ひしに、「さだかに此事あるよし、知行のもの語りたれば、疑ふべくもなし」といひけり。老公、獨り信じ給はず、或日、駿足を命じ、一騎乘りにて家を出(いで)、三十里計(ばかり)の路程を一日に馳付(はせつけ)、名所(などころ)の如く尋行て、其家を求めしに、絶(たえ)て其人なし、況や其事をや。世の風説は大體ケ樣なるものなるべし幸に、三十里の所なれば、卽時に實否をしることを得たり。若(もし)數百里の外の事ならば、疑(うたがひ)を解くに緣(よし)なく、終生、疑ひおもふべし。人々、多く疑ひて、後に實(げ)に恠(あや)しきことも有者也」といはれしよし。老公は予が翁と同甲子生(かつしうまれ)にて、同庚會(どうこうくわい)に會(くわい)せし人也、其後も、予が祖母八十の賀詩を惠まれし也。

[やぶちゃん注:標題は「八歳の女(むすめ)、子を産む」である。さても、この奇談の元ネタは既に私の「耳囊 卷之十 幼女子を産(うみ)し事」にも載り(「下總國猿島(さしま)郡藤代(ふじしろ)宿」と場所が異なる。恐らくは茨城県南部に位置する旧北相馬郡藤代町で、現在の茨城県取手市藤代周辺、ここ(グーグル・マップ・データ)であると思われる。取手市は嘗ての常陸国と下総国に属した地域である)、ここにある通り、当時、いわば、「都市伝説」として爆発的にヒットしたもので(その結果として変形譚が数多くある)、かの滝沢馬琴編になる奇譚蒐集会「兎園会」の報告集「兎園小説 第二集」にも、海棠庵(常陸土浦藩士で書家としても知られた関思亮の号)の報告として「藤代村八歳の女子の子を産みし時の進達書」として載った。それらは総て「耳囊 卷之十 幼女子を産(うみ)し事」の注で電子化して注も附してあるので、是非、見られたい。また、このトンデモ噂は柳田國男も着目している(一目小僧その他」附やぶちゃん注 魚王行乞譚 二を参照)。

「松平冠山老公」は因幡国鳥取藩の支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)。

「采地」この場合、若桜藩の現地の藩領とは別に、飛び地として拝領している領地を指す。

「常州」常陸国。概ね、現在の茨城県に相当。前に示した「耳囊」

「三十里」約百十八キロメートル。江戸から直線だと、ひたちなか市辺りに当たる。但し、先に示した茨城県取手市藤代だと直線で四十一キロメートルで、実測距離としても、そんなにはないし、そもそもが藩主が供も連れずに行く距離ではない。一人で数値の誇張が疑われる。柳田も流石にあり得ないと思ったものか、上記リンク先の中で、『其地の領主が特に家臣をやつて確めた所が、さういふ名前の家すらもなかつたと、鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある』と本文と違ったことを書いている。まあ、判らぬでもない。そうしないと、この池田定常が確認したという事実が無化されてしまい、折角のトンデモ話の否定が上手くゆかなくなっちゃうからね。

「人々、多く疑ひて、後に實(げ)に恠(あや)しきことも有者也」やや言葉が足らず、意味が採り難い。「世の中には、このように多くの人々が疑っていながら、確認出来ないために無批判に信じ込んでしまっていることが多くあるのであって、後に、それが本当にあったまことの怪奇談として認識されてしまうことが、これ、あるものなのである」という意味で採っておく。

「予が翁」鈴木桃野の実父である幕府書物奉行を勤めた鈴木白藤。

「甲子生」ここは単に同じ「干支(えと)」の生まれの意であるので注意。次注参照。

「同庚會」は底本の朝倉治彦氏の注に『父白藤と同年齢を以てした集会』とあり、全部で六名からなるものであった旨の記載があり、そこに松平冠山の名もあり、『白藤は明和四』(一七六七年)『九月十六日生』まれとある(没年は朝倉氏の冒頭の解説によれば、嘉永四(一八五一)年)。或いは、明和四年の干支は丁亥(ひのとい)なに何故、同「庚」(コウ/かのえ)なのだろう? と疑問に思われる方がいるだろう。紛らわしいのであるが、この場合の「庚」は狭義の十干の七番目それを指すのではなく、「年齢」の意で、「同庚」で「おないどし」の意味なのである。「同甲」とも称する。

「予が祖母」底本の朝倉氏の注に『多賀谷氏』とあるから、これは桃野の母方を指す。多賀谷(たがや)氏は武蔵七党の一つである野与(のよ)党を祖とする一族である。【2018年9月24日追記】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、鈴木桃野の父白藤(本名・成恭)についての膨大な資料情報を頂戴したので追記する。白藤の舅は底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『先手与力多賀谷氏の』娘とするが、T氏の紹介になる国立国会図書館デジタルコレクションの潤三郎鈴木桃野とその親戚及び師友大正一四(一九二五)刊)によれば、白藤の妻の父は(【 】は「樂山」への右傍注)、

   *

一、舅  御先手曲淵隼人組與力之節  多賀谷樂山【俗名源藏】

   *

とあり、これは「多賀谷安貞」なる人物である(T氏に拠る)。講談社「日本人名大辞典」によれば、多賀谷安貞(享保一九(一七三四)年~文化元(一八〇四)年)は、『父にまなんで腹診法に精通したが』、『医業を』好まず、『親戚』・『友人や貧困者のみに治療をほどこす。のち』『砲術で幕府につかえ』、『銃隊与力となった』。『通称は源蔵。号は楽山』とある。また、T氏の紹介してくれた、国文学研究資料館」古事類苑データベースの「方技部十三」「醫術・四」診候」「診腹には、「皇國名醫傳後編 下」から引用して(一部の表記に手を加えた。【 】は割注。当該サイトでは原典画像も見られる)、

   *

多賀谷安貞、字源藏【號樂山。】、上野人、父安命善醫、安貞傳其術、尤精腹診、然不醫、逢親朋有疾與貧困不一レ醫、則爲療之、他有治者皆辭、仕幕府銃隊與力、安貞晩得疾、自知起、力疾著腹診秘訣一卷以遺後人、腹候之法其起久矣、天正慶長間竹田定加始唱之、松岡意齋、北山道長【著診腹法。】、堀井直茂【通稱。】。

   *

とある。]

反古のうらがき 卷之一 幽靈

 

  ○幽靈

 

 友人齋藤朴園が續從(のちぞひ)の妻は、これも新たに寡(やもめ)にして、再び朴園に嫁せし也。樣子がらもよろしく在(ある)に、安堵のおもひをなせしに、一日(あるひ)、忽(たちまち)、「吾に暇(いとま)くれ候へ」とせちにこひけり。固(もと)より留むべき辭(ことば)もなければ、其意に任せて歸しけるが、跡にて聞けば、「或夕暮、庭より内に入(いり)しに、前の夫と座敷の内に居(をり)し」とて、里付(さとづき)の婢(はしため)に語りしよし。其後、再び何方へか嫁せしよし也しが、此度は井に入て死せしよし、はたして狂氣に疑ひなし。朴園は早く歸せし故、此禍(わざはひ)を免れたりと語りあへり。

[やぶちゃん注:言っておくが、「前の夫と座敷の内に居し」の「と」は底本のママである。しかしだから読み採り難くなっている。「里付の婢」は女(後妻)が実家から伴って来た女中であろうから、前の台詞は後妻がその女中に語った内容であり、だからこそ「前の夫」なのであろうが、台詞自体が、甚だ妙である。ただ「前の夫」が「座敷の内に居」たのだったら、彼女は「前の夫と」とは言うまい。されば、この台詞を私は、

「ある夕暮れのことよ。私は庭から家の中に上ったの。そしたら――座敷の中に――死んだ前の夫と――私が――一緒に居たの。……」

という意味ではないかろうかと思うのである。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものでは、ここが、

『前の夫が座敷の内に居(をり)し』

となっている。これなら不審は雲散霧消するのであるが、正直、それでは――怪奇談としては常套に過ぎて今一つ――なのである。腑に落ち過ぎる怪談として、却って怖くないのである。しかし正直、大半の読者はここは「が」が正しいとお考えになり、ただの誤写か誤植であろうとされるのだろうが、にしても、だったら、「庭より内に入(いり)しに」という怪奇シーンの導入は何だったのか? と私は思うのである。寧ろ、日常から非日常への通路として、より驚くべき異界性を持って機能する(機能させる)ものなのであることは言を俟たない。さらに言えば、彼女の精神疾患を重篤な幻視性を持ったもの(後に井戸に飛び込んで入水自殺する点からもそう考えてよい)と捉えるなら、この幻視には――彼女自身が死んだ夫と一緒にいる姿が見えた――だから「と」なのだ――と考えた時、この短い話柄は慄然とさせる真正の怪奇性をも帯びてくると私は思うのである。或いは――そでただ二人は座っていただけなのか? 二人は何かしていたのではないか?――とまで私は妄想するのである。大方の御叱正を待つまでもない。私の深読み、いや、この解釈こそ私の中の怪奇趣味或いは狂気の由縁なのかも知れぬ。

「齋藤朴園」不詳。]

反古のうらがき 卷之一 狐 / 鈴木桃野「反古のうらがき」オリジナル電子化注~始動 

 

 次のブログ・カテゴリ「怪奇談集」は鈴木桃野著「反古のうらがき」の電子化注とする。

 鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)は江戸後期の幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子で、名は成虁(「せいき」か)、字(あざな)は一足、通称は孫兵衛、号は詩瀑山人・酔桃子・桃華外史など。天保一〇(一八三九)年、部屋住みから昌平坂学問所教授方出役となった。嘉永五(一八五二)年、前年と父の死を受けて家督を相続、射術を好み、随筆・画に優れた。甲府徽典館(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)学頭の任命を受ける直前に死去した。著作に本書の他、随筆「無可有郷」「酔桃庵雑筆」「桃野随筆」等がある。

 本「反古のうらがき(裏書)」は謙辞の通り、事実、勤務していた学問所で出る反故紙等の裏を利用して書かれたものと推定され、完成は諸書き入れ等から考えると、嘉永元年から嘉永三年頃か。全四巻で怪奇談八十五話を収録し、底本(以下)の朝倉治彦氏の解説によれば、『桃野の親戚友人、或いは居住地を中心とする近辺に起った異聞を興味のまま筆録した』ものである。

 底本は一九七〇年三一書房刊「日本庶民生活史料集成」第十六巻「奇談・紀聞」の朝倉治彦氏校訂の「反古のうらがき」を用いたが、読み易さを考えて句読点や記号を追加(一部は変更)、読みは底本に振られたものの他、訓読にやや難のあると私の判断したものにも読みを歴史的仮名遣で振った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。筆者によるポイント落ち割注は【 】で本文と同ポイントで示した(一部は位置をずらした)。注は禁欲的に附した。また、疑義を感じた部分については、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」に所収するものと校合し、その旨、注記した。【2018年8月18日始動 藪野直史】

 

 反古のうらがき

         醉 桃 子 著

         天 曉 翁 評 閲

 

[やぶちゃん注:「天曉翁」【2018年9月24日改稿】当初、不詳としていたが、いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、メールを戴き、情けなくも、校合に使用している国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種の解題に『卷中に批語を加へしは、幕末の名士淺野梅堂なり」とあるという御指摘を戴いた。これは、幕末から明治初期に生きた幕臣旗本で、蔵書家・芸術鑑定家でもあった浅野長祚(あさのながよし 文化一三(一八一六)年~明治一三(一八八〇)年)で、「梅堂」は号。ウィキの「浅野長祚によれば、『江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野氏の支族(家原浅野家)で家禄』三千五百『石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の』三『女直子と結婚』、『天保一〇(一八三九)年に使番、同一二(一八四一)年七月に目付に就任、翌年十月には『甲府勤番支配。甲府にあった幕府の学問所徽典館に教授として友野霞舟・乙骨耐軒を招くなど』、『規模を拡大した』(前に注した通り。桃野はここの学頭に決まった直後(赴任前)に病死している)。弘化二(一八四五)年三月には先手鉄砲頭、同四年五月に『浦賀奉行に転じ、以後』、五年間、在職した。この間、嘉永二(一八四九)年に『相模湾にイギリス船マリナー号が停泊する事件が発生。奉行として処理に当たるが、浦賀を初めとする江戸近海の防備状況の貧弱さを痛感し、江戸にたびたび防備の強化を上申した。大砲の弾薬、兵糧ともに在庫がほとんど無く、外国艦接近のたびに近隣の商人から借財して軍備を整えるという惨状』『に業を煮やし、辞表を提出』している。嘉永五年には『京都西町奉行に転任となった』。『京都在任中は町奉行所与力平塚瓢斎の助力も得て』、『洛中洛外の山陵調査にあたり、「歴代廟陵考補遺」を著す』。安政元(一八五四)年四月に『皇居炎上後は川路聖謨らと共に禁裏造営掛となった』。安政五年(一八五八)年の「日米修好通商条約」締結に際して、『老中堀田正睦』(まさよし)『(下総佐倉藩主)が上京して条約勅許を得るための交渉を行った際には、同行した川路や岩瀬忠震と共に対公家工作を行った。しかし』、『条約勅許は得られず、かえって将軍継嗣問題で一橋派と目されたため、失脚した堀田に代わって政権についた大老井伊直弼(近江彦根藩主)に疎まれ、同年』六月、『小普請奉行に左遷され』、『翌年』八『月には免職となった』。『桜田門外の変で井伊が暗殺された後』、文久二(一八六二)年七月には『寄合から寄合肝煎に挙げられ、同』十『月に江戸北町奉行に任ぜられた。しかし翌年』四『月には作事奉行、同年末には西丸留守居に転じて第一線から退き』、慶応三(一八六七)年に『致仕。向島に隠居し、後に入谷に転じ、詩文・書画に没頭した』。『書は杉浦西涯に学び、画は栗本翠庵・椿椿山に師事し、多くの作品を残すいっぽう、書画鑑定家としても名高く、中国書画の研究では当時第一人者と称された。また』、『蔵書家でもあり、所有書籍は』五『万巻に及んだとい』う。『著書に「歴代廟陵考補遺」「漱芳閣書画記」「安政御造営誌」「寒檠璅綴」「朝野纂聞」「浅野梅堂雑記」など』がある。『書は杉浦西涯に学び、画は栗本翠庵・椿椿山に師事し、多くの作品を残す』一方、『書画鑑定家としても名高く、中国書画の研究では当時第一人者と称された』とある。卷之三 大雅堂」末尾の評語で『◎大雅堂・文晃(ぶんてう)・應舉ナドノ畫ハ僞(ぎ)シ易シ。椿山(ちんざん)ノ畫ニ至テハ、天眞爛漫、實(まこと)ニ企及(ききふ)スベカラズ。夫(それ)サへ、近時、僞物、オビタヾシクアリテ、庸凡(ようぼん)ハ、ミナ、アザムカルヽ也。余、鑿裁(せんさい)ニ暗シトイヘドモ、椿山ノ畫ニ至ツテハ、闇中摸索スルモ、失ハジ』(下線太字は私が振った)と述べているが、T氏曰く、この『自信は「そーですよね。」で引き下がるよりありません』とは、これによって、目から鱗となった。T氏は『号「天曉」は見つけられませんでしたが』と言い添えておられ、私もネット検索を繰り返してやってみたが、やはり見出せなかった。T氏に改めて謝意を表するものである。]

 

 反古のうらがき 卷之一

 

  ○狐

 谷町といふ所の名主を、片山五郞左衞門といひて、片山永孚といへる書家の八代の孫也けり。予に語りしは、十六、七歳の頃、父が方にありて【わら店(だな)也。】、市ケ谷御門外、「ことぶき」といへる水茶屋へ、より合に行けり。夜五つ時頃に、神樂坂より「牡丹屋敷」といふ所を通る時、そゞろにおそろしく覺えて、逢坂下にてふと見るに、土手の向ふを行かふ挑燈あり、行合て、一つとなり、行違ひて、二つとなりする樣、尋常(よのつね)の挑燈にあらずと見る中に、五つとなり、六つとなり、又、寄合て一つとなる。『これ、狐火なるべし』と思ひて、早足に行過て前後を顧るに、宵ながら、人通もなし、漸(やうやく)抹香屋の前あたりと覺しくて、再び土手の方を見やりしに、此度は、挑燈、いくつともなく行違ふを見るに、みな、此方へ向ひて來(きた)る、水の上を行にてぞありける。其(それ)、近くよるを見るに、挑燈、みな、足ありて步む也。此方より彼方に行も同じ。此時、おそろしきこと極りて、一足も行(ゆき)能はず、立留りて其近きほとり迄來るを見しに、挑燈も足も、みな、狐火にてはあらず。人也。「いかゞして水を渡り來りしや」と、其足元を見れば、水上にはあらで、市ケ谷見付の橋を渡り來るにてぞありける。但し、抹香屋の邊りと思ひしより、水上と思ひしのみにて、別に恠(あや)しき事にてはあらざりけると也。

[やぶちゃん注:のっけから残念だが、実際の「怪奇狐火」ではなく、夜間の遠近感喪失に基づく錯覚に因る擬似怪奇体験談の直話である。しかし、語り(或いは桃野の書き方)の絶妙さから、読者は、「狐火」が「提灯」に化け、しかもその「提灯に人間の足が生え」、遂に「人に化けた」か、と思わせる仕掛けとなっていて、極めて上質の怪談となっている点にこそ着目すべきである。

「谷町」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、現在の市ヶ谷地区の新宿区住吉町(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「片山永孚」不詳。名は音なら「えいふ」、訓では「ながざね」か。

「わら店(だな)」「藁店」固有地名。現在の東京都新宿区袋町の光照寺の東北(ここ(グーグル・マップ・データ))の地蔵坂の脇。個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「藁店(わらだな)は1軒それとも10軒」を参照した。

「市ケ谷御門外」底本の朝倉治彦氏の補註に、『麹町から市ヶ谷への出口。門外には、八幡町、市ヶ谷田町一丁目があるが、市ヶ谷八幡の門前町八幡町には水茶屋』(寺社の境内や路傍で往来の人に茶を供し、休息させた茶店の称。葉茶を売る葉茶屋と区別して、水茶屋といった。室町時代から見られた一服一銭の茶売りが、葭簀張りの掛小屋に床几を設えるなどするようになってからの江戸時代の名称で、これらが、やがて酒食を供するようになって煮売茶屋・料理茶屋となり、店の奥に座敷を設けるところが現れると,それが男女の密会や売春の場となっていった。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『があった。寛政五』(一七九三)『年』、『水茶屋の許可が出ている』とある。

「夜五つ時」定時法では午後八時頃。

「牡丹屋敷」現在の神楽坂一丁目附近(ここ(グーグル・マップ・データ))。先に出した個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』」に、「新宿区町名誌」(昭和五一(一九七六)年新宿区教育委員会発行)から引用して、

   *

神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保十四年(一七二九)十一月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。

 宝暦十一年(一七六一)九月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌十二月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥あすか井、花園等の受領地となって町屋ができた。

   *

とある。同サイトには「牡丹屋敷」の記載が他にも複数ある。

「逢坂下」「逢坂」は「大阪」「美男坂」とも称し、現在の東京都新宿区市谷砂土原町三丁目に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。先に挙げた個人サイト「てくてく 牛込神楽坂」の「逢坂|市谷船河原町」に非常に詳しい。

「抹香屋」線香を商う店という一般名詞と採った。実は現在の神楽坂の一部は元は「通寺町」(とおりてらまち)と呼ばれ、寺が多かった。「東京理科大学理窓会埼玉支部」公式サイト内の「肴町は家光ゆかりの地」に以下の記載がある(一部の不審な字空けを除去させて貰った)。

   《引用開始》

 昔、神楽坂と言えば坂上(肴町)から坂下(牛込見付)までを指した。

 大久保道を横切り矢来に抜ける道は、左右に門前町が開け、神楽坂に比べ道幅も狭く雨が降ると傘をさす通行人が行き違い出来ない程、家の軒が迫っていた。通寺町、横寺町と呼ばれるように寺が多かった。明治のはじめ排仏毀釈により多数の寺が廃寺にされたがそれでもまだ狭い道の両側には向かい合うように寺が並び、朝夕どこともなく念仏や読経の声が左右から流れてきた。いまでも横寺町に入るとその雰囲気を残している。

   《引用終了》

以上の引用部の後の方に、『戦後、通寺町は住民から何の異論が出ずに神楽坂6丁目になったが、抹香臭い町名より神楽坂の方が格好良かったからであろう』とある。記者が、この『抹香臭い』と表現して呉れたお蔭で、このページを発見出来、「通寺町」の旧名も知り得た。御礼申し上げる。

「市ケ谷見付の橋」市ヶ谷見附から神楽坂へ架橋された現在の牛込橋。(グーグル・マップ・データ)。]

2018/08/17

譚海 卷之三 元和の比堂上之風儀惡敷事

 

元和の比堂上之風儀惡敷事

○元和の此迄は公家衆無狀にして、洛外放縱に步行(ほぎやう)有(あり)。猪隈大納言殿・鳥丸光廣卿など放蕩にて、禁中の女房など誘引して遊山にでられし事度々に及び、關東より嚴敷(きびしき)御誡(おんいましめ)ありて、猪隈殿は首領ゆへ斬罪に處せられ、家斷絶せり。光廣卿も御咎(おとがめ)によりて暫く配流せられたり。女房は中院通村公のおば君にて、禁中に伺候せられしが、伊豆國へ配流に處せられたり、その事通村公の集に見えたり。

[やぶちゃん注:「元和の比堂上之風儀惡敷事」「元和(げんな)の比(ころ)、堂上の風儀、惡敷(あし)き事」。「元和」は一六一五年から一六二四年までで、徳川秀忠及び徳川家光の治世であるが、以下に見る通り、ここで語られる朝廷公家衆が絡んだ醜聞事件で、江戸幕府による宮廷制御の強化や後陽成天皇退位の引き金ともなった「猪熊事件」は慶長一二(一六〇七)年の出来事であり、当時は家康は大御所として健在(家康の将軍職辞任は慶長一〇(一六〇五)年四月)で、時制がおかしい。

「無狀」無作法なこと。

「猪隈大納言殿」「猪熊事件」で知られる乱脈公家猪熊教利(のりとし 天正一一(一五八三)年~慶長一四(一六〇九)年)のことと思われるが、彼は大納言或いは権大納言ではなく、最終位階・官職は正五位下・左近衛少将である(彼の父を権大納言四辻公遠とする説があることからの誤認か、或いは同事件に連座した(但し、処罰はなされず、蟄居の後、二年後には赦免されている)烏丸光広(後注参照)が後(まさに元和二(一六一六)年に権大納言となったことを混同したものかも知れない)ウィキの「猪熊教利」より引く。初め、『高倉範国の養子として、中絶していた高倉家の跡を継ぎ』、天正一三(一五八五)年に叙爵、同二十年に『侍従に任じられ』、慶長二(一五九七)年には『従五位上に叙された』。『山科言経が勅勘を蒙って摂津国に下った後、教利は山科を称していたが』、同三年、『徳川家康の取り成しによって言経が朝廷に復帰したため』翌年、『勅命により山科を改めて猪熊を家名とした』。『家名は平安京の猪熊小路に由来するか』。同五年には左近衛少将、さらに『正五位下に叙任』され、同六(一六〇一)年には県召除目(あがためしのじもく)で『武蔵権介に任じられ』、家康より二百石を安堵された。『教利は天皇近臣である内々衆』と呼ばれた者の一『人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていた』。『政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院の使者として伏見城の家康を訪ねた事もある』。一方で、彼は在原業平や「源氏物語」の『光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった』。『また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」』『と称されていたという』。慶長一二(一六〇七)年二月、突如、『勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸等に誘っては女官と不義密通を重ねた』。そして、慶長一四(一六〇九)年七月、女官五名と烏丸光広(後注参照)ら公家七名との『密通が露顕した(猪熊事件)』が、『詮議の過程で教利がこれら乱交の手引きをしていた事が明らかとなり、激昂した天皇は処分を幕府に一任』し、八月四日、『幕府は教利逮捕の令を諸国に下し、捕らえ次第』、『京都所司代に引き渡すよう厳命した。所司代の追及を恐れた教利は』、『当時』、『かぶき者として知られた織田頼長の教唆を受けて西国に逃亡』した。『一説には朝鮮への亡命を企てていたともいう』が、『同月中に潜伏先の日向国で延岡城主・高橋元種により』、『召し捕られた』。九月十六日、『京都に護送後は二条に収監され』、十月十七日、『常禅寺で斬刑に処された』。享年二十七。『猪熊の家名は途絶えたが、家系は実弟・嗣良が再興した』とある。別により詳しいウィキの「猪熊事件もあるので参照されたい。朝鮮に亡命していたら、今頃、ますます半島からの反日感情が昂まったに違いないと思わせるヒップである。

「鳥丸光廣卿」公卿で歌人・能書家でもあった烏丸光広(からすまるみつひろ 天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)。ィキの「烏丸光広より引く。『准大臣烏丸光宣の長男。官位は正二位権大納言。細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ』。『経済的に恵まれた環境のもと』、僅か三歳で『従五位下に叙された。弁官や蔵人頭を経て』、慶長一一(一六〇六)年、『参議に任じられて公卿に列したが』、三年後の同十四年に『起きた猪熊事件』『に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた』。しかしその二年後の同十六年四月には『勅免されて還任し』ている。その後、元和二(一六一六)年には『権大納言に進み』、同六年、『正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られ』ない。『後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。とりわけ歌道は』慶長八(一六〇三)年に『細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される』。『本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めた』。歌集に「黄葉和歌集」があり、著書には「耳底記」・「あづまの道の記」・「日光山紀行」・「春のあけぼのの記」、他に仮名草子「目覚草」『などがある。また、俵屋宗達筆による』「細道屏風」に『画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに』「東行記」などがある。以下、「逸話」の項より抜粋すると、寛永三(一六二六)年のこと、『勅使として江戸にいた光広は平将門の伝説を知り、帰京して天皇に「将門は朝敵に非ず」と奏上』し、『これにより、将門は朝敵の汚名を返上した』という。『光広は「当世にうつけ者が』二『人いる」として、「沢庵は歌の名人であるのに、身の丈を知らず、我らに添削を頼まれる。これが』一『人のうつけである。我らも自分の丈を顧みずに、沢庵の歌を直す。これもまた大きなうつけである」と話したという』。『光広は屋敷の前を通る牛飼を事あるごとに止め、その牛を雇って遊郭に通っていた。しかも、車の上に毛氈を敷き、酒肴を設けて自若として通っていたという』。俊才であったのだろうが、懲りないエロ男という感じもジワジワと来る奴である。

「中院通村」村上源氏中院家当主で後水尾天皇の第一の側近であり、反幕府派の公卿中院通村(なかのいんみちむら 天正一六(一五八八)年~承応二(一六五三)年)。彼は権中納言中院通勝(みちかつ 弘治二(一五五六)年~慶長一五(一六一〇)年)の子であるが、ウィキの「猪熊事件を見ると、「猪熊事件」の処罰者の中に中院通勝の娘権典侍中院局(『伊豆新島配流』となり、元和九(一六二三)年九月勅免とある)がいる。しかしだとすると、通村の姉妹であり、「おば君」ではない。或いはただの誤りか、或いは、他に連座して流された女房(総て伊豆配流で赦免も同時)に、新大典侍広橋局(広橋兼勝の娘)・中内侍水無瀬(水無瀬氏成の娘)・菅内侍唐橋局(唐橋在通の娘)及び命婦讃岐(兼安頼継の妹)がいるから、通村の伯母(叔母)に当たる人間がこの中にいるのかも知れぬが、これ以上は調べる気にならない。悪しからず。

「通村公の集」ウィキの「中院通村を見ると、『古今伝授を受けた歌人として評価が高く、天皇御製の添削を命じられたほどであった』。『また、父・通勝の源氏学を継承し、天皇や中和門院などに対し』、しばしば「源氏物語」の『進講を行っている。世尊寺流の能書家としても著名で、絵画などにも造詣を見せるなど、舅の細川幽斎に劣らぬ教養人であった』とあり、「中院通村日記」があるとするから、この日記辺りを指すか。]

譚海 卷之三 堂上潛行の事

 

堂上潛行の事

○諸搢紳(しんしん)洛中往來は禁止也。齒を黑め粉(こ)を傅(つく)る事も、凡(およそ)人に分ちやすき爲(ため)なりとぞ。皆近世の事也。微行(びかう)せらるゝ時は、深編笠大小刀、裏付上下(うらつきかみしも)を着する也。上下(かみしも)は純子(どんす)・もうるのたぐひを用ひらるゝ也。遊山に出られて途中にて支度せらるゝには、其所の寺へ使(つかひ)をよせて、某(それがし)三位(さんみ)にて候、懸合支度(かけあひじたく)仰付(おほせつけ)られ被ㇾ下(くだされ)とて、其まゝ座敷へ通らるれば、何にてもありあふものにて食事まかなひ出(いだ)す、是(これ)京都の寺々の課役と同事になりてある事也といへり。

[やぶちゃん注:「潛行」身分の高い人が身を窶(やつ)して密かに忍び歩きすること。文中の「微行」も同義。

「搢紳」「縉紳」とも書く。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す。

「粉」白粉(おしろい)。

「純子」「緞子」に同じ。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の色を変えて、繻子織(しゅすおり:経糸・緯糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い)の手法で文様を出す絹織物のこと。精錬した絹糸を使う。

「もうる」莫臥爾。糸に金や銀を巻きつけた撚糸(モール糸)を織り込んで文様を出した織物のこと。経に絹糸、緯に金糸を用いたものを「金モール」、銀糸を用いたものを「銀モール」と称し、後には金糸または銀糸だけを寄り合わせたものもこう呼称するようなった。名前はポルトガル語「mogol」が由来らしく、もともとはインドのモグール(ムガル)帝国で好んで用いられたことからとされる。漢字では「莫臥児」「回々織」「毛宇留」「毛織

などの字が当てられる。

「三位」公家は朝廷に仕える貴族・上級官人の総称で、天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家を指したことから、公家の別称となった。

「懸合支度」と一語と捉えた。以下の文から「交渉による着替え及びそれに付随する準備や合間の休憩・食事」の意と採る。]

譚海 卷之三 堂上領所の百姓の事

 

堂上領所の百姓の事

○公家衆知行所は、多分(たぶん)五畿内・丹波・近江などにあり。その領所の百姓甚(はなはだ)橫平(わうへい)なるものにて、應對成(なり)がたきほどの事也。若(もし)公事(くじ)等出來(しゆつたい)の時は、所司代へ内證より賴まるゝゆゑ、甚さばき仕(し)にくき事とぞ。夫(それ)ゆへ公家領入組(いりくみ)たる土地は、殊に六箇敷(むつかしき)迷惑成(なる)もの也。又禁裏の御知行所は八瀨(やせ)領の内にあり、これらの百姓言語同斷なるものなりとぞ。

[やぶちゃん注:「多分」多くが。

「橫平」横柄。

「公事」訴訟。刑事民事ともであるが、ここは概ね民事のそれ。

「内證」表向きでなく、内々に意向が伝えられることを言う。無論、領主である公家から所司代に対してである。

「八瀨」京都市左京区の一地区。(グーグル・マップ・データ)。比叡山の西麓、高野川に臨む景勝地で、桜の名所。古くは山門青蓮(しょうれん)房が支配し、中世には青蓮院門跡領八瀬荘であった。八瀬荘民は山門へ奉仕する一方で「八瀬童子」と称し、朝廷の駕輿丁(かよちょう)を務め、課役免除の特権を得ていた。また、杣夫(そまふ)として洛中で薪商売を行った(以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。天皇の柩を担ぐ民とされ、伝説では最澄が使役した鬼の子孫ともされる八瀬童子」でも知られる地で(リンク先はウィキ。以下の引用もそこから。下線太字はやぶちゃん)、弘文天皇元(六七二)年の「壬申の乱」の『際、背中に矢を受けた大海人皇子がこの地に窯風呂を作り傷を癒したことから「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて「八瀬」となったという。この伝承にちなんで』、『後に多くの窯風呂が作られ、中世以降、主に公家の湯治場として知られた。歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されており、八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるとされている』。『比叡山諸寺の雑役に従事したほか』、『天台座主の輿を担ぐ役割もあった。また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。また、比叡山の末寺であった青蓮院を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座』(座(ざ):平安時代から戦国時代まで存在した、主に商工業者や芸能者による同業者組合。朝廷や貴族・寺社などに金銭などを払う代わりに、営業や販売の独占権などの特権を認められた)『の最初の記録は』寛治六(一〇九二)年『であり、記録上確認できる最古の座と言われている』。延元元(一三三六)年、『京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷』十三『戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した』。『この功績により』、『地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し』、『天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした』。『比叡山の寺領に入会権を持ち』、『洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた』、永禄一二(一五六九)年、『織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与え』、慶長八(一六〇三)年、『江戸幕府の成立に際しても』、『後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨を下している』。『延暦寺と八瀬郷は寺領と村地の境界をめぐってしばしば争ったが、公弁法親王が天台座主に就任すると、その政治力を背景に幕府に八瀬郷の入会権の廃止を認めさせた。これに対し』、『八瀬郷は再三に』亙って『復活を願い出るが』、『認められず』、宝永四(一七〇七)年になって、漸く『老中秋元喬知が裁定を下し、延暦寺の寺領を他に移し』、『旧寺領・村地を禁裏領に付替えることによって、朝廷の裁量によって八瀬郷の入会権を保護するという方法で解決した。八瀬郷はこの恩に報いるため秋元を祭神とする秋元神社を建立し』、『徳をたたえる祭礼を行った。この祭礼は「赦免地踊」と呼ばれる踊りの奉納を中心とするもので、現在でも続いている』(毎年十月の第二日曜日に行われる)とある。また、ウィキの「皇室財産を見ると、国立歴史民俗博物館の「旧高旧領取調帳データベース」よる幕末期の皇室領データの中に、「御料」地として「八瀬村」が入っている

譚海 卷之三 少碌なる堂上の事

 

少碌なる堂上の事

○少碌なるをば鍋取公家(なべとりくげ)などといひて、案内(あない)をしらぬものは、爨炊(さんすい)をも自身せらるゝ樣に覺えたり、所などのぞき見らるゝ事は決してなき事也。少碌の公家衆は家々の雜掌(ざつしやう)に養はるるやうなるもの也。上﨟なる故、俸入のさしつかひも存知なく、大(おほ)やう成(なる)事にて、たとへばしかじかの品ほしきよし云付らるゝ。高價にて求(もとめ)がたけれ共(ども)、夫(それ)を雜掌成難(なりがた)き由(よし)はいはぬ事、只(ただ)唯諾(ゐだく)して果さず打置(うちおか)ば、又催促ある時畏(かしこま)りたりと斗(ばかり)りいひて打おき、自然と事の止(やむ)を待(まつ)斗(ばか)り也。雜掌奉公の樣子謹愼なるものにて、主卿(しゆぎやう)の用(もちひ)られし鼻紙、はき捨(すて)られし草履(ざうり)、朝夕の餐餘(さんよ)、衣服の破壞せしに至るまで、皆火に焚(たき)穴に埋(うづめ)て、苛(いささか)も暴露せず、外事(ほかのこと)に用ひ汚(けが)す事はせず、鬼神のものを取(とり)あつかふが如し。

[やぶちゃん注:一見、冒頭は「日本鍋取公家雑掌残酷物語」であるが、主の要求を「唯諾」(人の言うことをそのまま承知すること、或いはその返答)しながら、一向にそれに応じないというシークエンスはなかなかに、その公家の救い難い阿呆面が浮かんできて面白い。

「鍋取公家」老懸(おいかけ:武官の正装の冠に附けて顔の左右を覆う飾り。馬の尾の毛で扇形に作ったものを掛緒(かけお:冠や烏帽子を顎の下で結び留める紐)で装着した。「冠(こうぶり)の緒」「ほおすけ」とも言った)を付けた冠を被った公家。また、下級の公家を嘲って呼ぶ語。

「案内をしらぬものは、爨炊をも自身せらるゝ樣に覺えたり」「爨炊」(サンスイ)は炊事一般のこと。「爨」も「かしぐ」で「飯を炊く」の意。この部分、意味が採り難いが、「腐っても公家であるのだが、そんな手元不如意の落ちた公家の有様について、本来的な彼らの根っからの公家意識に通じない者(「案内を」知らぬ「者」)の中には、そうした貧乏公家は炊事をさえ自分でやるように思っている者がいると心得る――が、そんな下々の者の担当することは決して彼らはすることはないしない――」と言う意である。そうでないと、直後の「臺所などのぞき見らるゝ事は決してなき事也」とジョイントしない。

「大(おほ)やう」「大樣」。ここは世間知らずの極致を言うべき、途轍もなくいい加減で大雑把なさまを指す。

「主卿」この「卿」は単に高貴な人・貴族の意の尊称の添え辞。

「餐餘(さんよ)」この場合、僅かな残飯も含まれようが、寧ろ、殆んど、或いは全く手を付けていない、十分に食べるに値するような残り物の謂いでとるべきであろう。

「暴露せず」芥(ごみ)として家から出すことはしない。

「鬼神のものを取(とり)あつかふが如し」この「鬼神の」の「の」は所有格(主である公家)の格助詞で、主格(雜掌)ではない。御霊(ごりょう)たる鬼神に触れたものは畏れ多く、触れることを憚る神聖にして危険なものであるから、下々の者の目に触れぬよう、塵芥としてゴミ屋に出すことをせず、燃やして天に昇らせ、地に埋めて土に返すというのである。

譚海 卷之三 泉涌寺下乘の事

 

泉涌寺下乘の事

○洛東泉涌寺は、四條院の仙骨を收奉(をさめたてまつ)りしより、世々帝王の御墓有(あり)て、國忌御法事等の節は、公家衆初め諸寺院拜禮に參詣するゆへ、甚(はなはだ)騷劇(さはがしげ)なる事也。參詣の人々家々の舊格にまかせて、乘物等をよする所迄よせてをりらるゝ事なるに、とかく舊格よりは少しも近く乘入(のりいれ)てをりらるゝ樣にせらるゝゆゑ、其目付(めつけ)有て江戸の下座見(げざみ)の如く甚むづかしく吟味する事也。今度(このたび)舊格にたがひて少しも近く下乘あれば、重(かさね)て夫(それ)をかくになして諍(あらそひ)のはしを起す事故(ゆゑ)、乘(のり)こむ陸尺(ろくしやく)を叱りて退(しりぞか)するも有(あり)、舁入(かきい)る乘物をやらじとするも有、法會の場甚だやかましき事也とぞ。御法事は般舟院(はんじふゐん)にても行るれども、みな泉涌寺へ參詣ある事也。

[やぶちゃん注:「泉涌寺」「せんにゅうじ」が現行の一般的読み方。現在の京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある((グーグル・マップ・データ))真言宗東山(とうざん(又は泉山(せんざん))泉涌寺。本尊は釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来(未来なので先取りして菩薩から転じている)の三世仏。ウィキの「泉涌寺」によれば、『平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」』或いは単に「御寺(みてら)」『と呼ばれている』(月輪陵は歴代天皇らの二十五柱の陵及び五基の灰塚と九基の墓がある)。仁和寺・大覚寺などとともに皇室所縁の『寺院として知られるが、草創の時期や事情については』、『あまり明らかではない。伝承によれば』、斉衡三(八五六)年、『藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣』(おつぐ)『が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという』(「続日本後紀」によれば、藤原緒嗣は承和一〇(八四三)年に『没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる』)。また、『別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間』(八二四年~八三四年)に『この地に草創した法輪寺が起源であり』、斉衡二年に『藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を』大同二(八〇七)年とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内にあ』る『)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる』。建保六(一二一八)年、『宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿』(しゅんじょう)『に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得て』、『この地に大伽藍を造営した』。この時、境内に『霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は源頼朝の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿』『は肥後国(熊本県)出身の学僧で』、正治元(一一九九)年に宋に渡り、足かけ十三年も滞中して『天台と律を学び』、建暦元(一二一一)年に日本へ帰国した僧で、『彼は宋から多くの文物をもたらし』、『泉涌寺の伽藍』も『全て宋風に造られた』。『泉涌寺は律(北京律)を中心として天台、東密(真言宗)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた』とある。

「騷劇(さはがしげ)なる」読みは私の恣意的なもの。音読みは如何にも生硬で厭な感じがするから避けた。「サウゲキ(ソウゲキ)」と読みたい方は、どうぞ。

「目付」監視人。今なら駐車場管理人である。

「下座見」江戸の見附(みつけ:見張り番が置かれていた城門などの施設)に勤務した門番の下役。ウィキの「下座見より引く。『通過する登城行列の鑑別を行った』。『見附を通行する行列に対し家格や役職に応じた答礼を門番側が行う決まりになっていた。この答礼準備のため』、『門番側はいち早く』、『行列の主を特定する必要に迫られた。このため』、『行列の鑑別を行う下座見という専門職が誕生した。熟練した下座見になると』、『遠方より一瞥しただけで瞬時に誰の行列か特定できたという』。電子化注てい松浦静山の甲子夜話に『収録されている本人の体験談によると、緊急事態に』、『通常の行列とことなり』、『数騎のみで駆け抜けた時にも』、『下座見は彼を松浦藩藩主と認識し』、『適切な答礼を指示したという』。

「今度」これは「直近時制で一度でも」の意である。

「陸尺」「六尺」とも書き、「力者(りよくしや(りょくしゃ)」の転とも言われる。近世に於いて輿や駕籠を担いだ人足や駕籠舁きのことを指す。

「般舟院」(はんじゅういん)は京都市上京区般舟院前町にあった天台宗の寺院で「般舟三昧院」とも称した。ウィキの「般舟院によれば、山号は指月山。本尊は阿弥陀如来。現在は西圓寺』『(さいえんじ)という単立の寺院となっている』((グーグル・マップ・データ))。「応仁の乱」の『後、後土御門天皇の発願により』、『恵徳上人善空を開山として伏見(京都市伏見区)指月山に建立、勅願寺とされた。しかし』、文禄三(一五九四)年から『本格的に始められた豊臣秀吉による伏見城の築城工事に伴って、西陣に移転した』。『江戸時代には、禁裏道場として御所直属の天台・真言・律・禅の四宗兼学の道場として栄え、東山の泉涌寺とともに皇室の香華院であった。二尊院・遣迎院・廬山寺とともに御黒戸四箇院のひとつでもあった』。『敷地は現在の嘉楽中学校の全域とその西隣にある般舟院陵をも含む広大な広さを誇っていたが、明治維新後の神仏分離令に伴い、皇室からの下付金がなくなったことなどにより衰微し、敷地の大部分は上京第七番組小学校(現在の嘉楽中学校)となった』。この般舟院は皇室歴代の尊牌を安置していたが、『その維持も存続も難しくな』って、明治四(一八七一)年にはそれらの尊牌は泉涌寺の霊明殿に移されて安置されることとなったという。近代まで、天明三(一七八三)年建立の正門と講堂が般舟院の遺跡として残っていたが、『関東大震災により大破した鎌倉の建長寺からの要請で、建長寺へ寄付するこことなり』、昭和一八(一九四三)年に移築され、現在、それぞれ、般舟院の「正門」は建長寺の「総門」に、「講堂」は建長寺の「方丈」となっている、とある。二〇一一年十一月の『新聞各紙の報道によると、般舟院の土地と建物は競売にかけられて他の法人に所有権が移っており、重要文化財指定の仏像』二『体も京都市内の他の寺院に保管されているとい』い、『さらに、この一連の競売問題に絡み、競売に絡んで解職された般舟院の元住職が、重要文化財の仏像』二『体を無断で持ち出し』て『隠匿していたとして』、二〇一二年七月九日に』『文化財保護法違反容疑で書類送検された』ともある。廃仏毀釈の亡霊が僧にまで乗り移っている。最早、京は魔都でおすなあ。]

2018/08/16

和漢三才圖會第四十二 原禽類 吐綬雞(とじゆけい) (ジュケイ類)

Tojyukei

とじゆけい  避株 吐錦雞

       錦囊 眞珠雞

       孝鳥 鷊【音尼】

吐綬雞

 

トウシウキイ

 

本綱吐綬雞人多畜玩大如家雞小者如鴝鵒頭頰似雉

羽色多黑雜以黃白圓點如眞珠斑項有嗉囊内藏肉綬

常時不見毎春夏晴明則向日擺之項上先出兩翠角二

寸許乃徐舒其頷下之綬長濶近尺紅碧相間采色煥爛

踰時悉斂不見或剖而視之一無所覩此鳥生亦反哺行

則避草木故有避株及孝鳥之名

 

 

とじゆけい  避株 吐錦雞

       錦囊 眞珠雞

       孝鳥 鷊〔(じゆけい)〕【音、「尼」。】

吐綬雞

 

トウシウキイ

 

「本綱」、吐綬雞は、人、多く畜(か)ひ、玩〔(もてあそ)〕ぶ。大いさ、家雞のごとし。小なる者は鴝鵒(ひゑどり)のごとく、頭・頰、雉に似て、羽色、多く、黑し。雜〔(まぢへ)〕るに黃白を以つてす。圓點あること、眞珠のごとくして、斑(まだら)あり。項〔(うなじ)〕に、嗉囊(ゑぶくろ)有り。内に、肉綬〔(にくじゆ)〕を藏〔(おさ)〕む。常の時は見えず、毎〔(つね)〕に、春・夏、晴明なるとき、則ち、日に向ひて之れを擺〔(はい)〕す。項の上に、先づ、兩〔つの〕翠〔(みどり)の〕角、二寸許りを出だす。乃〔(すなは)〕ち、徐〔(ゆる)〕く其の頷〔(あご)〕の下の綬を舒〔(の)〕ぶ。長さ・濶〔(ひろ)〕さ、尺に近し。紅と碧と相ひ間(まぢ)はる。采色、煥爛〔(くわんらん)たるも〕、時を踰(こ)へて[やぶちゃん注:ママ。]悉く斂〔(をさ)〕めて見へず。或いは、剖〔(き)〕りて、而して之れを視れども、一つも覩〔(み)〕る所、無し。此の鳥、生〔(せい)〕して亦、反哺〔(はんぽ)〕す。行くときは、則ち、草木を避く。故に、「避株」及び「孝鳥」の名、有り。

[やぶちゃん注:キジ目キジ科ジュケイ属 Tragopan の種群、或いはジュケイ Tragopan caboti。良安が「本草綱目」のみを引き、全く自身の評言を添えていないことで判る通り、本邦には棲息しない。ウィキの「ジュケイ属」によれば、『インド北部、台湾、中華人民共和国、ネパール北部、パキスタン北部、ブータン、ミャンマー西部』に分布し、『尾羽の数は』十八『枚』で、『本属の構成種を指す総称であるジュケイは一部の種でオスが下面が赤い羽毛で被われ、白い斑紋が入り勲章のように見える(ジュ<綬>は勲章に付ける短い紐)ことに由来する。オスは側頭部に肉質の突起と喉に肉垂がある。この肉質突起と肉垂は普段は収縮している。後肢には』一『つずつ』、『短い蹴爪がある』とし、五種を挙げる。一方、ウィキの「ジュケイ」(こちらは種(群)のページ)では、『中華人民共和国(広東省北部、江西省、湖南省南東部、浙江省、福建省、広西チワン族自治区)固有種』とし、『オスは頭部は黒、頸部は赤褐色の羽毛で被われる。側頭部にはオレンジ色の羽毛が伸長(冠羽)する。背は赤褐色の羽毛で被われ、淡褐色の斑紋や白や黒の斑点が点在する。胸部や腹部は淡褐色の羽毛で被われる。眼の周辺や頬に羽毛がなく黄色やオレンジ色の皮膚が露出する。喉に外縁が淡青色で灰緑色の斑紋が入る肉垂れがある。肉垂れの中央部はオレンジ色で紫色の斑紋が入る。メスは全身が褐色の羽毛で被われ、淡褐色や黒、白の斑紋が点在する』。標高七百~千四百メートルの高地の、『下生えに草やササが密生した混交林に生息』し、『食性は雑食で、植物の葉、種子などを食べる』。地表から二・五~四メートルに『あるリスの古巣に巣をつくるが、地表から』九メートルも上の『樹上に巣をつくった例もある』とある。グーグル画像検索「Tragopan cabotiをリンクさせておく。まあ、キンケイに並べて配するには相応しい、超ド派手な鳥ではある。

「鷊〔(じゆけい)〕【音、「尼」。】」不審。日本語の場合、「鷊」の音は「ゲキ・ギヤク(ギャク)」であるのに対し、「尼」は「ニ・ネイ」或いは「ヂ(ジ)・デイ」で通音しない。現代中国語でも前者は「」で、「尼」は「」で全然、違う。

「鴝鵒(ひゑどり)」スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ(八哥鳥)属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus(三亜種がいる)。ウィキの「ハッカチョウ」によれば、『原産地は、中国大陸南部、および、インドシナ半島。国別で言えば、中華人民共和国中部地域および南部地域、台湾、ベトナム、ラオス、ミャンマーに分布する』。現在の日本にもいるが、外来種で、『観察された地域は』、東京・神奈川・大阪・兵庫・福島・栃木・愛知・大阪・京都・和歌山・香川・鹿児島など広汎に亙っており、『神奈川、兵庫などでは繁殖の記録もある』。『なお、沖縄県与那国島・鹿児島県など』、『南日本での観察記録は、台湾などから飛来した迷鳥(すなわち自然渡来)の可能性もある』とする。全長は約二十六~二十七センチメートルで』、『ムクドリ大』、『全身の色は黒い。翼には大きな白い斑点があり、飛翔する際によく目立つ。下尾筒(かびとう)』『の羽縁と尾羽の先端が白い。突き出した冠羽が頭部前方を飾っているのが特徴的である。嘴(くちばし)の色は橙色、肢は暗黄色。この翼の斑点と、頭部の飾り羽によって識別は容易』とする。『食性は雑食で、植物の種子等のほか、タニシなど陸棲貝類、ケラなど地中棲の昆虫、甲虫類とその幼虫、イナゴ等のバッタ類である。ムクドリと同様の群れを作る例もある』。『鳴き声は、澄んだ声でさまざまな音をだす。ものまねもする習性がある』。『人によく懐き、飼い鳥とされる。人語などを真似るということでも親しまれて』おり、『マレーシアやシンガポールなどの都市部ではハトやすずめ以上に街中でよく見かける鳥であり、ホーカーセンター(東南アジアの屋台街)での食事中でも人をまったく怖がる様子もなく、近づいてきては食べ残しを漁っている』とある。或いは、この一、二年、私の家の周囲で五月蠅く盛んにいろいろな鳴き方で鳴いているのを、私は大陸産の人為的移入による特定外来種であるスズメ目チメドリ科ガビチョウ(画眉鳥)属ガビチョウ Garrulax canorus とばかり思っていたのだが(眼の周囲及びその後方に眉状に伸びた特徴的な白い紋様を持つ)、或いは、こやつかも知れん。今度、もう一度、面相をよく見てやろう。但し、良安のルビ「ひゑどり」はこれを我々の馴染みの「ひよどり」、スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis と誤認している。

「擺〔(はい)〕す」開く。

「采色、煥爛〔(くわんらん)たるも〕」彩りは、極めて煌びやかで強烈な耀きを持っているが。

「時を踰(こ)へて[やぶちゃん注:ママ。]」通常の日常的な時空間に於いては。

「悉く斂〔(をさ)〕めて見へず」総て完全に体内に収納していて見せない。

「生〔(せい)〕して」成長して成体となると。

「反哺〔(はんぽ)〕す」東洋文庫訳は、ここを、『母親に逆に食物を口移しに食べさせる』と訳している。]

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅰ) (総論部)

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十九〕

 

 村里部 鎌倉郡卷之三十一

 

  山之内庄

○岩瀨村〔以波勢牟良〕 小坂鄕に屬す、江戸より行程十二里、土俗は傳て賴朝の時世、奧州より岩瀨與一太郎と云者、捕はれ來り、後、こゝに居住せり。夫より地名となると云ふ。按ずるに、與一太郎は佐竹の家人にて、治承四年十一月、獲せられ、賴朝の見參に入しに、直言を述て恩免を蒙り、遂に家人に加へられし事【東鑑】に見えたり。仁治元年三月、當村を以て上之村證菩提寺域内新阿彌陀堂の料所に宛つ〔證菩提寺文書に據る、全文は彼寺の條に引用せり。〕。正和二年巳來、堂料・供米等、給主矢田四郎左衞門尉盛忠、未進せしむるにより、文保元年十二月、更に公田十分一を村民に免許せられ、向來未進なく供料辨濟す可き旨、下知す〔上之村證菩提寺文曰、山内庄本鄕、新阿彌陀堂供僧等申、供米未進事、右岩瀨鄕給主矢田四郞右衞門尉盛忠、正和二年以來濟之由、就訴申尋下之處、如請文者、公田十分一、被免許于百姓等訖、於殘定田分者無未進云々、者主寺供料等者、難被免除之旨、先日沙汰畢、然則守本員數、可究濟之狀、下知如件、文保元年十二月十四日沙彌華押、左衞門尉平華押。〕。元弘三年十一月の沽券狀にも當村名見ゆ〔金澤稱名寺文書曰、賣渡相模國山内庄岩瀨鄕事、合百文者右所者自明年甲戌正月一日、至于明後乙亥十二月晦日、貮ケ年貮作買主可令知行上、爲御所修造料足、止公私萬雜事、所被沽却也、但未實檢候間、假令一年中得分、百參拾貫文、實檢以後、令不足者可被延年記、有□者重可被召錢賃、仍沽券如件、○元弘三年十一月二十四日、□眼華押、重能華押。〕。正平七年〔北朝文和元年。〕正月、將軍尊氏、當村を以て、島津周防守忠兼が勳功の賞に宛、行へり〔島津文書曰、下島津周防守、可令早領知相模國山内庄内岩瀨鄕事、右爲勳功之賞所宛行也、者早守先例可致沙汰之狀如件、正平七年正月十日、尊氏袖判あり。〕。文和三年六月宇子ノ局が代官飯田七郞左衞門尉、當所に亂入し、忠兼の代官池田右衞門尉等を殺害に及べり。因て狼籍を鎭むべき旨、尊氏・義詮等の下文あり〔島津防守忠兼申、相模國山内庄、岩瀨鄕幷倉田鄕事飯田七郞左衞門尉、卒多勢打入當所致合戰、殺害忠兼代官、池田右衞門尉以下畢云々、爲實冑者尤似重科、鎭狼藉無相違候樣、可被致計沙汰申候、六月廿四日修理大夫殿、尊氏華押。又曰、島津周防守申、相模國所領事、先度如令申候、任理非急速可有御沙汰候謹言、八月廿四日、左馬頭殿、尊氏華押。又曰、島津周防守申、相模國山内庄、岩瀨鄕代官等、宇子御代官、殺害事、委細可有尋注候謹言、九月十二日、左馬頭殿、義詮華押。又曰、島津周防守申、相模國山内岩瀨榔代官殺害事、任被仰下之旨、相尋實否候之處、字子局官、飯田七郞左衞門、令殺害島津周防守代官、池田右衞門殿以下輩之條、無其隱候、以此旨可有御披霧候、恐惶謹言、文和三年十月廿七日、進上御奉行所、彈正少弼直重華押。又曰、島津周防守忠兼申、相模國山内岩瀨榔代官殺害事、任被仰下之旨、相尋實否候之處、去文和三年六月九日、宇子局代官、飯田七郞左衞門尉、打入當鄕、令殺害忠兼代官、池田右衞門尉以下輩之條、無其隱候、若此條僞申候者、佛神御罰於可罷蒙候、可有御披露候、恐惶謹言、文和三年十一日廿日、進上御奉行所、彈正少弼直重華押。〕。永德三年十二月、左兵衞督氏滿、當所を鎌倉明月院の領に寄附す〔明月院文書に據る。全文明月院の條に囲繞す。併せ見るべし。下至德・長祿の二條も是に同じ。〕。至德三年三月、僧道光、當村の内、白河局の闕地を明月院に寄附あり。長祿元年五月、上杉兵部少輔房顯、當村諸役免除の事を下知す。これ、明月院領たるを以なり。大永二年の文書には明月院領岩瀨鄕の内、今泉村と記せり。さては此頃に至り、院領の地は別に分折して今泉村と唱へしこと知らる。天文四年三月、更に又、當村の内、孫四郎名田〔此地名、今、詳ならず。〕の地を、明月院に寄附の事あり〔明月院文書。是も全文は彼院の條に引用すれば、併せ見るべし。〕。永祿二年の頃は當村北條左衞門佐氏堯の知行なり〔【北條役帳】曰、左衞門佐殿知行百六十貫文、東郡岩瀨鄕。〕。同五年、蔭山長門守、當鄕の内を圓覺寺塔頭富陽庵に寄附せしこと、彼庵所藏の文書に見えたり〔圓覺寺富陽庵の條、併せ見るべし。〕。天正十五年七月、北條氏より當村中、軍勢の簡閲あり〔其文書、村民源兵衞家藏す。丁亥七月晦日、岩瀨小代官百姓中と見え、虎朱印を押す。〕。民三十九、廣十町袤四町許〔東、今泉村、西、笠間村、南、大船村、北、桂・公田二村。〕。延寶六年、成瀨五左衞門、檢地す。今、領主松平大和守矩典〔右は御料所なり。元祿十一年、地を裂て、木原兵三郎・菅谷平八郎正輔・小濱半左衞門利隆に頒ち賜ひ、御料の外三給の地となりしを、元文二年、木原氏支族、賴母某に分地し、なべて四給となれり。又、御料の地も、後年、酒井雅樂頭親本に賜ひ、寛延二年、松平大和守朝矩に替賜しが、文化八年、一村すべて松平肥後守容衆に賜ひ、文政三年、今の領主に替れり。〕。塚宿より鎌倉への路、村の西南界にかゝれり〔幅二間。〕。

○高札場 ○小名 △瀧ノ臺 △瀧ノ谷 △五郎ノ谷 △入ノ谷 △ふりが谷

○山 南北二所にあり、何れも小山なり。○砂押川 南方を流る〔幅二間許。〕。此水を建て水田に濯漑す。板橋二を架す。一は切通橋、一は離山橋と云ふ。各小橋なり。

○稻荷社 保食・大己貴・大田・倉稻魂・大宮姫の五座を祀て五社明神とも唱ふ。村の鎭守なり。村持。建久中、岩瀨與一太郎、奉行して建立すと傳ふ。幣殿・拜殿等あり。例祭九月廿九日。鶴岡職掌坂井越後、神職を兼ぬ〔越後が家傳に據に、祖時保、當社の神職なりしを、文治中、職掌に保せられ、彼地に移れり。後年、戰國の頃、爰に退住せしに、文祿中、復職す。故に兼職すとなり。〕。 △末社  若宮 ○神明宮 村持。下同。〇三島社 ○白山社 〇八幡社 ○貴船社 ○十二天社 〇諏訪社 〇靑木明神社 ○番場社 ○權現社 神號、詳ならず。 ○辨天社

[やぶちゃん注:岩瀬村総論部。因みに、私は教員になった当初(勤務先は本郷台の柏陽高校で、自転車で通勤していた)三年ほど、岩瀬の怖ろしく古いアパートに住んだ。懐かしい場所である。ここ(グーグル・マップ・データ)。私が居たのは西念寺(実は、この近くには、昔、木舟(貴船)大明神という家が一軒あって、現在は通称で「木舟」及び「大明神」という家に分かれているが、その二件の家の間の山に「木舟大明神」という祠があり、これは以下に記す岩瀬与一太郎を祀っている、と「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)にあるのだが、そう言えば、アパートの近くの山の崖上にそんな赤い祠があったのを、今、思い出した)の東側を廻り込んだ谷戸の奥で、谷戸の奥には旧家と広大な栗林と池があり、アパートを出ると、左右に「自然風致地区」と「保存樹林」と書かれた柱が建っていた。春には巨大なウシガエルが無数にその池から這い出して来て(この岩瀬は日本で最初に食用のウシガエルの養殖地となったところであり、そのウシガエルの餌として、やはり本邦に最初にアメリカザリガニが齎された地であった。洪水で養殖池が決壊、ここから日本全国へウシガエルとアメリカザリガニが播種されたのである)、道路のあちこちに蹲っていた。栗林は蝉の巣窟で、夏の夜中でも気温が上昇するや、一斉に鳴き出し、それはもう、シンバルを鳴らすようなけたたましさであった。巨大なムカデ(二十センチメートル越えで部屋を走るザラザラという音が凄かった。菜箸で挟み、湯に漬けて往生して貰ったが、その湯がかかった腕は翌日蚯蚓腫れになった)やゲジゲジ(これはポットン便所――これが恐るべきことに、雨が降ると、便槽が増水し、ハネが上って来るシロモノなのであった――の隅にいた。体幹だけでやはり二十センチメートルはあり、脚も含めると、想像を絶するモンスターであった)にも出逢った。そういう何とも言えない意味でも忘れ得ぬ場所なのである。

「岩瀨與一太郎」岩瀬義正(生没年不詳)は常陸国(現在の茨城県)出身。常陸の豪族佐竹秀義(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年:清和源氏義光流。新羅三郎義光の孫の源昌義が常陸国佐竹郷に住み、佐竹を称したことに始まる佐竹氏の第三代当主)の家人(けにん)。治承四(一一八〇)年十一月の源頼朝による佐竹征討(佐竹氏は平家との縁が深かったことから、頼朝の挙兵に従はず、「富士川の戦い」の後、長年、佐竹と私怨から争っていた上総広常などの薦めによって頼朝は討伐を決した。当時の佐竹家惣領であった秀義の長兄佐竹義政は、広常の姦計によって征討戦の前の会見で殺害されている)では、金砂(かなさ)山に籠って防戦した。捕らえられた際、本来、力を合わせて平家を討つべき源氏の同族のたる佐竹氏を攻めたことを涙ながらに抗議し、これには頼朝も言葉を失い、彼を許して御家人の列に加えた。但し、秀義は辛くも逃げのび、後に彼も頼朝から罪を許され、家臣として列せられた。文治五(一一八九)年の「奥州合戦」に於いては頼朝軍の一員として参戦して武功を挙げ、御家人に列せられている。「吾妻鏡」の治承四年十一月八日の当該部(末尾の別件をカットしたが、ほぼ全文である)条を引く。

   *

八日丙辰。被收公秀義領所常陸國奥七郡幷太田糟田酒出等所々。被宛行軍士之勳功賞云々。又所逃亡之佐竹家人十許輩出來之由。風聞之間。令廣常義盛生虜。皆被召出庭中。若可插害心之族。在其中者。覽其顏色。可令度給之處。著紺直垂上下之男。頻垂面落淚之間。令問由緒給。依思故佐竹事。繼頸無所據之由申之。仰曰。有所存者。彼誅伏之刻。何不弃命畢者。答申云。彼時者。家人等不參其橋之上。只主人一身被召出。梟首之間。存後日事逐電。而今參上。雖非精兵之本意。相構伺拜謁之次。有可申事故也云々。重尋其旨給。申云。閣平家追討之計。被亡御一族之條。太不可也。於國敵者。天下勇士可奉合一揆之力。而被誅無誤一門者。御身之上讎敵。仰誰人可被對治哉。將又御子孫守護。可爲何人哉。此事能可被𢌞御案。如當時者。諸人只成怖畏。不可有眞實歸往之志。定亦可被貽誹於後代者歟云々。無被仰之旨。令入給。廣常申云。件男存謀反之條無其疑。早可被誅之由云々。被仰不可然之旨被宥之。剩列御家人号岩瀨與一太郎是也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

 八日丙辰(ひのえたつ)。秀義の領所の常陸國奥七郡幷びに太田・糟田・酒出等の所々を收公せられ、軍士の勳功の賞に宛て行はらると云々。

 又、逃亡する所の佐竹家人十許りの輩、出來するの由、風聞するの間、廣常、義盛をして生虜(いけど)らしめ、皆、庭中に召し出さる。若し、害心を插(さしはさ)むべきの族(うから)、其の中に在らば、其の顏色を覽(み)て度(はか)らしめ給ふべきの處、紺の直垂(ひたたれ)の上下(かみしも)を著するの男、頻りに面を垂れ、落淚するの間、由緒を問はしめ給ふ。故(かれ)、佐竹の事を思うに依つて、頸(くび)を繼(つ)ぐに據所無(よんどころな)きの由、之れを申す。仰せて曰はく、

「所存有らば、彼の誅伏の刻(きざみ)、何ぞ命を弃(す)て畢(をは)らざるや。」

者(てへれば)、答へ申して云はく、

「彼の時は、家人等、其の橋の上に參らず[やぶちゃん注:佐竹義政は現在の茨城県東茨城郡美野里町大谷附近にあったと思われる大矢橋橋上で不意打ちされ、謀殺された。]、只、主人一身を召し出され、梟首するの間、後日の事を存じ、逐電(ちくてん)す。而るに、今、參上すること、精兵の本意に非ずと雖も、相ひ構へて拜謁の次(ついで)を伺ひ申すべき事有る故なり。」

と云々。

 重ねて其の旨を尋ね給ふ。申して云はく、

「平家追討の計を閣(さしお)きて御一族を亡ぼさるるの條、太(はなは)だ不可なり。國敵に於ては、天下の勇士、一揆の力を合せ奉るべし。而るに、誤り無き一門を誅せらるれば、御身の上の讎敵(しうてき)は、誰人(たれひと)に仰せて對治せらるべきや。將又(はたまた)、御子孫の守護は何人(なんぴと)たるべきや。此の事、能く御案を𢌞(めぐ)らさるべし。當時のごとくんば、諸人、只だ怖畏(ふい)を成し、眞實歸往の志[やぶちゃん注:本心からの帰順の意志。]、有るべからず。定めて亦、誹(そし)りを後代に貽(のこ)さるべき者か。」

と云々。

 仰せらるる旨、無くして入らせしめ給ふ。廣常、申して云はく、

「件(くだん)の男、謀反を存ずるの條、其の疑ひ無し、早く誅せらるべきの由と云々。

 然るべからざるの旨を仰せられ、之れを宥(なだ)められ、剩(あまつさ)へ、御家人に列す。岩瀨與一太郎と號すは是れなり、と云々。

   *

「仁治元年」一二四〇年。

「上之村證菩提寺」現在の横浜市栄区上郷町にある真言宗五峯山一心院證菩提寺。鎌倉市岩瀬の東北東二キロメートルほどの位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。頼朝が石橋山で挙兵した際、頼朝の身替りとなって討死した佐那田与一義忠の菩提を弔うために鎌倉の鬼門に当たる当地に建久八(一一九七)年(文治五(一一八九)年ともし、「相模國風土記稿」ではこれを採っている。ここ(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像))に創建された。

「證菩提寺文書に據る、全文は彼寺の條に引用せり」ここ(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。左下後半)。

「正和二年」一三一三年。

「矢田四郎左衞門尉盛忠」不詳。

「文保元年」一三一七年。

「上之村證菩提寺文」直前のリンクの末行から次のページにかけて記されてある。

「元弘三年十一月」一三三三年。幕府滅亡の半年後である。鎌倉幕府は、元弘三年五月十八日から同月二十二日までの五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で、一三三三年六月三十日から七月四日に当たり、因みに、時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、一三三三年七月八日から七月十二日に相当する。

「沽券狀」「估券(状)」とも書き、文書の形式から「避文(さりぶみ)」「去状」とも称した。土地・家屋や特定の諸権利を売却する際、売主の発行する証文。令制では、土地売買の時、売主が沽券を出すのではなく、その地域の下級支配者である郷長などが、上級の官司(国郡司)に解文(げぶみ)を提出して許可をとった。平安中期には、売主が直接、買主に沽券を渡すようになったが、沽券の様式は、引き続き、解文の形式で書かれ、郷保(きょうほ)の担当役人などが証判を加えることが多かった。平安末期になると、売主だけの署名又は私的な証人が連署する沽券に変った。このような私券制に変ると、権利の証明や売買の保証のため、手継証文の交付や追奪担保文言の記入が必要となった(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「正平七年〔北朝文和元年。〕」一三五二年。正確には「正月」は北朝ではまだ観応三年(観応三年九月二十七日(ユリウス暦一三五二年十一月四日)に後光厳天皇の即位により、文和に改元している)。

「島津周防守忠兼」(生没年不詳)は鎌倉末期から南北朝にかけての武将で播磨国下揖保荘の地頭であった。元弘三(一三三三)年四月二十七日、足利高氏(後の尊氏)より、後醍醐天皇の勅命を伝えられ、「元弘の乱」に参戦したが、後に尊氏とともに建武政権から離反、畿内各地を転戦、「観応の擾乱」でも尊氏党に与(くみ)して活躍、歴戦の武功により、播磨布施郷・甲斐国花崎郷・相模国山内荘・同岩瀬郷等を領有した(以上はウィキの「島津忠兼」に拠った)。なお、彼の島津家は島津播磨家で、薩摩国島津氏の支族である越前島津氏(越前家)の忠行系である。

「文和三年」一三五四年。南朝は正平四年。

「宇子ノ局が代官飯田七郞左衞門尉、當所に亂入し、忠兼の代官池田右衞門尉等を殺害に及べり」「宇子ノ局」(「うねのつぼね」或いは「うすのつぼね」か。読みも判らぬ)以下の事件に関わった当事者らは孰れも不詳であるが、「小助の部屋/鎌倉郡(玉の輪)をたずねて」というページに、『足利尊氏から岩瀬郷を与えられた島津忠兼は池田右衛門尉を代官として岩瀬郷を支配させてい』たが、 この文和三(一三五四)年に『飯田郷の飯田七郎左衛門尉が岩瀬郷に乱入し』、『池田右衛門尉を殺害』、『島津忠兼の訴え』により、『足利尊氏は』、『次男で関東管領をつとめる足利基氏と江戸直重に処置を命じ』たとあり、この辺りから、次第に『関東管領が鎌倉郡で勢威をふるうようにな』ったと記されてある。事件処理に関わった関東管領方の人物は面倒なので注さない。

「永德三年十二月」一三八三年。南朝は弘和三年。

「左兵衞督氏滿」第二代鎌倉公方足利氏満.

「明月院文書に據る。全文明月院の條に囲繞す。併せ見るべし。下至德・長祿の二條も是に同じ」底本の前巻のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像)。左下から。後も同じなので注さない。

「至德三年」一三八六年。南朝は元中三年。この六年後の元中九/明徳三(一三九二)年、延元元/建武三年(一三三六)年(京を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った年)から五十六年間続いた南北朝時代は、南朝第四代の後亀山天皇が北朝第六代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一をみた。

「道光」不詳。

「白河局」不詳。

「闕地」闕所(地)。本来は死亡・逃亡・追放・財産没収などによって本来の所有者・権利者を欠く状態になった土地や所領を指した(跡継ぎがいないままに病没した者の土地などもかく称せられた)。参照したウィキの「闕所」によれば、『鎌倉時代以後、戦』さ『による敗者や犯罪を犯した者の土地などを没収することを闕所と称する事例が登場し、室町時代にはもっぱらこちらの意味で用いられるようになった。なお、この場合、対象者の全財産を没収することを「闕所」と称し、一部没収である「収公」との区分が付けられていた。前者の場合は戦いの勝者が、後者の場合は警察権の行使者が獲得し、その自由処分に任された。前者の代表的なものとして治承の乱の平家没官領、承久の乱の京方跡闕所、元弘の乱の北条高時法師与党人跡闕所などが挙げられる。後者の場合、通常は犯人を追捕検断し、裁判で有罪とした者が闕所を行うこととされていたが、多くの場合は裁判で闕所を決定した幕府が獲得し、実際に追捕検断にあたった地頭や荘官などが報償としてその一部の分与を受けた』。『闕所となった土地はその仕組上、警察・司法・軍事に関する諸権限を有していた幕府に集中することとなったが、幕府はその一部を自己の直轄領に編入し、追捕検断にあたった者に分与したものの、闕所によって御恩と奉公(土地給付とその見返りである御家人役負担)の考えに基づく主従関係が破綻することは望ましいものではなく、新しい領主を決定しなければならなかった。当然のように前述の一族や本主が給付を求めて訴え、それ以外にも希望者が殺到して幕府の頭を悩ませた』。「御成敗式目」には「承久の乱」の『闕所地(京方跡闕所)の処分が決定した後も』、『本主として権利を主張することを禁じたり』(第十六条)、『裁判中に闕所となることを期待して当事者を誹謗することを禁じたり』(第四十四条)『している。また、鎌倉時代後期には北条氏一族が各地の御家人の所領を奪った反動により、鎌倉幕府とともに同氏が滅亡すると、北条氏に所領を奪われた御家人たちが本主権を盾に闕所(北条高時法師与党人跡闕所)の給付を求めて後醍醐天皇の新政権に殺到した』。『室町時代になると、室町幕府の闕所処分に現地の守護なども関与するようになり、守護領国制形成にも影響を与えた。また、有徳人など所領を持っていない武士以外の人々に対しても』、『家屋敷や動産などを没収する闕所が行われるようになった』とはある。旧所有者である「白河局」が何者か判らぬので何とも言い難い。

「長祿元年」一四五七年。但し、「五月」とあり、正確には康正三年。長禄への改元は康正三年九月二八日である。

「上杉兵部少輔房顯」山内上杉家第十代当主で関東管領であった上杉房顕(ふさあき 永享七(一四三五)年~寛正七(一四六六)年)。鎌倉公方足利成氏によって暗殺された関東管領上杉憲忠の弟。

「大永二年」一五二二年。

「分折」「分析」の原義に同じい。分け割(さ)くこと。

「天文四年」一五三五年。

「永祿二年」一五五九年。

「北條左衞門佐氏堯」北条氏尭(うじたか 大永二(一五二二)年~永禄五(一五六二)年?)は後北条氏の一族。第二代当主北条氏綱の四男で、北条氏康の弟。ウィキの「北条氏尭」より引く。『三兄為昌の死後、叔父北条幻庵の後見を受けながら、上野平井城の城将を務めたり、房総半島に進軍するなど弘治年間から活躍するようにな』った。永禄三(一五六〇)年には『幻庵の長子三郎が死去したため』、『武蔵小机城主となり、翌年には長尾景虎の関東進出により』、『河越城に入城し、長尾軍攻撃を死守している(小田原城の戦い)。一方で伊達氏の史料伊達文書から伊達氏と外交交渉を行っているなど』、『後北条氏において重要とされる将だった』が、永禄五年以降には『氏尭に関する史料が現在』、『見当たらないため、おそらくこの前後に死去したと思われる』。『長らく北条氏康の九男氏光と同一人物とされてきたが、佐脇栄智の研究で氏尭の生年がはっきりした結果、氏康と』七『歳しか違わないことや氏光の存在も明確になっているので、現在は氏綱の四男で氏康の弟という見方が支配的である。この問題は氏康の子供のうち、明確に生年がわかっているのは氏政、氏規と桂林院殿(北条夫人)ぐらいで後は諸説あることが問題の引き金になっている。一方で、氏康の六男(七男説もある)氏忠と氏光は氏尭の子で死後養子に出されたのではという説もある。また、娘は正木頼忠室になったという(北条氏隆の娘または田中泰行の娘とも)』とある。なお、以下の「蔭山長門守」による土地の寄付の記事が推定没年と一致する

「蔭山長門守」個人サイト「遠州古城めぐり」の「河津城」に、天正一八(一五九〇)年に河津城城主として豊臣水軍の大侵攻作戦に戦わずして降状したらしい蔭山長門守氏広とある人物と同一人かと思われる。

「圓覺寺塔頭富陽庵」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「圓覺寺富陽庵の條、併せ見るべし」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。右下。

「天正十五年」一五八七年。

「簡閲」総兵を召集して行う点呼。

「虎朱印」小田原北条第二代当主北条氏綱が初めて用いた朱印。「虎の印判」と呼ばれ、「祿壽應穏(ろくじゅおうおん)」と陽刻された方形の上部に飛び出して虎が蹲っている姿が描かれてある。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の『「天下布武」の朱印』のページに載る弘治二(一五五六)年)九月十四日北条家の虎朱印状が見易い。

「廣十町」「廣」(広さ)は「東西の長さ」を指す。一キロと九十メートル。

「袤四町」「袤」(ボウ)は「南北の長さ」の意。四百三十六メートル強。

「延寶六年」一六七八年。

「成瀨五左衞門」藤沢宿代官成瀬重治(「鎌倉市史 近世通史編」(平成二(一九九〇)年吉川弘文館刊)では成瀬重頼とし、ネットでも僧表記するページもある)。複数回、既出既注であるが、再掲しておくと、「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。

「今」本「相模国風土記稿」(天保一二(一八四一)年成立)が執筆されている頃。時系列がここだけ、進んでいるので注意。

「松平大和守矩典」「とものり」と読む。名君として知られる川越藩四代藩主松平斉典(なりつね 寛政九(一七九七)年~嘉永三(一八五〇)年)の初名。詳しくはウィキの「松平斉典」を見られたい。隣りの今泉の町内会公式サイト内の年表によれば、今泉村が文化四(一八二一)年に『松平矩典の所領となる』とある。

「元祿十一年」一六九八年。

「地を裂て、木原兵三郎・菅谷平八郎正輔・小濱半左衞門利隆に頒ち賜ひ、御料の外三給の地となりし」これは「元禄地方直(げんろくじかたなおし)」と呼ばれる、元禄期に江戸幕府が行った知行地再編成政策の一環に依るものである。ウィキの「元禄地方直」によれば、「元禄地方直」は『当時、勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主導で実施された』もの。元禄一〇(一六九七)年七月二十六日、『幕府は御蔵米地方直令を発令し』、五百『俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方直の方針を打ち出した』。同年八月十日には『新知行地からの収税は』翌元禄十一年から『行い、この年の冬に支給される切米は今までどおり受け取ること』、同八月十二日には、『知行地と蔵米の両方を給されている幕臣の中で支給額の合計が』五百『石以上の者も地方直が行われることも決められた』。翌元禄十一年七月三日に『地方直はほぼ完了したとして、翌日には新たな知行所が発表された』。対象者は五百四十二人の『旗本で、彼らに支給されてきた約』三十四『万俵の蔵米とほぼ同額の知行地が与えられることになった。新たな知行地は関東八ヵ国を中心に、三河国・遠江国・丹波国・近江国と広範囲に及んだ。大田南畝が編集した勘定所史料』である「竹橋余筆別集(ちっきょうよひつべつしゅう)」には、『誰がどの知行地に割り当てられたかが記載されており、また大舘右喜の「元禄期幕臣団の研究」によれば、武蔵国』二百三十六名・常陸国百七十二名・下総国百四十名・上総国八十三名・下野国九十八名・上野国九十四名・相模国八十五名(ここに上記の木原兵三郎・菅谷正輔・小浜利隆が含まれていたのである)・伊豆八十一名・安房十名が割り振られている』。『この時期、蔵米地方直と同時に、地方直とは無関係な旗本の知行地(=領地)の割り替えも行われた。この割り替えは、約』二百人の『旗本たちの知行地を、一度上知(土地の召し上げ)した上で』、『代知割り(代りの知行地を与える)するという形でなされた』。『上知された土地の多くは関東の知行所で、中部・近畿地方の土地を代地として宛がわれた。その上で、幕府は天領と上知した旗本領の検地(元禄検地)も行った。当時は農業生産技術が発展し、農業後進地域であった関東地方の生産力も上昇していたこと、開墾可能な山林や荒れ地も検地したことで、石盛は大幅に高まった』。『元禄の地方直は、検地によって土地の石高を上げたことと、蔵米取の旗本には検地によって石高が上昇した土地を割り振ることで、石高上昇分の年貢収入+旗本に支給する蔵米の実質的削減』という二つの『効果によって財政改善が図られたのである』この「地方直」には、『江戸に隣接する地域や生産性の高い地域、広大な山林や多額の運上金が上がる地域を幕領に編入する』こと、『年貢米を江戸に運搬して旗本に配分する経費を削減する』こと、『旗本の領主権を制限して年』三割五分の『年貢徴収権に限定する』こと『などの目的があったとされる』。『当時の幕府は、天領からの年貢収入が年間』七十六万から七十七万両であったが、そのうちの三十万両余が『幕臣に支給する蔵米だった』。『天領から米を運搬する費用がかかる蔵米給付の方が幕府にとっての財政負担は大きい一方、当時の武士は蔵米取よりも知行取の方が格上と考えており、蔵米支給から知行取に変わることを旗本たちは出世ととらえ、幕府も知行取への変更を褒賞の一環としていた』。則ち、「地方直」は、『幕府にとって財政改善策であり、旗本にとっては格が上がる名誉な出来事という意味合いがあった』のであった。『しかし、知行取は凶作の年には石高分の収入を得られず(検見法の場合)、また収穫された米の運搬は領主の自己負担となるため、地方直は幕府だけが経済的に得するという批判は当時からあり、老中の戸田忠昌も凶作時の問題を考えて、稲作の後進地域である関東を旗本の知行地にすることに難色を示したという』。『徳川綱吉政権は、在地に密着した世襲の代官を処罰して勘定所から派遣された官僚的な代官を増やし、同時に代官や改易・減封処分された大名の処分後の領地・支配所の検地を実施、以前よりも生産性が増えた耕地の石高を増加させるなどの農政改革を行ってきた。綱吉が』『将軍に就任した』延宝八(一六八〇)年当時の天領の石高は三百二十六万二千二百五十石余・年貢量九十四万二千五百九十石余であったが、「地方直」の後の元禄一〇(一六九七)年には石高四百三十四万六千五百石余、年貢量百三十八万六千四百石余へと『増加している』。『また、歴史学者の所理喜夫たちによれば、地方直には旗本が知行地と密接な小大名となることを阻止し、官僚予備軍として再編成する効果もあったと評価している。知行所を与えられた旗本たちは、開幕当初から約』百『年間に領地の村民たちとの主従関係を強めていったが、それらの結びつき』が、この「地方直」を『行うことで全て無効化してしまうからである』とある。特に必要性を感じないので、木原兵三郎・菅谷正輔・小浜利隆及び後の「木原氏支族」であった「賴母某」(たのもなにがし)は調べない。なお、前に出した「鎌倉市史 近世通史編」の「第二章 旗本領と元禄地方直し」の「岩瀬村における分類」(一四三頁)に非常に詳しい記載があるので参照されたい。因みに、そこに書かれた検地帳のデータを元にした計算によれば、岩瀬村での木原氏の石高は岩瀬村全体の五十九%で二百九十一石余り、菅谷氏・小浜氏がともに十三%で六十九石余り、松平氏が七十三石余り、とある。

「元文二年」一七三七年。

酒井雅樂頭親本」(さかいうたのかみちかもと)酒井親本(宝永二(一七〇五)年~享保一六(一七三一)年。上野前橋藩第八代藩主。ウィキの「酒井親本」によれば、越前敦賀藩第二代藩主酒井忠菊の長男として生まれたが、享保元(一七一六)年、前橋藩第七代藩主酒井親愛(ちかよし)の養子となった。享保五(一七二〇)年の親愛の隠居に伴い、家督を継いで、享保ⅵ(一七二一)年に従四位下・雅楽頭に昇叙されたが、享年二十七で死去した。

「寛延二年」一七四九年。

「松平大和守朝矩」(とものり 元文三(一七三八)年~明和五(一七六八)年)武蔵川越藩主。直基系越前松平家五代。彼の孫の直温(なおのぶ)の養子となったのが、先に出た松平矩典である。

「文化八年」一八一一年。

「松平肥後守容衆」(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)は陸奥会津藩第七代藩主で会津松平家第七代。満十八になる前に夭折している。

「文政三年」一八二〇年。

二間」三メートル六十四センチメートル弱。

「瀧ノ臺」以下の「小名」は総て不詳。「ふりが谷」(ふりがやつ)は由来が気になる谷戸名である。

「切通橋」「離山橋」思うに、前者は山越えをして「高野の切通し」に向かう、現在の七久保橋(現在の岩瀬地区の南端の砂押川の最上流に架かる)で、後者は山越えをして、大船の離山へと向かう道に架かる、現在の砂押橋ではなかろうか。

「稻荷社」鎌倉市岩瀬一三九九、横浜方向に食い込んだ(グーグル・マップ・データ)にある、五社稲荷神社(五所明神)。後に出る通り、創建は建久年間(一一九〇年~一一九八年)で先に出た岩瀬与一太郎義正が創建したとされるが、現在のそれは天明二(一七八二)年に再建されたもの。その時は栗田源左衛門なる人物が中心になって、近隣の四十六もの村に呼びかけて再建させたと、先に示した「かまくらこども風土記」にはあり、神奈川県神社庁」公式サイト神社解説ページには、当時の『鎌倉郡の郡長であった栗田源佐衛門が』百一『両を投じて(栗田家』十五『両、岩瀬村有志』十五『両』、残りは『支配下の村より』七十一『両)天明の飢饉を乗り切るため』、『敢えて社殿を再建した。その頃の村社としては立派なもので』、『拝殿に壁画などもあり』、『近郷より多くの参拝があった』とある(但し、現在、拝殿の壁画は全く見えなくなってしまっている)。栗田は岩瀬の地の姓で、私のアパートの大家も栗田であったし、毎日通った風呂屋も栗田湯であった。

「保食」神は「うけもちいのかみ」と読む(現代仮名遣。以下同じ)。

「大己貴」神は「おおなむちのかみ」。大国主神の異名。

「大田」神は「おおたのかみ」。

「倉稻魂」神は「うがのみたまのかみ」。

「大宮姫」神は「おおみやのひめのかみ」。稲荷神。以上は皆、総て農業神・穀物神である。

「例祭九月廿九日」現在は八月の最終日曜日。

「時保」で名と採っておく。

「文治」一一八五年から一一八九年まで。

「文祿」一五九三年から一五九六年まで。

「神明宮」三つあるとあるが、以下に出る多くの社(やしろ)同様、現存するかどうかは、知り得ない。明治の無謀な合祀政策によって消失ものも多いであろう。因みに、私は神体を動かしてしまった近代合祀は神を失った不遜な人間の都合であり、そこに神はもういないと考えている。

「白山社」これは今泉の白山神社ではない。

「貴船社」これが、冒頭注で私が言ったそれであろう。]

 

2018/08/15

大和本草卷之十三 魚之上 鯉

 

鯉 河海諸魚ノ内最貴者尓雅釋魚以鯉冠篇神農

 書曰鯉為魚之主和漢共ニ是ヲ上品トス両傍ノ一

 條ノ鱗大小トナク皆三十六アリ煮食ヘハ水腫ヲ治シ

 小便ヲ利シ脾胃ヲ補フ作膾温補ス新鮮ナルハ尤美

 山州淀ノ産ヲ佳トス

○やぶちゃんの書き下し文

鯉 河海諸魚の内、最も貴〔(とほと)〕き者。「尓雅釋魚〔(ぢがしやくぎよ)〕」、鯉を以つて篇に冠〔せ〕しむ。神農の書に曰く、『鯉を魚の主と為〔(な)す〕』〔と〕。和漢共に是れを上品とす。両傍の一條の鱗、大・小となく、皆、三十六あり。煮〔て〕食へば、水腫を治し、小便を利し、脾胃を補ふ。膾〔(なます)〕と作〔(な)〕して、温〔を〕補す。新鮮なるは、尤も美〔(うま)〕し。山州淀の産を佳とす。

[やぶちゃん注:条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイ Cyprinus carpio

「尓雅釋魚」〔(ぢがしやくぎよ)〕、鯉を以つて篇に冠〔せ〕しむ」中国最古の辞書「爾雅」(著者未詳・全三巻・紀元前二百年頃成立)の「釋魚」の巻頭には「鯉」が挙げられている。

「神農」炎帝神農氏。中国古代神話上の帝王で三皇の一人。人身牛首ともされ、農耕神・医薬神に位置付けられ、百草の性質を調べるため、自らありとあらゆる植物を舐めて調べたとされる。彼の「書」というのは不明だが(そもそもそんなものは実在はしない。漢代に成立したと思われる彼の名を冠した「神農本草経」があるが、鯉を魚の主とする記載はない)、先の「爾雅」の篇立てに倣って動植物を分類・解説した南宋の羅願の著「爾雅翼」の巻二十八には「鯉」の記載があるが、その冒頭には確かに『鯉者魚之主』とある。本書より前、医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」の「鯉」の章の「集解」の冒頭にも『古へに曰く、鯉は最もな魚の主と爲したり』とある。

「両傍の一條の鱗、大・小となく、皆、三十六あり」前注に出した「爾雅翼」の巻二十八には、『鯉脊中、鱗一道每鱗有。小黒文大小皆三十六鱗。案是脇正中一道爾非脊也』とある。

「水腫」浮腫(むく)み。

「脾胃」さんざん既出既注。漢方では広く胃腸、消化器系を指す語。もう注さない。

「膾〔(なます)〕」新鮮な魚の刺身。

「温〔を〕補す」漢方で当該個人の人体の温度(個人差がある)が正常な値よりも低い場合に、その不足している分を補うだけ、体内の温度上げる効果を指す。

「山州淀」山城国(現在の京都府南部)の淀川。]

明恵上人夢記 78

 

78

一、同十一月十三日の夜、夢に云はく、此の比(ころ)、一向に坐禪す。一頭の大きなる獮猴(みこう)有りて、予に馴(な)る。予、之に教へて禪觀を修せしむ。獮猴、教へに隨ひて禪法を學ぶ。定印(ぢやういん)を結びて結跏坐(けつかざ)す。然れども、坐法、少し直(なほ)からずと云々。又、予、洛陽の大路に出づ。然れども、一身にして從ふ所無し。道を知らざれば、推量して至らむと欲す。至る所は淸水寺(きよみづでら)等なり。見渡すに、終(つひ)に知るべき由、之を覺ゆと云々。又、一つの大きなる殿、有り。其の前に、池、有り。水、減少して穢(けが)れ濁る。小蟲等、之(これ)、有り。其の家、釣殿の如きを水に造り懸けたり。其(それ)もゆるぎて全(まつた)からずと云々。

  合せて曰はく、此(これ)、行法を修せず

  して、寶樓閣、あれたるなり。池は樓閣

  の前の池也。坐禪に鎭護無き也。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月十三日と採る。三パートに分かれるが、これが実際に同夜に見た三つの別な夢だったのか、或いは孰れか又は総てが連続した夢あったかは不明である。しかし、明恵はこれらの三つの内容を綜合して解釈し、最後に夢分析を添えているのである。特に最初の猿の坐禅の比喩は何か非常に面白いものであり、最後の明恵の短い夢分析から考えると、既存の平安旧仏教の堕落したさまが猿に換喩されているような感じを受けないでもない。ともかくも、最後の夢分析部分は、相当に自由に敷衍的な訳させて貰った。御不満の方は、御自由に御自身の訳をなさるるがよかろう。

「此の比(ころ)、一向に坐禪す」拘ることはないのかも知れぬが、これは既に夢の記述部分である。確かに既に見てきた通り、この最近の明恵は実に、早暁からその翌日早暁に至るまでの間に三度或いはそれ以上の坐禅による観想を実際に行っているのであるが、ここは現実のその実際の自分の事実の謂いなのではなく、〈夢の中の明恵〉もまた、夢の時空間の中で、一心不乱に坐禅行を行っている存在なのである。私はこうした、現実の明恵と夢の中の明恵の自己同一性(アイデンティティ)が完璧に保たれていることが、夢を有意味なものとして捉えることの明恵の正当性を保障し、明恵はまた、さればこそ、自身の見る夢を謎めいたものとせず、その解釈は難解な作業であるなどとも微塵も思っていない事実を伝えているものと思うのである。

「獮猴(みこう)」霊長目オナガザル科マカク属ニホンザル Macaca fuscata を指していると思われる。なお、現行ではこの漢語は種としてはオナガザル科マカク属タイワンザル(台灣獼猴)Macaca cyclopis を指すようである。

「禪觀」「止観」に同じい。仏教に於ける代表的な観想法。「止」は精神を集中して心が全き静寂となった状態を指し、「観」は対象を在るが儘に観察することを意味する。「止」は「観」の準備段階とされる。孰れも持戒とともに仏教徒の重要な実践法とされる。

「結跏坐」「結跏趺坐(けっかふざ)」に同じい。「跏」は「足の裏」、「趺」は「足の甲」の意で、坐法の一つ。両足の甲をそれぞれ反対の腿の上にのせて押さえる形の座り方。先に右足を曲げて左足を乗せる降魔坐(ごうまざ)と、その逆の吉祥坐の二種がある。蓮華坐とも呼ぶ。

「淸水寺(きよみづでら)等」「等」としながら、清水寺だけを出して示したのには、非常に重大な意味があるわけだが、判らぬ。しかし、明恵には末尾の夢分析から見ると、判然としていると読める。なお、当時の清水寺は法相宗が本宗(現在もそう)で、真言宗との兼宗であった。言わずもがなであるが、明恵は華厳宗中興の祖である。]

□やぶちゃん現代語訳

78

 承久二年十一月十三日の夜、こんな夢を見た――

   ○一

 夢の中の私は、最近、只管(ひたすら)一心に坐禅をしている、現実の私と同じなのであった。

 一頭の大きな猿がいて、私に馴れている。

 私は、この猿に禅観の何たるかを教え、而してそのやり方を教授した。

 猿は、私の教えに随って、禅の観想法をしっかりと学んだ。

 そうして、定印を結んで結跏趺坐した。

 しかし、その坐法を見るに、今少し、正しくないのであった……。

   ○二

 また、こんな夢を見た――

 私は、京の大路に出ている。

 しかし、私の心の中をどんなに隈なく調べてみても、

――何処(いずこ)へ

――何のために

行こうとしているのか、これが、

――全く以って判らない

のである。

 当然のことながら、向かうべき道をも知らぬのであるから、私は、

『ここは、ともかくも、観想の中で推量して、その「何処か」に至ることとしよう。』

と思うた。

 すると、至るべき所は、

――清水寺(きよみずでら)など

であることが直ちに感知された。

 その時! 大路に立っている私の意識の中に都の全景が、

――豁然と開いた!

 それを見渡した瞬間、

『遂に! 私は「それ」を知ることが出来た!』

という認識が生じ、それを確かに感得した……。

   ○三

 また、こんな夢も見た。

 一つの大きな寝殿造りの屋敷がある。その前庭に池がある。

 しかし、池の水はすっかり減ってしまっていて、ひどく穢(けが)れていて、完全に濁っている。小さな生き物どもが、その腐れ水の中で、しきりに蠢いているのも見える。

 池には、釣殿の如きものが、泥水の中に造り懸け渡してある。しかし、それも、半ば支柱がゆるんで、ちゃんと建っておらず、水のないごみ溜めのような中に傾(かし)いでいる……。

 

◎私明恵の以上の夢に就いての分析

 これらの夢の三つの内容を綜合して考えてみると、これは、現在の本邦の大寺院の仏教僧らが、あるべき正しい行法を執り行っていないが故に、古えより続く、三宝の一つたるべき荘厳(しょうごん)の仏寺の楼閣が、これ、精神的に致命的に荒廃している、ということを意味しているのである。最後の部分の屋敷に出てきたのは、仏閣の楼閣にあるべき荘厳(しょうごん)の池、広大無辺の仏智と慈悲心を湛えているはずの池、なのである。その池が汚れきって、毒虫に満ち満ちているとは、即ち、第一の猿の坐禅の姿勢が決定的に間違っているのと同様、現在の多くの僧侶らの行っている観想そのものが、致命的誤っているということ、今の世の大半の僧らの似非行法では、とてものこと、真の観想に至るべき心の鎮静と、正法(しょうぼう)のまことの御加護はないのだ、ということなのである。

 

大和本草卷之十三  魚之上 (総論)

 

大倭本草卷之十三

   魚之上【河魚】凡魚類其品甚多シ毎州有異

 品不可窮盡諸州ノ土地ニヨリテ異同アリ有無アリ

 形狀性味亦不同○凡國俗所称品物之名字誤

 認者甚多矣就中魚名古来所称之文字傳誤而

 非正者最多矣可謂習而不察也順倭名抄所載

 亦然觀者須精審揀擇之○本草載河海魚品寡

 而且不詳故不審其性之良否者多大抵氣味淡

 潔脂少不甚腥者為佳品不害人氣味濃腥多脂

 者雖味美非良品多食必害人且魚肉餒敗色臭

 悪者腐壞者不可食海魚ハ久食乄不饜河魚ハ歷日

 而食ヘハ易饜味甘フ乄塞氣也海ヨリ河ニ上ル魚ハ鰷

 鱖膾殘魚大口魚等ナリ○本草所載諸魚品數

 比他物鮮少記海魚最不詳多闕考證且諸魚ヲ

 雜記乄不分河海淡水鹹水ノ所生混同乄分明ナ

 ラス別録之中往〻海魚ヲ澤中江湖ニ生スト云觀

 者辨別スヘシ○河魚ノ味美ナル者ハ鯉鯽鱖鱒鱸鰷

 鰻鱺シクチ膾殘魚等為上品海魚ノ美ナルハ鯛鱸

 大口魚比目魚キスコ鯔魚魴魚華臍魚等為上品

○やぶちゃんの書き下し文

「大倭本草」卷之十三

   魚の上【河魚。】

凡そ、魚の類、其の品、甚だ多し。毎州〔(くごとに)〕、異品、有り、窮め盡すべからず。諸州の土地によりて、異同あり、有無あり。形狀、性味〔(しやうみ)〕、亦、同じからず。

○凡そ、國の俗、称する所の品物の名字〔(みやうじ)〕、誤り認〔(したたむ)〕る者、甚だ多し。中に就〔(あたり)〕て、魚の名、古来、称する所の文字、誤〔れる〕を傳へて、正〔(せい)〕に非ざる者、最も多し。習ひて察せずと謂ふべきなり。順が「倭名抄」載する所〔も〕亦、然り。觀る者、須らく、精審〔(せいしん)〕に之れを揀擇〔(せんたく)〕すべし。

○「本草」、河海の魚品を載すること、寡〔(すくな)〕くして、且つ、詳かならず。故〔に〕其の性〔(しやう)〕の良否を審〔(つまびら)か〕にせざる者、多し。

大抵、氣味、淡潔、脂〔(あぶら)〕少く、甚〔だしくは〕腥〔(なまぐさ)から〕ざる者、佳品と為〔(な)〕す。

人を害せず、氣味、濃腥〔(のうせい)にして〕脂多き者、味、美〔(よ)し〕と雖も、良品に非ず、多く食へば、必ず、人を害す。

且つ、魚肉、餒敗〔(だいはい)〕し、色〔(いろ)〕・臭〔(にほひ)〕悪〔(あし)〕き者・腐壞〔(ふくわい)〕せる者、食ふべからず。

海魚は久しく食して饜(あ)かず。河魚は日を歷〔(へ)〕て食へば、饜〔(あ)〕き易し。味、甘〔(あも)〕ふして、氣を塞〔(ふさ)〕げばなり。

海より河に上る魚は、鰷〔(はや)〕・鱖〔(さけ)〕・膾殘魚〔(しろうを)〕・大口魚等なり。

○「本草」、載する所の諸魚の品數、他物に比するに鮮少〔(せんせう)なり〕。海魚を記すこと最も詳かならず。多く、考證を闕〔(か)〕く。且つ、諸魚を雜記して河海を分かたず、淡水・鹹水〔(かんすい)〕の生ずる所、混同して分明ならず。別録の中、往々、海魚を澤中・江湖に生ずと云ふ。觀る者、辨別すべし。

○河魚の味美なる者は、鯉・鯽〔(ふな)〕・鱖〔(さけ)〕・鱒〔(ます)〕・鱸〔(すずき)〕・鰷・鰻鱺〔(まんれい/うなぎ)〕・シクチ・膾殘魚(しろ〔うを〕)等、上品と為す。

海魚の美なるは、鯛・鱸・大口魚〔(たら)〕・比目魚〔(ひもくぎよ/ひらめ)〕・キスゴ・鯔魚〔(ぼら)〕・魴魚〔(はうぎよ/はうぼう)〕・華臍魚〔(くわせいぎよ/あんこう)〕等、上品と為す。

[やぶちゃん注:魚総論部。読み易さを考え(繋がっていると、前の部分との切れ目が判然とせず、戸惑うところがあるからである。少なくとも私には一箇所それがあった)、それぞれの叙述のソリッドなものと思われる箇所を私の判断で捉え、恣意的に改行を施した。

「毎州〔(くにごとに)〕」ㇾ点なく、ルビもないが、音読みは生硬過ぎて厭なので、敢えてかく読んでおいた。

「性味〔(しやうみ)〕」漢方上の気(寒・微寒・平・微温・温)と五味(酸・鹹・甘・苦・辛)のこと。

「中に就〔(あたり)〕て」就中(なかんずく)で「中でも・とりわけ」。

「習ひて察せず」誤ったものを無批判に教わったままに受け入れてしまい、それを改めて独自に考察するということをしない。

『順が「倭名抄」』さんざん出た、平安中期に源順(みなもとのしたごう)によって書かれた辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」。承平年間(九三一年~九三八年)に勤子内親王の求めに応じて編纂した。もう注さない。

「精審〔(せいしん)〕」無批判に受け入れず、精査と審議を重ねること。

「揀擇〔(せんたく)〕」以上のように正否を冷徹に検証した上で選別して正しいもののみを受容すること。

「本草」さんざん出た本草書のチャンピオン、明の李時珍の薬物書「本草綱目」の方は五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種千八百九十二種、図版千百九枚、処方一万千九十六種に及ぶ。もう注さない。

「其の性〔(しやう)〕の良否」漢方医学に於いての人体への影響の良し悪し。

「大抵、氣味、淡潔、脂〔(あぶら)〕少く、甚〔だしくは〕腥〔(なまぐさ)から〕ざる者、佳品と為〔(な)〕す」以下は、「本草綱目」のそれではなく(但し、「本草綱目」でも概ねそうした記載になってはいる)、貝原益軒の見解として読む。

「濃腥〔(のうせい)にして〕」生臭味が濃く強くあって。

「脂多き者、味、美〔(よ)し〕と雖も、良品に非ず、多く食へば、必ず、人を害す」これは所謂、高級脂肪酸(ワックス)を多量に持つ深海性の魚類の味が甘く美味いこと、しかしそれらは一定量以上を食うと、激しい下痢等を引き起こすことを考えると、非常に正しいことを益軒は言っていると言える。

「餒敗〔(だいはい)〕」「腐敗」に同じい。

「腐壞〔(ふくわい)〕」これは腐敗が進んで、素人目にも魚体が著しく崩れてしまっていることを言っていよう。

「饜(あ)かず」飽きない。

「日を歷〔(へ)〕て」毎日のように食べると。

「味、甘〔(あも)〕ふして、氣を塞〔(ふさ)〕げばなり」これは甘い味の食物が、中枢に作用して食を飽きさせる、或いは抑鬱的傾向を惹起させる要因と言っているように読め、面白い。

「鰷〔(はや)〕」複数の種の川魚を指す。ハヤ(「鮠」「鯈」などが漢字表記では一般的)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称通称である。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としては、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

などが挙げられる。

「鱖〔(さけ)〕」サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta

「膾殘魚〔(しろうを)〕」後で再度出るルビによって振ったが、現行では条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae のシラウオ Salangichthys microdon・イシカワシラウオ Salangichthys ishikawae(日本固有種)などに当てられるが、全くの別種でしかもシラウオ類に似ている条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii と混同されるので、それも挙げておく必要がある。孰れも半透明であるが、死ぬと白くなるところから「白魚」をである。この「鱠残魚」は、呉の王が船の上で魚鱠(うおなます)を食べ、その残りを河に捨てたところそれが魚に化身したのがこれとする伝承に由る。

「大口魚」これは条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae のタラ類の異名(口吻が大きいことから)であるが、河口近くや潟湖の汽水域ならまだしも、川魚ではなく、遡上などしない純粋な海水魚であり、通常は深海域に棲息するから、これは「タラ」ではあり得ない。実際、後で美味な海水魚に再掲されてあり、そちらは「たら」と読んでおいた。さすれば、思うにこれは淡水魚で「大口」と称したくなるもの、新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus ではなかろうか? 但し、後の項ではナマズは「鮧魚(マナヅ)」とし、特に美味いとは記していない。「タラ」は「大口魚」で出るが、その記載には遡上するという記載はなく、海産としている。不審。

「鮮少〔(せんせう)なり〕」著しく少ない。中国の本草書は海産魚類や海産無脊椎動物類については、事実、記載が有意に乏しい。これは現在の西欧の一般と同じである。魚や他の海産動物の名前をこれだけ一般国民が知っている国は、世界中で他にないと私は思う。

「闕〔(か)〕く」欠く。

「鹹水〔(かんすい)〕」塩からい水。塩水。海水。

「別録」「本草綱目」は主記載に混淆させて、別して各種本草書の引用を併禄するが、そこでは時珍が正しいとして記した主記載と違った内容が書かれていることがしばしばある。但し、寧ろ、これは今見ると、どちらが正しいを弁別するよき資料ともなっており、時珍がそれらを併置したのは、そうした後代の再考を配慮したものであったとも言えるのであり、益軒の謂う、「精審」「揀擇」をするための格好の最早、手に入れ難い(時珍の引用した作品の中には既に散逸したものが多く含まれているからである)蒐集資料であるとも言えるのである。

「鯉」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科コイコイ Cyprinus carpio

「鯽〔(ふな)〕」 コイ亜科フナ属 Carassius のフナ類。

「鱒〔ます〕」条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する魚類の内で和名・和名異名に「マス」が附く多くの魚、或いは、本邦で一般に「サケ」(サケ/鮭/シロザケ:サケ科サケ属サケ Oncorhynchus keta)・ベニザケ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属ベニザケ[本邦ではベニザケの陸封型の「ヒメマス」が択捉島・阿寒湖及びチミケップ湖《網走管内網走郡津別町字沼沢》)に自然分布する]Oncorhynchus nerka)・マスノスケ(=キング・サーモン:サケ亜科タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)など)と呼ばれる魚以外のサケ科の魚但し、この場合、前者の定義とは「ヒメマス」「マスノスケ」などは矛盾することになるを纏めた総称。「マス」・「トラウト」ともにサケ類の陸封型の魚類及び降海する前の型の魚を指すことが多く、主にイワナ(サケ科イワナ属 Salvelinus)・ヤマメ(サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou)・アマゴ(タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae)・ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss)などが「マス」類と呼ばれる。

「鱸〔(すずき)〕」条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。河川の中・上流域にまで元気に遡上するが、後で益軒は美味い海水魚にも再掲している。

「鰻鱺〔(まんれい/うなぎ)〕」条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica

「シクチ」刺鰭上目ボラ目ボラ科メナダ(目奈陀)属メナダ Chelon haematocheilus の異名。後に出る「鯔魚〔(ぼら)〕」(ボラ属ボラ Mugil cephalus)と似ているが、眼が頭の先の方へ寄っており、脂瞼(しけん:眼球の上面にあるコンタクト・レンズ状の透明な膜)が発達しない。口唇及び眼が赤みを帯びるので、恐らくは「朱口」から「シュクチ」・「シクチ」・「スクチ」・「ヒクチ」(「緋口」か)・「アカメ」・「メアカ」などの異名を持つ。種小名 haematocheilus も「血の色の唇」の意である。

「比目魚〔(ひもくぎよ/ひらめ)〕」条鰭綱カレイ目 Pleuronectiformes に属する、カレイ科 Pleuronectidaeのカレイ類や、カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys 類等の、薄い扁平な体と左右孰れか一方に偏った両眼を特徴とする魚類の総通称。

「キスゴ」「鱚子」で、スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類の中でも、特にキス属シロギスSillago japonica を指すことが多い。

「魴魚〔(はうぎよ/はうぼう)〕」魴鮄(ほうぼう)。棘鰭上目カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus

「華臍魚〔(くわせいぎよ/あんこう)〕」アンコウ目アンコウ科キアンコウ属(ホンアンコウ)Lophius litulon やアンコウ属アンコウ(クツアンコウ)Lophiomus setigerus を指す。漢語であるが、語源はよく判らぬ。或いは、誘引突起である擬餌状体や、体壁のカモフラジュ用の裳裾様の部分を指しているか。]

2018/08/14

和漢三才圖會第四十二 原禽類 錦雞(きんけい)

 

Kinkei

 

きんけい  鷩雉 金鷄

      山雞 采雞

 鵕䴊

錦雞

 

本綱【錦雞鷩雉】二物同類而稍有分別俗呼爲一矣

鷩雉狀如小雞其冠亦小背有黃赤文綠項紅腹紅嘴利

距而鬪以家雞鬪之卽可獲養之禳火災

錦雞狀小於鷩而背文揚赤膺前五色炫燿如孔雀羽其

文尤燦爛如錦故名【又名文】或云錦雞鷩雉之雄也亦通

[やぶちゃん注:」は取り敢えず東洋文庫版訳の漢字を当てたが、原典では明らかに違う。潰れてよく判らない箇所があるが、「鳥」の上に「車」+「余」(の字のように見える)か。なお、「本草綱目」の「鷩雉」(「錦雞」を別名で挙げる)には、この「又名文」という記載はなく、その後(次の次)にある「白鷴」という別項の鳥の記載の中で、『當作白如錦鷄謂之文也』とは出るから、東洋文庫がこの字を選んだ意図はよく判りはする

是一類不甚相遠也愛其羽毛照水卽舞目眩多死照鏡

亦然鸐雞愛尾餓死皆以文累其身者也

△按錦雞自異國來畜于樊中狀似雉而五色項白有黑

 細文冠亦白頰黃胸腹紅背緑翅黑腰帶細白毛尾長

 三尺黃黑紫斑下尾稍短純朱色觜淡紅脛灰黑利距

 善鬪價貴故畜之者少矣而未見鷩雉

柹雉 狀類錦雞而頭背尾紅如紅柹色帶黃有光彩是

 亦自中華來俗呼曰柹雉蓋此鷩雉乎

 

 

きんけい  鷩雉〔(へつち)〕 金鷄

      山雞 采雞

 鵕䴊〔(しゆんぎ)〕

錦雞

 

「本綱」、【錦雞・鷩雉】〔の〕二物、同類にして、稍〔(やや)〕分別有り〔といへども〕、俗、呼んで一〔(いつ)〕と爲す。

鷩雉は、狀、小雞〔(しやうけい)〕のごとく、其の冠〔(さか)〕も亦、小さく、背に、黃赤の文、有り。綠りの項〔(うなじ)〕、紅の腹、紅の嘴、利き距(けづめ)にして、鬪ふ。家雞(にはとり)を以つて之れに鬪はせて、卽ち、獲るべし。之れを養へば、火災を禳(はら)う[やぶちゃん注:ママ。]。

錦雞は、狀〔(かた)〕ち、鷩〔(へつ)〕より小にして、背の文、揚赤〔(ようせき)〕、膺(むね)の前、五色〔に〕炫-燿〔(ひかりかがや)き〕、孔雀の羽のごとし。其の文、尤も燦爛〔(さんらん)〕して錦のごとし。故に名づく【又、「文〔(ぶんかん)〕」と名づく。】。或いは云はく、『錦雞は乃〔(すなは)〕ち鷩雉の雄なり』〔と〕。亦、通〔(とほ)〕して、是れ、一類にして甚だ相ひ遠からざるなり。其の羽毛を愛し、水に照らして、卽ち、舞ふ。目-眩〔(めくるめ)〕きては、多く、死す。鏡を照しても、亦、然り。鸐雞の尾を愛して、餓死するも、皆、文〔(もん)〕を以つて其の身を累(わづら)はす者なり。

[やぶちゃん注:」は取り敢えず東洋文庫版訳の漢字を当てたが、原典では明らかに違う。潰れてよく判らない箇所があるが、「鳥」の上に「車」+「余」(の字のように見える)か。なお、「本草綱目」の「鷩雉」(「錦雞」を別名で挙げる)には、この「又名文」という記載はなく、その後(次の次)にある「白鷴」という別項の鳥の記載の中で、『當作白如錦鷄謂之文也』とは出るから、東洋文庫がこの字を選んだ意図はよく判りはする

△按ずるに、錦雞、異國より來りて樊(かご)の中に畜(か)ふ。狀、雉に似て、五色、項(うなじ)、白くして、黑く細〔(こま)〕かなる文、有り。冠〔(さか)〕も亦、白く、頰、黃。胸・腹、紅にて、背、緑。翅(〔つば〕さ)黑く、腰に細き白毛を帶す。尾、長きこと、三尺。黃・黑・紫の斑(まだら)。下の尾、稍や短く、純朱色。觜、淡紅。脛、灰黑。利き距(けづめ)、善く鬪ふ。價〔(あたひ)〕、貴し。故に之れを畜ふ者、少しなり。未だ鷩雉を見ず。

柹雉(かききじ) 狀、錦雞の類にして、頭・背・尾、紅にして紅柹色〔(べにがきいろ)〕のごとし。黃を帶びて、光彩、有り。是れ亦、中華より來りる。俗に呼んで「柹雉」と曰ふ。蓋し、此れ、「鷩雉」か。

[やぶちゃん注:キジ目キジ科 Chrysolophus 属キンケイ Chrysolophus pictus属名クリソロフスはギリシャ語で「金の羽冠」の意。私にとっては小学校時代の鳥小屋の定番記憶であった。ウィキの「キンケイ」によれば、『主に中国南西部からチベット、ミャンマー北部にかけて分布。標高』九百~千百メートルの『山地に棲息し、住環境としてササやシャクナゲの密生した藪のような場所を好む』。『全長はオスで』九十センチメートル前後、メスは五十~六十センチメートルほどで、『オスは赤と金属光沢のある黄色を基調とした派手な色彩をしている。網目模様が入った褐色の尾羽、毛髪状の金色の冠羽、襟首の日本兜のしころ状を呈する明るい黄色と黒の飾り羽が特徴。全身が明るい黄色を呈する飼養品種があり、俗に「黄金キンケイ」と呼ばれる。メスは他種のキジ類同様褐色に黒っぽい斑模様で比較的地味である』。『用心深く身を隠すのが巧いため、派手な色彩とは裏腹に、棲息地でも野外で見かけることは困難である。そのため、野生下での繁殖行動や食性については不明な点があるが、飼育が容易で』、『動物園や個人で飼育される機会が多く、ある程度のデータは判明している。発情期になると』、『オスは金属的な声をあげて他のオスを牽制し、同時にメスを呼ぶ。また、メスの前に立ったオスは尾羽を広げる、襟の飾り羽を広げるなどの求愛行動を示してメスの気を惹く。前述の通り飼育が容易であるため』、一七四〇年頃(本邦では元文五年相当)から『海外に愛玩目的で輸出されていた。原産地では古くから知られ、装飾品や絵画の題材にされていたが、西欧の学者間では』、『あまりにも豪奢な体色から実在が信じられず、長らく想像上の鳥と思われていた。なお、『山海経』の記述によると古代の中国では、この鳥類の羽毛を火伏せの護符として用いていたらしい』とある。しかし、このウィキの謂いはどうか? 本「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の自序で、ウィキの言う元文五年よりも二十八年も前である。さすれば、実はキンケイは実際には一七一〇年前後には日本に移入されていたのではあるまいか?

「鷩雉〔(へつち)〕」「錦雞」は既に前項の「山雞(やまどり)」でも挙げられており、どうも「本草綱目」を書いている李時珍自身も明確に使い分けが出来ていない感じが濃厚に漂ってくる。当然、良安自身の記述や表記もそうした錯雑に呑まれがちになっているのであるが、「本草綱目」に載るある種の鳥が、本邦には棲息しない中国産のものであるということをちゃんと主張している点で(本件では正鵠を射ている)、私は彼を相応に評価したい。無批判にして安易に、大陸にしかいない種を、本邦産の別種や固有種に平気で同定している本草学の大家は、後々まで、ゴマンといるからである。

『「本綱」、【錦雞・鷩雉】〔の〕二物、同類にして、稍〔(やや)〕分別有り〔といへども〕、俗、呼んで一〔(いつ)〕と爲す』やはりここでも、同類ではあるが、種としては違う近縁種という時珍のニュアンスを私は強く受ける。

「小雞〔(しやうけい)〕」当初、「にはとり」と訓じようと思ったが、同一の文章内で「家雞(にはとり)」と訓じているからには、少なくとも良安は別なものとして扱っていると考え、前者を敢えて音読みとした。まあ、ヤケイ(野鶏)とそれが家畜化されたニワトリであるから、別に区別しなくてもいいようにも実は思うのだが。

「之れを養へば、火災を禳(はら)う」前のウィキの引用の最後を参照されたい。

「揚赤〔(ようせき)〕」赤い色が浮き揚がるようにくっきりとしていることを指す。

「膺(むね)」「胸」に同じい。

「文〔(ぶんかん)〕」もし、この「」は音は「翰」(カン)で、肥えた雉の謂いらしい。鮮やかでくっきりとした紋を持っているから、目立って肥えて見えるというのではなろうかなどと勝手に想像したりした。だったら、読みは「もんかん」の方がいい気がする。

「通〔(とほ)〕して」一般的総合的に比較観察するならば。

「一類にして甚だ相ひ遠からざるなり」この「甚だ~ざる」は明らかに「殆んど~ない」であるから、この見解を示す連中は、同種或いは亜種或いは個体変異に過ぎない(近縁種より近い意味)と考えていることが判る。

「其の羽毛を愛し、水に照らして、卽ち、舞ふ。目-眩〔(めくるめ)〕きては、多く、死す。鏡を照しても、亦、然し」錦雞(キンケイ)は、その自分の鮮やかにして煌びやかな異羽毛を自愛し、ナルキッソスの如く、その己が姿を水に映しては、無闇矢鱈に舞い踊り続け、遂には眩暈を引き起こして昏倒し、頓死してしまう。人がキンケイの前に鏡を持ち出して、彼らに彼らの姿を映し見せても、全く同じ現象が起こる、というのである。

「鸐雞の尾を愛して、餓死する」「山雞」を参照。

「文〔(もん)〕を以つて其の身を累(わづら)はす者なり」その美しい豪奢な紋様によって、あたら、身を煩わし、遂には亡ぼされるのである、とは、如何にも中国文学の載道派的牽強付会のトンデモ解釈で甚だ面白い。

「柹雉(かききじ)」不詳。キンケイの色彩変異個体ではなかろうか。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(50) 武權の勃興(Ⅱ)

 

 併しながら、日本に於ける攝政の歷史は、世襲的權威は常にまた何處に於ても、その權威の代理者に依つて取つて代はられるものであるといふ、普通の法則を充分に說明して居る。藤原氏も終には、政略上から取り入れ且つ行はして居た奢侈の犠牲となつたと考へられる。藤原氏は單なる宮廷の貴族に堕し、軍事方面の事は全然これを武家に委任して、内政の方面以外には、何等直接の權威を行使する努力をしなかつた。第八世紀に及んで支那の方式に從つて、文武の組織が區別され、ここに大なる武人階級が現出して、急速に其の權力を擴大するに至つた。正統の武家氏族の中で、最も有力なるものは、源氏と平氏とであつた。藤原氏は、戰爭に關する一切の重要事項の處狸を、これ等二氏に代理せしめ、其の結果、やがて其の高い地位と勢力とを失ふに至つた。武家が大になつて政府の權能を制肘し得るやうになるや――これは第十一世紀の中葉のことであるが――藤原氏の一族は、多くの攝政の下に數世紀の間、要職を独擅にしてはゐたが、其の主權は既に過去のものとなつてしまつた。

 併し武家も、その仲間同志で激しい爭鬪をした上でなければ、自分等の野心を實現することはできなかつた、――これが日本歷史中の、最も長く又最も激しかつた戰役である。源氏も平氏も何れも皆公卿であつて、皇室の末裔であつた。兩家の爭鬪の初期に於ては、平氏がすべて優勢であつた。如何なる權力と雖も、平氏が敵なる氏族を撲滅するのを妨げることはできないと考へられた。併し運命は遂に源氏の方に向つて來て一一八五年壇の浦に於ける有名な海戰で平氏は滅亡してしまつた。

 その時から源氏の攝政むしろ將軍の治世が始まつた。『將軍』と云ふ稱號は、ロオマの兵語イムペラトルの如く、もとは單に總司令官の意味であつたと、私は別の處で述べたことがあつた然るに今やそれは、文武兩樣の主權者――國王の中の國王――たる二重の資格に於て、事實上最高の統治者の稱號となつたのである。源氏が權力を獲得した時から、將軍政治の歷史は――武權優越の長い歷史――は實際に始まつた、爾來下つて明治の現代に至る迄、日本は實際に二人の皇帝を戴いてゐた。卽ち一方に天皇或は神の化身は、種族の宗敎を代表し、今一つの眞の大元帥は、行政上の諸權を行使してゐた。併し誰れも力に依つて、少くともあらゆる權威の源である日嗣ぎの御位を侵さんと冀ふ[やぶちゃん注:「こひねがふ」。]者はなかつた。攝政則ち將軍もその御位の前には頭を下げた。神性は纂奪さる可くもなかつたのである。

[やぶちゃん注:「イムペラトル」原文“ Imperator ”。ラテン語。古代ローマ、特に共和政ローマに於けるローマ軍の最高司令官・将軍の称号。後に皇帝若しくは帝権保持者の称号となり、ローマ帝国に於ける皇帝或いは帝権の一部を成した。共和政期には対外戦争で成功を収めた軍事指導者の称号としても使用された。字義的には「インペリウム( Imperium :古代ローマに於いてローマ法によって承認された全面的命令権を指す)を保持する者」という意味で、平時に於ける「最高命令権者」或いは戦時に於ける「最高司令官」のことを指す。初代皇帝アウグストゥス以降、皇帝(正確には元首であるプリンケプス princeps )の個人名に使われるようになった。このことから「アウグストゥス」「カエサル」などとともに最高権力者の肩書きとして認識されるようになった(以上はウィキの「インペラトル及びそのリンク先の記載に拠った)。]

 併し壇の浦の戰の後にも、平和はつづいて來なかつた。源平兩家の大爭鬪に依つて始まつた氏族の戰ひは、さらに五世紀間も、不規則な間隔を置いては、續いて行はれ、國家は四分五裂の有樣になつた。のみならず源氏も高價な犧牲を拂つて獲得した最高權を、永く獨占し得なかつた。北條氏の一族にその政權を代理せしめたので、彼等は、丁度藤原氏が平氏に其の位置を奪はれた如く、北條氏のために取つて代はられてしまつた。源氏の將軍にして實際上の政權を執つたものは、僅に三人のみであつた[やぶちゃん注:執権支配の様態から事実上は源頼朝一人と言うべきである。]。第十三世紀を通じて、否[やぶちゃん注:「いな」。]其の後も尙ほ少時は、北條氏が此の國を治めた。而して注意すべき事は、これ等の攝政は、決して將軍の名稱を名のらず、單に將軍の代理職なりと稱してゐた事である[やぶちゃん注:「執権」は将軍の命令によって政務実務を代理執行する者の意である。]。かくして源氏が鎌倉に一種の宮廷をもつて居たのであるから、一見三頭政治があつたわけである。併しそれ等は單に影の中に消えてしまひ、『影法師將軍』或は『傀儡將軍』と云ふ意味深い稱呼で記憶されてゐる。併しながら、北條氏の行政は、異常な才幹と絕倫なる精力の人々に依つて行はれたので、決して影の如き空虛なものではなかつた。天皇にせよ、將軍にせよ、彼等のために用捨なく、讓位追放に處せられた。將軍職の無力であつた事は、七代目の北條執權職が、七代目の將軍の職を免ずる時、將軍を其の家に送りとどけるに當つて、轎[やぶちゃん注:「こし」と訓じていよう。平井呈一氏もこの漢字を用いた上で、『こし』とルビしている。原文は“palanquin”で、これは中国・インド・日本などの昔の輿・駕籠を意味する英語である。]の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事實から推斷し得られよう。にも拘らず、北條氏は、幽靈の將軍を一三三三年まで、そのままにつづけさせた。其の手段に不謹愼な點があるにせよ、これ等の執權が有能の統治者であつたことは。一二八一年のキユブライ汗の有名なる侵略――の如き大事變に際して、救國の任に堪ふるの實力を示した事に依つて知られる。國家の大社に捧げられた祈願に答へて、敵艦隊を打ち沈めたと傅へられる幸運な大風(神風)に助けられて、北條氏は此の侵入者を驅逐することができた。併し北條氏も、内亂を鎭定するには成功しなかつた――特に騷がしい佛敎の僧侶に依つて起された亂には不成功であつた。第十三世紀に、佛敎は發達して一大武力となつた、――不思議にもヨオロツパ中世紀の戰鬪敎會(チヤアチ・ミリタント)に似て居る、僧兵、戰鬪僧正の時代とでも云ふのである。佛敎の僧院は、武裝した人々で一杯になつて居た城塞と化した。佛敎の脅威は一度ならず、宮廷の聖い離隔した處まで恐怖をもち込んだ。源氏一統の先見の明をもつて居た創設者なる賴朝は、當初佛敎に軍事的傾向のあるのを看取し、すべての僧侶が武器を携へ、若しくは武裝した家人を養ふことを嚴禁して、かくの如き軍事的傾向を阻止しようと企てた。然るに彼の後繼者達は何れも、かくの加き禁令を勵行することを怠つたので、其の結果佛敎の武力的勢力は、非常に急速に發達し、爲めに機敏なる北條氏と雖も、これに對抗し得るや否や頗るその實力に就いて疑ひを抱いたのであつた。結局此の勢力は、北條氏に非常な煩ひを與へることになつた。第九十六代のみかど後醍醐天皇は、北條氏の專橫に反抗するの勇氣を振ひ起こし、又佛敎の僧兵は天皇に味方をした。天皇は脆くも敗れ、隱岐の島に逐はれ給うた。併し天皇の大義は、やがて永年執權の專制に憤激して居た有力なる領主達に依つて擁護せられた。これ等の領主達は勢力を集め、逐はれた天皇を取りかへして舊に復し、力を協はせて執權の首府たる鎌倉に、必死の攻擊を試みた。鎌倉は襲擊され燒燼された。そして北條氏の最後の統治者は、勇敢に防戰したが遂に及ばず、腹搔き切つて果てた。かくの如くして、將軍政治と執權職とは共に一三三三年に滅亡した。

[やぶちゃん注:「七代目の北條執權職が、七代目の將軍の職を免ずる時、將軍を其の家に送りとどけるに當つて、轎の中に倒さに吊るして運んだと云ふ事實から推斷し得られよう」第七代執権は北条時宗であるが、第七代将軍は惟康親王で、彼が将軍職に就いたのは、文永三(一二六六)年七月であって、以下の惟康親王の将軍解任と京への強制送還の一件は、正応二(一二八九)年九月、則ち、時宗の死(弘安七(一二八四)年四月)の五年後のことであるから、執権は、第八代北条貞時で、小泉八雲の誤認である。また、「倒さに吊るして」の訳は戸川の悪訳であって、輿を御所に反対向きに寄せて乗せさせられたのである。これは罪人を護送する際のやり方であり、その輿も何と、筵で包んだ粗末な網代の御輿であったことが、後深草院二条の「とはずがたり」の記されてある。

「一二八一年のキユブライ汗の有名なる侵略」「キユブライ汗」は原文“Kublai Khan”で、言わずもがな、元王朝初代皇帝にしてモンゴル帝国第五代皇帝(大ハーン)であったクビライ・カアン(一二一五年~一二九四年)のこと。「一二八一年」は弘安四年で、二度目の元寇襲来である「弘安の役」の開始年。

「第十三世紀に、佛敎は發達して一大武力となつた」中世を通じて強大な武装集団を有し、しばしば強訴に及んだ、延暦寺と興福寺を主とした所謂、「南都北嶺」を指すものであろう。ウィキの「寺社勢力によれば、『大寺社内は「無縁所」とよばれる地域であり、生活に困窮した庶民が多く移民し、寺社領地内に吸収された。また、幕府が罪人を捜査する「検断権」も大寺社内には及ばず、そのため源義経や後醍醐天皇など、戦乱に追われた人々の多くが寺社にかくまわれた』とある。

「戰鬪敎會(チヤアチ・ミリタント)」「チヤアチ・ミリタント」は前の四字へのルビ。“church-militant”。「闘う教会」。元は現実の教会が正しいキリスト教を敢然と主張し広めることの比喩であるが、ここは、実際に教会に所属した兵組織のこと。平井呈一氏は『教会兵』と訳されておられる。後に十字軍に発展するものであろうか。]

諸國里人談 目次(全) / 諸國里人談~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:最後に、各巻頭に存在する目次をここに纏めて出すここでは、刊行時のそれを伝えるため、早稲田大学古典総合データベースの最も古い①を用いた(但し、実は③も大差なく、巻之二の甚大な錯雑さえも無批判にそのまま写しとっている)。表記は①のママで、本文同様、迷ったものは正字で表記した。原典では概ね二段組表記(目次を二頁に納めるためで、項目数の多い第四巻では終りが三段組となっている)であるが、ブログ・ブラウザでの不具合を考え、一段で示した。字配も一致させてはいない。また、国名等を除いてルビが附されているが、五月蠅くなり、見た目の整列も悪くなるので、総て略した。読みは概ね、本文標題或いは本文内に附してある。

 

諸國里人談巻之一

   ㊀神祀部

○和布刈    豊前

○諏訪祭    信濃

○芝條     出羽

○吉備津釜   備中

○鹿伏神軍   佐渡

○飽海神軍   出羽

○龍王祭    淡路

○直會祭    尾張

○人魚     若狹

○龍虵     出雲

○梅園社    肥前

○犬頭社    三河

○熱田的射   尾張

○常陸帯    常陸

○筑摩祭    近江

   ㊁釋教部

○佛舎利    大和

○大佛     奈良 京都

○大觀音    泊瀨 鎌倉 江戸

○嵯峨釈迦   山城

○善光寺如來  信濃

○石羅漢    豊後 大和

○鬼押     伊勢

○金印     相摸

○高野山禁ㇾ笛 紀伊

○雷鳥     加賀

○三猿堂    近江

 

諸國里人談巻之二

   ㊂奇石部

○息栖甁    常陸

○要石     常陸

○※石     安藝

[やぶちゃん注:「※」=「石」+(つくり:「而」(上)+「大」(下)。「※石」で「さゝれいし」とルビする。「さざれいし」。]

○根矢鉾立   越後

[やぶちゃん注:以下、「○鸚鵡石」までは(ここここ)激しい錯雑が起こっており(①・②・③総て同じ)、前後するどころの騒ぎではないので、本文に合わせて特異的に順列を組み替えた(なお、吉川弘文館随筆大成版は正しく直されてある)。各条自体は①の表記に拠っている。]

○姨石     信濃

○文字摺石   陸奧

○名號石    相摸

○蛙石     摂津

○釣鐘石    摂津

○京女郞    讃岐

○巫石     下野

○殺生石    下野

○石燈籠    相摸

[やぶちゃん注:以上の「○石燈籠」は①・②・③総てで脱落しているので、補った。「相摸」の字は前後及び本文の表記に拠った。]

○石宝殿    播广

[やぶちゃん注:「广」は「磨」の略表記。]

○鬼橋     備後

○鵜飼石    甲斐

○龍淵     和泉

○栢葉石    陸奧

○隠水石    紀伊

○木葉石    出雲

○姥石     越中

○水口石    近江

○月糞     美濃

○星糞     信濃

○神石窟    出羽

○鸚鵡石    伊勢

○御福石    上野

   ㊃妖異部

○成ㇾ大會   山城

[やぶちゃん注:返り点は現在のように厳密に規則既定されたものとはされておらず、判り切っている場合、二字以上を纏めて戻る場合でも、しばしばㇾ点が用いられた。ここもそのケースで「大會(たいゑ)と成(な)る」(ルビはママ)と読む。]

○森囃     相摸

○髮切     伊勢

○雇天狗   江戸

○河童歌    肥前

○鬼女     三河

○皿屋敷    江戸 出雲 ハリマ

[やぶちゃん注:「ハリマ」のカタカナはママ。]

○窟女     伊勢

○天狗遊石   伊賀

○木葉天狗   遠江

○片輪車    近江

 

諸國里人談巻之三

  ㊄山野部

○富士     駿河

○淺間     信濃

○阿蘓     肥後

○妙義     上野

○燒山     陸奧

○立山     越中

○雲仙     肥前

○彦山     豊前

○白峰     讃岐

○洞穴     若狹

○風穴     和泉

[やぶちゃん注:上記は、「かさあな」のルビ。]

○風穴     甲斐

[やぶちゃん注:上記は、「ふうけつ」のルビ。]

○土團子    甲斐

○土饅頭    周防

○室八島    上野

[やぶちゃん注:「室八島」の「上野」は「下野」の誤り。]

○迯水     武藏

○野守鏡    大和

○阿漕塚    伊勢

○短尺塚    陸奧

○黒塚     武藏

   ㊅光火部

○火辨

○不知火    豊後

○橋立龍燈   丹後

○焚火     隱岐

○分部火    伊勢

○二恨坊火   摂津

○虎宮火    摂津

○嗟跎龍燈   土佐

○野上龍燈   周防

○光明寺龍燈  相摸

○狸火     摂津

○姥火     河内

○秋葉神火   遠江

○千万火    伊勢

○狐火玉    京

○油盗火    近江

○入方火    越後

○火浣布 寒火 异国

[やぶちゃん注:「异」は「異」の異体字。]

 

諸國里人談巻之四

   ㊆水邊部

○水辨

○若狹井    奈良

○塩井     陸奧

○塩泉     下野

○油池     出羽

[やぶちゃん注:「油池」の「出羽」は「越後」の誤り。]

○油泉     美濃

○掘兼井    武藏

○入梅井    摂津

○念佛池    美濃

○浮島     出羽

○嶋     西國

[やぶちゃん注:原典では「」(「遊」の異体字)は(てへん)を(しんにょう)の左に出した字体。]

○津志滝    安藝

○裏見瀧    下野

○鼓滝     摂津

○有馬毒水   摂津

○高野毒水   紀伊

○桜池     遠江

○龍池     相摸

○竜穴     信濃

  ㊇生植部

○曽根松    播磨

○不断桜    伊勢

○十六桜    伊与

[やぶちゃん注:「伊与」はママ。「伊予」の誤刻であろう。]

○八重桜    大和

○唐崎松    近江

○銭掛松    伊勢

○枝分桃    安藝

○無澁榧    甲斐

○青葉楓    相摸

○印杉     大和

○観音寺笹   三河

○大竹     駿河

○臥竜梅    武藏

○八幡木    土佐

○西行桜    山城

○遊行柳    上野

[やぶちゃん注:「遊行柳」の「上野」は「下野」の誤り。]

○小町芍藥   出羽

○一夜杉    出羽

○伐ㇾ桜    京

○大樹     筑紫 近江

○物見松    美濃

大番焦    堺

[やぶちゃん注:「大番焦」は「おほそてつ」とルビ。本文の表記標題は「妙國寺蘇鉄」。]

○八橋杜若   三河

○宮城野萩   陸奧

 

諸國里人談巻之五

   ㊈氣形部

○犬生ㇾ人   和泉

○源五郞狐   大和

○伯藏主    江戸

○横山狐    伯耆

○宗語狐    京

○稲荷仕者   京

○鯉社仕者   丹波

○黒島鼠    讃岐

○大鼠     信濃

○武文蟹    摂津

○大蟹     摂津

[やぶちゃん注:「大蟹」の「摂津」は「三河」の誤り。]

○大烏賊    相摸

○松喰虫    武藏

○石蛤     土佐

○眇魚     出羽

○片目魚    摂津

○玉島川鮎   肥前

○宮川年魚   伊勢

  ㊉器用部

○大峰鐘    大和

○三井鐘    近江

○須磨寺鐘   摂津

○無間鐘    遠江

○東大寺鐘   大和

○方廣寺鐘   京

○建長寺鑑   相摸

○長樂寺鈴   上野

○鴨毛の屏風  大和

○奇南     异国

○蘭奢待    大和

○永樂銭起   相摸

 

[やぶちゃん注:以上を以って菊岡沾涼「諸國里人談」のオリジナル電子化注を完遂した。]

諸國里人談 序(菊岡沾涼) / 表紙

 

[やぶちゃん注:以下には本書冒頭にある著者菊岡沾涼の序文を示す。底本としては②を用いた。この序文、一部で読みを含んだ訓点を有する間の抜けた字配の、諧謔的モドキ日本漢文なので、

①白文

②訓点附(句点は存在しないが、ないとどうにも読み進めることが困難である。されば、句点のみ、吉川弘文館随筆大成版に打たれたそれを採用させて貰った。全体に変則的表記となり、やや読み難いが、これが原典に最も近い形となる)

③訓点に従いつつ、さらに推定で書き下し、読み易く表記を書き換え、読みや句読点・送り仮名も推定で大幅に勝手に添えたもの

を順に示すこととした。]

 

①[やぶちゃん注:冒頭の枠囲いの篆書の標題は私には全く判読出来なかったので、教え子の書道家に判読を依頼している。分かり次第、追記する。【2018年8月15日追記:依頼していた教え子が家族総出で判読して呉れ、取り敢えず最後の一字は「処」と確定した旨、連絡があった。感謝!】

**処

昨日旅今日羈明日者末太越邊畿山之岑奈連哉空行月須惠能白雲矣唫而于着爲撥巡於国々新剃桑門負笈飛錫行程駕丁少六馬士与作于話知新徃山柴刈尉來川洗濯于温故呉竹之爲不思義事而也飛鳥川爲變行狀而也毎々禿石筆先有其蒼坊主草稿矣書賈二酉堂設之而與題之云不直採有儘與里人談爾云

         東都俳林菊米山翁沾涼述

             落款  落款

[やぶちゃん注:「※」=「女」+「遇」。なお、最後の落款は前者が「房行之印」か(房行は沾涼の本名)、後者は「菊米山」。以下、落款は省略する。]

 

②[やぶちゃん注:原典のルビと思われる部分(漢字の読み)は丸括弧同ポイントで附した。

**処

昨日(キノフ)旅。今日(ケフ)羈(タビ)。明日(アケ)者末太越邊畿山之岑奈連哉空月須惠能白雲矣而。于着(ユキツ)爲撥(バツタリ)於国々。新剃桑門(シムテイホウス)負ㇾ笈ㇾ錫行(ミチ)程(クダ)。駕丁(カゴカキ)少六。馬士(ムマカタ)与作于話(モノガタリ)ㇾ新。徃柴刈ニ一尉(ヂヽイ)。來タル洗濯。于※ㇾ故[やぶちゃん注:「※」=「女」+「遇」。]。呉竹之爲(ナ)不思義事而也。 飛鳥川爲(タ)ㇾ變(カハ)行狀(アリサマ)而也。毎(コト)々禿(チビ)ル二石筆蒼(アヲ)坊主草稿(シタガキ)矣。書賈二酉堂設ㇾ之而與題セヨトㇾ之云。不ㇾ直ㇾ採與里人談(モノガタリ)爾云。

         東都俳林菊米山翁沾涼述

 

③[やぶちゃん注:〔 〕は私が推定で歴史的仮名遣で添えた読み。]

**処

昨日(きのふ)も旅、今日(けふ)も羈(たび)、明日(あけ)はまだ、越ゆべき山の岑〔みね〕なれや、空(そら)行く月、すゑの白雲、と唫(ぎん)じて、于-着(ゆきつ)き爲-撥(ばつたり)に国々を巡る、新剃桑門(しむていほうす)、笈を負ひ、錫〔しやく〕を飛ばし、行(みち)程(くだ)り、駕丁(かごかき)の少六〔しやうろく〕、馬士(むまかた)の与作〔よさく〕が話(ものがたり)に、新〔あたらし〕きを知り、山へ柴刈〔しばかり〕に徃く尉(ぢぢい)、川へ洗濯に來たる※〔ばばあ〕に、故〔ふる〕きを温〔たづ〕ね、呉(く)れ竹の不思義爲(な)る事、而〔しか〕るや、飛鳥川の變(かは)つ爲(た)る行狀(ありさま)、而るや、毎々(ことごと)、石筆〔せきひつ〕の先を禿(ちび)る、其の蒼坊主(あを〔ばうず〕)の草稿(したがき)有り、書賈二酉堂〔しよこにゆうだう〕、「之れを設けて與〔とも〕に之れに題せよ」と云ふ。採(とり)も直さず、有(あり)の儘に、與〔とも〕に「里人の談(ものがたり)」と爾云〔しかいふ〕。

 東都俳林菊米山(きくべいさん)翁沾涼 述

[やぶちゃん注:「※」=「女」+「遇」。

「唫(ぎん)」「吟」に同じい。

「于-着(ゆきつ)き爲-撥(ばつたり)」現在の「行き当たりばったり」。

「新剃桑門(しむていほうす)」出家して頭を剃ったばかりの修行僧。但し、沾涼が実際に出家した感じは資料から見出せない。

「少六」「馬士(むまかた)の与作」と同様、駕籠舁きに有り勝ちな通称だったのであろう。

「呉(く)れ竹」一般名詞としては、中国の呉から渡来したものとされる、葉が細かくて、節(ふし)の多い淡竹(はちく)の異名であるが、ここは清涼殿の東庭の北に格子の籬垣の台の中に特に配されて植えられてあった特別な「呉竹」(それが不思議)のことであろう(南側の御溝水(みかわみず)の傍には「河竹(かわたけ)」が配されてあった)。

「飛鳥川」奈良県中部を流れる川で、高取山に源を発し、畝傍山と天香具山の間を流れ、大和川に注ぐが、古えは流れの変化が激しかった。そこから「定めなき世」の譬えとされ、ここも沾涼はそれに掛けて言っている。また、同音の「明日」の掛け詞や枕詞としても用いられる。

「石筆〔せきひつ〕」黒色又は赤色の粘土を乾かして固め、筆の穂の形に作ったもの。管に挟んで、書画をかくのに用いた。

「酉堂書賈」本「諸國里人談」初版を刊行した書肆(しょし)池田二酉堂のこと。①の見開き表紙(右)に、

   *

   延申郎沾涼著

 諸國里人談

   池田二酉堂藏版

   *

と大書してある。これも国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像の当該頁を後ろに掲げておく(前にも言ったが、早稲田大学図書館版は使用許諾申請が必要なため)

「之れを設けて與〔とも〕に之れに題せよ」よく意味が判らぬ。「本書の冒頭に、別にパートを設けたから、本文に合わせて巻頭の「序」を書いた上で、ちゃんとした本書の題名を決めて呉れ」ということか。

「爾云〔しかいふ〕」通常は漢文で文章の終わりに用いて「これにほかならない」という意味を表わす常套的終辞助辞である。或いはこれで「のみ」とも読むので、ここも「のみ」かも知れぬ。]

 

Syokokurijindanhtobira

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像をトリミング補正した(シミ汚損が激しいため、ハイライトを強くかけた)。二箇所の朱印は国立国会図書館の蔵書印。「延申郎」(えんしんらう(えんしんろう))は菊岡沾涼の別号と思われるが、確認は出来なかった。「延伸」は距離や時間を伸ばすことであるから、紀行の旅程や脱稿の遅さを掛けたものか。「池田二酉堂」(いけだにゆうだう)は前に出した通り、神田鍛冶町二町目にあった書肆の名。主人は池田屋源助。店名の「二酉」は中国で大酉(だいゆう)・小酉という二つの山の石窟から千巻の古書が出てきたという故事から、「蔵書の多いこと」及び「夥しい書を収めた所」の意である。]

諸國里人談 跋(秋里籬島記(後年))/奥書(寛政十二年再板本版)

[やぶちゃん注:以下、秋里籬島の跋文を、これは「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」内の三種の同書の内、それを最終巻末に載せる版本、寛政一二(一八〇〇)年版(②。こちら)を底本とした。]

 

諸國里人談跋 落 款[やぶちゃん注:篆書の右側の文字列(三字)は全く判らぬが、左側の三字は「隔囂塵」と読め、「囂塵」(ごうじん)は騒がしい俗世のけがれであるから、如何にも禅語っぽい。後注で示す通り、本跋は初版板行から二十七年も後の刊本に添えられたものであり、これについては、後の沾涼の序文のそれが読めないのとは異なり、苦ではないので放置することとする。]

此ふみは、けふよりや書つけ消さん笠の露、と蕉翁の曽良にわかれしとき、旅のあはれをのべられし句也。そがながれを汲〔くみ〕て、東都の菊岡沾涼子、真菅〔ますげ〕のかさに、あかぎの杖をひいて、やま、つたひつたひし、花のあけぼのにうかれありき、雪の夕ぐれに家なきあたりをさまよひ、あるは、梢〔こず〕え[やぶちゃん注:ママ。]ゆらす峯の寺、藻(も)たく海士〔あま〕の家または舩のうちに泊りて、遠近〔をちこち〕、人のかたりあふをかいあつめたる、行脚ものがたり也。千さとも居ながらにして、酈道元〔れきだうげん〕が水經〔すいけい〕を誰〔とひ〕せしともいはん歟〔か〕。これに附して、おのがすむまがきの端は、むかし、河原のひたんのおほいまうちぎみの、古き蹟〔あと〕也。おのれが弊樓〔へいらう〕にのぼれば、淸水〔きよみづ〕の地主〔ぢしゆ〕の樓華〔らうくは〕頂〔いただき〕のさかりは、雲とみえ、雪とちり、夏は石川や蟬の小河の、きよきの樓下にながれきたり。いははしる鮎をすなどりて、日毎の貢〔みつぎ〕となる。あるは鈎〔はり〕をたれ、床〔ゆか〕をしつらひて、河邊にすゞみとる草むらより、露にとめるほたる、水の上を飛かふけしき、秋は名にしほふてる月なみの、むかしも今もかはらぬは、いふも更なり。冬は雪のあした、ひがしのやまのたゝずまひ、橋上の行人(かうじん)、萬(ばんこ)の白妙、つきぬながれの水の音に、千鳥の聲まじりて、寢ざめのまくらに聞ゆるなど、煙霞風流のとこしなへにかはらざるも、都五條あたりの里人談といふは、ほこらしげなれ、と帋〔かみ〕の零〔こぼれ〕あるまゝにしるす。

 寬政十二のとし申の春

        平安 秋 里 籬 島

              落款 落款

[やぶちゃん注:最後の落款は「河原院古趾印」(後注参照)と「籬島」。筆者秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳)は複数回注で記しているが、読本作家で俳人。本書より後の安永九(一七八〇)年刊行の「都名所図会」(竹原春朝斎画)が爆発的にヒットし、専ら「名所図会」シリーズの作者の一人として先駆者として知られる。因みに、最後の注を必ず参照のされたい

「酈道元〔れきだうげん〕が水經〔すいけい〕」酈道元(?~五二七年)は北魏の地理学者で、官は関右大使にまで進んだ。その政治が厳酷で、東荊州刺史となった際には蛮民の恨みを買って免官になったこともある。陝西方面の行政査察に赴いた際、陰謀によって暗殺された。各地を旅行・調査して著わした地理書「水経注」で有名。

「誰〔とひ〕」「訪ふ」。

「河原のひたんのおほいまうちぎみの、古き蹟〔あと〕也」「河原のひたんのおほいまうちぎみ」は、光源氏のモデルの一人とされ、「今昔物語集」などで霊となって出現することで知られる源融(弘仁一三(八二二)年~寛平七(八九五)年)の別名なのであるが、漢字表記は不明。かの「河原院」(平安期から旧主融の霊の出現する心霊スポットとして広く知られ、「源氏物語」の「夕顔」の「なにがしの院」のモデル)の庭の池の中の島があったところを、古く「籬(まがき)の島(=森)」と称したらしく、秋里はその旧地とされる場所に住んだことから、かく号した。現在の京都府京都市下京区都市町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淸水〔きよみづ〕の地主〔ぢしゆ〕の樓華〔らうくは〕」清水寺の本堂の背後の高台に隣接する地主神社。

「帋〔かみ〕の零〔こぼれ〕あるまゝにしるす」「帋」は「紙」の異体字。余白を汚すといった感じの謙遜の辞。

「寬政十二のとし申」寛政十二年は庚申(かのえさる)で一八〇〇年。本書の初版板行は寛保三(一七四三)年で、作者菊岡沾凉は刊行から僅か四年後の延享四(一七四七)年に数え六十七で没している。この跋文はずっと後の版である、私がここで底本とした②に添えられたものであることが判る。

 

 

 

[やぶちゃん注:ここで以下に①・②・③に載らない吉川弘文館版の奥書(「解題」によれば寛政十二年の再板本のもの。書肆が変わっていることが判る)を参考までに電子化しておく。恣意的に正字化した。字配は再現していない。]

 

江戸日本橋通一丁目  須原屋 茂兵衞

   同 二丁目     山城屋 佐兵衞

發行 同 芝神明前南   岡田屋  嘉七

   京御幸町御池    菱屋  孫兵衞

書房 大阪心齋橋南一丁目 敦賀屋 九兵衞

   同 北久寶寺町   敦賀屋  彦七

   同 堺筋金田町   象牙屋次郞兵衞

 

諸國里人談卷之五 永樂錢起 / 諸國里人談(本文)~了

 

    ○永樂錢起(ゑいらくせんのおこり[やぶちゃん注:ママ。])

永樂錢、日本へ渡りしは【永樂は大明成宗帝の年号なり。】、後小松院應永十年八月二日未の剋より、大風吹〔ふき〕て、堂社・民屋、ことごとく倒る。

翌三日巳の剋に凪(なぎ)たり。

其日申の剋に、唐舩(とうせん)一艘、相州三崎濱へ漂ひつく。

其時、鎌倉の將軍足利左兵衞督(さひようへのかみ[やぶちゃん注:ママ。])滿兼卿、下知あつて、伊東次郞右衞門尉貞次・梶原能登守景宗・三浦備前守義高を奉行として詮議ありけるに、惡風によつて着岸しけるよし、舩中の雜物(ぞうもつ)、實檢するに、唐銅(からかね)の永樂錢、數万貫(すまんぐはん)積(つみ)たり。

依ㇾ之(これによつて)、京都前(さきの)將軍義滿入道道有(だうゆう)、新將軍義持公へこれを訴(うつた)ふ。

「唐舩(とうせん)、關東へ着岸する上は、滿兼德分たるべし。」

と下し給りければ、舩中の財宝、殘らず、押(おし)とめ、其價(あたひ)に品々(しな〔じな〕)を給り、舩は歸國してけり。

其後、若干(そこばく)の永樂錢、徒(いたづら)に弊(やぶ)るべからず、法を定め、關東におゐて、これを用ゆ。

遙(はるか)に年を經て、天文の頃、永樂錢に錏(びた)といふ惡錢を取〔とり〕まじへ、同じ直段(ねだん)に用ひしによつて、賣買の輩(ともがら)、市町にて、かの惡錢を論じ撰(ゑら)みて、鬪靜(とうじやう)、やむ事なくて、喧(かまびす)し。

然るに天正のはじめ、北条氏康、關八州をしたがへ、諸士、悉く下知に隨ひければ、氏康の云〔いはく〕、

「それ、鳥目は品々あれども、永樂には、しかず。自今(じこん)、關東にては永樂を用ひ、他(た)の錢を用ひざるべし。一〔ひとつ〕には、錢の善惡(よしあし)、日を同じうして語るべからず。第二は、民の鬪論(とうろん)をとゞむ。三には、賣買の隙(ひま)を弊(やぶら)さじがためなり。」

とて、家臣山角(〔やま〕かど)信濃守定信・笠原越前守守康に仰(おほせ)て、庄鄕村里(しやうごうそんり)の辻々に、右の趣〔おもむき〕を書〔かき〕て高札〔こうさつ〕を立〔たて〕けるにより、自然(しぜん)と錏(びた)は廃(すた)り、上(かみ)がたへのみ上〔のぼ〕りて、永樂ばかり關東にとゞまる。此時より、錏(びた)を「京錢」とぞいひける。

その後(のち)、慶長九年御代〔みよ〕に至つて、天下一統に永樂錢を用ゆ。しかれども、

「錏錢(びたせん)、一向に弃(すつ)べきにあらず。」

とて、永樂一錢のかはりに、錏四錢をつかふべきむね、仰(おほせ)わたされける。

その後、また、商夫(しやうふ)の難儀に及ぶのよし、聞召(きこしめさ)れ、慶長十年十二月八日、永樂錢御停止(ごちやうじ)を仰出〔おほせいだ〕され、江戸日本橋に高札を立られける也。

○永一貫文を金一兩と立〔たて〕、二百五十文金壹步と立也。そのころ、金にかゆる時は、百錢の内一錢づゝ除きて、口錢〔こうせん〕とす。今以て、所々に永樂の年貢(ねんぐ)等あり。此遺風也。錏(びた)百錢にこれをうつし、永一錢の價(あたひ)を除きて、九十六錢を以て、通用すと云〔いへ〕り。

里人談五 終

 寛保三正月 神田鍛冶町二町目

          池田屋  源 助

  東都    日本橋通三丁目

          須原屋 平左衞門

[やぶちゃん注:「諸國里人談」の本文の最後となる。読み易さを考え、特異的に改行を施した。なお、永樂銭とキャプションする本条の挿絵がある(①)。また、最後に①の本文と同頁の後ろに直に続く奥書(実際にはポイントが大きい)をも電子化して附した。

「永樂錢」中国で、明の第三代皇帝永楽帝の代の永楽九(一四一一)年より鋳造され始めた銅製銭貨永楽通宝。ウィキの「永楽通宝」より引く(以下の注の引用とかぶる箇所がある)。『日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭、永銭などと呼ばれた』。『形状は円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。このような銭の形状(いわゆる方孔円銭)は、中国古代の半両銭に由来するものとされている』。『材質は銅製、貨幣価値は』一『文として通用したが、日本では天正年間以降』、『永楽通宝』一『枚が鐚銭』四『文分と等価とされた』。慶長一三(一六〇八)年には『通用禁止令がだされ、やがて寛永通宝等の国産の銭に取って代わられた。しかしその後も』「永」『という仮想通貨単位』、『すなわち』、『永一貫文=金一両であり』、一両の一万分の一を表わす『永勘定が年貢の取り立てに引き続き』、『用いられるなど、長く影響を残した』(永一文は四文前後。下線太字やぶちゃん)。『なお、永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら国外で流通していたと考えられてきた。明では初代洪武帝のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣(後には銀)に切り替えられていた(洪武帝は中国統一前には支配地域の一部で大中通宝「銅銭」を発行しており、統一後も洪武通宝「銅銭」を発行していた。その後も宣徳通宝・弘治通宝・嘉靖通宝が発行されている)。一方、日本では貨幣経済が急速に発展しており、中国銭貨への需要が非常に高まっていた。そのため、日本との貿易決済用銭貨として永楽通宝が鋳造されることとなったというものである。これは永楽通宝が中国ではほとんど現存せず、日本でのみ発見されていたことによる説である。ところが、近年になって日本の永楽通宝の中には日本で鋳造されたものが相当数含まれているという説が出されたことで』、『その前提に疑問が出され(後述)、また』、永楽九(一四一一)年に『浙江・江西・広東・福建の各布政司で永楽通宝の鋳造が命じられている事実(内陸の江西や日本との関係の薄い広東でも鋳造されている)』や、景泰七(一四五六)年に、『北京に大量の私鋳の永楽通宝が持ち込まれていたことが発覚する(北京の市場で官鋳による永楽通宝が通用していたことが私鋳銭混入の前提となる)』『など、近年では少なくても』十五『世紀後半の段階では永楽通宝は明国内でも流通されていたと考えられている』。『近年では、さらに広範囲に渡って使用されていた可能性も指摘されて』おり、二〇一三年には、何と、『アフリカのケニアから永楽通宝が出土している』という。『平安時代から鎌倉時代にかけて日本国内の商業・物資流通が活発化すると共に貨幣の必要性が高まっていた。しかしながらその時代には律令体制が崩壊しており、銭貨鋳造を行う役所も技術も廃れていた事から、中国から銅銭を輸入してそれを国内で流通させていた』が、『その中でも明の永楽帝の時代に』『作られた銅銭永楽通宝(永楽銭)は』、『当初は明の国内でも流通していたのだが』、『信用が低かった(中国では新銭よりも、流通の実績のある宋銭や開元通宝などが好まれた)ことから』十五『世紀後半には』、『明では次第に使用が忌避されるようになり、室町時代後期に大量に輸入された。この多くは日明貿易(勘合貿易)や倭寇を通じて日本に持ち込まれたものである。永楽銭という用語は、明代に輸入された銅貨一般を差す場合もある。従来からの宋銭が数百年の流通により磨耗、破損したものが多くなっていたのに対し、新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭で有ったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている一方で西日本では従来通り宋銭、鐚銭の流通が中心であった』『とされるが、近年になって、明朝時代に宋銭を私鋳していたという記述がいくつか発見され』、『それらの“宋銭”が日本に渡ってきた可能性は高いこと、また、後述するように』、『当初の明銭は撰銭の対象であったことが各種法令などから伺えることなどから、永楽銭は日本に入ってきた当初は日本全国で“価値の低い銭”であった可能性が高い』。『民間が勝手に鋳造した銭貨を私鋳銭というが、中国江南地方や日本で作られた私鋳銭も多く流通していた。(なお、一般では官鋳銭は品質が良く、私鋳銭は品質が悪いと思われがちだが』、『一概にそのように言えるものでもない。官鋳銭にも産地によっては良質な私鋳銭より質の悪いものもあった)。日本でも中国同様に、新鋳の明銭よりも流通実績のある宋銭の方が価値が高いと見なされ』、十五世紀後半から十六世紀半ばまでの『畿内においては』、『永楽通宝などの明銭は条件付き(百枚中』二十枚から三十『枚までの混入を認める)でしか流通しておらず』、『そのような宋銭重視政策を』、『特に畿内の荘園領主が行ったため』、『畿内では宋銭』が使われ、『東北や九州などの辺境などから』、『次第に粗悪な銭(鐚銭:ビタ銭)数枚で精銭』一『文とする慣行が成立していくことで』、『撰銭の対象であった永楽銭の地方流入を招くと共に、東国では後北条氏、結城氏などが永楽銭を基準とした貫高制の整備を行った。やがて』一五六〇『年代に明が本格的な倭寇取り締まりなどを行うと』、『中国からの銭の流入が途絶えたことにより』、『銭不足に陥り、畿内では』一五六〇『年代に貨幣経済から米経済』、一五七〇『年代に米経済から銀経済への急激な転換が起こる一方、関東では何段階かに分かれていたビタ銭の階層が収束されていき、京銭(渡来銭・私鋳銭を問わない宋銭)』四『枚=永楽銭』一『文という慣行が成立していった』、『江戸時代に入ると』、『江戸幕府が』慶長一一(一六〇六)年に『独自の銅銭慶長通宝を鋳造して』、二『年後には永楽銭の流通禁止令がだされ、この段階では慶長通宝の流通も充分でなく、実態は永楽銭の優位的通用を禁じ鐚銭並みの通用になったとされるが』、寛永一三(一六三六)年には『寛永通宝を本格的に鋳造し、寛文年間以降、全国的に流通し始めると永楽銭は次第に駆逐されていった』。『永楽通宝が主に流通していたのは、伊勢・尾張以東の東国である。特に関東では、永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、年貢や貫高の算定も永楽通宝を基準として行った。これを永高制という。一方、西国では宋銭など唐宋時代の古銭が好まれ』、十六『世紀に入るまであまり流通しなかった。ところが』、『この事実には大きな問題があった。それは明で』百年も『以前に鋳造された銅銭が』十六『世紀の日本の東国で広く使われた経緯が不透明な点である。しかも、明との貿易を行っていたのは主に西国の大名や商人であり、日本に流入する永楽通宝が』、『まず彼らの手中に入る筈であるのに、なぜ地理的に離れた東国でのみ流通したのかと言う点が十分に説明されてこなかった。このため、近年になって』十六『世紀の東国で用いられた永楽通宝は明で鋳造されたものではなく、そのほとんどが明の永楽通宝を精巧に再現し』、『日本の東国地域で鋳造された私鋳銭であるという説』が提唱され、『折しも、茨城県東海村の村松白根遺跡から永楽通宝とその枝銭が発見されており、科学分析の結果日本国産の銅で鋳造された可能性が高い事が判明するなど、今後の研究次第では通説に対する大きな見直しが迫られる可能性がある』という。他にも、『「永楽銭」の言葉があるからと言って必ずしも実物の永楽通宝でのやりとりを伴った訳ではなく、特に時代が下るにつれて』(一五七〇年代以降)、『「永楽銭」は実際の永楽通宝の価値とは異なる空位化した基準額(計数単位化)やそれに基づいた一定の基準を満たす精銭群(そこには実物の永楽通宝が含み得る)を指すなどの変化が見られ、(実物の)永楽通宝と「永楽銭」「永高」「永」の関係の再検討の必要性』が指摘されているともある。なお、『織田信長は、永楽通宝の意匠を織田家の旗印として用いていた。理由は明らかでないが、貨幣流通に早くから注目していたためであるとも言われる。信州上田城には、永楽通宝紋入の鬼瓦があり、これは上田藩主となった仙石忠政の父秀久が織田家臣時代に信長から拝領した家紋であると伝えられている』と最後にある。

「永樂は大明成宗帝の年号なり」明の第三代皇帝成祖・永楽帝(一三六〇年~一四二四年/在位:一四〇二年七月~一四二四年)の即位翌年からの年号(一四〇三年~一四二四年)。

「應永十年八月二日未の剋」ユリウス暦一四〇三年八月十九日(グレゴリオ暦換算では八月二十八日相当。室町幕府第四代将軍足利義持の治世)の午後一時から午後三時。

「巳の剋」午前九時から午前十一時。

「申の剋」午後三時から午後五時。

「鎌倉の將軍足利左兵衞督(さひようへのかみ[やぶちゃん注:ママ。])滿兼」(天授四/永和四(一三七八)年~応永一六(一四〇九)年)は第三代鎌倉公方(在位:応永五(一三九八)年~応永一六(一四〇九)年:鎌倉公方は室町幕府将軍が関東十ヶ国の統治を目的として設置した鎌倉府の長官。足利尊氏四男足利基氏の子孫が世襲し、鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された)。ウィキの「足利満兼」によれば、第二代鎌倉公方『足利氏満の長男(嫡男)。父と同じく元服時に第』三『代将軍・足利義満の偏諱を授かり』、『満兼』『と名乗る。鎌倉公方は父の代より京都の将軍家とは緊張関係が続いており』、応永六(一三九九)年一〇月に『大内義弘が堺で義満に対して挙兵した応永の乱では義弘に呼応』し、『さらに自身も、義弘に加勢するため』、『鎌倉を発ち、武蔵府中(東京都府中市)まで進軍するが』、『関東管領の上杉憲定に諫止され』、十二月に義弘の敗死を聞くと、翌年の三月五日に鎌倉に引き返している。その後、六月十五日には、『伊豆の三島神社に納めた願文によって幕府に恭順の意を示し、最終的に罪を赦されている』。応永六(一三九九)年『春には陸奥、出羽が鎌倉府の管轄となったため、弟である満直を篠川御所、満貞を稲村御所』『として下』した。『しかし、この措置は奥州の豪族達の反感を買い』、二年後の応永九年には『室町幕府と結んでいた伊達政宗』『の反乱が起きるが、これを上杉氏憲(のちの上杉禅秀)に鎮圧させている。この頃、京都では満兼が狂気したという噂が流れ、義満は満兼の調伏を行なうなど、再び両者の確執が起こりだしていたようである』。応永一四(一四〇七)年八月末には、『鎌倉御所が炎上したが、まもなく再建し』ている。没後は『長男の持氏が跡を継いだ』。

「伊東次郞右衞門尉貞次」後北条氏家臣団の伊豆衆の一つである伊東氏であろうが、不詳。

「梶原能登守景宗」(生没年不詳)。後北条氏家臣。ウィキの「梶原景宗」によれば、『紀伊国の出身であったが、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、その家臣となり伊豆水軍を率いた。里見氏や武田氏との戦いでは、水軍を率いて活躍したと言われている。しかし『北条記』では「海賊」と記されている。『北条五代記』では、「船大将の頭」と記されている。また、近年では伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての側面が指摘されている(北条家臣安藤良整と共に多くの商業関連の文書に連署している事からも窺える)』。天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐で水軍を率いるも』、『本多重次の配下であった向井正綱率いる徳川水軍に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、氏直の死後は紀伊に土着したという。 文書上、最後に動向が確認できるのは』天正一九(一五九一)年に『北条氏直が景宗から贈呈された鯖』五十『匹に対する返礼』だそうである。なお、ウィキでは「備前守」と記す。

「三浦備前守義高」不詳。ただ、個人ブログ「歩けば見つかる小さな歴史」の本条冒頭の漂着事件を記した三崎港内に深く沈んだ永楽銭…三浦市三崎港の中に、「武家盛衰記」からの引用として、「抑々永楽銭日本に渡ることは、応永十年八月二日の大風にて、同三日申の刻唐船二艘、相州三崎浦へ漂着したり』。『時鎌倉足利佐(左)兵督満兼下知にて、伊藤備前守義高奉行にて検儀す。船中も実験するに、明朝永楽銭数百貫あり』。『此旨将軍義満へ被下』。『夫より関東に此銭を用ひらるる云々』(下線太字やぶちゃん)と出る。

「數万貫」一貫は銭一千文(或いは九百六十文)。本「諸國里人談」が出た当時(江戸中後期)の一両は六千五百文相当であった。ただこれは室町時代だから、比較にはならない。ネットの複数の換算値で考えると、一万貫は現在の九千万円相当とするものがあったから、六掛けとして六万貫なら、五億四千万円相当か。

「京都前(さきの)將軍義滿入道道有(だうゆう)」「道有」は足利義満の道号(法号)の一つ。ウィキの「足利義満」によれば、義満は応永元(一三九四)年に将軍職を嫡男義持に譲って隠居したが、実際には政治上の実権を握り続け、同年には従一位太政大臣にまで昇進している。『武家が太政大臣に任官されたのは、平清盛に次いで』二『人目である。そして征夷大将軍を経験した武家が太政大臣に任官されたのは初めてであり、かつ後の時代を含めても』、『義満が足利家唯一の太政大臣となった。翌年には出家して道義と号した』とある。義満の没年は応永一五(一四〇八)年。

「若干(そこばく)の」沢山の。

「弊(やぶ)るべからず」「として」を補って読む。「弊る」はいい加減に扱ってしまわずに、の意であろう。

「天文」一五三二年から一五五五年まで。

「錏(びた)といふ惡錢」鐚銭。室町中期から江戸初期にかけて私鋳された、永楽銭を除く粗悪な銭貨。ウィキの「鐚銭より引く(以下の注の引用とかぶる箇所がある)。『鎌倉時代後期ごろから貨幣の流通が活発化したが、主に中国で鋳造された中国銭が流通していた。これらの中国銭は、中国(宋・元など)との貿易を通じて日本にもたらされたが、日本でもこれらの貨幣を私的に鋳造する者が現れた。これを私鋳銭(しちゅうせん)という。私鋳銭は、一部が欠落したもの、穴が空いていないもの、字が潰れて判読できないものなど、非常に粗悪なものが多く、商品経済の現場では嫌われる傾向が強かった。そのため、これら粗悪な銭貨は鐚銭と呼ばれ、一般の銭貨よりも低い価値とされるようになった』。『室町時代に入り、明が日本との貿易用に鋳造した永楽通宝などが日本国内で流通するようになると、明の江南地方で作られた私鋳銭や、日本国内で作られた私鋳銭も次第に混入していった。そうした私鋳銭ばかりでなく』、『南宋の戦時貨や明銭自体も不良銭が混じるなど』、『品質劣悪なものが普通だったため、これらを総称して「悪銭」といった。また、こうした悪銭は良質な「精銭」とくらべ低価値に設定されたり、支払時に受け取り拒否されることが多く、これを撰銭(えりぜに)といった。時には撰銭が原因で殺傷事件が起こることもあった。だが、経済発展に加え明の海禁及び貨幣政策の変更(明国内においては紙幣と銀が基準貨幣となり、銅銭を鋳造する意義が無くなった為に鋳造されなくなる)などによって渡来銭の供給が難しくなると、こんどは通貨総量が減って』、『銭不足が生じ』、『粗悪な渡来銭や私鋳銭の流通量は増大した。後に室町幕府の』十四『代将軍・足利義栄が将軍就任の御礼に朝廷に献上した銭貨や』、『同じく織田信長が正親町天皇の儲君・誠仁親王の元服の際に献上した銭貨が鐚銭ばかりであると非難されたが、これは彼らが朝廷を軽視していたというよりも』、『鐚銭ばかりが流通していて』、『権力者でさえ』、『良質な銭貨が入手困難であった事を示している』。『そのため』、十六『世紀になると室町幕府や守護大名、戦国大名たちは撰銭を禁ずる撰銭令(えりぜにれい)を発令して、円滑な貨幣流通を実現しようとした。しかし、民衆の間では鐚銭を忌避する意識は根強く残存したものの』、一五七〇『年代には経済の規模に対する絶対量の不足からくる貨幣の供給不足は深刻化して、代替貨幣としての鐚銭の需要も増えていくことになる。また、金銀や米などによる支払なども行われるようになった。後に織田政権が金銀を事実上の通貨として認定し、豊臣政権や江戸幕府が貫高制を採用せず』、『米主体の石高制を採用するに至った背景には、こうした貨幣流通の現実を背景にしたものであったと考えられる。また、織田政権は撰銭令の中で鐚銭を基準とした銅銭に質による交換基準を定めたことで、一定の品質水準に達した鐚銭の通用が保証されたため、鐚銭が京都における一般的に通用した貨幣とみなされて「京銭」と称されるようになった』。『江戸時代に江戸幕府は永楽通宝の通用を禁じて、京銭(鐚銭)と金貨・銀貨との相場を定めて鐚銭を相場の基準とすることで撰銭のメリットを失わせ、続いて安定した品質の寛永通宝を発行し、渡来銭や私鋳銭を厳しく禁ずるようになると、鐚銭は見られなくなり、撰銭も行われなくなっていった』とある。

「市町」「いちまち」と訓じておく。市中。

「かの惡錢を論じ撰(ゑら)みて」支払決済の際、鐚銭を受け取った者がそれを永楽銭その他と選別し、流通貨幣の標準価値から下がると主張して、忌避・排除したり、追加金を要求することを指していよう。これを「撰銭(えりぜに・えりせん・せんせん)」と称し、円滑な流通経済に支障を来たしたことから、室町幕府や多数の大名が「撰銭令」をたびたび発令し、悪銭と良銭の混入比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止することを条件に貨幣の流通を強制した。但し、ウィキの「撰銭令」によれば、禁止令の適応範囲が、『地域的であったことや』、『鐚銭を排除しようとする民衆が多く、満足な結果は得られなかった』という。そして、『従来、撰銭令は撰銭そのものをなくすためのものだと理解されてきた。しかし、それでは撰銭令は、室町幕府などが自ら大量に所有する粗悪な渡来銭などを市民に押し付けるための、利己的な悪法に過ぎないことになる。むしろ撰銭を「制限」する一方で、混入比率や交換比率など、一定の撰銭行為を「公認した」という面に注目すべきだという意見が、今日では強まっている。もともと渡来銭などを持っていない一部の地方大名などは、むしろ』、『領内から悪銭を排除するために撰銭を「公認」する度合いが強』かったからで、『撰銭を禁じた大名から良貨を大量に仕入れ、これを融解して悪貨を作って戻せば莫大な利益が出ることになり、これでは禁じた本人が大損害をこうむるばかりか粗悪な贋金を奨励して重大なインフレを招きかねない。そうならなかったのは、むしろ』、『粗悪な渡来銭を積極的に流通させていたのが、室町幕府ら中央の権門のほうであり、悪銭の中心は渡来銭だったことを明示している。積極的な海外貿易推進者であった戦国大名の分国法「大内氏掟書」には自分への貢納銭は撰銭し、庶民は撰銭するななどと虫のいいことを記している』という。『元や明ではすでに銅銭の信用が低下しており、貿易を独占するような権力者や大商人たちは、これを安い元手できわめて容易に入手しており、中国貿易では一億枚単位の取引さえ行われていた。したがって仮に撰銭がおこなわれて「洪武銭」のたぐいが差別されても、彼らは大きな損失を被ることはなかった。「堺銭」などのように、明や日本の贋金をあつめられる立場にあった者が、他人に故意につかませる行為さえあったのである。むしろ、撰銭がおこなわれ、かつ一定の制限のもとであるにせよ』、『公認された事実は、中国製貨幣の信用度に大きな打撃を与えたことになる』。『なお、撰銭令が出された目的は、飢饉や戦乱に際し米の価格の抑制することだという説もある。この説を取る場合、撰銭令が何度も出されたのは、守られなかったからではなく、米価高騰や戦争の都度に出されていたからだ、ということになる』とある。

「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から)。しかし、以下に登場する北条氏康はこれより前の元亀二(一五七一)年に没しているから、これは「天文」の誤りと採らぬとおかしい。氏康は天文一五(一五四六)年に扇谷上杉氏を滅ぼし、関東に於ける抗争の主導権を確保している。しかし、これは「天正のはじめ」ではなく、中頃と言うべきであり、さらに氏康が関東諸国に永楽通宝の通用を命じたのは、さらにその後の天正一九(一五五〇)年であるから、これは寧ろ「天文の末」が正しく、この部分の叙述はとんでもない致命的な誤りだということが判る。

「關八州」関東八ヶ国の総称。相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野。

「錢の善惡(よしあし)、日を同じうして語るべからず」銭の良し悪しを、毎度、問題にしてはならない。

「賣買の隙(ひま)を弊(やぶら)さじがためなり」「じ」は原本は「し」。意味を通すために濁音化した。また、吉川弘文館随筆大成版は「隙」を「障」と判読しているが、採らない。売買の「隙」(「関係・機会」の意で採る)を「弊(やぶら)さじ」(「阻害させまいとする」という打消意志で採る)の意と解釈した。大方の御叱正を俟つ。

「山角(〔やま〕かど)信濃守定信」当時の後北条の御馬廻衆の統轄者は山角康定(彼は信濃守ではない)であるから、その縁者であろうか。

「笠原越前守守康」後北条家臣団の伊豆衆に笠原氏がいるが、中でも北条早雲・氏綱・氏康三代に亙って仕えた宿老笠原信為(のぶため ?~弘治三(一五五七)年)が知られ、彼は越前守であるから、彼の誤りか

「慶長九年御代〔みよ〕に至つて」「天下一統」一六〇四年。徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開府したのは、この前年である。しらかわただひこ氏のサイト「コインの散歩道」の「永楽通宝の謎」によれば、この慶長九年『正月に、「悉く永楽銭を用ゆ、然れども一向鐚を棄るにもあらずとて、他銭』四『銭を以て永楽一銭の代りにすべし」と決め』たとあり、永楽銭一枚は鐚銭四枚相当と公定したとある。

「一向に弃(すつ)べきにあらず」「一向に」はこの場合、呼応の副詞で「全く(~ない)」である。「弃(すつ)」は「廃止する」。

「商夫(しやうふ)」商人(あきんど)。

「慶長十年十二月八日」前の「永楽通宝の謎」によれば、慶長一一(一六〇六)年十二月の誤りである。この時、幕府は『「商民の難儀に及ぶ由に付、永楽銭を停止し、鐚ばかり用ゆべし」とし』『たが、その後』も『結局』、『永楽銭も鐚銭も同じ価値で使われるようにな』ったとある。

「口錢〔こうせん〕」「くちせん」「くちぜに」とも読む。江戸時代の商業利潤。中世の問丸(といまる:港や重要都市に於いて年貢などの物資の輸送・保管・中継取引及び船舶の準備や宿泊の世話などを行った業者)に於ける手数料としての問米・問銭・問丸得分などが、近世問屋の発展につれて「口銭」と呼ばれるようになった。その内容には仲介手数料の他、運賃・保管料が含まれた(なお、中世末から近世には「口銭」は別に「付加税」の意にも用いられたので注意が必要)。ここは両替手数料のこと。

「永樂の年貢(ねんぐ)」前注「永樂錢」のウィキの「永楽通宝」からの引用の最初の下線太字部分を指していよう。]

「――道 成 寺 鐘 中――」トップ・ページ冒頭注追補

――道    中――Doujyou-ji Chroniclのトップ・ページの冒頭注を追補した。

2018/08/13

「甲子夜話卷之五十二」巻頭「日蓮村曼荼羅、淸正帆の曼荼羅幷京妙滿寺靈寶又道成寺鐘の事」の内、「道成寺の鐘の事」

[やぶちゃん注:肥前国平戸藩第九代藩主松浦(まつら)静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年:本名は清。静山は号)の膨大な随筆。彼が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの、実に二十年に亙って書き続けられ、その総数は正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻にも及ぶ。

 私は当該随筆の電子化注をこのブログ・カテゴリ「甲子夜話」でしているが、未だ巻之五に入ったばかりであり、以下の部分に辿り着くのには、何年もかかってしまう。しかし、私はサイトに独立した「――道    中――Doujyou-ji Chroniclというページも作っている関係上、それを無為に待っているのは如何にも辛い。されば今回、ここで急遽、フライングして電子化することとした。

 但し、冒頭に示した標題通り、これは現在の京都市左京区岩倉幡枝町にある、顕本法華宗(南北朝時代の日蓮宗の僧日什を開祖とする)総本山である妙塔山(みょうとうさん)妙満寺(建立も日什で康応元(一三八九)年であるが、建立地は京都市中であったが、現在の場所ではなく、その後も転々としている。詳しくはウィキの「妙満寺」を見られたい)の江戸浅草での出開帳の記事がメインである。しかも、静山は行きたいと思っていたものの、機会を逸しているうちに、当地での出開帳は終ると聴き、人に命じて行かせ、その報告を纏めたに過ぎない記事である。出開帳の目玉の一つであった、日蓮直筆の曼荼羅(「南無妙法華経」の文字を中心に種々の書き添えのある日蓮が好んで記した文字曼荼羅。標題の「村」とは文字が「群」れていることを意味しているように思われる)の図も写してある。また、その曼荼羅は、かの加藤清正が朝鮮侵攻の際に船の帆に掲げて、勝利の奇瑞があったとか言い、それに関わる清正の文書が記され(それが標題の二つ目)、その後に、この妙満寺出開帳では、「靈寶目錄」という小冊子が配られており(有料であろう)、膨大な立項のそれらが総てそっくり転記されているのである。

 そうして実は、その「靈寶目錄」の最初から三項目に、

一、紀州日高郡道成寺  緣起幷銘 別紙あり

とあるのである。但し、これは『銘』とあることから判るように、これは静山或いは目録製作者の、

一、紀州日高郡道成寺鐘  緣起幷銘 別紙あり

の脱字と考えてよい。而して、その終りの箇所で、この一条に就いて着目した静山が、この「別紙」により、道成寺の鐘がこの妙満寺に蔵されてある由縁を記した、その「緣起」を章の最後に記したのが、以下の文であり、銘を記した鐘の略図なのである。

 則ち、私は

――前のだらだらした妙満寺の目録羅列には、正直、興味はない。しかし、そこは、何年後かには、やろう――だが――道成寺の鐘とその縁起の下りだけは、今、どうしてもここでやっておきたい――

ということなのである。

 底本は一九七八年平凡社東洋文庫刊「甲子夜話」(正篇全六巻)第四巻を用いたが、底本は漢字が新字なので、恣意的に正字化して示した。また、「甲子夜話」の原本の当該部にはルビが全くなく、底本には編者による読みが十数ヶ所にあるのみであるが、私の判断でオリジナルに歴史的仮名遣で読みを大幅に補った。読点も一部で追加した(なお、これはブログ・カテゴリ「甲子夜話」で私が縛りをかけているポリシー(注は「■やぶちゃんの呟き」という軽めの設定。しかし、結局、注と変わらぬのだが)からは完全に外れて、注もマニアックにちゃんと附してあるので特異点である)。

 鐘の図も底本にあるものをトリミングしたが、モノクロームで画素が粗い上、裏のページの文字も透けて見えて、非常に見づらいので、かなり強い補正をかけて示してある。鐘銘その他もオリジナルに判読して添えた。

因みに、「妙満寺」公式サイト内のこちらに写真があり、そこからリンクした『「安珍・清姫」の鐘由来』によれば、『紀州道成寺が文武天皇妃・宮子姫の奏上により、大宝元年(七〇一年)に建立されてから二百三十年余りが経ったときのこと』、『醍醐天皇の延長六年(九二八年)八月、奥州白河(福島県白河市)の「安珍」という修験者が熊野へ参詣する途中、紀州室の郡・真砂の庄司清次の館に一宿を求めました。そのとき、庄司の娘「清姫」が安珍に思いをよせて言い寄りました。安珍は「熊野参詣を済ませたら、もう一度立ち寄る」と約束しましたが、その約束を破り立寄らずに帰途に就いてしまいました』。『そのことを知った清姫は激怒して安珍の後を追いかけます。日高川にかかると清姫は蛇身となり、もの凄い形相で川を渡り、ついに道成寺の釣鐘に隠れた安珍を見つけます。清姫は、鐘をきりきりと巻くと、炎を吐き、三刻(約四〇分)あまりで鐘を真赤に焼き、安珍が黒焦となって死ぬのを見て、自らも日高川に身を投じてしまいました』。『この後、正平十四年(一三五九年)三月十一日、源万寿丸の寄進で道成寺に二度目の鐘が完成した祝儀の席でのこと』、『一人の白拍子が現れ、舞いつつ鐘に近づきました。すると、白拍子は蛇身に身を変え、鐘を引きずり降ろすと、その中に姿を消しました。僧達は「これぞ清姫の怨霊なり」と一心に祈念して、ようやく鐘は上がったのですが、せっかくの鐘も宿習の怨念のためか音が悪く、また近隣に悪病災厄などが相次いで起こったため』、『山林に捨て去られました』。『この話が後年脚色され、長唄、舞踊、能楽など、芸能界最高の舞曲である「娘道成寺」となりました』。『その後、二百年余りを経た』天正十三(一五八五)年、『秀吉の根来攻め』『の時、家来の仙石権兵衛が』、『この鐘を拾って陣鐘(合戦の時に合図に使う鐘)として使い、そのまま京都に持ち帰りました。そして、安珍・清姫の怨念解脱のため、経力第一の法華経を頼って妙満寺に鐘を納めました』とあり、最後に、『この鐘は何度か出開帳されています』ともある。

 なお、この現存する鐘は、かなり小振りのもので(歌舞伎公式総合サイト「歌舞伎美人」の上村吉弥氏の舞踊「京鹿子娘道成寺」上演のための鐘供養の写真を参照されたい。スケールが判る)、入手した寺製作になると思われる記載(PDF)によれば、現在の同鐘のサイズは、

高さ 約一メートル五センチメートル

直径 約六十三センチメートル

厚さ 五・三センチメートル

重さ 推定約二百五十キログラム

とあった。白拍子に化けた「怨霊」(鬼)が「パッっと」「飛び入る」のであってみれば、小ささを問題視するには及ぶまい。というより、かの伝承譚のアクロバティックな展開が、鐘の大きさを必要以上に大きくしてしまったのであり、「道成寺」公式サイトの「道成寺緣起」に描かれた初代の釣鐘の図を見られるがよい――鐘は――もともと安珍一人が屈んでやっと入れるほどのこれほどの大きさでしかなかったのである。

 では、以上で述べた通り、道成寺の鐘の記載の個所から始める。【2018年8月14日:藪野直史】] 

 

……又、册中に見へし道成寺の鐘と云(いへ)る者は、別に其圖と、その記事を刻行(こくぎやう)せるあり。又、左に載(のす)。これも一奇聞にして、要するに談柄(だんぺい)のみ。

[やぶちゃん注:「談柄のみ」「談柄」とは僧が談話の際、手に持つ払子(ほっす)のことである。「話の種として掲げるだけのこと」というである。静山は内容の真偽を留保と言うより、眉に唾しているのである。]

 

Doujyoujikanekasiyawa52

 

[やぶちゃん注:以下、龍頭(りゅうず)の右のキャプション。] 

 

二尺八寸五分[やぶちゃん注:八十四センチ九・九ミリ。私はこれを龍頭下部までの鐘本体部の数値と採る。]

一寸八分[やぶちゃん注:六センチ四ミリ。現行は一センチばかり瘦せた。]

指渡二尺一寸[やぶちゃん注:六十三センチ六ミリ。現行とほぼ一致。] 

 

五寸五分[やぶちゃん注:私はこれを竜頭の高さと採る。十五センチメートル三ミリメートル。先の高さにこれを加えると、約一メートルである。現行の約一メートル五センチメートルとは誤差範囲内である。]

 

[やぶちゃん注:以下、鐘銘。画像の右から左へ。実は判読途中(画素が粗く、困難を極めていた)で、白慧(坂内直頼)撰になる山城国の地誌「山州名跡志」(正徳元(一七一一)年刊・全二十二巻)にもに掲載があるのを発見したので、国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像及び早稲田大学図書館古典総合データベースのここを視認して、字を完全確定出来た。実は私は既に「――道    中――Doujyou-ji Chronicl『鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」より「道成寺鐘」』の中で電子化しているのであるが、今回は、「甲子夜話」の画像や上記「山州名跡志」にのみ従って、また零(ゼロ)から始めて、より厳格に翻刻し、新たに注を施した。

 

聞鐘聲 智慧長 菩提生

煩惱輕 離地獄 出火坑

願成佛 度衆生

天長地久御願圓滿

聖明齊日月叡算等乾坤

八方歌有道之君四海樂無爲之化

紀伊洲日高郡矢田庄

 

文武天皇勅願道成寺冶鑄鐘

勸進比丘瑞光

別當法眼定秀

檀那源万壽丸

吉田源賴秀合力諸檀男女

大工山田道願小工大夫守長

 正平十四三月十一日

 

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館版の板本では訓点が振られてあるので、それを参考にして書き下してみる(一部の読みと送り仮名は私が附した。また、一部の不審な仮名遣いを訂した)。

   *

鐘聲を聞けば 智慧 長(た)け 菩提 生ず

煩惱 輕く 地獄を離(さかり)て 火坑を出づ

願はくは成佛して 衆生を度(ど)せん

天 長く 地 久し 御願(ぎよぐわん) 圓滿

聖明(せいめい) 日月(じつげつ)に齊(ひとし)く 叡算(えいさん) 乾坤(けんこん)に等しく

八方 有道(うだう)の君を歌ひ 四海 無爲の化(くわ)を樂しまんことを

紀伊の洲(くに)日高の郡(こほり)矢田の庄

文武天皇の勅願 道成寺 鐘を冶鑄(やちう)す

勸進の比丘(びく)   瑞光

別當法眼(ほふげん)  定秀(ぢやうしふ)

檀那          源の万壽丸

幷びに         吉田源(みなもとの)賴秀

合力(こふりよく)   諸檀男女(なんによ)

大工          山田道願

小工(せうく)     大夫守長

 正平十四己亥(つちのとゐ)三月十一日

   *

銘文の後半は、ありがちなそれである。

・「聖明」天子が徳に優れて聡明なこと。

・「叡算」天子の年齢の尊称。

が「日月」や「乾坤」(天地)と同じく永遠であると長寿を呪(まじな)い、有徳(うとく)の聖帝の下で、

・「八方」「有道(うだう)の君を歌ひ」によって聖王堯(ぎょう)の鼓腹撃壌(こふくげきじょう)を踏まえ、

・「無爲の化」ここは老荘思想の「無為自然」に基づき、支配者が下らぬものである人為を用いなければ、何もせずとも、人民は自然に教化され、天下もよく治まるの意。

と畳み掛けることによって、悠久に続く天下泰平と万民祝祭を言祝いでいるである。

・「文武天皇」(天武天皇一二(六八三)年~慶雲四(七〇七)年)の在位は文武天皇元(六九七)年から慶雲四(七〇七)年である。ウィキの「道成寺」によれば、大宝元(七〇一)年、『文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより』、『文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から』、八『世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されて』おり、『本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代に』溯る作品であるとある。

・「瑞光」不詳。

・「定秀」不詳。

・「源の万壽丸」逸見万寿丸源清重(元応三年・元亨元(一三二一)年~天授四/永和四(一三七八)年)南北朝期、後村上天皇に仕えて武勲を挙げ、日高郡矢田庄を賜わった領主(「百姓生活と素人の郷土史」の『講座「道成寺のすべて」(道成寺小野俊成院代)』の『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』①に考証が詳しく拠るので、そちらを参照されたい)。

・「吉田源賴秀」吉田金比羅丸源頼秀。源清重の娘婿で矢田庄吉田村の領主(八幡山城ヶ峰に城を構えていた)。道成寺本堂を完成させた人物とされる(『第三講「ふるさとの英雄・源満壽丸」~ふるさとに山あるは幸いかな~』③に拠る)。

・「大工」律令制で木工寮(もくりょう)・修理職(しゅりしき)・大宰府などに属し、諸種の造営に従った職。「おおたくみ」「おおきたくみ」とも呼んだ。

・「山田道願」不詳。

・「小工」律令制の職員。大工の下に属し、建物の修理等を掌った。

・「大夫守長」不詳。

・「正平十四己亥三月十一日」。「正平」は南朝の元号で、北朝では延文四年。ユリウス暦一三五九年四月十一日(グレゴリオ暦換算四月十九日)。

 最後に言い添えておくと、調べてみたところ、頭の三行分は二百年以上後の永禄九(一五六六)年に成立した臨済宗の法式・偈文等の記録である天倫楓隠編の「諸囘向淸規」に「聞昏鐘偈」として出ているものに酷似しており、これは本邦で作られた偈と考えられるようだ。但し、文字列に異同がある。以下に示す。訓読は我流。

   *

 聞昏鐘偈

聞鐘聲煩惱輕

智慧長菩提生

離地獄出火坑

願成佛度衆生

  昏(こん)の鐘を聞く偈(げ)

 鐘聲を聞き 煩惱を輕かしめ

 智慧 長じて 菩提 生まる

 地獄を離(さか)り 火坑を出づ

 願はくは 成佛し 衆生を度せん

   *

では、以下、「甲子夜話」の本文に移る。]

 

道成寺鐘今在妙滿寺和解略緣起

夫(それ)、紀州日高郡矢田莊道成寺は、人皇四十二代文武天皇の敕願所なり。此帝、御卽位より今申年まで一千百三十九年になる。○其後婦女、蛇と成(なり)て鐘を蟠圍(ばんゐ)、安珍を害せし其怪異の事蹟は、「元亨釋書」に詳(つまびらか)にして、諸人の知(しる)處なり。其外、謠曲等にも傳(つたへ)て、兒女奴婢に至(いたる)までも、大槪をしる故に略(りゃくす)。○然(しかる)に、謠曲等に、その鐘、湯(ゆ)と成(なり)しと書(かく)は文法の餘勢也。既(すでに)「元亨釋書」にも、蛇去(さり)て後、其鐘、尚、熱(あつし)といひ、寺衆、鐘を倒(たふし)て、死せる安珍を見(みる)ともいへり。これに因(より)て知(しる)べし。其鐘、融流(とけなが)て、湯のごとく成(なり)たるには、あらずと。○其後、彼(かの)寺の老僧、夢みらく。二蛇來て曰(いはく)。我は是(これ)、前に命を亡(なくせ)し安珍なり。一蛇は其時の婦人也。共に惡道に墮(おち)て、苦報、脱(ぬけ)がたし。願(ねがはく)は、「壽量品(じゆりやうぼん)」を書寫し、我等が苦慮をすくひたまへと乞(こふ)とみえて、夢覺(さめ)ぬ。老僧、大に憐(あはれみ)、望のごとく、「壽量品」を書寫し、追善をなしければ、其夜、又、夢に一僧一女、來(きたり)、合掌して曰。我等、妙法華(みやうはふげ)の功力(くりき)によつて深き惡業(あくごふ)を消滅し、僧は兜卒天に生(うまれ)、女は忉利天(たうりてん)にうまる。師の慈恩、法華の神力(しんりき)、有(あり)がたしともいふばかりなしと拜謝して、天に上ると。此事、「本朝法華傳」竝(ならび)に「元亨釋書」にみえたり。○世に傳ふ。其後、彼(かの)鐘、唖(あ)[やぶちゃん注:鳴らなくなること。]となり、鑄直(いなほ)すこと、十餘囘に及ぶといへども、種々の障礙(しやうげ)[やぶちゃん注:障害。妨げ。仏教では悟りの障害となるものを指す語ではある。]ありて、鐘、終に成就せず。衆人勞倦(つかれうみ)て、その事、止(やみ)ぬ。○それより後、人皇九十五代後醍醐天皇、和州吉野へ遷(うつ)らせたまひしより三代の間、吉野を指(さし)て南朝といひて、三種の神寶も、猶、此御方(このおんかた)にまします。人皇九十七代光明天皇より五代の間、京都をさして北朝といふ。此時、天下南北にわかれ、年號も亦別々にあり。然(しかる)に、南朝後村上天皇正平十四己亥年に至(いたり)て、復(また)彼(かの)鐘を鑄直(いなほす)に、此時、始(はじめ)て成就す。則(すなはち)、北朝人皇九十九代後光嚴天皇延文四年に當(あたり)て、今申年迄、四百六十八年になる。今、妙滿寺にある所の鐘、是なり。銘に、別當檀那冶工年月等、詳(つまびらか)に見ゆ。鐘の銘は別に板行(はんぎやう)あり。○其時、南北、混和せず。合戰、いまだ止(やむ)ことなく、此鐘を取(とり)て兵器となし、陣中に具(ぐし)たり。兵亂、治(をさま)るに及(および)て棄(す)て、鐘の在處(ありか)を失ふ。○人皇百八代後陽成天皇天正年中、洛陽の近鄕某氏の家の後に竹林あり。時々、鳴動す。その鳴動するに及(および)て、其家に疾病或(あるいは)災孼(さいげつ)あり。又、小兒を夜啼(よなき)せしむ。其邊の土を穿(うがつ)に、終(つひ)に此鐘の埋(うづめ)てありしを掘出(ほりいだ)す。村民、集會して曰(いはく)。これおそらくは梵宮の古鐘、世俗の塵埃に埋れしゆへ、此鐘、鳴動し、此家、怪異あるならん。はやく洛陽の鐘なき寺に寄附せんと、いそぎ都に出(いで)、大寺を尋(たづね)て先(まず)、妙滿寺に來り、其趣を告(つぐ)。その頃、此寺、いまだ、鐘あらず。故に鐘を送來(おきりきた)て寄附す。此時、天正十六年戊子五月なり。正平十四年に、此鐘、鑄直(いなほし)成就してより天正十六年まで、二百三十年になる。○夫(それ)より、此鐘を樓上に懸(かけ)て、日夜法筵の用となす處に、慶安年中に誤(あやまり)て破(やぶり)ぬ。その釁郤(きんげき)、一尺餘にして、聲、終に失(うせ)ぬ。故に一山相議し、冶工に屬(まかせ)て、此鐘を摧(くだき)、鑄(い)あらためんとす。時に、四方、俄(にはか)に鳴動し、黑雲、樓に覆(おほひ)て、鐘、雲中に飛(とぶ)べきけしきなり。衆僧、大(おほい)に驚(おどろき)、丹誠を抽(むき)て祈り、且、鑄直すことを止(やむ)。此時、益(ますます)奇異の古鐘なることを知れり。然後(しかるのち)は寶藏に納置(をさめおき)しに、其釁郤(きんげき)、年月を經(ふ)るにしたがひて、漸々に翕(あひ)ぬ。五、六十年以前までは、猶、紙をつらぬくの間(あひだ)有(あり)て、裏に通る。京師の老人、よく知(しる)處なり。それより年々に翕(あひ)て、今に至ては、其痕(あと)だにみえがたし。實(まこと)に、此鐘の神妙、恐(おそる)べし。○鳴呼(ああ)、昔をおもへば、「壽量品」の功德(くどく)によつて、二蛇、苦を離(はなれ)、天に生(しやう)ず。まことに一感人天受勝妙樂の化報にほこり、今、亦、妙滿寺に在(あり)ては大乘の寶器となり、年來(としごろ)、囘向(ゑかう)の功力(くりき)によつて、二感佛道自受法樂の果報に住(ぢゆう)せんこと、疑(うたがひ)なきものか。是、則(すなはち)、善惡不二邪正一如(ぜんあくふにじやしやういちによ)の因緣、平等大會一乘妙典(びやうどうだいゑいちじやうめうてん)の感應なり。

[やぶちゃん注:以下、最後のクレジットまで、底本では全体が一字下げ。]

此(この)「和解略緣記」は寶曆九己卯(つちのとう)年、先師老蠶冬映(らうさんとうえい)、童蒙(どうまう)の見易(みやす)からんがため、述記(じゆつき)して、妙塔山(めうたふさん)妙滿寺に納(をさむる)處なり。今年、當寺、祖師大菩薩尊像竝(ならびに)靈寶等、淺草慶印寺におゐて[やぶちゃん注:ママ。]開帳の刻(とき)、先年の如く、此靈鐘を諸人に的覽(てきらん)せしむ。然(しかる)に右緣起、數年を經て、印板、磨滅す。これによつて曆數支干を、今、申年までに算改(かぞへあらため)、文章は其まゝに再版して、以(もつて)當寺に寄附し奉る。唯、先師の信心を空(むなしう)せざる微志のみ。

文政七甲申(きのえさる)年三月   勅願所   妙 滿 寺

[やぶちゃん注:標題「道成寺鐘今在妙滿寺和解略緣起」は総て「だうじやうじかねきんざいみやうまんじわかいりやくえんぎ」と音読みしているものと判断する。

「此帝、御卽位より今申年まで今申年まで一千百三十九年になる」文武天皇の即位は文武天皇元年八月一日(六九七年八月二二日)であるから、数えでいくと、天保八(一八三七)年となる。然し、同年は丁酉(きのととり)で合わないから、前年の天保七年丙申(ひのえさる)であり、文末のクレジットから文政七(一八二四)年甲申となる。但し、最後に「曆數支干を、今、申年までに算改(かぞへあらため)」とあるから、これは静山の誤りではなく、改訂した妙満寺出開帳担当僧の誤りである。なお、この妙満寺の『殘草田畝(たんぼ)の慶印寺』(本「甲子夜話」原文の冒頭にある。「たんぼ」は私の添え読み。現在の浅草寺の北西直近の台東区西浅草に、同寺の塔頭寿仙院(日蓮宗)が現存する。ここ(グーグル・マップ・データ))での出開帳がその年にあった事実は調べ得なかった。

「蟠圍」蜷局(とぐろ)を巻いて蟠(わだかま)り囲むこと。

「元亨釋書」虎関師錬(こかんしれん)著になる鎌倉末期の仏教史書。三十巻。元亨二(一三二二)年成立。仏教の伝来から鎌倉末期までの七百年間の仏教史を記し、内容は「史記」及び中国の高僧伝に倣って、高僧四百余名の伝記と、周辺的史実とを漢文体で記したもの。特に禅僧の思想を知る上で貴重であるが、親鸞を除き、道元を軽視するなど、筆者の偏見があることが指摘されている(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。同書に記された「」は既に私の「――道    中――Doujyou-ji Chronicl「元亨釋書 卷第十九 願雜十之四 靈怪六 安珎で電子化訳注してあるので、参照されたい。

「湯と成し」溶解して真っ赤に燃え流れる溶岩のような液状になった。

「壽量品」「法華経」二十八品中の「第十六如来寿量品」のこと。釈迦が久遠の昔から未来永劫に亙って存在する仏として描かれてある。

「兜卒天」三界の中の欲界に於ける六欲天の第四の天。内院と外院があり、内院は将来、仏となるべき菩薩が住む所とされ、現在、弥勒菩薩がここで説法をし、如来になるための修行説法をしているとする。

「忉利天」六欲天の第二の天。天部の衆徒や神々が住むとされる。釈尊を生んだ摩耶(まや)夫人は、出産後、七日目に死去したが、この天に転生したとされる。

「本朝法華傳」平安中期に書かれた比叡山の僧鎮源(伝不詳)の記した、上中下三巻からなる仏教説話集「大日本國法華經驗記(げんき)」、通称「法華經驗記」のこと。その下巻掉尾にある「第百廿九」、現存する道成寺伝説最古の記録とされる「紀伊國牟婁郡惡女」(「紀伊國牟婁郡の惡しき女」)を指す。これも私の「――道    中――Doujyou-ji Chroniclこちらで電子化注済みであるので、参照されたい。

「人皇九十五代後醍醐天皇、和州吉野へ遷(うつ)らせたまひし」延元元(一三三六)年。

「光明天皇」(元亨元(一三二二)年~天授六(一三八〇)年/在位:延元元(一三三六)年~正平三(一三四八)年)。

「北朝人皇九十九代後光嚴天皇延文四年に當(あたり)て、今申年迄、四百六十八年になる」前に見た通り、正平十四/延文四年は一三五九年であるから、「四百六十八年」後は数えで一八二八年で、これは文政十一年丁亥(ひのとい)となってしまい、またまた齟齬する。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。

「洛陽」京都。

「災孼(さいげつ)」災い。

「梵宮」寺院。

「天正十六年戊子」一五八八年。

「正平十四年に、此鐘、鑄直(いなほし)成就してより天正十六年まで、二百三十年になる」数えとしてこの数値は正しい。

「慶安」一六四八年~一六五二年。

「釁郤(きんげき)」割れ目。隙間。

「漸々に翕(あひ)ぬ」だんだん、自然に閉じてしまった。

「二蛇」偽りとは言え、清姫との契りを約束し、彼女を怨みの末に蛇と化させた安珍は女犯の破戒僧であり、それは邪であり、蛇と同類であるということか。

「一感人天受勝妙樂」よく判らぬ。勝手に訓ずれば、「一つは、人、感ずれば、天、勝妙樂を受(さず)く」か。

「化報にほこり」これはよい意味であろう。「正法(しょうぼう)に徹することの果報の誇るべき善き例となって」。

「大乘の寶器」大乗仏教の衆生済度のシンボル。

「二感佛道自受法樂」よく判らぬ。勝手に訓ずれば、「二つは、佛(ほとけ)、感ずれば、道、自づから、法樂を受(さづ)く」か。

「善惡不二邪正一如」善と悪は、別のものではなく、無差別の一理に於いて帰着するものであり、同様に、邪と正も、本は一つの心から出るものに過ぎず、結果、同一のものであるということ。

「平等大會一乘妙典」生きとし生けるものに対して絶対の平等を持ったところの如来の大慈悲に基づく至上の法会としての、一乗(大乗仏教に於いて仏と成ることの出来る唯一の教え)の理(ことわり)を明らかにする「法華経」のこと。

「寶曆九己卯年」一七五九年。

「老蠶冬映」江戸中期の俳人牧冬映(まき とうえい 享保六(一七二一)年~天明三(一七八三)年)のことか。江戸出身で、中川宗瑞(そうずい)・佐久間柳居(りゅうきょ)等に学び、江戸座の判者となり、後に独立して一派を成した。彼は別号で「老蚕」と称しており、出開帳の際、妙満寺の出開帳担当者から依頼されて、日蓮宗の信徒であった俳諧師がアルバイトで読み易いこれを新たに著わしたとするのは、大いにあり得ることであるように私には思われる

「童蒙」幼くて道理がわからない者。

「的覽」鐘の持つ由緒が判るように的確に見せる、の意か。それにしても、この鐘、二百五十キロもあるから、寺宝であるから、これだけ運送業者に頼んで任せるというわけには行かないだろうから、運搬時の配慮はなかなか大変だったろうと私は気になった。というより、実は、道成寺絡みの、出開帳の客寄せの目玉でもあったことが、また、よく判るとも言えるのである。静山の最初の「談柄」という辛口の謂いもまさにその辺の臭いを鋭い彼は嗅ぎとっていたようにも思われるのである。]

2018/08/12

甲子夜話卷之五 10 人魂を打落して蟾蜍となる事

 

5-10 人魂を打落して蟾蜍となる事

 

夏夜に光り物の飛行することあり。世皆人魂と云。これは蟾蜍の飛行するなりとぞ。府の本鄕丸山の福山侯別莊にて、所謂人魂を竹竿にて打落すに、蟾蜍なること幾度も同じ。これより人々疑晴しと云。

 

■やぶちゃんの呟き

「蟾蜍」「ひきがへる」。本邦固有種である両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus の亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus。詳しくは和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)の私の注を参照されたい。蟇蛙の怪異は複数の怪奇談集で厭になるほど、注してきた。取り敢えず、最初にそれを纏めた(注では本条にも言及している)「耳囊 之五 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事を見られたい。

「飛行」「ひぎやう(ひぎょう)」。

「本鄕丸山」現在の東京都文京区東京都文京区西片附近。「白山通り」の白山二町目交差点の東側に「丸山福山児童遊園」の名が残る。南北附近(グーグル・マップ・データ)。因みに、この旧丸山福山町には、かの樋口一葉が住んでいた。

「福山侯」ここには古くは備後福山藩主阿部氏の中屋敷があった。後に一部は旗本の武家屋敷町となるが、私の所持する切絵図でも同書には「阿部伊豫守 中屋鋪」とある。

「人々疑晴し」待って!? 蟇蛙が飛び跳ねるんじゃあなくて、空を飛行するんじゃ、疑いが晴れるどころか、キョワいでしょうが!!!

甲子夜話卷之五 9 大猷廟薨後、齋藤攝津守於日光詠歌

 

5-9 大猷廟薨後、齋藤攝津守於日光詠歌

慶安四年、猷廟の靈柩を日光山に遷し奉り、御法會等事畢り、諸有司皆歸府せんとて山を出るとき、折ふし五月雨晴間も無りしかば、御側衆にて番頭兼帶せる齋藤攝津守三友、かくぞ吟じける。

 君まさで日數ふりゆくさみだれの

      雨も淚もわかれざりけり

さまでの佳調には非れども、時に取りて實情を述たるなれは、百年の後も人の感情を發する歌なり。

■やぶちゃんの呟き

「大猷廟」徳川家光。

「齋藤攝津守」「三友」(慶長一八(一六一三)年~承応三(一六五四)年)。家光の乳母春日局の甥とする記載があったぎりで、詳細事蹟不詳。歌を得意としたものか、当時の幾つかの歌集に名を見出せる。

「慶安四年」一六五一年。

「五月雨晴間も無りしかば」「さみだれ、はれまも、なかりしかば」。

甲子夜話卷之五 8 白川侯御補佐のとき本多執政の話、落首

 

5-8 白川侯御補佐のとき本多執政の話、落首

白川侯當路のとき落書あり。

 黑棒が泥坊どもを逐まわし

  後(アト)に殘るがしわんぼうなり

此時執政の列なる本多忠忠籌【彈正大弼。剃髮して號水翁】の聞及て、同家肥後守に笑話せられしとぞ。戲謔と雖も至當の言なるべし。可ㇾ味。

■やぶちゃんの呟き

「白川侯」散々出て、既注の松平定信。

「御補佐」老中在任中であること。

「本多執政」忠以(ただもち)系本多家第五代の本多忠籌(ほんだただかず 元文四(一七四〇)年~文化九(一八一三)年)。天明八(一七八八)年二月に側用人に任じられ、五月には従四位下弾正大弼に昇叙、以降、松平定信・松平信明とともに「寛政の改革」を推進、寛政二(一七九〇)年四月には老中格に任ぜられ、侍従に任官した。しかし、寛政五(一七九三)年七月、徳川治済の賛同のもと、独裁傾向を強める定信の老中解任を実現した。後寛政十年に老中職を辞任し、翌年、隠居した。「執政」は老中の別称。なお、彼の妻は静山の曽祖父松浦篤信の娘である。

「當路」「要路に当たる」の意から「重要な地位についていること」を指す。

「黑棒が泥坊どもを逐まわし」「後(アト)に殘るがしわんぼうなり」(表記はママ。歴史的仮名遣では「おひまはし」「しわんばう」が正しい)「黑棒」は「くろぼう」で定信の「白」川侯に反転義で掛けたものか。「泥坊ども」は賄賂塗れの田沼(の「泥」)一派でよかろう。「逐まわし」(失脚させ)、俄然、「寛政の改革」を敷いて行くが、そこで役人から庶民にまで厳しい倹約を強要し、極端な思想統制令により経済・文化が著しく停滞した。それを「しわんぼう」=「吝(しわ)ん坊」、吝嗇(けち)と揶揄したものであろう。ただ、「黑棒」には別に意味が掛けられてあるようにも思える。識者の御教授を乞う。

「同家肥後守」播磨山崎藩藩主で政信系本多家第六代であった本多肥後守忠可(ただよし寛保元(一七四一)年~寛政六(一七九五)年)か。ウィキの「本多忠可によれば、『松平定信とも親交があったため、この改革の成功の手腕を買われて、寛政の改革では大番頭として幕政に参与した』とあり、このシークエンスに登場して、自然だからである。また、忠籌とは同年代でありしかも、より大きな本多家の流れである同じ平八郎家(忠勝系)に属しているから、「同家」という謂いも腑に落ちる。

「可ㇾ味」「あぢはふべし」。

甲子夜話卷之五 7 加州金澤城中、箭天井の事

 

5-7 加州金澤城中、箭天井の事

砲工國友藤兵衞【近江の國、國友村に住す。官の鐵炮張なり】、加州金澤城中に入て其家屋をも見たりしことを語る中に、書院の緣側の天井を箭天井と稱して、廣き間なるが一面に箭を組合せたるなり。鏃も具して見ごとなり。定めて今侯の物好にはあらで、以前より軍用の手當なるべし。予因みに云ふ。先年かの居城燒けたることあり。其時家屋の瓦鉛なるが、悉くとけ流て雨の如く零たれば、近寄こと能はざりしと聞く。然るやと問たれば、藤兵衞答ふ。相違なし。今も城中の瓦は皆鉛と銅なりと語る。然ばこれも軍用なるか。又は寒國故の事か。

■やぶちゃんの呟き

「國友藤兵衞」九代目国友藤兵衛である鉄砲鍛冶師国友一貫斎(安永七(一七七八)年~天保一一(一八四〇)年)と思われる(静山より十八年下)。ウィキの「国友一貫斎」によれば、『幼名は藤一。号は一貫斎、眠龍。諱は重恭。能当(旧字では能當)と銘を切る。日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作。その自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った』発明家にして技師であり、天文学者でもあった。『近江国国友村(滋賀県長浜市国友町)』(ここ(グーグル・マップ・データ))『の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた』。九『歳で父に代わって藤兵衛と名乗り』、十七『歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ』。文化八(一八一一)年、『彦根藩の御用掛となり』、『二百目玉筒を受注することとなったが、国友村の年寄』四『家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て』、『長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ』、文政元(一八一八)年に『年寄側の敗訴となった』。文政二(一八一九)年、『オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には』二十『連発の早打気砲を完成させ』ている。『文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり』、天保三(一八三二)年頃から』、『反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。当時の日本で作られていた屈折望遠鏡よりも優れた性能の望遠鏡であり、口径』六十ミリで六十倍の『倍率の望遠鏡であった。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館』(天保五年作・重要文化財)』、『彦根城博物館に残されている』。『その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家であ』り、『また、彼は自作の望遠鏡で』、天保六(一八三五)年、『太陽黒点観測を』、『当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある』。国友村にて死去。享年六十三であった。なお、『国友村で年寄脇(年寄の次席)を勤める御用鉄砲鍛冶の家の一つを』国友藤兵衛家或いは『辻村家とも』称し、『一貫斎はこの』九『代目にあたるが、特に著名であるため』、『説明なく彼を指して「国友藤兵衛」と呼ぶことが多い。初代・辻村(国友)藤内は美濃国の鍛冶師の出身であり、永正年間に近江国国友村に移り住んだと言われている。その跡を継いだ』二『代目以降の当主の多くが国友藤兵衛を名乗った。他の国友鍛冶職人は重当(旧字:重當。弾が「重ねて当たる」の意)の銘を用いるのが通例だが、藤兵衛家のみ能当(旧字:能當。「能(よ)く当たる」の意)を用いる。明治時代に入り』、十一『代目当主以降は鉄砲鍛冶を廃業している』とある。如何にも静山が好きになりそうな、プエル・エテルヌス(puer eternus)ではないか。

「箭天井」「やてんじやう」。太田昌子氏の論文「金箔からみた文化度金沢城二ノ丸御殿―『御造営方日並記』を主要資料として」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、まず、金沢城の二ノ丸御殿の内、金箔を用いた座敷について、文化六(一八〇九)年に記された資料が残っており、それによれば『矢天井間』とあり、床は『惣金』仕上げで『春草等四季草』の襖に天井は『矢』(絵か、ここに書かれているように実物の矢であるかは不詳)とあるそうである。次注で見る通り、焼失して、「矢天井の間」は現存しない。

「先年かの居城燒けたることあり」金沢城は宝暦九(一七五九)年に「宝暦の大火」に見舞われている。但し、これは静山の生まれる前年のことであるから、彼の言っているのは、二ノ丸御殿が全焼した文化五(一八〇八)年の回禄のことである。

「鉛」「なまり」。

「零たれば」東洋文庫版は『ふりたれば』と訓じている。

「然ば」東洋文庫版は『しかれば』と訓じている。

甲子夜話卷之五 6 天井の説幷角赤と云器の事

 

5-6 天井の説角赤と云器の事

小笠原常方に【平兵衞】聞たるは、今世に天井と謂ものは、塵除(ヂンセウ)と唱べし。天井と謂ふは格組(ガウグミ)にしたるもの也。總じて家居は水の緣を取ゆゑ、天井の名も水に由ると云。又御厨子棚に具する箱の中に、布をきせ赤漆にして四方黑漆なるあるは、其名を角赤(スミアカ)と云。もと婦人の下結を納る箱なり【下結はふんどしなり】。因て今官家御婚禮御用に、小笠原氏より五色の服紗を納めて上る。是則下結をいるゝの遺風と云。

■やぶちゃんの呟き

「小笠原常方」現在の礼法の小笠原流宗家とは別に、旧旗本小笠原常方の子孫である小笠原清忠が「小笠原流礼法三十一世宗家」を称していると、小学館「日本大百科全書」の「小笠原流」にはあり、歴史部分の解説にも、現在の礼式の小笠原流とは『別家で、甲斐』『を本国とする歴代』五百『石の平兵衛(へいべえ)・孫七を号して先手弓頭、鉄炮頭』『を勤めた旗本小笠原家(小笠原赤沢経直(つねなお)の子孫)があ』り、『将軍吉宗』『のとき、旗本の縫殿助持広と平兵衛常春が弓馬儀礼の制定に参画したと伝え、常春、常喜(つねよし)、住常(すみつね)、常倚(つねより)、常方、常亮(つねあき)、常脇、常高と続き』、『明治維新を迎えた』ともある(下線太字は私が引いた)。

「今世に」「いま、よに」。

「塵除(ヂンセウ)と唱べし」塵除(ちりよ)けと別に呼ぶべきのがよい(ほどにちゃちなもので、本来の「天井」とは似ても似つかぬものである)、と主張しているのであろう。

「家居は水の緣を取ゆゑ」木造である日本の家屋は回禄に遇い易いことから、水に所縁(ゆかり)するように、則ち、人為的に呪術的な意味に於いて縁を有意に待たせようとしているということを言っているものと思う。「天」に「水」に縁のある「井」桁=「井」戸があれば、火は防げるからである。

「御厨子棚」「みずしだな」。御厨子所(みずしどころ:本来は宮中で天皇の食事や節会の酒肴を掌った役所を指したが、後に普通の台所の意となった)にあった食物を入れておく扉のついた棚。後には、美しい装飾を施して身近に置き、器物・草子類などの手回りの品を納めた。「御厨子」に同じい。ここは最後のそれ。

「具する」必ず付帯して入れ置いておく。

「角赤(スミアカ)」「隅赤」とも書く。昔、婚礼に用いた手箱の一種。四辺を雲形の朱塗りにして高くし、他の部分を黒塗りとした手箱。「日本国語大辞典」には女性の化粧品や装飾品を入れるとする。古美術商で骨董の豪華なものが見られる。

「下結」「したむすび」。「日本国語大辞典」によれば、下紐(したひも)と同義で、腰巻のことである。「ブリタニカ国際大百科事典」の「腰巻」によれば、腰に巻く布乃至衣服のことであるが,大別すると二種あるとし、①小袖形式のもので、十五世紀以降、宮中の下級女官たちが盛夏の時節の帷子(かたびら)の上に着けた。着装法は一度着てから、両肩を脱いで腰に巻きつけた。 十六世紀後半からは武家の貴婦人の夏季礼装となり、黒紅色練貫地に亀甲・宝尽くし・松竹梅・鶴亀などが五彩の糸と金糸で刺繡にされた普通の常用着衣を指し、其れとは別に、②長方形の布帛で作られ、左右の角につけられた紐で女性の腰部を纏う「湯文字(ゆもじ)」を指すようになった。しかし、本来、正しくは「湯文字」の上に纏う模様のある同系統のものが腰巻である。また、男性も十九世紀中頃までは白地の腰巻をしたことがあるとある。ここで小笠原に言っているのは②の紐である。なお、以上から判る通り、腰巻は肌に直接着用するものの、所謂、ショーツ・下着ではなく、あくまで外装着衣の一つである、という点に注意しなくてはならない。男の褌は下着であるが、和装時代の女性は下着は着用しなかったと考えるのが正しいように思われる。

「上る」「たてまつる」。

「是則」「これ、すなはち」。

譚海 卷之三 御藏米之堂上方御裝束料

 

御藏米之堂上方御裝束料

○石山三位(いしやまさんみ)殿犖卓不羈(たくらくふき)の人にて、公家衆の給俸增(まさ)れたる事有(あり)。所司代泉涌寺へ拜禮に詣(まうで)らるゝ路次(ろし)に、靑侍やうの編笠かぶりたる男、路の眞中に先に立(たち)て行(ゆく)ゆゑ、所司代の前駈(まへがけ)叱咜(しつた)すれどもきかぬふりにて徐(ゆるや)かにあるく、間近く成(なり)てしきりに呵(か)する時、跡をふり返りて、誰(たれ)なれば加樣に乘打(のりうち)せらるゝ、身は石山三位也と云(いふ)を聞(きき)て、所司代驚き下乘して式禮せられしかば、泉涌寺へ參詣ならば自分も拜禮に參(まゐる)ゆゑ、同伴致(いたす)べしとて(しひ)らるゝ間(あひだ)、所司代いなみがたく跡に立(たち)て步行し、物語しつゝゆかれしに、扨(さて)かしこに至りて、三位殿背負れたる風呂敷より裝束を取出(とりいだ)し、着かへて拜禮畢(をは)り、墓所の有方(あるかた)に退座し、三位殿火打(ひうち)取出し、たばこまいりながら、所司代と暫時閑談有(あり)、所司代申されけるは、かやうに官位の御身にて無僕(むぼく)にて御往來はあるまじき事と申されければ、石山殿、されば其事に候、御藏米少給にて中々進退力に及(およば)ざるよし申されける。加樣の事共(ことども)關東へ御聽に達し、御沙汰有(あり)て、以來御藏米の公家衆へは、裝束料として年々黃金一枚づつ賜る事になりしとぞ。

[やぶちゃん注:「石山三位」江戸時代前・中期の公卿石山師香(もろか 寛文九(一六六九)年~享保一九(一七三四)年)のことか。藤原氏持明院支流の壬生基起(みぶもとおき)の次男。元禄一六(一七〇三)年、従三位となり、壬生(当時は葉川)家から分かれて石山家を興した。享保七(一七七二)年に参議となり、同十九年、権中納言・従二位。狩野永納(かのうえいのう)に学んで、戯画に優れ、書・和歌・彫金でも知られた(ここは主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「犖卓不羈」「犖」は「卓」と同じく「勝れる」の意。「不羈」は「才知が人並外れて優れており,常規では律しきれないこと」で、「他者より優位にすぐれており、しかも何ものにも束縛されないこと」の意。

所司代」石山師香だとして、彼が三位になって以降の京都所司代は、松平信庸(のぶつね:在任は一六九七年から一七一四年。丹波篠山藩藩主)・水野忠之(在任は一七一四年から一七一七年。三河岡崎藩藩主。後に老中となり、享保の改革を支えた)・松平忠周(ただちか:在任は一七一七年~一七二四年)信濃上田藩藩主。後、老中)の孰れかとなる(牧野英成は没年の就任だから含めない)。ただ、見かけを「靑侍」と称しており、この場合、それは「若くて、ものなれていない官位の低い侍」と見間違えたのであるから、年老いてからでは、どうもシチュエーションにそぐわぬ。とするれば、前二者、松平信庸・水野忠之のどちらかであるが、水野の時は師香は既に数え四十六に達しており、無理がある気がするし、そもそも後に超有名な老中となる水野であったなら、名を記さぬはずがないと私は思うから、最終的に私はこの京都所司代は松平信庸ではなかったかと考えるものである。

「乘打」馬や駕籠に乗ったままの状態で、貴人や社寺仏閣等の前を通り過ぎることを言う。下乗(げじょう)の礼を欠いた非礼行為である。

「たばこまいりながら」(「まいり」はママ。歴史的仮名遣は「まゐり」が正しい。以下、それで表記する)の「まゐり」はこの場合、特異点の「たばこをのむ(吸う)」の尊敬語「お吸い遊ばれつつ」であるので注意。

「無僕」従者を誰も従えぬこと。

「進退力に及(およば)ざるよし」日常の行動が経済不如意のため思うようにならぬ旨。

2018/08/11

甲子夜話卷之五 5 興津鯛、一富士二たか三茄子の事

 

5-5 興津鯛、一富士二たか三茄子の事

或人より聞く。駿海産の甘鯛を生干にしたるを、おきつ鯛と稱して、名品の一なり。今は興津鯛と書て、興津の産なりなど覺ゆる人もあるは、誤なり。是は駿城に烈祖の在らせられしとき、奧女中のおきつと云しもの、宿下りして戾りたるとき、生干甘鯛を獻じたり。殊に御口に協ひ、戲におきつ鯛と御諚ありしより名高くなり、其地にて專らおきつ鯛と呼に至れることなりとぞ。かゝることさへ轉靴多きものなりけり。又樂翁の話られしは、世に一富士二鷹三茄子(ナスビ)と謂ことあり。此起りは、神君駿城に御坐ありしとき、初茄子の價貴くして、數錢を以て買得るゆゑ、其價の高きを云はん迚、まづ一に高きは富士の山なり。その次は足高山なり。其次は初茄子なりと云し言なり。彼土俗は、足高山をタカとのみ略語に云ゆゑなるを、今にては鷹と訛り、其末は三物は目出度ものをよせたるなど心得、畫にかき掛て翫ぶに至るは、餘りなることなり。

■やぶちゃんの呟き

「興津鯛」スズキ目アマダイ科 Branchiostegidae の静岡地方での異名。鮮魚を指す場合もあるようだが、通常はここにある通り、一夜干しにした干物を「興津鯛」と呼ぶ。日本近海で普通に見られるアマダイ属にはアカアマダイ Branchiostegus japonicus・キアマダイ Branchiostegus argentatus・シロアマダイ Branchiostegus albus の三種がいる。なお、「興津」は現在の静岡県静岡市清水区の地名として残り、古くからあった地名であり、海辺の宿場町で、見るからに旧漁村という感じはするし、アマダイの一夜干しの「興津鯛」は実際に興津の名産である。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「興津によれば、『ストーリーにはいくつかバリエーションがあり』、『家康が興津を訪ねたときに食べたのでこの名がついた』とするもの、『家康が食べたのは江戸城で、そこに興津という名の女中がいた』、『そもそも家康は関係なく、駿河湾で美味しいアマダイが取れたので名産となった』『など諸説があり定かではない』とする。しかし、「馬琴道中記」に、『このあたりもみじめずらし興津鯛』『の句が残っていることなどから、江戸期にはすでに定着した名称であったことが窺える』とする。『アジの干物などでは二枚に開いて半身に中骨を残すが、興津鯛は中骨を取り去ることが特徴的である。さっと炙って食べる』ともある。

「烈祖」徳川家康。

「樂翁」既出既注。松平定信の隠居号の号。

「話られし」「かたられし」。

「一富士二鷹三茄子(ナスビ)」小学館「日本大百科全書」によれば、『夢にみるもののなかで縁起のよいものの順位。とくに正月』二『日の初夢の縁起に用いられる。語源については、この諺が一般に流布した江戸時代中期にすでに諸説あ』り、駿河『国(静岡県中央部)の諺で、駿河の名物を順にあげたとする説がもっとも有力である。江戸時代の国語辞書』「俚言集覧」に『よれば、駿河の名物を「一富士二鷹三茄子四扇五煙草(たばこ)六座頭」とする』。『徳川家康があげた駿河の国の高いものの順位、すなわち一に富士、二に愛鷹(あしたか)山』(「足高山」は静岡県の富士山南麓にある愛鷹山((グーグル・マップ・データ))の古い表記。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳)『、三に初茄子の値段といったことに由来するとする説』(本条の説)、『富士は高く大きく、鷹はつかみ取る、茄子は「成す」に通じて縁起のよい物とする説、などがある』とある。

「數錢を以て買得るゆゑ」数銭も出してやっと買えることから。

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(49) 武權の勃興(Ⅰ)

 

  武權の勃興

 

 信賴するに足る日本歷史の殆ど全部は、一つの廣大な挿話の內に收められて居る、則ち武權の興廢といふ事の內に收められる……。日本の歷史は紀元前六六〇年から五八五年迄の間統治して、百二十七歲の壽齡を保つたとされて居る神武天皇の登極と共に始まると、普通に云ひならはしてゐる。神武皇帝以前は、神代であつた――神話の時代である。併し神武天皇の卽位以後一千年間の、信賴するに足る歷史は傳はつてゐない、そして此の一千年の期間の年代記はお伽噺を去る事遠くないものと考へなければならない。この年代記には、事實の記錄もありはするが、事實譚と神話とが互によく織りまぜられて居て、兩者を區別して見ることは困難である。例ヘば紀元二〇二年に、神功皇后が朝鮮を征伐したと云はれる傳說があるが、【註】そんな征伐のなかつた事は可なり十分に證明された。後代の記錄は、上代のよりも、幾分か神話的ではない。第十五代目の統治者、應仁天皇の御宇に、朝鮮からの移住民のあったといふ事は事實に基づいた傳說であるし、尙ほ其後の日本に於ける古い漢文硏究の傳說も亦事實に基づいたものである、さらに第五世紀の全部を通じて行はれたらしく思はれる社會動亂の狀態に就いての漠然たる記錄も同樣である。佛敎は第六世紀の中葉に傳へられた、そして此の新しい信條に對して爲された神道一派の激しい反抗と、聖德太子――推古天皇の攝政にして、佛敎の偉大なる建設者――の祈禱に依り、四提婆王(善靈で、阿修羅王に對するもの)の助けの下に、佛敎の奇蹟的勝利を博した事實とに就いては、記錄が殘つて居る。推古天皇(紀元五九三年から六二八年迄)の御宇に於て佛敎の基礎の確立すると共に、漸く信を置くに足る歷史の時代が始まつた、時は、神武天皇から數へて、三十三代目の日本の天子の御世であつた。

註 日本アジヤ協會の譯文中、アストン氏の論文『日本古代史』を見よ。

[やぶちゃん注:「四提婆王(善靈で、阿修羅王に對するもの)」「しだいばわう」と読んでおく。丸括弧内は原文にはない。訳者戸川明三の割注である。阿修羅王に対するという以上は天部に属すと思われる守護神霊「四提婆王」(原文“the Four Deva Kings)というのは私はあまり聴いたことがない(即座に連想するのは、釈迦の弟子であったが、後に違背し、阿闍世(あじゃせ)王を唆(そそのか)して殺害しようとして失敗して地獄へ堕ちたとされる「提婆達多」であるが、無論、彼ではない)。原文を見ると、最後の「King」が複数形であることに気づいた。さらに調べてみると、平凡社「世界大百科事典」の「阿修羅」の解説の中に、『サンスクリットのアスラ asura の写音。アーリヤ人のインド・イラン共通の時代にはアスラとデーバ deva はともに神を意味したが』、『彼らが分かれて定住してからは』『インドではアスラが悪神を』、『デーバが善神を意味するようになり』、『イランではアスラはゾロアスター教の主神アフラ・マズダとなった』とあり、また、「インド神話」の解説の中にヒンドゥー教の軍神『は代表的なデーバdevaである。デーバは神であり』、『それに対するものがアスラ sura(阿修羅)である』とあり、また、「八部衆」の解説中に『天(デーバ deva )』は『神のことで( deva はラテン語 deus と同系)、帝釈天をはじめとする三十三天など』を指すとある、ウィキの「デーヴァ」を見ると、『サンスクリットで神を意味する語である。女性形はデーヴィー』で、『印欧祖語に由来する』。『ヒンドゥー教、仏教などインド系の諸宗教で現われる』。『漢訳仏典では、天部、天、天人、天神、天部神などと訳される』。『デーヴァが住む世界をデーヴァローカ』『と呼び、天、天界、天道、天上界などと漢訳される』。『インドのデーヴァはイランのダエーワと同一の語源と言われるが、イランのゾロアスター教ではダエーワは悪神である』。『ラテン語のデウス(dēus)などと同じ語源である』あるとあった。さらに同ウィキの中文版を開くと、標題が『提婆(印度神話)』となっているのを確認出来た。されば、この小泉八雲の原文は、

デーヴァローカ(「天」)に棲む「四」名のデーヴァ(「天部」の「神」)

即ち、

「天」部に属する仏教を守護する「四」名の「王」

という意味に読み替えられると私は思う。翻って、「日本書紀」には、仏教を巡って発生した崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得、それに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したと記されている。さればこそ、私はここには、

「四名のデーヴァ王ら」(仏法を守護する四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のことであろう)

としたくなるのである。大方の御叱正を待つ。

「アストン氏の論文『日本古代史』」「アストン」は既注であるが、再掲しておくと、イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。「日本古代史」というのは一八八九年発表の“ Early Japanese history  のこと。この発表した年、アストンは病気のために外交官を辞職し、イングランドに落ち着いている。]

 倂し第七世紀以前の一切の事は、假作物語のやうに霧に包まれて、吾々は判然と其の眞相を摑むことはできないが、それでも初代から三十三代目迄の天皇及び女帝の御代の社會狀態に關する半神話的の記錄から、吾々は多くの事を推論し得るのである。上代のみかどの生活は、極めて質素で、その臣下と殆ど選ぶ處がなかつたらしい。神道學者の眞淵の言ふ處に依れば、天子も泥の壁と小石で葺いた屋根のある小屋の中に住み給ひ、大麻の着物を被て[やぶちゃん注:「きて」。]、野葡萄の蔓を絡ませた木製の鞘に納めた刀を佩き、人民の間を自由に步きまはられ、獵に出られる時には、自分で弓矢を携へられたといふことである。併し社會が發達して其の富力と權力とを增大するにつれて、此の古の簡素はなくなり、支那の習俗儀禮が、漸時輸入されるに及んで、大變革が生じて來た。推古天皇は支那宮廷の儀禮を取り入れ、貴族に對し、始めて支那の位階を適用せしめた。支那の贅澤品は、支那の學問と共にやがて宮廷に見られるやうになつた。爾來天皇の權威は次第々々に直接に働きをする事が少くなつた。新しい儀禮に拘はるやうになつで、萬機を親裁することは以前よりも遙かに困難となつたに相違ない。そして精力絕倫の統治者の場合に於てさへも、多少代理者に依つて、事を行はせるといふ誘惑の、强くなつて來た事も有りさうな事である。何れにしても、政府の眞の行政は、此の頃から、代理者――代理者はすべて藤原と呼ぶ大公卿氏族の人々であつた――の掌中に移り始めた。

 この氏族は最高の世襲的僧職を包有し、天孫の榮を誇つて居り、古代貴族の大半を占めてゐた。全部で百五十五家族ある公卿の中から 九十五家族はこれに屬してゐた――この中には五攝家なるものも入つて居たが、この五攝家の內から天皇は傳統上、皇后を選ぶ事になつて居たのである。其の藤原の歷史上の名稱は、桓武天皇(紀元七八二年――八○六年)の御代に始まつたので、桓武天皇は中臣鎌足の名譽を表彰するために、此の名を與ヘられたのである。併し此の氏族は、以前から永い間宮廷に於て、最高の地位を占めてゐたのであった。第七世紀の末葉から、行政上の權力は槪ね此の氏族の掌中に移つてしまつた。其の後關白卽ち攝政の職が制定され、近代に至る迄、それが此の家に世襲的の職權として殘つて居た――幾代かの後、中臣鎌足の子孫の手からは。その實驗が失はれてしまつた後までも。併しながら殆ど五世紀の間、藤原氏は日本の眞の攝政たる地位を保ち、出來得る限りその位置の利を專にしてゐた。すべての交官職は、藤原氏の男子の掌中に歸し、天皇の后妃や寵姬は、すべて藤原氏の女人であつた。政府の全權は、かくして此の氏族の手に委ねられ、天皇の大權はなくなつてしまつた。のみならず天皇の繼承は、全然藤原氏の手に依つて行はれ、在位の期間すら、藤原氏の政策に左右せられて居たのであつた。年少の天皇に退位をひ、退位後は佛敎の僧侶となられたる事が得策と考へられた――次いで選ばれた後繼者は往々ほんの幼兒に過ぎないと言ふ有樣で、二歲にして帝位に登り、四歲にして退位された天皇の例があるかと思へば、五歲にしてみかどの位に就き、或は十歲にして卽位した例も數多ある。併しながら、王位の宗敎的尊嚴は依然として減少される事なく、むしろ增大したのであつた。みかどが政策と儀禮とのために、一般人民の視界から遠ざかれば遠ざかるほど、其の離隔と隔絕とは、益〻尊貴な傳統的な畏敬の念をくすることとなつた。西藏のラマ僧の如く、生ける神なる天子は、民衆には見えないやうにされて居た。かくして天顏を拜する者は死ぬと云ふ信仰が徐々に起つて來たのであつた……。藤原氏は、自己の政權を確保するために、かかる專橫な手段を弄することを以てさへ飽き足らず、年少の天子の性格を惰弱にするがために、腐敗に赴かせるいろいろな奢侈を宮中に行はしたと傳へられてゐる。さうしなければ天皇は古代からの帝位の權威を振ふ力を示される恐れがあつたからである。

[やぶちゃん注:「五攝家」藤原氏のうち、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家を指す。藤原氏は北家出身の良房・基経父子が摂政・関白となって以来、その子孫が相いついで摂政・関白となり、同時に氏長者を兼帯したが、このように摂政・関白を出す家を「摂関家」又は「摂家」と称した。ところが、鎌倉時代初頭、源頼朝の推挙により、兼実が兄基実の子基通に代わって摂政・氏長者となって、基通の近衛家に対し、九条家を興した。ここに摂関家は近衛と九条に分立したが、さらに兼実の孫道家は、その子教実・良実・実経を相いついで摂関につけたことから、良実が二条家を、実経が一条家を興し、教実の九条家と三家に分かれた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「二歲にして帝位に登り、四歲にして退位された天皇」平安末期の第七十九代六条天皇(長寛二年十一月十四日(一一六四年十二月二十八日)~安元二(一一七六)年)のことであろう。彼は永万元年六月二十五日(一一六五年八月三日)に即位させられ、仁安三年二月十九日(一一六八年四月九日)に退位させられている。即位は数え二歳(実際には生後満七ヶ月と十一日)で歴代最年少であり、在位二年八ヶ月で祖父後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王に譲位(高倉天皇)させられ、これまた歴代最年少の上皇となった(但し、数えだと五歳、満だと三歳となる)。]

 此の簒奪――武權勃興の準備となつたこの纂奪――は、恐らく正常に解釋されてゐなかつたと思はれる。古代ヨオロツパのすべての族長的社會の歷史は、社會進化の上のこれと同一の形相を說明して居るのである。兩者の發展の或る期間に於て、吾々は同樣な事實――僧侶としての國王たる君主から一切の政權が剝奪され、しかもその王はただ宗敎的尊嚴を保つやうにさせられて居る事――を認めるのである。藤原氏の政略を、單なる野心、竝びに單なる纂奪の政策と判斷するのは誤りである。藤原氏はその天孫を主張して居た宗敎的貴族であつた、――宗敎と政治とが同一視された社會の氏族の長であり、この社會に對するその關係は、ユウパトリデイ Eupatridae (ギリシヤの古い貴族で立法の特權をもつて居たもの)が古代アゼンスの社會に對する關係に等しかつた。みかどはもと、氏族の主長の大多數の同意に依り、最高の長官、軍事司今官、竝びに宗敎上の敎長となつたものである、――この氏族の主長が、各自の家來に對する關係は、恰も『天皇』が社會全體に對する關係と同じものであつた。併し統治者の大權が、國民の發展に伴なつて增大するや、從來聯合しで其の大權を擁護するに力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]者も、それを危險とするやうになつて來た。ここに於て彼等は、天皇の宗敎上の優越權はその儘にして、その政治上竝びに法律上の權威を剝奪しようと意を決した。アゼンスに於ても、スパルタに於ても、又ロオマに於ても、其他古代ヨオロツパの何處に於ても、これと同一な理由から、宗敎上の元老に依つて、同一な政策が行はれたのであつた。ロオマ上代の國王の歷史はド・クウランジュ氏の解釋に從へば、僧侶なる統治者と宗敎上の貴族との間に釀成された反抗の性質を、尤もよく語るものであると、併しこれと同一の事實は、あらゆるギリシヤの社會にも行はれ、同樣の結果を生じた。何處でも、古の王は、政治上の權力を奪はれて居た。併し宗敎上の尊嚴と特權に至つてはこれを保持することを得た。彼等は、統治者でなくなつた後までも最高の僧侶ではあつたのである。これは日本でも同樣であつた。私は日本の史家が將來に於て、現代社會學の立場から觀察して、藤原時代の物語に就き、全然新しい解釋を與へるであらうと想像して居る。兔に角、天皇の大權を削減するに就いては、宗敎上の貴族は、野心かそれを行つたと共に、保守的の警戒からそれを斷行したに相違ないといふ事は殆ど疑ひを容れる餘地はない。法律と慣習とに改變を加へた天皇も多くあつた――古代貴族の大部分からは、殆ど好意を以て迎へられなかつた改變を、又今日ではラテン語でなければ書く事の出來ないやうな慰みをした天皇もあつた。また孝德天皇の如き『神の化身』であり、また古代の信仰土の主長でありながら、『神の道を輕視し』生國玉の御社の神木を伐り倒した天皇もあつた。孝德天皇は、佛教に對する信心のあるにも拘らず(恐らく實際その信心のあるが爲めにかも知れぬが)尤も賢明にして又尤も善良なる君主の一人であつた。併しその『神の道を輕視する』天皇の一例となつたといふ事は、僧侶的氏族をして重大な考慮をめぐらさしめたに相違ない……。尙ほこの他にも、注意すべき重要なる事實がある。數世紀の間に、正統なる皇室は、氏から全然分離するに至つた、而して他の各單位とは獨立して居たこの全能力のあつた一單位は、それ自體の內に、貴族的特權と既定の制度とに對して重大なる危險をもつて居るものと考へられた。すべての氏族の慣習を破壞し、氏族の特權を廢棄し得る權力ある全能なる神王の個人的性格と意思とは、餘りに重大な事を起すかも知れない。一方に、氏族の族長的統治の支配下に在つては、すべての者が一樣に安全であつた。何となれば氏族の族長的統治は、その内の一族が他族を犧牲に供して、自ら著しき力を振はんとするあらゆる傾向を阻止することが出來たのであるから、併し皇室の祭祀――すべての權威と特權との傳統的本源――は、明白な理由から。これに一指だも觸れる事は出來なかつた。則ち宗敎貴族が、眞の權力を自己の掌中に收め得たのは、皇室の祭祀を維持し、それを鞏固にする事によつてのみなされたのであつた。事實彼等は眞の實權を、殆ど五世紀間掌握しつづけて居たのである。

[やぶちゃん注:「ユウパトリデイ Eupatridae (ギリシヤの古い貴族で立法の特權をもつて居たもの)」原典の綴りは最後がラテン文字の合字で“Eupatridӕ”と斜体。この部分も丸括弧は訳者戸川の割注である。辞書ではアテナイの貴族階級の一種とし、「エウパドリデス」とカタカナ音写してある。

「アゼンス」原文の“Athens”の綴りを見ればお判りの通り、「アテナイ」(アテネ)のこと。

「ド・クウランジュ氏」複数回既出既注であるが、再掲しておく。ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges 一八三〇年~一八八九年)はフランスの中世史の歴史学者。『クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語って』『彼の掲げた史学研究のモットーは、『直接に根本史料のみを、もっとも細部にわたって研究すること』、『根本史料の中に表現されている事柄のみを信用すること』、そして『過去の歴史の中に、近代的観念を持ちこまないこと』であったという。『クーランジュの文献資料に関する知識は当時としては最高であり、その解釈についても他人の追随を許さなかった。しかし、彼は古代作家を無批判に信頼し、原典の信憑性を確認せずに採用した。さらに通説にことさらに反対する傾向があった』。『クーランジュの文体は明晰かつ簡明であり、事実と推理のみをあらわし、当時のフランス史家の悪弊であった「漠然とした概括」や「演説口調の慣用語」から脱却していた』とある。詳細は参照引用したウィキの「フュステル・ド・クーランジュ」を参照されたい。

「今日ではラテン語でなければ書く事の出來ないやうな慰みをした天皇もあつた」何か意味深長なまがまがしいことをしたかのような訳になっているが、原文は“ there had been an Emperor whose diversions can to-day be written of only in Latin”であり、平井呈一氏の訳では『こんにちなら、ラテン語だけで物を書くというような、そんな気まぐれをやった天皇もあった』となっている。漢字や万葉仮名だけしか使わないと言った意味か。誰かは知らない。

「孝德天皇」(推古天皇四(五九六)年~白雉五(六五四)年/在位:孝徳天皇元(六四五)年~没年迄)。ウィキの「孝徳天皇によれば、「日本書紀」『によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わず』、『しきりに恩勅を下した』とある。彼は生國魂(いくくにたま)神社(現在は大阪府大阪市天王寺区生玉町にあるが、以前は現在の大阪城の位置にあったが、豊臣秀吉による大坂城築城の際に移転させられた。但し、孝徳帝当時はどこにあったかは不詳である)を伐採したことが、「日本書紀」孝徳天皇即位前紀の分注に載る。この伐採は難波宮(なにわのみや)造営のためであったと考えられている、とウィキの「生國魂神社にある。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(48) 社會組織(Ⅳ) / 社會組織~了

 

 讀者は今や、古代の日本社會の狀態に關して、大體正確な觀念を抱き得た事であらうと思ふ。併し其の社會の制度は、私が示し得るよりも遙かに複雜なものであつた――非常に複雜で、此の問題を詳細に論ずるには、數卷の書を必要とする位である。他に適當な名稱がないので、今尙ほ吾々が封建の日本と呼ぶ所のこの社會は、一と度[やぶちゃん注:「ひとたび」。]十分に發展したならば、これは三重組織に著しく近接してゐる。軍國型の二重複合社會りの特色を、多分に示してゐるものである。勿論、著しき特色は、眞の宗敎上の政敎政治がないといふ事である、――是は政府は決して宗敎と分離しないといふ事實に依るのである。嘗て佛敎の方に中央政權から全く離れて、宗敎上の政敎政治を樹立しようとする傾向があつたのであるが、其の途上に二個の致命的な障害があつた。第一は、佛敎そのものの狀態であつて――佛敎が多くの宗派に分裂して居て、甲乙の宗派が互に反目して居た爲めであつた。第二の障害は、武家氏族の執拗なる敵意で、直接間接に、自己の政策に干涉する力を有するが如き宗敎の力を、嫉視した爲めであつた。外來の宗敎が、行動の世界に於ても、侮り難き勢力あることを、證明し始めるや、殘忍なる手段が選ばれ、第十六世紀に於て、信長に依つて行はれた恐るべき僧侶の虐殺が、日本に於ける佛敎の政治的希望を、終熄せしめたのであつた。

 それを外にして社會の編成は、軍國型のあらゆる古代文化の構成に似てゐた――一切の行動は、積極的にも消極的にも規定されて居た。一家は個人を支配し、五家族の集團は一家族を支配し、組合は此の集團を支配し、領主は組合を支配し、將軍は領主を支配して居た。二百萬の武士は、生產者階級の全體に對し、生殺與奪の權を有し、大名はこれ等の武士に對し、同樣の權を有し、將軍は又大名を支配してゐた。事實は必らずしもさうではなかつたが、名目の上では、將軍は天皇に隷屬してゐた、武力的なる橫奪は、重き責任の自然の狀態を攪亂し、位置を轉換せしめた。然しながら、政府の此の位置の轉換に依つて、貴族から下民に至る迄、規律ある訓練が行きとどいた。生產者階級の中には、無數の結合――各種の組合があつた、併しこれ等は專制主義の中に於ける專制主義――共產制の專制主義であつて、各人は他の人々の意志に依つて統御されて居た、そして企業は、商業にせよ產業にせよ、組合以外に於ては不可能であつた……。個人が組合に束縛される次第は既に述べた通りであるが――その個人は組合の許可なくしては、その組合を去る事は出來ず、組合以外のものとは結婚する事も出來なかつた。吾々は又外國人と云ふのは、古代のギリシヤ、ロオマで云つたやうな意味に於ける外國人――換言すれば、敵 a hostis ――であつた事、竝びに單に宗敎的にその許しを得ることに依つてのみ、他の組合へ加入することが能きた事をのべた。それ故、俳外的な點では、日本の社會狀態は古いヨオロツパの社會狀態に似てゐた、併しその軍國的な點は、むしろアジヤの諸大帝國の狀態に似てゐた。

[やぶちゃん注:「五家族の集團」古代律令制下の五保の制(ごほ/ごほうのせい:五戸を纏めた単位を「保」と称し、保長が決められ、それが責任者となって相互扶助・治安・徴税等に関し、連帯責任を負った制度)を起源とするとされる、江戸時代に領主の命令によって組織された隣保制度「五人組(ごにんぐみ)」のこと。ウィキの「五人組(日本史)」から引く。『武士の間にも軍事目的の五人組が作られたが、百姓・町人のものが一般的である。五人与(ぐみ)・五人組合などとも呼ばれた』。慶長二(一五九七)年(年)『豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・農民に五人組を組織させた。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために秀吉の制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した』。『五人組制度は村では惣百姓、町では地主・家持を近隣ごとに五戸前後を一組として編成し、各組に組頭などと呼ばれる代表者を定めて名主・庄屋の統率下に組織化したものである。これは連帯責任・相互監察・相互扶助の単位であり、領主はこの組織を利用して治安維持・村(町)の中の争議の解決・年貢の確保・法令の伝達周知の徹底をはかった。また町村ごとに遵守する法令と組ごとの人別および各戸当主・村役人の連判を記した五人組帳という帳簿が作成された』。『実態は、逃散したりして潰れた家や』、『実際の住民構成とはかけ離れた内容が五人組帳に記載されていた場合があったり、また』、、『年貢滞納をはじめとする村の中の争議は、村請制の下では五人組ではなく』、『村落規模で合議・責任処理されるのが普通であったため』、『効果としては疑問がある。また、村によっては一つの村内で領主が家ごとに別々(相給)になっているケースがあり、その場合には領主が編成する五人組と村が居住区域をもって定めた五人組(「郷五人組」)が並存するという現象も生じた。しかし』、『五人組制度が存在することによって、間接的に名主・庄屋の権威を裏付け、住民の生活を制約すると同時に』、『町村の自治』的な『とりまとめを強化することには役立った。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組に』、『その性格は受け継がれていた』とある。

hostis」原文はこの単語のみ“hostis”と斜体。ホスティス。ラテン語で「敵」の意の名詞。] 

 

 勿論、かくの如き社會は、近代の西方文化の如何なる形態にも何等共通な點をもつて居ない。かくの如きは氏族の集團の一大集塊であつて、二重政府の下に、漠然と結合したもので、その武力を有する元首が萬能の力を振ひ、宗敎上の元首はただ禮拜の的――祭祀の生きたる象徴――たるに過ぎなかつたのである。然しながら、此の組織は、外形上から云へば、吾々の呼んで封建制度と云ふ所のものに、近似してゐるとも云へよう、其の構造は――僧侶的政敎政治を除けば――むしろ古代のエヂプト若しくはペルウの社會に似てゐた。最高位の人は、吾々の使用する言葉の意味で云ふ皇帝と云ふのではなく、――諸〻の王を支配する王或は天の代理者と云ふのでもない――それは神の化身、民族の神、大陽から生まれ出でたるいんか(ペルウの王族)[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]である。此の神なる人物を取り圍んで、種族の者が敬意を捧げて竝んでゐるのである――併しそれと共に、各部族は又各自の祖先の祭祀を行つてゐるのである、そしてこれ等の部族を形成する氏族、これ等の氏族を形成する組合、これ等の組合を形成する大家族等も、亦それぞれ各自の祭祀をもつてゐる、かくてこれ等祭祀の集團から、習慣と法律とが生まれたのである。併し何處でも、習慣と法律とは其の起原を異にして居るが故に兩者には多少の相違がある、只だ共通なる一事は、――これ等習慣法律は、絕對恭謙な服從を要め[やぶちゃん注:「もとめ」。]、公私の生活のあらゆる細目に亙つて規定を爲す所があつた點である。個性は制に依つて全然抑制された。そして制は、主として內部から發生し來たつたもので、外部からすすめられたものではなかつた――各個人の生活は、他の人々の意志に依つて定められ、自由な行動、自由な言論、若しくは自由な思想と云ふものは、全然問題外とされて居た。これは古いギリシヤ社會の社會主義的專制とも比較の出來ない程に更に酷しい[やぶちゃん注:「きびしい」。]もので、最も恐るべき種類の武斷的專制と宗敎的共產主義とが合體したものである。個人に刑罰に關する外は、法律上に存在しない者であつた。そして農奴にせよ、自由の人にせよ、全生產者の階級は、無慙にも最も苛酷なる奴隷的屈從をひられて居たのであつた。

 普通の聰明をもつて居る現代人にして、かくの如き境遇に堪へて生活し得たと(家康に依つて士分に取り立てられた、イギリス人なる水先案內ヰリアム・アダムスの場合に於けるが如く、或る有力なる主權者の庇護のない限り)信ずる事は困難である、精神上、肉體上、不斷の多樣なる制肘は、それ自身既に死である……。現今、日本人の組織に對する異常なる能力に就いて、竝びに西歐でいふ代議政體に、日本人が適當してゐる證據としての、日本人の『民族主義的精神』に就いて論述する者は、現實の外觀を誤解してゐるものである。實際は、日本人が自治體組織に對して異常なる能力を有すると云ふことは。近代の民主主義政體の如何なるものにも、不適當であると云ふ事の尤も有力なる證據となるのである。皮相的に見れば、日本の社會組織と、近代アメリカの地方自治體、或はイギリス植民地の自治體との差異は、些々たる[やぶちゃん注:「ささたる」。]ものらしく思はれる、そして吾々は日本社會の完全なる自治的訓練に、敬服するも當然と思はれる。併し兩者の差別は、根本的である、莫大である――幾千年の歲月に依つてのみ測られる程に。其の差異は、制的共同と自由共同との差別である――宗敎の最古なる形に基づく共產制の專制主義の形と、無制限なる個人的自由競爭の權利と共に高度の發展を逡げたる產業組織の聯合の形との差異である。

[やぶちゃん注:「ヰリアム・アダムス」徳川家康に外交顧問として仕え、「三浦按針(あんじん)」の日本名で知られる、イングランド人の元航海士であったウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日))。日本に最初に来たイギリス人とされる。少年期、造船所に勤め、やがて水先案内人となった。イギリス艦隊に船長として従事した後、オランダに渡り、一五九八年、司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中で四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、一六〇〇年四月十九日(慶長五年三月十六日)、豊後臼杵湾の佐志生(さしう:現在の大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き、徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺より関東の浦賀に回航した。かねてより、関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ、彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また、浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ:現在の神奈川県横須賀市)に知行地を給した。「三浦按針」の名はこのようにして生まれた(按針は「パイロット=水先案内」の意味)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン Jan Joosten van LodensteynLodensteijn) 一五五六年~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに漂着、徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲附近で、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来し、「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子(やようす)」と呼ばれるようになり、これが後に「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。やがて、東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後、帰国しようと、バタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが、帰国交渉が捗らず、結局、諦めて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)とともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学・幾何学の初歩を教授するほか、外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ・イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また、伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことでも知られる。彼はイギリス人ながら、イギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、元和(げんな)六年四月二十四日、五十五歳で肥前平戸で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は「按針塚」と名づけられて、逸見に近い塚山公園に現存する(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 吾々が西歐文明の中に於ける、共產主義或は社會主義と呼ぶ所のものは、民主主義の完全なる形に近づかむとする憧憬を表はす近代的の發達であると云ふのは全く世俗の誤謬である。實際、これ等の運動は逆戾り――人間社會の原始狀態への逆戾り――を表はしてゐるのである。古代の專制主義のあらゆる形の中に、人民が自治を營む能力のあつた事を吾吾は明確に認める。それは古のギリシヤ、ロオマに於けると等しく、古代エヂブト及びペルウに於ても顯はされて居る所であり、今日ではヒンヅウ及び支那の社會にも見られ、又シヤム、アンナンの村落に於ても、日本に於けると同樣に硏究し得られることと思ふ。それは宗敎上の共產主義的專制主義の意である――人格を蹂躙し、企業を禁止し、競爭を公共の罪惡とする最高の社會的暴虐である。かくの如き自治にも、それ相應の長所があつて、それは日本が諸外國から孤立の狀態で居る事を得た限りは、日本人の生活の要求に全然適合したものであつた、併し社會の倫理上の傳統が、同胞を犧牲にして、個人の利益を計る事を禁ずるが如き社會は、社會の自治が個人の最大の自由と、最大範圍の競爭的企業とを是認するが如き社會に對して、產業的生存競爭をしなければならなくなつたやうな場合には、非常な不利な位置に墮ちると云ふ事は明白なことである。

 吾々は、精神上及び肉體上に於て、不斷の一般的壓を受けた結果は、何もかも單一無味の狀態――全生活の表現に於ける陰氣な統一と單調――をもたらすことを想像する。併しかくの如き單調は、組合の生活に關してのみあつた事で、民族の生活に關しては存在しなかつたのである。最も不思議な變化が、古代のギリシヤ文明の特徴となつたやうに、それは日本の此の奇妙な文明の特徴ともなつて居る、而も其由來した理由に至つては二者同一である。祖先禮拜に依つて支配された、あらゆる族長的文化に於て、絕對的同一性と一般的統一とに向ふ一切の傾向は、そのものの全體としての特質に依つて阻止されるのである、蓋し全體なるものは決して單一に判を捺したやうにはならないものであるからである。其の全體なる綜合體の各單位、それを構成する小專制の集合中の一々の專制に對し甚だしく猜疑の眼を以て、それ自身の傳統と習慣とを守り、自足して居る。恁ういふ事情から早晚、無數の樣々なる細目、藝術上產業上建築上機械上の細目の變化が生まれ出て來る。日本に於ては、かかる分化と專門化とは、かくの如くして維持せられた。それ故、吾吾は全國を探しても、習慣と產業と生產手段とが、明確に同一であるといふ村落を、二つと見出すことは出來ないのである……。恐らく漁村の習俗は、私が說かんとすることの最良の例證である。諸所の海邊に於て、各種の漁民部落は、網と小舟の建造に就いて、各自傳來の方法をもち、各自獨得の使用方法を採つて居る。一八九六年の大海嘯[やぶちゃん注:明治二十九年六月十五日午後七時三十二分に発生した「明治三陸地震」。岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖二百キロメートルの三陸沖を震源として起こった地震で、マグニチュード八・二~八・五の巨大地震。地震に伴って、二〇一一年三月十一日に起こった東北地方太平洋沖地震の前までで、本州に於ける観測史上最高の遡上高だった海抜三十八・二メートルを記録する津波が発生し、甚大な被害を与え、死者・行方不明者の合計は二万千九百五十九人に達した。以上はウィキの「明治三陸地震に拠った。]に際して、溺死する者三萬人、漂失した海濱の村落二十を算した時に、生殘者のために神戶其の他の各地に於て、巨額の金員が集められた。好意をもつて居た外國人達は、各地方で作られた多くの網と小舟とを買ひ取つて被害地へ送り、漁船と漁業の道具の缺乏を補給しようとしたのであつた。所がこれ等の寄與物は、全然異種の小舟や網を用ふることに馴れた北方地方の人々には、何等の役に立たないことが解つた。のみならず、更に其の後に判明したことであるが、各小村每に漁業の道具が異つてゐて、各自その獨得なものが必要であつたのである……。さてかくの如く漁民村落の生活に表はれた風俗習慣の差異は、他のいろいろな手工業や職業に於て、同樣に表はれてゐる。家の建方、屋根の葺方は、殆ど地方每に異つてゐる。農業園藝の方法、井戶の掘方、織物の織方、漆器陶器の作方、瓦の燒方、皆異つてゐる。殆ど主要な各町各村は、何等かの特產物を誇りとし、其の產出地の名稱を產物に冠した、又其の產物は他所の製品とは相違するものであつた……。祖先の祭祀が、かかる產業の地方的特殊の趣を、保存發展せしめたことは疑ふまでもない。手工の祖先卽ち組合の守護神は、自己の子孫または自己を禮拜する者共の作物が、その獨得の性質を維持するやうにと、希望してゐるのだと考へられたのである。個人の企圖が、組合の統制に依つて制肘されることはあつたが、地方的產物の特殊な趣は、その祭祀の相違に依つて、增進されたのであつた。家族の保守的な考へ若しくは組合の保守的な考へは、その地方の經驗から思ひつかれた小さい改良或は小さい修正は、これを默許したのであるが、多分迷信から來たのでもあらうか、變つた經驗に依る結果を受け入れることに就いては、非常に用心してこれを防いだのである。

 今尙ほ、日本人自身にとつて、自國內の旅行の少からぬ樂みは、地方の產物に見る奇妙な相違を硏究する樂みである、――新奇なもの、意外なもの、想像もしなかつたものを見つける喜びである。朝鮮或は支那から、もと借り來たつた古代の日本の藝術若しくは產業は、無數の地方的祭祀の影響を受けて、奇妙な形態を、保存し且つ發展させたと考へられる。 

2018/08/10

和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)

 

Yamadori

 

やまとり 鸐雞 山雉

山雞

     【和名夜万止利】

 

本綱雉居原野鸐居山林故得山名形似雉而小尾長三

四尺人多畜之樊中

鷮雉 似鸐而尾長五六尺者能走且鳴俗通呼爲鸐矣

鷮鸐共勇健自愛其尾不入叢林雨雪則岩伏木栖不敢

下食徃徃餓死南方人多挿其尾於冠其肉皆美于雉有

小毒傳云四足之美有麃兩足之美有鷮

鸐雉鷮雉【一類】鷩雉錦鷄【一類】此四種皆稱山雞【名同小異】

が小異がある〕。

万葉 あし曳の山鳥の尾のしたりをの長々し夜を独りかもねん

                  人丸

△按鸐形大於雉而尾長二三尺頭背尾皆赤羽端有白

 圈文頂與兩頰有紅毛如冠腹淡赤而毛端有白彪觜

 黑而末赤脚黑色其尾數二十六中最長者二俗呼曰

 引尾歌所謂絲埀尾是也有黑横紋白纎紋相双爲文

 亦如虎彪其彪凡十一二【有十三者爲珍】白彪中有黑點者爲

 常【無點鮮明者貴爲眞羽】爲箭羽以射邪魅或爲楊弓箭亦佳

 雌者黑色帶赤而腹畧白其尾短五寸許端白而頂無

 冠形色遥劣也深山中皆有之丹波之産形小於東北

 者出於薩州者極大而有尾三四尺者所謂鷮雉是矣

 肉脂多然有酸味劣於雉凡山雞性乖巧而難捕人緩

 則禹歩急則暴飛爲之終日費人力非鐵銃不可獲偶

 獲者養于樊中飼以芹性愛尾令尾不礙于物也相傳

 云鸐雌雄日則在一處夜則隔溪谷視有雌影寫于雄

 尾而啼謂之山鳥鏡【万葉集枕双紙良材集等載之】歌人爲口弄

六帖 晝はきて夜は別るゝ山鳥の影みる時そねはなかれける

 

 

やまどり 鸐雞〔(てきけい)〕

     山雉〔(さんち)〕

山雞

     【和名、「夜万止利」。】

 

「本綱」、雉は原野に居り、鸐は山林に居る。故に「山」の名を得〔(う)〕。形、雉に似て、小さく、尾の長さ、三、四尺あり。人、多く、之れを樊〔(かご)の〕中に畜〔(か)〕ふ。

鷮雉〔(きやうち)〕 鸐(やまどり)に似て、尾の長さ、五、六尺ある者、能く走り、且つ鳴く。俗、通〔(とほ)〕し呼んで、「鸐」と爲す。

鷮・鸐、共に、勇健にして、自〔(みづか)〕ら、其の尾を愛す。叢林に入らず、雨雪するときは、則ち、岩に伏し、木に栖(す)み、敢へて下り〔ては〕食はず、徃徃、餓死す。南方の人、多く、其の尾を冠〔(かんむ)〕りに挿す。其の肉、皆、雉より美なり。小毒、有り。傳へて云はく、『四足の美〔なる〕は麃〔(おほじか)〕に有り、兩足の美〔なる〕は鷮に有り』〔と〕。

鸐雉と鷮雉【一類。】、鷩雉〔(へつち)〕と錦鷄〔(きんけい)〕【一類】、此の四種、皆、「山雞(やまどり)」と稱す【名と同じくして小異〔あり〕。】

「万葉」

 あし曳きの山鳥の尾のしだりをの長々し夜を独りかもねん

                  人丸〔(ひとまろ)〕

△按ずるに、鸐、形、雉より大にして、尾の長さ、二、三尺。頭・背・尾、皆、赤く、羽の端に白〔き〕圈文〔(けんもん)〕有り。頂と兩頰とに、紅〔き〕毛、有り。冠(さか)のごとし。腹、淡赤にして、毛の端に白き彪〔(ふ)〕、有り。觜、黑くして、末、赤く、脚、黑色。其の尾の數、二十六〔の〕中、最も長き者、二つ、俗に呼んで「引尾〔(ひきを)〕」と曰ふ。歌に所謂〔(いはゆ)〕る、「絲埀尾(しだりを)」、是れなり。黑〔き〕横紋有り、白く纎(ほそ)き紋、相ひ双びて文(あや)を爲す。亦、虎の彪(ふ)のごとし。其の彪(ふ)、凡そ、十一、二【十三有る者、珍と爲す。】。白〔き〕彪の中に黑點有る者を常と爲す【點、無く、鮮明なる者、貴〔(とうと)〕し。「眞羽」と爲す。】。箭〔(や)〕の羽と爲して、以つて、邪魅を射る。或いは、楊弓の箭と爲〔すも〕亦、佳し。

雌は黑色に赤を帶びて、腹、畧〔(ほぼ)〕白く、其の尾、短く、五寸許〔り〕。端、白し。頂に冠(さか)無し。形・色、遥かに劣れり。深山の中、皆、之れ有り。丹波の産、形、東北の者より小さし。薩州より出〔(いづ)〕る者、極めて大きにして、尾、三、四尺の者、有り。所謂る「鷮雉」、是れならん。

肉脂、多し。然れども、酸〔(す)〕き味有りて、雉より劣れり。凡そ山雞の性、乖巧〔(りこう)〕にして捕へ難し。人、緩(ゆる)きときは、則ち、禹歩〔(うほ)〕す。急なるときは、則ち、暴(には)かに飛ぶ。之れが爲に、終日、人力を費す。鐵銃に非ざれば獲るべからず。偶〔(たまたま)〕獲る者、樊〔(かご)の〕中に養ひて、飼ふに芹(せり)を以てす。性、尾を愛す。尾をして物に礙〔(さ)〕へ〔ぎら〕ざらしむなり。相ひ傳へて云はく、『鸐は雌雄、日(〔ひ〕る)、則ち、一處に在り、夜、則ち、溪谷を隔〔(へだ)て〕て、雌の影、雄の尾に寫ること有るを視て、啼く。之れを「山鳥の鏡」と謂ふ』〔と〕【「万葉集」「枕双紙」「良材集」等に之れを載す。】。歌人、口弄(〔くち〕ずさみ)と爲す。

「六帖」 晝はきて夜は別るゝ山鳥の影みる時ぞねはなかれける

[やぶちゃん注:日本固有種であるヤマドリは、

キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans

ウスアカヤマドリ(薄赤山鳥)Syrmaticus soemmerringii subrufus

シコクヤマドリ(四国山鳥)Syrmaticus soemmerringii intermedius

アカヤマドリ(赤山鳥)Syrmaticus soemmerringii soemmerringii(基亜種)

コシジロヤマドリ(腰白山鳥)Syrmaticus soemmerringii ijimae

の五亜種がいる。ウィキの「ヤマドリ」によれば、『名前は有名だが、野外で出会うのは少し困難な鳥でもある』とし、全長はで約一メートル二十五センチメートル、翼長二十・五センチメートル。は約五十五センチメートル、翼長十九・二~二十二センチメートル。体重は九百グラム~一・七キログラム、七百グラム~一キログラム。尾はの方がかなり長く、尾長はで四十一・五~九十五・二センチメートルあるのに対し、は十六・四~二十・五センチメートルしかない。尾羽の数は十八~二十枚。の『羽色は極彩色のキジと異なり、金属光沢のある赤褐色を呈す。およそ頭部の色が濃く胴体から脚にかけて薄くなる傾向があるが、その程度は亜種により様々である。よく目立つ鱗状の斑がある。目立つ冠羽はないが、興奮すると頭頂の羽毛が逆立ち冠状に見えることもある。顔面にキジ同様赤い皮膚の裸出部がある。尾は相対的にキジよりも長く、黒、白、褐色の鮮やかな模様がある。脚には蹴爪を持つ』。の羽色は褐色で、キジのに似る。』主に標高千五百『メートル以下の山地にある森林や藪地に生息し、渓流の周辺にあるスギやヒノキからなる針葉樹林や下生えがシダ植物で繁茂した環境を好む』。『冬季には群れを形成する』。『食性は植物食傾向の強い雑食で』、『植物の葉、花、果実、種子、昆虫、クモ、甲殻類、陸棲の巻貝、ミミズなどを食べる』。は『鳴くことはまれだが、繁殖期になると』、は『翼を激しくはばたかせ、オートバイのエンジン音に似た非常に大きな音を出す(ドラミング、ほろ打ち)ことで縄張り宣言を』すると同時に、の『気を惹く。また、ドラミング(ほろ打ち)の多くは近づくものに対する威嚇であるともされる』。『木の根元などに窪みを掘り木の葉や枯れ草、羽毛を敷いた直径』二十センチメートル、深さ九センチメートル に『達する巣に』、四月から六月にかけて、六~十二個の『卵を産む』。『殻は淡黄褐色』。のみ『が抱卵』する。『婚姻形態は一夫多妻であると推定されていたが、実際は一夫一妻であることが』、『三重県津市の獣医師によって突き止められた』とある。

「通〔(とほ)〕し呼んで」通称で。

「鸐」と爲す。

「麃〔(おほじか)〕」東洋文庫訳では『なれじか』とルビする。漢和辞典「麃」には「おおしか」(大鹿)及び「なれしか」(馴鹿)と同義として示してある。「なれじか」なら、私には「麋」の方が漢文では馴染み深い。現行では狭義に「馴鹿」とは哺乳綱獣亜綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus を指すが、トナカイは北極圏周縁地域にしか棲息せず、中国にはいない。しかし、私はしばしば漢文の中で「麋」に出逢ってきた。その場合、私は大きな鹿という意味で認識してきたし、「本草綱目」のそれも、見たことも恐らくは食ったこともないトナカイを指しているなどとは逆立ちしても思えない。大鹿でよい。

「兩足」二脚類(鳥類)。

「鸐雉と鷮雉【一類。】、鷩雉と錦鷄【一類】」「一類」とは今風に言うなら、同じ仲間であるが、完全な同一種ではない亜種か、或いは同一種でありながら有意な変異が認められる個体変異と言った意味であろう・異なった「名」も持つの「と同じくして小異〔あり〕」と言っているからである。「鷩」は漢和辞典にヤマドリに似た鳥とあり、実は次の独立項が「錦雞」(=「錦鷄」)であり、その異名欄には「鷩雉」が挙げられてある。しかしながら、そのそれぞれの解説は、明らかに「鷩雉」と「錦雞」を個別に違ったコンセプトで間接してある(「本草綱目」準拠)。これらは無論、中国産の別(亜)種等にそれぞれ当て嵌めることが出来るように思われるが、それは中国のユーザーに任せる。

「あし曳きの山鳥の尾のしだりをの長々し夜を独りかもねん」「小倉百人一首」で柿本人麻呂の歌とされて人口に膾炙している、この歌は「万葉集」では詠み人知らずの一首であるから「人丸」とするのは誤りである。「万葉集」巻第十一の中の一首(二八〇二番)、

 思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を

という歌の左注に、「或る本の歌に曰はく」として、

 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜をひとりかも寢む

と補注する中に出るばかりなのであり、あくまで作者は未詳であり、しかも異形歌なのである。これが人麻呂の歌として所収されたのは「拾遺和歌集」で定家はそれに基づいて「百人一首」に選んだわけであり、古文の序詞の授業ではこれがまた必ず引かれるわけだが、私は教師になる以前、高校時代から、この異様に迂遠な序詞が甚だ嫌いであり、嫌悪の対象であった。『こんなことを捏ねくりませる余裕があるということは、独り寝も楽しかろう』と、皮肉の一つも投げたくなるぐらいなのである。従って、私は和歌嫌いだが、それでもこれが歌聖人麻呂の真作だと思ったことは一度もないのである。

「冠(さか)」既出の通り、鶏冠(とさか)の古語。

「彪〔(ふ)〕」「斑(ふ)」の積りで訓じたのであるが、「まだら」(斑)と訓じてもよいと考える。「彪」(音「ヒュウ」(歴史的仮名遣:ヒウ)。「ヒョウ」(同前:ヘウ)は実は慣用音である)は「まだら・鮮やかな虎皮模様・縞模様」の意である。

「箭〔(や)〕の羽と爲して、以つて、邪魅を射る」矢に矧(は)ぐ鳥の羽根は主に鷲・鷹・鳶・雉・山鳥などの翼の羽と尾羽が用いられ、プラグマティクには矢の飛行方向を安定させるために附けるものである。「護田鳥尾(うすべお)」・「中黒」・「切り斑(ふ)」など、まさにその斑紋の名で呼称される。矢には「破魔矢(はまや)」の文字通り、魔を払う意味があり、しかもそこではこの矢羽(やば)が(特に白い部分で)非常に目立つから、そこに邪悪な気や魔物を射抜き、破る呪力があると信じられたことは容易に想像がつく。

「楊弓」楊柳(ヤナギ)で作られた遊戯用の小弓を用いて的を当てる遊戯。ウィキの「楊弓」によれば、弓の長さは二尺八寸(約八十五センチメートル)、矢の長さは七寸から九寸二分(二十一センチメートルから二十八センチメートル弱)とされる。『中国の唐代で始まったとされ、後に日本にも伝わり、室町時代の公家社会では、「楊弓遊戯」として遊ばれた』が、『江戸時代に入ると、神社や盛り場などで、楊弓場(ようきゅうば)または矢場(やば)と呼ばれる楊弓の遊技場が設けられるようになった。楊弓場には矢拾女・矢場女(やばおんな)と呼ばれる、矢を拾ったり客の応対をしたりする女性がいたが、後に娼婦の役目を果たすようになった。また、的に的中させた時の景品も』、『時代が下るにつれて高価になっていったことから、天保の改革では、売春と賭博の拠点として取り締まりの対象となった。幕末から明治初期にかけて全盛期を迎えた』。『東京へは明治初年に浅草奥山(浅草寺の西側裏手一帯)に楊弓場が現れ、一般には「矢場」と呼ばれ広まった』。『店は競って美人の矢取り女(矢場女・矢拾い女)を置き、男たちの人気を集めた。矢取り女は射た矢を集めるのが仕事だが、客に体を密着させて射的方法を教えたり、矢を拾う際に足を見せたりして媚びを売った。戯れに矢拾い女の尻にわざと矢を当てる客もあり、それをうまくかわす女の姿がまた客を喜ばせた。店裏で売春もし、客の男たちは女の気を引くために足繁く通い、出費で身を滅ぼす者も出た。しかし、次第に値段の安い銘酒屋に』『人気を奪われ、明治中期以後』、『急速に衰退した』。『東京では関東大震災の影響もあって、昭和に入る頃には楊弓場・矢場は姿を消したと』される。

「丹波の産」ウィキの「ヤマドリ」にある分布域から見て、ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans の可能性が濃厚。別名をキタヤマドリ(北山鳥)と言うように、本州関西地区の北部名古屋の北附近に当たる北緯三十五度二十分以北、及び、島根県北部・兵庫県北部より北に分布する。『細く短い尾羽を持ち、全身の羽色は淡色』で、『腰の羽毛は羽縁が白く、肩羽や翼の羽縁も白い』とある。

「薩州より出〔(いづ)〕る者」同前により、分布域と尾が有意に長い点から見て、コシジロヤマドリ Syrmaticus soemmerringii ijimae と断定してよい。九州中南部(熊本県南部・宮崎県南部・鹿児島県)に分布するとされるが、現在、準絶滅危惧種。『太く長い尾羽を持ち、全身の羽色は濃色』で、『腰の羽衣が白く、肩羽や翼に白色斑が入らない』。

「乖巧〔(りこう)〕」「りこう」のルビは私が意味から附した。「悧巧・利巧」である。「乖」には「小賢しい」の意があり、「乖巧」は現代中国語(カタカナ音写「グゥアィ チィアォ」)でも「賢い・利口である・如才ない・頭の回転が早い」の意がある。

「人、緩(ゆる)きときは」人が知らん振りをして寛いで見せる時は。

「禹歩」たまには東洋文庫訳の注を引こう。原義は『古代の聖帝禹の步き方。まず左足を踏み出し、右足をその前へ踏み出す。次に後の左足を右足に引きつける。これで一歩。次いで右足を踏み出し』、『左足をその前へ、そして後の右足を左足に引きつける。以上を交互にくり返す步き方で』、道教に於いては、呪力を持つ歩き方とされる。ここは山鳥も、一見、のんびりと楽しむように歩いているさまであろうが、或いは、既にして道家的な呪術的結界を賢い山鳥は禹歩で形成しているのであると、匂わせているのかも知れない。

「急なるときは」人が山鳥に注意を向け、俄然、捕獲しようと動かんとした瞬間には。

「暴(には)かに飛ぶ」危険を事前に察知して俄かに飛び立ってしまう。

「終日、人力を費す」日がな一日、山鳥を捕えようとして、失敗に終わり、無駄に過ごすことになってしまう。

「鐵銃」鉄砲。

「芹(せり)」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica

「尾をして物に礙〔(さ)〕へ〔ぎら〕ざらしむなり」東洋文庫訳では、『尾が物に触れたり、さまたげられたりしないようにする』とある。

「日(〔ひ〕る)」昼間。

「夜、則ち、溪谷を隔〔(へだ)て〕て、雌の影、雄の尾に寫ること有るを視て、啼く。之れを「山鳥の鏡」と謂ふ」「万葉集」の巻第十四の「相聞」に(三四六八番)、

 山鳥の尾(を)ろの初麻(はつを)に鏡懸け唱(とな)ふべみこそ汝に寄(よ)そりけめ

という一首がある。「初麻」はその年に最初に穫(と)れた麻で拵えた緒。それで祭具である鏡を懸けるのである。「唱ふ」は「呪文を唱えて神を祀る」ことを指す。「べみ」は「べきこそ」で「~するに違いないので」。講談社文庫版の中西進氏の注によれば、この歌は『男の誘い歌』であり、この「唱ふ」までが、祝婚の祭事』(男の願望か)なのであり、その『祭儀を示す表現に下句』(私をそなたの傍に寄せるに違いない)『をついだ歌』であるとある(挿入した訳は私の勝手な解釈であるので注意されたい)。しかし、この山鳥はやはり長い麻緒を引き出すための序詞であって、ここで言っている「山鳥の鏡」という語句形成とは関係がない(ように私には見える)。「枕双紙」=「枕草子」では「鳥は」(「鳥尽くし」)の章段に、

   *

山鳥、友を戀ひて、鏡を見すればなぐさむらむ、心若う、いとあはれなり。谷隔てたるほどなど、心苦し。

   *

とある。石田穣二訳注「枕草子 上巻」(昭和五四(一九七九)年角川文庫刊)では、『以上の記載』は『歌学的な知識であろう』と脚注した上、補注で以下のように詳細に述べておられる。

   《引用開始》

『俊頼髄脳』は「山鳥のをろのはつ尾に鏡かけとなふべみこそなによそりけめ」(原歌、『万葉集』巻十四)の解として「この歌の鏡のこと、たしかに見えたることなし。昔、隣の国より山鳥を奉りて、鳴く声たへにして聞く者うれへを忘るといへり。みかど、これを得て喜び給ふにまたく鳴くことなし。女御のあまたおはしけるに、この鳥鳴かせたらむ女御を后には立てむと宣旨を下されたりけれは、思ひはかりおはしける女御の、友を離れて独りあれは鳴かぬなめりとて、明かなる鏡をこのつらに立てりければ、鏡を見て喜べるけしきにて鳴くことを得たり。尾をひろげて鏡のおもてに当てて喜び鳴く声まことにしげし。これを鳴かせ給へる女御、后に立ちて、かたはらの女御、ねたみそねみ給ふこと限りなしと言へり。是が心を取りてよめるとぞ」とある。続いて「足引の山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもぬる」(『拾遺集』巻十三、人麻呂)の解として、山鳥の雌雄、夜は山の尾を隔てて一所には臥さないものである云々の説が見える。『奥義抄』には、先の『万葉』の「鏡かけ」の歌の解として、同様の、女御の説話を挙げ、「或説には、山鳥は夜になれば、め鳥と山を隔ててべちべちにぬるに、暁になりて雄鳥の尾をもたげて見るにめ鳥のある所の鏡にて見ゆる也」という異説を挙げる。『袖中抄』にも諸説が列挙されている。

   《引用終了》

とあった。因みに辞書を見ると、「尾ろの鏡」(をろ(おろ)のかがみ)の語が載るものの、先の「万葉集」の当該歌から出た中世の歌語としながら、『語義未詳。異性への慕情のたとえに用いられる。山鳥の尾の鏡。はつおの鏡』などという半可通な解説が載るばかりである。石田氏の上記の記載が唯一納得出来る内容と言える。どうも、山鳥の雄は尾羽の中に鏡を隠し持っていると伝承があったらしいのである。

「良材集」「歌林良材集」。東洋文庫版「書名注」に、『二巻。室町中期。一条兼良撰。歌学・歌論の書』とある。また、東洋文庫版本文注に同書の巻五の『由緖ある歌、十九に「山鳥の尾の鏡の事」という項があり、そこに『萬葉集』の』『歌(三四六八)を引いて故事の説明をしている』とある。

「六帖」「古今和歌六帖」。平安時代に編纂された私撰和歌集。全六帖。成立時期・撰者ともに不明。ウィキの「古今和歌六帖によれば、『おおよその目安として、天禄から円融天皇の代の間』(九七〇年から九八四年の間)『に成立したといわれており、撰者については紀貫之とも、また兼明親王とも具平親王ともいわれるが、源順が撰者であるという説もある』。『およそ四千数百首の和歌を題別に収録する(伝本によって歌数に相違があり、重複して採られている和歌がある)』とある。

「晝はきて夜は別るゝ山鳥の影みる時ぞねはなかれける」これは「新古今和歌集」の巻第十五の「戀歌五」に詠み人知らずの一首として(一三七二番)、

 晝(ひる)はきて夜(よる)はわかるる山鳥(やまどり)の影みるときぞ音(ね)はなかれける

と採録されてある。]

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(47) 社會組織(Ⅲ)

 

 かくの如きものが日本社會の原始的組織であつた、それ故、この社會は言葉の眞の意味に於ては、決して完成された國家ではなかつたのである。皇帝の稱號も、その古い統治者には、正確に適用されるわけにはゆかない。日本の歷史家の説に反對して、これ等の事實を明らかにした最初の人は、ドイツの學者フロレンツ博士[やぶちゃん注:前回分に既出既注。]其の人であつた。博士は上古の『天皇』なるものは、單に一の氏の世襲的主長――この氏はすべての氏中の最も權力あるもので、他の多くの氏の上に勢力を振るつてゐた――に過ぎないことを、明らかにした『天皇』の權威は全國土には及ばなかつた。併し一國王でさへないにも拘らず――自分の族長たる大家族の集團以外に――この主長は三大特權を亨有して居た。第一には、共同の祖先たる神の前に、各氏を代表するの權利――これは高い神官の特權と權力とを包含してゐる。第二には、對外關係に於て、各氏を代表するの權利、換言せば、主長は全氏族の名の下に又宣戦媾和[やぶちゃん注:「講和」に同じい。]の權を有し、從つて最高の武力を行使し得たのである。第三の特權は、氏族間の爭議を解決する權利、一つの氏の主長たる職權の直系の繼續者が斷絕した場合に、氏族の主長を指名する權利、新しく氏を創立する權利、他氏族の安事を害するが如き行爲のあつた氏を癈するの權利等である。故にその人は、最高の大司祭でああり、最高の軍事司令官であり、最高の仲裁官であり、最高の奉行であった。併し未だ最高の國王ではなかつた、その權力は、氏族の同意ある場合に限り、行使されたのである。其の後この主長は、事實上の、或はそれ以上の大汗[やぶちゃん注:「だいハン」。]――僧たる支配者、神王、神の化神――となるに至つたのである。然るに、その領土の擴張するに連れて、本來その權威に伴なつて居た機能の一切を働かすことが、次第々々に困難になつて來た、それでこれ等機能を他に委託した結果、その世事に於ける統御權は、その宗敎的權力が增大するに拘らず、衰亡の悲運に向つたのであつた。

[やぶちゃん注:大汗“Genghis Khan”。Khan は、モンゴル族・ウイグル族・トルコ族などの遊牧民族の首長の称号である。]

 それ故、極古い日本社會は、普通吾々が用ふる所の封建制度ですらもなかつたので、それは最初は、防禦攻擊のために結合せる氏族――其の各〻氏族は、それぞれ獨自の宗敎を持つて居た氏族――の統一體であつた。が徐に、一の氏族團體が、富と數との力に依つて、其の氏族の祭祀を他の全ての氏族の上に及ばさしめ、其の世襲の主長を最高の大司祭たらしめるやうな主權を獲得するに至つた。日の御神(天照皇太神)の禮拜は、かくして種族的祭祀になつた、併し此の禮拜は他の氏族の祭祀の相對的重要性を減殺する事はなかつた――それは單に彼等に、共同の傳統を與へたのみであつた。その内に、一國家が作り上げられたが、氏族は社會の眞の單位として存在してゐた、而して明治の現代に至るまでその崩壞は完うされなかつた――少くとも立法の上からそれを成就し得たと云ふ程には。

 吾々は、氏族が眞に一人の元首の下に統一され、國家の祭祀が制定された時代を、日本の社會進化の第一期と呼んで然るべきだと思ふ。併しながら社會組織は德川將軍の時代に入る迄、其の發達の極致を見る事は能きなかつた[やぶちゃん注:「できなかつた」。]、――それ故完全に構成されたものとして、これを硏究するには自然近代に面を向けなければならない。しかも早くすでに紀元六七三年に登極したと一般に認められて居る天武天皇の御代に、この社會の將來落ち着くべき姿の漠然たる輪郭は出來て居たのである。此御代には、佛敎は宮廷に於て、大な勢力となつたらしい、と云ふのは天武天皇は事實上、菜食主義を人民にひられたのであるから――これ則ち理論上に於けると共に實際に於ける最高權力を證明したものである。これより以前にも社會は身分等級に配列されてゐた――上層階級の人々は、頭に著けた官職の冠の形と品質とに依つて、身分を明らかにしてゐた、併し天武天皇は、多くの新しい等級を設け、又支那の制度にならつて、全行政部を百八の部門に改造したのであった。この時日本の社會は、上流のものに關しては、殆ど政敎的形式を採り、それを德川將軍の時代迄續けさした。而して德川將軍はその根本的組織に、何等重要なる變化を加へることなく、此の制度を固にしたのである。吾々は日本に於ける社會進化の第一期の終りから、國民は實際上、二階級に別かたれて居たと考へて然るべきだと思ふ、則ち貴族と武家との階級を包含する支配階級と、其の他の一切の者を包含する生產階級との二つである。社會進化の第二期の主なる出來事は、武權の勃興であつて、それは皇室の宗敎の權力は其の儘にして置いたのであつたが、一切の行政的機關を簒奪するに至つた――。(此の問題に就いては、次の章に述べる事にする)結局此の武權に依つて結晶せしめられたる社會は、非常に複雜な構造となつた――されば外形上は、吾々が普通に了解する意味での大規模の封建制度に近似してゐるが、併し內實に於ては、これまであつたヨオロツパ封建制度とは全く異つたものである。其の差異は、特に日本の幾多の社會(村邑の如き)の宗敎的組織にあるので、この各社會(村邑若しくは組合)はその獨自の祭祀と族長的行政とを保留し、內實は根本的に各社會みなそれぞれ分離してゐたのである。國家の祭祀は、傳統に依る結合であつて、凝集性の上に立つた結合ではなかつた、則ち宗敎上の統一は少しもなかったのである。佛敎は、廣く普及されて居たのではあるが、此の事態に何等實際の變化をも與へはしなかつた。何となれば、この小社會が如何なる佛敎の信條を守つて居たとした處で、眞の社會上の結合は、氏神に依る結合であつたからである。故に德川將軍の治下に於て、日本の社會が十分の發達を遂げたとしても、なほその社會は武力の制に依つて結合された氏族竝びに小氏族の大集團たるに止まつたのである。

[やぶちゃん注:「紀元六七三年」天武天皇二年。

「登極」「とうきよく(とうきょく)」。「極」は最高の位の意で「即位」に同じい。]

 

 此の大集團の元首として、天皇、民族の生ける神が居ました――則ち司祭の皇帝にして最高の敎長であり、世界に於ける最古の王朝を代表して居た。

 天皇の次位に立つ者に、公卿卽ち古代の一貴族――天皇と神との後裔――がある。德川の時代には、百五十五家の此の種の高い貴族があつた。これ等の中の一家で、中臣と云ふのは最高の世襲的司祭の職を司つて居た、そして今でも尙ほ司つてゐる。中臣は天皇の下に在つて、祖先の祭祀を司る主長である。日本歷史の古代の大氏族の全部――藤原とか、平とか、源とか云ふ氏族――は何れも公卿であつた、其の後の歷史の大なる攝政或は將軍の大部分は、公卿か或は公卿の後裔かの何れかであつた。

[やぶちゃん注:「中臣」氏は後に大中臣氏となり、嫡流子孫は江戸時代には藤波家を称した。]

 公卿の次位に立つ者に、武家卽ち武人の階級があつた――別名を武夫(もののふ)、ますらを、武士(さむらい[やぶちゃん注:ママ。])(これ等の名前は、古文に據る)といふ。それ等はそれぞれ獨自の廣い政敎組織を持つてゐた。併し大抵の堤合、大名と武家の武人との相違は、收入と稱號との上に立つ身分の相違にあった。彼等はすべて一樣に、侍であり、大抵は皇別神別の後裔であつた。古代に在つては、武人階級の主領は、單に一時的の總指揮官として。天皇に依つて任命せられたが、後に至つてこれ等の總指揮官は、權力を橫奪して、自分の職權を世襲となし、ロオマで用ひたやうな意味の實際の Imperatores (大將軍)となつた。彼等の稱號たる將軍は、西歐の讀書界にも知られて居る。將軍は二百乃至三百の領域若しくは地方の領主――領主の權力と特權とは、その收入と位階とに從つて相違があつた――を統御して居た。德川幕府の治下に在つては、これ等の領主卽ち大名は、二百九十二を數へた。これより以前にあつては、各領主は各自の領土の上に最高の支配力を働かしたのであつた。ジエジユイトの修道師や、古いオランダ、イギリスの貿易商人等が、大名を呼んで『王』と云つたのも、少しも怪しむに足りない。大名の專制は、最初德川幕府の創飴者に依つて阻止された。家康は大名の權力を、甚だしく制限し、多少の例外はあつたが、大名に若し壓制と殘酷との罪が實證された場合、その大名の領土は沒收されることにした。家康は、大名の全部を四大階級に配置した。(一)三家或は御三家卽ち『三高家』(若し必要のある場合には、將軍の後繼者が此の家族中から選出される) (二)國主『地方の領主』 (三)外樣『外藩の領主』 (四)譜代『成功のあった家族』、これは家康に對する忠誠の報酬として、領主或は其の他のものに取り立てられた家族の名稱である。三家には、三氏族卽ち三家族があり、國主は十八家やり、外樣は八十六、譜代は百七十六あつた。これ等大名の中、最小なるものの祿高は米一萬石(石は時代に依つて、價値の上に大なる相違があるが、一萬石は約一萬磅[やぶちゃん注:ポンド。]と云って宜からう)、また最大な大名である加賀の領主の祿高は、百二萬七千石とされて居た。

[やぶちゃん注:「ロオマで用ひたやうな意味の實際の Imperatores (大將軍)」原文は“Imperatores”と斜体。「インペラトル」はラテン語で、アウグストゥス以降のローマ帝国の皇帝の称である。

「ジエジユイト」“the Jesuits”。ジェスイット(Jesuit)はイエズス会士のことで、ジェズイット教団、即ち、イエズス会の異称である。

「三高家」確かに本文は“Three Exalted Families”であるが、吉良家で知られるように、「高家」は、江戸幕府に於ける儀式や典礼を司る役職に就くことの出来る家格を持つ旗本・高家旗本の一般通称であり、高家職に就いている高家旗本を奥高家と呼び、その奥高家の中から有職故実や礼儀作法に精通している三名を選んで「高家肝煎」と呼んで、それを俗に「三高」とも呼称したから、日本語としては頗る紛らわしい。平井呈一氏は『「三つの高い家柄」』と訳しておられ、ここは言わずもがな、御三卿(ごさんきょう:田安徳川家(第八代将軍徳川吉宗次男)・一橋徳川家(吉宗四男)・清水徳川家(第九代将軍徳川家重次男)の三家)のことなのだから、平井氏の訳の方がよい。

「一萬石は約一萬磅」本書が刊行されたのは明治三七(一九〇四)年であるが、調べてみると、「日露戦争」中の英国国債の一九〇四年の発行額が一千二百万ポンドで、これは当時の邦貨換算だと、一億一千七百十六万円とあったから、当時の一万ポンドは、九万七千六百三十三円となり、これを現在の価値に換算すると、明治・大正期の百円が百万円とする判り易い説に従うなら、小泉八雲の換算の一万石は、九千七百六十三万三千三百三十三万円となる。但し、これは単純なレート換算で、Q&Aサイトを見る限りでは、一万石は、玄米卸価格では現在の三億七千五百万円相当とある。しかし、藩士の俸給で半分が費やされるとすると、領主の取り分は、一万石当たり七千五百万円となるともあるので、この数値は八雲の換算値に近くなるように思われ、面白い。

 大きな大名は、大小の家臣を持ってゐたが、これ等の家臣は、又各自訓練された侍卽ち戰士を抱へて居た。この外に、鄕士と呼ばれた武人兼農夫の特殊階級があつて、その内には小さい大名を凌ぐ程の特權と權力とを持つてゐたものもあつた。この鄕士は大抵獨立した地主であつて、一種の土民(ヨオマン)であった、併し鄕士の社會上の位置とイギリスの土民(ヨオマン)の位置とには幾多の相違點がある。

[やぶちゃん注:「鄕士」(がうし)江戸時代、農村に居住した武士。また、由緒ある旧家や名字帯刀を許された有力農民を指すこともある。後期には献金によって郷士となる者が多くなった。

「土民(ヨオマン)」原文は前者が“yeomanry”、後者が“yeomen”。小学館「日本大百科全書」の「ヨーマン」(Yeoman)を引いておく。『通常、「独立自営農民」と訳される、イギリスの中産農民。語源は、「若者」young man が縮まったものといわれる』十四~十五世紀には年収四十シリング以上を『有する自由土地保有農(フリーホルダー』freeholder『)をさした。彼らは州における議員選出権を与えられ、陪審員として地方行政に携わり、また百年戦争におけるイギリス軍の精鋭とたたえられた。この階層に、当時進行中であった封建制経済の解体に伴って上昇した謄本土地保有農(コピーホルダー』copyholder『)と一部の定期借地農(リースホルダー』leaseholder『)が加わり、ヨーマンはジェントリ』(gentry:大地主。元は gentleman の集合名詞)『と零細農の中間を占める広範な農民層をさすようになり』、十五『世紀中葉にはイングランド、ウェールズの土地の約』五分の一を『保有した。チューダー朝以降の絶対主義時代には、農業経営や毛織物マニュファクチュア経営で頭角を現す者が出る一方、エンクロージャー』enclosure『(囲い込み)の進展により土地を奪われて離村を余儀なくされる者も多く、ヨーマン階層には両極分解がみられた。ことにヨーマンの中核であった自由土地保有農の没落は』、十八『世紀における大地主の寡頭支配の強化とともにいっそう促進され』、十九『世紀の資本制農業の確立によってヨーマンは実質的に消滅した』とあった。]

 家康は武人階級を改造した外に、更に二三の新しい小階級を創設した。これ等の中で、比較的重要なのは、旗本と御家人とである。旗本と云ふ稱呼は『軍旗の捧持者』の意味で、其の數凡そ二千を算し、御家人は約五千を算した。これ等武人の二團體は、將軍の特殊な武力を構成してゐたもので、旗本は多くの收入を有する大きな家臣であり、御家人は所得の少い家臣で、單に將軍家の御用を直接に務めると云ふだけで、一般武士の上位に立つものであつたに過ぎない……。あらゆる階級の武士の總數は、約二百萬を算した。彼等は租を免ぜられ、二本の刀剱を佩用するの特權を有した。 

 

 以上述べたる所は、簡單な槪說ではあるが、國民を非常に嚴酷に支配した貴族と武人との階級の大體の制定である。一般庶民の大多數は三階級(姓階(カスト)と云ふ言葉が、永遠にインドで用ひられたその槪念と聯想されなかつたならば、吾々はこれを姓階と呼んで良いかも知れない)に分かたれてゐた。農夫、職人、商人がそれである。

 これ等三階級の中、農夫(百姓)が一番身分が高く、直接武士の次位になった。實際、武士の多くは、農夫をかねてゐたし、農夫の中には一般武士より遙かに高い位をもつてゐるのもあつたので――武人階級と農夫階級との間に境界線を引く事は困難である。恐らく百姓(農夫或は農民)と云ふ言葉を、單に農業に依つて生活し、土壞を耕作する者にして、皇別若しくは神別の後裔でないものに制限すべきであらう。彼等は皇別若しくは神別の後裔ではないのである……。何れにしても、農民の職業は名譽あるものと考へられてゐた。農夫の娘は、皇室の女中になることさへあつた――その職分の位置は極めて低いものでありはしたが。また農夫の內には、帶刀を許されたものもあつた。日本社會の上代に在つては、農夫と武士との間に、何等の區別もなかつたらしく思はれる。當時の身體の健な農夫は、何時でも戰の間に合ふやうに、戰士としての訓練が施されて居た――この狀態は古いスカンデイナヴイヤの社會と同樣である。特殊專門の武人階級が出來た後も、農夫と武士との區別は、日本の或る部分では曖昧であつた。例へば、薩摩、土佐に於ては、武士は現代迄、耕作に從事してゐた。又九州武士の優秀な者は、殆どすべて農夫であつて、その立派な身長や體力は、一般に田園の作業に從事した爲めとされて居る、日本の他の部分、たとへば出雲の如き所では、武人は耕作に從ふ事を禁じられ、森林地は所有することを許されて居たが、田畠を所有する事は許されなかっだ。併し處に依つては武士が他の職業――商賣とか或は手工だとか――に從事することは、嚴しく禁じられて居たが、耕作に從事することは許されて居た處もあつた……。いつの時代でも農業に精勵する事を墮落と考へた事は嘗てない。昔の天皇の中には、耕作に興味を寄せられ、親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]それを爲された方もあつた、赤坂離宮の庭内には、今も尙ほ小さい稻田が設けられてある。太古の宗敎的傳統に從ひ、御料地內で出來た稻の初穗は、第九番目の祭――【註】新嘗祭――の日に、收穫の供物として、天皇親らの御手に依つて刈り取られ、神聖なる祖先の御前に捧げられるのである。

註 此の祭日に、天皇御手づから、其年の最初の生絲と共に、稻の初穗を、天照皇大神にそなへさせ給ふのである。

[やぶちゃん注:「新嘗祭」(にひなめさい(にいなめさい))は天皇が新穀を天神地祇に供え、自らもそれを食する祭儀で、もとは古えの神人共食である。古くは陰暦十一月の二度目の卯の日に行われた。グレゴリオ暦が導入された明治六(一八七三)年(「改曆ノ布告」により明治五年十二月三日(陰暦)を明治六年一月一日とした)以降は、十一月二十三日と定めて祭日としていた。後、昭和二三(一九四八)年からは、同日が「勤労感謝の日」となっている。]

 

 農民の次位に、工匠階級(職人)があつて、鍛冶工、大工、織匠、陶工――要するに、凡ての手工業者がこの内に包含される。これ等の中で一番高いものは、さうありさうな事であるが、刀鍛冶である。刀鍛冶は、往々其階級を超えて、遙かに高位に上つた。中には守(かみ)と云ふ高い稱號を與へられたものもあり、領土若しくは地方の守と稱した。これは大名の稱號で大名が自らそれと同じ守の字を以て記したものである。されば自然彼等は、天皇とか公卿とか云ふ高貴の庇護を受けたのであつた。後鳥羽天皇が、御自身の鍛冶場に於て、親ら刀造りに精勵されたことは、よく知られて居る事である。現代に至る迄、刀身を鍛へる期間、宗敎上の奉祭が行はれたのである……。

 主なる手工業はみな、組合を持つてゐた、そして一般の例として、仕事は世襲的であつた。職人の祖先は大抵朝鮮人竝びに支那人であつたと想像するに足るに十分な歷史的根據がある。

 商業階級(あきんど)は、銀行家、商人、店主、諸種の貿易商人等を含み、公儀の上では最下級と認められてゐた。金儲けの仕事は、上流階級からは輕蔑されて居た。勞働から生ずる品物を買ひ、それを再び賣ることに依り、利益を上げるといふ一切の手段は、不名譽なこととされてゐた。武家なる貴族は、當然商賣階級を見下げてゐた。そして一般に、武人階級は、普通ないろいろの勞働に對して、あまり尊敬をもつて居なかつた。併し古代の日本に於ては、農夫と職人との職業は輕んぜられて居なくて、商賣のみが、不名譽と考へられて居たらしい――この差別は、一面から云へば道德的の事であつた。商人階級を、社會組織の最低位に追ひ下すことは、異樣な結果を產んだに違ひない。例へば、米屋は如何に富んでゐても、その家族が元來他の階級のものであつたといふのでなければ、大工、陶工、船大工――それ等を米屋は雇傭し得た位であるに拘らず――の下位に立つのであつた。其の後、商人(あきんど)は其の子孫以外の多くの他の人々を包含し、かくて實際上商人階級それ自身が救はれる事になつた。

 

 國民の四大階級――武士、農夫、工匠、商人(これ等を指示するに、漢字の四文字だけを取り、簡單に呼んで、士農工商と云ふ)の中で――後の三階級は、平民『庶民』の稱呼の下に、一括されてゐる。平民はすべて、武士に從屬し。武士は平民が不敬な事をした場合、斬り捨てる權利をもつて居た。併し實際は平民が眞の國民であつた。國民の富を生み出し、歲入を作り出し、租稅を負擔し、貴族武人僧侶を支持して居たものは實に平民であつた。僧侶に就いて言へば、佛法(神道も同樣で)の僧侶は別の階級を作つては居たが、その位は平民と竝ぶのでなく、武士と等しかつた。

 平民の三階級の外に、平民の最下級のものの以下にあつて、到底上進の望みのない大きな一階級があつたが、それ等のものは日本人としては扱はれず、また殆ど人間としてすら待遇されない程であつた。公儀上それ等のものは、種屬的に張里[やぶちゃん注:「ちやうり」。]と呼ばれ、動物を數へるに用られる特別な呼び方でもつて、一匹、二匹、三匹と數へられて居た。現今でさへも、一般にそれ等は人間(ひと)して取扱はれず、『物』(もの)とされて居た。イギリスの讀者(主として、ミツトフオド氏の今尙ほ比類なき名著作とされて居る『古代日本物語』の讀者にとつては)彼等は穢多として知られてゐる、併し彼等の稱呼は、其の職業に依つて、それぞれ異つてゐた。彼等は(インドで云ふ)非人であつた。日本の文人等は、明確な根據に基づいて、張里が日本民族に屬することを否定してゐる。これ等姓階以外の樣々な部族は、法律上認許されて居たその獨占の職業に從つて居り、その住んで居た地方の特權に從つて、或は井戶掘りであり、庭園の掃除人であり、或は藁細工人であり、草鞋作りでもあつた。その内の或る階級は、公儀で拷問人と死刑執行吏とに使用され、また或るものは、夜番に雇はれ、さらに又墓掘りに用ひられたのもあつた。併し穢多の大部分は、鞣皮[やぶちゃん注:「なめしがは」。]工と、鞣皮仕上げの仕事に從事するものであつた。動物を撲殺し其の皮を剝ぎ、各種の鞣皮を作り、靴や、鐙皮(あぶみがは)や太鼓の面皮を作る權利は彼等獨得のものであつた――太鼓の面皮作りは、國内十萬の社寺にそれが使用されて居るので、利得の多い職業であつた。穢多はまたその獨得の法律を有し、生殺與奪の權を行使する主長を戴いてゐた。彼等は常に町の近隣や郊外に住んでゐたが、常に自分達だけの別の一部落をなして居た。彼等の町に入るのは、其の商品を賣るためか、或は仕入をするために、限られて居たが、【註】履物の店以外には、いづれの店へ入る事も許されて居なかつた。唄をうたふのを職業とすることは許されて居たが、人家に立ち入ることは禁じられて居た――それ故彼等は單に街路や庭內のみで、音樂を奏し、唄をうたふことを得たのである。自家世襲の職業以外には、如何なる職業にも、從事することを嚴しく禁じられて居た。商業階級の最下等のものと穢多との間には、インドの傳統上の姓階制度から生じた區別の樣に、越える事の出來ない檣壁があつた、社會上の一偏見に依つて、穢多部落が他の日本の町から隔絶された有樣は、城壁や門に依つて、猶太人[やぶちゃん注:「ユダヤじん」。]の町が他のヨオロツパの町から隔離されて居たのに似てゐる。何等かの職掌を帶びて已むを得ない限り、日本人は一切、穢多部落に入つて行くことを、夢想だもしなかつた……。美しい小さな港なる美保の關で。私は穢多部落を見たが、それは、灣に沿つた三日月形の町の一端を成してゐた、美保の關は、たしかに日本に於ける最古の町の一であるから、それに附屬してをる穢多村も亦非常に古いに違ひない。今日と雖も尙ほ美保の關に住む日本の人は、其の部落が他の町に連結されてゐるに拘らず、其處を通つて行かうとはしない、子供も決して此の標もない境界を越える事なく、犬すらも、此の偏見線を越さうとはしない。それにも拘らず、部落は淸潔で建物もよく――庭園、浴場、竝びに獨得の寺院があつて、行き屆いた日本の村落を見るやうである。併し恐らく一千年の間、これ等の連續した兩社會の住民の間には、何等の友情もなかつた……。今日では誰れもこれ等社會外の人民の歷史に就いて知るものはなく、彼等の社會的破門の原因は永く忘れられて居た。

註 或る地方では今なほこれが掟となつて居る。

[やぶちゃん注:「張里」平井呈一氏もこの漢字を用いているが、通常は「長吏」が知られる。「日本国語大辞典」の「長吏」の意味の四番目に、『江戸時代、穢多(えた)の別称。穢多頭』(えたがしら)『弾左衛門の支配を受ける地方在住の穢多を在方(ざいかた)長吏といい、それを支配するものを長吏小頭』(こがしら)『と呼んだ』とある。但し、喜田貞吉長吏名称考(大正八(一九一九)年十月号『民族と歷史』)によれば(リンク先は「青空文庫」)、『長吏の名義は徂徠の「南留別志」に、張里の誤りなるべしとある。張里は馬医者の事だという。「燕石雑志」には、「鎌倉将軍の時に穢多の長を長吏と云ひけり」とあるも確かな出所を知らぬ。しかし鎌倉時代に既に長吏の称のあった事は、後に引く文書にも見えて確かな事だ。俗説にチョウリは町離』[やぶちゃん注:太字はリンク先では傍点「◦」。]『で、エタを賤んで民家と雑居せしめず、町を離れた所に置いたからだとも、或いは丁離で、エタ村は道中の丁数に数えないからだなどとの説もあるが、もとより採るに足らぬ』とし、『賤者に対してこの』「長吏」の『称の見えるのは、管見の及ぶ限りでは鎌倉時代寛元二年』(ユリウス暦一二四四年)『三月の、奈良坂・清水坂両所の非人争議の文書である』と記している。リンク先は短い論文であるが、一読の価値の十二分にある内容である。

「ミツトフオド氏の今尙ほ比類なき名著作とされて居る『古代日本物語』」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年:既出既注)が一八七一年に刊行した“Tales of Old Japan”。]

 固有の穢多の他に、非人――この言葉は『人間にあらざる者』と云ふ意味である――と呼ばれる最下級民があった。此の稱呼の下に包含せられる者は、職業的な、托鉢僧、流しで步く唄ひ人、俳優、或る種の醜業婦、世間から排斥された者等であつた。非人には、その特別な頭があり、またその仲間だけの法律があつた。日本の社會から排斥された者は、誰れでも非人に加はることが能きたが[やぶちゃん注:「できたが」。]、併しそれは世間普通の人に別かれを告げた事になるのであつた。政府も利口で、非人を迫害するには至らなかつた。非人の漂浪的生活は、それに依つていろいろな苦難を免れる道となつた。微罪の犯人や正常な生業を營むことのできない人々を、非人の群に驅りやることが能きる限り、それ等のものを牢獄に繫いだり、其の他の途を講ずることは不要であつた。矯正することのできない者、無賴漢、乞丐人[やぶちゃん注:「こつがいにん」或いは三字で「かたゐ」と読んでいるかも知れない。乞食と同じい。]等は一種の訓練の下に置かれるので、實際政府の認めない社會に消えてしまふのである。非人を斬ることは。殺人とは考へられないので、單に科料に處せられたのみであつた。

[やぶちゃん注:本篇の差別表現や認識等は、十全に批判的に読まれるよう、注意されたい。

2018/08/09

甲子夜話卷之五 4 吉原町の魂祭幷松飾の觸の事

 

5-4 吉原町の魂祭松飾の觸の事

今の吉原町は、昔は數寄屋河岸の御堀ばたに在しと云。其時、孟蘭盆すめば魂祭の供物器具等を御堀に棄るゆゑ、年々これを禁止するふれを、其所の名主より出したるが、後、今の大門通の邊に移り、遂に淺草の末に成りたり。然れども名主のふれは年々昔の如しと聞く。是も中古までのこと歟。今は此ふれ有らずと云ふ。今吉原町の風俗は、娼家茶屋の分、每年魂祭の日畢れば、其供物器具等を悉く薦に包み、其家々の前に出し、道にすゑ置き、其あとはかまはず。夫よりしては掃除の人何れにか取去ること也となり。娼婦の年老て此處に棲るが話りしと聞けり。昔數寄屋門の堀に棄しは、掃除人の爲る所なりしにや。又聞、今吉原町にて、正月には松飾の品々御堀に棄まじくと云ふれを、年々其名主より家主に申渡すとなれば、前のふれは中古斷たるならん。

■やぶちゃんの呟き

「昔は數寄屋河岸の御堀ばたに在し」不審。吉原遊廓は日本橋葺屋町続きの二町(約二百十八メートル)四方の区画に公許されたもので(現在の日本橋人形町二丁目と三丁目及び日本橋富沢町に跨がる附近)、海岸に近く、葦(よし)が茂った草原であったことが名の由来である。附近(グーグル・マップ・データ)であり、「数寄屋河岸」(現在の数寄屋橋附近)とは有意に位置が異なる。静山は「葺屋町」の「葺屋」を「数寄屋」と誤認したのではなかろうか? しかし、そうすると、後の「數寄屋門の堀に棄し」も都合が悪くなる。正位置からすれば、日本橋川に投げ捨てたことになろうか。

「棄る」「すつる」。

「大門通」「おほもんどほり」。吉原大門。

「中古」静山の現在時制の前の江戸中頃の謂い。

「棲る」「すめる」。

「話りし」「かたりし」。

「斷たる」「たえたる」。

譚海 卷之三 堂上の靑侍雜掌俸祿

 

堂上の靑侍雜掌俸祿

○堂上の靑侍雜掌給俸は米三石の定(さだめ)なり、因(よつ)て京都の方言に三石左(さんごくざ)と呼ぶ也。總て公家衆の御藏米とばかりいひて祿高なきは、玄米三十石づつ賜る事なり、淀舟を三十石と譯するも是等の謂(いひ)なる事なるべし。

[やぶちゃん注:「三石左」読みは、「武左(ぶざ)」(「武左衛門」の略で「田舎侍」を嘲っていう語で、江戸時代に特に遊里で「野暮な武士」を誹った語)から推定した。]

譚海 卷之三 近衞殿島津氏由緒

 

近衞殿島津氏由緒

○薩摩島津氏は近衞殿に由緖有(あり)、江戸往來の節はかならず伏見より入洛有、謁見せらるゝ事也。年々近衞殿より米三石づつを贈らるゝ事とぞ。

[やぶちゃん注:鹿児島大学附属図書館島津氏と近衛家の七百年解説に、文治元(一一八五)年に『惟宗(島津)忠久が鎌倉幕府より』、『島津荘の下司職に任命されて以来、島津氏と島津荘の本家であった近衛家とは、時に対立しながらも』、『深い縁で結ばれ』、『中世から近代まで』七百『年以上にわたって』『島津氏と近衛家との絆』は強く結ばれていたとあり、ウィキの「島津氏には、『戦国時代から新田流源氏を名乗るまでは、近衛家の庶流として「藤原朝臣○○」と署名していた』とあり、さらに『島津氏の定紋に使用された図案は、島津十文字(筆文字の十文字)、「丸に十の字」、「轡十字」 などが』よく知られるが、替紋としてある「島津牡丹」は『近衛家より拝領』したものともある。また島津家と近衛家の親密感は安土桃山時代の近衛信尹だ)(リンク先はウィキペディア)の事蹟などを読むと非常に良く判る。]

譚海 卷之三 五攝家五大夫

 

五攝家五大夫

〇五攝家と申(まうす)は、近・九・二・一・鷹司、此外に攝祿の家六人あり、淸華(せいぐわ)と云、攝關の職先(まづ)は五攝家の外に任ぜらるゝ事なし。若(もし)其家幼輩にして何れも其任に堪(たへ)ざる時は、淸華より此職を勤らるゝ也。夫(それ)よりしては五攝家に其仁ありといへども、淸華にて交々(こもごも)拜任あり。七淸華家一代に一度づつ轉任畢(をはり)て後ならでは、五攝家此職に任ぜらるゝ事あたはず、一度五攝家に復すれば、永く所職ありて他人にあたへず。夫故に五攝家みな幼弱なる時は、甚だ愁悶せらるゝ事也とぞ。

○近衞殿嫡子の御家は、後光嚴院の御時逐電ありて南朝へ出仕有(あり)。そののちは庶子にて相續ありしを、又胤嗣(いんし)絶(たえ)たるゆゑ、その御連枝の門跡にておわせしを、還俗にて家督つがせ玉ふ。其後又男子なくして女子へ後水尾帝の皇子聟に入(いら)せられ、今王孫にて相續也。其餘二條・一條・鷹司家ともに皇孫の相續なり。九條家ばかり鎌足公血脈(けちみやく)斷絶なく今に相續ゆゑ、其家にては正嫡と稱せらるゝとぞ。藤氏の御系圖をみれば、不比等は御兄弟にて御相續ありし樣に見えたり、往昔は加樣なる事も風俗にや、思量に捗(はか)らざる事也。

○近衞殿に五關白日記と云(いふ)もの有(あり)。日次記(ひなみき)などいへるも此中の書にして、みな歷史に傳ふべき實錄也。台德院殿御所望にて書寫被仰付(おほせつけられ)關東祕府に一部有(あり)、其後近衞家囘祿にて、右の眞本燒却せしかば、又關東へ近衞殿御願有(あり)、祕府の本に就(つき)て書寫功終り、再び近衞家に此書有(あり)とぞ。

○攝簶(せつろく)の家諸太夫十人づつ有(あり)、世官(せいくわん)にして其家司(けいし)を任ぜらる。俸祿は大坂にて賜(たまは)る御藏米(おくらまい)と云(いひ)、例に依(より)て俸祿は玉はるといへども、當今不用の官なれば實(じつ)に其人を置(おく)事なし、每家三四人の諸太夫ありて、十餘人の位官號を兼帶する也。但(ただし)堂上の諸太夫は正六位上なり。伶人及諸神官宮方の家司皆しかり、京官の諸太夫は從五位下に任ずる也。それゆゑに京官の諸太夫江戸へまいり御目見へのときは守(かみ)を稱せず、國名ばかり呼(よび)すての披露也。

[やぶちゃん注:標題に合わせて四条を纏めた。

「五攝家」藤原氏のうち、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家を指す。藤原氏は北家出身の良房・基経父子が摂政・関白となって以来、その子孫が相いついで摂政・関白となり、同時に氏長者を兼帯したが、このように摂政・関白を出す家を「摂関家」又は「摂家」と称した。ところが、鎌倉時代初頭、源頼朝の推挙により、兼実が兄基実の子基通に代わって摂政・氏長者となって、基通の近衛家に対し、九条家を興した。ここに摂関家は近衛と九条に分立したが、さらに兼実の孫道家は、その子教実・良実・実経を相いついで摂関につけたことから、良実が二条家を、実経が一条家を興し、教実の九条家と三家に分かれた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「五大夫」元は秦漢時代に行われていた二十等爵の第九位の官爵であったが、本邦では当初、五位以上の有位者を総じて「大夫」といったが、後に五位だけに用い、「たいふ」「たゆう」と呼んだ。最終条の「太夫」は同義として記している。

「淸華(せいぐわ)と云(いひ)」摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する公家の家格。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることが出来る。当初は七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)であったが、後に広幡・醍醐が加わり九家となった。さらに豊臣政権時代に五大老であった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成(せいがなり)しており、清華家と同等の扱いを受けた。ここは「云」は「云ふあるも」でないと文が繋がらないように思う

「若其家幼輩にして何れも其任に堪(たへ)ざる時は、淸華より此職を勤らるゝ也」とあるが、ウィキの「によれば、『江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者(摂家)に限られ、清華家の極官は事実上左大臣であった』とし、しかも『その左大臣の任官も江戸期には』十『例と少なく、在任期間も短い』とあるので、本文の「淸華にて交々(かはるがはる)拜任あり。七淸華家一代に一度づつ轉任畢(をはり)て後ならでは、五攝家此職に任ぜらるゝ事あたはず」というのは私には不審である。識者の御教授を乞う。

「其仁」その摂政・関白に就くべき人としての資格。

「近衞殿嫡子の御家は、後光嚴院の御時逐電ありて南朝へ出仕有」後光厳天皇の在位は観応三(一三五二)年から応安四(一三七一)年。ウィキの「近衛に拠れば、『南北朝時代の一時期には』近衛家は『両朝に分裂していた』とはある。

「女子へ後水尾帝の皇子聟に入(いら)せられ、今王孫にて相續也」後水尾天皇(在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)の皇子を調べてみたが、不詳。

「九條家ばかり鎌足公血脈斷絶なく今に相續ゆゑ、其家にては正嫡と稱せらるゝとぞ」ウィキの「九条家には『鎌倉時代は一条家が九条流の嫡流であったが、室町中期以降、九条家の地位が上昇し、一条家、九条家が九条流の嫡流とされた。江戸時代中期以降は松殿家の所領も併せて継承することとなり、最大の石高となった九条家が広大な屋敷を構え、九条流の嫡流であると主張した』とはある。

「近衞殿に五關白日記と云もの有」鎌倉時代の関白近衛家実の「猪隈(いのくま)関白記」や近衛兼経の「岡屋関白記」、近衛基平の「深心院(じんしんいん)関白記」などか。

「日次記」日記。

「台德院殿」徳川秀忠の法号。

「關東祕府」江戸城の貴重書を保管する書庫のことであろう。

「功終り」労力を尽くして事を成し遂げ。

「攝簶」関白の別称。

「世官」官職を世襲すること。

「家司」親王・内親王家及び職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌った。本来は四位・五位の者が成った。

「伶人」楽人。

「それゆゑに」よく判らぬが、有名無実の官であるから、武家が持っていた「~守」と差別化するためか。]

2018/08/08

和漢三才圖會第四十二 原禽類 白雉(しらきじ)

Sirakiji

しらきじ

白雉

 

△按白雉形狀不異而白色頰紅自有雌雄然不多近年

 間來於異國而養于樊中惟愛其美耳

 日本紀孝德天皇大化六年穴戸國【今云長門】獲白雉獻之

 是休祥也故以年號改白雉元年

高麗雉 來於朝鮮狀類雉而光彩最美麗頸有白環紋

 彼地亦以爲珍凡養雉正月餌蜥蜴則好交生卵使雞

 孚之捕其蜥蜴者繫蠅於髮𢳄地邊則蜥蜴出於穴

 

 

しらきじ

白雉

 

△按ずるに、白雉は形-狀〔(かたち)〕、異ならずして、白色。頰、紅なり。自〔(おのづか)〕ら雌雄有りて、然〔しか〕も、多からず。近年、間(まゝ)異國より來りて樊〔(かご)の〕中に養ふ。惟だ、其の美を愛するのみ。

「日本紀」孝德天皇大化六年に穴戸國【今、云ふ、長門。】より、白雉を獲り、之れを獻ず。是れ、休祥〔(きうしやう)〕なり。故に年號を以つて白雉元年に改む。

高麗雉 朝鮮より來たる。狀、雉に類して、光彩、最も美麗なり。頸、白き環(わ)の紋(もん)有り。彼の地にも亦、以つて珍と爲す。凡そ、雉を養ふに、正月、蜥蜴(とかげ)を餌(ゑ)とすれば、則ち、好く交(つる)みて卵を生ず。雞〔(にはとり)〕をして之れを孚〔(かへ)〕らしむ。其の蜥蜴を捕ふには、蠅を髮に繫(つな)ぎ、地邊を𢳄(ひきず)れば、則ち、蜥蜴、穴より出づ。

[やぶちゃん注:冒頭で結論を出してしまうと、私は前条の

キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor の亜種類のアルビノ(albino:白化個体)

或いは、当時、長崎を経由して舶来してきた、大陸産の、

キジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus のアルビノ

か、同様に齎された、本邦のキジに体型が酷似した、大陸産の、

キジ科 Phasianidae の仲間のアルビノ

と考える。無論、本邦産のキジのアルビノは稀ではある。が、ネット上で画像や動画を調べると、結構、本邦での彼らを見ることが出来るのである。さて、附記されている「高麗雉」(同種の多くの亜種には首に白い輪状の模様があるのが特徴であり、頬は赤い。但し、基準種Phasianus colchicus colchicusにはこの白い首輪状模様はない。自然分布はカスピ海地方から朝鮮半島にかけてと考えられているが、古くから狩猟鳥として親しまれたため、世界各地に人為的に移入されており、参照したウィキの「コウライキジ」によれば、『対馬と瓜島には、すでに中世に朝鮮半島から移入されていたとされる』とある)に着目する方もあろう。何で、こんなところに添えるんだろうという疑問から、良安の言う「白雉」はコウライキジなのじゃないかと思う方もいるのではないか? そうさ、コウライキジが「白雉」だとする見解を示しておられる方は実際に、いる。雉は流石に国鳥だ。白い雉についてマニアックに記しておられる人は、予想外に多いのであるが、例えば、個人ブログ「樹樹日記」の「白いキジと黒いキジを読まれたい。要点を記すと、「魏志倭人伝」の中に「この国には黒い雉がいる」という記述があり、これは『日本の鳥に関する最古の』対象が雉であることになること、そして「魏志倭人伝」の記者が『日本のキジを「黒い」と感じるのは、中国大陸のキジ(コウライキジ)と比べて』「白い」と感じたのであり、『コウライキジを見慣れている中国人が日本のキジを見て「黒い」と感じるのは不思議では』ない、『逆に言えば、日本のキジを見慣れている日本人にはコウライキジが白く見えるはず』だとされ、『「白雉」という元号は白化個体ではなく』、『コウライキジに由来するのではないか』、『朝鮮半島から対馬あたりにコウライキジが移入され、それが今の山口県の国司に渡り、さらに朝廷に献上されたのではない』か、という推論も示しておられるのである。私は最後の改元推理の部分には賛同出来ないものの、前半の解釈は共感出来る。しかし、これは「魏志倭人伝」の「黒雉」とその認識の内側に措定されてある「白雉」を考察するという条件下に於いての共感である。何故なら、もし、この良安の「白雉」が「コウライキジ」そのものなのだとするならば、良安が「白雉は形-狀〔(かたち)〕、異ならずして、白色。頰、紅なり」(言っておくと、「本草綱目」には「白雉」はないから、この項のメインの「白雉」のパートは良安のオリジナルなものである。さすれば、この謂いは良安が実際に「白雉」を実見して書いたものと考えるべきである)とは、絶対に書かないと信ずるからである。私は既に「和漢三才図会」の動物類を十三巻ばかり電子化注してきた。原文を基本、生でタイピングする作業の中で、良安の観察眼については、一般人よりはずっと理解しているつもりである。無論、時に彼の観察には杜撰なところも散見されるが、しかし、博物学者としての鋭さはしっかり持っている。その良安が、本邦のキジより、多色刷り図鑑により相応しい明るい多彩色の、白い首輪模様をしたコウライキジを見たとしても、彼は決して「白色。頰、紅なり」とは書かない。ちゃんと「高麗雉」のところにある通り、「雉に類して、光彩、最も美麗なり。頸、白き環(わ)の紋(もん)有り」と記すのである。則ち、この「白雉」の項を立てて、そこにその仲間っぽいものとして良安が「高麗雉」を追記したことを考えても、「白雉」と「高麗雉」は少なくとも良安の中では、やはり全然、別種として観察されたということなのである。ただ、良安はここで、「近年、間(まゝ)異國より來りて樊〔(かご)の〕[やぶちゃん注:「樊」には「鳥籠」の意がある。]中に養ふ。惟だ、其の美を愛するのみ」と言っておいて、後に「高麗雉」の項を添えたからには、この「白雉」がコウライキジのアルビノである可能性はかなり高くはなることは事実であるように思われはする。

 時に、本邦の「白雉」の記載はどうなのか? これも私には足元にも及ばぬような、フリークがいらっしゃった。Seikuziブログ不思議なことはあったほうがいいの「雉(ち)」である。これはもう必見の要保存で、実に古文献から二十例を調べ上げておられ、そこでの白雉の発見地は北九州(筑前・大宰府・壱岐等)で六例、畿内とその近郊(但馬・美作・丹波・山城等)で六例、武蔵国を中心とした東国信越(陸奥・越中・飛騨等)で六例とあって、ブログ主も驚いておられる通り、本邦内で均等に見出されてあるのである。東国信越は本邦産のキジのアルビノであると考えてよく、これは寧ろ、古えにあっても本邦の各所で白い雉は目撃されていた確かな証拠なのである。

『「日本紀」孝德天皇大化六年に穴戸國【今、云ふ、長門。】より、白雉を獲り、之れを獻ず。是れ、休祥なり。故に年號を以つて白雉元年に改む』西暦六五〇年。「日本書紀」の原文は、個人サイトみかえりの里 In ほっちゃの「白雉伝承についてを参照されたい。「休祥」(きゅうしょう)の「休」は「目出度い」の意で「よい前兆・吉兆」の意。

𢳄」「旋」の異体字。「長く引きずる」の意。]

諸國里人談卷之五 蘭奢待幷紅塵

 

    ○蘭奢待(らんじやたい)紅塵(こうじん)

南都東大寺、敕符の藏に納まる【号「正念院」。】。始は「黃熟香(わうじゆくかう)」といふ。聖武帝、「蘭奢待」と改めさせ給ふ。此三字に、東大寺の文字(もじ)、隱れり。此量(おもさ)三貫三百五十目〔め〕[やぶちゃん注:十二キロ五百六十二グラム半。]あり。紅塵は量四貫六百目[やぶちゃん注:十七キロ四百三十七グラム半。]ありと云〔いふ〕。天子、御代に一度、これをきらさせ給ふといへり。

 

Ranjyatai

 

[やぶちゃん注:ここに「蘭奢待」及び「紅塵」の挿絵が入る(稲田大学古典総合データベースの①のものはこ)。なお、明度の高い③にも、この挿絵に限って書写されているのでリンクさせておく。③は非常に綺麗で見易くていいのだが、「紅塵」の右縦の長さが、「一尺八寸」となっている(全体のスケールから明らかに誤写)ので、以下の挿絵のキャプション・データは①を用いて翻刻した(本文同様、一部に濁典を添えた)。加えて、実は国立国会図書館デジタルコレクションにも本「諸國里人談」全五巻がある(寛保三年版であるが、最後に手書き(入手?)のクレジットとして『安永七年』(一七七八年)『秋七月上旬』とあって、思うに早稲田大学図書館古典総合データベースの私が校合本とした上記①と同じ版と思われる)。国立国会図書館は吉川弘文館や早稲田大学図書館とは異なり、画像の使用が全くの自由(引用元を明記すれば、使用許諾許可を得る必要がない。海外サイトの文化的なパブリック・ドメインのテクスト及び画像はその多くがその立場を採っており、これこそが真に学術的配慮、智のユビキタス ubiquitous であると私は思う)であればこそ、ここでは俄然、その国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して掲げることとした。]

   *   *

蘭奢待(らんじやたい)

量(おもさ)

三貫三百五十目

[やぶちゃん注:以下、蘭奢待の木片本体の左中央やや下部の穴の右横に。]

[やぶちゃん注:後注で出るが、これは香木としての質に劣る箇所を鑿(のみ)で人為的に刳り抜いた跡である。]

[やぶちゃん注:以下、木片の長い方の長さ。文字横転。]

長五尺二寸五分

[やぶちゃん注:約二メートル十三センチ六ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、木片左に。]

木口周〔めぐり〕四尺二寸

[やぶちゃん注:一メートル二十七センチ三ミリ弱。]

   *

紅塵(こうじん)

量(おもさ)

四貫六百五十目

[やぶちゃん注:本文と異なる。十七キロ四百三十七グラム半。]

[やぶちゃん注:以下、上辺の右の突出部分のみの長さ。文字横転。横上部は中央少し左手が垂直(横水平)にカットされて左端は長方形に無くなっており、短くなっている。因みに、上辺の左のカットされた部分の長さは「一尺五分」(三十一センチ八ミリ)となる。]

二尺四寸五分

[やぶちゃん注:約七十四センチ二ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、下辺の全長。文字横転。]

三尺五寸

[やぶちゃん注:約一メートル六ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、右手縦の長さ。]

一尺八分

[やぶちゃん注:約三十センチ三ミリ。]

[やぶちゃん注:以下、左手縦の長さ。]

九寸一分

[やぶちゃん注:約二十七センチ六ミリ。]

   *

元亀三年三月廿八日、織田信長公、奏(そう)を經て、先格(せんかく)にまかせて、一寸八分[やぶちゃん注:約五センチ四ミリ半。]を切らしむ。勅使、日野大納言資定卿・飛鳥井大納言雅教、奉行、佐久間右衞尉[やぶちゃん注:ママ。]・菅屋(すがのや)九右衞門・樽九郞左衞門。蜂谷兵庫頭・武井夕庵〔せきあん〕・松井友閑法印、以上六人也。

慶長七年六月十一日に切〔きら〕しめ給ふ。勅使、觀修寺殿(くわんじゆうじどの)・廣橋殿・柳原殿也。奉行は本多(ほんだ)上野介正純。

[やぶちゃん注:「蘭奢待(らんじやたい)」「蘭麝待」とも書く。前の「奇南」(きゃら:伽羅)の私の注のウィキの「沈香」にも出たが、ここはウィキの「蘭奢待」を引いておく。『東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる』。『正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に』「東」(「蘭」の(もんがまえ)の内)・「大」(「奢」の最初の三画分)・「寺」(「待」の(つくり))『の名を隠した雅名である』。『その香は「古めきしずか」と言われる。紅沈香と並び、権力者にとって非常に重宝された』。重さ十一・六キログラムの『錐形の香の原木』(本文の掲げる数値(換算)は十二キロ五百六十二グラム半であるから、江戸時代からさらに乾燥が進んだものか、一キロ近く減っている。というより、長さは現行が一メートル五十六センチしかなく、本文の換算値約二メートル十三センチ六ミリからは五十七センチ余りも縮小しているから、これは沾涼の数値の誤りでないとすれば、近世後期から近代に於いて長さが有意に減ってしまうほど削り取られたということか?)『成分からは伽羅に分類される』(「奇南」の私の注を参照されたい)。『樹脂化しておらず』、『香としての質に劣る中心部は鑿(ノミ)で削られ』、『中空になっている(自然に朽ちた洞ではない)。この種の加工は』九〇〇年頃(昌泰三年/中国では唐代)に『始まったので、それ以降の時代のものと推測されている』。『東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木。日本には聖武天皇の代』(七二四年~七四九年)『に中国から渡来したと伝わるが、実際の渡来は』十『世紀以降とする説が有力である』(一説には「日本書紀」「や聖徳太子伝暦」の推古天皇三(五九五年)という説もある)』。『奈良市の正倉院の中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている』。『徳川家康も、切り取ったという説があったが』、慶長七(一六〇二)年六月十日、『東大寺に奉行の本多正純と大久保長安を派遣して正倉院宝庫の調査を実施』させた際、『蘭奢待の現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき』、『切り取りは行わなかった』(「当代記」の同日の条)。なお、同八年二月二十五日には宝庫を『開封して修理が行われている』。二〇〇六年一月、『大阪大学の米田該典(よねだかいすけ。准教授、薬史学)の調査により、合わせて』三十八『か所の切り取り跡があることが判明している。切り口の濃淡から、切り取られた時代にかなりの幅があり、同じ場所から切り取られることもあるため、これまで』五十『回以上は切り取られたと推定され、前記の権力者以外にも』、『採取された現地の人や日本への移送時に手にした人たち、管理していた東大寺の関係者などによって切り取られたものと推測され』ているとある。沾涼は本文で、『天子、御代に一度、これをきらさせ給ふといへり』とあるが、そんなことが毎回続いていたら、とっくの昔に影も形も消えて亡くなっているはずだ。寧ろ、家康の条に出る、「切り取った(或いはそれを命じた)者は不幸になる」という確信犯的蜚語が蘭奢待をかくも守ったのであろう。

「紅塵(こうじん)」正倉院所蔵の香木で、現行では重さは約十八キログラム(本文記載と比してこちらは変わっていない。或いはやや増加しているのは、逆に湿気などを含んで膨張したか、虫食いによる変成等が疑われるのかも知れぬ)長さ約一メートル(変化なし)。正式には「全桟香」「全浅香」と呼ばれ(「桟」は香木の樹脂の結び方を指すらしい)、香道ではその色から「紅塵」「紅沈」と呼んだものが一般化している。蘭奢待と並ぶ天下第一の名香とされる。蘭奢待・紅塵の写真も添えられたkazz921氏のサイト「香筵雅遊」の『「正倉院展の香」見聞録』に両香木の現状況や現知見が詳しく載っているので是非見られたいが、それによると、『背面は、白太(樹脂の結んでいない部分)と見られ』、一ミリメートル『程度の小穴が無数にあいている。(虫が原因か?)』とあり、また、『表面には』斉衡三(八五六)年三月二十四日に行われた『正倉院蔵物検査で書かれた墨書があ』るとしつつ、この『全浅香は、国家珍宝帳に記載された香木だが、当初から列挙されたのではなく、後』の天平勝宝四(七五二)年『に「浅香一村」を書き足した形跡があるので、伝来年がはっきりしている』もので、『東大寺(大仏)に香薬として献上されているが、巨木なので珍奇なものとして保存されたのではと思われる』とされ、『白太の部分を残したまま保存しているということは、黄熟香よりも古い年代の香木であることは間違いない』とある。また、『黄熟香と全浅香は、化学的には極めて似ているが、樹脂や精油成分の沈積の程度が大きく異なるので、全く別種の香のように見えてしまう』と評しておられる。また『正倉院には、長さ』五『センチ程度の沈香の断片から、今にも焚いて聞けそうな小片まで、大量の沈香が保存されている。これらの香木は、宝物に香りをつけたり、防虫などの効果を期待して入れたものかもしれない』とされ、『東大寺は、天皇の勅命により民衆に施薬をする寺であったことから、数々の薬の原料が出入りしている。沈香は、「香薬」の材料として使われ、精神安定、健胃、強壮、利尿、解毒の効能があるとされていた』ともある。

「敕符の藏」「正念院」「正倉院」の誤り(「倉」の崩し字を彫り師が誤読した可能性があるか。にしても書写版の③も訂していない)。奈良時代の官庁や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。ウィキの「正倉院」によれば、『「正倉」とは、元来』、『「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものだった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する正倉があり、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」と称した。南都七大寺にはそれぞれに正倉院が存在したが、歳月の経過で廃絶して』、『東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったため、「正倉院」は東大寺に所在する正倉院宝庫を指す固有名詞と化した』とあり、一方、聖武天皇が大仏造立の詔を発したのは天平一五(七四三)年、実際の大仏鋳造が始まったのは天平十九年で、まさにその頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと推定されているから、「敕符の藏」(勅命勅許を与えられている東大寺の倉)というのは腑に落ちる謂いと思う。

「元亀三年」一五七二年。

「奏(そう)を經て」天皇への御伺を経て。

「先格(せんかく)にまかせて」先例の式に従って。この切除の分量、長さ「一寸八分」(約五センチ四ミリ半)というのが、切除の大きさの定格(上限)であったと考えた方が自然であろう。

「日野大納言資定卿」不詳。

「飛鳥井大納言雅教」飛鳥井雅春(永正一七(一五二〇)年~文禄三(一五九四)年)の初名(この後の天正一〇(一五八二)年に雅春と改名)。但し、彼が権大納言となるのは後の天正三(一五七五)年で、当時はまだ「権中納言」である。

「佐久間右衞尉」「右衞門尉」の脱字。織田氏家臣団筆頭家老佐久間信盛(大永八・享禄元年(一五二八)年?~天正一〇(一五八二)年)。天正八(一五八〇)年に信長に追放され、高野山に入って出家した。

「菅屋(すがのや)九右衞門」織田信長の側近菅屋長頼(すがやながより ?~天正一〇(一五八二)年)。ウィキの「菅屋長頼によれば、「本能寺の変」の際には『市中に宿を取っており、本能寺に駆けつけたものの、明智勢の前に本能寺に入ることは出来ず、妙覚寺の織田信忠の元に駆けつけて、二条御所で信忠に殉じた』とある。

「樽九郞左衞門」不詳。

「蜂谷兵庫頭」蜂屋頼隆(天文三(一五三四)年~天正一七(一五八九)年)。織田信長・豊臣秀吉に従い、羽柴の姓も授けられ、「羽柴敦賀侍従」と呼ばれた。子がなく、断絶した。

「武井夕庵」(生没年未詳)当初は美濃国守護土岐氏、次いで美濃斎藤氏の道三・義龍・龍興の三代にわたって家臣(右筆)として近侍し、後に織田信長に重用され、外交面でも活躍した。

「松井友閑法印」元は尾張清州の町人とされる。織田信長側近の吏僚として活躍し,右筆や堺の代官を歴任、後に宮内卿法印に任ぜられた。信長の名物茶器の収集も担当した。信長の死後は豊臣秀吉に従って、堺政所となるも、罷免されている。

「慶長七年」一六〇二年。

「切〔きら〕しめ給ふ」主語は豊臣秀吉。

「觀修寺殿」当時の勧修寺家(かじゅうじけ/かんじゅじけ)当主なら、勧修寺晴豊(はるとよ/はれとよ 天文一三(一五四四)年~慶長七年十二月八日(一六〇三年一月十九日))。

「廣橋殿」当時の藤原北家日野流広橋家当主。広橋総光か。

「柳原殿」当時の藤原北家日野家分流の柳原家(やなぎわらけ:「やなぎはら」の読みは慣用読み)当主。柳原資俊かと思われるが、彼はこの慶長七年没(日付不詳)なので断定は出来ない

「本多上野介正純」(永禄八(一五六五)年~寛永一四(一六三七)年)。後、徳川家康側近として次期秀忠まで二代に亙って、後の大老或いは老中に相当する役割を果たしたが、元和八(一六二二)年に失脚、幽閉され、そのまま配所出羽国横手で亡くなった。]

2018/08/07

和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)

Kiji

きじ    雉【音 】 華蟲【尚書】

きゞす   䟽趾【曲禮】

      迦頻闍羅【梵書】

野鷄

ヱ、キイ 【和名木々須

      一云木之】

本綱雉形大如雞而斑色繡翼雄者文采而尾長雌者文

暗而尾短其性好闘其名曰鷕【音杳】其交不再其卵褐色將

卵時雌避其雄而潜伏之否則雄食其卵也月令仲冬雉

始雊謂陽動則雉鳴而勾其頸也其飛如矢一徃而墜故

字從矢雉屬離火雞屬巽木故煑之雞冠變雉冠紅也

雉肉【酸微寒】 食品之貴然有小毒不可常食損多益少春

夏不可食爲其食蟲蟻及與蛇交變化有毒也【胡桃木耳菌葱蕎麥

不可合食】月令云十月雉入大水爲蜃【蜃者大蛤】埤雅云蛇交雉則

生蜃【蜃者蛟屬】或云正月蛇與雉交生卵遇雷入土數丈爲蛇

形經二三百年成蛟飛騰若卵不入土乃爲雉耳【蓋蜃同字而大

異物也詳各其條下】

夫木 ききす鳴くあしたの原を過行はさわらひわたりほろろうつなり

                  經家

按雉卽野鷄處處多有之東北産最佳雄者頂有雙角

 毛頭頸胸腹翠黑色有光頰眼紅觜蒼而尖背翮彩斑

 色腰有長緑毛尾長有文采翅短而蒼黑斑脛掌亦似

 雞而勁雌者黃赤黑斑而文暗尾短

 春月伏卵於叢中雄不離去其近邊狐狸狼犬或人至

 則頻翥鳴此愛情之所然也本綱所謂雄食其卵者與

 此相反矣又春月山人燒野火既欲至伏卵處時雌先

 張翅而仰臥于地雄來啣數卵置雌之翅之内而後雄

 啣雌之觜急引退以避火是雉之性自然之智也雉欲

 潜人則藏首見尾却爲人易獲焉是亦自然之愚也蛇

 與雉欲相食之而雉啄蛇頭蛇却卷雉也數匝雉畧張

 翅見纏而急翥鷕則蛇身斷落而後悉啄之也弱雉者

 乃隨其纏而窄翅故不得翥而終死焉蛇悉食之也蓋

 蛇交雉生蛟龍之説雖出於諸書難信未知是非疑着

 蛇卷雉以爲交乎

 理學類篇云植雉尾於車上以候雨晴天將雨則先埀

 向下終晴便直立

きじ    雉【音[やぶちゃん注:欠字。]】

きゞす   華蟲【「尚書」。】

      䟽趾〔(そし)〕【「曲禮」。】

      迦頻闍羅〔(かびんじやら)〕【梵書。】

野鷄

ヱ、キイ 【和名、「木々須」。

      一つに「木之」とも云ふ。】

「本綱」、雉の形・大いさ、雞〔(にはとり)〕のごとくして、斑色〔(まだらいろ)〕、繡翼〔(しうよく)〕。雄は文采〔(もんさい)〕ありて、尾、長く、雌は、文〔(もん)〕、暗にして、尾、短く、〔短し。〕其の性、好んで闘ふ。其れを名づけて「鷕〔(ほろろうつ)〕」【音、「杳〔(エウ)〕」。】曰〔(い)〕ふ。其れ、交(つる)び、再たびせず。其の卵、褐色。將に卵をする時、雌、其の雄を避(さ)けて潜かに之れを伏す。否(しからざ)るときは、則ち、雄、其の卵を食ふなり。「月令〔(がつりやう)〕」に、『仲冬、雉、始めて雊(さか)る』〔と〕。謂〔(いはゆ)〕る陽動するときは、則ち、雉、鳴きて其の頸を勾〔(まぐ)〕るなり。其れ、飛ぶこと、矢のごとく、一たび徃〔(ゆき)〕て墜つ。故に、字、「矢」に從ふ。雉は〔(こん)〕・離・火に屬し、雞は巽〔(そん)〕・木に屬す。故に、之れを煑る〔ときは〕、雞は、冠〔(さか)〕、變じ、雉、冠、紅(あか)し。

雉肉【酸、微寒。】 食品の貴なり。然れども、小毒、有り、常に〔は〕食ふべからず。損、多く、益、少なし。春・夏は食すべからず。其れ、蟲・蟻を食ひ、及び、蛇と交(つる)み變化して、毒有るが爲めなり。【胡桃(くるみ)・木耳(きくらげ)・菌(くさびら)・葱・蕎麥、合〔(あ)〕ひ食すべからず。】「月令」に云はく、『十月、雉、大水に入り、蜃〔(シン)〕と爲る』〔と〕【蜃とは大蛤〔(おほはまぐり)なり〕。】。「埤雅〔(ひが)〕」に云はく、『蛇と雉と交むときは、則ち、蜃を生ず』〔と〕【〔この〕蜃とは蛟〔(みづち)〕の屬〔なり〕。】。或いは云はく、『正月、蛇と雉と、交みて卵を生ず。雷に遇ひて、土に入るること、數丈、蛇の形と爲り、二、三百年を經て、蛟(みづち)と成り、飛び騰(あが)る。若〔(も)〕し、卵、土に入らざれば、乃〔(すなは)ち〕、雉と爲るのみ【蓋し、「蜃」、同字〔なれども〕、大きに異なる物なり。各々、其の條下に詳かなり。】。

「夫木」

 きぎす鳴くあしたの原を過ぎ行けばさわらびわたりほろろうつなり

                  經家

ずるに、雉、卽ち、野鷄〔(やけい)〕なり。處處、多く之れ有り。東北産、最も佳なり。雄は頂きに雙〔(ならび)〕たる角毛、有り。頭・頸・胸・腹、翠黑(みどり〔ぐろ〕)〔き〕色〔にして〕、光り有り。頰・眼、紅〔(くれな)〕い[やぶちゃん注:ママ。]に、觜、蒼くして尖り、背の翮(はね)、彩斑(いろどりまだら)〔の〕色〔たり〕。腰に長き緑毛有り。尾、長くして文采〔(もんさい)〕有り。翅(つばさ)、短くして蒼黑斑〔(あをぐろまだら)〕なり。脛・掌も亦、雞に似て、勁(つよ)し。雌は黃赤黑斑〔(わうせきくろまだら)〕にして、文〔(もん)〕、暗く、尾、短し。

 春月、卵を叢中に伏せ、雄、其の近邊を離れ去らずして、狐・狸・狼・犬或(もしく)は人、至るときは、則ち、頻りに翥(はう)つて、鳴く。此れ、愛情の然〔(しか)〕る所なり。「本綱」に所謂(いふところ)の、雄、其の卵を食すといふは、此れと相ひ反す。又、春月、山人、野を燒く火、既に卵を伏す處に至らんと欲(す)る時、雌、先づ、翅を張りて仰(あふぎ)て地に臥す。雄、來つて、數卵を啣(ふく)み、雌の翅の内に置きて、而〔る〕後、雄、雌の觜を啣〔(くは)〕へ、急に引き退〔(しりぞ)〕き、以つて火を避く。是れ、雉の性、「自然の智」なり。雉、人に潜〔(かく)れ〕んと欲〔(す)〕るときは、則ち、首を藏〔(かく)〕して、尾を見〔(あら)〕はす。却つて、人の爲めに、獲(と)られ易〔(やす)〕からしむ。是れ亦、「自然の愚」なり。蛇と雉と、之れを相ひ食はんと欲すれば、雉、蛇の頭〔かうべ〕を啄(つゝ)く。蛇、却つて雉を卷くことや、數匝〔(すうそう)〕、雉、畧(ち)と翅を張りて纏(まと)はり見る。而して、急に翥鷕(ほろゝう)つときは、則ち、蛇の身、斷落〔(だんらく)〕す。而して後〔(のち)〕、悉く、之れを啄むなり。弱(わか)き雉は、乃〔(すなは)〕ち、其の纏ふ隨ひて翅を窄(すぼ)める故、翥(ほろう)つことを得ず、終〔(つひ)〕に死す。蛇、悉く、之れを食〔(は)〕むなり。蓋し、蛇、雉に交(つる)みて蛟龍〔(かうりう)〕生ずるの説、諸書に出づると雖も、信じ難し。未だ是非を知ら〔ざれども〕、是れ、疑ふらくは、蛇、雉を卷〔(ま)き〕て着きて、以つて、交(つる)むと爲〔(す)〕るか。

 「理學類篇」に云はく、『雉の尾を車の上に植(た)てゝ、以つて雨晴を候〔(うらな)〕ふ。天、將に雨〔(あめふ)〕らんとす。則ち、先(さ)き埀れて、下に向ふ。終〔(つひ)〕晴るるときは、便〔(すなは)ち〕、直〔(まつす)〕ぐに立つ。』〔と〕。

[やぶちゃん注:キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor Vieillot, 1825 であるが(現在、学名を Phasianus colchicus とする主張もある)、ウィキの「キジ」によれば、本邦には、

Phasianus versicolor versicolor Vieillot, 1825 キュウシュウキジ(分布(以下同じ):本州南西部・九州・五島列島)

Phasianus versicolor robustipes Kuroda, 1919 キジ(本州北部・佐渡島)

Phasianus versicolor tanensis Kuroda, 1919 シマキジ(本州の伊豆半島・紀伊半島・三浦半島、及び伊豆大島・種子島・新島・屋久島)

Phasianus versicolor tohkaidi Momiyama, 1922 トウカイキジ(本州中部・四国)

がいるとしながらも、現在ではこれらの交雑が進んで、亜種の区別が明瞭でなくなりつつあって、本来の純亜種自体の絶滅を危惧する向きもあるとした上、さらに、ユーラシア大陸産で本来は本邦にいなかった

キジ属コウライキジ Phasianus colchicus

が人為移入されて、その交雑種も既に見られることが記されてある。「雉」は日本の国鳥である。種小名 versicolor は、ラテン語で「色変わりの」を意味』する。全長はオスで八十一センチメートルほどで、メスが五十八センチメートルほど。翼開長は凡そ七十七センチメートル、体重はオスで八百グラムから一・一キログラム、メスで六百から九百グラムである。『オスは翼と尾羽を除』いて『体色が全体的に美しい緑色をしており、頭部の羽毛は青緑色で、目の周りに赤い肉垂がある。背に褐色の斑がある濃い茶色の部分があり、翼と尾羽は茶褐色。メスは全体的に茶褐色』を呈する(但し、上記の交雑によってこうした特徴に有意な乱れが生じている)。『山地から平地の林、農耕地、河川敷などの明るい草地に生息し』、『地上を歩き、主に草の種子、芽、葉などの植物性のものを食べるが、昆虫やクモなども食べる』。『繁殖期のオスは赤い肉腫が肥大し、縄張り争いのために赤いものに対して攻撃的になり、「ケーン」と大声で鳴き』、『縄張り宣言をする』。『その後』、『両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作が、「母衣打ち(ほろうち)」と呼ばれる』。『メスは「チョッチョッ」と鳴く』。『子育てはメスだけが行う』。『地面を浅く掘って枯れ草を敷いた巣を作』り、四~七月に六~十二個の『卵を産む』。『オスが縄張りを持ち、メスは複数のオスの縄張りに出入りするので』、『乱婚の可能性が高い。非繁殖期には雌雄別々に行動する』。『夜間に樹の上で寝る』。『飛ぶのは苦手だが、走るのは速』く、スピード・ガンによる測定では時速三十二キロメートルの記録があるという。また『人体で知覚できない地震の初期微動を知覚できるため、人間より数秒速く』、『地震を察知することができる』ともされる。

「きゞす」古語では「雉子」で「きぎす」「きぎし」であるが、語源ははっきりしない。「日本国語大辞典」によれば、「きぎ」は鳴き声の「けんけん」「けいけい」「きんきん」「ききん」などの訛ったもので「し」は鳥の称呼に用いる辞とする説(「す」はけたたましく鳴く雄(おす)の「す」とする別説もある)、賢い鳥であることから「聞き知り鳥」の義とする説、性質が荒いことから激しいの意の古語「けげし」(私はこんな古語は知らない)の義とするもの、野にあって春を掌る「木蛬(きぎす)」(「蛬」はコオロギとかキリギリスで秋を伝える彼らの声を対応させたものか)だという判ったような判らぬ説が載る。まあ、鳴き声由来かな、とは私は思う。なお、平安時代に既に「きじ」の呼称は一般化しており、「きぎす」は殆んど和歌にしか用いられなくなっていた、と小林二郎論文「雉 季語(小山工業高等専門学校研究紀要」第二十一号・PDF)にあった。

「尚書」五経の「書経」の古称。伝孔子編。尭・舜から周までの政論や政教を集めたもの。「書経」と呼ばれるようになったのは宋代以降。

「䟽趾」後に出る「埤雅」(ひが:宋代の文人政治家陸佃(りくでん 一〇四二年~一一〇二年)の著わした訓詁学書)の「雉」には、『指間に幕無し。其の足は䟽なり。故に䟽趾と曰ふ』(引用は加納喜光氏の「埤雅の研究-中国博物史の一斑-」の「雉」に拠った)とあり、加納氏は『「䟽」は「疏」の誤りであると思われる』と校記で記しておられ、とすれば、「疏」は「塞がっていた対象を切り開いて通す」であるから、蹼のような膜がない後肢の趾(あしゆび)の意で、腑に落ちる。

「曲禮」五経の一つ「礼記(らいき)」の巻頭にある篇名。古い礼の定めを細かに雑記したもの。

「迦頻闍羅〔(かびんじやら)〕」読みは東洋文庫訳のルビを参考に振った。中国の仏典や本草書に出る雉類の旧称。

「繡翼」刺繡を施したような煌びやかな翼の謂いらしい。

「文采」多彩な紋様。

「其の性、好んで闘ふ」前の文が切れていないので、雌がそうだという風に読めてしまうが、闘争心が激しいのはであるから、おかしいので、補正注を本文に入れた。

「鷕〔(ほろろうつ)〕」(音は現代仮名遣で「ヨウ」)東洋文庫訳のルビが面白いので援用したが、この漢字は本来は「雌()の雉が雄()を求めて鳴く」の意である。「ほろろうつ」というのは古語で「雉が羽ばたきをする・羽ばたきをして鳴く」の意であり、先のウィキの中に出る「母衣打(ほろう)ち」と同じことである。後に出る「翥鷕(ほろゝう)つ」も同じ。

「交(つる)び、再たびせず」交尾は一度しかしない。しかし、先の引用で、は複数のの縄張りに平気で出入りすることから、『乱婚の可能性が高い』とあったよね。愚かなるはブイブイ言わせてるということか。

「月令」「礼記」の「月令」(がつりょう)篇(月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。そうした記載の一般名詞としても用いる)。『雁北、鵲始巢。雉雊、雞乳』と載る。「雊(さか)る」というこの「雊」自体が「雉が鳴く」の意である。

「陽動する」陽の気が活動を始める。

「勾〔(まぐ)〕る」曲げる。

「其れ、飛ぶこと、矢のごとく、一たび徃〔(ゆき)〕て墜つ。故に、字、「矢」に從ふ」この解字は思わず、膝を打ってしまうが、実際には「矢」は矢の仲間の「矰繳(いぐるみ)」と呼ばれるもの、「射包(いくる)み」ではあるが(甲骨文では「矢」ではなく「夷」)、これは逆に、飛んでいる鳥を捕らえるための仕掛けで、矢に網や長い糸をつけて当たるとそれが絡みつくようにしたものであり、それで鳥一般を捕獲する意味が原義であった。それが、捕獲する雉に転用されたに過ぎない

〔(こん)〕」八卦の「艮(こん)」。

「離」八卦の一つ。

「巽〔(そん)〕」雞」に出た。

「冠〔(さか)〕」鶏冠(とさか)。

「貴」貴重。

「損、多く、益、少なし」総体的に見ると、食用することによる各種の障害が結果的に多く、補益する効果が極めて限られており、処方としては益が少ない。

「菌(くさびら)」茸(きのこ)。

「大蛤〔(おほはまぐり)」蜃気楼を吐くとされる伝説上の巨大な二枚貝。

「蛟〔(みづち)〕」ウィキの「蛟龍」によれば、『中国の竜の一種、あるいは、姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)だとされる』。『日本では、「漢籍や、漢学に由来する蛟〔コウ〕・蛟竜〔コウリュウ〕については、「みずち」の訓が当てられる。しかし、中国の別種の竜である虬竜〔キュウリュウ〕(旧字:虯竜)や螭竜〔チリュウ〕もまた「みずち」と訓じられるので、混同も生じる。このほか、そもそも日本でミズチと呼ばれていた、別個の存在もある』(ここで言う本邦での「みずち」(古訓は「みつち」)は水と関係があると見做される竜類或いは伝説上の蛇類又は水神の名である。「み」は「水」に通じ、「ち」は「大蛇(おろち)」の「ち」と同源であるともされ、また、「ち」は「霊」の意だとする説もある。「広辞苑」では「水の霊」とし、古くからの「川の神」と同一視する説もあるという)。『ことばの用法としては、「蛟竜」は、蛟と竜という別々の二種類を並称したものともされる。また、俗に「時運に合わずに実力を発揮できないでいる英雄」を「蛟竜」と呼ぶ。言い換えれば、伏竜、臥竜、蟠竜などの表現と同じく、雌伏して待ち、時機を狙う人の比喩とされる』。荀子勧学篇は、『単に鱗のある竜のことであると』し、述異記には『「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応竜となる」とある。水棲の虺』は、一説に蝮(まむし)の一種ともされる。「本草綱目」の「鱗部・龍類」によれば(以下、最後まで注記番号を省略した)、『その眉が交生するので「蛟」の名がつけられたとされている。長さ一丈余』(約三メートル)『だが、大きな個体だと太さ数囲(かかえ)にもなる。蛇体に四肢を有し、足は平べったく盾状である。胸は赤く、背には青い斑点があり、頚には白い嬰』(えい:白い輪模様或いは襞(ひだ)或いは瘤の謂いか?) 『がつき、体側は錦のように輝き、尾の先に瘤、あるいは肉環があるという』。但し、蛟は有角であるとする「本草綱目」に反して、「説文解字」の『段玉裁注本では蛟は「無角」であると補足』して一定しない。「説文解字」の小徐本系統の第十四篇によれば、「蛟竜屬なり、魚三千六百滿つ、すなわち、蛟、これの長たり、魚を率いて飛び去る」(南方熊楠の「十二支考 蛇に關する民俗と傳説」から私が改めて引用した)『とある。原文は「池魚滿三千六百』『」で、この箇所は、<池の魚数が』三千六百『匹に増えると、蛟竜がボス面をしてやってきて、子分の魚たちを連れ去ってしまう、だが「笱」』(コウ/ク:魚取り用の簗(やな)のこと)『を水中に仕掛けておけば、蛟竜はあきらめてゆく>という意』が記されてあるそうである。「山海経」にも『近似した記述があり、「淡水中にあって昇天の時を待っているとされ、池の魚が二千六百匹を数えると蛟が来て主となる」とある。これを防ぐには、蛟の嫌うスッポンを放しておくとよいとされるが、そのスッポンを蛟と別称することもあるのだという』。更に時珍は「本草綱目」で『蛟の属種に「蜃」がいるが、これは蛇状で大きく、竜のような角があり、鬣(たてがみ)は紅く、腰から下はすべて逆鱗となっており、「燕子」を食すとあるのだが、これは燕子〔つばくろ〕(ツバメ)詠むべきなのか、燕子花〔カキツバタ〕とすべきなのか。これが吐いた気は、楼のごとくして雨を生み「蜃楼」(すなわち蜃気楼)なのだという』。『また、卵も大きく、一二石を入れるべき甕のごと』きものである、とする。

「數丈」一丈は三・〇三メートル。六掛けで十八メートル前後か。

「きぎす鳴くあしたの原を過ぎ行けばさわらびわたりほろろうつなり」は「正治初度百首(正治二年十一月二十二日(一二〇〇年十二月二十九日)附)及び「夫木和歌抄」の巻五の「春五」に載る、藤原経家(久安五(一一四九)年~承元三(一二〇九)年)の一首。

「雉、卽ち、野鷄〔(やけい)〕なり」現行、キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属 Gallus がおり、この中のセキショクヤケイ(赤色野鶏)Gallus gallus を家畜化したものが、現在のセキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus とされいるが、キジ亜科ではあっても、キジ属 Phasianus とは異なるので、この謂いは正しくない。

「翠黑(みどり〔ぐろ〕)〔き〕色〔にして〕」なるべく不自然でない読み方にしようと手を加えているが、この条では良安は非常に珍しく、斑紋を含んだ複雑な羽色をこれまた連続した複雑な熟語で表現している。或いは、総てを音読みしている可能性もあるのかも知れないが、四字連続を音で読むのは、如何にも佶屈聱牙なので、避けた。しかし、よく見ていると、確かに実際の色や斑紋が確かに目に浮かんでくるから、不思議だ。

「翮(はね)」良安は前に「羽-翮(はがひ)」という訓も振っている。「はがひ」は狭義には、鳥の左右の羽の畳んだ際に重なる部分を指すが、前もそうだったが、ここも全体の羽の謂いで用いている。

「彩斑(いろどりまだら)」東洋文庫版のルビを援用した。繊細な彩色と端正な斑紋の謂いであろう。

「翥(はう)つて、鳴く」羽ばたきながら、鳴く。

「數匝〔(すうそう)〕」「匝」はこの場合、数詞で、原義の「周囲をぐるりと一回りする」という意から、回る度数を数えるそれとして使用している。

「畧(ち)と」少し。

「斷落〔(だんらく)〕す」巻きついた蛇の体が寸々に截ち切れて、ばらばらと落ちる。

「是れ、疑ふらくは、蛇、雉を卷〔(ま)き〕て着きて、以つて、交(つる)むと爲〔(す)〕るか」快哉! 良安先生!

「理學類篇」明の張九韶(ちょうきゅうしょう)撰。一三八四年刊。東洋文庫版の書名注によれば、『先学の説や自説によって、天地・天文・地理など』、『七類について弁じた書』とある。]

譚海 卷之三 (難波飛鳥井兩家の事)

 

(難波飛鳥井兩家の事)

○公方樣御上洛あれば、卽日從一位太政大臣拜任あり、難波(なんば)・飛鳥井(あすかゐ)兩家の中(うち)沓(くつ)とりの役を勤(つとめ)らるゝ事也。是は室町鹿苑院殿より起れり。退出の時沓取居(ゐ)あはさざりしに、相國(しやうこく)けしきあしかりければ、飛鳥井殿沓とりてまかでられしより、此勞(らう)に報(むくひ)て蹴鞠の相傳は專ら彼(かの)家に委(ゆだね)られしと也。此例によりて沓の役は今も勤らるゝことなり。此兩家の外も歌鞠の家と號して、和歌蹴鞠に名ある家はあまたあり。又關東へ參仕の公家衆十餘人あり、いつも關東傳奏の役は此家の衆中仰(おほせ)を蒙り勤めらるゝ事也。

[やぶちゃん注:目次に標題がないので、取り敢えずかく示した。

「難波・飛鳥井兩家」難波家は羽林家(うりんけ:鎌倉時代以降の公家の家格の一つ。摂家・清華家(せいがけ:摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する公家の家格。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることが出来る。当初は七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)であったが、後に広幡・醍醐が加わり九家となった。さらに豊臣政権時代に五大老であった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成(せいがなり)しており、清華家と同等の扱いを受けた)・大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位に於いては、各大名家に与えられる家格に相当する)の家格を有する堂上家の一つを成す公家。分家の飛鳥井家と並ぶ蹴鞠の二大流派の一つで、元は藤原北家花山院流の系統である。南北朝時代に一度、断絶したが、戦国時代に入り、飛鳥井雅庸』(まさつね)『の次男宗勝によって再興された。江戸時代の家禄は三百石であった(ウィキの「難波家に拠る)。一方の難波家分家の飛鳥井家は、ウィキの「飛鳥井家によれば、鎌倉前期の難波頼経の子雅経に始まり、代々、和歌・蹴鞠の師範を家業とした。『頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府』二『代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で雅経は後鳥羽上皇に近侍し藤原定家などとともに『新古今和歌集』を撰進し、和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。 応仁の乱で、一族が近江国や、長門国に移住し、家業を広めた』。『室町時代には将軍家に近侍した雅世・雅親父子が歌壇の中心的歌人として活躍した。飛鳥井雅世は、『新続古今和歌集』の撰者となり、飛鳥井雅親は、和歌・蹴鞠のほかに書にも秀で、その書流も蹴鞠と同じく飛鳥井流と称される。雅親の弟・飛鳥井雅康(二楽軒)も歌人としての名声が高く、足利将軍家や若狭守護武田元信などの有力な武家と深い親交があった』。『戦国時代から江戸時代初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。江戸時代の家禄は概ね』九百二十八『石であった。幕末の飛鳥井雅典』(まさのり)『は武家伝奏をつとめている』とある。

「室町鹿苑院殿」室町幕府第三代将軍足利義満のこと。後の「相國」(太政大臣・左大臣・右大臣の唐名。言わずもがなであるが、義満は隠居後、太政大臣まで極めている)も彼のこと。

「關東傳奏」「てんそう」と清音でも読む。江戸時代の朝廷の職名。諸事に亙って江戸幕府との連絡に当たった。定員二名で関白に次ぐ要職であった。納言・参議から選出された。]

譚海 卷之三 太上天皇の事 附將軍家

 

太上天皇の事 附將軍家

○太上天皇御二方おはしませば、仙洞(せんとう)・新院と稱し奉る、前後のわかち也。御三方(おさんかた)なれば初(はじめ)のを本院と稱し奉り、次を仙洞と稱し奉り、新しきを新院と稱し奉る。御落飾の後を法皇と申奉る、又仙洞を公方(くばう)とも申奉る事、今上天子昔は大かた御幼稚に渡らせ玉ひ、公事訟(くじうつたへ)をば院にて聞(きか)せ玉ふ公事の方と申事也。

○將軍家を公方樣と申奉る事、仙院にひとしきと云(いふ)事也。樣の字の心、さまと訓ずるは、そのやうにあると云事也、室町家の時より稱せられし號とぞ。天子に一等を降(くだ)る御稱號にて、至(いたつ)て重き御事(おんこと)也。征夷大將軍は日本にては至て重き事にて、賞罰を掌る官なれば、公方樣ならでは拜任成(なり)がたし、されば重き官ゆへ將軍家と稱し奉りなれたれども、却(かへつ)て將軍家と申奉るはいまだ官位にかゝはりたる事にて、公方樣と申奉るより重き御稱號なし。されば上樣(うへさま)とも稱し奉るも同じ御事也。關東の御徒士衆(おかちしゆう)と申(まうす)は、往古の檢非違使(けびいし)に相當する也。淳和院(じゆんなゐん)と申は源氏の子弟の學問所なり、奬學院と申は藤原氏の學問所也。別當と申は此兩院の首領師範の御事にて、源氏の人は勿論、藤氏攝關親王貴族といへども、みな子弟の禮を執(とり)て仕(つか)ふ事なれば、何事も別當の指揮に戾りたがふ事はならぬ事也とぞ。

[やぶちゃん注:「仙洞」俗世を離れて深山の洞窟に隠遁する仙人が語源で、退位した天皇及びその住居の美称として用いられるようになった。

「前後のわかち」孰れが先か後かでその呼称を区別して用いること。

「室町家」室町時代の足利将軍家。

「御徒士衆」将軍の外出の際に徒歩で先駆を務め、また、沿道の警備などに当たった。

「檢非違使」平安初期に朝廷に置かれた令外(りょうげ)の官の一つ。当初は京の犯罪・風俗の取締などの警察業務を担当したが、後には訴訟・裁判をも行い、強大な権力を持った。平安後期には諸国にも置かれたが、同時期、武士が勢力を持つようになって衰退した。

「淳和院」ウィキの「淳和院から引く。『平安京の右京四条二坊(現在の京都府京都市右京区)にあった淳和天皇の離宮・後院。後に源氏長者が奨学院(大学別曹)とともに別当』(本来は律令制に於いて、本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになった)『を務めた。別名』、『西院(さい/さいいん)』とも。『建築された年代は不明であるが、淳和天皇の皇太弟時代の』弘仁四(八一三)年に『実兄の嵯峨天皇が当時南池院と呼ばれていたここに行幸した。淳和天皇の即位後は離宮となり』、天長一〇(八三三)年三月に、『ここで甥の正良親王(仁明天皇)への譲位を宣言した。これに先立って』、『名を「淳和院」と改めた。淳和上皇は退位後にはここに皇太后となった正子内親王(淳和太后・嵯峨天皇の皇女)と暮らしていたが』、七『年後に崩御した』。『さらに、承和の変によって上皇の遺児・恒貞親王が皇太子を廃され』、『淳和院に押し込められると、以後』、『正子内親王・恒貞親王はここで静かに仏道修行に専念した』。貞観一六(八七四)年の『火災で一度は焼失するが、再建後に正子内親王はここを、当時朝廷の仏教政策で正式な僧侶になることが出来なかった尼のために、尼寺とした。正子内親王の死後の』元慶五(八八二)年一月、『朝廷は恒貞親王の要望を受けて』、『ここに公卿別当を設置し』、『淳和院と嵯峨上皇・檀林皇后』『・淳和太后(正子内親王)の陵墓』及び『嵯峨上皇ゆかりの大覚寺と檀林皇后ゆかりの檀林寺の管理を』合わせて『行わせることとした。これを命じられた公卿を淳和院別当(じゅんないんべっとう)という』。『嵯峨上皇は、最初の源氏である嵯峨源氏の祖であることから、次第に淳和院別当の職と源氏が結び付けられて考えられるようになって』ゆき、保延六(一一四〇)年に、『村上源氏の源氏長者源雅定が淳和院と奨学院別当を兼務して以後、淳和院別当・奨学院別当は源氏長者を兼ねる慣例が生まれ』、これが『明治維新まで継承された。当初は村上源氏でも嫡流とされた久我家・中院家から源氏長者が出され、稀に人がいないとの理由でその庶流から出される例』はあったが、永徳三/弘和三(一三八三)年に『清和源氏の嫡統を嗣いだと称する足利氏の室町幕府将軍義満が源氏長者に任じられ、同時に淳和院と奨学院の別当を兼ねて、以後しばらく室町幕府将軍が別当を務めた』。『室町幕府に明応の政変が起きると』、『再び』、『村上源氏が源氏長者とともに別当を継承するようになった。その一方、実質的には応仁の乱以後は戦乱による京都の混乱に伴って淳和院は廃絶していたと考えられており、淳和院別当は名目だけの肩書きであったとされている。やがて、戦国時代を終息させた徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けた際に源氏長者と淳和院・奨学院別当を兼務すると、それ以後は両院の別当職が江戸幕府の歴代将軍に引き継がれることになった』とある。

「奬學院」ウィキの「奨学院より引く。『平安時代の大学別曹の一。大学別曹とは、平安時代の貴族(公家)の教育機関』のこと。元慶五(八八一)年、『在原行平』(業平の異母兄)『が創設した。奨学院の位置は左京三条、大学寮の南、勧学院の西で、現在の京都府京都市中京区西ノ京南聖町。奨学院には、皇親、諸王、皇別氏族(源氏・平氏・在原氏など)一族、すなわち王氏の子弟が寄宿し、大学寮に通った』。昌泰三(九〇〇)年には『大学寮南曹として公認され、勧学院と並び「南曹の二窓」と称された。奨学院の運営は勧学院に倣い、別当(校長にあたる)、学頭(学生の首席)などの役職が置かれた。大学別曹は、貴族の衰勢と共に衰微する。平安時代末期の』十二『世紀頃には、奨学院も他の大学別曹と同様、衰微した』が、『その後も奨学院別当職は、名誉職として残』った。『奨学院別当職は、源氏長者が兼務する慣例となり、結果として村上源氏の者が淳和院別当職と共に世襲した。のちに足利義満が清和源氏として初めて源氏長者になり両院別当を兼ね、以後もしばしば源氏長者になった足利将軍が兼務した。徳川幕府を開いた徳川家康もこれに倣い、秀忠を除く歴代将軍が源氏長者となったため、幕末まで将軍による源氏長者・奨学院別当職・淳和院別当職の世襲が続いた』とある。

「戾り」帰って則ること。命に従うに同じい。]

甲子夜話卷之五 3 評定所の起幷遊女を給仕に出す事

 

5-3 評定所の起遊女を給仕に出す事

評定所の起りは、國初の頃、町中出入ごと有とき、裁許を願ふにより、老職以下諸役人の出會を賴んで設けたり。ゆゑに食物等も皆町中より持運び、役人方の給仕にはみな遊女を出したり。然に官家の御制度も漸々と詳備すれば、官より作事もあり、飮饌も出て、給仕は都城の坊主を以て爲ると云。又遊女を評定所へ出すときは、船に乘せて在來せしめたり。其船屋根は無かりしが、夏月は日景に苦しみて、屋根を願ひて作れるより、屋根舟始れり。遊女の稱をさんちやと云。因て屋根船の舊稱はさんちや船と云しとなり。今は知る人さへ稀なり。又今評定所の脇の岸に船の着場あり。これを吉原がんぎと云。古昔遊女の船を繋ぎし處なるゆゑなりとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「評定所」江戸幕府の最高裁判機関で政策の立案・審議も行った。ウィキの「評定所寄り引く。『江戸城外の辰ノ口(現在の千代田区丸の内一丁目』四『番南西部で丸の内永楽ビルディングがある位置』(ここ(グーグル・マップ・データ))『)にあり、幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中』一『名で構成された。これに大目付、目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。とくに寺社奉行・町奉行・勘定奉行は三奉行と呼ばれ、評定所のもっとも中心になる構成員であり、寺社奉行』四『人、町奉行』二『人、公事方』『の勘定奉行』二『人を「評定所一座」と称した』。『享保の撰要類集などからも明らかなように、時として三奉行という形で老中へ伺うことも多かった。後には、側衆から後の側用人、江戸出府中の京都所司代、大坂城代、遠国奉行なども列席した。評定所留役は勘定所から出向してきた役人が務めており、実質的な審理は留役が行い、評定所一座が行うのは、冒頭初回の吟味と、最終回の判決の申し渡しのみであった』。『通常、幕府管轄の武士に対して訴訟を扱うが、原告被告を管轄する機関が異なる場合は評定所で裁いた。武士と庶民のような身分違いと町奉行所管轄の江戸の町民と寺社奉行所管轄の宗教者の裁判、幕府領の領民と藩領民など原告と被告の領主が異なる場合である』。評定所は寛永一二(一六三五)年十一月の法令から、この時期に設置された見られる。ただ、『その場所については諸説があり、もっとも一般的な説は、明暦の大火によって、それまで評定の行われた酒井忠清(老中)と安藤重長(寺社奉行)の屋敷が焼失したため、以降伝奏屋敷を仕切って評定所を置いたというものである(石井良助・服藤弘司など)。これは享保期に幕府の求めに応じて、評定所が提出した書上のなかに記載されている事項であり、一般的な入門書などでも広く書かれている』。『評定所の呼称については、先述の寛永』十二『年の法令では「寄合場」と記載され、必ずしも「評定所」の呼称が当初から用いられたわけではない。幕府法令の初見は』慶安五(一六五二)年五月のもの、とある。寛文年間(一六六一年から一六七三年)『頃、寄合の種類が式日(しきじつ)・立合・内座寄合に分かれたことで、出席する構成員や協議内容が日により異なっていった。式日は幕政の重要事項の諮問を行う日となり、初期には主要な構成員であった老中が、諮問が行われる式日にのみの出席に変わった。老中については』、享保五(一七二〇)年に『月一度の出席にまで頻度が低下している。立合は裁判が行われる日で、側用人や在府中の京都所司代・大坂城代・遠国奉行なども列席する場合があった。内座寄合は三奉行が協議する日で、老中などは出席しなかった。内座寄合は奉行宅で行われることもあり、評定所の範囲に入れない場合もある』と記す。

「出入ごと」「出入り事」。俗語で、争いごと・喧嘩・訴訟を指す。

「出會」「しゆつくわい」。一同の出席。

「然に」「しかるに」。

「詳備」「しやうび」。細かな部分の取り決めが完備すること。

「作事」「さくじ」。普請。評定所の施設が造営・増築されること。

「飮饌」評定所勤務中の飲食物。

「都城」江戸城。

「坊主」御数寄屋(おすきや)坊主。数寄屋頭配下で、将軍を始め、出仕する幕府諸役人に茶を調進し、茶礼・茶器を担当した。剃髪した坊主頭であるが、出家していたわけではない。

「爲ると云」「するといふ」。

「日景」「日影」。日差し。

「さんちや」「散茶」。散茶女郎で、狭義には吉原遊女の一つの階級を示す語であり、静山の言うような遊女の総称ではないので注意。原義は「挽いて粉にした茶」のことで、転じて吉原遊女の太夫・格子の下位の遊女群を指す呼称となった。寛文八(一六六八)年、江戸府内の湯女(ゆな:風呂屋に雇われた一種の娼婦。室町期の京都に始まり、江戸前期の江戸・京都・大坂や地方の温泉場などで一世を風靡した。湯女は客の体を洗い、酒食を饗応するとともに、夜伽(よとぎ)もした。湯女の内、大湯女は主として客席を受持ち、小湯女は風呂場で客の体を洗う役を受け持った。幕府はしばしば法令で湯女の制限や一掃を図り、また、公許の遊郭の発展に伴って都市部では自然消滅した)五百人余が吉原へ移されたが、この女たちは元来が湯女であったため、もとからの吉原遊女に比べ、意地に乏しく、客を振ることがない、ということから戯れに名づけられたもの。散茶は煎茶のように袋に入れて振り出さないことに由来する(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「吉原がんぎ」「吉原雁木」で、この場合の「雁木」は、河岸の桟橋に続く木の階段を指す。

「古昔」「こせき」。

諸國里人談卷之五 奇南

 

    ○奇南(きやら)

交趾國(かうちこく)の深山に朽木あつて、谷水に流來〔ながれ〕きたるを拾ひ取、これ、上品也。又、一木を伐りて、數年(すねん)、土に埋み、その腐(くさり)たる所を去りて、心を用る也。此木は日本の栧(ねずみもち)といふ木に似たり。【「通商考」】。

或人の曰〔いはく〕、「交址國占城國の數百里山奧に里あり。天竺にちかし。此所の人、猿のごとくにして、その詞(ことば)尤(もつとも)通ぜず。毎年、秋のころ、日數(〔ひ〕かずの限りありて、交址占城の商人(あきんど)、かの山の梺(ふもと)に假初(かりそめ)の小屋をしつらひ、市〔いち〕を立〔たて〕、金海鼠(きんこ)を煑(に)て待(まつ)に、かの奧山の人、木の根・朽木を一脊負(ひとせおひ)づゝ持來〔もちきた〕り、一荷を金海鼠一皿にかへて去る。その中に上品・下品の奇南(きやら)あり。又、一荷に一木もあらぬもあり。是れ、幸不幸にして、商人の過福[やぶちゃん注:ママ。「禍福」であろう。]也。持來〔もちきた〕る人は、何の弁(わきま)へもなく、たゞかえて、金海鼠をくらふをよろこぶのみなり。

[やぶちゃん注:「奇南(きやら)」伽羅(きゃら)は香木の一種。「キャラ」はサンスクリット語で「黒」の意。一説では、香気の優れたものは黒色であるということからこの名がついたとも言う。熱帯産のアオイ目ジンチョウゲ科 Thymelaeaceae の樹木が土中に埋もれ、樹脂が浸出して香木と変成したものである。日本では昔から珍重され、江戸時代には下級品は腹痛薬とされ、中級以上の品は精を増す薬ともされた。次の条で出る東大寺正倉院御物の蘭奢待(らんじゃたい)はその最高級品とされる。以上は辞書類の記載だが、そこでは「伽羅」を沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)などとともに珍重されたと記して、沈香とは別物とするがウィキの「沈香」によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属』『の植物である沈香木』『(アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)』『などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が0.4と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では』、『沈香と伽羅を産するほぼすべての沈香属(ジンチョウゲ科ジンコウ属』Aquilaria『)及び(ジンチョウゲ科ゴニスティル属』Gonystylus『)全種はワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」には上記のような現象により、自然に樹脂化発生した、天然沈香と、植樹された沈香樹を故意にドリルなどで、穴をあけたり、化学薬品を投入して、人工的に樹脂化したものを採集した、栽培沈香が存在する』。『当然ながら、品質は前者が格段に優れている。稀に上記の製造過程から来たと思われる薬品臭の付いてしまっているものや、低品質な天然沈香に匹敵する栽培沈香も存在する。しかし、伽羅は現在のところ栽培に成功していない』。『また』、『栽培沈香は人工的に作ったものとして人工沈香ともよばれる』。『栽培沈香は天然沈香資源の乱獲により、原産国でも一般的になりつつあり、国内でも安価な香の原材料として相当数が流通している、なお、香木のにおい成分を含んだオイルに木のかけらを漬け込んだものや、沈香樹の沈香になっていない部分を着色した工芸品は、そもそも沈香とは呼べず、香木でもない。したがって栽培沈香でもない』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)でaguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う。油分が多く色の濃いものをkālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』(下線太字やぶちゃん)。『また、シャム沈香』『とは、インドシナ半島産の沈香を指し、香りの甘みが特徴である。タニ沈香』『は、インドネシア産の沈香を指し、香りの苦みが特徴』。『強壮、鎮静などの効果のある生薬でもあり、奇応丸などに配合されている』。『ラテン語では古来aloeの名で呼ばれ、英語にもaloeswoodの別名がある。このことからアロエ(aloe)が香木であるという誤解も生まれた。勿論、沈香とアロエはまったくの別物である』。『中東では』『自宅で焚いて香りを楽しむ文化がある』。本邦では、推古天皇三(五九五)年四月、『淡路島に香木が漂着したのが』、『沈香に関する最古の記録であり、沈香の日本伝来といわれる。漂着木片を火の中にくべたところ、よい香りがしたので、その木を朝廷に献上したところ重宝されたという伝説が』「日本書紀」に載る。『奈良の正倉院』には長さ百五十六センチメートル、最大径四十三センチメートル、重さ十一・六キログラムという『巨大な香木・黄熟香(おうじゅくこう)(蘭奢待』『とも)が納められている。これは、鎌倉時代以前に日本に入ってきたと見られており、以後、権力者たちがこれを切り取り、足利義政・織田信長・明治天皇の』三『人は付箋によって切り取り跡が明示されている。特に信長は、東大寺の記録によれば』、一寸四方で二個を『切り取ったとされている』。『徳川家康が』慶長一一(一六〇六)年頃から始めた『東南アジアへの朱印船貿易の主目的は』、この『伽羅(奇楠香)の入手で、特に極上とされた伽羅の買い付けに絞っていた』。これは『香気による気分の緩和を得るために、薫物(香道)の用材として必要としていたからである』とある。以上から、この「奇南」(きゃら)は広義の沈香と採ってよいと私は思う。

「交趾國(かうちこく)」ベトナム北部の旧称。

「栧(ねずみもち)」ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum

「通商考」「華夷通商考」。江戸前期、中国を始め、諸外国の位置・風土・人口・産物・風俗などを記した海外一般地誌。上下二巻。長崎通詞で天文学者でもあった西川如見(慶安元(一六四八)年~享保九(一七二四)年)の著。オランダ人との接触によって得られた外国事情に関する知識によって書かれたもので、元禄八(一六九五)年に初版が出、さらに宝永五(一七〇八)年には訂正増補された全五巻が刊行された。鎖国下の日本に於ける最初の本格的蘭学研究書、代表的な海外事情紹介書である(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「交址占城」ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に一九二年から一八三二年まで存在したチャンパ王国。中国では唐代まで「林邑」と呼び、一時、「環王国」と自称したが、宋代以降は「占城」と呼んだ。詳しくは参照したウィキの「チャンパ王国を読まれたい。

「金海鼠(きんこ)」現代なら、棘皮動物門ナマコ綱樹手目キンコ科キンコ属キンコ Cucumaria frondosa japonica を指すことになる(食用。体長十五~二十センチメートルで、全体に甚だ太った芋虫型を成し、体色は灰褐色乃至暗褐色時に黄白色で、特に生殖腺が鮮やかな黄色を呈する(「きん(金)」はそれに由来)。口部に同形同大の十本の触手を持つ)が、同種は北方種で、本邦では東北地方から北海道・千島列島にしか分布しないし、現在は棲息数が減少し、漁獲はレアである(私自身、一度しか食べたことがない)。現在も乾燥品が他の海鼠とともに中華食材に用いられてはいるが、当時でも、そんなに多量に獲れたとは思われないから、私はこれは中国人が加工した、普通の上質の干し海鼠(キンコを含むとしてもよい)を指しているものと思う

「一荷に一木もあらぬもあり」丸ごと買い取った一荷(ひとに)の中に伽羅が一木も入っていないただの木切れの山であることある。]

 

諸國里人談卷之五 鴨毛屛風

 

    ○鴨毛屛風(かものけのびやうぶ)

南都東大寺の宝物也。聖武帝、東大寺供養の時、大唐より進(たてまつる)所の大屛風也。東大寺より法華寺まで、これを引續(ひきつゞ)く、其間、十五町あり。光明皇后參詣し給ふ時、左右に引〔ひく〕と云〔いへ〕り。寬文六年三月四日より七日に至り、勅使あつて、宝物をことごとく改められける也。屛風は凡〔およそ〕二百雙(さう)ばかりありと也。

[やぶちゃん注:正倉院御物として現存し、模造ら、東京国立博物館の「画像検索」。資料によれば、明治前期には全部で十二枚あったようだ(国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベース明治一八(一八八五)刊・徳稲荷神社中川文庫所蔵増補考古画譜記載に拠る)。その記載に拠れば、屏風の文字などに実際に鳥の羽を用いていることが判る。

「聖武帝、東大寺供養の時」天平勝宝四(七五二)年の大仏開眼供養。

「法華寺」から東大寺の南大門までの実測距離を測ると、四・五キロメートルはある。「十五町」(一キロ六百三十六メートル)というのは実際に立て巡らした長さを指すのであろうが、これを外して繰り回すにしても約全長でも三回分は必要で、大変な距離である。抱えて走る雑色の汗が滴る。

「光明皇后」(大宝元(七〇一)年~天平宝字四(七六〇)年)聖武天皇(大宝元(七〇一)年~天平勝宝八(七五六)年)年皇后。藤原不比等の娘。

「寬文六年」一六六六年。]

2018/08/06

諸國里人談卷之五 長樂寺鈴

 

    ○長樂寺鈴(てうらくじのれい[やぶちゃん注:ママ。])

上野國新田、長樂寺(てうらくじ)の什宝に、ひとつの鈴(れい)あり。これを鳴(なら)す時は、洪水あり。當寺に御靈屋(みたまや)あり。御建立の所也。一年(あるとし)、御修復あり。見分として御用をつとむる諸職人、當寺に來る時、宝物を拜しけるが、その内に、紙にくるみて、八重にからげたるもの、あり。解(とひ)て見れば、鈴なり。何心なく、これをふり鳴(なら)すに、衆僧、奔(はしり)來りて、「その鈴の音をすれば、竜神感應あるとて、かならず、雨くだりて、洪水す」と制する内、晴たる空、俄(にはか)に、黑雲、覆ひて、雨、篠(しの)をつき、雷(かみなり)、頻(しき)りになりて、洪水せり。其席に御蒔繪方(〔おん〕まきゑ〔かた〕)栗本雪朝(くり〔もと〕せつてう)ありあひて、まさに見たる所也。

當寺は京建仁寺榮西和尚の弟子栄朝和尚の開基にて禅宗なり。今は天台宗にして寺領二百五十石あり。

[やぶちゃん注:この鈴は現存しないか。ネット検索ではその存在が見えない。

「長樂寺」現在の群馬県太田市世良田(ここは古えの新田荘の遺跡地区に相当する)に天台宗ある世良田山長楽寺。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「長楽寺太田市)によれば、承久三(一二二一)年、『世良田義季の開山、臨済宗の僧』『栄朝を開山として創建されたという。早い時期から官寺として扱われていた。室町時代初期(南北朝時代)には室町幕府から関東十刹のひとつに列せられた』。『鎌倉時代の開基』から『江戸時代までは新田家および足利家(鎌倉公方)の帰依を得、臨済宗関東十刹中でも大寺院であった』。『徳川家の祖とされる世良田義季(得川義季)が創建したとされることから』、『徳川家の帰依を得、江戸時代』、『江戸幕府に起用された天台宗の僧天海により』、『天台宗に改宗となった』とある。

「當寺に御靈屋(みたまや)あり。御建立の所也」これは神仏分離令によって別になった、長楽寺の南に隣接する世良田東照宮のこと。現存する。東照大権現としての徳川家康を祭神とする東照宮の一つで、元和三(一六一七)年に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、寛永二一(一六四四)年(年)に上野国世良田へ移築して創建された(以上はウィキの「世良田東照宮に拠る)。

「栗本雪朝」幕府御用の蒔絵師(東照宮修復の工芸者の一人)であろうが、不詳。但し、江戸末期から近代にかけてと思われるが、蒔絵師に栗本幸阿弥・栗本宗清という名を見出したので、「栗本」は蒔絵師の名家であったものと思われる。]

諸國里人談卷之五 建長寺鏡

 

    ○建長寺鏡(けんちやうじのかゞみ)

鎌倉建長寺の鏡は、開山大覺禅師の所持也。沒後、觀音の像に似たる影を、とゞむ。時賴、工(たくみ)をめして磨(とが[やぶちゃん注:①のルビ。③のルビは「みがゝ」])さしむ。はじめは幽(うすら)に見えけるが、一磨(ひとみがき)を經て、鮮明にして、大悲の影(かげ)、相備(あひそなふ)【「元亨釈書」委〔くはしく〕見〔みゆ〕。】。「鎌倉志」に云〔いはく〕、「圓鑑(ゑんかん)一面、西來菴(さいらいあん)にあり。高三寸五分、橫三寸あり。鏡の面(おもて)に觀音半身の像、手に團扇(だんせん)を持〔もち〕、少し俯頭(うつふく)ごとし。天冠(てんくはん)を戴き、瓔珞(ようらく)を埀。珠(たま)を連(つらぬ)る絲(いと)なく、眼に睛(ひとみ)を入れず。鏡の後(うしろ)は、水中に三日月の影(かげ)あり。其(その)高(たかさ)半分ばかり上に、梅(むめ)の枝あり。是等は鑄形(いがた)也。鏡の形は𪔂(かなへ)のごとくにして、裏に環(くはん)あり【下略。】。

[やぶちゃん注:所謂、光りを当てると観音菩薩が浮かび上がる「魔鏡」(平行光線乃至点光源からの拡散光線を反射すると、反射面の僅かな歪みによって反射光の中に濃淡が現われ、僅かに彫られた像が浮かび上がる鏡(特に銅鏡))である。私も風入(かざいれ)で現物を見たことがある。これはもうまさに新編鎌倉志卷之三(水戸光圀監修・貞亨二(一六八五)年完成)の「建長寺」の「寺寶」の冒頭に掲げられている「圓鑑」(えんかん)の本文(膨大な漢文の「讚」が続くので長い)を見て戴くのがよい。そこの附図のみ以下に掲げておく。

Emlan


序でに、幕末鎌倉地誌鎌倉攬勝考卷之四(八王子千人同心組頭・八王子戍兵学校校長植田孟縉(うえだもうしん)著・文政十二(一八二九)年完成)の同じく「建長寺」の「圓鑑」の図も添えておく。

Enkanran


「大覺禅師」巨福山(こふくさん)建長寺(正しくは「建長興國禪寺」)開山にして同寺で入寂した南宋から渡来した禅僧蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、建保元(一二一三)年~ 弘安元(一二七八)年の諡号。

「時賴」鎌倉幕府第五代執権北条時頼(嘉禄三(一二二七)年~弘長三(一二六三)年)。

「大悲」原義は「衆生の苦しみを救わんとする仏・菩薩の広大な慈悲の心」であるが、特に観世音菩薩の別名としてよく使われる。

「高三寸五分」鏡の高さ、十センチ六ミリ。全体は本文で述べているように、青銅製の脚を持った鼎を模した形状で、全体は純粋な円盤ではない。参考図を見られたい。

「橫三寸」横幅九センチ。

「團扇(だんせん)」うちわ。

「鏡の後(うしろ)は、水中に三日月の影(かげ)あり」取っ手(「」)の右下方。

諸國里人談卷之五 方廣寺鐘

 

    ○方廣寺鐘(ほうくはうじのかね)

京都大佛殿方廣寺の鐘は、秀賴公、建立なり。

 長〔たけ〕    一丈四尺

 口徑(わたり)  九尺二寸

 厚〔あつさ〕   九寸

洛の智恩院、江都(こうと)増上寺の鐘、是に、ひとし。大和招提寺(しようだいじ)の鐘、また、是に亞(つげ)り。これは百濟國(くだこく)より渡りたる鐘なり。

[やぶちゃん注:例の「國家安康」の「鐘銘事件」の梵鐘。慶長一九(一六一四)年完成。京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。重量は八十二・七トン。例の銘は撞座の左上にある。現在、重要文化財(ここはウィキの「方広寺に拠った)。

「長〔たけ〕」「一丈四尺」高さ四メートル二十四センチ。現在の公式数値は四メートル二十センチ。

「口徑(わたり)」「九尺二寸」直径二メートル七十九センチ弱。現行は二メートル八十センチ。

「厚〔あつさ〕」「九寸」二十七センチ。現行も同じ。

「知恩院」の釣鐘は高さ三メートル三十センチ、直径二メートル八十センチ、重量約七十トン。寛永一三(一六三六)年鋳造(「知恩院」公式サイトのデータに拠る)。

「増上寺の鐘」延宝元(一六七三)年、七度もの鋳造を経て完成した。高さ約三メートル三〇センチ、直径四メートル五十四・五センチ、重量約十五トン。東日本では最大級の大きさを誇る。

「大和招提寺」不審。唐招提寺の釣鐘は数少ない平安初期の作で重要文化財で、「百濟國(くだこく)より渡りたる鐘」ではない。

諸國里人談卷之五 東大寺鐘

 

    ○東大寺鐘(とうだいじのかね)

南都東大寺の鐘は、聖武帝の御願(ごぐわん)、天平年中に鑄ㇾ之(これをいる)。

 長〔たけ〕    一丈三尺六寸

 口徑(わたり)  九尺一寸三分

 厚〔あつさ〕   八寸三分

 量(おもさ)   四万八千九百貫目

冶工(いものしは)

 柹本男玉(かきのもとのおたま)

 高市眞國(たかいちまくに)

 高市眞※(まのまろ)等なり。

[やぶちゃん注:①③ともに「※」=「麿」から「林」を除いた字体。「麿」に同じいようだ。度量衡は原典では二段組、鋳造師の名前は一字空けで総て繋がっているが、ブラウザの不具合を考え、かく示した。東大寺の梵鐘は大仏開眼供養の前年である天平勝宝三(七五一)年に鋳造されたと伝えられている。

「長」「一丈三尺六寸」高さ四メートル十二センチ。現在の公的数値は三メートル八十五センチ。

「口ノ徑(わたり)」「九尺一寸三分」口径二メートル七十七センチ弱。現在の直径は二メートル七十一センチ弱。

「厚」「八寸三分」二十五センチ。現行不明。

「量(おもさ)」「四万八千九百貫目」これは何かの間違いだろう。百八十三トン越えになってしまう。現行では二十六トン三百六十四キログラムで、これだと、七千三十貫ほどである。この数値がいっかな怪談で御座りまする、沾涼殿!

「柹本男玉(かきのもとのおたま)」「高市眞國(たかいちまくに)」「高市眞※(まのまろ)」(「※」=「麿」から「林」を除いた字体)彼らは三人総てが大仏鋳造に中心的役割を果たした鋳物師である。特に大鋳師「高市眞國」は高市眞國(たけちのさねくに)のことで、大仏鋳造の指揮をとったと思われていると、東大寺公式サイトにあった。]

諸國里人談卷之五 無間鐘

 

    ○無間鐘(むげんのかね)

遠江國佐夜中山(さよのなかやま)、街道より三里北に光明山(こうめうさん)あり。此寺の鐘を撞く人は、かならず、福德を得て冨貴すれども、來世は無間地獄に墮(おつ)といひつたへたり。今は土中(どちう)に埋(うづ)む。よつて撞く事、あたはず。然〔しかれ〕ども、貪慾(とんよく)の人は、せめてもに、鐘を埋(うづみ)たるうへに至つて、足を以て踏鳴(ふみな)らすと云〔いへ〕り。惣じて金銀を倦(あく)まで貯ふに耽るものは、神佛を蔑(ないがしろ)にして五常を離れ、大慾無道(たいよくぶどう[やぶちゃん注:ママ。])にして、他の憐みをしらず。利欲のために「胸鐘(けうしやう[やぶちゃん注:ママ。])」といひて、我胸(わがむね)の鐘(かね)を朝夕撞(つい)て諸行をつとめ、無常を弁(わきま)へぬ慾心を以て人を寂滅す。これ、すなはち、「無間の鐘」なり。

[やぶちゃん注:「無間鐘」「無間(むげん)」は無間地獄のこと。八熱地獄の最下層にある阿鼻(あび)地獄の異名。真っ逆さまに落ち続けて二千年かかるという深淵にあり、怖ろしく永い時間、ありとあらゆる責め苦を絶え間なく受け続ける、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人(尼僧・幼女などへの強姦様行為)、及び父母や阿羅漢(聖者)の殺害などを犯した者が墜ちるとされる、最悪最強の地獄である(より詳しくは、参照したウィキの「八大地獄の当該項を読まれたい)。しかし、これ、例えば辞書にも載るが、そこには『静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと』、『現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという』(小学館「大辞泉」)、『遠江国(現在の静岡県)佐夜(さや)の中山にあった観音寺の鐘。これをつけば』、『この世では金持ちになれるが、来世では無間地獄に落ちるという』(三省堂「大辞林」)、小学館の「日本国語大辞典」も同様の記載である。「アンドーさん」氏のサイト「街道歩き旅どっとコム」のこちらの説明には、現存しないその「観音寺」について、粟ヶ岳(ここ(グーグル・マップ・データ))の『中腹には「東海道名所図会」によると「無言山・観音寺」という寺があり、小夜の中山の観音寺にある梵鐘を撞くと、現世では金銀財宝を得るが、来世では無間地獄に落ちて苦しむといい、この鐘を「無間の鐘」とよんだ。その後この鐘は井戸に投げ込まれ「無間の井戸」というのが残っているらしい』とあり、ロケーションがやや東にずれて、寺名も異なる。この粟ヶ岳の方がこのブラッキーな伝承としてはメジャーな場所らしい。石原周次氏のサイト「山岳信仰の山2000」のこちらの「粟ヶ岳」の記載に拠れば、現在この粟ヶ岳の山頂附近には阿波々(あわわ)神社があり、その『境内は巨岩がごろごろし、神々が降臨された岩座であると説明してあ』り、『岩の間に深い割れ目があり、底知れぬ深い地獄穴であるとい』い、また、『無間の井戸』というのがあって、『空道上人がこの山に無間の鐘を掛け、これを突けば願いが叶うと言ったので、人々が競って山に登り、危険となったので』、『住職(昔は神仏習合)が鐘を井戸に落としてしまったという。その井戸が無間の井戸であり、人々が落ちていったのが』、『無間地獄の穴だという』とある。「東海道名所図会」は、沾涼没後の「諸國里人談」再刊本で本書に跋文を附している江戸後期の読本作家秋里籬島(あきさとりとう 生没年未詳)の作で、丸山応挙・土佐光貞・竹原春泉斎・北尾政美など錚々たる絵師約三十名が二百点を越える挿絵を担当し、寛政九(一七九七)年に六巻六冊で刊行されたものである。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここでその「無間山(むげんざん)觀音寺」を視認出来るが(この山号、何ともヤバくねえか?!?)、確かに現在形で書かれていて、当時現存したことが判る。曹洞宗で、本尊は千手観音とするが、寺の所領や収入が当時は既になく、『堂舍栗等(とう)大(おほい)に零落(れいらく)し境内荒廢の体(てい)也』。『今時(こんじ)住僧もな』い、という惨憺たる様子を記している。なお、その後、この危険がアブない「無間の鐘」の話を挙げつつも、その伝承を退け、芝居なんぞで捏造されたものとした上、極めて現実的な解釈――この山に登る道は険阻で足場が悪く、落ちれば命がなくなるような「無間」地獄のような悪路であり、滑落者が出ると、「この鐘を撞き鳴らして人々を呼び集めて救助した」から「無間の鐘」と言うのではないか――という腑には落ちるものの、逆に詰らない説を述べているそれにしても、「貪慾(とんよく)の人は、せめてもに、鐘を埋(うづみ)たるうへに至つて、足を以て踏鳴(ふみな)らすと云〔いへ〕り」という部分は、すこぶる面白い。来世の無間地獄より現世の富貴を望むのは至極理解は出来るというのでもなく、或いは、実際に鐘を浅く埋めると、足踏みで特殊な反響を起したかの知れない、或いは特異な地層・地下構造、地表面から程遠からぬ直下に何らかの自然空洞があって、それが鳴ったのかも知れない、などと考えて、私はなおのこと、面白くなるのである。以前、四国の遍路の山道で歩くとポンポンと音がするという場所があるという擬似怪談をテレビで見たことがある。それも何か空洞層が土中にあるからだったように思う。

「光明山」現在の静岡県浜松市天竜区佐久にある標高五百四十・三メートルの山で、嘗て明鏡山光明寺(行基(七一七)年の開創。昭和六(一九三一)年の火災で周囲の森林とともに全焼。山の南西麓の山東地区に移転している。ここ(グーグル・マップ・データ))があった。現在も同山には石段や石垣などの跡が残っている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「五常」これは儒教で説く五つの徳目。仁・義・礼・智・信。

「胸鐘(けうしやう)」語としては、早鐘を打つように、激しく起こる胸の動悸を指す。胸掻き毟るような、貪欲の渇(かつ)えから生じる心悸亢進というわけか。]

諸國里人談卷之五 須磨寺鐘

 

    ○須磨寺鐘(すまでらのかね)

一年〔あるとし〕、攝州須广寺へまかりけるに、什宝「敦盛の鎧」・「青葉の笛」、若木の櫻の禁制は辯慶の筆を殘せり。當寺鐘樓の鐘、すぐれて、ちいさし。銘に「安養寺」とあり。「須广寺の本の寺号なるや」と尋〔たづね〕しに、「これは三里ばかり山奧の寺也。壽永の乱に、武藏坊、かの寺の鐘をとりて、陣鐘(ぢんがね)にしける」よしにて、今當寺にとゞまると云〔いふ〕。

 すまにて

  手ころなるつりかね草やつはものゝ  沾涼

「須广の磯馴松(そなれまつ)」と云ふは、此浦の松の惣名(そうみやう)也。むかし、行平(ゆきひら)、都へ歸り玉ふ時、此所の松、名殘(なごり)をおしみ、枝葉(しよう[やぶちゃん注:ママ。])、都のかたへ埀(たる)ると云〔いふ〕。【按、此地、常に西風つよき所なれば、砂地ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、ひがしへ吹きかたむくるもの也。】

[やぶちゃん注:沾涼の句は敢えて掲げるほどには上手くない。諧謔の巧みがしみじみした質感を減衰させてしまっている。最後の科学的考証も言わずもがなで、興を削ぐ。個人サイト「趣味ぱそこん」の「神戸:須磨寺・義経腰掛の松と弁慶の鐘に『同寺の宝物館に展示されている弁慶の鐘』の写真が載り、『一の谷の合戦の際、弁慶が山田庄の安養寺からこの鐘を長刀の先に掛けて担いできて陣鐘の代用にしたという伝説がある』とある。同サイト別ページには、この鐘の銘は、

 攝津矢田部郡丹生山田庄原野村安養寺之鐘

とあるとある。

「安養寺」は神戸市北区山田原野((グーグル・マップ・データ))にあったが、明治八(一八七五)年に廃寺となっている、と個人サイト「摂津名所図会」安養寺」ページにあった。同地区の南端は須磨寺の北北東約十キロメートルに当たる。

「磯馴松(そなれまつ)」匍匐性の松である、裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属イブキ変種ハイビャクシン(這柏槇)Juniperus chinensis var. procumbens の別名に「ソナレマツ(磯馴松)があるが、ここはただの磯辺で優位にある方向に靡いて見える通常の松のことであろう。現在も之に由来した磯馴町(いそなれちょう)が現存する。(グーグル・マップ・データ)。

「行平」平城天皇の第一皇子阿保親王の子、在原行平(弘仁九(八一八)年~寛平五(八九三)年)。在原業平の異母兄。ウィキの「在原行平によれば、「古今和歌集」によると、『理由は明らかでないが』、『文徳天皇のとき』(在位:嘉祥(八五〇)年~天安二(八五八)年)、『須磨に蟄居を余儀なくされたといい、須磨滞在時に寂しさを紛らわすために浜辺に流れ着いた木片から一弦琴である須磨琴を製作したと伝えられている。なお、謡曲』「松風」は「百人一首」の『行平の和歌や、須磨漂流などを題材としている』とある。「源氏物語」の「須磨」は彼の流謫を光にだぶらせてある。「磯馴松」も含め、花橘亭サイト花橘亭~源氏物語を楽しむ~の「松風村雨堂(まつかぜむらさめどう)がよい。そこに『在原行平は帰京の際』、

 立ちわかれいなばの山の峯におふるまつとし聞かば今かへりこむ

『の和歌を添え』、彼の愛した『村長(むらおさ)の娘「もしほ」と「こふじ」』(『それぞれ』に在平は別に『「松風」・「村雨」と名づけ』た)『姉妹への形見として』『烏帽子と狩衣を』その『松の木に掛けて旅立ったのだと』も伝えるとある。]

諸國里人談卷之五 三井鐘

 

    〇三井鐘〔みゐのかね〕

文保二年、三井寺回祿の時、鐘を叡山に奪(うばひ)て撞(つく)といへども、鳴らず。(しい)てこれを撞(つけ)ば、その聲、「三井寺に歸らん」といふがごとし。衆徒、怒(いかり)て無動寺の上より、落し棄(すて)けるに、破𤿎(われめ)、每夜、小蛇(こへび)、來りて、尾を以て、これをたゝく、則〔すなはち〕、其𤿎(きず)、愈(いへ)て、故(もと)のごとし【「太平記」見〔みゆ〕。】。

○むかしは、破(われ)の間〔あひだ〕に、扇の要(かなめ)のかた、入〔いり〕けるよし、古老の云〔いふ〕。寛文のころまでは、藁蘂(わらしべ)の透(すき)ありとぞ。今は其〔その〕璺罅(ひゞきめ)ばかりなり

[やぶちゃん注:最後の「璺」の字は①・③ともに「玉」の最終画の「ヽ」はない。この鐘は、俵藤太秀郷が百足退治をした褒美に竜宮城から贈られ、それを秀郷が三井寺に寄進したものとされる。本話にも言及されてあるので、サイト「龍学」(しばしばお世話になっている)の「田原藤太秀郷(鐘の話)」から引用させて貰う。

   《引用開始》

瀬田の唐橋の下に棲む竜神に三上山の大百足退治を頼まれた秀郷は、見事に大百足を討ち取る。)竜神は喜び、取れども尽きぬ米俵、切れども減らぬ絹一疋、薪なしで煮える釜、慈尊出世を告げる名鐘を秀郷に贈った。

秀郷は名鐘を三井寺に奉納した。後、文保三年(1319)三井寺炎上の際、鐘は無動寺にあずけられた。しかし、無動寺ではどう撞いてもこの鐘が鳴らない。怒った法師どもは、鐘を谷へ突き落とし、砕いてしまった。

砕かれた鐘は三井寺に戻されたが、破片ではどうにもならず放っておかれた。すると、ある時一尺ほどの蛇が現われ、尾で鐘の破片をたたくと一夜のうちにもとどおりになり、痕ひとつのこらなかったという。

   《引用終了》

なお、ウィキの「園城寺」によれば、この梵鐘は「弁慶の引き摺り鐘」とも呼ばれ、同寺の『金堂近くの霊鐘堂に』現存する。『無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太こと藤原秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は』文永元(一二六四)年の『比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである』と、今は以下に出る時制よりもさらに前の事実として考えられてようである。

「文保二年」一三一八年。但し、園城寺(三井寺)が常に闘諍を繰り返していた延暦寺と争い、炎上し、比叡山の僧兵がこの鐘を奪って延暦寺に持ち帰ったとされるのは、翌文保三年の誤りである。ただ、これは沾涼の誤りではなく、以下に示す「太平記」の記載の誤りである。

無動寺」滋賀県大津市坂本本町にある比叡山延暦寺東塔無動寺谷にある塔頭で、千日回峰行の拠点(ここ(グーグル・マップ・データ)。南に園城寺を配した)。無動寺谷には明王堂・建立同上・大乗院・法曼院・弁天堂などがある。東塔の一谷ではあるが別格で「南山」と呼ばれている。無動寺弁天堂があるが、こちらの同地区の解説中の「弁天堂」の画像のキャプションによれば、『相応の回峯修行の際に外護した白蛇弁財天が顕れたという。正月、初巳』、九月に『巳成金(みなるかね)の法要が行われる』とある。本条に登場する小蛇はその変化という設定であろう。

「破𤿎(われめ)」「割れ目」。𤿎」(音「ヒ・ビ」)は罅に同じい。

『「太平記」見〔みゆ〕』「太平記」の巻第十五の「三井寺合戰當寺撞鐘事俵藤太事」であるが、非常に長い。国立国会図書館デジタルコレクションの画像から読めるが、その最後のパートを同リンク先当該部で電子化しておく。一部で記号等を変更したり、添えたりした。

   *

文保二年三井寺炎上の時、此の鐘を山門へ取り寄せて、朝夕是れを撞きけるに、敢へて、すこしも鳴らざりける間、山法師共、「憎し、其の義ならば、鳴る樣に撞け」とて、鐘木(しもく)を大きに拵へて、二、三十人立懸りて、「割れよ」とぞ撞きたりける。其の時、此の鐘、海鯨[やぶちゃん注:二字で「くぢら」。]の吼ふる聲を出して[やぶちゃん注:「いだして」。]、「三井寺へゆかむ」とぞ鳴きたりける。山徒、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]これを憎みて、無動寺の上よりして、数千丈高き岩の上をころばかしたりける間、此の鐘、微塵[やぶちゃん注:「みぢん」。]に碎けにけり。今は何の用にか可ㇾ立[やぶちゃん注:「たつべき」。]とて、その破れ[やぶちゃん注:「われ」。]を取集めて、本寺へぞ送りける。或時、一尺りなる小蛇來て[やぶちゃん注:「きたつて」。]、此の鐘を尾を以て扣きたりけるが、一夜の内に、又、本の鐘になりて、疵つける所一も無かりけり。されば今に至るまで、三井寺に有りて此の鐘の聲を聞く人、無明長夜[やぶちゃん注:「むみやうぢやうや」。]の夢を驚かして、慈尊出世[やぶちゃん注:弥勒菩薩が衆生を救うためにこの世に如来となって顕現する時。釈迦の没後五十六万七千万年後(本来は五億七千六百万年が正しいようである)とされる。]の曉を待つ。末代の不思議奇特の事共なり。

   *

「かた」「片」で一部・破片の意か。

「寛文」一六六一年から一六七三年。本書は寛保三(一七四三)年刊。扇の要といい、沾涼が都市伝説としての効果的な情報を添えているところが上手い。

「璺罅(ひゞきめ)」「璺」も「罅割れ」の意。]

諸國里人談卷之五 ㊉器用部 大峰鐘

 

 ㊉器用部(きようのぶ)

 

    ○大峰鐘(おほみねのかね)

 一日(あるひ)、遠江國長福寺に一人の山伏來〔きたつ〕て、齋料(ときりやう)を乞(こふ)。

「愚僧、此度、大峰に入に路用つきたり。合力(かうりよく)を得ん。」

と云〔いふ〕に、住僧、嘲哢(ちやうらう)して云〔いはく〕、

「當寺に『かね』といふは鐘樓(しゆろう)より外に、なし。あの鐘にても路用に足らば、參らすべし。」

 客僧、よろこび、

「さらば、得ん。」

とて、金剛杖を以て龍頭(りうづ)を突けば、鐘は、則ち、地に落たり。かろげに提(さげ)て、走り行〔ゆく〕。

 人々、おどろき、その跡を追ふに、飛ぶがごとくにして走りぬ。

 此鐘、大峰釋迦嶽(しやかだけ)の松にかゝりて、今に存す。

 是を「鐘掛(かねかけ)」と云〔いふ〕。

 此所、嶮岨(けんそ)にして、一身(いつしん)だも、登りがたき所也。

 其鐘銘曰、「遠江國佐野郡原田庄長福寺天曆六年六月二日」。

[やぶちゃん注:劇的なので、特異的に段落を施した。大峰鐘とキャプションする本条の挿絵がある(①)。これは柴田宵曲 妖異博物館 「持ち去られた鐘」(私の電子化注)にも紹介されてあるので参照されたい。また、松浦静山の「甲子夜話續篇卷之十」の「駿州長泉院【或云、遠州長福寺】の古鐘」にはロケーション違いの二ヴァージョンの話が併置されてあり、そこでは孰れも奇僧を「役の行者の神變」或いはその「眷屬」としており、本伝承を考える上で貴重な資料となっている。

「遠江國長福寺」現在の静岡県掛川市本郷にある曹洞宗安里山(あんりさん)長福寺。(グーグル・マップ・データ)。サイト掛川市のお寺解説によれば、神亀三(七二六)年、行基菩薩の開創と伝えられる。当時は真言宗の寺として栄え、元慶八(八八四)年に延暦寺座主智証大師が再興し、天台宗に改宗され、その後、曹洞宗に改められたと伝えられる。そこには伝承として、『当寺には昔竜宮より伝わる寺宝の梵鐘があった。長暦』(ちょうりゃく:一〇三七年から一〇四〇年まで。平安中期)『のころ、ある日山伏が来て』、『修験の功験について住職と論じ』、『勝った。帰りに寺の鐘を所望したため、住職はやむなく承諾すると、山伏は鐘を引っさげ』、『空中を飛行し』、『消え去った。後日』、『この鐘は大和国の金峰山の頂上にかかっていた。その銘に「遠江国佐野郡原田郷長福寺鐘、天慶七年六月二日」と刻んである。今なお』、『奈良県吉野郡の大峰山山頂の大峰山寺』((グーグル・マップ・データ))『に国の重要文化財として現存している』とある。

「齋料」僧侶に施す食事や金品。「齋(とき)」は「食すべき時の食事」の意で、仏教で食事のこと。インド以来の戒律により、本来は午前中に食べるのを正時とした。それでは実際にはもたないので、午後のそれは「食すべき時ではない時刻の食」の意から「非時 (ひじ)」 と称した 

「合力」金銭や物品など(労力も含む)を与えて助けること。

「大峰釈迦嶽」奈良県吉野郡十津川村旭にある。(グーグル・マップ・データ)。大峰山寺の南南西十六キロメートルの位置で、長福寺からは直線で二百三キロメートル以上ある。よく飛びました。

「鐘掛(かねかけ)」大峰山寺の南西直近の山上ケ岳に「鐘掛岩」が現存する。東京都台東区竜泉にある飛不動尊 正公式サイトで恐るべき険阻さが判る。

「一身(いつしん)だも」「如何なる剛勇の人も」のニュアンスか。前のリンク先の写真を見ると、修行者は登るようだ。

「遠江國佐野郡原田庄長福寺天曆六年六月二日」前に見た通り、「天曆」(てんりゃく:九四七年~九五七年)は「天慶」(九三八年~九四七年)までの誤り。大峰山寺の本堂内に現存。ウィキの「大峰山寺によれば、天慶七(九四四)年の『銘は追刻で、鐘自体は』遙かに古い『奈良時代』(和銅三(七一〇)年から延暦一三(七九四)年)『の作』とある。伝承に合わせた捏造刻印であろう。]

諸國里人談卷之五 宮川年魚

 

    ○宮川年魚(みやかはのあゆ)

 

勢州山田、宮川の鮎を、年々、五月五日に二尾とりて、柏(かしは)の葉にこれをゝみて、心御柱(しんのみはしら)に備(その[やぶちゃん注:ママ。])ふる也。去年、供(けう[やぶちゃん注:ママ。])したるを、ことし、五月、禁裏へ献(たてまつ)ると也。まさに生(いけ)るがごとし、と云へり。世に端午に「かしは餅」をいはふは、此祭事の学びなりとぞ。六月朔日に氷室(ひむろ)の氷として氷餅〔しみもち〕をいはふに同じ。

[やぶちゃん注:「年魚」生まれて一年以内に死ぬ魚の意で鮎の別名。

「勢州山田宮川」清流で知られ、下流周辺に伊勢神宮がある三重県南部を流れる宮川(みやがわ。総延長九十一キロメートル(同県のみを流れる河川としては最も長い)。神宮式年遷宮の「お白石持行事」に使用する石は、この宮川の河原から採集される。ここに書かれた「五月五日」の鮎奉納神事は「伊勢神宮」公式サイトの年間行事を見ても現在は確認出来ない。なお、「三重県神社庁教化委員会」公式サイト内の『宮本神社「鮎の特殊神饌」』のページに、『伊勢市佐八町(そうちちょう)の宮本神社(宮司羽根宣之)は古くから伝わる特殊な神饌で知られている。御祭神の「天忍穂海人命」は元々漁を生業とされていたが、倭姫命が皇大神宮を伊勢に遷御された時、勅命を受けて宮川の年魚(鮎)を奉納したことから、後に土地の氏神として祀られた。このため宮本神社では、毎年一月上旬の日曜日に斎行される「新年祭」に鮎の「なれずし」をお供えしている』(以下、「なれずし」の古式に則った製法が記されるが、中略する)。『祭典当日、参列者約五十人が見守る中、精進潔斎した当番の六名と、総代二名が整列し、鮎のなれずしを始め』、『十三台の神饌を本殿にお供えした』。『この鮎のなれずし』は『明治維新までは暮れの二十八日に外宮内宮の両宮に奉納されていた。今ではこの宮本神社だけに残されているが、由緒ある貴重な神饌として、
地元の方々の手で、 いつまでも後世に伝えて頂きたい』とあるから、沾涼の記した本行事も江戸時代迄は行われてものと考えられる。

「心御柱(しんのみはしら)」伊勢両宮の神殿の床下中央に建てられた檜の掘立柱の呼称。正式には「正殿心柱」(「皇太神宮儀式帳」)と言い、社殿の中心に立つ故の名(「古事記伝」)であるとするものの、社殿の実用的な支柱でない。しかし、神宮祭祀上、極めて清浄神秘を重んじられる柱として特に「忌柱(いむはしら)」とも称されるという。二十年毎の式年遷宮に当たっては、特別にこの柱の用材を伐採するための木本祭と、これを建てる心御柱祭とが、孰れも夜間の秘儀として執行され、奉仕者も禰宜・大物忌など、特定の神職に限られている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

『世に端午に「かしは餅」をいはふは、此祭事の学びなりとぞ』怪しい。事実だったら、この祭事は現在も残されるべき重要なルーツ(プロトタイプ)であるべきである。

「六月朔日に氷室(ひむろ)の氷として氷餠〔しみもち〕をいはふ」旧暦六月一日、かつての宮中に於いては、冬に出来た氷を貯蔵している氷室から取り出して群臣に賜はる儀式が行われた。民間では正月の餅を凍(し)み餅(寒中に曝して低温乾燥させた餅)にしておいて、この日に炒って食した。そこから六月一日を「氷室の朔日(ついたち)」「氷の朔などとも呼称した。因みに、吉川弘文館随筆大成版は「氷餅」を『水餅』を誤判読している。風習さえも認識していない、話にならない誤りである。]

諸國里人談卷之五 玉嶋川鮎

 

    ○玉嶋川鮎(たましまのかはのあゆ)

肥前國松浦(まつらの)郡浮島(うきしま)と玉嶋川の間、一里ばかりに松原あり。神功皇后、異國退治の時、此所に釣を垂(たれ)給ひ、「今度、勝利を得るならば、魚、餌(ゑ)を食すべし」と也。既にして多くの年魚(あゆ)を得給ふ。皇后曰〔いはく〕、「希見(めづら)もの也」と。よつて其所を「梅豆經(めづら)」といふ。今、松浦(まつら)の事也。其玉座(ぎよくざ)の石、今に、あり。此石の邊に、年魚(あゆ)、多くありて、女、釣すれば、多く得(うる)。男、釣すれば、曽(かつ)て得ず。

[やぶちゃん注:このロケーションは現在の佐賀県唐津市浜玉町南山にある、本伝承に基づいてある「万葉垂綸石(すいりんせき)公園」附近である。(グーグル・マップ・データ)。旅館 洋々閣の「女将挨拶」の「若鮎釣る松浦の川波 神功皇后伝説に詳しい。私は永く「松浦」で何故、「まつら」なのかどこか引っ掛かっていたが、これは腑に落ちたが、しかし、それが正しい地名由来かどうかはこれまた、留保せざるを得ぬ。]

2018/08/05

甲子夜話卷之五 2 文政五年春、日に交暈ある事幷圖

 

5-2 文政五年春、日に交暈ある事

或人書を贈りて曰。この正月廿一日巳刻頃、太陽に暈あり。五彩を成し、その暈は輪違の如き形なりしとぞ。やがて白虹出て貫しと云ふこと、大分觀し者あり。「魏書」「天象志」、正光二年正月甲寅、日交暈アリ。内赤外靑。又「周書」武帝、天和元年夏四月甲子、日有交暈、白虹繞ㇾ之。又「唐書」「天文志」、大和八年七月甲辰、白虹貫ㇾ日。日交暈。これ等よく似たることなり。輪違の如き暈と云もの乃交暈歟と。此こと予は知らざりしが、予が邸内にも觀し者多し。其始めは五つ半頃、天色朦朧たる中、日光こもりて見ゆ。其傍に餘程へだゝりて、又日光の如く小き光のこもりたる見へしが、四つ前頃、又朦朧の中、光明はなけれども日象隱翳を隔てよく見ゆ。其少し傍に下りて、月輪の如きもの亦掩中に見ゆ。夫より九つ半頃、暈至大にして二つ上下に輪違の如くありける。日輪は何くに在けん心づかざりしと。八つ半頃、日輪赫々と耀き、餘ほどわきに白き暈、殊に大きく見えしと。かゝれば朝より晝を過るまで、次第に其象を變ぜしなるべし。又司天官より申出しと云圖を見る。如ㇾ左。

 

Taiyounokasa

[やぶちゃん図注:本図は画線以外のキャプション相当部分は総て私がオリジナルに作ったものである。参考底本としている東洋文庫版「甲子夜話」第一巻のこの図はキャプションが総て新字体・平仮名で活字化されている。されば、それをそのまま使用することは編集権に抵触することになろうかと思う。そこで、流石に作図までは面倒なのでお借りする(恐らくこれも東洋文庫編集者が「甲子夜話」原本からトレースし、新たに作図したものであろうが、私の手書き作図力は言うに及ばず、自身、信用しないし、私のソフトではこれを綺麗に画けない(ソフトの能力と言うよりは私が使いこなせていない点で自信がない)ので、そこは勘弁して貰おう)こととし、キャプションは「甲子夜話」原本の表記を推定して(本文は殆どが漢字カタカナ混じりである)楷書体のフォントを選び、参考底本を参考に総て漢字を正字化し、ひらがなをカタカナに代えて、ソフトを用いて当該箇所に挿入した。但し、参考底本では曲線部に対しては滑らかに沿って配されているのであるが、私の使用している化石のような二十年前の画像加工ソフトでは滑らかな文字配置は出来ないことから、字間を空けるなどしてかなり苦労して配した。ガタついている箇所もあるが、そこはお許しあれ。しかし、相応に見られる雰囲気には出来上がっていると思うし、結果としては、この図の方が、東洋文庫版挿図よりは原画に近いものとなっているものと、内心、思ってはいる。キャプションの「五半時」は「五ツ半」で午前九時頃、「四半時」は午前十一時頃に相当する。]

 

「日本後紀」曰、天長元年二月丙戌巳時、日輪暈、兩傍小有ㇾ光、宛似虹薄。「晉書」曰、元康元年十一月甲申、日暈再重。靑赤有ㇾ光。「金史」曰、承安八年四月癸卯、日暈二重。皆内黃外赤。「天文大成」朱文公曰、交暈如連環而貫ㇾ日、兵起相爭。「隋書」曰、日有交暈、人主左右有爭者。朱文公曰、暈珥而虹貫ㇾ之、戰縛ㇾ將。按に天長元年甲辰は、淳和帝卽位の年なり。史を閲するに帝老し承和七年庚申に及て崩ず。十有七年なり。此間兵革内亂の事なし。然ば文公の言いかゞあるべきと林氏に問しかば、林氏云、天象を以て此類のことを論ぜしこと朱書に無し。固よりかゝる事朱氏の云べきに非ず。「天文大成」等は皆陋本なり。假托の説采用に足らずと。

■やぶちゃんの呟き

「文政五年春」「正月廿一日」グレゴリオ暦で一八二二年二月十二日。

「交暈」「かううん(こううん)」。暈(かさ:現象の原理はウィキの「暈」を見られたい)が交わること。天文の異常現象として、静山も大陸の文献を羅列しているように、洋の東西を問わず、古くから何らかの予兆として頻りに議論された。「吾妻鑑」にも、これが発生すると、朝廷や幕府の陰陽師(天文方)らがまさに「交暈」・「重暈(ちょううん)」・「白虹」とそれぞれに主張して、てんでばらばらの上奏上申をするシークエンスがある(延應元(一二三九)年三月五日と十五日の条(将軍藤原頼経・執権北条泰時の治世)。複数の者によって占いは行われ、まず、全員が同じ結果は出さない。そうすれば誰かは当たり、陰陽方としては体制及び大勢に於いて責任が回避される「陰陽(おんみょう)」ならぬ「巧妙」なシステムだったのである)。原文を示そう。

   *   *   *

五日乙亥。天晴。京都去月十一日巳尅有日暈變。密奏之輩申状不同之間。兩度召勘文之上。菅大藏卿【爲長。】淸大外記賴尚等及勘狀。其狀等今日到來。於御前。師員朝臣讀申之。天文道忠尚。良元。季尚等朝臣申重暈之由。家氏申交暈之旨。晴繼申白虹貫日之由云々。大藏卿引後漢書文假郎顗之詞。暈卽虹也。大略白虹旨。委細勘之。大外記者。暈虹先例本文勘進許也。

   ※

十五日乙酉。晴。司天輩依召皆參。二月十一日天變事。被下京都勘文。各可申存知旨之由被仰出。維範。泰貞。晴賢等一同申重暈之由。師員朝臣申云。晴繼朝臣勘文。載白虹之旨。尤甘心。本文分明也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

五日乙亥(きのとゐ)。天、晴る。京都、去ぬる月十一日巳の尅、日暈(にちうん)の變有り。密奏の輩の申狀、同じからざるの間、兩度勘文を召すの上、菅大藏卿【爲長。[やぶちゃん注:菅原為長。]】・淸大外記賴尚[やぶちゃん注:清原頼尚。]等、勘狀に及ぶ。其の狀等、今日、到來す。御前に於て、師員朝臣、之れを讀み申す。天文道、忠尚[やぶちゃん注:安倍忠尚。以下総て安倍姓。例の安倍晴明のそれ。]・良元・季尚等の朝臣、「重暈(ちやううん)」の由を申す。家氏は「交暈(かううん)」の旨を申す。晴繼、「白虹日(はくこうじつ)」を貫(つらぬ)くの由を申すと云々。

大藏卿、「後漢書」の文を引き、郎顗[やぶちゃん注:後漢の天文学者。](らうがい)の詞(ことば)を假(か)り、暈は卽ち虹なり。大略、白虹の旨、委細、之れを勘(かんが)ふ。大外記は、暈虹の先例本文を勘へ進ずる許(ばか)りなり。

   ※

十五日乙酉。晴る。司天の輩、召しに依つて、皆、參ず。「二月十一日の天變の事、京都より勘文を下さる。各々存知の旨を申す可し」の由、仰せ出さる[やぶちゃん注:主語は御所藤原頼経。]。維範[やぶちゃん注:以下、同じく安倍姓。]・泰貞・晴賢等一同に重暈の由を申す。師員(もろがず)朝臣、申して云はく、「晴繼朝臣の勘文は、白虹の旨を載す。尤も甘心す。本文に分明也」と云々。

   *   *   *

これは恐らく記載から見て、最終的には幕府方の陰陽師である師員の、「上奏文にある晴継朝臣の判じた『白虹』には非常に感心しました。間違いない。何故なら、旧書の記載にそれだとはっきりと載っているからであります」という主張が幕府では採用されたものと思われる。

「巳刻」午前九時~十一時。

「輪違」「わちがひ」。二つ以上の輪が組み合っている「知恵の輪」状の形状を指す。「輪違い紋」として家紋としてもある通り(多くは二つの輪の交差)、これ自体は不吉なシンボルではなく、サイト「家門の由来」の「輪違い紋」には、『寺院などで、この紋を見ることがあり、「この世はひとりで生きることは難しい。ふたり以上互いに組んで生きてゆくこと。いわゆる二つの輪は仲良く手を組むことなのだ」と。また、大乗仏教では「この世は金剛界と胎蔵界とが組み合って、バランスがとれる。輪違いはこれを図示したものだ」と』説明しているらしい。

「貫し」「つらぬきし」。

「觀し」「みし」。

「魏書」中国の正史二十四史の一つ。北魏に関する史書で北斉の魏収の撰。五五四年完成。

「正光二年」五二一年。

「周書」二十四史の一つ。北周の歴史を記したもので、唐の太宗の勅命により令狐徳棻(れいことくふん)らが撰した。

「天和元年」五六六年。

「繞ㇾ之」「之れを繞(めぐ)る」。

「唐書」唐一代の歴史を記したもので「旧唐書(くとうじょ」と「新唐書」の二種があるが、調べたところ、これは「新唐書」の「志第二十二 天文二」の記載。「新唐書」は宋の欧陽修らの奉勅撰で、一〇六〇年完成。

「大和八年」八三四年。

「乃交暈歟と」『乃(すなはち)、「交暈」かと』。

「日象」「ひのかたち」(太陽の形状)と訓じておく。

「月輪」「つきのわ」と訓じておく。

「掩中」「あんちゆう」。朦朧とした大気で覆われている内部(向う側)。

「九つ半」午後一時頃。

「暈至大にして」暈が最も大きく広がって。

「何くに在けん」「いづくにありけん」。

「八つ半」午前三時頃。

「司天官」江戸幕府天文方(てんもんかた)の別称。編暦を掌った。本来、編暦事業は朝廷の陰陽寮の所管であったが、貞享元(一六八四)年に渋川春海(はるみ)が貞享暦を作製すると、幕府は春海を新設の「天文方」に任命、以来、編暦の実権はこの天文方に移った。原則、渋川家の世襲職であったが、必要に応じて優秀な人材も登用された。当初は寺社奉行支配で、後に若年寄支配に転じた。俸禄百俵五人扶持であった。

「日本後紀」平安前期の歴史書で六国史の一つ。藤原緒嗣らの編。承和七(八四〇)年成立。桓武天皇延暦一一(七九二)年から淳和天皇天長一〇(八三三)年迄の国史を漢文編年体で記したもの。

「天長元年」八二四年。

「巳時」午前九時から午前十一時。

「宛」「あたかも」。

「晉書」二十四史の一つ。晋王朝(西晋・東晋)についての史書。唐の六四八年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。

「元康元年」二九一年(西晋)。

「金史」二十四史の一つ。金についての史書。元の脱脱(托克托(トクト))らの撰。一三四四年成立。

「承安八年」おかしい。金の章宗の治世で用いられた承安は五年(一二〇〇年)の十二月一日に翌年より「泰和」とする改元の詔が下って、翌年から改元しているから、この数字を正しいと採るなら(正しいどうかは知らぬ)、泰和三年で一二〇三年となる。

「天文大成」清の一六四五年に黄玉耳(黄鼎)が著わした天文書「天文大成管窺輯要(かんきしゅうよう)」か?

「朱文公」南宋の碩学の儒学者朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年)の諡号。

「交暈如連環而貫ㇾ曰、兵起相爭。」推定で訓じておくと、「交暈、連れる環のごとくにして日を貫くは、兵、起り、相ひ爭ふ。」。

「隋書」二十四史の一つ。隋の歴史を記したもので、唐の太宗の勅により、魏徴・長孫無忌らが撰した。六三六年に帝紀五巻・列伝五十巻が成立、二十年後の六五六年に「経籍志」など志三十巻を編入して全八十五巻が成った。

「人主左右有爭者」よく判らぬが、既に占った内容と思われるので、「人主」(君主・皇帝)の「左右」(有力な家臣)で相い争う者が出現するという凶兆か。

「暈珥而虹貫ㇾ之、戰縛ㇾ將。」我流で読み下すと、「暈(かさ)の珥(みみだま:イヤリング)して、虹、之れを貫くは、戰(いくさ)あり、將[やぶちゃん注:大将。]、縛せらる。」。

「按に」「あんずるに」。

「天長元年甲辰」(きのえたつ)八二四年。

「淳和帝卽位の年」おかしい。淳和(じゅんな)天皇(延暦五(七八六)年~承和七(八四〇)年/在位:弘仁十四年四月二十七日(八二三年六月九日)~天長十年二月二十八日(八三三年三月二十二日)はこの前年に即位を終えている

「然ば」「しからば」。

「文公の言」「言」は「げん」。

「林氏」林述斎。

「朱書」朱熹の書いた書物。

「陋本」内容の見識が頗る低い書物。

「假托」特定の人物の名を借りて当人の著述であることを装って作成された偽書や捏造・贋作の文書の類いの謂いであろう。

「采用」「さいよう」。採り用いること。

2018/08/04

諸國里人談卷之五 片目魚

 

    ○片目魚(かためうを)

 攝津國川邊郡昆陽池(こやのいけ)の、鯉、鮒、其外、小魚、みな、片目也。此池の魚を祭(まつり)て、「行波(ぎやうは)明神」とす。

 相傳ふ、むかし、行基上人、一男(いちなん)、病(わづらひ)て山に倒(たを)れ伏(ふし)たるを見給ひ、有馬の溫泉に誘引(いざなはん)とあれども、氣力、疲れ、身體、叶はず、進む事、あたはず。

「吾(われ)、飮食(ゐんしひ[やぶちゃん注:ママ。])を斷(たつ)事、日あり。願はくは、鮮魚(あたらしきうを)を以(もつて)、飮食をすゝめ給へ。」

時に上人、長洲濱(ながすのはま)に至(いたつ)て魚を得て、これを烹(に)てあたふ。

「先(まづ)、試(こゝろみ)に、上人、召せ。」

といふ。

則〔すなはち〕、食して、

「甚(はなはだ)甘美也。」

と、これを進む。

又、曰、

「吾に黑瘍(かぶとがさ)ありて、これを患ふ。上人、瘡瘍(さうじゆく)を舐(なめ)ば、痛(いたみ)、さるべきか。」

 其體(そのてい)、焦爛(たゞれ)、甚だ臭く、近付(ちかづく)べきにもあらず。

 上人、

「いとやすし。」

と是を舐(なむ)。

 忽(たちまち)に其像(そのかたち)、金身(こんしん)と成〔なり〕、藥師如來と現ず。于ㇾ時(ときに)、佛(ほとけ)、告(つげ)て曰(いは)く、

「吾は溫泉山(ゆのやま)にあり、上人を試(こゝみ)んがため、今、病體と現ず。」

言已(いひおわつ[やぶちゃん注:ママ。]て、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず、となり。

 件(くだん)の魚の殘餘を昆陽池(こやのいけ)に放つ。

 化(け)して一目(いちもく)の魚と成〔なる〕と云〔いふ〕。

[やぶちゃん注:物語性を効果的に示すために、特異的に改行した。広く存在する片目眇の魚の伝承譚については、柳田國男が大正六(一九一七)年二月の『郷土研究』に発表した「片目の魚」が纏まったものとしてはよいのだが、生憎、電子化されていない。そのうち、私がやりましょう。なお、児童向けに書かれた柳田の「日本の伝説」(初版標題は「日本神話伝説集」で昭和四(一九二九)年アルス「日本児童文庫」刊)にも同題「片目の魚」が載り、本条も紹介されてある。これは「青空文庫」のこちら(新字新仮名)で読める。また、私がここにカテゴリ「柳田國男」で全電子化注を終わっている柳田の単行本「一目小僧その他」(昭和九(一九三四)年六月小山書院刊)も、各所で「片目の魚」について述べており、ここの話もこちらに出る(柳田は『「攝陽群談」等』に所載するとする)ので、参照されたい。

「攝津國川邊郡昆陽池(こやのいけ)」兵庫県伊丹市にある昆陽池。ここ(グーグル・マップ・データ。ロケーションの一つである有馬温泉を中央に配した)。行基(複数回既出既注)の指導により、農業用池として天平三(七三一)年に造立された、人工の溜め池。

「行波(ぎやうは)明神」『伊丹市文化財ボランティア火曜会通信』六十九平成二八(二〇一六)発行)の「町の小さな文化財 第9回 昆陽池の守護神 行波大明神」PDF)によれば、小さな祠として、『昆陽池の北側』の『大池橋北詰で健在で』あり、『「行波」とはこの附近の旧地名で、現在近くにある「中野行波公園」がその名を留めている』とある。位置はリンク先の地図を参照されたい。この小祠は行基の昆陽池の開発の際に守護神として勧請されたものと伝承されている(十八世紀後半のこの地区の地誌に記載)ともある。

「一男」一人の男。

「飮食(ゐんしひ)」歴史的仮名遣は「いんしい」でよい。「いんしよく」に同じい。

「長洲濱(ながすのはま)」現在の兵庫県尼崎市の海岸。

「先(まづ)、試(こゝろみ)に、上人、召せ」無論、魚も殺生戒の対象。

「黑瘍(かぶとがさ)」かく判読はした。黒く変色した皮膚の腫れ物。「瘡瘍(さうじゆく)」(これもかう判読はした)も同じ。

「痛(いたみ)、さるべきか」痛みがおさまるんだがなぁ。

「焦爛(たゞれ)」二字へのルビ。

「溫泉山(ゆのやま)」現在の有馬温泉にある湯泉(とうせん)神社の、当時の神仏習合形態の仏神。かつては有馬温泉郷の傍ら、六甲山系の愛宕山の中腹に開かれたとされる有馬山温泉寺(おんせんじ)と一緒であった。同寺は現在、兵庫県神戸市北区有馬町にあり、黄檗宗であるが、元は真言宗で本尊は薬師如来である。縁起によれば、養老八・神亀元(七二四)年に、まさに行基によって開かれたとされる。兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム伝承解説ページでは、この時の薬師如来顕現を以って行基は薬師如来像を彫り、堂を建てたのが温泉寺の始まりとさえある。]

諸國里人談卷之五 眇魚


   ○眇魚(すがめうを)

出羽國鳥海(とりのうみ)山の川の黃顙魚(かじか)は、皆、一眼眇(ひとめすがめ)也。相傳ふ、鎌倉権五郞、鳥海彌三郞とのたゝかひに、右の眼(まなこ)を射らる。答(たふ)の矢を放ちて、又、是を射る。その鏃(やじり)をぬき、此川に至りて、目を洗ふ。此緣によつて眇也と云り。○鳥海山の権現は鳥海弥三郞の霊を祠(まつ)ると也。高山にして、常に雪あり。六、七月のころ、山頂に登る。寺社なく、たゞ、あやしき岩窟也。社(やしろ)は麓(ふもと)にあり。

[やぶちゃん注:これはまず、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(5) 御靈の後裔及びその「目一つ五郎考」全体を参照されたい。次に柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(九)を見られれば、私は以下に余計な注を附す必要がなくなると考えている。

「出羽國鳥海(とりのうみ)山」山形県と秋田県に跨がる鳥海山(ちょうかいさん)。標高二千二百三十六メートル。(グーグル・マップ・データ)。中世後期以降、修験道の修行場として栄えた。

「黃顙魚(かじか)」条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux 及びその同属種。ゴリ・ドンコとも呼ばれる。背鰭・胸鰭に毒棘(毒性は未確認で逢っても微量とされるが、刺されると激しい痛みや腫れを引き起こす)を持つ、条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps の異名であるが、ギギの分布は新潟県阿賀野川より以南(九州東部まで)であり、採らない

「一眼眇(ひとめすがめ)」片目。一方が潰れていること。

「鎌倉権五郞」(延久元(一〇六九)年~?)は平安後期の猛勇無双の私の好きな武将。『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社の本文並びに私の注を参照されたい。

「鳥海彌三郞」鳥海弥三郎(安倍宗任とする伝承があるが、時代が違う)は清原武衡の家人で阿武隈川河口鳥の海の住人とする(ウィキの「後三年の役に拠る)が、肥大した伝承上の人物である。それは先に掲げた、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(5) 御靈の後裔の注で考証しているので参照されたい。

「常に雪あり」ウィキの「鳥海山によれば、『山の南側には夏、「心」の字の形に雪が残る「心字雪渓」がある。山頂付近には夏場も溶けない万年雪(小氷河と表現されることがある)』『が存在することや、氷河の痕跡として特徴的なカール地形が存在することから、かつて氷河が形成されていたという説がある』とある。

「寺社なく、たゞ、あやしき岩窟也」由利本荘市矢島町総合支所振興課作成の「サイバー記念館」内の「鳥海山の山頂論争」には鳥海山頂の生臭い争奪戦が語られてあるが、そこに元禄一四(一七〇一)年の『山上の本社造り替え』の一件が語られてあるから(本「諸國里人談」刊行は寛保三(一七四三)年)、この「あやしき岩窟」しかないというのは、どうか? 沾涼が実際に踏破して見たものではなく、伝聞であろうから、或いは、修験道の聖地でもあり、それなりの小さなものでも社(やしろ)はあったのではなろうか? 岩窟は修験者がビバークするそれではなかろうか?

「社(やしろ)は麓(ふもと)にあり」「卷之一 飽海神軍」で注した山形県飽海郡遊佐町にある鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)。本神社は鳥海山頂の本社及び麓の吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の二ヶ所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称しており、鳥海山を神体山とする鳥海山山岳信仰の中心を担う神社である。ここはその吹浦及び蕨岡の二ヶ所を指す。]

諸國里人談卷之五 石蛤

 

    ○石蛤(いしはまぐり)

土佐國田野浦(たのうら)の西に十濱(とうのはま)といふ所あり。此所の蛤は、常のごとくにして、中は砂なり。むかし、弘法大師、此磯にて、蛤を見給ひ、「何といふ貝なり」と尋(たづね)給ふに、「是は喰(くは)ぬ蛤」と答へしより、此所の蛤は、身なくして砂也と云【所にては「喰〔くは〕ずはまぐり」といふ。】。

○備後國帝釈山の梺(ふもと)、庄原村の山々に「石貝(いしがひ)」あり。其品(しな)、あまた有。此所、海を去事、十七里餘也。

○阿波國海符(かいふ)に「符貝(ふがひ)」といふあり。弘法大師、此所に來り給ふに、浦に疫(えきれい)はやりて、人民、多く死せり。大師、これを憐(あはれみ)て、符(ふ)を書(かき)て海邊に立〔たて〕給へば、疫病(やくびやう)、忽(たちまちに)、治(ぢ)して、其符は海に入〔いり〕て、貝と成〔なる〕。これを「符貝」といふて、今にあり。天行病(はやりやまひ)の守(まもり)とすと云。

[やぶちゃん注:最初の有り勝ちな「何だかな~」の弘法大師の呪術応報譚(これは採った蛤を乞われるのを恐れた漁民がこう応じたのである)は酷似した大師物が、例えば宮崎にある。サイト「福娘童話集」の「お金ヶ浜とお倉ヶ浜」を読まれたい。私はこうした偉い上人のブラック・マジック的な応酬呪術譚が、殊の外、大嫌いなのである。思うに、次で化石貝類を挙げているところをみれば、沾涼はこれも海岸に露頭した崖から浸食によって零れ出る二枚貝化石(「蛤」は元来、広汎な二枚貝を指す)が正体であろうと考証していたものかも知れない。海流の関係でここに多量の二枚貝の死貝が漂着したとするよりも、遙かにその方が私にはリアルに見える。

「土佐國田野浦」現在の高知県幡多郡黒潮町田野浦か。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし「西」の「十濱(とうのはま)」は見当たらない。

「帝釈山の梺(ふもと)、庄原村」広島県神石郡神石高原町永野の帝釈峡(ここ(グーグル・マップ・データ)。「帝釈山」という山は現行では周辺には見当たらない)の周辺の山塊を指すか。現在の庄原市街地は帝釈峡の東二十キロメートルほどに位置するから、麓と言えば、麓ではある。国立国会図書館の全国の「レファレンス協同データベース」の広島県立図書館の管理番号(広県図20140190)の事例の中に「日本歴史地名大系 35 広島県の地名」(一九八二年平凡社刊)の「庄原市宮内村」(現在の庄原市宮内町。ここ(グーグル・マップ・データ))の中に『庄原村と当村の境付近には新生代第三紀の備北層群下部層があり、化石の多いことで有名である』とある。新生代第三紀は六千四百三十万年前から二百六十万年前までで、現生生物に近い生物の化石が出る時代である。

「阿波國海符(かいふ)」現在の徳島県には、県南端の西部海辺域に海部(かいふ)郡が現存する。現在は(グーグル・マップ・データ)。旧郡域はウィキの「海部郡(徳島県)」を確認されたい。

「符貝(ふがひ)」これは、一目見て、南西諸島の古代遺跡から発掘される「貝符」を想起させる。「貝符」とは南西諸島文化特有の極めて特徴的な遺物で、切り出した貝片の表面に特異な文様を人為的に彫り込んだ装飾品・副葬品或いは祭祀具である。形状や紋様はグーグル画像検索「符」を見られたいが、中村直子氏の論文「貝塚時代後期土器と貝符」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、南西諸島では『貝塚時代後期の中ごろ、弥生時代後期~古墳時代並行期の「貝符」と呼ばれるイモ貝に彫刻を施す、装飾性豊かな遺物が北部圏から中部圏に広がっている。貝符は、アクセサリーや埋葬などに使用される儀礼用の道具として用いられている』とある。海部郡や四国で貝符が出土した例を探し得なかったが、しかし、この「海部」という地名は海人(あま)族に由来するものとも考えられ、黒潮に乗って北上してきた南西諸島の古代人がこれをここに齎した(祭儀具としてよりも交易品として)可能性は十分にあり得るようには思われる

「疫(えきれい)」「疫癘(えきれい)」で、以下の「疫病(やくびやう)」「天行病(はやりやまひ)」と同じく、流行性急性伝染病のことである。

2018/08/03

諸國里人談卷之五 松喰虫

   ○松喰虫(まつくひむし)

寬永年中、武州川越の邊の松に虫つきて、葉を喰ひて、木を枯(から)す事、おびたゞし。領分の百姓、訴ㇾ之(これをうつたふ)。古(こ)伊豆守殿は、智、ふかく、名譽の將なりけるが、これをきゝ給ひ、「その虫を悉(ことごとく)とつて、壷に入〔いる〕べし」。一壷(いつこ)の價(あたひ)何(いか)ほど、といふ員數(いんじゆ)を定め、百姓に仰(おほせ)て、これを採らしむるに、ほどなく取〔とり〕つくしてけり。其〔その〕數(す)百の壷を土中に埋(うづ)みけり。三年を經て、壷を掘(ほり)て、これを見れば、壷中(こちう)、皆、松脂(まつやに)なり。世、こぞつて、これを感ず、と也。「老松餘氣結爲伏苓。千年松脂化爲琥珀。」。

[やぶちゃん注:「松喰虫」現行の「マツ材線虫病」(英名:pine wilt disease)を引き起こす、マツノザイセンチュウ Bursaphelenchus xylophilus は近代の外来侵入種で、造船用に輸入された木材に付着していた可能性が指摘されており、最初の発見は明治三八(一九〇五)年(長崎県)であるから、これはそれではなく、はっきりと「虫」と言っており、それが視認出来、それを駆除したとする以上は、松の弱った古木に寄生して食害して松を枯れさせるように見える、キクイムシ類(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ヒラタムシ下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae)・ゾウムシ類(ヒラタムシ下目ゾウムシ上科 Curculionoidea)・カミキリムシ類(ヒラタムシ下目目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae)などと考えられる。ただ、果たして、それらが死後に松脂に変ずるかどうか、不審で、このコーダの部分は都市伝説の類いのようにも見受けられる

「寬永」一六二四年から一六四五年。但し、次注から、これは寛政十六年以降の寛政後期の話であることが判る

「古(こ)伊豆守」「古」は最も古く知られた「伊豆守」であって「故」(死者)の意ではない。、名老中で「島原の乱」や「由比正雪の乱」を乗り切り、川越藩藩主(寛永一六(一六三九)年一月五日移封)で「松平伊豆」の通称で知られた松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)のこと。

「員數」この場合は壺に封入する虫の一定数。

「老松餘氣結爲伏苓。千年松脂化爲琥珀。」「本草綱目」の「木之一」には西晋・東晋時代の道教研究家葛洪(かつこう 二八三年~三四三年)の「抱朴子」を出典とし、『凡老松皮内自然聚脂爲第一、勝於鑿取及煮成者。其根下有傷處、不見日月者爲陰脂、尤佳。老松餘氣結爲茯苓。千年松脂化爲琥珀』と出るが、他書では同じ葛洪の「神仙伝」としたりもする。また、三国時代の魏から西晋にかけての政治家で博物学者であった張華(二三二年~三〇〇年)の「博物志」の「藥物」では、『神仙傳云、松柏脂入地千年化爲茯苓、茯苓化爲琥珀。琥珀一名江珠。今泰山出茯苓而無琥珀、益州永昌出琥珀而無茯苓。或云燒蜂巢所作。未詳此二說』(下線太字やぶちゃん)と異なった記載があるようだ。本文のそれを書き下すと、

 老松の餘氣 結(けつ)して伏苓(ぶくりやう)と爲り

 千年の松脂 化(か)して琥珀(こはく)と爲る

で、漢方生薬として知られる「伏苓」(ブクリョウ)は菌界担子菌門菌蕈綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Polyporaceae で、これは木材腐朽菌として知られ、見かけ上の変成現象としては腑に落ち、琥珀は天然樹脂で、まさに松脂のような樹液が長い年月をかけて変化したものであるから、謂いはこちらもトンデモ説とは言えないことになる。]

2018/08/02

諸國里人談卷之五 大烏賊

 

    ○大烏賊(おほいか)

享保十五年の春、江戸神田、中島氏、四、五人を催し、江の島參詣しけるに、江の島の獵師町に、大きなる烏賊(いか)を引〔ひき〕あげたり、と騷ぎける。よつてこれを見るに、長さ九尺ばかりあり。斯(かゝ)る巨魚(こぎよ)もあるものか。漁人(ぎよじん)も「前代(ぜんだい)、そのためし、あらず」と云〔いふ〕。「江戸へ送らば、よき芝居物ならん」といひて通〔とほり〕たり。程歴(ほどへ)て評〔ひやうして〕曰〔いはく〕、「肉は迚も持つべからず。甲(こう)ばかりを求(もとめ)なば、よき見物ならん」と、人々、いひあへり。

[やぶちゃん注:採集(漂着)地が江ノ島であること、触腕を含めた全長であると考えてよいこと、また、漂着個体の場合、腐敗が進んで体が崩れてさらに長く見えたであろうこと等を考慮すれば、軟体動物門頭足綱鞘形亜綱十腕形上目ツツイカ目閉眼亜目ソデイカ科ソデイカ属ソデイカ Thysanoteuthis rhombus の超大型個体と考えてよいと私は思う。無論、深海性の稀種である鞘形亜綱十腕形上目開眼目ダイオウイカ科ダイオウイカ属ダイオウイカ Architeuthis dux の可能性も否定は出来ないが、だとすれば、高い確率で漂着死亡個体であり、それならば、有意に強いアンモニア臭がした筈であるが、それを彼らは語っていない点で私は同定候補から外すものである。ソデイカは通常は一メートルであるが、二メートルに達する個体もある。

「享保十五年」一七三〇年。

「中島氏」不詳。

「獵師町」「漁師町」。現在の弁天橋を渡った左手のヨット・ハーバーへ向かう手前一帯。

「九尺」二メートル七十三センチメートル弱。]

諸國里人談卷之五 大蟹

 

    ○大蟹(おほがに)

三河國幡頭(はづの)郡吉良(きらの)庄富吉新田(とみよし〔しんでん〕)の海邊は大塘(〔おほ〕づゝみ)にして、根通りは石を以て築立(つきたて)、高さ、一丈二、三尺余(よ)、小山のごとくなるが、享保七寅八月十四日の大嵐にて、此堤(つゝみ)、切れたり。里人、多く出〔いで〕て、これを防ぐに、甲(こう)の徑(わた)り、七尺ばかりの蟹、出〔いで〕たり。水門の傍(かたはら)を穿(うがち)て栖(すみか)としける。其穴より潮(うしほ)、おし込(こみ)て、切〔きれ〕たる也。人夫大勢、棒・熊手を以て、追〔おひ〕まはしける。右の撛(はさみ)を打折〔うちをり〕たり。それながらにして、海中に、沈む。件(くだん)の撛は、人の兩手を束(つかね)たるがごとし。今、以て、時として、出けるなり。一方の撛、また、出生〔いでしやう〕ず。しかれども、左よりは、拔群(ばつぐん)、ちいさしと云〔いふ〕。

[やぶちゃん注:「三河國幡頭(はづの)郡吉良(きらの)庄富吉新田(とみよし〔しんでん〕)」現在の愛知県西尾市吉良町富好新田。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「根通り」堤の下部(特に河川側)のことであろう。

「一丈二、三尺余」約三メートル六十四センチメートルから三メートル九十四センチメートル。

「享保七寅八月十四日」グレゴリオ暦一七二二年九月二十四日。

「七尺」二メートル十二センチメートル。沿岸域に棲息するカニ類ではあり得ない。都市伝説の類いである。同定する気も起らぬ。

「撛(はさみ)」中国語で「挺」の意味があるから、すらりとした刃物のような意味はありそうだ。

「一方の撛、また、出生〔いでしやう〕ず」カニ類は自切行動をとり、自切線も有する。脱皮後に再生もする。再生鉗脚が有意に小さいのも問題ない。しかし、全長があまりに桁外れ。

諸國里人談卷之五 武文蟹【島村蟹・平家蟹】

 

    ○武文蟹(たけぶんがに)【島村蟹・平家蟹】

攝津國尼ヶ崎兵庫の浦に、蟹の甲(こう)、怒れる面(おもて)のごとくにして、甲を着たるありさま也。是、秦(はたの)武文、松浦(まつら)五郞がために海中に入〔いり〕て死す、その霊なり、と云〔いへ〕り【或〔あるいは〕「島村蟹〔しまむらがに〕」と云〔いふ〕。】。○又、長門國赤間關(あかまがせき)の邊に、かくのごとくの蟹、あり。これは元暦(げんりやく)二年に、平家の一門、戰ひ負(まけ)て、多く入水(じゆすい)しける、その霊なり、と云。よつて、此所にては「平家蟹(へいけがに)」と、いへり。兩説ともに、あやしき説なり。

[やぶちゃん注:これは流石に海産無脊椎動物フリークの私は散々いろいろ書いてきた。その中でも、ここに書かれた内容を――注せずに――完全にカバー出来るものは、去年の六月七日の私の仕儀、毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)であろう。判らぬことがあれば、そちらの注を見られたい。リンク先には梅園の美事なヘイケガニの図もある。なお、今回、「島村蟹」伝承については、島村豊氏の精緻にして精細な論文『「島村蟹」の伝承についての考察』(PDF)を発見した。必読である。]

ブログ1120000アクセス突破記念 梅崎春生 犯人

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年三月号『改造』初出。後の作品集「馬のあくび」(昭和三二(一九五七)年一月現代社刊)に所収された。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第六巻」(昭和六〇(一九八五)年刊)を用いた。

 幾つかについて、最初に注しておく。短くて済むものは本文中に入れ込んだ。

 冒頭の短いシークエンスのロケーション、主人公が転がり込む友人のいる百姓屋のある「稲田堤」(いなだづつみ)は、神奈川県川崎市多摩区のJR東日本南武線稲田堤駅及び京王電鉄相模原線京王稲田堤駅周辺を指す地域名。町名としては南武線稲田堤駅が所在する菅稲田堤(すげいなだづつみ)が残る。この附近(グーグル・マップ・データ)。梅崎春生の随筆「日記のこと」にも登場するように、彼の実体験に基づくものである。梅崎春生自身、敗戦の一ヶ月後の昭和二十年九月に上京した際、川崎の稲田登戸の友人の下宿に同居している(現在の神奈川県川崎市多摩区登戸。現在の小田急電鉄小田原線の「向ヶ丘遊園駅」は昭和三〇(一九五五)年四月に改称されるまでは「稲田登戸駅」であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。南武線登戸駅は南武線稲田堤とは二駅しか離れていない)。そうして、かの名作「桜島」(リンク先は私の電子化注PDF版。分割の連載形式のブログ版はこちら)は、まさにこの稲田登戸で書かれたのである(春生の「八年振りに訪ねる――桜島――」を参照のされたい)。

 「八八」は花札遊びの一種で、「江戸花」「東京花」の異称があり,特に関東で普及している。八八の名は花札の総点数が二百六十四点で,一人平均八十八点になることに由来する。三~四人で行い、場札六枚、手札各自七枚、残りは場の山にして始める。四人の場合は手札の状態により、一人、棄権できる。まず、親から場にある札と手札を合せて取り、次いで山札の一枚をめくって場に出す。場札とめくり札が同種の場合は取ることが出来る。このようにしてゲームを進め、取った札の組合わせによる出来役と持ち札の組合せによる手役の合計点で勝ちを決める。役は地方によって異なる。普通は勝負前に役の取決めを選択して行う(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

 「オイチョカブ」は主として京阪地方で行われた株札(かぶふだ:一から十までの札四組に,特別な札二枚(白札と鬼札)を入れた計四十二枚で遊ぶ賭博的遊戯。めくりかるたの一種。俗に「追丁(追帳)かるた」とも呼ばれる。遊び方は手札とめくり札を合せて、末尾の数字が九あるいは最もそれに近い者を勝ちとする)を用いた賭博の一種。花札を使うこともあり、その場合は十一月(雨)、十二月(桐)の八枚の札を除き、四十枚で行う。めくり札と手札の数を合せ、末尾の数が九もしくは九に最も近い数をもって勝ちとする。ほかに種々の役上がりがある。「おいちょ」はめくり札の八の数又は合計数字の末尾が八になる数をいい,「かぶ」とは九の数をいう(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。三省堂「大辞林」によれば、これらは外来語とする説もあるが、未詳、とある(私は賭博遊戯を全く知らないので、前注とこれは私自身のために附した)

 「カツギ屋」話柄内時制の第二次大戦後の昭和二十年代、米などの統制物資を買い入れては、担(かつ)いで売り歩いた者を指す。

 「厚司(あつし)」は「厚子」とも書く。アイヌ語のアツシ(attush),つまり、オヒョウ(双子葉植物綱イラクサ目ニレ科ニレ属の落葉高木であるオヒョウ Ulmus laciniata。詳しくはウィキの「オヒョウ(植物)を参照されたい。アイヌ語由来の解説が詳しい)の樹皮からとった繊維で織った織物。アイヌの着物がこれでできているところから、厚司をアイヌの着物と解することが多い。着物としての厚司は袖は平袖(ひらそで)、丈はすねぐらいで、女物は男物よりやや長めで衽(おくみ:着物の左右の前身頃(まえみごろ)に縫い附けた、襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布。着用の便宜のために存在する)がない。厚司の特色は袖口・襟・背・裾回しなどに、木綿や絹で、アイヌ特有の模様を切付けにすることである。また、関西地方で考案された非常にじょうぶな厚手の木綿織物でつくられた、紺無地か、大名縞の労働着も厚司と呼ばれ、一般に用いられているから、ここは最後のそれであろう(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

 「ドルマンスタイル」dolman style。袖ぐりが深くゆったりしていて、手首に向かって細くなっていく袖。トルコ発祥の服装のスタイルを指す。「ドルマン」とはトルコ語で「衣服」を意味する語に由来するとされ、袖の付け根がゆったりした女性用の服を指すことが多く、袖の作りを特に指す場合は「ドルマンスリーブ」(dolman sleeve)と呼ぶ。

 「籠抜け」広義には「万引き・窃盗」の意であるが、ここは「闇」市の「ブローカー」による「籠脱け詐欺」で、関係のない建物を利用し、そこの関係者のように見せかけて相手を信用させ、金品を受け取ると、相手を待たせておき、自分は建物の裏口などから逃げる手口の詐欺のことを指していよう。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1120000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年8月2日 藪野直史】]

 

   犯  人

 

 とにかくそれは一風変った男だった。僕はその男と、終戦後の数ヵ月間、同じ屋根の下に生活を共にしたのだ。その男の名は、これも本名だか偽名だかいまだに知らないが、風見長六と言う。その頃彼は、三十歳前後の、あばた面の大男だった。ふだんはむっつりしているが、しやべったり笑ったりすると、妙に人なつこい魅力があった。

 僕が風見と初めて知合ったのは、南武線沿線の稲田堤のある百姓家の庭先でだ。

 復員後、直ちに僕は東京に戻ってきたのだが、応召の時荷物をあずけた友人宅付近は、一面ぼうぼうの焼野原で、どこに行ったか判らない。苦心して探しあてたのがこの百姓家で、友人はその二階に間借りしていた。妻子は故郷に疎開させたままだという。とにかく私はその部屋にころがりこんだ。下の百姓に相談もせず、強引にだ。そうでもしなければ、行くあてはないし、野宿でもする他はなかったからだ。まああの頃は、一種の乱世だから、そんなこともそう不自然ではなかったわけだ。

 しかし、そういう僕に対して、百姓家の主人がいい顔をする筈がない。それでも割に気が弱い男だと見え、直接僕には強く当らない。」友人に向ってうらみごとを言ったり、愚痴をこぼしたりするのだ。へんな男を同居させたりして、最初の約束と違うじゃないか。そんなことをくどくど述べたてるらしい。もちろん僕がいないところでだ。全く主人にとっては、この僕は変な男に見えただろう。復員したてで職もなし、毎日面白くない顔でぶらぶらしていたのだから。そこで友人も板ばさみとなり、だんだん僕にいい顔を見せなくなってくる。友人は川崎の方の某会社に、ちゃんとした職を持っていた。僕のような風来坊を同居させることが、真面目な彼にとって、物心ともにそろそろ重荷になってきたらしい。鈍感でないから僕にもそれは判る。だんだん居心地がよくなくなって来た。

 そんなある日の午後のことだ。僕は所在なく階下の縁側で日向ぼこをしていた。二階は暗い部屋だが、ここはよく日が当る。友人は会社に出勤しているし、百姓一家はそろって野良に出ている。留守番は僕一人だ。日向ぼこが楽しみなくらいだから、時候も秋の終りの頃だったのだろう。僕は縁側に寝ころんで、新聞を読んだり、空行く雲を眺めたり、軒にずらずらとぶら下った干柿を見上げたりしていた。干柿ほほどよくくろずんで、実に旨(うま)そうだったが、ひとつちょろまかして食べるという訳には行かない。主人がちゃんと数を勘定している。毎朝、僕がいるところであてつけがましく勘定して、それからおもむろに野良に出てゆくのだ。それほど僕に信用がおけないらしい。千柿のみならず他の食物も、たとえば土間のサツマ芋なども、丹念に勘定されているらしい気配がある。終戦直後のことだから、闇売りで大儲けしているくせに、風来坊の僕などには、芋のかけら一つも渡すまいという魂胆だ。全く厭になってしまう。だから僕も歯を食いしばって、干柿を眺めるだけにして、ちょろまかすようなことは絶対にしないのだ。

 庭先に誰か入ってくる気配がした。僕はあわてて躰をおこした。主人が戻ってきたのかなと思いながら。しかしそれは主人ではなかった。

 軍隊外套を着け地下足袋をはき、大きな袋をぶら下げた男が、のっそりとそこに立っていた。背丈は五尺八寸ほどもあり、肩幅もそれに応じてがっしりと広かった。顔は大きなあばた面だ。その眼が探るように僕を見た。

「芋をすこし売って呉れないかね」

「さあね、僕にはわからない」

 と僕は答えた。

「僕はここでは、ただの間借人だから」

「ほかに誰もいないのかい」

「みんな野良に出ている。しかしここの芋は高いよ。東京に運んだって、儲けにはならないよ。止したがいい」

「いくらぐらいだね?」

「貫当り十五円だ」

「そりや高い。いくらなんでも高過ぎるな、東京で買っても、そんな相場だぜ」

「だから止しなと言うんだよ」

 男はがっかりしたような表情になり、縁側を通して土間に積まれた芋の山を、横目でちらっと眺めていた。それからどっかと縁側に腰をおろした。

「全くやり切れねえな。遠くに出かければ汽車賃がかさむし、近くだと百姓がこすっからいしなあ」

 その言い方が可笑(おか)しかったので、僕はちょっと笑った。

すると男はぎろりと眼をむいて、僕をにらみつけた。

「いや、これは笑いごとじゃないぞ」

 私は笑いを中止した。すると男は機嫌を直したらしく、ポケットから煙草をとり出して僕にすすめ、しばらく世間話などをした。煙草は手巻きの紙臭いやつだ。向うがいろいろ聞くので、僕は今の自分の身の上のことも話した。つまり、職がないことや、僕という存在がこの百姓家で厭がられていることなどだ。すこし誇張も混えて話したので、男はすっかり僕に同情した風だった。

「そりやあいかんな。いい状態じゃない」

 そして考え深そうにまばたきをして、

「早くおん出たがいい。邪魔者あつかいにされてまで、踏みとどまる手はなかろう」

「おん出るつて、行くところがないんだ」

 男は僕の顔をじっと見た。そして言った。

「じゃ、俺の家に来い。部屋が余ってる」

 僕はすこしびっくりした。しかし次の瞬間、僕はもうその男の言葉に乗る気になっていたのだ。これが現今のことなら、ためらったり、しりごみしたりする気持になるのだろうが、なにしろ終戦直後のことで、身のふり方など、どんなにでも簡単にとりあつかえる気持だったのだ。僕は答えた。

「そうかい。それじゃそう願おう」

 それであっけなく身のふり方がきまってしまった。この男が風見長六というのだ。今からでも一緒に来いというのだが、こちらは荷物のとりまとめもあるし、明日ということにして、とりあえず住居の地図を書いてもらった。なぜ風見が僕に好意ある申し出をしたのか、そんなこともあまり考えなかった。考えることなど、その頃の気持では、余分のことだった。軍隊時代の習慣が、まだ心身のどこかに残っていたのだろう。考えるよりも、動いたり流されたりする方が先。僕もそうだったが、風見だってあるいはそんな気分だったのだろう。

 僕が引越すと判って、友人は形式的な心配を示した。素姓(すじょう)も知れない人間の言葉を、かろがろしく信用したら駄目だというのだ。しかし、内心では、ほっとしているのは明らかだった。階下の百姓はもちろん大喜びだったらしい。翌朝僕に顔を合わせるとにこにこして、折角(せっかく)顔見知りになったのにお名残惜しい、時には遊びに来て呉れ、などと心にもないお世辞を言い、サツマ芋二貫目を餞別に呉れた。餞別と言っても、皮が剝けたのとか二つに折れたのとか、そんなクズ芋ばかりだ。でも無いよりはましだから、有難くお礼を言い、僕は稲田堤に別れをつげた。それから今日に至るまで、僕は稲田堤を訪れたことはないが、あの百姓も元気でいるかどうか。今思うとあの百姓は、少々ケチで慾張りだったが、決して悪い男ではなかったようだ。

 さて、お話し変って、風見長六の宅。この家の外観内容は、やや僕を驚かせた。僕は漠然とふつうの小住宅を予想してきたのだが、そうではなかったのだ。一応住宅の恰好(かっこう)はとっているが、当初住宅の目的で建てられたのではないことは、一眼で判る。一廓の焼跡の片すみに、そいつは道路に面してぽつんと立っている。もちろん屋根もあるし壁もあるが、窓は近頃あけたと見えて、材木の切口がまだ新しい。床も急造のものらしく、しかも素人(しろうと)細工だと見え、踏むと足もとがあぶなっかしいようだ。風見長六は、その上り框(がまち)に腰をおろして、飯盒(はんごう)飯をかっこんでいるところだったが、僕の顔を見て、しごく落着いた口調で、

「やあ、やって来たか」

 と言った。土間に荷物をおろしながら、僕は訊(たず)ねてみた。

「この家は、昔から住宅なのかね」

「いや」

 風見は腰をずらせて、僕の席をつくって呉れながら、

「これはもともと、ギャレージだ。母屋は焼けて、これだけ残ったんだ」

「へえ。君の家なのかい?」

「そうじゃない。借りたんだ」

 風見の話によると、彼も復員下士官で、あてもなく東京をほっつき歩いていると、この焼残りのギャレージが見つかったので、これを自分のすみかと定めたと言う。もちろんその頃は、床もなければ窓もなかった。そこへ住みついて二三日経つと、変な老人がやってきて、どういう権利でそこに住んでいるのだと聞く。その老人が語るには、この家の持主は田舎に疎開していて、自分が留守跡の運営や整理を任されていると言うのだ。そこで風見は、実は行くあてがないからこのギャレージを貸して呉れ、家賃は払う、と相談を持ちかけると、老人はちょっと考えて、月二百円なら貸してやろうと答える。終戦の年だから、月二百円というのは法外の高値だ。しかし風見はそれを承諾した。それから彼はあちこちから材木や板片を集めてきて、床をつくり、窓をこしらえ、どうにか住める程度にやっとこぎつけたという話。そのいきさつを聞いて僕は大層感服した。たとえばこの僕が、無為無策に友人のところに転がり込んでモタモタしている間に、才覚や実行力のある奴はちゃんと自分で道を切り開いて、どうにか恰好をつけている。僕は急に風見という男が頼もしくなったが、一方ではちょっとあることが心配にもなって来た。つまり月二百円の家賃が、割前として僕にかぶさって来やしまいかという、ケチな心配だ。風見はそれにおかまいなく、先に立って上り、ぐるりと見廻して、奥のすみの方を指差した。

「お前の部屋は、あそこがいいな。そういうことにしよう」

 部屋と言っても、仕切りも何もありゃしない。のっぺらぼうで隅から隅まで見渡せるのだ。床には古畳がずっと敷いてあって、隅の二枚分が僕の分だというのらしかった。それならばそれでもよかった。雨露さえしのげれば、あとはどうにかなるだろう。僕は何気ない口調で訊ねた。

「部屋代は、どうなるんだね。つまり、家賃の割前」

「そんなこと、どうにかなるよ」

 と風見は言下にさえぎった。僕は風見の表情をうかがった。払わなくても風見の方でどうにかすると言うのか。その表情からはよく判らなかった。しかし僕は、このギャレージに住んでいる間、一文も部屋代を払わなかったから、結局は風見の言う通りどうにかなったわけだ。こうして風見邸における僕の生活が始まったのだ。

 

 この風見邸の住人は、風見と僕だけではなかった。もう一人いた。乃木明治という名の、やはり僕らと同じ年頃の独身男で、区役所の戸籍課に勤めている。役所でもあまり上の地位ではないらしく、服装なども貧寒だし、恰幅も全然よろしくない。強い近視の眼鏡の片つるを、靴紐か何かそんなもので代用している。堂々たる名前に似ず、チョコチョコとした猫背の小男だった。

 乃木も以前の部屋を追い出され、カストリ屋でやけ酒を飲んでいる時、同席の風見と知合い、そして誘われてここに住み込むようになったのだそうだ。僕よりも半月前の先住者だ。僕だの乃木だの、そんな困った連中に住いを提供して、風見という男はなかなか親切な男だな、と僕が言うと、乃木は眼尻をくしゃくしゃにして答えた。

「あ、ありゃあ君、本当は淋しがりやなんだよ。だから、友達が欲しいんだな」

 この乃木の言葉は、全面的な真実を言い当てているとは思えないが、一面の真実はついていたようだ。今でも僕はそう思う。風見長六という男は、なかなか強靭なものを持つ半面、とても孤独には堪(た)えられないような弱い半面も確かにあったのだ。

 勤めを持っている関係上、三人の中では乃木が一番早起きだ。彼は朝早々に起き、国民服のズボンによれよれのゲートルを巻き、ちょこちょこ出かけて行き、夕方暗くなってちょこちょこと戻ってくる。夜になると、乃木は自分の机の前に坐り、原稿用紙をひろげ何か書いたり、腕組みして黙然と考えこんだりしている。乃木は探偵小説家志望なのだ。学生時代からの志望らしく、それに関する知識も豊富だし、また腕にも自信がある様子でもあった。戦争が済んだからには、きっと探偵小説が隆盛になるに違いない。そういうのが乃木の確信ある予想で、その潮にうまく乗ってやろうというのが、彼の今の現実の念願だった。しばしば口に出してそう言ったのだから、間違いはなかろう。

 ところが、こういう乃木の行動を非難して止めさせようとするのが、風見長六だった。わざわざ親切にも部屋を提供して、しかもその日常に干渉するなんて、ちょっとおかしな話だが、事実なんだから仕方がない。風見の言い分は、そんな愚にもつかない小説書きなんか止めて、八八かオイチョカブでもやろうというのだ。折角昼間汗水たらして働いたのだから、せめて夜ぐらいは花札で遊ぼう。これが風見の主張だ。乃木も部屋を借りてる関係上、そうそう断り切れない。三度に一度はつき合う。ところが風見という男は、おそろしく勝負が強く、僕らはいつもコテンコテンにやられ、相当額の金をまき上げられるのだ。乃木が口惜しがって、いつか僕に言ったことがある。

「風見の奴、バクチのカモにするために、俺たちをここに引入れたんじゃないのかな」

 しかし僕には風見の気持は、やや判るような気もする。小説みたいなへなへなしたものを軽蔑するのも、バクチや遊びが大好きなのも、強引にまた柔軟に、自分のやりたい事をやり通そうというのも、つまり風見長六は軍隊生活の意識や様式を、そっくり今の生活で押し通そうとしているのだ。風見の言によれば、彼は復員までに十年近くの軍隊生活を過したということだから、他の生き方はとても身につかないのだろう。しかしこれは僕の想像だから、当っているかどうか。

 風見には定職はなかった。それでも毎日働いてはいるのだ。カツギ屋をやったり、マーケットに出入りしてプローカーみたいなことをやったり、いろんな仕事をしているようだった。身体が強いから、どんな力仕事でもやれる。それが風見の取り柄だったが、頭の動きがあまり敏捷でないと見え、大きく儲(もう)けることはないようだった。埼玉から米をかついで来て、途中で警官にそっくり没収され、頭をかかえてぼやいていたこともある。

「ええ。三斗だぜ。それをまるまる没収だなんて、むちゃなことをしやがる」

 ぽやいていても、彼はまた翌日いそいそと、どこかに働きに出かけてゆく。家にじっとしていることが出来ないらしい。余暇というものを彼は知らないのだ。

 この奇妙なギャレージ家に、そんな風にして三人は生活していたわけだ。僕と乃木とはおおむね外食だが、風見だけは自炊の生活だ。土間のコンロや電熱器で、風見は飯をたいたり芋をふかしたり、料理をつくったりする。図体に似ず、そんな点は割にこまめだった。時には僕らにも御馳走して呉れることもあったが、それもごくまれで、僕らが腹を減らしていても、大体彼は無関心な風(ふう)だった。自分の分だけつくって、さっさと食べてしまう。ふくらんだ腹を撫(な)でさすりながら、さあオイチョカブをやろうと言い出したりする。時には彼は、僕らの外食の量の貧しさを知っていて、それを憫笑(びんしょう)したりするのだ。

「よくあんなもんで身体がつづくな」

 住居を提供した好意と、食物に関するこんな言動は、彼の心の中ではどう組合っていたのだろう。僕は今思うのだが、彼の胸の中では、たとえば気紛れと功利とが、善意と冷淡とが、衝動と計画とが、雑然と入り交り、不自然なく組合わさっていたに違いない。しかしどうもそこらのところはハッキリしないのだ。僕らに部屋を貸していても、彼は別段それを恩に着せる風(ふう)でもなかった。もしこの僕が彼の立場だったら、どうしても恩に着せる態度が出てくるだろうと思うのだが。

 三人で生活している間も、風見は仕事の帰りなどに、板や木片を拾ってきて、ギャレージを補修する。ちょいとした下駄箱をつくったり、また雨漏りでもあるとまっさきに屋根へ登るのは風見なのだ。僕ら二人はほとんど何もしない。風見のやることを眺めているだけだ。しかし風見は、そういう僕らに不満そうでもなく、むしろその仕事を楽しんでいるようだった。そのための大工道具一式を、ちゃんと彼は用意しととのえていたのだ。

 僕がこの家に入ってからも、住居としての整備は日ましに進行した。ギャレージくささがなくなって、だんだん小住宅らしくなってくる。そして風見はこの建物の周囲に、器用に垣根までもこさえ上げたのだ。そういうことがあの老差配を刺戟し、慾を出させたのだろうと思う。

 

 この焼跡の管理を任されているという老人を、僕らはムササビというあだ名で呼んでいた。この老人はいつも、変な仕立ての厚司(あつし)を着ている。手首のところは細く、腕の付根のところは極端に寛(ゆるや)かな、そんな風(ふう)な仕立て方だ。現今ならドルマンスタイルとか何とか言うのだろうが、あの頃はそんな言葉も知らないので、ムササビという名をつけた。ムササビという獣は、樹から樹へ飛び移る必要上、脇の下の皮膚が羽根のように寛かに拡がっている。老人のがそれにそっくりというわけだ。

 この老人は、たかがギャレージだと思って月二百円で貸す気になったのだろうが、風見の営々[やぶちゃん注:「えいえい」。せっせと一生懸命に働くさま。]の辛苦によってどうやら家らしくなったし、インフレの関係もあって、二百円という金はしだいに価値が下落してゆく。その頃の住宅は言語に絶したものだし、権利金もどんどん上っていたから、ムササビがこれに眼をつけたのは無理ないのだ。僕が入居する前から、老人は風見に文句を言いに来てたらしいが、僕が入ってから、その回数がますます頻繁になってきた。ムササビは僕と最初に顔を合わせた時、その時は僕一人が部屋にいたのだが、

「あれ、また一人ふやしやがったな」

 と小声で叫んだものだ。立退き要求に対抗するために、風見が同居人をまたふやしたと、老人は解したらしいのだ。僕は先程、僕を同居させたのは風見の気紛れだろうと書いたが、あるいは老人の解釈の方が当っているのかも知れない。少くともそういう気持が少しはあったのだろうと思う。と言うのは、風見はこの老人をとても苦手にしていたからだ。

 このムササビの性格は、見るからにねちねちしていて、一旦食いついたら決して離さないという風な趣きがある。そして世間智に長(た)けている。そういうところを風見は苦手とするのらしいが、その他にも苦手とする確たる理由があった。それはしごく単純なことだが、このムササビが退役の陸軍中佐だということなのだ。ムササビの立退き要求に対し、風見は強く反撥出来ない。柔軟にして消極的な抵抗を試みるだけだ。それを訝(いぶか)しく思って、ある日僕が訊ねたら、風見がそう答えたのだ。

「だってあいつは中佐殿だからな」

「中佐殿だって何だって、今はもう軍隊はないんだし、おそれることはないじゃないか」

「俺もそう思うんだけどな。あいつは俺の元の部隊長にそっくりなのさ。背丈から顔の形までよ。だから俺はつい弱気になってしまうんだ」

 何時もに似合わず弱ったような声だった。僕は風見の軍隊履歴をよく知らない。だから彼がそんな弱気になる理由が判らなかった。今でも判らない。なんか特別の事情でもあったのかと思う。

 ムササビの方は、元中佐の称号が風見を押しているとは、全然気付いていなかったと思う。しかし多年のカンから、押しに押しまくれば立退くだろうという予想と確信を持っていたらしい。疎開先の当主が戻って来るからとか、垣根をめぐらせたのは約束違反だとか、窓を無断であけたのは建物毀傷であるとか、いろいろ理屈をこじつけて、風見に立退きを迫ってくる。風見は決して弁は立つ方じゃないので、議論となると必ず言い負かされてしまうのだ。そして僕が入居した頃から、家賃を持って行っても、ムササビはそれを拒絶するようになってしまった。家賃なんか受取れないと言うのだそうだ。(だから僕も結局部屋代は払わずに済んだ)そしてもっぱら風見をいじめにかかる。ムササビは最初から僕だの乃木だのを問題にしていなかった。風見攻略の一点張りだ。風見を追い出せば、あとの二人は自然に出て行くと考えたのか。あるいは僕や乃木の世間智を見抜いて、その点一番弱そうな風見にねらいをかけたのか。風見という男は、実行力や才覚は充分にあるらしく見えるが、それも軍隊流のそれだから、娑婆(しゃば)では案外に脆(もろ)いのだ。闇米を没収されたり、ブローカーに籠抜けされたり、そんなことが三四度つづいて、風見の気持はすこしずつ沈滞してゆくようだった。僕が入居して二ヵ月近く経った頃のことだ。ムササビは相変らず、二日に一度ぐらいはやってきて、ねちねちと長談判をしてゆく。

「元中佐殿があんなことをやるんだからなあ」

 ある日風見がくさったように言った。もうその頃は、ムササビは神経戦術を開始していて、ギャレージは貸したけれどもギャレージの扉は貸さなかったという妙な論理で、皆が留守中に人夫を使って、大きな扉を外(はず)して行ってしまったのだ。とたんに屋内は風の吹きっさらしとなり、冬の最中のことだから、寒くて寒くて仕方がない。着ている布団がゴワゴワに凍る始末だ。取敢ず[やぶちゃん注:「とりあえず」。]入口には荒むしろをのれんみたいにぶら下げたが、寒気は容赦なく忍び入ってくる。これには僕らも弱った。余儀なく近所から木片を集めてきて、夜ともなれば土間で焚火(たきび)をやり、寒さをしのぐ。なにしろ屋内の焚火だから、危くもあるし、人目にもつく。そりゃ人目にはつくだろう。ギャレージ改装の小屋に、男ばかり三人が居住して、山賊みたいに焚火などをしているのだから。近所の連中が怪しむのも当然の話だ。

 そうこうしている中に、この界隈にしきりに空巣ねらいが出没するという事件が起った。あちらの家では服と外套を、こちらの家では釜や鍋をという具合で、一寸した際に物や金が盗まれる。よほど練達な奴だと見え、全然手がかりも残さない。隣組(配給の関係上その頃まだ存続していた)常会でも問題になったが、犯人はつかまらない。やがてその嫌疑が、どうも僕らにかかっているらしいということが、うすうすと判って来た。ある夜、変な男が突然僕らの小屋に訪問して来たのだ。それは背は低いが、顔の四角な、がっしりした男だった。

 

 なんでもそいつは一寸通りすがりと言った恰好で、むしろを分けて屋内をのぞいたのだ。そして低い声で言った。

「えへへ。ちょっと焚火にあたらせて呉れませんかね。めっぽう寒くて、しんまで凍りそうだよ」

 のそのそと入って来て、火に手をかざした。焚火と言っても、石油の空罐に木片を入れて燃すという簡単な仕組みだ。それでも結構あたたまる。あたたまると人間は口数が多くなるものだが、その上僕らはすこしアルコールが入っていた。近所の朝鮮人から仕入れた濁酒(どぶろく)を、三人でちびちび酌(く)み交わしていたのだ。風見はその男にもコップをすすめた。そして四人は車座になり、火にあたりながら、いろいろととりとめもない世間話を始めていたのだ。変な訪問者を別に怪しむ気持もなかったと思う。

 そのうちに話が近所を荒す怪盗のことになった。自然と話がそこに行ったのだ。その一両日前、僕らの小屋から道を隔てた斜め向いの家が、そいつに見舞われて、配給酒一升持ち逃げされたという。他のものは盗まず、酒だけ持って逃げたのは味がある、というようなことから、乃木が探偵小説家志望のところから推理を働かせたりして、どうも犯人はこの町内の者だろうということに意見が一致した。変な男も、いろいろ口をさしはさんで、その会話を助長させるような気配を示す。丁度(ちょうど)その夜淡雪が降っていて、地下足袋の跡が残っていた。そんなことを男が口に出した時、僕はそろそろこの男は変だなと思い始めた。通りすがりの男にしては、その泥棒に関する知識があり過ぎる。

「その地下足袋は、十一文半だったね。相当はき古したやつだ」

「よく知ってるな、君は」

 風見も妙だと思ったらしく、そう聞きとがめた。

「どうしてそんな事まで知ってるんだい?」

「えへへ。ちょっと調べてみたもんでね」

「刑事みたいだな、まるで」

 男は顎(あご)をふきながら、またえへへとわらった。その言葉を肯定するような仕草だった。僕が口を出した。

「何かい。するとあんたは、刑事かい?」

「そうだよ」

 男は落着いた声で、火にかざした両掌をごしごしとこすり合わせた。

「今日あたり、また出やしないかと思ってね、張込んでるんだ」

 それで三人しゅんと黙ってしまった。こちらは何も悪いことをしている訳じゃないが、同座の一人がはっきり刑事だと判ると、ふしぎに何も言い出せなくなるものだ。顔見合わせて、気まずく黙っている。その中に風見がすこし怒ったような声を出した。

「張込むったって、こんなところで火にあたってたんじゃ、仕様ないじゃないか。その間に泥棒は仕事してるかも知れない」

「それも道理だな」

 男は腰を上げ、いやな笑い方をしながら、そこらをじろりと見廻した。

「いや、いろいろ御馳走さまでした。また時々寄せて貰いますよ」

 そしてのそのそと表の暗闇に消えて行った。しばらくして乃木が声をひそめて言った。

「あいつ、僕たちの足もとばかり見てたぜ。さては僕たちに嫌疑をかけてるんだな」

「どうもそうらしいな」

 と僕も相槌(あいづち)を打った。

「時々やって来られちゃ、かなわんな」

 風見は黙っていた。不快そうな顔色だった。まあこの三人の中で、乃木は正業についているし、僕は居食いだし、カツギ屋などやっている関係上、風見が一番刑事には面白くないにきまっている。それからそこらを片づけて、それぞれの寝床に入ろうとする時、風見が思い詰めたような声を出した。

「おい。あの泥棒を、俺たちの手でつかまえてやろうじゃないか。そうでもしなきゃ、気がおさまらない」

「そりゃいいね」

 と僕も賛意を表した。

「乃木も探偵趣味があるし、風見は力が強いし、その気になりゃつかまえられるかも知れないな」

 ところがその翌日の夕方、一町ばかり離れた医者の家で、干してあった衣類がごっそり盗まれる事件が起った。そしてその夜、昨日の刑事がふらりと小屋にやって来た。れいの如く焚火の最中にだ。

「えへへ、昨晩は失礼」

 そんなことを言いながら、もう火に手をかざしている。

「今日もまた出たんでね。張込みさ。刑事稼業もつらいよ」

 追い出すわけにも行かず、僕らは黙っていた。すると刑事が突然こんなことを言い出したのだ。

「この焚火のことだがねえ、危いから取締ってくれという投書が、署宛てに来てるんだがね。寒いことは寒いだろうが、止めてくれんかね」

「そうですか」

 と僕が答えた。

「じゃ少しつつしむことにしよう。でも、その投書は、それだけですか?」

「いや、えへへ」

 れいのいやな笑い方をした。

「まあその他、いろいろ書いてあったよ。米のヤミやってるとか何とかまでもね。もっとも経済違反は俺のかかりじゃないがね」

「その投書、見せて貰えんかね」

「そりや駄目だ。原則として秘密になっとるんでね」

 投書の主はムササビじゃないかと思ったが、僕は黙っていた。刑事は二十分ほど火に当りながら、むだ話などして、戻って行った。帰りきわに、又寄せて貰いますよ、と捨ぜりふを残して。

「バカにしてやがる!」

 その間一言も口を利かなかった風見が、はき出すように言った。

「俺たちを泥棒だと思ってやがるんだ。ふざけやがって」

「そう怒るなよ」

 と乃木がなだめた。

「人をうたぐるなんて、そんなに日本人同士信用し合えねえのか。何という情けない世の中だ。あいつ、三人のうちで、この俺を特別疑ってるに違いない」

 眉の根をびくびくさせて怒っている。なだめるのに骨が折れた。やけになって怒ってるような具合だった。

 それから二三日経ってだ。気持の打開をはかるためだったのだろう、風見は北海道まで鮭(さけ)の買出しに行くと言い出した。仲間に誘われたんだと言う。いくらヤミの世の中とは言え、北海道まで鮭買いはすこし空想的だと思ったが、別段とめる筋合いもないので黙っていた。近距離の米かつぎでさえしばしば没収されるようなへマなところがあるのに、そんな遠走りはすこし無茶だ。

 そして風見は五日間留守をした。

 その間に、刑事が一度、ムササビが二度、訪れてきた。近所ではまたこそ泥が一件あった。将棋六段の留守宅に忍び入って、将棋盤と駒を盗んで逃げたという。畳の上に大きな泥の足跡があったそうだ。刑事が訪ねて来たのもその夜のことで、風見の不在を告げると、うたぐるような莫迦にしたような笑い声をたてた。焚火はもう中止していたので、手をあぶるわけにも行かず、刑事はすぐに帰って行った。

 六日目に風見は手ぶらで戻って来た。顔がげっそりこけて、疲労し果てている。どうだったと聞くと、

「むちゃくちゃだよ。あんなひどい旅行、今までにやったことがない」

 首尾よく鮭は東京に持ち帰り、もうさばいて来たのだと言う。相当な金にはなったらしいが、往復の旅費と体力の消耗(しょうもう)を計算に入れると、それほど有利な買出しとは言えなかったようだ。それでもその夜は、風見が金を出して濁酒を二升買い、三人でささやかな酒盛りをした。風見は疲労のせいか、眼をきらきらさせ、身体だけ酔っても気持は酔わない風で、うわずったような声で北海道の話などをした。将棋六段の盗難事件を話すと、ひきつれたような笑い声を発して、「これであのデカにも判っただろ。俺にゃアリバイがあるんだからな」

 この武骨な元下士官が、なぜアリバイなどとしゃれた言葉を知っているのか、それは乃木が教えたのだ。僕らは笑った。ついでに刑事の無能さを嘲笑し、こそ泥の敏速さを称讃さえもした。はたから見ている分には、これは結構面白い出来事だったからだ。

 ところが、結構面白いと義理にも言えない大事件が、それから、三日目に発生した。僕らの留守中、小屋に怪盗が侵入して、目ぼしいものをごっそりやられてしまったのだ。

 

 その時、風見は買出しに、乃木は区役所に、この僕はと言えば、新聞で社員を募集していた某出版社に出かけて、三人とも留守だったのだ。僕は朝十時に出かけて、夕方四時に戻って来たのだから、その間に侵入されたわけになる。近所の人の話によると、十七八の若者がリヤカーを引いてきて、小屋を出入りして荷物を運び出し、リヤカーに満載して立ち去ったと言う。何故とがめなかったかと言うと、真昼間のことだし、その若者の半纏(はんてん)にナントカ運送店と書いてあったから、てっきり引越しだと思って眺めていたんだそうだ。僕はケチで物惜しみのたちだから、すっかり仰天し、動転し、惑乱した。着ているものだけはたすかったが、あとは布団だけ残して、衣類も行李ぐるみ、持って行かれてしまった。僕の次に仰天したのは乃木明治で、これもすっかり打ちしおれてしまったが、どういうつもりか盗賊は書籍類は残して行ったので、その点蔵書家の彼は救いを見出したようだった。蔵書と言っても、探偵小説やその文献が主で、古ぼけたものばかりだったから、盗賊はガラクダと感違いしたのだろう。

「飛んでもないことになったなあ」

 がらんとした土間で、もうヤケになって再び盛大に焚火をやりながら、二人でぼやいている時、風見が空のリュックをぶら下げ、むしろを分けて入って来た。屋内を見廻して、ぎょつと表情を変えた。額の静脈がモリモリと盛り上った。

「ム、ムササビの仕業か?」

 これが風見の芝居だったとすれば、僕は今でも彼の演技に感嘆する。しかし、芝居だったかそうでなかったかは、僕は今でも判らないのだ。

「ムササピじゃない。泥棒だよ」

「泥棒?」

 僕は事のあらましを説明した。風見はがっくりと腰をおろして、黙って僕の説明を聞いていた。ほとんど無表情な顔だった。話し終ると、火をかこんで僕らはしばらく顔を見合わせていた。

 やがて風見は、考え深そうに眼をしばしばさせ、焰の高さをはかるようにした。そして言った。

「もすこし火を弱めろや。これじゃ天井が焦げてしまう」

 僕が見た感じでは、風見はこの事件に、それほど打撃を受けていないようだった。もっとも三人のうちで、風見が一番持物は少かったし、盗まれて惜しいものは持っていなかったのだ。ムササビの仕業じゃないと判って、むしろ彼は拍子(ひょうし)ぬけがした風(ふう)だった。それから彼は立ち上った。

「一応警察に届けた方がいいだろうな」

 あんな時代のことだから、届けても品物が戻る筈もなかったが、一応そうすることにした。すると例の刑事が翌朝やって来た。

「とうとうお宅もやられましたな」

 すこし態度も丁重になったようだし、また責任も少々感じているらしかった。なるべく僕らと視線を合わせないようにして、いろいろ事情を聞いたり、屋内を調べたりして、こそこそと戻って行った。終始僕らがつめたい視線で刑事を眺めていたのは言うまでもない。刑事が帰って行くと、風見は不機嫌な動作で、リュックを手にぶら下げ、土間に降りた。

「俺は出かけるよ」

 出かける時いつもこんなあいさつなので、また買出しに出かけるのだろうと思った。ところがその夜も、翌日の夜も、風見は小屋に戻って来なかった。そして三日目に、僕と乃木宛てにハガキが来た。

『新しい住居が見つかったから、そちらに引越すことにした。君たちにも気の毒したな』

 文面はそれだけだ。消印は下谷になっている。

 刑事が再び訪ねて来た時、そのハガキを見せたら、じだんだを踏むようにして口惜しがった。

「犯人はあいつだったんだ。もすこし様子見て、現行を押えようとして、逃げられた」

 刑事の説明では、僕らの盗難も風見の仕業で、運送屋をよそおった若者は、彼の共犯だという。ハガキの『気の毒したな』というのは、そんな目に合わせて気の毒だったという仁義だという説明だ。そんなことはあるまいと僕が言うと、刑事はいろいろな傍証をあげて、風見を犯人と断定した。その傍証のかずかずはもう忘れてしまったが、聞いているうちに段々に半信半疑の状態に追い込まれたのは事実だ。しかしもし彼が犯人とすれば、風見のその心理については、僕は今でも納得(なっとく)が行かない。もう一息で判りそうな気もするが、かんじんなところで漠とぼけてしまう。

 風見がいなくなったものだから、僕と乃木はたちまち支えを失って、それから十日目頃に、ムササビによってもろくも小屋を追い出されてしまった。追い出されたら追い出されたで、また直ぐ次の住居が見つかるから、世の中ってふしぎなものだ。

 それ以来、乃木とも、もちろん風見とも、一度も顔を合わせない。もう七年も経つから、風見と会って当時の真相でも聞きたいと思うが、連絡がないからそれも果たせない。乃木については、それ以後探偵雑誌など気をつけて見ているが、まだ彼の名前には接しないようだ。同居人が泥棒かどうかも見抜けないような男だったから、探偵小説を書いても、あまりパッとした出来ばえではないのだろう。しかしその点では僕も同じだから、あまり乃木の悪口も言えないようだ。

諸國里人談卷之五 大鼠

 

    ○大鼠(おほねづみ)

信濃國上田の邊の或(ある)寺に猫あり。近隣の猫おどかし、喰殺(くひころ)しなどして、

「世にいふ『ねこまた』なり。」

といへども、流石(さすが)、寺なれば、追放(おひはなち)もせで、飼(かひ)けり。

一日(あるひ)、田舍より野菜を商(あきなふ)土民來り、此猫を見て、

「世には、かゝる逸物(いちもつ)も、あるものかな。」

と、こよなふ、ほうびしけり。

住僧の云〔いはく〕、

「所望ならば、得さすべし。」

此男、大きに悦び、厚く礼して、もて行〔ゆき〕けり。

二、三日過〔すぎ〕て、彼(かの)男、菜・大根やうのものを以て謝し、

「御影(〔お〕かげ)によりて、年月の難を遁(のが)れたり。」

といふ。

其(その)謂(いゝ[やぶちゃん注:ママ。①③とも。])れを問ふに、

「我家、惡鼠(あくそ)ひとつありて、米穀をあらし、器物を損ふ事、年〔とし〕あり。これは、さる事なれども、八旬にあまる老母あり。夜每に此髮をむしるを、夜すがら、追ふ事、切(せつ)なり。晝も、他行〔たぎやう〕の時は、近隣へ預置(あづけおく)也。此鼠をさまざまに謀(はか)れども、取得〔とりえ〕ず。あまた、猫を求め合〔あは〕するに、飛〔とび〕かゝつて、猫を喰殺(くひころす)事、數あり。きのふ、當院の猫にあはせければ、互にしばらくためらひけるが、如ㇾ例(れいのごとく)、鼠、飛付〔とびつ〕くを、猫、則〔すなはち〕、鼠を喰ふ。ねずみ、また、猫をくらひて、兩獸、共に死(しゝ)ける。」

と也。

その所を「鼠宿」といふ。その猫・鼠の塚あり。上田と屋代(やしろ)の間なり。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。これは私の『柴田宵曲 妖異博物館「猫と鼠」』で宵曲が現代語訳で紹介し、私も本条を吉川弘文館随筆大成版で電子化している。それと比べて戴きたいが、今回の電子化で、例えば、吉川弘文館版が「御影」を「御陰」、「預置也」を「頼み置くなり」と誤判読していることが判った。後者は意味が異なるひどいものである。

「八旬にあまる」八十歳を越えた。

「むしる」「毟(むし)る」。鬢付け油の匂いに引かれたものか。

「謀(はか)れども」試みて退治しようとしましたが。

「數あり」「かずあり」で「何度もあった」なのであるが、私は「あまた」(「數多」)と読みたくなる。

『その所を「鼠宿」といふ。その猫・鼠の塚あり。上田と屋代の間なり』今回、改めて探してみたところが、「鼠」という地名を発見した!

長野県埴科(はにしな)郡坂城町(さかきまち)南条(みなみじょう)鼠(めずみ)!ここ。グーグル・マップ・データ)

しかも直近の国道十六号線の信号機の名称も「ねずみ」!グーグル・ストリートビューを見よ!)

さらに「鼠宿」で調べてみたところが、もっともっと豊かな意外な話が見えてきたのだ!!!

そもそもさ、考えてみりゃ、完全な悪鼠(あくそ)なら、塚は猫だけでよく、「鼠塚」は造らんし、地名にするなら「猫」で「猫宿」だよね!?

それは、個人ブログ「信州小諸通信」の「鼠(ねずみ)宿」を読んで、「なるほど!!!」と膝を叩いたもんだ!!!

それによれば、まず、大方の人が想像されていると思われるが、ここは正式な江戸時代の宿場ではない。『北国街道で上田宿の次は坂木(坂城)宿ですが、その間に鼠宿と言われる間宿があります。国道を通ると信号機に「ねずみ」と掲げてあるのをいつも面白く見ていましたが、ここは正式な宿場ではなく、松代藩が私的に設けた間宿』(あいのじゅく)『とのことです。したがって本陣や旅籠などはなく、お茶屋があった程度のようです。宿場を思わせる史跡らしいものはありませんが、一部国道の脇に記念ストリートが手入れされています』とあって、以下にある、平成六(一九九四)年八月に坂城町が建てた「北国街道鼠宿跡」の電子化翻刻を引用させて戴くと(一部のアラビア数字を漢数字に代えさせて貰った)、

   《引用開始》

 ここ鼠宿は、北国街道の上田宿と坂木宿の間宿(あいのじゅく)であった。真田氏は元和八年(一六二二)上田から松代に移ると、当時南条村と称していた金井村以南の地を鼠宿村と改め、翌九年に鼠宿村の北部と金井村の南部を合わせて新たに新地村を作ると共に、鼠宿・新地両村の共同経営とする「鼠宿」の宿場造成に着手した。

 上田・坂木の両宿は幕府公認の本宿で、鼠宿は、松代藩が設けた私宿であった。幕主の参勤交代・領内見分、藩士の日常出張等の際の宿泊・休憩の接待や、藩の荷物の継ぎ立てに当たらせ、口留番所を設けて人や物の出入りを取り締まった。

 岩鼻は松代領と上田領の境界で、東・北信を結ぶ経済・政治上の要衝であり、鼠宿の口留番所における人と穀物・酒・漆等に対する取り締まりは関所なみの厳しさであった。

 岩鼻はまた坂木の横吹坂と並ぶ街道の難所で、加賀の前田侯は参勤交代の際岩鼻を通過すると、飛脚をたてて無事を国許に伝えたという。

 宿場の南北の入口に桝形があり、道路は鼠宿・新地両村境でカギ形に屈折し、道路の中央に用水を通し、川の東に沿って柳・榴・海棠等の並木があり、井戸がその間に点在した。

 本陣(正式名は御茶屋)、脇本陣、問屋、馬宿のほか、一般人の休息する茶屋もあって、宿場はにぎわった。宿場南端の会地早雄(おうじはやお)神社は由緒深い社で、境内に江戸時代に建立の万葉歌碑と明治に建立の芭蕉句碑が並ぶ。

 明治維新を迎えて宿場は廃され、明治九年(一八七六)に北国街道は国道となったが、後信越本線の開通により街道交通はさびれていった。

 以来幾多の変遷を経、今岩鼻の国道は新たな車時代の難所となり、建設省によって急崖が削られ、国道の拡幅、歩道の新設、緑地帯の造成の画期的な工事が竣工した。これを記念し、昔日の面影をしのび、これを記して後世に伝えるものである。

   《引用終了》

とある。さて、肝心なところはここからで、ブログ主の著作権を侵害はしたくないのであるが、これはこの方の分六記事を殆んど引用しなくては、私の驚愕と感動は伝わらぬのである(以下、太字で示したのは私である)

   《引用開始》

 この番所の関所並みの取り締まりは厳しく、品物や人の出入りを見張ったといい、寝ずの見張りがいたので「寝ず見」が「ねずみ」になったという説もあるそうです。

 また、「鼠」をめぐる民話も伝わっているとか。

 昔、この地に風土病の原因の「ツツガムシ」が住み着き、住民が困っていると、大きな鼠が現われツツガムシを退治してくれたそうです。住民は大変感謝して「鼠」を神と崇めたのですが、ツツガムシがいなくなって、鼠は村の産業の「蚕」を食べるようになりはたはた困ってしまいました。そこへ今度は大きな唐猫が現われ、鼠を退治してくれたそうです。そんな関係で鼠という名が残ったそうな。

 この民話には、似たような話がいくつかあるそうですが、唐猫に退治された鼠は、苦しさのために当時その千曲川畔にあった湖に逃げ、とうとう逃げる為にその湖の岩肌を噛み切った為に、大氾濫が起こり、鼠も唐猫もその強流に流されてしまったとのこと。そのために、ここの千曲川は東西に大崖が迫った地形になっています。今、岩鼻と言われる山並みが千曲川まで迫って断崖を造っているのに合う話で、楽しくなります。鼠の住民は、ツツガムシを退治してくれた鼠を崖の岩屋に祀り、唐猫は下流の篠ノ井塩崎まで流され、その地の人々に祀られ、[やぶちゃん注:「それが」。]現在もある「軻良根古(唐猫)神社」だそうです。なかなかスケールの大きなロマンある民話です。

   《引用終了》

サイト坂城町の民話の「神ネズミと唐猫様も参照されたい。これで「崖の岩屋」の場所も判った。まず、

この鼠を祀った「崖の岩屋」は現在の長野県上田市小泉にある「半過の岩鼻」だ! だ!(グーグル・マップ・データ。右コンテンツの写真の中に猫と鼠のキャラクターが仲良くいる看板もあるノダ!)

「唐猫」の「祀られ」ているという「軻良根古(唐猫)神社」は長野市篠ノ井塩崎の(グーグル・マップ・データ)だ!

なお、重症例では播種性血管内凝固症候群で死に至ることもある古典型「ツツガムシ病」の病原体である、プロテオバクテリア門 Proteobacteria アルファプロテオバクテリア綱 Alphaproteobacteria リケッチア目Rickettsiales リケッチア科オリエンティア属オリエンティア・ツツガムシ(・リケッチア)Orientia tsutsugamushi を媒介する鋏角亜門クモ綱ダニ目ツツガムシ科アカツツガムシ属アカツツガムシ Leptotrombidium akamushi (リケッチアも保有しないツツガムシもいる。〇・一%から二%のグループが経卵伝搬によってリケッチアを保有する)、幼虫期に主に野鼠(山林・農耕地・雑林などに棲息する相対的には中・小型の、哺乳綱ネズミ目ネズミ科アカネズミ属アカネズミ Apodemus speciosus やアカネズミ属ヒメネズミ Apodemus argenteusなど)等に吸着するから、そうした野鼠を食い殺したと考えれば一応は腑に落ちる(但し、野鼠でない家鼠にもツツガムシの幼虫は吸着すると思われ、また自然界で野鼠類などの動物は「ツツガムシ病」のヒトへの感染増幅動物なのではなく、ダニのライフ・サイクルを完結させる点に於いて重要な存在なのであるというところは押さえなくてはならない。但し、古典型ツツガムシ病の原因となったアカツツガムシは現在は消滅したと考えられていると、一部で参照した国立感染症研究所ツツガムシ病は」にはある)。]

譚海 卷之三 (同御所作同御近侍)(その二)

 

(同御所作同御近侍)

○節會(せちゑ)の日、凡人(ぼんじん)禁中縱觀(しようくわん)をゆるさるゝ事、正月十七日・三月三日・盆業(ぼんげふ)の日、その外も有(あり)。其時に至尊を拜し奉る事有。廊より紫宸殿(ししんでん)へ渡御の時、女嬬(ぢよじゆ)前後に扈從(こじゆう)し、ひあふぎを開き連接して龍顏(りやうがん)を障翳(しやうえい)し奉る、一片の霞の如し、唯袞敞(こんしやう)以下を拜み奉る事也とぞ。正月十七日は、關東より舊年鷹野にて獲られし鶴を必ず獻ぜらるゝを料理有(ある)事也。殿前に舞樂を陳列し、其間殿上にて鶴を料理す、鶴の庖丁とて恆例の事也。上巳(じやうし)は鷄合(とりあはせ)、盆には燈籠を點ぜらる、皆諸人拜見を許さるゝ事とぞ。

[やぶちゃん注:本条は独立して「○」で始まっているが、目次には当該項がないので、前条を丸括弧附きで掲げておいた。

「縱觀」自由に見ること。無論、ある程度である。

「盆業」盂蘭盆の儀式。

「龍顏」天皇の顏(かんばせ)の尊称。

「障翳」遮り隠すこと。

「袞敞」(現代仮名遣「こんしょう」)よく判らぬ。袞衣(こんえ・こんい)ならば、唐風の天皇の礼服の一種で、孝明天皇までは即位の儀などに於いて冕冠(べんかん)とともに用いられた。「敞」は「高い・広い」の意であるが、尊敬、或いは「ゆったりとしているさま」の添え辞か。

「上巳」三月三日の桃の節句。

「鷄合」同日、宮中では雄鶏を闘わせる儀式が行われた。伝承では唐の玄宗が乙酉の年の生れであったことから闘鶏を好み、また闘鶏を行って後に間もなく位に就いたため、治鶏坊を建てて闘鶏を吉祥としたからという。本邦では「日本書紀」雄略紀に雄鶏を闘わせた記事が見えることから、中国文化伝来と共時的に奈良時代以前から行われていたことが知られるものの、遊戯として流行をみたのは平安以降であった。しかし、ある記載では、「上巳の祓禊(みそぎはらえ)」から派生した知られた風雅な「曲水の宴」などは実は室町以降は殆んど行なわれなくなり、専ら、この鶏合せが流行ったともある。]

譚海 卷之三 同御所作同御近侍

 

同御所作同御近侍

○今上の御近侍はすべて女房を召仕るゝ、皆何某佐(なにがしのすけ)と稱す。月水(うわつすい)の時御番を缺(かく)事多ければ、老女をまじへ仕るゝ也。此佐達兩手ことごとく胼胝(たこ)ならぬ人なし、御衣(おんぞ)を奉らんとして手を洗(あらひ)てつかふまつり、終りて又手をあらふ。一事に兩度づつ手をあらふ事にて、尤(もつとも)水を用(もちふ)る事なれば、更衣配膳盥漱(くわんそう)しげき故(ゆゑ)然りといへり、又禁中伺公の公家衆、寒中といへども素足也。六拾以上の老人ならでは足袋を許るゝ事なし。因て公家衆みな足の表裏、あかぎれなきはなしとぞ。

[やぶちゃん注:禁裏の仕来たり三連投であるが、実はこの巻之三は全体が皇室・公家方及び京都の事物と慣習風俗に特化した特殊な一巻なのである。標題「同御所作同御近侍」は「同じく御所作、同じく御近侍」の謂い。

「月水」「げつすい」とも読む。月経。生理。

「盥漱」(現代仮名遣「かんそう」)手を洗い、口を漱(すす)ぐこと。身を清めること。

「伺公」「伺候」に同じい。]

譚海 卷之三 今上御位の間の事

 

今上御位の間の事

○今上の御所作、每朝寅の刻御行水御裝束にて、御拜の禮行るゝと也。御不豫の外故事なし、殊に御苦勞なる御事と承りし。されば櫻町天子御製に、

 朝ごとの鳥の初音におき出でて夜深くいそぐあさまつりごと

と遊されしよし、此宸翰閑院宮(かんゐんのみや)へ下されけるとぞ。但(ただし)御幼稚にて御卽位あれば、太政大臣右の御名代を勤(つとめ)らるゝ也。その時は攝政殿と申す、天子御みづから御拜行(おこなはる)る時は攝政の職なし。

[やぶちゃん注:「寅の刻」午前三時から午後五時。

「御行水」禊である。

「御拜」八咫の鏡のレプリカが飾られていた賢所(かしこどころ)の礼拝か。

「不豫」「不例」に同じ。天子の体調不良や病い。

「閑院宮」宝永七(一七一〇)年に世襲親王家の一つである閑院宮家を創設した直仁親王(宝永元(一七〇四)年~宝暦三(一七五三)年)。

「御幼稚にて御卽位」前条にも出た桜町天皇(享保五(一七二〇)年~寛延三(一七五〇)年)の即位は享保二〇(一七三五)年四月で即位当時は満十五歳で、幼稚とは言えないと思うが。

「太政大臣」「攝政」桜町天皇の即位の折りは、太政大臣も摂政も任官者はいない。関白なら近衛家久(貞享四(一六八七)年~元文二(一七三七)年)であり、彼は少し前の享保一八(一七三三)年の凡そ一年だけなら、中御門天皇の摂政ではあった。ここは一般論を述べているのであろうが、どうも文脈がすっきりしないのである。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 タカノハ羽・タカノハタイ(二図)・カタバタイ (タカノハダイ)

 

Takanoha

 

タカノ羽

 

タカノハタイ

 

Takanohadai

 

タカノハタイ

 

Takanohadai2

 

カタバタイ 佐州方言

Katahadai

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。四図は巻子本の同じパートにあるが、四枚とも別々に描かれたものが切り貼りされてある。体表紋に相違があるが、最初の三図の魚は特異な扁側と傾き具合の全体形状の酷似から、最後の一枚は形状にやや難があるものの、典型的な縞紋と呼称の類似性から、一括して(四枚目は完全に一括同定することに躊躇は感ずる)、

スズキ目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Cheilodactylus zonatus

としておく。茶褐色の斜帯は白帯部が褐色を示す個体では、必ずしも明瞭でない場合もあり、丹洲の描画の不正確さは今までも幾らも見てきた。]

諸國里人談卷之五 黑嶋鼠

    ○黑嶋鼠(くろしまのねづみ)

伊豫國矢野保(やのほ)の内、黑嶋(くろしま)といふは、一里ばかり離れたる所也。かの嶋に「かつらはざまの大工」といふ網人、「魚(うを)を引〔ひか〕ん」と、うかゞひありきけるに、魚のある所は、光りて見ゆる物なるが、磯ちかくに、おびたゞしく光る所、あり。よろこび、網をおろしけるに、魚にはあらで、若干(そこばく)の鼠を引〔ひき〕あげける。岳(おか)にあがると、鼠は、ちりぢりに迯(にげ)うせたり。それより、此島に、鼠、おほくありて、畑(はた)ものを喰(くひ)うしなひて、今に至(いたつ)て、耕作する事、なし【「著聞」見。】。

[やぶちゃん注:動物奇談。本条の挿絵がここにある(①)。無論、「怪奇大作戦」の「二十四年目の復讐」(上原正三・脚本/鈴木俊継・監督)じゃあるまいし、海の底に鼠が住んでいた訳ではないが、河川や海峡等を集団で渡ることは実際にあり得ることであろう。実は、私の好きな江戸後期の旅行家で博物学者の菅江真澄(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)は「筆のまにまに」の「遊巨斯理(オコシリ)の鼠」の中で後に掲げる「古今著聞集」を引きつつ、海に鼠が入って、それが海鼠(ナマコ)になるというトンデモ話を菅江は書いているのである。東洋文庫版の「菅江真澄随筆集」(一九六九年刊)のそれを引いておく(踊り字「〱」は正字化した)。

   *

 澳志梨(おこしり)は松前の西、江指(エサシ)浦の南洋(オキ[やぶちゃん注:「洋」のみのルビ。])に在る大嶋也。志里は嶋てふ蝦夷語(コトバ)なり。游古(おこ)も夷言にや。また沖(オキ)を訛り云へるにや。此澳(オコシリ)[やぶちゃん注:誤字か。]に鼠のいと多く蛇もいと多し。蛇のいといと多かるとしは鼠をひしひしと捕り盡しぬれど、また鼠の多かるとしは蛇また鼠に喰はれぬ。そは蛇一に鼠七八とりすがれば、あまた群れ來て喰ひぬといふ。まして穴籠りのとき蛇みな鼠の餌(エ)となれりといへり。天明・寬政のころならむか。蝦夷洲(エゾノコタム)に鼠の大に群れて小童(ヘカチ)などは鼠に嚙れ死(ライスルモノ)多かりしといへり。捕鼠(エリモコエキ)とて是を狩れどもつきず、なほいやまさりて、寢ればあし手耳はななンどを嚙(カメ)ば、通夜(ヨモスガラ)いもやすからざりしが、冬の初めごろひとつとなくいづこにかうせしといふ。また海の色だちて鰯にや、なににまれ大漁ならむと、ここらの舟をのり出て南部の浦々、松前のうらうら網引(アビキ)したるにみな鼠なりけり。網をぬへば某百(イクバク)萬ならむか、濱に引上て山なす鼠の海に入り、山にも入りてなごりなう逃げうせたり。あやしき事也。海鼠(ウミネヅミ)など云ふものにやとかたり傳ふ。ある人云、鼠は海に入りて海參(ナマコ)と化る[やぶちゃん注:「なる」。]也。そはまだ作ざりし[やぶちゃん注:「ならざりし」。]鼠也。海鼠と書てなまことよむも、よしある事ならむといへり。『古今著聞集』魚蟲禽獸の件(クダリ)に、「安貞《後堀川院の御代なり》の頃、伊與國矢野保(ヤノホ)のうちに黑嶋と云ふしまあり。人里より一里はなれたる所也。かしこにかつらはざまの大工といふあみ人あり。魚をひかむとてうかがひありきけるに、魚有る處よりひかりて見ゆるに、かの島のほとりの磯ことに夥しくひかりければ、悦て網をおろし引たりけるにつやつやとなくて、そこばくの鼠を引あげて侍りけり。その鼠引上られてみなちりちりに逃うせけり。大工あきれてありける。ふしぎの事也。すべてかの島には鼠みちみちて、畠のものなどおもみなくひうしなひて當時までもえつくり傳らぬとかや。くがにこそあらめ海そこまで鼠の侍らん事まことにふしぎにこそ侍れ」と見えたり。いにしへも鼠の網曳(アビキ)ありし事也。又澳嶋(オコジリ)の鼠は畑こそあらね、此島に大蕗(オホフキ)の多かれば、此蕗の根を掘りてはみ、こと草をもむれはみ、また海底の小鮑(トコブシ)、また大鰒[やぶちゃん注:「おほあはび」。]もかつぎ上てくひぬといへり。伊豫國の黑嶋におなじものがたり也。

   *

こう書かれると、う~ん、飢えた鼠なら……などとちょっと思いたくなるが、タイド・プールでトコブシならまだしも、海底の大アワビはあり得ないな、残念ながら。

 現在、愛媛県には「黒島」は二つある。一つは愛媛県西宇和郡伊方町にある黒島で、佐田岬半島の南側の根の方の海上にあり、東の現在の八幡浜市保内町からなら、航路実測で約五キロメートルほどあるここ(グーグル・マップ・データ)である。一方で、そこから南南西三十二キロメートルほど離れた、宇和島市蒋淵(こもぶち)にも黒島がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは東直近の宇和島市津島町北灘の福浦から航路実測で約四キロメートルである。前者の伊方の黒島の半分ぐらいしかない。グーグル・マップの航空写真を見る限りでは、孰れも、現在は無人島のように見え、人が嘗て住んだとなら、写真で見る限りでは、前者で、後者は如何にも狭く、耕作して畑を優位に作れそうには私には見えない(ネット検索により、両島とも現在は無人島であることが確認出来た)。しかし、本文では前に「矢野保(やのほ)の内」という地名を出している(これで一つの地名である。後述)。これは佐田岬半島の南の付け根に位置していた旧保内町(ほないちょう)、現在の八幡浜市保内町のことで、ウィキの「保内によれば、『この地域は、奈良時代から江戸時代にかけて、郷名を矢野郷、矢野庄などと呼ばれていた。「矢野保の内」から「保内」になったといわれている』(下線太字やぶちゃん)とあるから、間違いない。従って、この黒島は前者の愛媛県西宇和郡伊方町にある黒島に同定される。

 さて、次に本条のネタ元を示す最後の割注『「著聞」見。』であるが、これは鎌倉時代に伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集『「古今著聞集」に見ゆ」』の意である(同書は単に「著聞集」とも呼ぶ)。その最終巻である「巻第二十 魚虫禽獣」の中の以下である。

   *

   伊豫國矢野保の黑島の鼠、海底に巢喰ふ事

 安貞[やぶちゃん注:一二二八年~一二二九年。鎌倉幕府は第三代執権北条泰時。]の頃、伊與(いよ)の國矢野保(やのほ)のうちに、黑嶋と云ふ嶋あり。人里より一里ばかりはなれたる所也。かしこに、「かつらはざまの大工」といふ網人(あみびと)あり。「魚をひかむ」とて、うかがひありきけるに、魚の有る處、夜、ひかりて見ゆるに、かの島のほとりの磯(いそ)ごとに、夥(おびただ)しくひかりければ、悦(よろこび)て網をおろして引きたりけるに、つやつやとなくて[やぶちゃん注:「つやつやと」はここは呼応の副詞で、下に打消の語を伴って、「少しも・全く・一向に」の意。魚は一尾たりともかかららず。]、そこばくの[やぶちゃん注:夥しい数の。「若干」(幾らか)の意は後発。]鼠を引きあげて侍りけり。その鼠、引き上げられて、みな、ちりぢりに逃げ失せけり。大工、あきれてぞありける。ふしぎの事也。すべて[やぶちゃん注:総じて。だいたい。]、かの島には、鼠、みちみちて、畠のものなどをも、みな、くひ失しなひて、當時[やぶちゃん注:記載時の現在。今もなお。]までもえつくり得侍らぬとかや。陸(くが)にこそあらめ、海の底まで鼠の侍らん事、まことにふしぎにこそ侍れ。

   *

大本敬久ブログ愛媛の伝承文化の「ネズミ騒動で、

   《引用開始》

 戦後間もない昭和二十年代前半に八幡浜市大島の南部に位置する地大島[やぶちゃん注:「じのおおしま」と読む。グーグル・マップ・データを参照。北に黒島を配した。]で、野ネズミが大発生したことがある。この頃、宇和海のいくつもの島々でネズミが大発生しているが、「ネズミ騒動」とも呼ばれるこの出来事は全国的にも有名である。一般的には昭和二四年の宇和島市戸島のトウモロコシ全滅がはじまりで、翌二五年には日振島で大発生し、三九年に下火になるまで続いたとされる。しかし地大島での発生は戸島とほぼ同時、もしくは少し前であった。地大島は大島の住民が畑を耕作しているものの無人島であり、人的被害が少なかったため、「ネズミ騒動」の震源地とはされなかったのだろう。

 なお、大島の古老によると、それ以前にも地大島ではネズミが大発生したことがあったらしい。その時に、漁師が魚だと思って網をひきあげると、大量のネズミが引っかかったという話がある。ネズミは大群で海を渡るとされ、現に昭和二十年代の地大島のネズミの大群も突如としていなくなったといわれ、他の島へ渡っていったという人もいる。また、ネズミが大群で海を渡るとき海面が褐色に染まったともいわれている。

 こういった話は、鎌倉時代初期成立の「古今著聞集」二十魚虫禽獣に記載されている宇和郡黒島(伊方町沖に浮かぶ無人島)の漁夫が海中から多くのネズミをひき上げたという説話に通じるところがある。

[やぶちゃん注:中略。ここに私が先に掲げたそれが引用されている。]

 これは今から八百年近く前の安貞年間の説話の中で紹介されたもので、話が誇張されていると見る向きもあるが、これと似た出来事がここ百年の内にも、近くの地大島で起こっているので、事実ととらえても良いだろう。

 戦後のネズミの大発生は宇和海の島々の開発が進んだことが原因ともいわれるが、開発以前にも起こっており、実は自然のサイクルで周期的に起こりうることなのかもしれない。

   《引用終了》

と記されておられる。

「かつらはざまの大工」新潮日本古典集成の「古今著聞集 下」(昭和六一(一九八六)年刊/西尾・小林校注)の頭注によれば、『島内に住み、大工を兼業していた漁師か。伝未詳』とある。]

2018/08/01

甲子夜話卷之五 1 樂工、盲人、俳優等達藝の事

 

 甲子夜話卷之五

 

5-1 樂工、盲人、俳優等達藝の事

林氏云。小技曲藝も、名人と呼ばるゝほどの者には、おもしろき噺あるものなり。昔【應仁頃にもありしか。追考すべし】大神基雅と云し伶人【此人、八幡山に住しが、舍傍によき泉ありければ、山の井と稱しけるより、子孫其苗字となれり】、石淸水八幡山を笛を吹ながら下る下る、戲に萬歳樂一曲を逆に吹たりとぞ。聞人驚歎に堪ざりしとなん【この頃は、伶人八幡山住居のもの多し。其住し伶人ども聞しなり】。雅俗の辨は違へども、近來これに似たることは、盲坐の撿校山田と木村と、俗筝の技は名手と呼るゝ匹敵なりしが、山田は聲よきを以て人々の感深し。木村は天性聲あしければ、其技まで劣るやうに世人思へり。一日兩盲間奏の折ふし、風と段物を逆に彈ずべしと云出したるものありて、兩盲倶に彈じかゝりたるに、山田は半にして躓き、全く終ること能はず。木村は一手も誤らず、尾より頭まで逆彈とゝのひければ、一坐の人々、始て木村の技の山田に優れることを知しとなり。此木村、中年後に至り、俗筝技を弟子に讓り、己は貨殖のみに耽りしが、老後の慰に古樂を學んとて、樂器など買求め、餘が許に來り、奏樂聞ことを願請しけるにより、手の揃たる日の管絃小集に招きしかば、殘樂を聞て歎服し、此等の事、中々容易に出來べきこととは思はれず。最早今日にて思切りたりとて、樂學ぶ志を廢しぬ。繁手に馴たる輩は、音樂はいと易きものと計心得るが常の事なり。流石木村は、俗筝上手ほどの耳なりと話なりき。

又、賤伎にも前條に類する事あり。世に名高き元祖市川團十郎【柏筵】、始て小田原の外郎賣と云狂言をなし、その藥の功能を種々のはや言に云ふて、聞く者其辯舌を驚歎して、一時を動したることあり。夫より京に上り、此狂言をせよと勸る人ありて、京都に抵り、彼戲場に出て外郞賣せんとす。此行は柏筵初てのこと故、まづ京人え會釋を言んとて、戲臺へ坐し、かの藥賣の狂言を始て御目にかけ申べしなど言内、見物の中より一人進み出で、外郞の功能はかくなりと、柏筵が嘗て説し如く、一字一句も不ㇾ違、雄辯を振ひ殘らず言述たりしにぞ、見物の諸人皆々あきれて居るとき、柏筵あつと平伏し、恐入たる御ことなり。さすが京都の御方、感心奉れり。もはや仕り候わざ無ㇾ之候。去ながら遙々と上り來候迄の御慰に、かくぞ申上ん迚、かの早言を一字每に逆語にして、言ひ伸ける手際の敏捷なるには、見物一同驚き入たり。初め恥辱を與んとして言たる者も閉口して、中々その逆語は思ひよらぬこと故、すごすごとして退き、却て柏筵の名益々高く京師に響きたりと云。

■やぶちゃんの呟き

「林氏」複数回既出既注の江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。静山の最も親しい友人の一人。甲子夜話卷之一 1~5の「5」の私の注を参照。

「應仁頃」一四六七年から一四六八年。

「大神基雅」姓は「おほが(おおが)」と読む。大神氏山井氏(本流)は平安以来の楽人で特に笛の名家である。但し、大神氏系図の「山井氏」系にはこの名はない。

「伶人」楽人。

「八幡山」京都府八幡市の石清水八幡宮のある男山(おとこやま)の別称。最高峰の鳩ヶ峰は標高百四十二・四メートル。(国土地理院地図)。

「戲に」「たはむれに」。

「萬歳樂」雅楽の曲名。唐代に賢王が国を治めた際に鳳凰が飛び来たって「賢王万歳」と囀ったと伝えられるところから、鳥の声を楽とし、その飛翔を舞いにしたものとされる。本邦に伝わって後は、めでたい曲として即位大礼などの機に奏されることが多かった。

「一曲を逆に吹たり」音符を総て終りから逆に吹いた。

「辨」「わきまへ」。

「撿校山田」江戸時代中期の音楽家で山田流箏曲の始祖山田検校(宝暦七(一七五七)年~文化一四(一八一七)年)。名は斗養一(とよいち)。幼時に失明。宝暦末に江戸に下った長谷富検校門下の町医者山田松黒(しょうこく)から箏曲を学んだ。寛政九 (一七九七) 年に寺家村検校を師として検校に登官した。この頃までに、河東節その他の三味線音楽を摂取し、箏を主奏楽器とする新様式の歌曲を創始、江戸の箏曲界を席巻した。

「木村」山田流箏曲家元で初代山木検校(?~文政三(一八二〇)年)の前名。名は松州一。山田検校に学び、寛政一二(一八〇〇)年、家村検校に師事して検校に登官し、江戸で活動した。山木検校を名のった時期は不明。

「風と」「ふと」。「不圖」。

「段物」箏曲の曲種の名。歌のない純器楽曲で「五段」「六段」「七段」「八段」「九段」「乱(乱れ)」などの楽曲がある。曲全体が幾つかの「段」に分かれる。本来は独奏曲であるが、異なる段との合奏があるから、ここはそれであろう。

「貨殖」貸金業。検校には有意に多かった。

「古樂」雅楽。

「願請」「ぐはんせい」と読んでおく。「請い願うこと」の意ではあるが、あまり見ない熟語である。

「小集」「こあつまり」と読んでおく。

「殘樂」雅楽で管弦で行われる変奏の一種。合奏楽器の中で普段目立たない存在である箏の特別の技巧を聞かせるために、打楽器と笙と笛は曲の途中で次第に演奏を止め、さらに曲を反復し、その間に篳篥と琵琶もなるべく旋律の断片を奏することによって、箏の細かい弾奏を引立てる演奏形態を指す。四天王寺では「ざんがく」と呼んでいる。

「出來べきこと」「いでくべきこと」。

「繁手」「はで」。

「計」「ばかり」。

「賤伎」歌舞伎。被差別民とされていたことから、卑称の「賤」を被せてある。

「元祖市川團十郎【柏筵】」二代目市川團十郎(元禄元(一六八八)年~宝暦八(一七五八)年)。

「小田原の外郎賣と云狂言」言わずと知れた「外郎売(ういろううり)」。享保三(一七一八)年正月、江戸森田座の「若綠勢曾我(わかみどりいきおひそが)」で二代目市川團十郎によって初演された歌舞伎十八番の一つ。ウィキの「外郎売にその早口言葉の台詞が載る。また、小田原の現在も続く薬店「ういろう」公式サイトもリンクしておく。

「抵り」「いたり」。「到り」。

彼戲場」「かのしばゐ」。先の外題「若綠勢曾我」の芝居。

「會釋」役としてではなく、役者として興行の前にする挨拶。

「言ん」「いはん」。

「戲臺」舞台。

「言内」「いふうち」。と申し上げている最中。

「説し」「ときし」。

「不ㇾ違」「たがはず」。

「言述たりし」「いひのべたりし」。

「諸人」「もろびと」。

「恐入たる」「おそれいつたる」。

「無ㇾ之候」「これなくさふらふ」。

「去ながら」「さりながら」。

「遙々と」「はるばると」。

「迚」「とて」。

「逆語」「さかご」。一字一字の文字列を総て逆にして台詞をやらかしたのである。

「言ひ伸ける」「いひのべける」。「言ひ述べける」。

「與ん」「あたへん」。

譚海 卷之三 禁裏三卿幷京師風俗の事

 

 譚海 卷の三

 

禁裏三卿幷京師風俗の事

○今上御位の間は、鍼灸等用させ給ふ事なし。玉髓に刄物をふるゝ事なりがたき故、御髭爪など長ずれば、女嬬(によじゆ)齒にてくひ切(きり)て奉る事也。供御(くご)に至るまで常例の品定(しなさだめ)ありて、その餘の物は奉る事なし。甚だ御窮屈なる御事也。中古以來皆如ㇾ此(かくのごとく)、是は御堂關白殿、至尊の御進退御不自由成(なる)事に構へられたる事とぞ。次に御讓位早ければ、入内も度々あるゆゑ、外戚の權(けん)を永く保たるべき故とぞ聞(きき)侍りし。御讓位後は此制省(はぶか)るゝ也。櫻町天皇新造仙洞にうつらせ玉ふ夜、やがて供御に蕎麥(そば)を召(めさ)れしと也。御灸治も度々に及びしとぞ承りし、御位の間は宮禁の外へ行幸と云(いふ)事は絶(たえ)てなかりしを、同帝の御時關東より餘り御窮屈なる事と思召(おぼしめし)、やがて修學寺の離宮御造進せられしとぞ。已後時々御幸の御所と成しを、今仙洞御所なき故、御幸も久敷(ひさしく)行(ゆか)れず、彼(かの)離宮は靈元法皇の御時のまゝにて、老夫婦の官人預り住(すむ)といへり。

[やぶちゃん注:「三卿」意味不明。当初、桂離宮・仙洞御所・修学院離宮のことを指しているとも思ったが、桂離宮は出てこないから違う。

「女嬬」宮中に仕える下級の女官。堂上の雑用を掌った。

「供御」天皇の食膳。

「御堂關白殿」藤原道長の通称。

「至尊」天皇。

「御進退」ありとあらゆる立ち居振る舞いに至るまでの自律的判断行動の意であろう。

「櫻町天皇」(享保五(一七二〇)年~寛延三(一七五〇)年)の在位は享保二〇(一七三五)年四月から延享四年五月二日(一七四七年六月九日)で、徳川吉宗・家重の治世。桃園天皇に譲位するも院政を開始したが、三年後に脚気衝心によって三十一歳の若さで崩御した。参照したウィキの「桜町天皇によれば、政治・学問の振興策を積極的に進め、誕生日が元旦で、その時、火事があり、且つ、実績も立派という共通点から、「聖徳太子の再来」と称され、『歴史家としても知られた公家の柳原紀光も「延喜・天暦の治以来の聖代である」と評したという。烏丸光栄に古今伝授を受けるなど歌道に優れ』、『書にも優れた』とある。因みに、本書「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る記録であるが、その同時制の天皇は後桃園天皇(在位:明和七(一七七〇)年~安永八(一七七九)年)で、その前は、現在の今上天皇まででは最後の女帝となった後桜町天皇(在位:宝暦一二(一七六二)年~明和七(一七七〇)年)である。彼女はこの桜町天皇の第二皇女であった。

「同帝の御時關東より餘り御窮屈なる事と思召(おぼしめし)、修學寺の離宮御造進せられしとぞ」誤認がある。修学院離宮は十七代も前の後水尾天皇(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)の指示により、幕府(二代将軍家綱の治世)が造立したもので、調べた限りでは桜町天皇の頃には相当に荒廃していたはずである。

「今」ここ以降は切り離して、津村の記載している現在時制となる。

「仙洞御所なき故」仙洞御所は寛永四(一六二七)年に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は「桜町殿」である。その後、複数回、火災と再建が行われたらしいが、津村の記載時制の状況は不明。以下の叙述からは、建物はあるものの、荒廃している感じである。

「靈元法皇の御時のまゝにて」霊元天皇(承応三(一六五四)年~享保一七(一七三二)年/在位:寛文三(一六六三)年~貞享四(一六八七)年)。修学院離宮解説ページによれば、『霊元上皇』『は初めて離宮に行幸し』、『以後』、十『年にわたり』、『春秋に行幸』したが、『その後、荒廃し、窮邃亭以外の建物は消失した』とある。この以後というのが何年なのかが判らないのだが、仮に崩御の前年の前十年とするなら、享保一六(一七三一)年までは御幸(上皇なのでこちらを使う)に堪える状態ではあったということになる。ということは、そこから本書の記事の上限安永五(一七七七)年までの、四十六年ほどの間に急激に閑散化と荒廃が進んだということになる。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 矮雞(ちやぼ)

 

Tyabo

 

ちやぼ

     【俗云 知也保】

矮雞

     矮【鴉棤切短也不長也】

 

本綱矮雞出江南脚纔二寸許也

△按矮鷄嘴脚黃色者爲上但脚有毛者不佳尾長勾届

 頸後復曲埀者謂之佐志尾翅潤張者並佳

南京矮鷄 初來於南京最小而脚及眼色黃甚賞之

同白矮鷄 純白有尨毛冠黑者最勝焉其冠赤者呼曰

 地南京次之

加比丹矮雞 眼色黑脚亦帶黑次之

 凡矮雞不能高飛聲亦小然告時不異諸雞也矮雞交

 于和雞所生者形小而脚不甚矮曰之半矮爲下品

 

 

ちやぼ

     【俗に「知也保」と云ふ。】

矮雞

     「矮」は【鴉棤の切。「短」なり。

          「長からず」なり。】

 

「本綱」、矮雞は江南より出づ。脚、纔かに二寸許りなり。

△按ずるに、矮鷄、嘴・脚、黃色なる者を、上と爲す。但し、脚に毛有る者、佳ならず。尾、長く、勾(まが)りて頸の後〔(しり)〕へに届(いた)る〔もの〕、復た、曲〔り〕埀〔たる〕る者、之れを「佐志尾〔(さしを)〕」と謂ふ。翅、潤〔(ひろ)〕く張〔れ〕る者、並びに佳なり。

「南京矮鷄」 初め、南京より來〔(きた)〕る。最も小さくして、脚及び眼の色、黃なり。甚だ之れを賞す。

同じく「白矮鷄」 純白で尨毛〔(むくげ)〕有り。冠〔(さか)〕、黑き者、最も勝れる。其の冠、赤き者を呼びて「地南京」と曰ふ。之れに次ぐ。

「加比丹矮雞〔(かびたんちやぼ)〕」 眼の色、黑く、脚も亦、黑を帶ぶ。之れに次ぐ。

 

 凡そ矮雞は高く飛ぶこと能はず。聲も亦、小さし。然れども、時を告ぐるは諸雞に異ならず。矮雞、和雞(しやうこく)に交〔(つる)〕〔みて〕生む所の者、形、小さくして、而〔れども〕脚〔は〕、甚だ矮(ひく)からず。之れを「半矮(〔はん〕ちや)」と曰ひ、下品と爲す。

[やぶちゃん注:ニワトリの品種チャボ(矮鶏)。既に述べた通り、「天然記念物」に指定されている。ウィキの「チャボ(鶏)より引く。『多くの品種を持ち、観賞用として古くから愛好されてきた』。『東南アジアと貿易を行った朱印船や南蛮貿易、あるいはそれ以前において』、十七『世紀まで存続したチャンパ王国』(一九二年~一八三二年:ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在した王国)『の鶏品種を日本で改良し作出したと考えられている。名前の由来はチャンパ王国の主要住民であったチャム人か、そのままチャンパが訛ったとされる。当時は雑色のものであったらしい』。『「矮鶏」という漢字表記からも分かるとおり、他の品種に比べて小型であり、オスで』七百三十グラム、メスで六百十グラム『程度が標準的な体重である。また足が非常に短く、尾羽が直立していることが外見上の特徴である』。『また海外でもジャパニーズ・バンタムと呼ばれ愛好されている。こちらの由来は現在のインドネシアのバンテン州にあったバンテン王国』(十六世紀から十九世紀にかけてジャワ島西部バンテン地方に栄えたイスラム国家)『やその異称バンタムから。なお、チャボに限らず』、バンタム『と呼ばれる品種のうち』、『「真のバンタム」(true bantam)と呼ばれる品種は』、『小柄な品種が多く、格闘技の体重別階級における軽い選手の属する階級であるバンタム級の由来にもなった』とあり、以下、品種の羽色の変異等が続くが、それはリンク先を見られたい。また、神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」の「畜産業(4-087)」中外商業新報昭和六(一九三一発行電子化ている、「日本ちゃぼ倶楽部総務三井高遂氏談の「日本ちゃぼの起原とその発達が非常に勝れている。必見。

「佐志尾〔(さしを)〕」前注の三井氏の談話の中に『菖蒲尾(又は佐志尾)は立尾であり、謡羽』(うたいばね:尾の中で真ん中の長い一群の尾羽を指す語)『に添尾のあるのを八ツ尾といっている。車尾は下品とされている』とあるから、ショウブの葉或いは花(外花被片(前面に垂れ下がった花びら))に擬えたものであろう。

「南京矮鷄」個人サイト大多喜軍鶏 田舎 暮らし 千葉県 大多喜町の「矮鶏と小軍鶏で画像が見られる。但し、この名では特定出来ないという記載も見かけたので、この中には、これまた、多数の品種がいるらしい。前注の三井氏の談話の中には『「南京」は小さいという意味』とある。確かに江戸以前は小さくて可愛いものであったり、珍しいものに「南京」という名称をつけていた。

『同じく「白矮鷄」』「同じく」は後に掲げた「地南京」の名前からも、「南京矮雞」と同系の品種であることを指す。

「加比丹矮雞〔(かびたんちやぼ)〕」やはり前注の三井氏の談話の中に、『「加比丹」が舶載して来』た『という意味からであろう』とある。

「和雞(しやうこく)」雞」に出た「小國」の当て訓。

「而〔れども〕脚〔は〕、甚だ矮(ひく)からず」文脈上から少し私が補填して訓読した。全体が有意に小さい割には、それほど短くない、と謂うのである。

「半矮(〔はん〕ちや)」ルビに疑義があるが、一応、かく読んでおいた。]

諸國里人談卷之五 鯉社仕者

 

    ○鯉社仕者(こひやしろのししや)

丹波國幷河(なびかは)村、鯉大明神の仕者は鯉也。土俗云〔いはく〕、「此鯉、二献(こん)、每月、大堰(〔おほ〕い)川をくだりて、松尾明神へ仕者に通ふ」と云〔いへ〕り。また、鯉大明神の産子(うぶこ)、鯉をくらへば、立所に、口中、腫痛(はれいたむ)事、神變なり。八幡の者、鳥類を喰ひ、奈良の者、鹿をくらふ、の類ひなり。

[やぶちゃん注:現在の京都府亀岡市大井町(おおいちょう)並河(なみかわ)にある大井神社(グーグル・マップ・データ)。TANBA RAKUICHIサイト「丹波の神社によれば、『創祀は和銅三年(七一〇)』で、『御祭神は月読命・市杵島姫命・木股命(御井神)』とし、ここは『神饌幣帛料供進神社』であるとあって、『大宝二年(七〇二)に、月読命と市杵島姫命が亀の背に乗り大堰川を遡つて来られた時、八畳岩の辺りから水勢が強くなつたので鯉に乗り換へ、現在の河原林町勝林島内垣内の在元渕まで来られた。勝林島に神社を建て』、『鎮座したが、のちに現在の場所に遷した。大井は往古の湖水の中心点であつて、万一のことがあれば平地一帯は瞬時にして前の如く湖水となるのを憂へ、木股命(御井神)を勧請して守護を祈つたと伝へる』とあり、『JR嵯峨野線並河駅のすぐそば、大井の中心部に鎮座し』、『以前は並川村・大井村・宇津根村・勝林寺村・上田村・北金岐村・南金岐村・小金岐村・太田村の東半分の氏神であつた古社で』、『鯉を神の御使ひとする大井神社の氏子と地域の人々は、五月の端午の節句にも鯉のぼりを立てず、鯉を呼び捨てにせず、鯉を決して食用にしない風習を今も守つてゐ』るとある(下線太字やぶちゃん)。

「大堰(〔おほ〕い)川」京都府中部を流れる淀川水系の一部で、丹波山地の東部付近に源を発し、西流した後、南東へ転じて、亀岡盆地を貫流し、亀岡盆地の出口から下流は「保津川」となり、さらに嵐山からは「桂川」となる。

「松尾明神」現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。ウィキの「松尾神社によれば、『大社の社殿背後には、「亀の井(かめのい)」と称される松尾山からの湧水の泉があ』り、『この亀の井の水を酒に混ぜると腐敗しないといい、醸造家がこれを持ち帰って混ぜるという風習が現在も残っている』。『松尾大社が酒の神として信仰されるのはこの亀の井に由来するもので』、『その信仰により全国に創立された松尾神の分社は』千二百八十『社にも及ぶという』。『「亀の井」の名称は、松尾大社の神使が亀であることに由来するとされ』、『神社文書によれば、松尾神は大堰川を遡り』、『丹波地方を開拓するにあたって』、『急流では鯉に、緩流では亀に乗ったといい、この伝承により鯉と亀が神使とされたとされる』とある(下線太字やぶちゃん)。松尾神社の祭神及び松尾大明神についてはリンク先を読まれたい。

「産子(うぶこ)」氏子。

「八幡の者、鳥類を喰ひ」八幡神の使者は多く鳩である。

「類ひなり」殺生及び肉食の禁忌の類い。]

諸國里人談卷之五 稻荷仕者

 

 ○稻荷仕者(いなりのししや)

宗語老僧、路通に談(かたりて)曰〔いはく〕、

「弘法大師入唐の時、一人の老翁、船中にあり。海路(かいぢ)の内、中華の地理、或〔あるいは〕諸侯の掟(おきて)、出家の分際、委(くは)くかたり、唐に入〔いり〕ても益(ますます)隨身(ずいじん)して、明日(あす)の業(わざ)を今日より告(つげ)しらしめ、たゞ、影の副(そふ)がごとし。空海は德宗皇帝に謁し、且、惠果(ゑくは)和尚に覿(まみへ)へて、兩部の祕奧(ひおう)を附(ふ)し、三年にして、歸朝の砌(みぎり)、舩中にて、かの老翁を敬(け)し曰〔いはく〕、

『翁、尤も、凡人にあらじ、定〔さだめ〕て佛法雍護(おうご)の神(しん)にぞおはしますらめ。』

時に、翁、申〔まうす〕は、

『我は飯生(いなり)の神の仕者、芝守(しばもり)長者の地に住む狐也。玆(こゝ)にひとつの願ひあり。大德(だいとこ)、歸朝あらば、當(まさ)に鴻臚館(こうろくわん)を持〔もち〕給はん、よつて、伽藍道立あらば、飯生(いなり)の神(しん)を鎭守になさしめ給へ。』

と云〔いふ〕。

『子細あらじ。』

と領掌(りやうじやう)ありける。

はたして、東寺(とうじ)、建立す。

寺成(なつ)て、秋の夕暮、空海、羅生門に彳(たゝずみ)、四方を詠(なが)め給ふ所に、稻を荷(にな)へる翁、來〔きた〕れり。

近づき見れば、入唐隨身の翁也。

于時(このとき)、老翁、約の事を、ねがふ。

さるによつて、飯生神(いなりのしん)を東寺の鎭守とし、それより「稻荷」の二字にあらためられけるなり。

かの老翁を「貴狐(きこ)明神」とし、今、攝社白狐社(あこめのやしろ)、是なり。又、芝守長者の旧地、今、「古御旅(ふるおたび)」と稱する所なり。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字(①)或いは二字(③)下げ。]

一書(あるふみに)曰〔いはく〕、大師をして今の伊奈利山に鎮座し給ふと云〔いふ〕は、非なり。元明天皇和同四年に、はじめて垂跡也。空海は宝亀五年に誕(たん)ず。凡〔およそ〕六十余年、後なり。

○又、飯生山(いなりやま)といふは、器(うつは)に飯(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])を生(もり)たるやうの山、三あり、よつて「飯生三山(いなりさんざん)」と称すと也。

[やぶちゃん注:前の「宗語狐」の続篇的なもの。宗語の語った驚くべき昔の、物語りを記す。前に準じて改行を施した。

「弘法大師入唐」延暦二三(八〇四)年(ウィキの「弘法大師」によれば、前年、『医薬の知識を生かして推薦され、直前に得度し』ていたが、学僧としてではなく。『遣唐使の医薬を学ぶ薬生として』前年に出発した。しかしその時は『悪天候で断念し』て戻り、この翌年、『長期留学僧の学問僧として唐に渡』った。因みに『中国語の能力の高さが有利との指摘はあるが』、『この間の学問僧への変更の経緯は不明である』とある。『途中で嵐に』遭遇して『大きく航路を逸れ』、八月十日、『福州長渓県赤岸鎮に漂着』するも、『海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約』五十『日間待機させられ』ている。因みに、この際、『遣唐大使に代わ』って、『空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している』。同年十一月三日になって漸く『長安入りを許され』、十二月二十三日に長安城に入った。帰朝は大同元(八〇六)年十月(博多現着))である。本書の刊行が寛保三(一七四三)年、齋部(いんべ)路通の生没年が慶安二(一六四九)年頃から元文三(一七三八)年頃(沾涼は延宝八(一六八〇)年生まれで三十一年上)であるから、沾涼が前条の「宗語狐」の話やこれを聴いたのを、取り敢えず路通晩年(一六三〇~一六四〇年頃)とするなら、実に、八百三十年以上も前の出来事を現に見たように(帰朝の船中のシーン等)語っていることになる。前の「宗語狐」では、彼は『五百年來の事は今見るがごとくにすゞしく、六、七百年の事は少(すこし)明かならぬ事もありとかや』と記していたが、どうして、なかなか!

「出家の分際」当時の唐に於ける、仏教僧の地位・権利・義務と言った、身分・待遇と遵守すべき規律。

「明日(あす)の業(わざ)を今日より告(つげ)しらしめ」予知能力があったのである。「德宗皇帝」第十二代皇帝。在位期間は七七九年から八〇五年。

「惠果(ゑくは)和尚」(七四六年~八〇六年一月十二日)密教第七祖で唐長安の青龍寺の住持。ウィキの「恵果」によれば、『不空に師事して金剛頂系の密教を、また善無畏の弟子玄超から『大日経』系と『蘇悉地経』系の密教を学んだ。『金剛頂経』・『大日経』の両系統の密教を統合した第一人者で、両部曼荼羅の中国的改変も行った。長安青龍寺に住して東アジアの様々な地域から集まった弟子たちに法を授け、一方では代宗・徳宗・順宗と』三『代にわたり皇帝に師と仰がれた』とあり、また、ウィキの「弘法大師」には、空海は入唐した翌年の五月、青龍寺にこの『恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際』、直ちに『見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し』、空海は六月十三日に『大悲胎蔵の学法灌頂』、七月には『金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても』、『彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている』。八月十日には『伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する』御『宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から』五百『人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している』。八『月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは』、金剛智から不空金剛そして恵果へ『と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など』八『点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など』五『点の計』十三『点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している』。同年十二月十五日、恵果和尚は六十歳で入寂、翌年一月十七日、『空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草し』ている、とある。

に覿(まみへ)へて、兩部の祕奧(ひおう)を附(ふ)し、三年にして、歸朝の砌(みぎり)、舩中にて、かの老翁を敬(け)し曰〔いはく〕、

「雍護(おうご)」「擁護」に同じい。

「芝守(しばもり)長者」個人サイト「都名所図会」の「古御旅所」で、同記載の存在を知ったので、「日文研」の「都名所図会」の高精密表示で視認して示す。

   *

古御旅所

八條坊門、金替(かねかへ)町の南にあり。むかし、此所は二階堂觀世音ましまして、地主を福子稻豐(ふくしいなとみ)といふ。今此觀音は泉涌寺(せんゆうじ)の内、善能寺にあり。此社の鳥居通を戒光寺町といふ。此寺も、今、泉涌寺の内にあり。丈六の釋迦佛を安置す。

柴守長者(しばもりちやうじや)

弘法大師緣起に曰、空海、筑紫(つくし)にましますとき、稻を荷へる翁(おきな)に逢(あひ)て、「これ、只人ならず」と思ひ、「君は、いかなる人ぞ」と尋(たづね)給へば、「われは都八條に住ける柴守長者といふもの也」と答ふ。空海、「われも都に登り、佛法を弘侍る也。我(わが)法を守り給へ」と約し、その後、弘仁十四年に東寺を賜(たまは)り、住職したまふとき、「二階堂の柴守長老、まいり[やぶちゃん注:ママ。]たり」と申されければ、空海、いろいろもてなし、「扨、都の巽(たつみ)にすぐれたる山あり。あれに住給ひて我が佛法を守護し給へ」と、社をいとなみ、自(みづから)、額を書てまいらせ[やぶちゃん注:ママ。]給ひける。今の稻荷山、これ也。二階堂を、則、御旅所(たびしよ)とし給ふなり。

   *

先の個人サイト・ページの解説に、『伏見稲荷大社斎場所の旧地』で『京都市下京区猪熊通梅小路下ル』『中古南区西九条に遷座し、近世まで芝守社があったが、明治』六(一八七三)『年に廃社す』とあり、写真もあるので見られたい。

「大德(だいとこ)」「だいとく」とも読む。元来はインドで「高徳の人」のことを指し、釈尊に対する呼びかけにも用いられた。「律」には、「年長の比丘」の称、とある。日本では「徳の高い清僧」を「大徳」と呼んだ。

「鴻臚館(こうろくわん)」律令時代に外国の使節を接待した館。推古朝の「難波館」や持統朝の「筑紫館」に由来するとされる。京都(七条朱雀の東西)、難波、大宰府(現在の福岡市中央区の福岡城址)にあった。京都の鴻臚館は渤海国使の接待用で、十世紀半ば、同国の滅亡により廃絶。難波のものは西海道から入京する外国使臣用で、のち国衙に転用され、大宰府のものは蕃客・遣唐使らの宿舎にも当てられた。遣唐使の廃止後は、唐商人の接待・外国人の検問・外国との貿易などの用に当てられた。律令政治の衰退により、その特質を失い、十二世紀には廃絶した。但し、後に出る東寺は鴻臚館ではない

「東寺(とうじ)、建立す」ウィキの「東寺によれば、八『世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」』『という』二『つの寺院の建立が計画された。これら』二『つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった』。『南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない』、延暦一五(七九六)年、『藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの』『年を創建の年としている。それから二十数年後の』弘仁一四(八二三)年、『真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった』とある。東寺と稲荷神及び弘法大師の関係については、伏見稲荷大社」公式サイトの「稲荷のあの」も参照されたい。

「白狐社(あこめのやしろ)」現在の伏見稲荷大社境内にある。(グーグル・マップ・データ)。ぞえじいサイト「ぞえじいの福々巡りの「白狐社に詳しい(写真豊富)。それによれば、祭神は命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)で、『解説板によれば『往古の下社末社であった「阿古町(あこまち)」がその前身で白狐霊を祀る唯一の社殿である』とあり』『一説では朱雀大路・内裏の真北にある船岡山』『に棲む狐の老夫婦と五匹の子狐が稲荷山に出向き、稲荷神の前でお社(やしろ)の眷属(使者)になりたい旨を願い出たという。稲荷明神は大変喜んで申し出を聞き入れ、夫狐は上社(一ノ峯)、妻狐は下社(三ノ峯)に仕えるようになった。夫婦狐は「告狐(つげぎつね)」とよばれ、信者の前に直接あるいは夢の中などに間接的に姿を現して人々を導くようになったといい』、『これは弘仁年間』(八一〇年~八二四年)の話とある。『その後の明応年間』(一四九二年~一五〇一年)『に書かれた『遷宮記』によ』る『と、稲荷社の下社には「阿古町」、中社には「黒烏(くろを)」、上社には「小薄(をすすき)」という狐を祀った末社があったといい』、『そのうち下社の「阿古町」が元禄七年』(一六九四年)『に現在地に移され、白狐社として現在に至っている』とあって、『つまり』、『ここのお狐さまは船岡山の妻狐→阿古町→白狐という変遷を経ている』とする(但し、『中社と上社の末社は現存してい』ないとある)。『命婦(みょうぶ)とは律令制下で女官の地位または官人の妻のことで』あったが、『平安時代以降は宮中の中級の女房を指す総称になり、やがて稲荷社の巫女をよぶようになり、そこから中世には稲荷の狐を意味するようにな』った。『専女(とうめ)とは『土佐日記』では老女のこととされてい』るものの、『同時に老狐の異称でもあり』、『つまり』、『命婦専女とは年老いた雌狐といった意味にな』る。『ただ、これが白狐とされるには、真言密教の影響が大』であるとされた上で、ここに出るのと酷似した東寺建立の際の、『稲束を背負った老翁姿の稲荷神が現れて協力(仏教の守護神として)を申し出』、『東寺はもともと稲荷神の土地に建てられたので』あったとある。『ところが複雑なことに、仏教に於ける稲荷神は老翁姿ではなく、荼枳尼天(だきにてん)という白狐に乗った女神で』あったため、『この仏教の白狐と国産の命婦専女が合体することになり』、『そこから』、『稲荷神の姿は「狐を従えたり、狐にまたがる老翁タイプ」と「狐に乗る女神タイプ」が』あることになった、『さらに武士が台頭してくると、もっと強そうな「狐に乗った天狗」や「狐に乗った不動明王」なども登場』することとなった、と解説されておられる。

「一書(あるふみ)」不詳。

「伊奈利山」又は「稲荷山」。京都市東山連峰の南端、深草山の北、伏見稲荷大社の東にある。標高二百三十二メートル。(グーグル・マップ・データ)。

「元明天皇和同四年」七一一年。

「空海は宝亀五年に誕(たん)ず」空海は宝亀五(七七四)年に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で郡司の息子として生まれ、承和二年三月二十一日(八三五年四月二十二日に高野山で病没した。享年六十二。]

« 2018年7月 | トップページ | 2018年9月 »