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2018/08/31

甲子夜話卷之五 12 鍋嶋勝茂、御勘氣に就て寺建立幷西國衆寄進帳

 

5-12 鍋嶋勝茂、御勘氣に就て寺建立西國衆寄進帳

鍋島氏、關原の役に敗れて、やうやうに歸國し、色々に御詫をせしが、本領安堵なを覺束無き樣子により、足利學校を憑み、手を盡して陳謝し、久して後始めて御憤り解たりと也。此忝さに、圓光寺を【寺は京にあり。乃足利學校の本寺なり】、別に佐嘉の城下に新刱し、弟子を請て住職せしめ、今に其侯の壇緣第一の寺院たり。當年新創の時の寄進帳を、寺に祕藏するに、加藤、黑田の面々を始め、名高き輩は不ㇾ殘寄進に入りて、材木何千本、銅何百斤、銕何萬貫目などゝの寄附なりと云。足利學校の御眷顧を蒙るによりて、皆其爲めにしたることと聞ゆ。鍋嶋は敗軍の將なる故、止事を得ざるとも云べし。其餘御家に力を戮せたる輩まで、恐怖の餘りやはりかゝる事迄もせしは、當年御勢の雄偉なること、誠に推し知るべく、猛將と聞へし輩にても、諂諛風靡の有樣は、想ひの外なるものにて、人情はいつもかはらぬものなるべし。同上。

■やぶちゃんの呟き

最後の「同上」とは、前の「5-11 神君御花押の事」の末尾の「林氏」(林述斎)「話」の「同上」。

「鍋嶋勝茂」(天正八(一五八〇)年~明暦三(一六五七)年)は肥前国佐賀藩初代藩主。ウィキの「鍋島勝茂によれば、龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男。天正一七(一五八九)年)、豊臣秀吉より豊臣姓を下賜され、慶長二(一五九七)年からの「慶長の役」では『父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では当初、『西軍に与し、伏見城攻めに参加した後、伊勢国安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力の一人として行動した。しかし、父・直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、立花宗茂の柳川城、小早川秀包の久留米城を攻撃した。関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に』、『黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵を認められた』。慶長一九(一六一四)年からの「大坂の陣」では『幕府方に属した』。寛永一四(一六三七)年から「島原の乱」にも『出陣するが、家臣が軍律違反を犯したため』、『幕府に処罰され』てもいる、とある。

「足利學校を憑み」「憑(たの)み」。これは、鍋島勝茂の旧家臣の中に、足利学校第九世庠主(しょうしゅ:学頭。校長)で、徳川家康のブレーンともなった臨済僧三要元佶(さんようげんきつ 天文一七(一五四八)年~慶長一七(一六一二)年)がいたことによるものと思われる。ウィキの「三要元佶によれば、『現在、一般的には閑室元佶とよばれている』。『肥前国(現在の佐賀県)において』、『小城郡晴気城主・千葉氏の家臣・野辺田善兵衛の子として生まれる。父・善兵衛はもともと千葉胤連の家臣であったが、後の佐賀藩祖・鍋島直茂が、養家の千葉氏から実家の鍋島氏に復籍する際、胤連から直茂に与えられた』十二『人の家臣のうちの』一『人であった。なお、実弟・善兵衛も直茂の家臣となった』。『幼少時に都に上り、岩倉の円通寺で得度する。足利学校第』九『世の庠主となるが』、「関ヶ原の戦い」の『折には徳川家康の陣中に随行し、占筮によって功績をたてた』。『江戸幕府開府後、以心崇伝とともに徳川家康のブレーンとして寺社奉行の任にあたり、西笑承兌』(さいしょう(せいしょう)じょうたい)『の後を引き継いで』、『朱印状の事務取扱の役目に就くなど、朱印船のことにも関わった。また、家康によって伏見の修学院に招かれ、円光寺の開山ともなり、伏見版の出版に尽力した』。『晩年は、鍋島直茂より』、『故郷に三岳寺を寄進され、家臣(寺侍)の谷口杢太夫(三岳寺の僧石井浄玄の実父)らを随えて、三岳寺に赴いた』とある人物である。

「久して」「ひさしくして」。

「解たり」「とけたり」。

「此忝さに」「このかたじけなさに」。

「圓光寺」現在の京都市左京区一乗寺にある臨済宗瑞巌山(ずいがんさん)圓光寺。南禅寺派の寺院。開山は閑室元佶、開基は徳川家康。ウィキの「円光寺京都市左京区)によれば、『当寺では徳川家康の命により、日本における初期の活字本の一つである「伏見版」の印刷事業が行われた』。『家康の命により』慶長六(一六〇一)年に足利学校第九代庠主であった『閑室元佶を招き』、『伏見城下に円光寺を建立したことに始まる。その後、京都御所北辺の相国寺内に移』り、さらに寛文七(一六六七)年に『現在地に移された』。『円光寺は学校の役割も果たし、家康から与えられた木活字を用いて、『孔子家語』(こうしけご)『貞観政要』(じょうがんせいよう、貞観参照)、『三略』などの儒学・兵法関連の書物を刊行した。これらの書物は伏見版、あるいは円光寺版と呼ばれ、そのとき使用された木製の活字が保存されている。その数は約』五『万個にのぼり』、これはまさに『日本最古の活字であり』、『重要文化財となっている』。『他に本尊の千手観音像や開山像、円山応挙筆の雨竹風竹図屏風などがある』とある。公式サイト歴史も読まれたい。

「乃」「すなはち」。

「足利學校の本寺なり」こういう言い方は少なくとも現在の記載には認められない。上記圓光寺公式サイトによれば、『徳川家康は内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し』、『学校とし』、『圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず』、『入学を許した』とあるから、足利学校が本校で、こちらが分校というのなら、判る。一方、足利学校は寺ではなく、あくまで僧俗の学ぶ学校・文庫であり、歴代の庠主が概ね臨済僧であったことを考えれば、その庠主三要元佶が開山となった圓光寺は足利学校の「本寺」的存在であったとも言えるようには思う。

「佐嘉」「佐賀」。

「新刱」「しんさう(しんそう)」「刱」は「始める」の意。

「今に其侯の壇緣第一の寺院たり」先の引用に出た、現在の佐賀県小城市小城町池上にある三岳寺のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。

「加藤」加藤清正。

「黑田」黒田長政。

「銕」「てつ」。「鐡」に同じい。

「眷顧」「けんこ」。特別に目をかけること。贔屓(ひいき)。

「戮せたる」「あはせたる」。「戮」には「殺す」以外に「力を合わせる」の意がある。

「當年御勢の雄偉なること」当時の三要元佶の背後にあった家康のそれを指していよう。

「諂諛」「てんゆ」。諂(へつら)うこと。

反古のうらがき 卷之一 母を熊と見る事

 

    ○母を熊と見る事

 予が家より北に、榎町といへる所ありて、組屋敷なり。その中程に明屋敷(あきやしき)ありて、今に人の住(すむ)事なし。

 百年ばかり跡の事かとよ、同心何某といへる人、或時、外より家に歸りけるに、燈火、かすかに見へて、留守を守るは其母なり。

「今歸り侍る。」

といへど、音もなし。

 入(いり)て見てければ、いとも大きなる熊の、打伏(うちふ)してありければ、矢庭(やには)に、刀もて、一打(ひとうち)に切付(きりつけ)たり。

「あ。」

と、いいて[やぶちゃん注:ママ。]、おき上るを、おこしも立(たたさ)ず、切伏(きりふせ)たり。

「母人、母人。」[やぶちゃん注:後半は底本では「々々」。]

と、いく聲か呼(よび)たれども、答(こたへ)、なし。

 隣あたりより、集りて、

「何事にや。」

と、とふに、

「今、家の内に、大熊、入(いり)てあれば、打留(うちとめ)たり。人々、見玉へ。」

とて、よりて見れば、熊にはあらで、母なり。

「こは、いかに。」

とて、いだきおこしけれども、深手、數箇所なれば、はや、事切(こときれ)たり。

 人々、

「親殺しよ。」

とて取圍(とりかこ)み置(おき)て、其事は頭(かしら)つかさにつげたり。

 自(みづ)からも生(いく)べき罪にしもあらぬこともしりたれば、尋常に、おきての如く行はれける。

[やぶちゃん注:以下は底本も改行している。]

 此人、常にかゝる惡事なすべき人にもあらざりけれども、如何なる因果の報ひにや、母を熊と見しより、打留(うちとめ)たれば、是非もなし。もし實(まこと)の熊ならば、打取間敷(うちとりまじき)ものにもあらず、されども、人家多き所に熊の入(いる)べき理(ことわ)りもなし。又、入間敷(いるまじき)と定(さだめ)たる事にもあらず。

 打留たるは、是非なし。但し、狂氣の俄におこりし事なるべけれども、かゝる大逆(だいぎやく)となりしは、口惜しきことなりけり。

 されば、妖恠は多くは眼の眩惑(げんはく[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])して、『恠しき物を見るよ』と心得て、打留ざる方(はう)、武士の心懸(こころがけ)なるべし。妖怪は打留て、させる手柄にもあらず、驚(おどろき)おそれて逃(にぐ)る事さへなくば、手出しせぬこそ、よけれ。もし、飛(とび)かゝりて喰殺(くひころ)さんとせば、其時こそ、日頃の嗜(たしな)みもあれば、妖恠に取らるべきこともあるまじ。實(まこと)の妖怪も手取(てどり)にこそすべけれ。刄物用ゆるは第二義(だいにぎ[やぶちゃん注:底本のルビ。])【にのつぎ】なり、まして心の迷ひより出(いづ)る恠を哉(や)[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:前半は臨場感を出すために、後半は読み易さを考えて改行を施した。

「榎町」既出であるが、再掲しておくと、底本の以前の条の朝倉氏の注に、『新宿区内。榎町御先手組屋敷があった』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「百年ばかり跡の事かとよ」「百年ほども前の、昔の出来事とか言うようだ」。この言い方と、えらく昔の出来事なれば、都市伝説の可能性が高い。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃(第十二代将軍徳川家慶の治世)であるから、単純計算なら、延享五・寛延元(一七四八)年~寛延三年前後で、第九代徳川家重の治世である。

「おこしも立(たたさ)ず、切伏(きりふせ)たり」読みは自然な感じにするための、私の推定訓。

「母人」「ははびと」と訓じておく。

「頭(かしら)つかさ」この主人公は「同心」とあり、榎木町が御先手組屋敷であったことから考えると、御先手組の統括者である先手頭のことと考えてよいように思われる。

「自(みづ)からも生(いく)べき罪にしもあらぬこともしりたれば」江戸時代の親殺しは主(しゅう)殺しに次ぐ、最大級の重罪(刑法の旧尊属殺人。養子でも同じ)とされ、如何なる事情があっても、情状酌量の余地は一切なく、磔獄門となった。しかも彼が武官で、荒っぽいことで江戸庶民から恐れられた御先手組同心であれば、なおのことである。

「母を熊と見しより」単なる錯誤(誤認)とは思われない。急性の統合失調症或いは内因性脳疾患による強い幻覚症状によるか。

「入間敷(いるまじき)と定(さだめ)たる事にもあらず」熊が榎木町の人家に絶対に侵入しないと決まったものでもないことである、の意。無論、自然のツキノワグマが江戸にいることはないにしても、香具師が興行のために捕まえて市中に持ち込むことは普通にあったから、それが逃げて、入り込むことを考えれば、絶対ない、とは言えない。

「口惜しきこと」被害者にとっても親殺しになってしまった子の同心双方にとって「残念なこと」である。

「眩惑(げんはく)」歴史的仮名遣でも「げんわく」。目が眩(くら)んで正しい判断が出来なくなること。

「妖怪は打留て、させる手柄にもあらず」「妖怪は打」ち「留」め「て」も「させる手柄にもあら」ざるものにして。

「驚(おどろき)おそれて逃(にぐ)る事さへなくば」やや判りにくいが、「あまりの驚きと怖ろしさのために、居ても立ってもいられず、自分の家であってもそこから逃げ去らざるを得ないような事態でない限りは」の謂いであろう。要は、多少、奇怪な存在や現象であっても、直接の人的・物的な損傷を伴う危険性が殆んど認められないものなのであれば、というような感じである。

「日頃の嗜(たしな)み」武士としての常日頃の武芸の鍛錬。

「手取(てどり)」素手或いは棒などの鈍体を用いて制圧或いは確保すること。

「まして心の迷ひより出(いづ)る恠を哉(や)」最後の「を哉」は間投助詞「を」+間投助詞「や」の「をや」で、程度の低いものを述べた後、程度の高いことを類推させて、これを強調する、漢文訓読的用法。「まして、本人の心の迷い(ここは神経の違乱・乱心)から生じた幻覚としての怪異となれば、これ(相手を殺傷するような刃物を用いてはいけないこと)はもう、言うまでもないことである」。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(53) 忠義の宗教(Ⅰ)

 

  忠義の宗教 

 

 『社會學原理』の著者は曰ふ、『武權專制の社會は、自分等のその社會の勝利を以て、行動の最高目的とする一種の愛國心を有する必要がある。彼等は權力者への服從心の源泉である忠義の心を收攬して居る必要がある、――而して、彼等の從順なるがためには、彼等は充分なる信仰を有たなければならぬ』と。日本人の歷史は鞏固にこの眞理を例證してゐるものである。いづれの他の人民の間にあつても、忠義の念が、この國民以上に感銘を與へるやうな且つ異常な形を採つた事は未だ曾てない事である。又いづれの他の人民の間にあつても、その服從心がこれ以上の信仰を以て培はれた事はない、――信仰とは祖先の祭祀から出た信仰である。

[やぶちゃん注:「社會學原理」既注であるが、再掲しておくと、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の『総合哲学体系』(“System of Synthetic Philosophy”)全十巻の第三巻“Principles of Sociology”(一八七四年~一八九六年)。

「收攬」人心等を捉えて、手中に収めること。]

 讀者はお解りの事と思ふ、如何にして孝道の教へ――服從に就いての家族的な宗教なる孝道――社會の進化と共に擴がり、且つ頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]それが分かれて社會の要求した政治的服從竝びに戰略が要めた[やぶちゃん注:「もとめた」。]軍事的服從――その服從の意のみでなく、情をこめたる服從であり――責任の感のみでなく、本分を守るといふ情である――となるかを了解された事であらう。その起原から考へて、かくの如き本分を守るといふ服從はその本質上宗教的である、そして忠義の感に表はれた場合、それは尚ほ宗教え的性質を有つてゐる――一種の自己獻身の宗教の不斷の表明となつてゐる。忠義の感は早く武人の歷史の中に發達して居て、吾々は最古の日本の年代記の中に、その感動すべき例を見るのである。吾々はまた恐るべき話を知つて居る――自己犧牲の話を。 

 家臣はその天孫である領主から總てのもの――理論上計りでなく實際に、則ち持物、家庭、自由及び生命を――貰つて居た。これ等の物の一部又は全部を、家臣は領主のためには、要求に應じて苦情を言はずに、提供しなければならなかつた。而して領主に對する義務は、自家の祖先に對する義務と同樣、主人が死んでもなくなるものではなかつた。兩親の亡靈がその生きて居る子供達に依つて食物を供へられる通りに、領主の靈魂も、その在世中直接その服從して仕へてゐた人々に依つて禮拜を以て奉仕されるべきであつた。統治者の靈魂が、何等從者を伴なはずして、只だ一人影の世界に人つて行く事は、許すべからざる事であつた。少くともその生存中仕へてゐた者の幾人かは、死んでその人に從はなければならなかつた。かくの如くして上古の時代には生贄の習慣――初めは義務的に、後には任意的に行つた――が起つたのである。前章にも述べた通り、日本では生贄なるものが、大きな葬式には缺くべからざるものであつた、それは第一世紀頃迄殘つてゐたが、その頃から始めて燒いた粘土の人の形(埴輪)なるものが公然の犧牲に代つたのである。この義務的殉死、則ち死を以てその主君に從ふと云ふ事が廢止されて後も、自己の意志から出た殉死なるものは、第十六世紀に至るまで存續し、それが武權に伴なふ風俗となつた事は、既に述べた所である。大名が死んだ時には、十五人や二十人の家臣が腹を切る位の事は普通の事であつた。家康はこの自殺の習慣を禁止しようとした。その事は彼の有名な遺訓の第七十六條に次のやうに述べられてゐる――

主人死而其臣及殉死事非ㇾ無古例其聊以無其理君子已誹作俑直臣は勿論陪臣以下迄堅可ㇾ制ㇾ之若違背せは却非忠信之士其跡沒收して犯法者の鑑たらしむへき事

[やぶちゃん注:自己流で訓読しておくと、

主人、死して、其の臣、殉死に及ぶ事、古への例に無きに非ざれども、其れ、聊(いささ)かも以つて其の理(ことわり)無く、君子、已に「誹作俑(ひさくよう)」たり。直臣(ぢきしん)は勿論、陪臣以下迄、堅く、之れを制すべし。若(も)し、違背せば却つて忠信の士に非ず。其の跡、沒收(もつしゆ)して犯法者(ぼんはうしや)の鑑(かがみ)たらしむべき事。

「誹作俑」(俑を作るを誹(そし)る)は「悪しき前例を批難する」こと。俑は人形。埋葬に際して兵馬俑の如きもの作って殉ぜしめた習慣が、後世、生身の人間を以って葬に殉ぜしめることの悪しき端緒となった、の意から。「孟子」の「梁惠王」に由る。「陪臣」上級領主の直臣の臣下。]

 家康の命令はその家臣の間に殉死の風をなくさしたが、その死後にはつづいて行はれた、むしろ復活した。一六六四年、將軍家は訓令を發して、何人を問はず殉死をなした者の家族は罰せられる旨を闡明し、實際將軍はそれに熱心であつた。則ちこの訓令を右衞門之兵衞なるものが侵して、その主奧平忠正の死に際し切腹した時、政府は直にこの自殺者の家族の土地を沒收し、その二人の子息を死刑に處し、他の者を流罪にした。現在の明治の世にさへ殉死は屢〻行はれはしたが、德川幕府の決斷的な態度は、大體に於てその實行を阻止し得たのである、それで後には最も忠烈な家臣も、宗教を通じてその犧牲を行ふことを通則としてゐたのであつた。則ちはらきりを爲さずに、家臣はその君主の死に際して頭を剃り、佛門に入るやうになつたのである。

[やぶちゃん注:第四代将軍徳川家綱が「武家諸法度」の付則として口頭伝達された(殉死禁止を成文法化すべきであるという意見もあったが、殉死を美風と見る意見が幕閣内にも存在したためとされる。ここはウィキの「追腹一件」の注釈に拠った)、殉死を不義無益として禁止した殉死禁止令は寛文三(一六六三)年に発令されている(これは実は第一には殉死が幕府が公的には禁じていた男色の延長線上にあるものと見做されたことによる)。なお、狭義の殉死(源平以後の戦時のそれではなく、平時に病気・事故・処罰等で亡くなった主君に対して追腹(おいばら)をすること)は、室町時代の明徳三(一三九二)年に室町幕府管領であった細川頼之の病死(享年六十四)に際し、殉死した三島外記入道(享年六十四)を嚆矢とするとされているようである。

「この訓令を右衞門之兵衞なるものが侵して、その主奧平忠正の死に際し切腹した時……」「奧平忠正」(平井呈一氏もそう訳しているが)は「奥平忠昌」の誤りウィキの「追腹一件」によれば、殉死禁止令発令から五年後の寛文八年二月十九日(一六六八年三月三十一日)、『下野国(いまの栃木県)宇都宮藩の』『藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死した。忠昌の世子であった長男の奥平昌能』(まさよし)『は、忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し』、『「いまだ生きているのか」と詰問し、これが原因で杉浦はただちに切腹した』(太字下線やぶちゃん)。『家臣が主君の死後、その後を追う風習は当時は「追腹(おいばら)」と称され、家臣が主君に殉じるのは、「一生二君に仕えず」とする武家社会のモラルに由来していた。当初は戦死の場合に限られていたが、のちには病死であっても』、『追腹が盛行し、江戸時代初期に全盛期をむかえた』。『徳川家綱のもとで文治政治への転換を進めていた江戸幕府』は既に注した通り、殉死禁止令を発していたことから、『昌能・杉浦の行為を』、『ともに殉死制禁に対する挑戦行為ととらえ、御連枝の家柄とはいえ』(忠昌は徳川家康の曾孫)、『奥平家に対し』、二『万石を減封して出羽山形藩』九『万石への転封に処し、殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど』、『厳しい態度で臨んだ』。『これにより、殉死者の数は激減したといわれる』。『なお、忠昌没後』十四『日目には、奥平内蔵允』(くらのすけ:奥平家譜代衆である五老の家柄。千石取)『が、法要への遅刻を「腰抜け」となじった奥平隼人』(主君奥平家の傍流にあたる七族の家柄。千三百石取。奥平内蔵允とは従兄弟同士であったが、平素より仲が悪かった)に対して、『武士の一分を立てるため』、『と斬りつけた事件(興禅寺刃傷事件)』(双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となったが、その夜、内蔵允は切腹した。詳しくはウィキの「宇都宮興禅寺刃傷事件」を参照されたい)『がもとで、内蔵允の子奥平源八らによって』、『江戸牛込浄瑠璃坂での仇討ち事件(「浄瑠璃坂の仇討」)がのちに起こっている』とあり、これらはひとえに奥平昌能の無能による不幸な事件であったことが判る。

「現在の明治の世にさへ殉死は屢〻行はれはした」これは西南戦争などの戦時の広義の殉死。本書は明治三七(一九〇四)年の作であり、言わずもがなであるが、乃木希典の明治天皇への殉死は大正元(一九一二)年九月十三日)は小泉八雲の没(明治三七(一九〇四)年九月二十六日)後のことなので、注意されたい。小泉八雲が生きていたら、乃木の殉死をどう考えたか、興味深いことではある。]

 殉死の風は日本の忠義の念の只だ一面を表はしたものに過ぎない。殉死の他に、よしそれ以上とは言はれないまでも、それと同樣に意義の深い風習があつた。――例へば殉死としてではなくて、武士の教訓の傳統から要められた自己に被らす[やぶちゃん注:「かうむらす」或いは「かぶらす」。]處罰としての武人一流の自殺の習慣の如きがそれである。處罰の上の自殺としての、はらきりを禁ずる明白なる理由から成る立法上の法令はなかつた。かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事であつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から傳來したものであるかも知れない。古代の日本人は縊死に依て、自殺を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の證明する所である。腹切を一つの風習として又特權として始めたのは武人階級であつた。以前は、敗軍の將や、包圍軍の襲にあつた城塞の守將は、敵の手に落ちるのを避けるために自盡した――それは現在に至る迄殘つてゐた習慣である。武士に死刑の辱を受けさせる代りに切腹する事を許した武人の慣習は、第十五世紀の絡り頃に、一般に行はれるやうになつたと考へられる[やぶちゃん注:私の前段の冒頭の注の太字下線部を参照されたい。]。爾後武士は一言の命令で自殺するのが、當然の本分となつた。武士は總てこの規律的な法律に從はせられ、地方の領主と雖もこれを免れる事は出來なかつた。そして武士たるものの家族では、子供等は男女共に、自分一身の名譽のためか、或は君の意志でその要求のあつた場合、何時でも自殺の出來るやうに、その方法を訓へ[やぶちゃん注:「をしへ」。]られてゐた……私は言つて置くが、婦人ははらきりでなく、自害をした――委しく言へばただ一突きで動脈を斷ち切るやうに短刀で咽喉を突く事である……切腹(はらきり)の儀式の詳細の事に就いては、それに關する日本文をミツトフオド氏が飜譯したものに依つて充分よく知れ亙つてゐる故、私はその事に觸れる必要はあるまい。ただ記憶すべき重大な事實は、武士(さむらひ)たる者の男子や歸人に、何時でも剱を以て自殺の出來るやうに、心がけてゐる事を要求したのは名譽と忠義の心とのためであると云ふ事てある。武士に取つては、あらゆる破約(有意的に忙よ無意的にせよ)、難かしい使命を果たし得なかつた事、見苦しい過失、否、君主から不機嫌な一瞥を受けただけでも、はらきり、則ち好んで難かしく言へば、漢語で言ふ切腹の充分なる理由になつた。高い位の家臣の間では、君主の非行に對して、それを正しくする、あらゆる手段が盡きた時、切腹に依つて諫めると云ふ事が、矢張り一つの本分であつた――その雄壯な風習は、事實に基づいた幾多の人氣ある戲曲の主題となつて居る。武士階級の結婚した婦人の場合は――直接に關係あるのはその夫に對してであつて、君主に對してではないが――戰時に於て名譽を維持する手段として、大抵は自害の方法を取つた。尤も時には、【註】夫の死後その靈に貞節を誓ふために爲された事もあつたが、處女達の場合に於ても同樣であつた。その理由に至つては異る所がありはしたが、――武士の娘達は往々貴族の家庭に召使として入つたものであるが、その家での殘酷な陰謀は容易に娘達の自殺を招致し、若しくは又君主の奧方に對する忠義の念が自殺を要める事もあつた。召使としての武士の娘は、普通の武士が領主に對すると同じやうに、親しくその奧方に忠節を盡くさなければならなかつた。されば日本の封建時代には幾多の雄壯な女が居る次第である。

註 日本の道學者益軒は恁ふいふ事を書いた、『女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服從すべし』と。

[やぶちゃん注:「かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事であつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から傳來したものであるかも知れない」ウィキの「殉死によれば、『考古学的に見て』、『具体的な殉死の例は確認できず、普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また』、五『世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている』。中国の歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」には、『「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国の卑弥呼が死去し』、『塚を築いた際』、百『余人の奴婢が殉葬されたという。また』、「日本書紀」の「垂仁紀」には、『野見宿禰が日葉酢媛命』(ひばすひめのみこと ?~垂仁天皇三十二年:垂仁天皇皇后)『の陵墓へ』、『殉死者を埋める代わりに』、『土で作った人馬(埴輪)を立てることを提案したという』。また、「日本書紀」大化二(六四六)年三月二十二日の条によれば、『大化の改新の後に大化薄葬令が規定され、前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化が進むが、この時に人馬の殉死殉葬も禁止されている』とある。

「古代の日本人は縊死に依て、自殺を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の證明する所である」「日本書紀」の天武天皇元(六七二)年七月二十三日の条に、「壬申の乱」で敗れた大友皇子が首を吊って自害するシーンが記されてある。

   *

男依等斬近江將犬養連五十君及谷直鹽手於粟津市。於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。

   *

「ミツトフオド氏が飜譯したもの」複数回既出既注の、イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年:既出既注)が一八七一年に刊行した“Tales of Old Japan”の附録の冒頭にある“An Account of the Hari-Kiri”(「『腹切り」の理由)を指すか。

「益軒」福岡藩士で本草学者・儒学者の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。

「女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服從すべし」当該原文相当のものを探し得なかったが、益軒の「和俗童子訓」(宝永七(一七一〇)年作)の第五巻「教女子法」の第八条、

   *

婦人には三從の道あり。凡(およそ)婦人は柔和にして、人にしたがふを道とす。わが心にまかせて行なふべからず。故に三從の道と云(いふ)事あり。是亦、女子にをしゆべし。父の家にありては父にしたがひ、夫の家にゆきては夫にしたがひ、夫死しては子にしたがふを三從といふ。三のしたがふ也。

   *

を意訳したものを、戸川が文語訳したものか。]

 極古い時代には死罪に處せられた役人の妻たるものは、自殺するのが習慣となつて居たらしい――古代の年代記にはその例が澤山ある。併しこの風習は恐らく幾分古代の法律に依つて説明される、則ちその法律は、事件とは關係なくして、罪人の家族は、その罪に對して、罪人自身と同じ責任を有するものとしてゐたからである。併し又夫を失つた妻が、失望のためではなくて、他界まで夫に從ひ、生存中と同じやうに夫に仕へようとする願ひから、自殺をするのは、また正に極めて當然な事であつた。死んだ夫に對する舊い義務の觀念をあらはす女の自殺の例は、最近にもあつた事である。かくの如き自殺は尚ほ昔の封建時代の規則に從つて爲される――この場合女は白裝束をする。最近の支那との戰爭の時に、この種の驚くべき自殺が一つ東京に起つた、その犧牲者は戰死した淺田中尉の妻であつた。彼女は僅二十一歳であつた。彼女は自分の夫の死を聞くや、直に自分の死の用意にかかつた――昔の慣例に從つて親戚の者に別離の狀を書き、身の廻はりの始末をつけ、家中を綺麗に掃除して、それから彼女は死の裝束を身につけ、客室の床間に向つて筵を敷き、夫の寫眞を床間に飾つて、その前に供物をあげた。用意が萬端整ふと、彼女は寫眞の前に坐つて、短刀を取りあげ、そして見事な一突きを以て、咽喉の動脈を斷つたのである。

[やぶちゃん注:「淺田中尉の妻」日清戦争の清国軍の拠点であった鳳凰城への攻撃(明治二七(一八九四)年十月)で重傷を負い、治療の甲斐なく、陣中で亡くなった丸亀第三大隊所属の田中中尉の妻「シン子」(奇しくも同第三大隊大隊長岡見中佐の娘であり、戦死報(但し、戦場で死亡と誤認している)は父から齎された)。征清美談上野羊我二九一八九六)教育書房刊)の「田中尉夫人ノ自殺で読める。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。彼女は浅田に嫁して僅か二年であった。]

 名譽を維持するために自殺するといふ義務の他に、武士の女子にとつては、道德上の抗議として自殺をする義務があつた。既に述べた如く、最高なる家臣の間には、君主の非行に對する諫告として、あらゆる説得の手段もその效果のなかつた時、はらきりを行ふ事は、一つの道德上の義務であると考へられてゐた。さむらひの婦人――自分の夫を、封建的な意味での君主と思へと訓へられてゐる――の間では、夫の不名譽な行ひに對して、忠言や諫告をしてもそれを夫が聽き入れない場合、自分の本分を表白するために自害する事は、一種の道德的義務とされずてゐたのである。かくの如き犧牲を奬勵する所の妻たる者の義務に就いての理想は今尚ほ殘つてゐて、道德上の非行を叱責するために生命を惜しげもなく投げ出した例は、最近に於ても一つならず舉げられる。一八九二年、長野縣に於ける地方選舉の時に起つたものは、恐らく最も感動を與へる例であらう。石島といふ名のある物持ちの選舉人が、或る候補者の選舉に立派に助力すると公約した後、寢返りして反對黨の候補者を援助した。この約束の破棄を聞くや、石島の妻は、白裝束に身をかため、昔のさむらひの仕方に從つて自害し果てたのである。この剛氣な婦人の墓は、尚ほその地方の人達に依つて花を以て飾られて居り、その墓石の前には香の煙が絶えない。

[やぶちゃん注:「一八九二年、長野縣に於ける地方選舉の時に起つたもの」明治二十五年。この事件は調べ得なかったが、これは同年二月十五日に行われた、第二回衆議院議員総選挙ではなかろうか。しあわせ信州 長野県魅力発信ブログい~な 上伊那天竜川と選挙のお話」に、当時の有権者は国税十五円以上を収める二十五歳以上の男子のみで、記名投票で行われたとあり、『この選挙では吏党と民党との対立が激化』『(吏党:政府側の政党、民党:自由民権運動を推進した民権派各党)』し、『各地で両者の候補者や運動員が衝突』、『全国で死者』が二十五人も出たらしいとある』。『伊那でも選挙干渉が激しく、選挙当日』、ある民党側の議員を支持していた『有権者は、天竜川の橋の上で対立派が雇った壮士や博徒に通行を妨害され(壮士:職業的な政治活動家)』、『寒い雪の降る中を天竜川を泳いで投票に行った』という驚くべきことが書かれてある。]

2018/08/30

反古のうらがき 卷之一 賊心

 

    ○賊心

 予が友小野竹崖子が祖父(おふぢ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])の時の事とて語られしは――

……家に久しくつかゆる[やぶちゃん注:ママ。]僕(しもべ)ありける。年も四十をこへ、其質(さが)、正直にして、よくつかへける。

 祖父、さりがたき入用(いりよう)の事ありて、

「金子五兩を用立(ようだつ)べし。」

と藏宿(くらやど)にいゝ[やぶちゃん注:ママ。]やりけり。

 彼(かの)僕に命じて、

「金子、請取(うけとり)、來(きた)れよ。」

とて遣しけるに、時刻も大に延び、日も暮に及ぶに、歸り來らず。さりとても、此者、中々惡心出(いづ)べき者にあらず。

「必(かならず)、不測(おもはざる)のわざはひにても起りて、手間取(てまどる)事にもや。」

と疑ひけるに、早(はや)、夜も暮六(くれむ)つ過(すぐ)る頃、おもての方(かた)に物音して、つぶやく聲する樣、常に聞覺(ききおぼ)へ[やぶちゃん注:ママ。]たる僕(しもべ)が聲也。

「扨は、歸りけり。」

とて出迎へ、

「何とて、かくは遲かりつるぞ。」

ととへば、僕は物もいはず、狀箱、其(その)あたりしに差置(さしおき)て、しばらく、主人が顏、見詰(みつめ)てありし樣(さま)、いぶかしかりければ、

「如何にや。如何にや。」

ととへば、

「扨々、君は不覺の人よ、すでの事、一大事に及び、君も吾も再び相見ることもならずなりぬべかりしを、吾なればこそ、無事にして濟(すみ)けるよ。」

といふ。

「何事にて有(あり)ける。」

ととへば、

「いや。外の事にあらず。かゝる大金を奴僕(ぬぼく)をして持(も)てあるかしむること、不覺にあらずや。君もしろしめす如く、吾、わらじ、作り、繩、なひて、一年には金二分斗りも餘し侍る。それに給われる[やぶちゃん注:ママ。]祿のうち、少しづつも殘して、一兩づゝも、たくわへり[やぶちゃん注:ママ。]。『これを、六、七年も積(つん)で、在所に歸り、妻子等も少々はゆるやかなるやしなひをもせめ』と思ふこと、年久し。されども思ふ程にもあらで、君が家にあること已に、三、四年に及び、いまだ其事を果さず。かゝれば、

『金五兩もあらんには、僕等が大願は成就すべし。此上、幾年ともなくかくてあらんより、此こがね、持ちて走らんに、何んの子細あらん。』

と思ふより、引立(ひきたて)らるゝよふ[やぶちゃん注:ママ。]に覺(おぼえ)て、故鄕【常陸とか、上野とか。】の方に向ひて走る事、數里、千住といへる宿迄行(ゆき)しが、

『まて。しばし。よくよくおもふに、本意(ほい)なる事にあらず。是迄、恩義深き主人が黃金(こがね)を奪ひて、何地(いづち)へか行(ゆか)ん。』

と、心を改め立締ること、五、六町、又、思ふ、

『さりとて、此期會(きくはい[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])【しあわせ[やぶちゃん注:ママ。]】、又とあるべき事にもあらねば、少しの恩義は捨(すて)たり。』

とて、再び、

『得がたき黃金(こがね)にかふるに、何の仔細あらん。』

と、又、立止(たちどま)りて、故鄕の方に向ひて、行けり。

 かかりける程に、西の日、後の山の端(は)に入(いる)におどろき、

『扨も主人の待(まち)わび玉ふらん。殊に急用とて「金子かりてこよ」とて出(いだ)し玉ひしを、かゝる時刻迄歸らずば、いかばかりかいぶかり給ふらん。』

と思ふにぞ、又、一足も行(ゆく)事能はず。

『いやいや。それも一時のことぞ。よしよし。』

とて、ゆかんとするに、日も暮果(くれは)て、行方(ゆくかた)いと暗きに、只獨り行(ゆき)つ戾りつすること、五、七度にして、又、思ふ。

『世の中の賊もかゝる處にて心亂るゝより、不義のことども、なすならん。』

とおもへば、

『吾も賊なりけり。昨日迄は人也(なり)。今日よりは賊なり。』

とおもへば、いとかなしくて、

『さりとては、人を惱(なやま)す黃金(こがね)かな。』

とて、其儘、捨(すて)もやりたくおもふものから、

『扨、かゝる物、何とて、かく、ほしと思ひたけるよ。』

と、心のあさましきを自(おのづ)からしりて、今、かく、御家(おいへ)には歸りけるなり。さればこそ、時刻も移り侍るなり。

 凡(およそ)奴僕たる物は、みな、吾と同じ心なるべし。黃金(こがね)五ひらといふを見て、心動かぬものはなきものを、うかうかと持(もた)しめ給ふ不覺さよ。殊に要用(いりよう)とあるなれば、常とは事もかわりぬべし[やぶちゃん注:ママ。]。返々(かへすがへす)も不覺の君よ。

 吾に逢ひて、仕合(しあわ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])せし給ひけり。

 此(これ)以後とも、必々(かならず かならず)奴僕に、黃金、な渡し給ひそよ。」

と、深くいましめて、

「吾も是(これ)にてこゝろおちゐぬ。」

とて、人の上のことの如く言罵(いひののし)りて、部屋に入りて臥(ふし)ぬ。

「嗚呼(おこ)の者よ。」

と打寄(うちより)て笑ひぬれども、其言葉は理(ことわ)りに近ければ、父の代・吾(わが)代に至る迄、語り侍へて戒(いましめ)とは、なし侍る。……

――とて、語り給ひき。

[やぶちゃん注:直接話法が多く、特に下僕の微妙な心の動きを追い易くすために、細かく改行を施した。また、全体がまた、入れ子の会話形式となっていることから、例外的に本文にダッシュとリーダを挿入して改行した箇所がある。なお、これに酷似した話に、「耳囊 卷之三」の「下賤の者は心ありて可召仕(めしつかふべき)事」がある。そちらでは「百両」と二十倍の金額であるが(その方がより強力なリアリティはある。本話の五両は「下僕」が人生晩年の夢を見るには、インフレで一両の価値が下落していた江戸後期では金額として今一つである。たかが五両で儚い夢を見たとするのも逆にリアリティがあるとも言えなくはないが)、そちらも「御藏(くらまい)前取(まへとり)にて御切米(きりまい)玉落(たまおち)ける故、金子」「百兩」「請取(うけとり)に右(みぎ)札差に」「中間」(ちゅうげん)を遣らせる設定であること、横領を謀ったそちらの中間も、一度は「江戸表を立退(たちのき)候(さふらう)心にて、千住(せんじゆ)筋迄至り、大橋を越(こえ)て段々行(ゆき)しが、熟々(よくよく)考(かんがふ)れば……」とあって、逃避行方向が一致し、ロケーションに同じ「千住」まで登場すること、なにより、中間の心内のアンビバレンツの触れ方が、この「下僕」のそれと極めて似た形で激しく極点間で振れ動くことから見ても、これは全く別の話が偶然一致したものとは、私は思えない気さえするのである。「耳囊」の最も新しい記事は筆者根岸鎭衞の没する前年(彼は文化一二(一八一五)年没)までであるが、「耳囊」の第三巻は鈴木棠三氏に検証によれば、天明六(一七八六)年以前の内容と下限の時制の線が引ける。一方、「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるものの、本話柄は作者鈴木桃野と恐らくは同年代の友人の祖父が当主であった時の話とするからには、執筆時よりも軽く五十年以上は前の話ととってよかろう。さても「耳囊」のそれと「反古のうらがき」のこれの記事内時制の間は最低で六十二年である。確かにここでは、「予が友小野竹崖子」(事蹟不詳であるが、既に「尾崎狐 第二」に登場している桃野の親友)「が祖父」の体験談として「竹崖」によって語られた実録として記されてあるのであるが、或いはこの二つのよく似た話は同一のソースが元なのではないかと私には思われてならない実話条件としては、本「反古のうらがき」の方が、人物も話者の縁者であって、作者には実名が知れているわけで、所謂、怪しげな噂話でさえないという肝心な点、また、ショボいけれども五両という信じられる金額である点などから、明らかに「反古のうらがき」に軍配は挙げられる。また、私は「耳囊」版の終り方が、その中間が自ら、『「……かゝる惡心の一旦出(いで)し者、召使ひ給はんもよしなければ、暇(いとま)を給るべし」といひしに、主人も誠(まつこと)感心して厚く止(とど)め召仕(めしつか)ひけると也』という如何にもな大団円の幕を引いている辺りに、実は逆に、強い作話性の跡を嗅ぎつけているとも謂い添えておきたい

「つかゆる」「仕へる」であろう。

「僕(しもべ)」「下僕」。桃野の友人の小野の家は明らかに武士と考えてよく、とすれば、武家の下僕は「耳囊」の「中間」である。

「さりがたき」火急の、のっぴきならない金子の必要。

「藏宿」浅草蔵前(くらまえ)に店(たな)を張って、旗本・御家人の蔵米(くらまい)を受取り、その売買を行なった「札差」や(先の「耳囊」の原文と設定と参照)、大坂で回米の水揚げから納入までを引受ける「納宿(おさめやど)」のことをこう呼んだ。

「金子、請取(うけとり)、來(きた)れよ。」「金子、確かにしっかりと受け取って、気をつけて帰って参れ。」。

「時刻も大に延び」時間が意想外に経って。

「暮六(くれむ)つ」定時法で午後六時頃。

過(すぐ)る頃、おもての方(かた)に物音して、つぶやく聲する樣、常に聞覺(ききおぼ)へ[やぶちゃん注:ママ。]たる僕が聲也。

「其(その)あたりしに差置(さしおき)て」「し」は文節強調の副助詞。「そのあたりにしも差し置きて」。自分の座っている近くに、その五両が入った文箱を、ぽんと置いたまま。異常に遅れてやっと帰ったのであるから、遅延の弁解をしつつ、主人に文箱を恭しく差し上げるのが普通なのに、という感じである。以下の「しばらく、主人が顏、見詰(みつめ)てありし樣(さま)」と相俟って、映像的効果がすこぶるよく出ているシーンである。

「如何にや。如何にや。」「どうした? 何があったのじゃ!?」。

ととへば、

「君」主人。小野竹崖の祖父。

「何事にて有(あり)ける。」「どういうことじゃッツ?!」。前の下僕の台詞が、かなり不遜なだけに、ここは、竹崖の祖父、かなり気色ばんで言っているととった方がよい。

「金二分」金一両は金四分(ぶ)。幕末期だと、現在の一万五千四百三十八円相当となるようだ。

「五、六町」五百四十六メートルから六百五十五メートル弱。

「期會(きくはい)【しあわせ】」「機會【幸(しあは)せ。】」。

「ものから」近世には誤って順接の確定条件(~なものだから)として使用されたが、ここは正規表現の逆接の確定条件で採る。「この五両を路傍に捨ててしまいたいとさえ、思ったので御座いますが、」。

「ほし」「欲し」。欲しい。

「殊に要用(いりよう)とあるなれば、常とは事もかわりぬべし」特に、危急の御用立ての金子となればこそ、普段とは格段に扱いが格別であるべきものにて御座いましょうに。「返々(かへすがへす)も不覺の君よ」の台詞が主人の心に確かに響く。この「下僕」、なかなかに鋭い。

「吾も是(これ)にてこゝろおちゐぬ。」私(わたくし)めも、まず、ここいらで、心が落ち着いて参りました。

「言罵(いひののし)りて」吐き捨てて。

「嗚呼(おこ)の者よ。」「何とまあ、正直に馬鹿のつく、愚かな奴じゃ!」。]

反古のうらがき 卷之一 物のうめく聲

 

  ○物のうめく聲

 

 秋の末つかた、月のいと隈なくて、いと明(あきら)なる夜、内海氏と伴ひて、高田の馬場に遊び侍り。

 野菊の薄紫なるが、夜は白々と見へて、ところどころに咲亂れたるに、いろいろの蟲の音(ね)、こゑごゑに呼(よび)かわして、あわれなり[やぶちゃん注:ママ。]。

 すゝき尾花も風になびきて、さやさやと聲すなり。

 宵の間は、ともに月をめづる人も有(あり)けるが、夜ふくるまゝに、みな、かへり果(は)て、馬場守(ばばも)りが家の燈火もかすかになりぬ。

「西の果(はて)の土手の上あたり、殊に勝れて見所多し。」

とて、ともにこし打(うち)かけて、歌よみ、詩作ることもなく、おのがまに、また思ひいづることども、かたり合(あひ)て、かへる心もなく、うかれ遊びけり。

 予がほとり、五、七間が内とおぼしくて、物のうめくよふ[やぶちゃん注:ママ。]なる聲、聞へければ、

「あれはいかに。」

といふ。

 内海氏も耳をそばだてゝ、

「されば、さきより、此聲、あり。いか樣(さま)、此(この)あたりと思ふが、土手下あたり、尋ねて見ん。」

とて、かしこ、ここと尋(たづぬ)るに、其聲、いづこともなく、遠くもなく、近くもあらず聞へて、さだかにはあらざりけり。

 又、一時もふる内に、夜は、いよいよ更渡(ふけわた)りて、蟲の聲、いよいよ高く、其外、四方に聲なし。

 されども、さきの聲は、いよいよ高く聞へけり。

「さるにても、恠(あや)しの聲や。歸り樣(ざま)、其所(そのところ)をしらん。」

とて、西の方、一町ばかり行(ゆき)ても、同じよふ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]にて、おりおり絕(たえ)るが如く、聞ゆ。

 東の方は歸路に便りよければ、此方(こなた)に向ひて尋るに、同じよふにて、いづくとも定(さだまら)らず、東の果(はて)近く、馬場の中を橫に過(すぐ)る路も越(こえ)て、初(はじめ)て、少し近く聞ゆるまゝに、

「此方なりける。」

とて尋るに、はたして東のはてより、廿間斗(ばかり)こなたの北の方に家ありて、其所(そのところ)なり。

 籬(まがき)の外に立(たち)よりて聞(きけ)ば、人の聲も聞へ、燈火もかすかに見ゆ。

 よくよく聞(きか)ば、病人のうめくにて、看病の人の、傍(かたはら)にて語り合(あふ)も、ありけり。

 こゝにて聞(きく)に、さまで高くはなきに、二町餘(あまり)も隔てて、同じよふに聞へしは、あたり、靜まりし故なるにや。

「扨は、恠しき物にてはあらざりけり。」

とて、打連(うちつれ)て家に歸りける頃は、丑の刻にも過(すぎ)たりける。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行されてある。]

 ケ樣(かやう)のことも、なれざることは「恠し」と思ふなれば、物におどろく癖ある人の言(げん)は、信じがたし。

 又、舟にて大洋(おほうみ)をのるに、「舟幽靈」といふもの出(いで)る、といふ説、よく、人のいふこと也。『其(それ)、形(かたち)ありて、「ひさく」を乞ふ時、底なきひさくを與ふ。然らざれば、水をすくひて舟に入る』といふ。これは、逢ふもの、少(すくな)く、おゝく[やぶちゃん注:ママ。]は、『沖の方にて、泣叫ぶ聲、哀しく、或は、近く、或は、遠く聞(きこ)ふ[やぶちゃん注:ママ。]。又、物語する聲、間(ま)のあたりに聞へて、目に見えず』といふ。『遠州灘などにては、度々、有り』と聞(きけ)り。

 予、釣するとて、沖中にて、四方の物音を聞くに、陸(くが)にて思ふより、十倍遠き所の音、間のあたりに聞へて、始めて聞(きき)たる時は、驚(おどろく)ばかり也(なり)しが、聞(きき)なるれば、常と思ふ。

 東風(こち)の起(おこ)る頃は、總州・房州の網引(あみびき)の聲、やゝ言語も分(かか)る程に聞ゆること、あり。

 又、沖の方、目の界(かぎ)りは、舟もなくて、言語は甚(はなはだ)分明なる聲、聞ゆることもあり。

 夜舟(よぶね)の恠(かい)も、多くは、是等も有るべし。

 聞(きき)なれざる人の、『恠(あやし)』といふも理(ことわり)なる歟(か)。

 兎角に、耳目(じもく)に慣(なれ)ざることは、あやしきこと、多き物なり。

[やぶちゃん注:至って〈科学の人〉である鈴木桃野の、現実主義・実証主義的立ち位置がよく判る、擬似怪談現象の、本人が体験した実録解明譚である。大気の逆転層などによって、驚くほど遠くの音が間近に聴こえる現象で、しばしば起こる。私は登山で何度も経験した。本条は既に柴田宵曲續妖異博物館「地中の聲」の私の注で電子化しているが、今回は一から総てをやり直し、今まで通り、推定(ごく一部は底本にルビがある)で読みを附し、臨場感と読み易さを狙って、改行を施した。

「内海氏」不詳。但し、今までの条々で母方の姓が内海である(本来の姓は多賀谷であるが、曽祖父以降、内海を名乗っている)から、そうした母方親族の内の近しい人物にして、同世代ではないかという推測は、シチュエーション全体から逆に窺えるように思われる。

「高田の馬場」ウィキの「高田馬場によれば、現在の東京都新宿区高田馬場ではなく、その東側の西早稲田三丁目にあったとあるので、注意が必要。(グーグル・マップ・データ)である。寛永一三(一六三六)年、『徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営された』のが最初で、『一説に、この地が家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母、高田殿(茶阿局)の遊覧地(景色のよい遠望を楽しむために庭園を開いた所)であったことから、高田の名をとって』、『高田馬場としたとする。だが、それ以前に、この一帯が高台である地形から俗称として高田とも呼ばれていたため、その名を冠したとの説』もあって、『その』二『つの由来が重なったためとの説もあるとある。ともかくも、当時は江戸市街地の東の辺縁部で、切絵図を見ても、畑地や寺院が目立つ。

「すゝき尾花」一語と採る。すらりと立ち延びるススキの茎を「すゝき」、馬の尾に似ているススキの花穂を「尾花」と呼んだ、としても構わぬ。

「馬場守(ばばも)り」「高田の馬場」の現地の管理人。

「西の果(はて)の土手の上あたり」「高田の馬場」は北直近を神田川が流れており、その流れに概ね平行して馬場が作られていた。現在の都電「面影橋」の南内側辺りが「馬場」の東の三分の一地点附近に当たる(前注の地図を参照)。

「五、七間」九メートル強から十二メートル七十三センチほど。

「物のうめくよふなる聲」「よふ」は「やう」で「樣」。人か動物か、なにものかが呻いているような声。

「一時」二時間。

「ふる」「經る」。

「一町」百九メートル。

「廿間」三十六・三六メートル。

「丑の刻」午前二時頃。

「形(かたち)」目に見える姿形を持っていること。舟幽霊(ふなゆうれい)は概ね、人形をした白っぽいものとして描かれることが多い。

「ひさく」柄杓(ひしゃく)。

「水をすくひて舟に入」れることを繰り返し、その舟を沈没させるのである。

「おゝく」「多(おほ)く」。

「予、釣するとて、沖中にて」後の「總州・房州の網引の聲」から、現在の品川沖あたりか。東京湾湾奥部の適当な位置を置いて見ると、千葉辺りで二十二キロメートル、富津辺りで二十四キロメートルほど離れる。

「やゝ言語も分(かか)る程に聞ゆること、あり」漁師らが喋っているその言葉も、具体的に、部分的ながらその意味が判るほどまで聴こえることさえ、ある。]

2018/08/29

反古のうらがき 卷之一 狼

 

  ○狼

 「麻布、靑山のへんに狼出(いづ)る」とて、おそれあへり。

 或人の家に、六、七歳なる男子、夜半に雨を細く明(あけ)て小便せしに、

「あなや。」

といふ聲聞へければ、父母、おどろき出(いで)て見るに、もゝのあたり、喰切(くひき)りて、垣のあたり捨置(すておき)たり。近鄕より合(あはせ)て、各(おのおの)、わり木・おうご[やぶちゃん注:ママ。]など、とり持(もち)てかり出(いだ)しけれども、行衞しれずとて、やみぬ。子は、陰囊へかけて、つよく喰(くは)れたれば、死(しに)けり。其後、さだかに見たる者もなけれども、

「狼に相違あらじ。」

とて、夜は外に出(いづ)るものも稀なりけり。もし止(やむ)を得ざる用ありて出る事あれば、必(かならず)、貮、三人づつ打連れて行けり。後には四谷邊にも出るといふ。赤坂へんにも出るといふ。みな、暗(やみ)の夜、獨り行(ゆく)者、必、すねのあたりを喰はるゝ事にて、疵(きず)を受(うけ)たるもの、幾人といふことを、しらず。

[やぶちゃん注:ここは底本でも改行。]

 是を其人に問ふに、

「多く、細きこうぢを過(すぐ)るに、忽然と來りて、喰付(くひつき)、振離(ふりはな)ち逃(にぐ)るに、敢て追(おひ)も來らず、其疵、皆、齒の入(いり)たる跡、四、五箇所、引裂(ひきさき)たるよふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に付(つく)。」

といへり。

 一人ありて、ある細きこうぢを過るに、忽ち後ろより喰付たり。此人、力強く殊に膽(きも)太かりければ、組伏(くみふせ)て打殺(うちころ)さんと思ひて、挑燈にててらしけるに、其形と覺しき物はなくて、槿(はちす)の籬(まがき)の、よくこみ合(あひ)たる間に、こそこそと聲して入(いり)けり。其樣、細き紐など引入(ひきいる)るよふに覺(おぼえ)たれば、

「さては狼にてはあらざりけり、ま蟲(むし)・大へびなどにて有(あり)けるよ。」

とて、歸りて其疵を見れば、齒形(はがた)ありて、血、出(いで)たり。其樣(そのさま)、又、ま蟲の類とも覺へず。

 よりて、或夜、足のあたりよく包みて、齒の立(たた)ぬ程になし、挑燈は、わざと持たで、手頃の棒を持(もち)て、彼(かの)あたりを行通(ゆきかよ)ひしに、又、後(うしろ)より喰付ければ、其儘、棒にて、顧(かへり)み樣(ざま)に、つよく打(うち)けるに、物、なし。又、

「こそこそ。」

と、音して、籬(まがき)に入る。

 此邊は、みな、植木屋なりければ、奧の方に家ありて、燈、かすかにみえけり。よりて、大に呼(よば)はりて、

「狼あり、今、此籬の内に入(いり)たるぞ。」

と、いく聲となく、叫びつゝ、共(とも)に籬をおし破りて入けり。

 此聲におどろきて、人々、打寄(うちより)、燈火、照らしつゝ、あなたこなたと、かり出(いだ)しければ、植込(うゑこ)みのしげみに、物、ありけり。

 打圍(うちかこみ)てかり出しければ、狼にはあらで、面(つら)を包みたる、人、なり。

 直(ただち)にからめ取(とり)て、引出(ひきいだ)し、問詰(とひつ)めければ、無宿の賊なり。

「何をか、つかひて、喰付(くひつか)せし。」

と問ひしに、物にてはあらで、細き桶のたが程の竹に、短き釘を打(うち)て齒となし、二筋あるを、左右に裊(たわ)置(おき)て、人の通(かよ)ふとき、左右、一時に放つ。打合(うちあひ)て、物の喰付たる如く也。驚きて引放つ者は多く疵を受(うく)るなり。かくして追落(おひおとし)をなせしなり。

 初(はじめ)の程は、誠(まこと)の狼にてもありけん、後は、みな、此賊の所爲にてぞ、ありける。

 此者を取らへてより後は、かゝること、絶(たえ)て止(やみ)けり。

 隨(つづき)て、誠の狼も、いづち、行けん、再び出(いで)もやらずなりぬ。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。さてもさても、都市伝説の装いをした、実録の擬似怪奇犯罪物という贅沢な話である。最後に細工の種明かしをしつつも、しかし、最初に少年を一噛みで殺した狼(野犬(のいぬ/現在の野犬(やけん))の狂犬病に罹ったものだったか)は、その一件だけで、忽然と姿を消した、というエンディングが、却って慄然とさせるではないか。私は実は、冒頭のシークエンスを読むや、直ちに、明治三五(一九〇二)年三月二十七日に東京府東京市麹町区下二番町(現在の東京都千代田区二番町)で発生した「臀肉(でんにく)事件」(別名「野口男三郎(のぐちおさぶろう)事件」)を直ちに想起してしまったからである。近所に住む十一歳の少年が何者かに両眼を抉り取られた上、尻の肉を切り取られて殺された猟奇事件である(御存じない方はウィキの「臀肉事件」を見られたい。但し、自己責任で、どうぞ)。

「わり木」薪(たきぎ)。

「おうご」「朸」。歴史的仮名遣は「あふご・あふこ」が正しい(現代仮名遣は「おうご」)。物を担うための天秤棒。或いは、そうした有意に長い棒。

「こうぢ」「小路」。

「引裂(ひきさき)たるよふに付(つく)」「よふ」は「樣(やう)」。この「ひきさき」は「ひきさかれ」と受け身で読もうと当初思ったが、「狼」が噛み付いて「ひきさ」いたように傷跡がついていた、と読むことで、生きた凶悪な「狼」のイメージを喚起するのがよいと考えた。

「槿(はちす)」アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus

「籬(まかき)」「かき」と読もうとも思ったが、貯木地などもあるやも知れぬ植木屋のそれ(民家としては少しは広い庭を想定)であるわけだし、槿(むくげ)の垣根は少しお洒落な感じがしたことから、少し差別化して読んだ。

「ま蟲(むし)・大へび」「蝮・大蛇」。

「歸りて其疵を見れば、齒形(はがた)ありて、血、出(いで)たり。其樣、又ま蟲の類とも覺へず」という被害者自身の傷がアップで示され、その観察に基づいて、蛇の類いが噛み付いたものではないことが、まずは判明するという展開設定が非常に上手い。

「此邊は、みな、植木屋なりければ」飛田範夫氏の論文「江戸の植木屋と花屋 ―柳沢信鴻著『遊宴日記』より―」PDF)に『植木屋が集まっていたという植木屋坂(港区麻布永坂町)』とある(ここ(グーグル・マップ・データ))から、このシークエンス、この辺りがロケーションかも知れない

「左右に裊(たわ)置(おき)て」「たわ」は底本のルビ。「裊」(音「ジョウ・ニョウ・チョウ」)には「しなやか」の意があるから、「撓(たわ)める」で、「たわむように成す・弓なりに曲げる」の意であろう。道の一方の脛の高さの所に、先に釘の歯の附いた竹片二本を一方の端を合わせた状態で強く左右反対にたわめて置き、夜陰に人が通った際、この左右を打ち合わしたのである。人影がすぐ横では目撃されていないことから、恐らくは撓めたものを、強い凧糸などで少し離れたところから操作したものであろう。

「追落(おひおとし)」追剥(おいはぎ)のこと。通常は往来で人を脅して物を奪うことで知られるが、時には問答無用で人を突き倒したり、或いは怖ろしい剣幕で追いかけたりして、その弾みで、落とした物を奪い取るといった手法もよくとられた。]

大和本草卷之十三 魚之上 ヲモト (カワムツ或いはヌマムツ)

 

ヲモト 嵯峨ニアリハヱニ似テ背ニ有斑點爲群水面ニ

 ウカブ河ノヨトミニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

ヲモト 嵯峨にあり。「ハヱ」に似て、背に、斑點、有り。群を爲して水面にうかぶ。河のよどみにあり。

[やぶちゃん注:桂川水系に棲息し、「ハヤ」類に含まれるか或いは近縁種で、背部に斑点があり、河川の淀みに群れを成している種――「ヲモト」――聴いたことがない。搦め手から攻める。現在まで出現した「ハヤ」類の内で登場したものの、今一つ、バイ・プレイヤーの種の異名を探った。すると、ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のカワムツ」ヌマムツ」の各ページの「地方名・市場名」の欄に、孰れも『アカモト』と『モト』とあるのを発見した。しかも前にも書いたが、

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

であるが、後者「ヌマムツ」は実は二〇〇〇年頃までは「カワムツ」と同種とされていたのである。ウィキの「ヌマムツによれば、しかし、『カワムツとの交雑がないこと、鱗が細かいこと(側線鱗数』がカワムツは四十六~五十五片であるのに対し、ヌマムツは五十三~六十三片と有意に多い)、『体側の縦帯がやや薄いこと、胸鰭と腹鰭の前縁が黄色ではなく赤いこと』。『カワムツが河川上中流などに住む流水適応型に対し』、『ヌマムツは用水路などの緩やかな流れを好む止水適応型である』こと『などから』、『別種とされ』、二〇〇三年に『新和名「ヌマムツ」が決まった』とあり、学名も新たに作られている。されば、孰れかに限定比定する必要はあるまいが、敢えてこの記載の「背に、斑點、有り」というのを優位に濃い背鰭前縁の赤色斑だったとするならば、これはカワムツである。サイト日本淡水魚愛護会」ヌマムツ or カワムツを見られたい。]

大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ

 

ゴリ 二種アリ一種腹下ニマルキヒレアリ其ヒレノ平ナル

 所アリテ石ニ付ク是レ眞ノゴリナリ膩多シ爲羹味ヨ

 シ形ハ杜父魚ニ同シテ小ナリ但背ノ文黑白マシレ

 リ又名イシブシ賀茂川ニ多シ漁人トリヤウアリテ多

 クトル一種ヒレ右ノ如クナラズ膩ナシ味ヲトレリ然トモ

 是亦羹トシテヨシ賀茂川ニ多シ筑紫ニテウロヽコト云

 物ナリ順和名抄引崔禹錫食經曰性伏沉在石

[やぶちゃん注:「」は実際には(へん)と(つくり)の間に縦一画が入った字体。]

 間者也順和名曰伊師布之○或曰生所〻山谷

 澮溝伏石間小魚不過一寸又一種長一二寸有斑文

 其形狀似河豚而小常在山谷至五月隨水流落

 其大者至夜而鳴其聲淸亮而可愛土人謂之河

 鹿其味極美甘平無毒補脾開胃

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:ある意図があって、改行を施した。]

ゴリ 二種あり。一種、腹下に、まるきひれあり。其のひれの平〔ら〕なる所ありて、石に付く。是れ、眞の「ゴリ」なり。膩(あぶら)多し。羹〔(あつもの)〕と爲し、味、よし。形は「杜父魚〔(とふぎよ)〕」に同〔(おなじく)〕して、小なり。但し、背の文、黑・白。まじれり。又の名、「イシブシ」。賀茂川に多し。漁人、とりやう、ありて、多くとる。一種。ひれ、右のごとくならず、膩〔(あぶら)〕、なし。味、をとれり。然れども、是れ、亦、羹として、よし。賀茂川に多し。

筑紫にて「ウロヽコ」と云ふ物なり。

順〔が〕「和名抄」、崔禹錫が「食經」を引きて曰はく、『の性〔(しやう)〕、伏沉〔(ふくちん)〕して石の間に在る者なり。順、和名、曰はく、「伊師布之(イシブシ)」。○或いは曰ふ、「所々の山谷・澮溝〔(くわいこう)〕に生ず。石〔の〕間に伏す。小魚。一寸に過ぎず。又、一種、長さ、一、二寸。斑文、有り。其の形狀、河豚〔(フグ)〕に似て、小なり。常に山谷に在り。五月に至りて、水に隨ひ、流れ落つ。其の大なる者、夜に至りて鳴く。其の聲、淸亮にして愛すべし。土人、之れを「河鹿(カジカ)」と謂ふ。其の味、極美。甘、平。毒、無し。脾を補し、胃を開く。」〔と〕。

[やぶちゃん注:「ゴリ」ウィキの「ゴリ」が多様な種を含む「ゴリ」の総説としてよいので、まず引用させてもらう。『ゴリ(鰍、杜父魚、鮖または鮴)は、一般的には典型的なハゼ類の形をした淡水魚を指す一般名、地方名である。ただし、一部にメダカ類』(条鰭綱ダツ目メダカ科Adrianichthyidae memeメダカ亜科メダカ属 Oryzias)『やシマドジョウ類』(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科シマドジョウ属 Cobitis)『を指す地方も存在する』。「ゴリ」は特定魚類の『標準和名ではなく、ゴリの名で呼ばれる魚は地方によって異なる。スズキ目』(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目 Perciformes)及びスズキ目『ハゼ科』(スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae)『に属するヨシノボリ類』(ハゼ科ゴビオネルス亜科Gobionellinae ヨシノボリ属 Rhinogobius)・『チチブ類』(ゴビオネルス亜科チチブ属 Tridentiger)・『ウキゴリ類』(ゴビオネルス亜科ウキゴリ属 Gymnogobius)などの『小型のハゼ類や』、概ね、淡水産の『カサゴ目』(棘鰭上目カサゴ目 Scorpaeniformes)及びカサゴ目『カジカ科』(カジカ亜目カジカ上科カジカ科 Cottidae)『に属するカジカ類、あるいはその両方を合わせて呼ぶ場合などがある』。但し、『「ゴリ」という語が標準和名に組みこまれているのは、ハゼ科・ウキゴリ属のウキゴリ類だけである』(下線太字やぶちゃん。以下、同じ)。『これらはいずれも川底に生息する淡水魚で、ハゼ類に典型的な大きな頭部、飛び出した目、大きな口などが特徴である。体色は褐色から暗褐色』で、概ねかく呼称される魚類は全長数センチメートル程しかない『小型魚である。一般に種類ごとの特徴がわかりにくく、よく似ている。ハゼ科の「ゴリ」では』、二枚の腹鰭が合わさって一つの吸盤のような役割を担っていて、『これで水底の岩などに吸い付くことで流れの比較的速い川にも生息できる。また、宮城県、島根県、高知県、大分県などの沿岸地域ではハゼ類の幼魚をゴリとよぶ場合がある』(カジカ類の腹鰭ではこうした吸盤化は見られない)。『青森県の南部地方、石川県の一部などでメダカを指す例があり、岐阜県郡上市ではシマドジョウを指す例がある』。『全国的には、淡水に生息するハゼ類がゴリと呼ばれる場合が比較的多い。しかし、琵琶湖近郊やその重要市場である京都市や徳島県などでは、ハゼ科のヨシノボリのことを』特に『ゴリと呼ぶ』。『高知県、特に四万十川、それに和歌山県の東部ではハゼ科のチチブの幼魚をゴリと呼ぶ』。『地方によっては、ゴリカジカ、ゴリンベト、ゴリンチョ、ゴリンジョ、ゴリンドーなどの呼び名を使う例もある』。『日本語で「鰍」は「ゴリ」を意味するが、中国語で「鰍」はドジョウを意味する。中国語で「ゴリ」は、「杜父魚」と書かれる』。なお、慣用句の「ごり押し」について、『ハゼ科の「ゴリ」は、吸盤状の腹ビレで川底にへばりつくように生息するため、漁の際には網が川底を削るように、力を込めて引く必要がある。この漁法が、抵抗があるところを強引に推し進めるという意味の「ごり押し」の語源となっているという説がある』とある。

『一種、腹下に、まるきひれあり。其のひれの平〔ら〕なる所ありて、石に付く。是れ、眞の「ゴリ」なり。膩(あぶら)多し。羹〔(あつもの)〕と爲し、味、よし。形は「杜父魚〔(とふぎよ)〕」に同〔(おなじく)〕して、小なり。但し、背の文、黑・白。まじれり。又の名、「イシブシ」。賀茂川に多し。漁人、とりやう、ありて、多くとる』「とりやう」は「漁(と)り樣(やう)」で漁獲方法にコツがあることを言っている。この叙述は実は悩ましい。というのは「イシブシ」というのは現在では、

ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属ウキゴリ Gymnogobius urotaenia

の異名とすることが多いのであるが、「まるきひれ」(丸き鰭)「あり。其の」鰭「の平〔ら〕なる所ありて、石に付く」、則ち、吸盤状の腹鰭で、川底の石や護岸に吸するという性質は、若魚の場合、ふらふらと遊泳をするウキゴリ(だから「浮きゴリ」)ではなく、

ゴビオネルス亜科ヨシノボリ属 Rhinogobius

のヨシノボリ類に特徴的なものだからである。なお、ヨシノボリ類は現在、多数の種(或いは亜種)らしきものが確認されている。詳しくはウィキの「ヨシノボリ」を参照されたいが、そこには現行の日本産ヨシノボリ属の種として実に十五種が掲げられている。

 ところが、さらに悩ましいのは、私が六年間を過ごした北陸で「ゴリ料理」(金沢が名物)と言えば、上記の種ではないのである。ウィキの「ゴリ」によれば、『北陸から丹後にかけての地方では、カサゴ目・カジカ科のカジカ、ウツセミカジカ、アユカケ(カマキリ)などの淡水産カジカ類をゴリと呼ぶ。特に石川県金沢市周辺ではこれらの魚を用いた佃煮、唐揚げ、照り焼き、白味噌仕立てのゴリ汁などの「ゴリ料理」が名物となっている』とあるからである。以上の「ゴリ料理」の種はそれぞれ、

条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux(日本固有種。北海道南部以南の日本各地に分布。「ドンコ」の異名でも知られ、ここに出る「杜父魚」(とふぎょ)も現行ではこのカジカの異名とされることが多い

カジカ属ウツセミカジカ Cottus reinii(日本固有種。北海道南部・本州・四国・九州西部の分布(主に太平洋側とも)。嘗ては琵琶湖固有種とされたが、全国的に広がっている小卵型の個体群と琵琶湖産のそれは遺伝的な差が僅かにしかないことが判明している)

カジカ属アユカケ Cottus kazika(日本固有種。「カマキリ」は異名。胸鰭は吸盤状ではなく、分離している。鰓蓋には一対の大きい棘と、その下部に三対の小さい棘を持ち、和名は、この棘に餌となる鮎を引っ掛けるとした古い伝承に由来する)

 ここまでくると、益軒どころか、古えも今も何を「ゴリ」に比定するか、とことん、迷ってしまうのである。、私が嘗て、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「石斑魚(いしぶし)[ウキゴリ?]」の注で同定迷走した時には、例えば、辞書を引いても、それは解消されなかった。

・「広辞苑」 川魚ウキゴリの別称。「和名抄十九」

・「大辞林」 ウキゴリ、ヨシノボリ、カジカの異名。

・「大辞泉」 (1)ウキゴリの別名。(2)ドンコの別名。(3)ヨシノボリの別名。

・「角川新版古語辞典」 かわかじか。夏の季語。

しかし、まんず、以上を綜合すると、票が多い当確二名は、

スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属ウキゴリ Gymnogobius urotaenia

カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux

としてよいだろうとは思うし、何となく「源氏物語」なんぞに出るのは、「ブサイクなカジカじゃあなくて、やっぱ、ヨシノボリかなあ?」などと思ったのを思い出した。ところが、それでは最初の鰭の吸着がヤバクなるのだ! されば、やはり、

ゴビオネルス亜科ヨシノボリ属 Rhinogobius

が、『眞の「ゴリ」』に穴馬で当たっちゃうことになるのである。取り敢えず、疲れて来たので

「背の文、黑・白。まじれ」るという『眞の「ゴリ」』は「ヨシノボリ」

そうでない「膩(あぶら)」のない「ゴリ」は「ウキゴリ」

としておく。番外の「カジカ」は異形で、益軒の叙述では論外となる。脂の有無はカジカは食ったことがあるが、「ヨシノボリ」も「ウキゴリ」も食ったことがない私には判らぬ。

これにて、この考証は終りとする。

『筑紫にて「ウロヽコ」と云ふ物なり』何故、ここを改行したか? 実はぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カワヨシノボリ」Rhinogobius flumineusのページの「地方名・市場名」の欄を見たからである。同ページによれば、生息域の中に『九州北部』が含まれており、滋賀県琵琶湖周辺で稚魚のことを『ウロリ』・『ウリンコ/福岡県久留米市』(下線太字やぶちゃん)・『ウルリ/岐阜県岐阜市、関市』・『ウルル/岐阜県岐阜市、関市』・『ウロリ/岐阜県岐阜市、関市』とあったからである。この「ウリンコ」を始めとする、異名群は見るからに「ウロロコ」に親和性があるからである。ここを改行したのは、続いていると、『眞の「ゴリ」』じゃない方の、私が「ウキゴリ」とした方を『筑紫にて「ウロヽコ」と云ふ物なり』と読めてしまって、始末に負えないからである。いや、考えてみれば、ここでブレイクが入り、京附近で言っている複数の種を指す「ゴリ」は、筑紫で「ウロロコ」と呼んでいる魚類と同じものだ、と益軒が言っていると考えることは、何ら不自然ではないのだ。文句のある人は、私とは別に一から種同定をされるがよかろう。私より真に論理的に正しい正確なそれが出来たとならば、是非是非、お教え下され。謹んで御拝聴申し上げまする。

」(「」は実際には(へん)と(つくり)の間に縦一画が入った字体)この字体でもよいのであれば、後で出る通り、中文サイトの漢字辞典にも、漢名ではこれは「河豚」の別名と出るのである。「和名類聚鈔」原本でも確認した。しかし……う~ん……これは困る気もするぞ……河豚は膨らんで浮かぶんだよ……そうなんだよ……これは「ウキゴリ」の若い魚の遊泳習性と親和性を持った呼び名なんじゃないかってちっらと思っちゃったんだよなぁ……まあ、「其の形狀、河豚〔(フグ)〕に似て、小なり」だけってことで。

「伏沉〔(ふくちん)〕」伏せるように沈んでいること。

「澮溝〔(くわいこう)〕」「澮」は「細い小川」「用水路」「溝」。

『其の大なる者、夜に至りて鳴く。其の聲、淸亮にして愛すべし。土人、之れを「河鹿(カジカ)」と謂ふ』無論、「ゴリ」類は孰れも鳴かない。これは所謂、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri の誤認であろう(江戸時代にはカジカガエルは鳴き声の美しさがもて囃され、贈答なんぞもされていたのだが、知らぬ人は知らぬものなのである。ある動物の鳴き声を全く別の生き物に誤認していた例は江戸期の随筆にも多数登場する。いい例が螻蛄(ケラ)の鳴き声を蚯蚓(ミミズ)とした例で、これは近代に至るまで民間では信じられていた。お時間のある方は北越奇談 巻之五 怪談 其三(光る蚯蚓・蚯蚓鳴く・田螺鳴く・河鹿鳴く そして 水寇)を読まれたい)。いやいや、とすれば、この鳴くと誤認されているのは、それこそ「其の味、極美」の、ほれ! 蛙じゃない「カジカ」、カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux なんじゃぁ、ないのかなぁ?]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(52) 武權の勃興(Ⅳ) / 武權の勃興~了

 

 吾人の見た如く、日本に於ける武力的統治の歷史は、信賴するに足る歷史の殆ど全期間を包含して、近代に迄至り、國民的完成の第二期を以て終つて居るのである。量初の第一期は、諸氏族が初めて最大なる氏族の主長の指導を受け容れた時に始まつた、――爾後この主長は天皇として、最高の司祭として、最高の審判者として、最高の司令官として、且つ又最高の長官として尊敬されて居た。この族長的王國の下にあつた最初の完成の出來るまで、どれ程の時日が要せられたか、それは解らない、併し二頭政治の下にあつた後の完成が、優に一干年以上を占めてゐたことは既に述べた通りである……。今や注意すべき異常な事實は、これ等の世紀を通じて、皇室の祭祀はみかどの敵すらも大事にこれを守つて來たと云ふことである。みかどは、國民的信仰の唯一の正統なる統治者であり、天子則ち『天の子息』――天皇則ち『天の王』である。騷亂の各時代を通じて、日の子孫は國民的禮拜の的であり、又其の宮殿は、國民的信仰の神社であつた。偉大なる武將は、或は天皇の意思を制肘した場合もあつた、併しそれにも拘らず、彼等は自分自身を神の化身の禮拜者であり、奴隷であるとしてゐた。そして法今を以て宗教を悉〻く廢棄してしまはうといふやうなことを考へる者もなかつたと同樣に、皇位を占奪しようといふやうな事を考へるものもなかつたのである。ただ一度、足利將軍の專橫なる愚舉に依り、宮廷の祭祀は甚だしく阻害されたこともあつた。そして皇室の分裂から起つた社會上の地震は、纂奪者等をして、その過失の如何に大なるかを思ひ至らしめた……。萬世一系の皇位、皇室禮拜の連綿たる繼續のみが、家康をしてすらも、社會の融和し難き諸單位を纏めて、鞏固にする事を得せしめたのであつた。

[やぶちゃん注:「皇位を占奪しようといふやうな事を考へるものもなかつた」或いは、平安中期に「新皇」を名乗った平将門を想起して「彼はどうか?」と主張される向きもあるかも知れぬが、ウィキの「新皇によれば、『この将門の新皇僭称は、朱雀天皇を「本皇・本天皇」と呼んでおり、藤原忠平宛ての書状でも「伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門はまぎれもなく桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい。」とあり、また除目も坂東諸国の国司の任命に止まっている事からも、その叛乱を合理化し』、『東国支配の権威付けを意図としたもので、朝廷を討って全国支配を考えたものではなく』、『「分国の王」程度のつもりであったと思われる』とあることで、八雲の謂いは有効である。]

 ハアバアト・ベンサアは、社會學の徒に次の事を認めるやうに教へた、則ち宗教的な王朝は異常な永續性を有つてゐる。それは變化に抵抗する異常な力を有つてゐるからである。然るに武力的王朝は、その永續性が主權者の個性に據るので、特に崩れ易いのであると。日本皇室の偉大なる永續性は、單に武力的支配を代表する幾多の幕府や執權府の歷史と對照して、この説を最も著しく説明してゐる二千五百年を振り返つて見る時、吾々は皇位繼承の連綿たるを辿り、終に過去の神祕の中にその姿を沒するに至るのを見るのである。玆に吾々は宗教的保守主義の本來の特質である、あらゆる變化に抵抗する絶大な力の證據を見る次第である。それと共に一方に、幕府や執權府の歷史は、何等宗教的基礎を有たず[やぶちゃん注:「もたず」。]、從つて何等宗教的凝集力を有たない制度の、崩壞に至る傾向をもつて居る事を證明して居る。藤原氏の統治の、他に比較して著しく繼續した事は、藤原氏は武力的と云ふよりも、寧ろ宗教的貴族であつたと云ふ事實に依つて説明され得るであらう。家康が工夫した驚異すべき武力的構造すらも、異國の侵入がその避くべからざる崩壞を早めた以前、既に衰退し始めてゐたのである。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(51) 武權の勃興(Ⅲ)

 

 かくして一時、行政上の全權はみかどの手に復歸した。天皇御自身にとつても、又日本の國にとつでも、不幸なことには、後醍醐天皇の性格が、餘りに弱きに過ぎたため、此の得難き大事な機會を有利に用ふることができなかつた。天皇は、御子を將軍に任命して、すでに無くなつた將軍職を再興した。天皇は、優柔不斷で、忠義と勇氣とによつて、自分を舊の位に復さしめてくれた人々の功績を無視し、かへつて愚かにも、當然恐れて然るべき人々の勢力を大にするやうな事をした。其の結果として、日本歷史中の、最も重大なる政治的危機、卽ち皇室そのものの分裂を招致したのであつた。 

 

 北條執權の傍若無人な專制は、かくの如き事件の起り得べき道を作つたものであつた。第十三世紀の晚年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廢帝が居られた。されば皇位繼承の爭ひを招致するのは容易な事であつた。そしてこの事は、後醍醐天皇が不覺にも特別の恩寵を與へられた二心ある武將足利尊氏に依つて果たされたのであつた。足利は既に後醍醐天皇の復位を助けるために北條に反き、次いで彼は政權を握らんがためには後醍醐天皇の御信任をさへ裏切らんとしてゐたのである。天皇がこの奸計に氣づかれた時は既に遲かつた。そし軍隊を足利に向け給うたがそれは敗られてしまつた。それからなほ紛爭のあつた後、足利は首都を占有し、後醍醐天皇を二た度[やぶちゃん注:「ふたたび」。]流謫し、その仲違ひの天皇を立て、新しい將軍職を設立した。ここに於て[やぶちゃん注:「於」は底本脱字。推定で補った。]始めて、皇室の二派は、それぞれ有力な領主達に支特せられて、繼承權を爭つた。後醍醐天皇を尚ほ實際の代表者とした一派は、歷史上南朝として知られ、それを日本の歷史家は唯一の正統派としてゐる。他の方は北朝と呼ばれ、京都にあつて足利一族の勢力に依つて支持せられてゐた。一方、後醍醐天皇は、佛教の僧院に難を避けられ帝國の國璽を保持して居られた……。爾後五十六年間、日本は二方のみかどを戴いてゐたのである。その結果として生じた亂脈は、國家の保全を危からしめたのであつた。孰れの天皇が正しい權利を有つて居られたかを決定する事は、人民にとつて、容易な事ではなかつたであらう。それ迄は天皇の一身は國家の神性を代表し、宮廷は國家の宗教の宮と考へられてゐたのである。それ故、足利の纂奪者に依つて始められたこの分裂は、現社會が依つて以て建立されたる全傳統の破壞に外ならなかつた。混亂は益〻甚だしく、危險は愈〻增し來たつて、終には足利氏自身も驚いてしまつたのである。ここに於て足利一族はこの苦境を切り拔けんとして、南朝の五代のみかど、後龜山天皇を説き奉り、國璽を時の北朝のみかど、後小松天皇に讓り給ふやうにと願つた。これが一三九二年に實行されて、後龜山天皇は退帝としての稱號を贈られ、後小松天皇が正統の天皇として國民から認められる事になつた。然し北朝の他の四人の天皇の御名は、尚ほ公儀の表からは除かれてゐる。

[やぶちゃん注:「第十三世紀の晚年には、京都に、正統なみかどの他に、三人も廢帝が居られた」「三人」の「廢帝」は原文“three deposed emperors”である。平井呈一氏も『廃帝』と訳して居られるが、これは日本史学上は誤った用法である。「廃帝」は公的・準公的に内部抗争のために形式的な本人の承諾を全く得ずに強制退位させられた天皇のことで、諡号や廟号を持たずに廃帝後には以前に天皇であったことも認められなかった存在を「廃帝」と呼ぶからである。なお、現時点では歴代天皇には、総て追号・諡号が与えられており、「廃帝」は存在しないことになっている。しかし、明治までは、明治天皇によって追号されるまで、「淡路廃帝(あわじはいたい)」(藤原仲麻呂の乱により孝謙上皇によって廃位されて淡路に流され、享年三十三で殺害されたと考えられている天武天皇の皇子舎人親王の七男であった淳仁天皇(在位:七五八年~七六四年))と、「九条廃帝(くじょうはいてい)」(承久の乱直前に四歳で践祚するも、朝廷方の敗北により鎌倉幕府によって廃位となった仲恭天皇(在位:承久三(一二二一)年四月二十日~同年七月九日)。僅か七十八日で廃されており、即位式も大嘗祭も行われなかった。廃位後は母の実家摂政九條道家の邸宅に引き渡され、天福二(一二三四)年に十七歳で亡くなった。彼は歴代天皇中、在位期間が最も短い)の二人が存在し続けた。この“deposed”は、単に、実際には天皇家内の内部抗争と鎌倉幕府の朝廷支配の思惑のために事実上「退位させられて」上皇になった天皇が、同時期に三人も併存していたことを指している。但し、これも厳密に短期閉区間で言えば、「三人」ではなく、史上最多の「五人」であった時期もあるので正確とは言えない。則ち、鎌倉時代の第九十四代天皇(後宇多天皇(③)第一皇子。後醍醐天皇の異母兄)で大覚寺統の、

後二条天皇在位130132日(正安3121日)~1308年910日(徳治3825日)

の治世で、この時は、後嵯峨天皇の皇子(母は西園寺実氏の娘の中宮西園寺姞子。父母が自分よりも弟亀山天皇()を寵愛して彼を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立を生じさせる端緒となった)で元第八十九代天皇にして持明院統の祖である、

後深草上皇生没年1243628日(寛元元年610日)~1304817日(嘉元2716日))

と、後嵯峨天皇第七皇子で后腹で後深草天皇次男に当たる元第九十代天皇で大覚寺統の祖である、

亀山上皇生没年124979日(建長元年527日)~ 1305104日(嘉元3915日)))

と、亀山天皇第二皇子で大覚寺統の元第九十一代天皇、

後宇多上皇生没年12671217日(文永4121日)~1324716日(元亨4625日)

と、持明院統の後深草天皇の第二皇子と生まれるも、父後深草上皇の働きかけにより、建治元年(一二七五)年に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり、親王宣下、次いで後宇多天皇の皇太子になり、弘安一〇(一二八七)年に後宇多天皇の譲位を受けて即位した(これ以降、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代が暫く続いたが、正応二(一二八九)年に自分の皇子胤仁親王(後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まった)元第九十二代天皇、

伏見上皇生没年1265510日(文永2423日) - 1317108日(文保元年93日))

と、持明院統の、伏見天皇第一皇子であった元第九十三代天皇、

後伏見上皇生没年128845日(弘安1133日)- 1336517日(延元元年46日))

がおり、実に、

130132日(正安3121日)から後深草上皇が亡くなる1304817日(嘉元2716日))の凡そ三年五ヶ月の間は実に五人の上皇の並立があった

のである。]

 

 足利將軍は、かくしてこの非常な危樅を脱し得たのである。然し、一五七三年迄続いたこの武力主宰の時代は、尚ほお日本歷史に於ける最も暗黑な時代たることを免れなかつた。足利氏は十五人の統治者を置いて國政に當たらしめたが、その中には有能な士も多くあつた。彼等は産業を奬勸し、文藝の發達に務めた。然し平和をもたらす事は出來なかつた。爭ひが後から後からと起つた、そして領主達は將軍の命に服せず、互に干戈を交じへた。首都は亂れて、恐怖の狀を呈し、宮廷の貴族達は逃れ出て、自分達を保護して呉れる力のある大名の許に走らなければならぬ程になつた。盜賊は全國到る處に出沒し、海賊は海を脅かした。將軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた。終には農業も商工業も、有力な領主の領土以外では存在しなくなつてしまつた。各地方は荒廢し、飢饉と地震と疫病との恐怖は、絶え間なき戰亂の慘苦に加へられた。貧困の一般であつた事は、後土御門として歷史に知られてゐる天皇――天津日嗣の第百二代なる――が一五〇〇年に崩御された時、大葬費が支出されなかつたため、その御遺骸が四十日も、宮廷の入口に止め置かれてゐたと云ふ事實から、最もよく想像される事と思ふ。一五七三年迄、この慘狀はつづいた。そして將軍職はその間に無力無能に墮落してしまつた。その時一人の健な武將が起つて、足利家を亡ぼし、支配の權を握つた。このこ簒奪者は織田信長で、その纂奪は非常に要求されて居たものであつた。若しこの纂奪が起こらなかつたなら、日本は遂に平和時代に入らなかつたであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「一五七三年」同年八月二五日(元亀四年七月二十六日)に第十五代将軍足利義昭が宇治槇島城を明け渡して降伏、織田信長に追放され、室町幕府はこれを以って事実上、滅亡したとされる。

「將軍自身も支那に貢物を捧げるの屈辱を受けなければならなかつた」明との「勘合貿易」での双方の立場の違いを言っているのでだが、小泉八雲はコンパクトに纏めたために、必ずしも事実を伝えているとは言えない。ウィキの「日明貿易」によれば、『当時の明王朝は、強固な中華思想イデオロギーから朝貢貿易、すなわち冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認めなかった。そのため』、『勘合貿易は、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前であった。日本国内の支配権確立のため』、『豊富な資金力を必要としていた義満は、名分を捨て』、『実利を取ったといえる。しかし』、『この点は当時から日本国内でも問題となり、義満死後』、四『代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは』、応永一八(一四一一)年に『貿易を一時停止する。具体的な理由として、足利義持が重篤な病にかかった時に、医療への再認識が高まり、朝貢貿易の主要物が薬膳(生薬)と合薬で、それも南方産の香薬が主で、それらは中国では産しないことから』、『朝鮮・琉球との通交が確保できることを前提に、対明断交に踏み切ったとされている。朝鮮・琉球との貿易で日明間の朝貢貿易を肩代りさせ、評判の悪い冊封関係を断ち切ろうとしたものであ』った。しかし、第六代将軍足利義教時代の永享四(一四三二)年には復活している。『明は貿易を対等取引ではなく、皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の豊かさと皇帝の気前のよさを示すため、明からの輸入品は輸出品を大きく超過する価値があるのが通例だった。日明貿易がもたらした利益は具体的には不明であるが、宝徳年間に明に渡った商人楠葉西忍によれば、明で購入した糸』二百五十文が日本で五貫文(五千文)で売れ、反対に、日本から銅十貫文を一駄にして持ち込んだものが、明では四十~五十貫文で『売れたと記している。また、応仁の乱以後』、『遣明船を自力で派遣することが困難となった室町幕府は』、『有力商人にあらかじめ抽分銭を納めさせて遣明船を請け負わせる方式を取るようになるが、その際の抽分銭が』三千~四千貫文であった。そのため、その十倍に『相当する商品が日本に輸入され、抽分銭や必要経費を差し引いても』、『十分な利益が出る構造になっていたと考えられている』という。また、文明一五(一四八三)年に『派遣された遣明船は大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していたことが知られ、貿易の収益の一部は朝廷に献上されている』。『勘合貿易が行われるようになると』、逆に『倭寇(前期倭寇)は一時的に衰退し、輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など』、『室町時代の文化に影響した』とあり、文化史家として本書を書いている小泉八雲としては、見落とせない内実をカットしてしまったという印象が私には感じられる。]

 

 何となれば、五世紀以來平和と云ふものはなかつたからである。天皇も、執權も、將軍も、全國にその統治を確立する事は出來なかつたのである。何處かで、終始氏族同志は互に戰爭をして居た。第十六世紀の頃には、一身の安全なるものは、僅に、保護を與へる代償として自分の欲する處を行ひ得るやうな有力な武將の、その保護の下にあつてのみ得られるのであつた。皇位繼承の問題――第十四世紀の間殆ど帝國を碎破した――は無法な黨派に依つて何時再び超こらむものでもなかつた。そしてその結果は恐らく文化を滅ぼし、國民をひてもとの野蠻な狀態に戾すのであつた。この時程日本の將來が暗黑であつた時はなかつたのであるが、その時突然織田信長が帝國に於ける最者として顯はれ、これ迄一人の頭首に服從したもののうちの尤も恐るべき軍隊の主將となつたのであつたのである。信長は神道の神官の末裔であるが、何よりも先づ愛國者であつた。彼は將軍の名稱裕などはほしがらなかつたし、又それを受けもしなかつた。彼の望みはこの國を救ふ事であつた。彼は、この希望を達するには、何うしてもあらゆる封建的の力を一つの支配の下に集中し、法律を制する他はないと考へた。この集中をなし遂げる方法と手段とを探し求めた結果、彼は、先づ最初に除かなければならない障害の一つは佛教の戰鬪力――北條執權の下に發達した封建的佛教、特に大なる眞宗[やぶちゃん注:原文は“Shin”。言わずもがなであるが、これは以下で示される通り、浄土真宗のことである。]、天台宗に依つて代表されるそれに依つて創られた障害であることを察知した。この兩宗派は既に信長の敵に助けを叫へて居たのであるから、爭ひの口實を得るのは容易な事であつた。それで彼は先づ天台宗を相手として向つた。戰爭は猛烈な勢ひを以て行はれ、比叡山の僧院なる城塞は襲擊せられ全滅せしめられ、僧侶は盡〻く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]皆その門徒と共に刄にかけられた――女子供に至る迄も少しの慈悲も加へられなかつた。元來信長の性質は殘忍ではなかつた。然しその政策は嚴酷であつた。そして、如何なる場合に、又何故に烈な攻擊を加ふべきかを知つて居た。この虐殺以前に於ける天台宗の大であつた事は、比叡山で燒かれた僧院の數が三千もあつたと云ふ事實を以て想像し得られるであらう。大阪に本山を有つてゐる東本願寺の眞宗派も。それに劣らず勢力があつた、そして今の大阪城の立つて居る所を占めてゐたその僧院は、國中最の城塞の一つであつた。信長は幾年か待つて居たが、ぞれはただ攻擊の準備をするためであつた。僧兵はよく防戰した、この包圍中に五萬の生命が失はれたと言はれて居る。しかも天皇親ら[やぶちゃん注:「みづから」。正親町(おおぎまち)天皇であるが、この両者の]の御仲裁が、確にこの要塞の襲擊と城壁内の人々の殺戮とをとどめ得たのであつた。天皇に對する尊崇の念から、信長は眞宗僧侶の生命を助ける事を承諾し、彼等僧侶は只だ所有を沒收せられ、分散せしめられただけで濟んだが、その勢力は爾來永久に碎かれたのであつた。佛教をかく有功に挫き果たしたので、信長はその注意を互に相爭つて居る氏族の方に向ける事が出來た。この國民がこれ迄生んだ最大の武將等――秀吉及び家康――の支持を得て、彼は更に進んで平和と秩序とを敷かうとした。そして彼の雄圖が正に成らんとした時、一人の家臣の復仇的謀反のため、彼は一五八二年に敢へなく最期を逡げた。

[やぶちゃん注:「信長は神道の神官の末裔である」織田信長の祖父信定は戦国初期の武将で、尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の一つであった織田弾正忠家の当主にして勝幡城城主であったが、彼は越前国織田庄劔神社の祠官の系譜を引いており、本姓はこの頃には藤原氏(越前織田氏は忌部氏を称した)を称していたが、後に信長が平姓に改めた、とウィキの「織田信定にある。

「天皇親ら御仲裁が、確にこの要塞の襲擊と城壁内の人々の殺戮とをとどめ得たのであつた」正親町(おおぎまち)天皇であるが、この両者の長い「石山合戦」(元亀元(一五七〇)年九月~天正八(一五八〇)年八月)の果ての講和は事実上、双方の戦略上の結果であって、正親町の成果ではない。]

 

 その血管に平氏の血を有つてゐた信長は、根本的に貴族であつて、行政に就いては、その大宗族[やぶちゃん注:有力な「氏族」としての藤原氏。前注参照。]の有して居た才能を繼承し、外交のあらゆる傳統を體得してゐた。彼のための復仇者であり且つは後繼者であつた秀吉は、信長とは全く異つた型の武人であつた、彼は一農夫の子であつたが、その鋭敏と勇氣と、自然に備つた武藝の技と、戰爭の掛け引きに對する生まれながらの一才能とを以て、その高位をかち得た訓練を經ざる天才であつた。信長の雄圖に對して、彼は常に同情をもつて居り、そして實際その雄圖を遂行した――彼に關白の位を授け給うた天皇の名に於て、南北に亙つて全國を平定したのである。かくして全國の平和は一時打立てられた。然るに秀吉が集め且つ訓練した大武力はやがて制御し難いものとなる徵候を現はし始めた。ここに於て彼は彼等に仕事を與へんがために、朝鮮に對し理由なき戰ひを宣し、それに依つて支那征服を果たさんと希望した。朝鮮との戰爭は一五九二年に始まり、一五九八年迄不滿足な狀態で長引き、その年に終に彼は歿したのである。彼は正に不世出の偉大なる武人である事を示したが、最良なる統治者の一人ではなかつた。朝鮮征討も、若し彼が自分親ら、その事に當つたならば、もつといい結果が獲られたかも知れないのである。事實は、その戰爭は兩國の力を消耗せしめただけであつた。そして日本は奈良の『耳塚』――それは外國の殺された者の頭を鹽漬けにして、それから切り取つた三萬對の耳を、大佛の御堂の境内に埋めて、その場所を明示したものである――を除けば、海外に高價を拂つて得た勝利として、他に殆ど示すべきものを有つて居なかつたのである。

[やぶちゃん注:「奈良の『耳塚』」「奈良」は京都の誤り。現在の京都市東山区にある豊国神社の門前に現存する。(グーグル・マップ・データ)。]

 

 次いで權力の位置のなくなつた場所へ入つて行つたものは、日本に生まれた最大の偉人――德川家康であつた。家康は源氏の嫡流で、何處までも貴族の人であつた。秀吉を一度敗つた事あつた程で、武人として彼は秀吉に劣つては居なかつた、――然し彼は武人以上の人物であつた。則ち彼は達觀の經世家[やぶちゃん注:政治家。]であつた、絶倫の外交家であつた、更に學者とも言はるべき人であつた。冷靜に、愼重で、權謀あり、――疑ひ深くしかも寬容に、――嚴格にしてしかも情味あり――その天才の廣く且つ多樣なるは、ジユリアス・シイザアに對比するも敢て劣るとは言はれなかつた。信長や秀吉が爲さんと欲して爲し得なかつた處を、家康は迅速に完成した。『異國にさまよふ亡靈となるやうに』――則ち祀られざる靈魂の狀態で――朝鮮に軍隊を殘して置かないやうにといふ、秀吉臨終の命令を果たした後、家康は自分の支配權に抗議するために結束した諸侯の同盟に面を向けなければならなかつた。關ケ原の激戰は、彼を全國の元首とした。それで直に彼は、自分の權力を鞏固[やぶちゃん注:「きようこ」。強固に同じい。]にし、武權政府の仝機關を、微細に亙つて完成すべき手段を講じた。將軍として、彼は大名制度を改造し、封地の大部分を、自分の信賴し得る者の間に分かち、新しい武權階級を設け、且つ大藩主の勢力を、殆ど謀反の出來ないやうに秩序を定めてこれを平均した。後には大名達は自分の他意なき所行に對しては保證をさへ差し出す事を要求された。【註】則ち大名は一年中の或る期間を、將軍の首都で過ごし、その殘りの期間は人質として、その家族を殘して置かなければならなかつた。行政全體が簡潔にして賢明なる企畫の上に建て直された。事實、家康の法律は彼が非凡な立法家であつた事を證明して居る。ここに日本歷史上始めて國民は完成されたのである――少くとも社會的單位の特質が、それを可能ならしめた限りに於て、完成されたのである。この江の建設者の勸告した事は代々の後繼者の從ふ所となり、又一八六七年迄續いた德川將軍家は、國に十五人の武權の主君を與へたが、その下に日本に二百五十年の間、平和と繁榮とを享有し得たのである。そして社會はかくしてその獨得の型でりの最大限度迄發展する事が出來たのてある。産業や藝術は新しく驚くべき程に發達し、文學は立派な後盾を得たのであつた。國家の祭祀は大事に支持され、第十四世紀に國を殆ど危殆[やぶちゃん注:「きたい」。危険・危機に同じい。]に頻せしめたかの皇位繼承の爭ひの、再び起こる事を防ぐためには、あらゆる愼重な注意がとられたのである。

註 汀戸に義務的在住(參勤)の期間はすべての大名に對して同一ではなかつた。或る場合にはその義務は六箇月に及び、また或る場合には一年置きに首府に居る事もあつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「参勤交代によれば、慶長五(一六〇〇)年に「関ヶ原の戦い」で『徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため』に、『江戸に参勤するようになった。家康は秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与え、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)を江戸に住まわせる制度を立てた。当初、参勤自体は自発的なものであったが』、『次第に制度として定着して』行き、寛永一二(一六三五)年、徳川家第三代将軍徳川家光が「武家諸法度」を『改定したことによって』、『諸大名の義務となっ』た。『制定後、諸大名は一年おきに江戸と国元を往復することが義務となり、街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の居城と江戸藩邸の両方の維持費などにより』、『大きな負担を強いられた。これに依って諸藩の国力低下に繋がり、徳川家が支配する長く戦争のない江戸時代が確立されて』行くことにはなった。『この制度は江戸時代を通じて堅持されたが』、享保七(一七二二)年に、徳川吉宗が、「上米(あげまい)の制」と呼ばれる、石高一万石に対し、百石の『米を上納させる代わり、江戸滞在期間を半年とする例外的措置をとったことがある。この措置には幕府内に反対意見もあったようではあるが、幕府の財政難を背景に制定されたということもあり』、結局、享保一五(一七三〇)年まで続けられた、とある。]

2018/08/28

大和本草卷之十三 魚之上 カマツカ

 

【和品】

カマツカ 京都ニテカマツカト云又賀茂ニテ河キスゴ或ハ

 カナクシリト云カモ川ニ多シ其形ハゼ又キスゴニ似タリ

 頭方ニシテカトアリ色モ味モハゼニ似タリ長六七寸地

 ニツキテ上ニヲヨカス或沙中ニカクル膾トスヘシ性平無毒

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

カマツカ 京都にて「カマツカ」と云ふ。又、賀茂にて「河キスゴ」或いは「カナクジリ」と云ふ。かも川に多し。其の形、「ハゼ」、又、「キスゴ」に似たり。頭、方(けた)にして、かど、あり。色も味も「ハゼ」に似たり。長さ、六、七寸。地につきて、上に、をよがず。或いは、沙中に、かくる。膾とすべし。性、平。毒、無し。

[やぶちゃん注:条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ属カマツカ Pseudogobio esocinus

『京都にて「カマツカ」と云ふ』ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のカマツカのページには、『鎌柄』で『琵琶湖周辺での呼び名。鎌の柄のように硬い。煮ると』、『鎌の柄のように締まるため』とある。

「賀茂」京都府京都市にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の周辺域。この一条、「京都」と「賀茂」と「かも川」(鴨川)という京都を殆んど知らぬ私などにとっては「そないな細分区分が本当に出来るんかいな!?」と激しくツッコミたくなる。

「河キスゴ」「キスゴ」は海水魚の条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica のこと。生態や細身のスマートな体型が似ており、白身魚として調理法も塩焼き・天ぷらなどにして美味という点でも似ていることによる。

「カナクジリ」ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のカマツカのページには異名が沢に載るが、その中にカナキシ・カナクジ・カナクジリ・カナビシャの類似名の中に出る。「カナ」は「金」で「硬いもの」か。カマツカの頭部が後に出るように四角い方形を成し、それが一見、硬く見え、さらに臆病な性質から、驚いたり、外敵が現れたりすると、その頭で素早く川底の砂に穴を掘って中に潜り込み(これが「クジリ」(くじる:穴を空ける))、目だけを出して身を隠す習性を持つことからの異名であろうと思われる。

「ハゼ」条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei に分類される魚の総称。漢字では「鯊」「沙魚 」「蝦虎魚」など書く。ウィキの「ハゼ」によれば、二千百『種類以上が全世界の淡水域、汽水域、浅い海水域のあらゆる環境に生息し、もっとも繁栄している魚のひとつである。都市部の河川や海岸にも多く、多くの人々にとって身近な魚に挙げられる』とし、『運動能力の低い底生魚ゆえ、体色は砂底や岩の色に合わせた保護色となっているものが多い。ただし温暖な海にはキヌバリ、イトヒキハゼ、ハタタテハゼなど派手な体色をもったハゼも生息する。シロウオなど透明な体色のものもいる』とある。

「方(けた)」四角の意。「四」を表わす「十」文字の形「+」(桁状)及びそれが合わさって形成される「」から。

「六、七寸」十八~二十一センチメートル程。カマツカは体長十五~二十センチメートルほど(長く下に尖った吻を特徴とし、吻の下部には一対の触手としての鬚(ひげ)を持つ。

「をよがず」表記はママ。「泳がず」。 

「膾」大型個体は刺身も美味いとされるあ、寄生虫が恐いのでやめましょう。

「平」漢方で、寒涼や熱温の作用が顕著ではない緩和的薬性を持っていることを指す語。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 嶋タカノハ魚 (タカノハダイ)

 

嶋タカノハ魚

 

Simatakanoha_2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。今まで本巻子本で複数個体同定してきた種であるが、これっくらい安心して、はっきり、スズキ目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Cheilodactylus zonatus に同定出来る図版はない。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 コマイシダイ (イシガキダイ)

 

Komaisidai

 

コマイシダイ

   石ダイノ類

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。標題和名は実は「ゴマイシダイ」の意ではないかと踏んだ。而してイシダイ(スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus)に似ていて、黒い丸い「胡麻」状斑点があるとなれば、これはもうあれだと思った。「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イシガキダイを見よう。側扁し、体高が高く、横から見ると、楕円形に近い点、黒い不定形の斑文があるが、それがやや不明瞭になりつつあるらしい個体であることから見て、スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシガキダイ Oplegnathus punctatus の青年魚と同定してよいのではあるまいか。なお、ウィキの「イシダイによれば(この部分はウィキの「イシガキダイの同様の記載よりもより良い。かなり以前から自然交雑が行われていたことが判るからである)、『自然環境下でのイシガキダイ O. punctatus との交雑も確認されている』。明治から昭和初期にかけて長崎で活動した実業家で水産学者の倉場富三郎(くらばとみさぶろう 明治三(一八七一)年~昭和二〇(一九四五)年八月二十六日(長崎にて自死。混血であった故の晩年の不遇はウィキの「倉場富三郎を是非見られたい):「グラバー邸」で知られるイギリス人貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover 一八三八年~一九一一年)と淡路屋ツルの長男。正式な英名はTomisaburo Awajiya Glover(トミサブロー・アワジヤ・グラバー))が編纂した『「グラバー図譜」にはこの交雑個体が載っており、「ナガサキイシダイ」という名前で呼ばれたことがある。交雑個体(Oplegnathus fasciatus × Oplegnathus punctatus)はイシダイの横縞とイシガキダイの黒斑の両方が現れるが、鰭条数等は母親の影響が強いとされている』。二〇一〇年十一月十一日には『北海道寿都町の沖合で漁師に捕獲されて』おり、『人工交雑は近畿大学水産研究所で』一九七〇年に『成功した。この雑種は「イシガキイシダイ」、または交雑に成功した近大に因み「キンダイ」とも名付けられている』(個人的には後者の和名はなんだかなぁと思う)。『雑種は生殖機能を持たないため』、『子孫を残せず、学名もつけられていない』とある。]

反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第二

 

   ○尾崎狐 第二

 

 靑梅海道に阿佐ヶ谷といふ村あり、堀之内より二十町程あり、其名主を喜兵衞といふ。叔氏醉雪翁の婦(つま)の姻家(さとつゞき)なり。

 別家あり、同村にあり、虎甲といふ。其家に妖恠出で、四月下旬より八月に至る迄止まず、七月下旬、醉雪翁が末子(ばつし)弟次、行(ゆき)て見しに、

「此日はさしたることなし。梁上より錢一文を抛(なげう)つ。暫くして椽(えん)の下より竹竿を出(いだ)し、振𢌞(ふりまは)す。此外、恠しきこともなかりし。」

よし。

 其後、八月に至(いたり)て消息を問ふに、猶、怪しきこと言盡(いひつく)すべからず、或人、寶劍のよしにて、一刀を持來(もちきた)るに、寶劍、自(おのづ)から拔出(ぬけい)で、飛(とび)あるく。人々、驚(おどろき)、箒を以て打落(うちおと)し、からくして、室に收め、面目なく逃歸(にげかへ)る。

 又、或人、「蟇目(ひきめ)の法」を修したるよしにて來りしが、是も、弓を引(ひき)たるまゝ、棒しばりの如く、作り付(つけ)たる人形の如く、放つ事、能はず、稍々(やや)暫くして、力盡きてゆるまりければ、亦、赤面して逃去(にげさ)るよし。

 其外、單衣(ひとへ)を腰より切離(きりはな)ち、半てんとなし、別なる半てんの下に、右單衣の下を綴り付たる樣、人工と殊なることなし。

 又、飯櫃に入(いり)たる牡丹餅(ぼたもち)は蓋(かぶ)せし儘に失せ、茶釜の茶は水となり、又、沸湯となり、見る間(ま)に、かはる。茶碗、宙を飛び、煙草盆、天井に付くなどの類、說盡(ときつく)し難し、といふ。

 予、小野竹崖を訪ひて、談(ものがたり)、これに及び、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「子は射術の師範なれば、定(さだめ)て蟇目を行ふこともあるべし。右の說、虛說ならばよし、もし實(まこと)に是等のことあらば、如何(いかに)か處(しよ)し玉ふ哉(や)。予、寶劍をば持たずといへども、兩刀を帶(おび)たれば、これが飛出(とびいで)たらんには面目なし。狐狸、彌(いよいよ)かかる技能ありや。若(も)しさあらんには、是迄、あなどりて、ことともせざりしは不覺也。吾(われ)、道にては邪は正に勝(かつ)能はずなどいへれど、かゝる術あらば、鬼神と同じく、敬するにしかず。武力施す所なく、正道、邪に勝つこと、能はず。吾(われ)事を好むにはあらねども、窮理の爲(ため)なれば、彼(かの)地に行向(ゆきむか)ひて實否を正し、其上にて工夫を用ひんと欲す。子(し)、ともに去り玉ふまじや。」

といへば、

「尤(もつとも)。」

とて同(どふ[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])じけり。

 一日、朝まだきに出で、彼家に趣く。途中に四谷傳馬町「ドウミヤウ」といふ藥店の人に逢ふ。此人も右の恠異の不思議さに、是迄、訪(おとな)ひ來りしよしにて、同道せり。

 阿佐ケ谷の入口なる水茶やにて辨當を遣ひ、亦、其風聞を聞くに、猶、大(おほい)に恠敷(あやしき)ことども有り。

「八朔の日は、江戶の人々、來り、大言して恠異の物語すると、其儘、土砂を頭より蒙りたり。或(あるい)は、恠を罵(ののし)る者は、必ず、其祟りに遇ふ。みぞ・堀などに入者(いるもの)もあり、糞坑(くそあな)に入物(いるもの)もあり。」

となり。

 これにて藥種や、恐ること甚(はなはだ)し。予が輩も、隨分、小心にして、敢てみだりなる言を出さず。

 先(まづ)、名主に至りて案内を賴み、扨、凶宅に至り、暫く休息を乞ひけり。其間、六、七町也。

 扨、寒溫を舒(の)べ、次に歲の豐凶など語り、敢(あへ)て「怪」の字、半句も說かざりけり。小半時にして、何ごともなし。予、默禱(くちのうちにいのり)【もくとう。】して曰(いはく)云々。呪文の大意は、

「これ迄來(きた)ること、事を好むにあらず。實(まこと)に吾輩、狐狸の恠を信ぜず。大(おほい)に慢(あなど)り汚(けが)すことあるべし。これ、吾道に於て其說なく、且は、未だ目に見たることなき故のこと也。彌(いよいよ)其術あらば、吾等の惑ひ、とくる程に技能をあらわし[やぶちゃん注:ママ。]、以後を警(いま)しめ玉へ。」

と如ㇾ此(かくのごとく)呪(じゆ)して、しばしあれども、ことなし。

 又、默禱して、いふ。

「かく迄、其技を見んことを望むに、おしみて、肯(うべなひ)て示さざるは如何に。さればこそ、吾道にて常に慢(あなど)ることあるは、かゝるいゝ[やぶちゃん注:ママ。]甲斐なき業(わざ)をなし玉ふ故也。吾去りて後、如何樣に技能を逞(たくまし)ふし玉ふとも、吾、決(けつし)て其術を信ぜず。されば、慢(あなど)る心、やまず。以後、禮を失ふこと、多かるべし、其時に、怒り玉ふことなかれ。」

といふに、時ありて、又。事もなし。

 於ㇾ是(ここにおいて)、大(おほい)に罵りて、いふ。

「かく迄、理(ことわり)を盡し、辭(ことば)を盡しても感應なきは、靈に通ぜし者にあらず。口より出(いで)ざる言(ことば)は耳に入(いる)ことなきに似たり。然(しか)れば人と殊(こと)なることなく、技能も人に勝ること、覺束なし。果して、吾、常に思ふの外には出ざりけり。あたら、ひまを費して、窮理の爲に是迄來りたるは、大に無益なりけり。さらば、大言せしとて祟りあるべからず。此頃のはなしをきかんとて、主人と恠の談(ものがたり)に及び、委細を尋(たづぬ)るに、果して、十に八九は、虛說なりけり。其實、瓦礫(ぐはれき)を抛(なげう)ち、食を竊(ぬす)むの外は、恠といふ程の事はなし、といふ。予、其時、思ふ、此(この)行(おこなひ)や、究理に能はずといへども、別に一事を得たり。是より以後、世の風說、十の壹二と聞くべし。吾、今日、理(ことわり)を究(きはめ)たり。」

とて笑ひ罵りて、竹崖・藥種やを促して立歸る。

 此日、四つ半時より、八つ頃迄、凶宅に居しが、何事もなし。興、索然として、又、靑梅街道を淀橋通り來り、十二社にて休(やすら)ひ、内藤新宿、通り、歸家す。

 天保八年八月七日、大風雨の、一日降(ふり)て後なれば、殘暑も大(おほき)に退(しりぞ)き、遊行(いうかう)には甚(はなはだ)美(よき)日にてぞありける。

[やぶちゃん注:次は底本でも改行されてある。]

 門人興津生の父、幼少の頃、家に池袋の奉公人を置(おき)て、此祟りあり。其頃、人のいふをきくに、不思議なる事ども也。

 或日、昨夜より釜に米を仕掛置きて飯を燒きしに、櫃に移すとき、釜の膚(はだへ)に付(つき)たる所より、さなだの紐、出(いづ)る。段々と飯を移して盡(つく)るに至れば、主人の越中犢鼻褌(ふんどし)、疊みたる儘に下にしきて有り。其紐のはし、先(まづ)、あらわれたるなり。

 或時は、人にかわりて膳立(ぜんだて)をして置(おく)に、銘々の膳椀、一つも間違ひたる事なし、などいへり。

 阿佐ヶ谷より歸りて後、興津生の父と、談(ものがたり)、恠の事に及びし故、古への話を聞(きき)しに、

「是も十の一二なり。畢竟、此種の狐、野狐(やこ)よりも、性(しやう)、愚(ぐ)にして、さしたる能(のう)なきに似たり。大體、猫のいたづらに異ならず、人事にも通ずることなし。一月餘(あまり)の間に、唯(ただ)、一事、やゝ人事に通じたる事ありけり。臺所の膳棚にありける下男が膳に、さらの有(あり)たるに、生のむかご、一つ、靑とうがらし、一つ、おきたり。此一事のみ。其餘は見るに足(たる)事なし。」

と語りき。

[やぶちゃん注:以下の頭の「《御徒目付となる。》」は当該箇所の頭書(かしらがき)と本文割注の下にあるものをここへ、かく配したものである。「興津彌八郞」に就いてのそれである。ここは底本では改行されていない。]

《御徒目付となる。

 興津彌八郞【其頃、廿騎町與力、今、御裏門與力。其(その)子鉉一郎、予、門人なり。】、其頃、興津が家僕、早朝、庭の掃除に出(いで)しに、異獸、孳尾【じひ】して居(をり)し故、一棒に打殺(うちころし)、其一つは佚(にが)せり。其さま、いたちより大にして、尋常狐より小なり。唯、羣集して害をなすを如何ともしがたき、よし。

 

[やぶちゃん注:長いので、改行を施して読み易くした。先の「尾崎狐 第一」の続編である。

「阿佐ヶ谷」東京都杉並区佐谷北附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「堀之内」東京都杉並区堀ノ内。ここ(グーグル・マップ・データ)。中心は上記の北の端の中央線阿佐ヶ谷駅から南東に二キロメートルほど。

「二十町」二千百八十二メートル。

「叔氏醉雪翁」二度、既出既注。筆者鈴木桃野の叔父多賀谷仲徳。先手組与力で火付盗賊改方を兼務した。「魂東天に歸る」の話と注を参照のこと。

「婦(つま)の姻家(さとつゞき)」妻の実家の親族。

「虎甲」「とらかつ」か。屋号であろうか。主人が甲寅(きのえとら/コウシン)年の生まれででもあったか。

「弟次」「おとつぐ」か。

「からくして」からくも。やっとのことで。

「蟇目(ひきめ)の法」弓を用いた呪術。「蟇目」とは朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったものを指す。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注を参照。これらを見ると、特に狐憑きに効験があったと考えられていたことが判る。精神病者に対する乱暴なショック療法である。

「單衣(ひとへ)を腰より切離(きりはな)ち、半てんとなし、別なる半てんの下に、右單衣の下を綴り付たる樣、人工と殊なることなし」判り難いが、しまっておいた単衣の衣が腰から下が切り取られて半纏状にされており、別にあったもともと半纏であったものの下に、その切り離した単衣の腰から下の部分が、知らぬうちに綴りつけられてあった、その裁断や綴り合せの仕儀は、普通に人間が成したものと全く変わりがなかった、というのである。

「飯櫃に入(いり)たる牡丹餅(ぼたもち)は蓋(かぶ)せし儘に失せ」蓋がちゃんとしてあって、誰も開けていない(はずな)のに、中の牡丹餅は全く消えうせており。

「茶碗、宙を飛び、煙草盆、天井に付く」前の「狐狸字を知る」で私が注した、典型的「ポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist:騒ぐ霊)である。

「小野竹崖」不詳。

「狐狸、彌(いよいよ)かかる技能ありや」この「や」は反語的疑問。

「ともに去り玉ふまじや」同道して行っては下さるまいか?

「四谷傳馬町」伝馬町は、江戸府内から五街道にかかる人足・伝馬の継ぎ立てを幕府の命により行なった「道中伝馬役」を請け負った「大伝馬町」及び「南伝馬町」と、江戸府内限定の公用の交通・通信に当たる「江戸廻り伝馬役」を請け持った「小伝馬町」があったが、ほかに「大伝馬町」と「南伝馬町」に付属する町として、寛永一五(一六三八)年に設けられた「四谷伝馬町」と「赤坂伝馬町」があった。前者は現在の新宿区四谷一~三丁目に相当する。の中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「ドウミヤウ」漢字不詳。

「八朔の日」八月一日。

「藥種や」薬種屋。先の四谷伝馬町の「どうみょう」という店の主人である。

「予が輩」同行していた桃野の弟子(書生のような者)或いは従者であろう。薬種屋主事はいいとしても、弓術師範の小野竹崖を指したのでは、それこそ不遜であるからである。

「其間、六、七町」六百五十五~七百六十四メートルほど。先の弁当を食べた阿佐ヶ谷の入口にあった水茶屋から、その怪異の起こるとされた家までの距離である。当時の読者なら、「ああ、あの辺だ」と判るリアリズムがある。面白い明記ではないか。

「寒溫を舒(の)べ、次に歳の豐凶など語り」凶宅の主人に時候の挨拶を成し、当地の実りの良し悪しを訊ねたのである。訪問したのが「八朔の日」であったことを思い出されたい。丁度、この頃に早稲の穂が実り、農民の間では、その初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、当日は「田の実の節句」とも称したのであった。

「小半時」(こはんとき)は「半時」の半分。「一時」の四分の一。現在の三十分。

「大(おほい)に慢(あなど)り汚(けが)すことあるべし」怪異の主体たる「物の怪」或いは「鬼神」が実在するとならば、私のこの態度は尊大にして不遜であり、その威力や神力を侮り、穢すこととなるであろう。

「吾道に於て其說なく」私の認識の範疇に於いては、そうした超自然的存在について認める部分は、全く、なく。

「肯(うべなひ)て示さざるは如何に」私の要求を了解して、怪異を示さないというのは、どういことか!

「以後、禮を失ふこと、多かるべし、其時に、怒り玉ふことなかれ」こちらがここまで譲って怪異出来を乞うておるにも拘わらず、そちらがひるんで怪異を示さぬ上は、以後、ますます拙者はそなたらに非礼を成すことが多くあるに相違ないことに、当然、なるのであるが、その時になって、遅きに失して、お怒りなさいますなよ!。

「四つ半時より、八つ頃迄」午前十一時頃から午後三時頃まで。

「興、索然として」すっかり興醒めしてしまって。桃野はどこかで、怪異に遭遇して、それを冷徹に分析することを楽しみにしていたことが判る。

「淀橋通り」淀橋(よどばし)は現在の東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋((グーグル・マップ・データ))の名であるが、現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。

「十二社」底本の朝倉治彦氏の解説によれば、『熊野の十二社権現のある地。池があり』、『幽邃の地で、茶屋が列んでいた。新宿区』とある。現在の新宿区西新宿二丁目にある新宿総鎮守熊野神社のこと。(グーグル・マップ・データ)。

「天保八年八月七日」グレゴリオ暦一八三七年九月六日。

「釜の膚(はだへ)に付(つき)たる所」釜の内側の底のことであろう。それを移しているのが「池袋の奉公人」なのである。

「人にかわりて膳立(ぜんだて)をして置(おく)に、銘々の膳椀、一つも間違ひたる事なし」その「池袋の奉公人」は、膳出しの役は一度もやったことがなかったのにも拘わらず、という前提があっての謂いである。

「臺所の膳棚にありける下男が膳に、さら」(皿)「の有(あり)たるに、生のむかご、一つ、靑とうがらし、一つ、おきたり」これは実は謎だ。この下女とこの下男との間には、何か、あったのではないか? 或いは、この下女は彼女に気が合ったとか? 最後の最後に、怪異とは別の謎が出されているようで、却って面白いではないか。

「興津彌八郞」息子とともに不詳。

「御徒目付」既出既注

「廿騎町」既出既注

「御裏門與力」江戸城の裏門は平川門の警備主任か。大奥に最も近く、日常的には大奥の女中達の出入りする通用門であり、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあったらしい。この門は別名「不浄門」とも称され、罪人や遺体はここから出されたともいう。

「孳尾【じひ】」「じひ」この漢字の音で「ジビ」であろう。「孳尾(つる)ぶ」で「交尾(つる)む)」の意である。

「尋常狐」「尋常」の「狐」。

「羣集して害をなすを如何ともしがたき」これが尾崎狐の正体と言うわけか。またしても、最後の最後に狐でない狐という妖獣を示して、怪奇完全否定では終わらせない(まさに十の内の一の解明不能の超常現象の匂わせ)。なかなか桃野、やるじゃないか!

ブログ1130000アクセス突破記念《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寒夜

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作文で、底本(後述)では明治四〇(一九〇七)年頃の作とする。明治四十年ならば、龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)二・三年次(当時の旧制中学は五年制)で、満十四、十五歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れており、上述の通り、これはおかしい(龍之介の一高入学は明治四三(一九一〇)年九月である)。なお、作品末の葛巻氏の註では、これは、先に電子化した「菩提樹」「ロレンゾオの戀物語」同様、この『「寒夜」も、同じ』学校に提出した『「作文」答案かも知れない。――が、必しも、そうとのみは云い切れないものも、持っている。それらは半紙にも書かれている跡がある』とある。

 下線(底本は右傍線)及び句読点なしの字空け、第三段落の「絶ゑ」はママである。踊り字「〱」は正字化した。

 本文最終段落冒頭には「この事ありてより早くも十とせを經たり」とある。これを葛巻氏の執筆年代クレジットで逆算するなら、作品内時制は明治三十年か三十一年辺りとなる。当時の龍之介は(既に芥川家の養子)四歳から六歳、江東(えひがし)尋常小学校付属幼稚園入園(明治三〇(一八九七)年四月)から翌年の江東尋常小学校(現在の両国小学校)入学年に当たる。芥川家は当時も執筆時も本所小泉町(現在の墨田区両国三丁目)にあった

 本作内にはこの十年の間に亡くなった作者の主人公「童」の「姊」(あね:「姉」)が登場するが、これは芥川龍之介の事蹟に合わせると、事実ではない(芥川家には子はいない)。彼の実の次姉である「新原(にいはら)ヒサ」は健在であり(龍之介より四歳年上。葛巻義定(底本編者義敏の実父。離婚するも西川の自殺後に復縁)・西川豊に嫁す。昭和三一(一九五六)年没)、長姉の「新原ハツ」は龍之介の生まれる前の明治二一(一八八八)年に三歳に満たずして夭折しているからである。私には、この本文に出る「姊」とは、この次姉「ヒサ」を事実上のモデルとしながらも、実は、龍之介が逢ったこともないにも拘わらず、終生、特異的な親しみを感じ続けた長姉「ハツ」の面影が感じられて仕方がないのである。龍之介晩年の名品で、大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に発表した點鬼簿(私の古い電子テクスト)の「二」を、是非、見られたい。

 「伯父なる人」は不詳。系図を見るに、新原・芥川家には該当する「伯父」はいないように思われる。架空の設定か。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを、昨日、突破した記念として公開した。【2018年6月28日 藪野直史】]

 

 

     寒 夜

 

 ほのかなるラムプの火影に、二人の女ありて衣を縫へり。一人は若く、一人は老いたれども、縫へるは共に美しき紅の絹なり。部屋の中狹ければ、うすけれどもともしび隈なく流れて、縫針の寒うきらめくも見ゆ。

 芍薬描ける二枚折りの屛風引きよせたるかたへには、八つあまりのわらべありて、炬燵に足をさし入れつゝ寢ころびて、眞鍮の竪笛を弄べり。古りたれど頰赤きすこつとらんどびとが くゆり濃き琥珀の酒に醉ひて、草野の宵月にふきふくはこれなりと云ふ。伯父なる人の遠き海の彼方より贈りたるを、童は幼き心にもそのさびたる響の中に 白楊と湖との國を夢みて、日も夜も手を離さず弄ぶなり。

 戸の外は雪、未、止まずと覺ゆ。道を行く人は絶ゑたれども庭には折々八つ手のひろ葉をすべり落つる雪の音す。童は西洋紙の手帳を、黄なる書物の上におし廣げつゝ、覺束なき平假名にて其日の日記をつけ始めぬ。書物は、朽葉色の地に紅の蘭の花を描きたるが、そが上に、あらびあんないと物語の金文字うつくしく光りつ。

 二人の女は猶、紅の絹を縫いて止めず。老いたるは鼈甲の緣ある大なる眼鏡をかけたり。折々手をとゞめてほゝえむは童の物かくとてむづかしき顏したるが可笑しければなるべし。若きは手も止めで、童の方を偸み見つゝほゝ笑む 縫へる絹とかたへのすびつの火との赤く頰にうつれる床しく見ゆ。

 母上 またかの薔薇と頰白との物語してきかせ給へ、日記をつけ了れる童は 再 竪笛を手まさぐりつゝ云ふ。母はよべも語りつと老いたる女笑へば、さらば姊上こそと童は若き女の眉をゆすりね。

 風やふき出でし、さらさらと雪の窓をうつ音す。「朝よりふりて止まず。やがて道も絶えなむ」と老いたるが呟けば、若きはともしびをとりつゝ立ちて窓をひらきぬ。童も炬燵より出でてその後に從ふ。よはき燈の光に 白く雪に輝ける道と、向ひの家の掛行燈のおぼろめきたるとが見えたり。「文鳥も寒からむ」と窓を閉しつゝ若き女云ひぬ。「文鳥も寒からむ」 こだまの如く童も答へつ。部屋の隅には朱骨の鳥籠ありて 長く紫の紐を垂れたり。二人は眉を合せつゝ靜に籠の中をさしのぞきつ。されど文鳥は動かず、眼をとぢ頭をたれて止り木にうづくまりたる、眞珠鼠の羽がひもほろろ寒げに見ゆ。「文鳥は眠りぬ われも眠らむ」 程へて童は云ひぬ。

 

 この事ありてより早くも十とせを經たり。その夜の童なりし我の今も雪ふる夜每に思出づるは其宵の雪のびゞき、其宵のともしびの色なり。紅き絹を縫ひ給へる姊上も 眞鍮の竪笛を贈り給へる伯父上も今は共に此世を去り給ひて、彼の薔薇と頰白の物語し給ひし母上のみ、猶、日夜 我が側に衣を縫ひ給ひつゝ、時にふれて我亡き姊上の上を語り給ふも悲し。なつかしきは、其宵の雪のびゞき、其宵のともしびの色なり。あはれ、昔を今になすよしもがな、昔を今になすよしもがな。

 

ブログ1130000アクセス突破記念 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) ロレンゾオの戀物語

  

[やぶちゃん注:芥川龍之介の第一高等学校時代の作文で、底本(後述)では大正元(一九一二)年頃の作かとする。大正元年(明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御により改元)ならば、第一高等学校二・三年次(当時の旧制高校は九月進級)で、満十八、十九歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。本文末に丸括で括られた『我がのれる汽船の舵手が、嗅煙草かぎつゝ、語れる物語をしるす。九月二十二日――「休暇中の事ども」。』とはあるが、この年及び前年の夏季休暇中には汽船に乗るような旅はしていない。大正元八月十六日から二十日まで友人(中塚癸巳男(きしお)か)と信州から木曾・名古屋を旅してはいる。しかし、言わずもがなであるが、そもそもがこの附記全体が私は作品本文にリアリズムを与えるための確信犯の虚構であると言ってよい。それは、この「嗅煙草かぎつゝ」「汽船の舵手が」「物語」「語れる」というシークエンスが、すこぶるハマりまくった西洋画風の素材であり、この大正元年の七月から八月にかけて龍之介はオスカー・ワイルドの作品を複数読んでおり(宮坂年譜の書簡からの確認で三冊)、この潮風と嗅ぎ煙草の匂いは私には主人公ロレンゾオの故郷イタリアの、ヴェニスやナポリは言うに及ばず、如何にもそれこそ、この「語りの男」の姿はアイルランドの船乗りにこそ相応しいと感じるからである。因みに、この執筆されたとも推定し得る大正元年九月には、東京帝国大学一年の山宮允(さんぐうまこと)に伴われて、吉江孤雁を中心とした「アイルランド文学研究会」に初めて出席してさえいるのである。また、宮坂年譜ではこのクレジット(同年とするならば)の直前の九月二十三日にはガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)の一九〇〇 年の小説Il fuocoの英訳 The Flame of lifeを読了しており、長崎まで流れ流れてきた主人公イタリア人水夫ロレンゾオの香りと親和している事実である。以上から見ても、大正元年執筆の可能性は堅いと私は思う。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。作品末の葛巻氏の註によれば、これは先に電子化した「菩提樹」同様、『「ロレンゾオの戀物語」も、「寒夜」』(これに続けて電子化する)『も、同じ「作文」答案かも知れない。――が、必しも、そうとのみは云い切れないものも、持っている。それらは半紙にも書かれている跡がある』とある。

 以下、私が躓いた語に注を附す。

 三段落目の「蛋白石」(たんぱくせき)はオパール(opa l)の和名。

 四段落目の「ゐや」は「禮(礼)(ゐや(いや)」で敬意を表わして頭を下げることの意。

 同じ四段落目の「マルクス寺」はヴェネツィアで最も有名な大聖堂サン・マルコ寺院 Basilica di San Marco)のこと。

 同じく四段落目の「ヘリオトロウプ」はムラサキ目ムラサキ科キダチルリソウ属ヘリオトロープ Heliotropium arborescens 及びその仲間を広く指す。ウィキの「ヘリオトロープによれば、『ペルー原産』であるが、『フランスの園芸家が』一七五七年(宝暦七年相当)に『パリに種子を送り、ヨーロッパ』から『世界各国に広まった。日本には明治時代に伝わり、今も栽培されている』。『ヘリオトロープには約』二百五十『種があるといわれる』。『日本語で「香水草」「匂ひ紫」、フランス語で「恋の花」などの別名がある』。『バニラのような甘い香りがするが』、『その度合いは品種によって異な』り、また、『花の咲き始めの時期に香り、開花後は、香りが薄くなってしまう特徴がある』という。『ロジェ・ガレ社(フランス)の『Heliotrope Blanc』(フランスでは』一八九二年(明治二十五年相当)に』『発売)は、日本に輸入されて初めて市販された香水といわれている』。『大昔は南フランスなどで栽培されており、天然の精油を採油していた』が、『収油率の低さ、香りの揮発性の高さというデメリットから、合成香料で代用して香水が作られるようになった(有機化合物であるヘリオトロピンがヘリオトロープの花の香りがすることが』一八八五年(明治十八年相当)に『判明し、それを天然香料の代用として普及した』)。夏目漱石の「三四郎」(明治四一(一九〇八)年)の第九章にも、ヘリオトロープの香水が登場している、とある。

 同じ四段落の「ミルテ」とはフトモモ目フトモモ科ギンバイカ属ギンバイカ Myrtus communis のドイツ語呼名(Myrte)。ウィキの「ギンバイカによれば、地中海沿岸原産の常緑低木で、『花が結婚式などの飾りによく使われるので「祝いの木」ともいう』。『夏に白い』。『弁の花をつけ、雄蕊が多く目立つ。果実は液果で、晩秋に黒紫色に熟し』、『食べられる』。『葉は揉むとユーカリに似た強い芳香を放つことから、「マートル」という名でハーブとしても流通している』らしい。『サルデーニャとコルシカ島では、果実や葉を用いてミルト(Mirto)というリキュールを作る。古代ローマにおいてはコショウが発見される以前はコショウの地位を占めており、油と酒の両方が作られていたと言われる』。『シュメールでは豊穣と愛と美と性と戦争の女神イナンナの聖花とされ』、『古代ギリシアでは豊穣の女神デーメーテールと愛と美と性の女神アプロディーテーに捧げる花とされた。古代ローマでは愛と美の女神ウェヌスに捧げる花とされ、結婚式に用いられる他、ウェヌスを祀るウェネラリア祭では女性たちがギンバイカの花冠を頭に被って公共浴場で入浴した。その後も結婚式などの祝い事に使われ、愛や不死、純潔を象徴するともされ』て、『花嫁のブーケに使われる』。『生命の樹』『や、エデンの園とその香りの象徴ともされる』とある。

 同じ四段落の「覆盆子」は「いちご」と読む。

 同じ段の末に出る「きほふ」は「競ふ」で「争う・張り合う」の意。

 第五段落「ひさぎぬ」の後の空欄は(句点たるべきところ)はママで、その下の「絶ゑて」の表記もママ。

 第六段落「ジェルザレムメリベラアタの曲」は不詳。識者の御教授を乞う。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを、昨日、突破した記念として公開した。【2018年6月28日 藪野直史】]

 

     ロレンゾオの戀物語

 

 やよひになりて、ロレンゾオは懸になやみぬ。

 悲しくうれしき思たえまなく胸にあふれて、あやしき旅やどりのすまゐなれど、そこはかとなくかぐはしきもののといきのかよひ來て、くれなゐの罌粟の花ざかりにも似たりや。あはれサンタルチアも見そなはせ、ふる里以大利亞(イタリア)を去りしより――かのなつかしきヴェニスの水と鍾のびゞきと白きくゞひの歌とにわかれしより、あるは南、埃及、亞刺比亞の國々、睡蓮の花さく川ぞひの市に黄玉の首環したる遊び女のむれに親み、あるは東印度支那の島々無花果の葉かげの港に、おしろい靑きざればみたる女の數々を見たれど、未此處日本の長崎にて始めてかのひとにあひしばかり、あつきまことの戀を覺えしはあらず。ゆひ髮ふくよかに、小猫の眼ざししたるかのひとのまぼろし、薄べにの薔薇(さうび)の如く、うつゝにもロレンゾオの眼にうかびぬ。かくて蔦の葉しげき赤瓦の軒に群つばめのさゞめきとだえて蛋白石の空に夕月の光うすくにほひそむれば、かれはさびしくひとり夕餉ものしつ。

 やがて色褪せたる天鵞絨のきぬに、靑き更紗模樣のはんけちを頸に結びて、古びしマンドリンをかい抱きつゝ、ものうげにすまゐを出づるは近き海べの酒場に其日のかてを得むとてゆくなり。黃色き窓かけをかけたる酒場の窓は暗き長崎の入江にのぞみて、其處にあかきともしびの光にてらされつゝ、にがよもぎの精なりと云ふ異國の酒を酌みかはす船乘の一むれつどひぬ。ロレンゾオは、物怯ぢしたるさまにて主の翁にゐやをなしつゝ、部屋のかたすみなる椅子に腰かけて、さながら懸人を撫するが如くうれしげにマンドリンを手まさぐるが常なり。もし客の一人「歌へ」と命ずれば直に立ちて歌ふ。歌ふは南歐の俗歌なれども、此時ばかりかれの面の晴れやかなるはあらず。マンドリンの糸のびゞきははなれて久しき以大利亞の夢をよびかへして、其上に櫻草の色したる思ひ出の經緯をひろぐ。日は暖にマルクス寺の金の十字架を照らして、狹き水路は月桂の若葉のかほりにみちたり。白き鳩のむれたや石甃に紅き帽の土耳古人ありて忙しく步みゆくが見ゆ。靑き水にのぞめる家々の窓にはヘリオトロウプ、薔薇、黃水仙などにほへり。音もなくリアルトオの橋をすぎゆくゴンドラよ、いましは何處に行かむとする。南國の日の光に橄欖の如く黑めるロレンゾオの面は、醉心地に赤らみて、マンドリンのトレモロはミルテの靑葉をふく風のやうにすゝりなきぬ。曲終れば、人々拍手して銀貨を投ぐ。其時もしかのひと入り來ればロレンゾオは一杯の麥酒に疲れをいやすさへ忘れて、再マンドリンをかいならしつゝ歌ふ。かのひとはこのあたりの町々に林檎、蜜柑、覆盆子など商ふ「むすめ」の一人なり。年は十五六なるべし、黄なる「べべ、ニッポン」に長き帶むすびさげて、黑く淸らかにほゝゑめる目の媚びたるも、髮にかざせる紅椿のやうに艷なり。ロレンゾオが心には昔ブエノスアイレスの謝肉祭に樓の窓よりかざしの花を落して、待ちたる戀人にくちづけなげたる人と、きほふとも見劣りすまじくや。

 かのひとはかく夜每に來りて果物をひさぎぬ されど絶ゑて、こ若き以大利亞びとがやるせなき思ひをさとらざりき。ロレンゾオはかく夜每に來りて歌ひぬ。されど彼は、かのひとの聲をきく每に絃を彈ずる指のあやしくもをののきて、マンドリンの調べの屢亂るゝを知らざりき。

 卯月これの夜、ロレンゾオは黄さうびの鉢おきたる酒場の机にひと夜を明したれども、かのひとの影は見えざりき。つぎて七夜かれはあだにかのひとを待ちぬ。かくて八日の夜、アプサントの醉頰にのぼりて玻璃圓閣にたばしる霰の如くマンドリンかきならしつゝ、ジェルザレムメリベラアタの曲をうたへる時、客の一人は主の翁にむかひて問ひぬ。「かの果物うる娘はいかにしたる」、耳遠き翁の答はものうかりき。「熱をやみてうせぬ、今宵にて三日目なりときゝしか、あはれなることしてけり。」

 たちまち人々は、青琅玕を碎くやうなるもののびゞきにおどろかされぬ。ロレンゾオがマンドリンの絃斷へたるなり。「如何にしたる」と人々たづぬれど、かれは唯うつむきて聲もなく泣きぬ。黄さうびのかほりほのかにたゞよへる酒場に、唯聲もなく泣きぬ。

 そのあしたより、酒場の人々はロレンゾオの影をみずなりぬ。かれの住める家のあるじに問へど知らずと答ふ。あるは身投げて死しぬと云ひ、あるは以大利亞に歸りぬと傳ふ。かれが部屋の壁には猶、絃斷えたるマンドリンかゝりて、きらびやかなる蔦の葉のまつろへる軒には今も懸わたる燕のかたらひしげけれども。(我がのれる汽船の舵手が、嗅煙草かぎつゝ、語れる物語をしるす。九月二十二日――「休暇中の事ども」。)


 

2018/08/27

ブログ1130000アクセス突破記念 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 菩提樹――三年間の回顧――

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の第一高等学校時代の作文で、底本(後述)では大正二(一九一三)年の作とする。同年は七月一日に第一高等学校を卒業し(卒業成績は二十六名中二番で、首席は龍之介の盟友井川(後、婿養子となり、恒藤に改姓)恭であった)、九月に東京帝国大学文化大学英吉利文学科に入学しているから、本作は、底本クレジットが誤りでないとすれば、同年一月から恐らくは五月(六月二日に卒業謝恩会が開かれており、十二日から二十日までが卒業試験、二十二日から二十六日までは井川・長崎太郎・藤岡蔵六と赤城山(登頂)・伊香保に旅に出ている)までの間に書かれた、満二十、一歳(龍之介は三月一日生まれ)当時のものということになる。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。作品末の葛巻氏の註によれば、『これは、高等学校の、いわゆる「作文」かとも思うが、ほとんど同一の原稿が二種類ある。一は添削を受けたもので、朱点が入っている。その方が「答案」なのであろうと思うが、何故殆ど同じに近いものを二通書いたのかは、今はわからない。この文は、それらの句読点を、兩方共に参酌した』(下線太字やぶちゃん)とある。句読点のない字空けも底本のママである。

 最後に私のオリジナルの簡単な注を附した。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1130000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年6月27日 藪野直史】]

 

     菩提樹

      ――三年間の回顧――

 

 校庭に菩提樹あり。四月のはじめ、にほひよき芽をふきて、たちまち、幅廣き若葉をなす。その綠は、橡にも鈴懸にもみる可らざる、やはらかくあかるき色なれば、まばゆき白日の光は其ひろ葉に落つる每に、すゞしき木かげを、さながら靑琅玕の管玉にともせるともしびの下に、夢ならぬ夢をたどるがごとくほのめかしむるが常なり。秋づけば もののあはれをしること、梧桐にもまさりて、霜の朝霧の夕、大なる鬱金の葉 紛々として樹下に堆をなす。葉落ちつくせば、枝々 珊瑚珠に似たる赤く小さき實をつく。雪もよひの日、鶴の群のなきかはしつゝ、此樹の梢に來るは皆此實をはまむとてなり。

 あゝ、われ 如何にこの菩提樹を愛したる。

 すぎし三年の月日は、まことに此樹下に夢みくらせし三年の月日なりき。われ若くしてうれひ多く、草をしき石に踞して、夕日のむらさきの影にしみたる、おそ春の空のたゝずまひ、若葉のまよりもるゝうす雲のゆきかひに、心 何時しか現ならぬ現におもひふけりて、我にもわかぬ淚の徒に零々として頰をうるほすを覺えしも、亦 この菩提樹の木かげなりき。心なき人と心なきものがたりする ものうきを避けて、ほのかなる若草のかほりと いと遠き小鳥の聲との中に橫はりつゝ、ひとり季長吉の詩集によみふけりて この若くして逝きたる詩人の 見はてぬ夢のうらみてもかひなき生涯をかなしみしも、亦 此菩提樹の樹かげなりき。

 此樹下に母のかきおこせる消息をよみつゝ、葉落ちつくしたる梢の空のほの赤きに百舌の聲のけたゝましきを聞きしは今もわすれず。わが友と、黃なる紅なるあるは代赭なるこの樹の落葉をふみつ、夕空のかすかなる星を仰ぎて沙門悉達のさびしき涅槃の教をかたりしこと そもいくたびぞ。わが新しきふみをひらきし處 新しき友と語りし處 手帳に幼き歌を走りがきせし處 長き日のつれづれに口笛をふきし處 あゝ又これ靑空にそよげる此菩提樹の木かげなりき。

 圖書館の廊下に佇みて、ふみよむにつかれたる身をやすむるとき、教室の机によりて才高く志大なる人々に伍する時、窓硝子のかなた、ほの赤きさうびのかほりにかすかなる雨のびゞきに、さびしげにうなづけるは同じく 此菩提樹の老い木なりき。

 あゝ菩提樹よ、わが三年のよろこびとかなしみとをしるものは汝のみなり。わが三年の心のさゝやきとたましひのすゝり泣きを聞きしものは汝のみなり。菩提樹よ 菩提樹よ、わが祕密をしるものは唯汝のみなり。われ 今近く母校を去らむとして汝と別るゝ日の旬日にあるを思ふ われまた、淚なきを得むや。今 汝にかりて三年の追憶をもらす。言は短なれども意はまことに長し。菩提樹よ さらばわれら長く相別れむかな。

 

[やぶちゃん注:「菩提樹」この木は、まさに、十四年後の芥川龍之介自死の最後の手記「或舊友へ送る手記」のコーダに登場する、あの菩提樹である(同作は昭和二(一九二七)年の死の当日の七月二十四日日曜日の夜九時、自宅近くの貸席「竹村」で久米正雄によって報道機関に発表され、死の翌日の二十五日月曜日には『東京日日新聞』朝刊に掲載された)。

   *

 附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた。

   *

アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属種ボダイジュ Tilia miqueliana であろう。

「橡」「とち」と読んでおく。ならば、ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata

「鈴懸」「すずかけ」。ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis。プラタナスのこと。

「靑琅玕の管玉」「せいらんかんのくだだま」。青碧色をした半透明の硬玉で出来た、装飾用の管。糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして用いられ、本邦では縄文時代に既に作られていた。

「梧桐」「あをぎり(あおぎり)」と読んでおく。アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex

「鬱金」「うこん」・濃い黄色。鮮黄色。

「堆」「たい」。高く積み上がっていること。堆(ずたか)くなっていること。

「珊瑚珠」「さんごだま」。

「踞して」「きよして(きょして)」。しゃがんで。

「現」「うつつ」。

「わかぬ」「分かぬ」。何ゆえのそれとはっきりとは判らぬ。

「徒に」「いたづら(いたずら)に」。

「零々として」「れいれいとして」。零(こぼ)れ落ちるさま。

「橫はり」「よこたはり(よこたわり)」。

「季長吉」「りちやうきつ(りちょうきつ)」。私も高校時代から偏愛する、中唐の詩人で「鬼才」と呼ばれた李賀(七九一年~八一七年)の字(あざな)。病いのために二十六の若さで亡くなった。よろしければ、「南山田中行 長平箭頭歌 李賀 やぶちゃん訳」をどうぞ。

「母」養母芥川儔(トモ)。実母フクは明治三五(一九〇二)年十一月二十八日、龍之介十歳(江東小学校高等科一年)の時に満四十二歳で病没している。「かきおこせる消息」とあるのは、寮にいたためである(第一高等学校は二年まで、原則として全寮制を採っていたが、一年次は「通学願書」を提出して自宅(芥川家は内藤新宿の実父新原敏三の持家に龍之介が一高に入学した翌月である明治四三(一九一〇年)十月に本所小泉町から転居している)から通学したが、二学年に進級した九月からはしれは認められず、一年間、寄宿舎南寮に入っている(同室者は井川を含め、十二人。しかし、龍之介は寄宿舎生活に馴染めず毎週土曜には自宅に帰っていた。三年時には寮を出た)。

「ふみつ、」読点はママ。ここは句点、或いは、踊り字「ゝ」であるべきところと思う。

「沙門悉達」「しやもんしつた(しゃもんしった)」梵語「シッダールタ」の漢音写「悉達多」の略。「目的を達した」の意)釈迦の出家以前従って厳密に言えば「沙門」(=僧)はおかしいの名。誕生した際に一切の吉祥瑞相を具えていたことから、この名がつけられたとされる。

「教」「をしへ(おしえ)」。

「志」「こころざし」。

「さうび」「薔薇(さうび)」。バラ。]

大和本草卷之十三 魚之上 モロコ (アブラハヤ)

 

モロコ ハヱニ似テ頭小キニ腹少シヒロク形マルシ西州ニアブラ

 メト云又アフラハヱト云本草ニノセタル黃鯝魚ナルヘシ油

 ハエニ堅筋數條アルモノアリ白黑相マシハル嶋魚ト云ヲリ物

 ノシマノ如シ

○やぶちゃんの書き下し文

モロコ 「ハヱ」に似て、頭、小さきに、腹、少しひろく、形、まるし。西州に「アブラメ」と云ひ、又、「アブラハヱ」と云ふ。「本草」にのせたる「黃鯝魚」なるべし。「油ハエ」に、堅筋(たてすぢ)、數條あるものあり。白黑、相ひまじはる。「嶋魚」と云ふ。をり物の「しま」のごとし。

[やぶちゃん注:これ、原文たった四行の中に、四つの名が出る。しかし、主記載は「ハヤ」類に似ていること、頭が小さく、腹部が少し広くて、魚体全体は丸い印象を与えるという点が、四つの名の中で現代の標準和名の種として存在する「ハヤ」類のそれと一致することから、これはもうウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri と断定してよい。アブラハヤは腹部の銀白色部分が実際に広いし、頭はコンパクトで尖らず、全体に丸みを帯びた魚体である。読者の中には、何を慎重になっているのかと不審に思われる方もあろうが、実は標題の「モロコ」が大変なクセモノなのである。「モロコ」という和名異名を持つ魚は実は淡水魚に限っても、複数存在するからである。まず、

コイ目コイ科バルブス亜科タモロコ(田諸子)属タモロコ Gnathopogon elongatus elongates

コイ科カマツカ亜科スゴモロコ属デメモロコ Squalidus japonicus japonicus

を挙げねばならぬ。これに琵琶湖固有種である、

タモロコ属ホンモロコ Gnathopogon caerulescenss

と、同じく琵琶湖固有亜種である、

スゴモロコ属スゴモロコ Squalidus chankaensis biwae

も挙げねばならぬ(固有種だからいいだろうとは言えない。既に上記二種は各地に放流されて棲息域は拡大しているからである)。しかも、面倒なことに、似たような発音の、

コイ目コイ科モツゴ(持子)属モツゴ Pseudorasbora parva

がいる。私には幼少時代の「クチボソ」(関東)の呼称とともに馴染み深い名なのであるが、「モロコ」と「モツゴ(或いはモッゴ)」じゃ違うだろうと言うなかれ! ウィキの「モツゴによれば、「モツゴ」には『地方名として、ヤナギモロコ(岐阜)、イシモロコ(滋賀)』があっちゃったりするわけだ。以上で五種、しかも、海産であるが、イシナギ(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini・コクチイシナギ Stereolepis gigas :肝臓に多量のビタミンAを含む有毒魚である)の別称だったり、クエ(スズキ亜目ハタ科ハタ亜科マハタ属クエ Epinephelus bruneusの別称だったりもするのである。たかがモロコ、されどモロコ、である。なお、同定種「アブラハヤ」の「あぶら」は表面がぬめぬめして油がついたような感触であることに由来する。

『「本草」にのせたる「黃鯝魚」なるべし』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」の以下。

   *

黃鯝魚【音「固」。「綱目」。】

釋名黄骨魚。時珍曰、魚腸肥曰鯝。此魚腸腹多脂、漁人煉取黃油燃燈、甚腥也。南人訛爲黃姑、北人訛爲黃骨魚。

集解時珍曰、生江湖中小魚也。狀似白魚、而頭尾不昻、扁身細鱗、白色。闊不踰寸、長不近尺。可作鮓葅、煎炙甚美。

氣味甘、溫。無毒。主治白煮汁飮、止胃寒洩瀉【時珍。】。

主治瘡癬有蟲、燃燈、昏人目【時珍。】。

   *

但し、私は益軒のようにこれを「アブラハヤ」に同定するのには躊躇を感じる。それは、漁師は本種の内臓から燈明の油を採取すると言う部分で、これ、とても「アブラハヤ」では信じられないからであり、「アブラハヤ」は沿海州や中国東北部の河川にしか棲息していないからである。調べてみると、現代中国語では似たような漢名で鯉科クセノキプリス亜科属黄尾 Xenocypris davidi という淡水魚(和名は見当たらない)はいる(中文百度百科」「黄尾)。但し、これが「本草綱目」のそれであるかどうかは判らぬ。しかし、サイトデータを見ると、標準体長十一・八センチメートルで、最大長三十五・七センチメートルとあるので、アブラハヤなどよりも遙かに大きい。

『堅筋(たてすぢ)、數條あるものあり。白黑、相ひまじはる。「嶋魚」と云ふ』「シマウオ」という「アブラハヤ」の異名は確認出来なかったが、アブラハヤは普通に体側に黒色の縦帯がある

「をり物の「しま」のごとし」「織物の「縞」の如し」。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 小タカノ羽 (ヒメクサアジ?)

 

小タカノ羽

 

Kotakanoha

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。小さな図で、幼魚っぽい感じもしないでもない。しかし、これ、背鰭前部の軟条が異様に長く伸びているために、かえって同定に時間がかかった。標題名と体側の縞模様及び口吻が有意に飛び出ているところは、スズキ目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Cheilodactylus zonatus にそっくりなのだが、いろいろ調べてみたが、彼ら(幼魚を含む)にはこんな背鰭前部軟条突起は見受けられないようなのである。されば、他の種で似たものを探していたのであるが、これがなかなかいない。そうこうしているうちに、最後のアップから二十五日も経ってしまった。今日、改めて、軟状突起に特化して画像を調べていたところが、レアな種であるが、「これは?!」と思うものを見つけた。

アカマンボウ上目アカマンボウ目クサアジ科ヒメクサアジ属ヒメクサアジ Metavelifer mutiradiatus

である。「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「ヒメクサアジを見ると、側偏して正円に近い楕円形を成すこと、背鰭前部の軟条が長く伸びることがよくこの図と似るのである。体側の縞が、生魚では、斜にならない横縞であるものの、かなりはっきりと見てとれるからでもあった(abyss_nyサイト「ダイビング魂」ヒメクサアジの写真を見られたい)。最初のリンクでは、棲息域を『大陸棚斜面域、海山、遊泳性』とし、本邦では『千葉県館山湾、伊豆大島』、『駿河湾(沼津)、和歌山県白浜、土佐湾、愛媛県深浦』の他、沖縄とし、『駿河湾、相模湾などでは希にとれる魚』とあるので、丹洲が管見したとしても、おかしくはない。但し、特異なY字の尾鰭の形が図ではぺろんとしたハゼ見たようで全く異なるのは、如何ともし難く、これだけでアウトな気もしたのだが、丹洲は正確な模写をしない傾向があるし、少なくともこの長い軟条は正確なのだろうと思い直し、取り敢えず、タカノハダイよりはこっちの方がまだマシという風に私は傾いたのであった。また、これ以上は私には探しようもなく、テクスト作業の中でのペンディングが長過ぎて、そろそろ限界(後がちっとも進まず、ここでポシャるのも厭)と判断した。悪しからず。よりよい同定種がおれば、御教授あられたい。]

反古のうらがき 卷之一 術師

 

  ○術師

 野州は人氣質樸なる所にて、邊鄙(へんぴ)は殊に甚し。

 いづくより來りしや、術師、來りて、いろいろの不思議なる事をなすとて、人集りもてはやすことありけり。其人、いふ。

「吾、深山に入(いり)て一道人(いちだうじん)に逢ひ、いろいろの奇術を學びたり。これより江戶にいでて、人の爲になることども致(いたさ)んと欲す。此わたりの邊鄙にてはさしたる教(をしふ)べきことなし。但(ただ)、水に入て死なざる法位(ぐらゐ)の事なり。」

といふ。

 人々、いふ。

「それは容易ならざる事なるべし。」

といへば、

「左(さ)にあらず、口傳(くでん)也。一度學べば、終身、水に死(しぬ)ることなし。然れども、其法を修するに、荒業をなさざれば、教ゆること、能はず。得難き供物等を、多く山神(やまがみ)に備(そな)ふる事なれば、金八兩斗(ばか)り、物入(ものいり)もかゝる事也。一度、かくすれば、一度に廿人斗りは、教ゆべし。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 人々、

「一段の事なり。」

とて、廿人斗り寄合(よりあひ)て、金八兩を出(いだ)す。

 されば、金二兩、請取(うけとり)、山に入、日々、荒業するよしにて、

「七日滿ずる日に至らば、人々、寄合べし。他聞(たぶん)を諱(い)む事なれば、書付となして、授くべし。」

とて、日々、山に入けり。

 六日の夜、金子不ㇾ殘(のこらず)請取、紙に幾重となく包みたる者を出(いだ)し、

「又、山に入(いる)。」

とて、

「此包(つつみ)、今夜、四つ時に寄合て、ひらくべし。水に入て死(しな)ざる法、自然(おのづ)と會得すべし。」

といへり。

 其夜、刻限迄に寄合て、段々と開きて、最後に至れば、ほうしやうの紙に、人の足を畫(ゑが)き、すねの中程に、朱にて橫に筋を引(ひき)、「これより深き水に入べからず」と書(かき)て有(あり)けり。

 人々、顏を見合せて、急に解しがたく、いろいろ考ふれども、別に深義ありとも覺へず、

「扨は。あざむかれたり。」

とて、其人を尋(たづぬる)に、山に入とて出(いで)しは、午時(ひるどき)前の事なれば、いづち行けん、見へず。

 跡にて、其術を聞くに、

「刀、自然(おのづ)と拔出(ぬけいづ)る法」

「盃に酒を盛上(もりあぐ)る法」

「釣花活(つりはないけ)・はら人形(ひとがた)手の平に立(たつる)」

「燈心にて大石(おほいし)を釣る法」

等にて、皆、緣日に出(いで)て、「手づまの傳授」とて、する法なり。

 かく邊鄙にては珍らしき故、あざむかれし也けり。

[やぶちゃん注:イカサマ妖術師譚。臨場感を出すために、改行を施した。

「野州」下野(しもつけ)の国の異名。現在の栃木県。

「質樸」「質朴」に同じい。

「邊鄙」田舎。

「道人」世捨人。ここは、仙人みたような人物を指す。

「一段の事なり」格別なる術で御座いますな!

「他聞を諱(い)む事なれば」世間に知られると、差し障りがある秘法であるからして。

「四つ時」午後十時頃。

「ほうしやうの紙」奉書紙(ほうしょがみ)のことであろう(但し、こうは読まない)。中世に始まり、特に近世になって最高級の公文書用紙として盛んに漉かれた楮紙(こうぞがみ)。公文書の形式、将軍など上位の者の命令を直接その名前を出さずに下位の者が仰せを奉って書く「奉書」という間接的下達(かたつ)の方式があり、その奉書を記した上等な楮紙をも、次第に「奉書」と呼ぶようになった。江戸時代に各藩の御用漉きなどを中心として、数多くの産地で奉書紙が漉き出されるようにあったが、その中でも日本一と称されたほどに高い評価を得たのは、越前五ヶ村で漉かれた「越前奉書」であった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。八両も詐欺で得るのであるから、最後の最後のそこだけは、いい紙を用いたのであった。なかなか狡猾な演出である。

「すね」脛。

「急に解しがたく」朴訥にして無学な民であったが故に、その絵に何らかの呪的な意味がある(「別に深義あり」)ものかとも思い、しかし、そこに書かれた「有り難い」呪文の意味が直ぐには判らずに。無論、意味は実はマンマで、脛の中ほど以上の水に入らなければ、溺れ死ぬことはないという分かり易いトンマな呪言(?)なのであったが。

「午時(ひるどき)」既に十時間以上が経過している。

「刀、自然(おのづ)と拔出(ぬけいづ)る法」人が触れることなく、刀が、鞘から自然に抜け出る秘術。脂(鯉口に塗る)と細い絹糸などを用いたマジックであろうと思われる。

「盃に酒を盛上(もりあぐ)る法」当り前の表面張力。

「釣花活(つりはないけ)・はら人形(ひとがた)手の平に立(たつる)」読みは総て推定。最後に「法」が省略されたもの。「はら人形」は恐らく、「夏越(なごし)の祓(はらひ(はらい))」等に用いる、紙で出来た人形代(ひとかたしろ)のことで、底が平たくなく、そのままでは安定しない釣花生けの瓶や筒やぺらぺらの人形(ひとがた)を掌に直立させるマジック。

「燈心にて大石を釣る法」灯芯にごく細い針金を仕込み、張りぼての石にすり変えれば、容易。

「緣日に出(いで)て「手づまの傳授」とて、する法」「てづま」は「手妻・手爪」などと書き、ちょっとした手先で巧みに見せる他愛ない手品・奇術のこと。ありがちな、祭りの縁日の怪しげな香具師(やし)の怪しいそれである。]

反古のうらがき 卷之一 廿騎町の恠異

 

   ○廿騎町の恠異

 

 余が祖母、常に話(はなし)しは、

「加賀屋敷、御旗本屋敷なき以前は、みな、原なり。久貝(くがひ)・久志本・服部・巨勢(こせ)・三枝(さへぐさ)・長谷川、是れ程の野原にて、組屋敷うち、常に恠異あり。或時は鉦太鼓、面白くはやしなどするに、西かと思へば、東なり。誰(たれ)ありて見屆(みとどけ)たる人、なし。

 山崎といへる家にては、夜な夜な、猫、おどり、椽頰(えんづら)にて足音す。明日(あくるひ)見るに、矢をふく手拭をかぶりたる樣子なり。

 又、或時は、誰ともなく、障子を、

『さらさら。』

とすりて、橡頰を行かよふ。明(あけ)て見るに、人、なし。

 又、深夜に、

『しほ。しほ。』

と呼賣(よびう)る聲ありて、誰(たれ)見當りしこと、なし。

 或時、余が曾祖父内海彥右衞門、對門【むかふやしき】なる山崎に行(ゆき)て、夜更(よふけ)て歸らんとて立出(たちいづ)るに、門の扉に大の眼、三つあり。光輝(ひかりかがやき)、人を射る樣(さま)、明星の如し。大膽なる人なれば、

『こは、珍らし。獨りみんも本意(ほい)なし。」

とて、家に歸り、余が大叔父内海五郞左衞門を呼びて、

『面白き者あり。行(ゆき)てみるべし。』

とて誘ひて行けるに、最早、一つ消て、二つ、殘れり。

『扨は。消ゆる者とみへたり。皆、消ゆる迄、見果(みはて)ん。』

とて、父子、まばたきもせず、にらみ居(ゐ)たりしに、漸(やうやう)光薄くなりて、又一つ、消たり。程もなく、今一つも薄くなりて消けり。父子、笑ひて、

『初(はじめ)より、かくあらんと思ひし。』

とて歸りし。」

と、祖母善種院、語らる。

「今の人よりは、皆、心(こころ)剛(かう)にありける。」

といましめられし也。

 

[やぶちゃん注:祖母の怪談語りの雰囲気を出すために細かな改行を施した。

「廿騎町」底本の朝倉氏の注に『新宿区廿騎町』(にじっきまち)。『御先手与力十騎二組があったので、この俗称があった』とある。現在のここ(グーグル・マップ・データ)の内(以下参照)。サイト「すむいえ情報館」の『地名の由来「新宿区編」』の「【ニジッキマチ】二十騎町の由来」によれば、御先手一組は寄騎馬(与力)十騎なので二組で二十騎、実際二十区画に与力の二十の家があったことに依る。『「騎」とは馬に人が乗った状態の数詞で、与力には乗馬が義務付けられた。「旗本八万騎」というように』、『戦闘状態での騎馬武者の数え方。「寄騎」は、「騎を寄せる」で、「従う」の意、「与力」は江戸時代に入ってからの言い方だが、「力を与』(あず)『ける」で、やはり「従う」意。「同心」は「心を同じうす」で、「協力する」の意。したがって同心は与力より格が上』。『牛込村。天龍寺境内』天和三 (一六八三)年に『天龍寺が焼けて新宿』四『丁目の現在地に移転していった跡地の一部に』、『西丸御先手与力』二『組に』対して『与えられた大繩地』(おおなわち:下級武士の宅地は職務上、同じ組に属する者に纏まって屋敷地が与えられたが、これは土地を一括することから、「大縄地」「大縄屋敷」と呼ばれた。別な言い方をすれば、大番以下の旗本の組屋敷。家だけではなく、拝領地も含めて、かく呼ぶ)『の俗称。明治』四(一八七一)年に『正式に町名となり』、明治四四(一九一〇)年に『牛込の冠称を外し』、その後、昭和二二(一九四七)年に『新宿区二十騎町』となった。平成二(一九九〇)年、『新住居表示を実施、市谷甲良町・納戸町・市谷加賀町』一~二『丁目の各一部をあわせた町域を現行の「二十騎町」とした』とある。

「加賀屋敷、御旗本屋敷なき以前は、みな、原なり」底本は「加賀屋敷・御旗本屋敷」となっているが(国立国会図書館蔵版も同じ)、私はこれは読点でないとおかしいと思う。「加賀屋敷」とは、随分、離れた現在の東京大学のある加賀前田家上屋敷のそれを指すではなく、このまさに二十騎町の南の旧地名だからである(現在も市谷加賀町である)。則ち、ここは

――「加賀屋敷」と通称する今は「御旗本屋敷」が林立する「二十騎町」辺りは「御旗本屋敷」がなかった以前は、「皆」、野っ原であった。

と言っているのだと思うのである。所持する「尾張屋(金鱗堂)江戸切絵図」(嘉永四(一八五一)年刻・安政四(一八五七)年改版)には、現在の二十騎町の通りに「二十キクミ」と記し、その北の端の通りには「此邊加賀屋敷ト云」と記してある。なお、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。

「久貝」上記切絵図を見ると、二十騎町の西直近で「加賀屋敷」通りの端に「久貝因幡守」の屋敷がある。これは旗本久貝正典(くがいまさのり 文化三(一八〇六)年~慶応元(一八六五)年))のことである。天保一二(一八四一)年、大番頭。安政五(一八五八)年、大目付。「安政の大獄」の処断に関与し、安政七年には御側御用取次に転じ、同年に起こった「桜田門外の変」では吟味役を務めている。しかし、後、吟味不手際によって文久二(一八六二)年に免職・隠居となった。

「久志本」上記切絵図の「久貝因幡守」の屋敷の道を隔てた東側に「久志本左京」の屋敷がある。これは旗本久志本家で、元は三重の神主の家系で、徳川家康の侍医に召し抱えられ、後裔の久志本左京常勝も幕医として第五代将軍綱吉の病を治療している。

「服部」上記切絵図の二十騎町の道を隔てた南の「加賀屋敷」地区の通りに面した馬場の北に「服部中」と記した屋敷がある。或いはこの「中」は「中奥番」か? だとすると、中奥番に旗本服部貞徳の名を見出せる。

「巨勢(こせ)」上記切絵図の「服部中」の屋敷の道を隔てた東側に「巨勢鐐之助」の屋敷がある。ネット上で五千石の旗本に巨勢鐐之助の名を見出せる。

「三枝(さへぐさ)」上記切絵図の「巨勢鐐之助」の東隣りが「三枝靭負」(さえぐさゆきえ)の屋敷。彼は寄合席(三千石以上の旗本で非役の者)である。

「長谷川」上記切絵図の「三枝靭負」の屋敷の道を隔てた東側に「長谷川能登守」の屋敷がある。駿河が本地の四千石の旗本である。

「鉦太鼓、面白くはやしなどするに、西かと思へば、東なり、誰(たれ)ありて見屆(みとどけ)たる人、なし」これは本書の後の方の「反古のうらがき 卷之三」にある番町の「化物太鼓の事」と強い親和性がある。実は当該話は既に「諸國里人談卷之二 森囃」の私の注で電子化しているので見られたいが、そこで桃野はこれを真正怪談ではなく、擬似怪談現象として分析し、実は番町は囃子の好きな人の多い地区で殆んど毎晩囃子をやっており、喧しさを憚って土蔵や穴倉に籠って囃すために、近くでは却って聴こえず、風に乗って思いがけない遠方で聴こえることがあるのだと、怪異の解明をしている。

「山崎といへる家」上記切絵図の二十騎町内に「山嵜栄太郎」という名を見出せるが、ここか。

「夜な夜な、猫、おどり」手拭いを被って踊ったり、人語を操ったりという猫の怪は猫怪談の定番で、私の電子化したものの中にも、腐るほどある。代表して『柴田宵曲 妖異博物館 「ものいふ猫」』を引いておく(私の江戸怪奇談へのリンクがあるので使い勝手はいいであろう)。一つだけ例示しておくと、特に「耳囊 卷之四 猫物をいふ事」は、この二十騎町の北直近の「山伏町」の寺での出来事であり、甚だ親和性が高い

「椽頰(えんづら)」既出既注であるが、再掲しておく。大きな屋敷などで、主だった座敷と廊下の間にある畳敷きの控えの間のこと。襖の立て方によって廊下の一部分とも、部屋の一部分ともなるようになっている。「椽」は「縁」のこと。芥川龍之介など、近代以降も「緣」を「椽」(本来は「垂木」を指すので誤り)と書く作家は多い。

「矢をふく手拭」所謂、矢羽根を図案化した「矢羽手拭い」のことと思うが、「矢をふく」の意が不明。手拭全体にびっしりと「葺(ふ)く」か。国立国会図書館版も「ふく」なので、「かく」の誤植ではないと思われる。

「明(あけ)て」ここは障子を「開けて」である。

「しほ」「鹽」。塩。行商の塩売りの掛け声。

「誰(たれ)見當りしこと、なし」出てみると、塩売りの姿は影も形もない。

「余が曾祖父内海彥右衞門」【以下の注は2018年9月24日改稿】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、鈴木桃野の父白藤(本名・成恭)についての膨大な資料情報を頂戴し、幾つかの私の誤認が判明したので注を改稿した。まず、国立国会図書館デジタルコレクションの潤三郎鈴木桃野とその親戚及び師友大正一四(一九二五)刊)によれば、桃野の父白藤の母(以下に出る「祖母善種院」。「ぜんじゅいん」(現代仮名遣)と読んでおく)の父(桃野の曽祖父)は御先手与力内海五左衛門とある。さらにT氏は、同じ森潤三郎氏の著「紅葉山文庫書物奉行」(初版一九八八年臨川書店刊)には上記リンク先論文では(以下鍵括弧はT氏のメール本文より引用。下線太字は私が附したもの)『略された内海家関連の記載があり』、その『母方の項目に』、

   *

伯父内海彦右衛門死娘

一 従弟女 御先手組雨宮権左衛門組与力之節 内海彦右衛門 死 後家

   *

とあり、『内海彦右衛門は桃野の大伯父』(曽祖父内海五左衛門の子で祖母の兄)『に当たるようで』ある、とお教え下さった。以上から推察するに、筆者桃野或いは父白藤を始めとする親族の伝聞者)は彼らの通称名や伯仲を混雑して誤認記憶していたものと考えられる。最後に私の誤りを気づかせてくれ、資料提供をして下さったT氏に改めて感謝申し上げるものである。

「對門【むかふやしき】」道を隔てた向かいの屋敷。因みに、先の上記切絵図の二十騎町内にある前に出した「山嵜栄太郎」の道を隔てた斜向かいの屋敷は「内海源五郎」である。偶然か? それともこれがまさにその内海家の後裔なのか?

「本意(ほい)なし」残念だ。面白くない。

「いましめられし也」「誡められしなり」。武士としての正真の剛勇を忘れてはなりませぬという含みである。]

2018/08/26

反古のうらがき 卷之一 窮して智出る事

 

   ○窮して智出る事

 大橋一九郞、御徒(おかち)の頃【今、御徒目附。】、余に語りしは、名前失念、御納(おなんど)何某、頭か【組頭か、平か。】、失念。組下同心、不時の事有りて、申立(まうしたて)、御仕置になるに極(きはま)りしに、其者、いふ樣、

「今は包むによしなし。御役所品々は、私(わたくし)全く壹人(ひとり)の所爲にあらず。御頭方(おかしらがた)よりの御差圖(おさしず)にて、多年、賣(うり)さばき、尤(もつとも)、其御蔭にて德分も付(つき)、御贔屓も厚く、久々相勤(あひつとめ)たる也。此言(このこと)、他言(たごん)すまじと思ひ候へども、此度(このたび)、誰殿(たれどの)御申立(おまうしたて)は、全く御身(おんみ)逃れにて、私に、罪、御着被ㇾ成候(おきせなられさふらふ)段、御情(おんなさけ)なき次第に付(つき)、此儀、無ㇾ據(よんどころなく)申上候也。」

と申す。

 因(よつ)て、早速、御呼出(およびいだ)し、御吟味の處、彼(かの)者、申(まうす)條にては、

「誰殿と私、差向ひのことにて、外にしる者、一人もなし。」

といふ。

 何某、竊(ひそか)に考(かんがふ)るに、

『彼(かの)者、殘念の餘り、同罪に引入(ひきいれ)しなれども、工(たくみ)に申出(まうしいだ)せし故、申分(まうしわけ)決(けつし)て無ㇾ之(これなく)、無實の難、逃(のが)しがたし。されども、天地鬼神(てんちきじん)ありて守り給はゞ、如何(いか)で申譯(まうしわけ)なからんや。』

と覺悟して、一言も口を開かず、上(あが)り屋に行(ゆき)けり。

 此人、養子にて、かゝることにて養家を潰す事、殘念なれども、是非なし。

 母公(ははぎみ)、大に悲しみ、水をあび、不動明王を念じたるも尤(もつとも)也。

 神佛呵護[やぶちゃん注:底本、「呵」の右に編者のママ注記有り。]にや、忽然として、名策(よきはかりごと)、出(いで)たり。

 上り屋の内、獨り、應酬、反覆して、已に其理(ことわり)、分明に心に得たり。

 扨、其次(そのつぎ)の呼出(よびだ)しに對決を乞ひ、扨、何某、申(まうす)樣、

「其方、申上(まうしあぐ)る條々にては、實(まこと)に、申分(まうしわけ)、一言もなし。しかし、これ程のこと、每々度々のことならば、誰壹人(たれひとり)知らざる理(ことわり)、なし。何(いづ)れにてか、對談せしや。」

といふ。

「元より、御懇命(ごこんめい)を受(うけ)たる私(わたくし)なれば、常々、御目通り、御奧通(みおくどほ)りにて、外仲間(ほかなかま)どもと一樣の取扱(とりあつかひ)にあらず、此(この)談(はな)しある每に、御居間の御次御部屋(おつぎおへや)にて、人を退(しりぞ)けての御談(おはな)し、いつも如ㇾ此(かくのごとく)、定(さだめ)て御覺(おんおぼえ)なしとは被ㇾ申間敷(まうされまじき)。」

といふ。

「されば、吾家(わがや)に入來(いりきた)り、奧通り・表通りとも、幾度(いくたび)計(ばか)か。」

といふ。

「幾度といふ數を知らず。」

と答ふ。

「然(しか)らば、申譯(まうしわけ)なし。かく迄、深く入込(いりこ)みし人の申出(まうしいで)る條、『いつはりなり』といふとも、誰(たれ)か信ぜん。但し、吾家(わがや)、格別に廣きにあらず、如ㇾ此(かくのごとく)度々入(いり)いたらば、屋つゞき・間取り、大略、見覺(みおぼえ)たるべし。表通り・奧通り・あひの間・客の間・つぎの間・かこひ・小座敷・部屋、入つては、雪陰(せつちん)・物置・藏・稻荷(いなり)に至るまで、大略、繪圍面にいたし、見すべし。いづれの處にて應對し、何れの處にて内談せしと、一つ一つ、承り可ㇾ申(まうすべし)。」

とて、則(すなはち)、紙・筆を與(あた)へ、繪圖を引かせけり。

 扨、圖、なりて、何某、一覽し、

「此圖を以て、拙者住居(すまひ)へ御引合(おひきあは)せ被ㇾ下(くださる)べし。彼(かの)者、申條(まうすじやう)、いつわりといへども、申開(まうしひら)くべき證據(しやうこ)なし。彼者、年來(としごろ)、奧通りにて一大事を内談せし者か。表屋敷より内は入(いり)たる事なければ、繪圍面、皆、相違せり。此(これ)、いつはりの一證なり。其外、申開くべき辭(ことば)なし。」

と申上(まうしあげ)られたれば、彼者、閉口し、繪圖、果して相違なり。

 卽日、上り屋を出(いづ)る。

 公儀も、首尾よく、其後、出身も有りしとなり。

[やぶちゃん注:対話劇形式の対決劇であるので、改行を施した。標題「窮して智出る事」は「窮(きゆう)して、智、出(いづ)る事」。

「大橋一九郞」不詳。「いっくろう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「御徒」御徒組。徒士(かし)。将軍の外出の際に徒歩で先駆(さきがけ)を務め、また、沿道の警備などに当たった。ウィキの「徒等によれば、徳川家康が慶長八(一六〇三)年に九組をもって組織し、後、人員・組数が増員され、幕府安定期には二十組が徒歩頭(かちがしら:徒頭。若年寄支配)の下にあり、各組毎に二人の組頭(徒組頭とも称した)が、その配下には各組二十八人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は七十俵五人扶持。礼服は熨斗目(のしめ:練貫(ねりぬき)の平織り地で仕立てた小袖。腰の辺りに多くは筋や格子を織り出しただけのもので、武士が礼装の大紋や麻裃(あさがみしも)の下に着用した)・白帷子(しろかたびら)、平服は黒縮緬(くろちりめん)の羽織に無紋の袴の決まりであった。家格は当初抱席(かかえぜき:以下の「譜代」に次ぐもので第五代将軍徳川綱吉以降に新たに御家人身分に登用された者)であったが、文久二(一八六二)年には譜代(元来は江戸幕府草創の初代徳川家康から第四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫である。ここはそれ相当の御家人最上級の家格扱い)となった。

「御徒目附」交代で江戸城内の宿直(とのい)を行った他、大名の江戸城登城の際の監察・幕府役人や江戸市中における内偵などの隠密活動にも従事した警備・公安職。目付支配。参照したウィキの「徒目付」によれば、伝承では、元和九(一六二三)年、『徳川家光が征夷大将軍として江戸城本丸に移った時、道の途中で欠伸をしていた者を無礼であるとして討ち取った草履取りを賞して任じたのが最初とされている。定員は』享保三(一七一八)年に四十名となり、幕末期には八十名と増え、享保六(一七二一)年では役高百俵五人扶持と定められている。『徒目付の上には役高』二百俵の『徒目付組頭』三『名が置かれていた。徒目付の番所は江戸城本丸御殿の玄関右側に設置され、その奥に組頭の執務室が置かれていた。他に目付部屋の』二『階に詰める組頭がおり、老中・若年寄から目付を経由して命令が伝えられ、それを番所に伝えた。命令を受けた徒目付は自身及び配下の小人・中間・黒鍬者などを駆使して職務にあたった。特に隠密を専門に担当する「常御用」と呼ばれる』三~四名の『徒目付が存在し、内容によっては老中が人払いの上で直接命令を下すことがあった。徒目付は小人目付や遠国勤務の下級役人から任じられたが、後には小普請世話役や表火之番、徒などからも登用され、徒組頭や闕所物奉行・林奉行・油漆奉行・畳奉行などに昇進することができた』とある。

「御納」御納戸役。将軍の居所である中奥に勤務した中奥番士(本丸御殿は幕府組織のある「表御殿」、将軍の居所である「中奥」、御台所や側室の居所の「大奥」に別れていた)の一つ。将軍家の金銀・衣服・調度の出納、大名・旗本からの献上品、諸役人への下賜の金品の管理などを掌った。若年寄支配。下役は御納戸組頭が四名(旗本)、御納戸衆が二十四名(旗本)、御納戸同心が六十名(御家人)。

「平」ここは以下に「組下同心」とあるから、前注の「御納戸衆」(与力格か)のこと。

「不時の事」思いがけない事件。

「申立(まうしたて)」「申し立てられ」であろう。告発されたのである。

「今は包むによしなし」かくなっては隠し立てしても致し方ない。

「御役所品々は」御納戸役方にあった多くの物品類(の横流し)は。大橋一九郞と関連はないが、まさに彼の現在の職である「御徒目附」辺りが、市中や一部の武家等に御納戸方が管理しているはずの物品が横流しされているらしいという情報が舞い込み、隠密捜査の結果、この御納戸方同心の男が捜査線上に確かな実行犯として浮かび上がってきたものであろう。

「御頭方(おかしらがた)」この場合は御納戸方同心の上役の意。この主人公が本文の前で御納戸方の頭か平かは不明と言っていたから、「御納戸組頭」か、その下の同心らを支配していた「御納戸衆」の孰れかとなる。

「德分」私個人の資産も増え。

「御贔屓」横流しの闇のネットワークの中で親しくなり、何かと面倒を見て呉れる人々(商人とは限るまい)。

「久々相勤(あひつとめ)たる也」長年、この違法行為に手を染めて御座った。

「誰殿(たれどの)」この主人公たる、同心の上役某のこと。

「御申立」この同心の自白に基づき、既に上役某の事情聴取が行われたが、彼は全く承知していないと証言したのである。

「御呼出(およびいだ)し、御吟味の處」この同心と上役何某二人を拘引連行し、それぞれに対して正式な公事(くじ)としての尋問が行われたのである。

「殘念」自分一人で犯した犯行であったが、このまま自分一人が死罪となることに、諦めがつかず、全くの利己心なのであるが、悔して、上司を巻き込んで、教唆犯として主犯にしてやれという自棄(やけ)のやんぱちの思いが残ったことを言うのであろう。

「工(たくみ)に申出(まうしいだ)せし故」巧妙に現実的で「あり得る」という印象を審判方に与える横領背任犯罪をデッチアゲて自白したのであるから。この場合はこの同心の自白が事実と認定されてしまえば、共同正犯ではなく、同心は従犯で、教唆犯として上役の方が重罪となる。まあ、孰れも恐らくは死罪ではあるが。

「申分(まうしわけ)決(けつし)て無ㇾ之(これなく)」どんなに私が無関係であるという陳述をしても、それらは、決して真実と見做されることはなく。

「無實の難、逃(のが)しがたし」無実の罪、不当極まりない冤罪を蒙ることからは、最早、逃れ難い。

「天地鬼神ありて」「天神地祇」(てんじんちぎ)、いや、もう「鬼神」でもよい、そうした超自然の力を持った何ものかが存在して。

「如何(いか)で申譯(まうしわけ)なからんや」反語。どうして真実正当な私の申し開きが通らぬことがあろうか、というか、ここは直後に「一言も口を開かず」とあるので、私の誠心(せいしん)が審判者の心に遂に届かぬことがあろうか、いや、きっと届く、知れる! という「覺悟」なのである。

「上(あが)り屋」「揚(あが)り屋」。江戸の伝馬町牢屋敷や、長崎の桜町牢などにあった特別な牢房。ウィキの「揚屋(牢獄)より引く。『江戸の牢屋敷は中央部に当番所と称される監視施設があり、これを挟むように』、『東西に牢が置かれていた。東西の牢は外側に向かって口揚屋・奥揚屋・大牢・二間牢の順に配列されており、揚屋はこのうちの口揚屋と奥揚屋の部分に該当する。口揚屋は』一『部屋あたり』、『広さ』二『間半の部屋が』三『部屋(』十五『畳相当)、奥揚屋は』一『部屋あたり広さ』三『間の部屋が』三『部屋(』十八『畳相当)、いずれも』、『半間ほどの大きさの雪隠が設けられていた。また』、安永四(一七七五)年には『江戸の町人出身収容者と』、『地方の百姓(農民)出身収容者を分離するため』、『百姓牢が増設されるが、その中にも別途』、『揚屋が設けられた。なお、大坂の松屋町牢屋敷にも』元文四(一七三九)年)に『「男揚屋」(』六『畳)が設置されている』。『揚屋は原則雑居拘禁であり、ここに収容される人々は』以下の通りであった(因みに、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である)。

・『女性(身分は問わない)』。『原則として西の口揚屋に収容されたことから、同所を「女牢」とも称した。だが、後に囚人が増加すると、東の口揚屋が転用されることもあった。百姓牢の揚屋設置も女性の収容を目的とした』。

・『遠島の判決が確定した者』。『原則として東の口揚屋に収容されたことから、同所を「遠島部屋」とも称した』。

・『御目見以下の旗本・御家人、大名・旗本の家臣(陪臣)、中級以下の僧侶・神官』。『御目見以上の旗本・御家人や上級の僧侶・神官は牢屋敷の隣に設けられた揚座敷に収容されたが、陪臣は家老であろうが、下級武士であろうが、全て』、『揚屋に収容された』(この場合がこれに相当する)

・『病人』。安永五(一七七六)年『以後、一般の収容者が入る大牢に収容された者でも、病人については隔離を目的として揚屋内に「養生牢」』が一『部屋』、『設けられた』。

・『海難事故に遭って遭難し、海外から外国船によって帰国した漂流民』。『身柄が日本側に引き渡された際、一汁一菜の食事を与えられ、お白洲で簡単な吟味が行われた後、揚屋に収容された』。『しかし』、『キリスト教圏からの帰国者に対する吟味は厳しく、長期間に及んだため』、『自殺者が出ることもあった』。『吟味終了後、キリシタンの疑いが晴れた者は、帰国者の故郷の藩に身柄を引き渡され、藩士付き添いのもと』、『帰郷した』。

なお、『その他にも、囚獄(牢屋奉行)に手を回して揚屋に収容される者もあったという』。『揚屋に送られる人々は牢屋敷の庭まで乗物で護送され、牢役人らによる本人確認(揚屋入)の後に収容された。揚屋も』、『一般の収容者が入る大牢も』、『待遇面には大差が無かったが、揚屋の方が凶悪な収容者と同室になる可能性が低かった。また、大牢とは別に揚屋にも牢名主が設けられていた。また、軽微な罪を受け』、『有宿の者数名が揚屋の付人とされ、世話係としての役目を行った』。『なお、諸藩の武士は身分を問わず、一律に揚屋に収容されたことから、歴史的に著名な人物が収容されていた事例もある。例えば、蛮社の獄の渡辺崋山、安政の大獄の吉田松陰などはその代表例である』とある。

「母公(ははぎみ)」実母か養母か。養母と採っておく。

「呵護」「加護」。

「名策(よきはかりごと)」底本のルビ。

「上り屋の内、獨り、應酬、反覆して、已に其理(ことわり)、分明に心に得たり」牢の中で、下準備のため、たった独りで(実際に同牢の者はいなかったのかも知れない。少なくとも対立している同心と一緒ではなかったと考える)、その考え出した方法を実際に行った場合のことを想定して同心の役も二役で演じ、論争の応酬をやり、それを何度も繰り返して、言い方や使う細部の単語まで十二分に検討修正を行い、遂に論理的に相手を追い詰めることの出来る「問答法」のシナリオを確定し、はっきりと『これで確かに行ける、相手を完璧に負かすことが出来る』という確信を摑んだ。

 扨、其次(そのつぎ)の呼出(よびだ)しに對決を乞ひ、扨、何某、申(まうす)樣、

「申上(まうしあぐ)る」御上(おかみ)に、である。

「實(まこと)に、申分(まうしわけ)、一言もなし」確かに、自分が実行犯であることについては、それを否定する弁解や言い訳などは、一言も差し挟んではおらぬ。

「何(いづ)れにてか、對談せしや」どこで、この私と横流しのそれらの犯罪計画の謀議を行ったのか?

「懇命」他人から受けた命令を敬って言う語。

「御奧通(みおくどほ)り」御屋敷の奥の間。或いはそこ「まで通して戴き」のニュアンスか。

「外仲間(ほかなかま)」他の御納戸方同心の同僚。

「一樣の取扱にあらず」同じい待遇では、当然、なく。

「御居間の御次御部屋」「お次の間(ま)」。高貴な人の居間の次の間。

「然(しか)らば、申譯(まうしわけ)なし」そうであるならば(貴殿の申すことが事実であるならば)、最早、私は申し開きのしようは、最早、ない。

「かく迄、深く入込(いりこ)みし人」文脈から言えば、「かくまで、死罪を免れぬ謀議に深く関わった御仁」であるが、ここは後の展開に掛けて、「かくも、私の屋敷の奥深くまで、親しく、数え切れぬほど、尋ねて参った御仁」の意を持たせているに違いない。

「屋つゞき」屋敷内の建物の続き方。

「あひの間」主要な二つの部屋の間に設けられた間の部屋。

「かこひ」「圍ひの間」。「茶室」又は「離れ座敷」。

「部屋」その他の小部屋の意か。

「雪陰(せつちん)」「雪隱」(便所)の意でルビした。

「稻荷(いなり)」屋敷内の稲荷の社祠。

「此圖を以て、拙者住居(すまひ)へ御引合(おひきあは)せ被ㇾ下(くださる)べし」この台詞は、既に、対面していた同心を無視し、審理を担当している同席している役方に対しての陳述である。

「彼者、年來(としごろ)、奧通りにて一大事を内談せし者か」この「者か」の「者」は当て字で、形式名詞「もの」+終助詞「か」であって、反問の意を表わしており、「かの者は、長年、拙者の屋敷の奥まで親しく入って、かのおぞましき横領の一大謀議を内密に致いたと、まあ、申しておるが?! それは全くあり得ぬことがここではっきりとして御座った!」の謂いである。

「表屋敷より内は入(いり)たる事なければ」彼は某の配下の同心であったから、某の屋敷の表座敷には上ったことがあるのであろう。

「公儀も、首尾よく」本事件の公儀の判決も、この同心の単独犯と認定され、上役某を無罪とし、首尾よく終わり。

「出身」出世。より上位の官に挙げられ用いられること。]

譚海 卷之三 公家束帶取𢌞 所司代束帶の事

 

公家束帶取𢌞 所司代束帶の事

○公家衆束帶の取まはしは、はだかにて稽古有(ある)事とぞ。着座は足うらを合して趺座(ふざ)す。幼稚より習(ならひ)て性(しやう)と成(なり)たるが如し。總て盛服の時は二便(にべん)とも失する事あたはず、夫(それ)故御會始又は公宴などは終日の事故(ゆゑ)、老人或は二便に堪(たへ)ざる人は大かた所勞を申立て缺席有(ある)也。公家衆參内の途中は裾をば卷(まき)て腰にはさまるる、大抵步行にて參内也。草履取斗(ばか)り具せられ、又は若黨を加へ具せらるゝも有(あり)、上﨟は駕籠にて唐門(からもん)の下までゆかるゝもあり。每日京都見物に諸國より上りたるものは、唐門の向ひに居て拜見する事也。いづれも門の下にて草履を沓(くつ)にはきかへ、笏を端(ただ)し裾を曳(ひき)て甃道(いしきみち)をねり入らるゝ。一進一止、步々(ほほ)儀則(ぎそく)ありて刻(とき)を移す事也。足取(あしどり)に家々の式(しき)ありて、足ぶみの拍子もかわれり[やぶちゃん注:ママ。]。遙(はるか)に進み入らるゝ迄、沓(くつ)の聲遠く門外へ徹して聞ゆる也。

[やぶちゃん注:標題の関係上、二条をセットで続ける。「公家稼業も楽じゃない」話。

「趺坐」足を組み合わせて座ること。

「二便」大便と小便。

「所勞」病気。

「唐門」宜秋門(ぎしゅうもん)か。位置や出入りの格式等については、夢見る獏(バク)ブログ気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録の「京都御所(京都史跡めぐり 大江戸散歩)を参照されたい。京都御所の六つの総ての門について書かれてあり、地図もある。

「端(ただ)し」礼式通りに持ち。

「甃道(いしきみち)」「いしだたみみち」とも読むが、どうも間延びして厭だ。

「步々(ほほ)儀則(ぎそく)ありて」一足出す歩き方についてさえ儀礼の式(約束事)があって。

「刻(とき)を移す」時間が有意にかかる。]

 

○所司代禁裏付(きんりづき)の武家など上洛のはじめは、第一束帶難儀せらるゝ故、極(きめ)て裝束付(そくたいづき)とて非藏人(くらうど)か北面衆の中をたのむ事也。參内の度每に此人を請(しやう)じて裝束してもらふなり。その度ごとに謝禮の目錄を遣はす事ゆへ、後々は自身に裝束をつけて出仕する事あれども、禁中簾内出入の俯仰(ふぎやう)に、多(おほく)は帶ゆるみ、はさみたる衣ぬけ落(おち)て狼籍に曳(ひき)ちらし、ひろごりありき、赤面に及ぶ事有(あり)。夫(それ)ゆゑうは帶(おび)を隨分かたく結びてぬけ落ぬやうにすれば、一日の進退みぐるしくもあらねど、背をかたく結びつむるゆへ、腹腰くびられてはなはだ息づかひくるしきもの也。たのみたる人に裝束つけてもらひ參内する日は、帶もゆるやかにさのみかたくむすびたる樣にも覺えねど、終日出入俯仰にも衣ぬけおちる事なしとぞ。裝束平生(へいぜい)の事に成(なり)たるゆゑ、着用の覺悟ある事成(なる)べし。延享年中關東にて法華八講御法事ありし時、御家門の近臣大名衆初めみな束帶にて詰られし折節、別事にて下向の公家衆拜見を許され、同樣に出仕ありしに、兩三輩いづれも下﨟の仁(じん)なりしかども、束帶の儀貌(ぎばう)雲泥にわかれて、優美成(なる)事ども成(なり)しとぞ。

[やぶちゃん注:「武家の束帯男はつらいよ」話。

「所司代」京都所司代。京都の市政を管轄するため、安土桃山時代から置かれた。元は室町期の「侍所所司代」に由来する。職務は京都の防衛と治安維持、朝廷及び公家の監察、京都町奉行・奈良奉行・伏見奉行の管理、近畿八ヶ国の天領に於ける訴訟処理、西国大名の監察等であった。定員一名で譜代大名から任ぜられた。

「極(きめ)て」訓は推定。決まって。

「自身に」配下の者に命じて自分で。

「俯仰」原義は「俯(うつむ)くことと仰ぎ見ること・見回すこと」であるが、ここは「立ち居振る舞い・起居(挙止)動作」の意。

「狼籍に」ばたばたになって見苦しい状態になるさま。副詞的用法であろう。

「たのみたる人」「賴みたる人」は依頼した人の意ではなく、束帯を着たり、着せることにごく馴れた、信頼出来る公家方或いはその礼式に精通した人物の意であろう。

「延享」一七四四年から一七四八年まで。

「延享二(一七四五)年三月十三日から十七日まで紅葉山御宮に於いて「御染筆法華八講」が執行されている。将軍は徳川吉宗(彼はこの半年後の九月二十五日に将軍職を長男家重に譲った)。]

2018/08/25

大和本草卷之十三 魚之上 ヲイカハ (オイカワ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は『【同】』。前条のそれで示した。]

ヲイカハ 本草ニノセタル石鮅魚ナルヘシト云説アリ未知是

 非ヲヒカハヽ山中ノ川ニアリハヱニ似テ赤白色マシリ口

 ノハタ黑ク疣ノ如クナルモノ多シ京畿ニテハヲイカハト云筑紫

 ニテハアサギト云又アカバエトモ山ブチトモ云ウグヒ

 似テ味マサレリ大ナルハ六七寸アリハヱヨリ大ナリ爲

 膾食ス味美シハエノ一種トスヘシ無毒乾タルハ温補ス

 ミソニテ煮食ヘハ止久瀉

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ヲイカハ 「本草」にのせたる「石鮅魚」なるべしと云ふ説あり。未だ是非を知らず。「ヲヒカハ」は山中の川にあり。「ハヱ」に似て、赤・白、色、まじり、口のはた、黑く疣のごとくなるもの多し。京畿にては「ヲイカハ」と云ふ。筑紫にては「アサギ」と云ひ、又、「アカバエ」とも、「山ブチ」とも云ふ。「ウグヒ」に似て、味、まされり。大なるは、六、七寸あり。「ハヱ」より大なり。膾〔(なます)〕と爲〔(な)〕し、食す。味、美〔(よ)〕し。「ハエ」の一種とすべし。毒、無し。乾〔(ほし)〕たるは、温補す。「みそ」にて煮〔て〕食へば、久〔しき〕瀉を止〔(とど)〕む。

[やぶちゃん注:やっと特定種が出た(但し、「ヲイカハ」は歴史的仮名遣としては正しくない。「オヒカハ」(追河)である)。条鰭綱コイ目コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypusウィキの「オイカワ」より引く(下線太字はやぶちゃん)。『西日本と東アジアの一部に分布し、分布域ではカワムツやウグイなどと並ぶ身近な川魚である。釣りの対象としても人気がある』。『成魚は体長』十五センチメートル『ほどで、オスの方がメスより大きい。背中は灰青色、体側から腹側は銀白色で、体側に淡いピンクの横斑が数本入る。三角形の大きな尻びれをもち、特に成体のオスは大きい。背中の背びれの前に黄色の紡錘形の斑点がある。上から見ると』、同じハヤ類として総称される『カワムツ』(Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii)『やヌマムツ』(カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii)『に似るが、各ひれがより大きく広がってみえる。ハス』(Oxygastrinae 亜科ハス属ハス Opsariichthys uncirostris)『の若魚にもよく似るが、ハスは横から見ると口が大きく、唇が「へ」の字に曲がっているので区別できる』。『日本国内では利根川水系と信濃川水系以西の本州各地、四国の吉野川水系、九州に自然分布する。国外では朝鮮半島、中国東部、台湾に分布する』。『近年』、『改修によって多くの河川は流れがより緩やかになり、河床は平坦にされている。水の汚れや河川改修にも順応するオイカワにとって、近年の河川は生息しやすい環境へと変化して』おり、二十一『世紀初頭の時点では東日本、屋久島、徳之島などでも記録される普通種となっている。日本国内の移動で生態系への影響も比較的少ないとはいえ、外来種であることに変わりはない。改修への順応が低いウグイ』(コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)『やカマツカ』(コイ科カマツカ亜科カマツカ属カマツカ Pseudogobio esocinus)『などの魚が減少する中、生息数が増えている』。『琵琶湖産アユ』(Plecoglossus altivelis の琵琶湖産種(通称和名は「コアユ」。琵琶湖に棲息するアユの陸封型。正式な亜種指定はされてはいないが、明らかに亜種である)『やゲンゴロウブナ』(コイ亜科フナ属ゲンゴロウブナ Carassius cuvieri)『など有用魚種に紛れて放流されることにより東北地方など各地に広がった。また、従来生息していた河川などにも進入した結果、琵琶湖産オイカワと在来オイカワの混在が確認されている』。『台湾に生息する個体のミトコンドリアDNAを解析したところ、遺伝的に琵琶湖産と極めて近い関係にあるとする研究があり、アユの移植に伴った人為移植と考えられる』。『徳之島では』一九七〇『年代に鹿児島県天降川からアユの移植を試みた際に、アユ稚魚に混ざっていたオイカワが定着し増殖している。なお、オイカワの増殖により徳之島在来種の陸封型ヨシノボリ類』(ズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ヨシノボリ属 Rhinogobius)『の減少が報告されている』。『川の中流域から下流域にかけて生息するが、湖などにも生息する。カワムツなどと分布域が重複するが、オイカワのほうが』、『平瀬で水流が速く』、『日当たりのよい場所を好む。またカワムツに比べると』、『水の汚れに強く、河川改修され』、『生活排水が流れこむ都市部の河川にも生息する』。『川那部浩哉の宇川での研究によるとカワムツとオイカワが両方生息する川では、オイカワが流れの速い「瀬」に出てくるのに対し、カワムツは流れのゆるい川底部分』である『「淵」に追いやられることが知られる。さらにこれにアユが混じると、アユが川の浅瀬部分に生息し、オイカワは流れの中心部分や淵に追いやられカワムツは瀬に追い出され』、『アユと瀬で共存する。このことから河川が改修され』て『平瀬が増えると』、『オイカワが増えて』、『カワムツが減ることがわかっており』、『生物学の棲み分けの例として教科書等に載っている』但し、『近年は関東地方の一部の河川ではオイカワからカワムツが優先種となる逆のパターン』『も見られ』、『これも河川改修等が原因と考えられ』ことから、『両者の関係には今後も注意すべきである』。『雑食性で、藻類や水草、水生昆虫や水面に落ちた小昆虫、小型甲殻類、ミミズ、赤虫などを食べる』。『複数回の産卵を行うが、一回目の産卵の後好ましくない条件下(出水・増水による環境不適)では体内に残っている卵は産卵されない事もある。この残った卵(残存卵巣卵)は過熟卵となるが、コイと同じように体内に吸収されると考えられる』。『成熟雌は産卵活動を行ない』、九『月までに死ぬ』。『繁殖期』は五~八月で、『この時期のオスは顔が黒く、体側が水色、腹がピンク、尾びれを除く各ひれの前縁が赤という独特の婚姻色を発現し、顔に追星と呼ばれる凹凸が現れる』。『体長と孕卵数には一定の相関があり』、一尾当たり三百八十『粒程度を孕』み、一回の『産卵で全てを放出せず』、『複数回の産卵行動を行う。産卵水温の範囲は広く』、約摂氏十六度から三十度程度。一回に十粒から数十粒『程度を産卵する』ため、『潜在的な産卵能力は』三『ヶ月程度維持される』。『産卵行動は水通しの良い浅瀬に群がり、砂礫の中に非粘着性の卵を産卵する。親魚は卵を保護しないが、産卵に参加しない個体や他の魚種等の捕食者から保護するため』、『砂を巻き上げ埋没させる』。『低水温』だと、『産卵から孵化までの日数が増加するが、卵は』二日から八日『ほどで孵化し』、水温が二十度から二十三度では三日『程度で孵化する。産卵と同じく』、『孵化水温の範囲も広く』、十七度から三十程度であるが、二十五・四度『以上になると』、『孵化率の低下や奇形の発生が始まり』三十三・五度で『急激に悪化する、適水温は』十九度から二十七度『程度とされる』(ここに孵化適温範囲内に於ける「水温」と「ふ化日数」との関係式が出るが、省略する)。『孵化直後は、水流のほとんど無い止水域で群集し、成長度合いにより』、『生息場所を変えていく。成熟には』二年から三年がかかる。『河川改修による平坦化や農業用用水取水の影響による水量減少のために、もともとは棲み分けをしているオイカワと近縁種のヌマムツ又はカワムツの産卵場所が重なることで、交雑が生じて』おり、『オイカワとヌマムツの交雑種』、『オイカワとカワムツの交雑種』『の雄は共に両種の特徴を持った婚姻色となる。渡辺昌和氏の越辺川の支流での観察によると』、『ヌマムツのペアにオイカワの雄が飛び込んで放精する姿が観察された。これはオイカワ、カワムツ、ヌマムツは基本的に雌雄』一『対で産卵を行うが』、『その回りには小型の雄が徘徊し』、『産卵の瞬間に放精に参加するという共通の習性を持っており、渡辺氏の観察ではヌマムツのペアにオイカワの雄が放精するパターンのみが観察され』、『オイカワのペアにヌマムツの雄が放精する逆のパターンは観察されなかった。産卵期にはヌマムツの雄は体側の縦帯を緑色に変えるために、オイカワの雄が飛び込む引き金となっているとも考えられている』。以下、「地方名」のリスト。『ハヤ、ハエ、ハイ、ブリーク(各地・混称)、ハス(淀川流域)、シラハエ、シラバエ、チンマ(近畿地方、北九州)、ヤマベ(関東地方と東北地方の一部)、ジンケン(東北地方・長野県の一部』『)など』。『各地に多くの方言呼称があるが、多くの地方でウグイやカワムツなどと一括りに「ハヤ」と呼ばれる事もある。地方名の「ヤマベ」はサケ科のヤマメ』(条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou)『を指す地域もあり』、『注意が必要である。淀川流域ではオイカワを「ハス」、ハスを「ケタバス」と呼んで区別している。なお』、『標準和名「オイカワ」は』、『元来』、『婚姻色の出たオスを指す琵琶湖沿岸域での呼称であった。このほかにオスがアカハエ、メスがシラハエとも呼ばれる。また大分ではシラハエより体長も長く大きい腹の赤いものを「ヤマトバエ」と呼んでいるようだ』。『ちなみにカワムツを初めてヨーロッパに紹介したのは長崎に赴任したドイツ人医師シーボルトで、オイカワの属名』Zacco『は日本語の「雑魚」(ザコ)に由来する。このオイカワ属にはオイカワとカワムツとヌマムツが含まれていたが、現在はオイカワはハス属』Opsariichthys『に、カワムツとヌマムツがカワムツ属』Nipponocypris『となっている』。本種は『釣りの対象、または水遊びの相手としてなじみ深い魚である。餌は練り餌、川虫、サシ、ミミズ、毛針、ご飯粒、パスタなど。釣りの他に刺し網や投網、梁漁などでも漁獲される。泳がせ釣り用の活き餌として釣られることもある』。『甘露煮、唐揚げ、テンプラ、南蛮漬けなどで食用にされる。滋賀県ではなれずしの一種である「ちんま寿司」に加工される。長期熟成による醗酵臭が強く硬い鮒寿司より、ちんま寿司の方が食べやすいという向きも少なくない』。『美しい婚姻色から、アクアリウムなどで観賞用として飼育されることがある。人工飼料を利用し育てる事が出来るが、長期飼育は比較的難しい部類に入る。定期的な水替えと温度管理が重要で、狭い水槽での飼育は困難とされている』とある。このウィキの記載は飛びっ切りに優れている

『「本草」にのせたる「石鮅魚」』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」に以下のように出る。

   *

石鮅魚【「拾遺」。】

集解藏器曰、「生南方溪澗中。長一寸、背裹腹下赤、南人以作鮓云甚美。」。

氣味甘、平。有小毒。

主治瘡疥癬【藏器。】。

   *

短いが、「オイカワ」らしくは見える。ウィキの記載に生息域として東アジアの一部を挙げているから、おかしくない。

「赤・白。色、まじり、口のはた、黑く疣のごとくなるもの多し」前のウィキの引用の太字下線部を参照のこと。

『筑紫にては「アサギ」と云ひ』ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「オイカワ」のページの異名欄に『アサジ』があり、『福岡県久留米市』採取とある。

「アカバエ」前条本文と私の注を参照。

「山ブチ」現行では見当たらぬが、体色の「山斑(やまぶち)」で最も納得でき、また棲息流域の「山淵」でも腑に落ちるように思われる。

「ウグヒ」「ハヤ」類の一つであるコイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis。歴史的仮名遣は正しい。益軒はウグイに勝ると言っているが、私は二十代の頃、友の結婚式に戻った高岡で、父母と一緒に行った庄川沿いの川魚料理屋で食べた、婚姻色の朱色の条線の美しく出た「サクラウグイ」の味が忘れられない。私にとって川魚の最上の味は、あのウグイだったと断言出来る

『「ハヱ」より大なり』こう言っているところからは、益軒が狭義の「ハエ」を「オイカワ」や「ウグイ」でない種として認識していることを明らかにしている。これらの種より小さいとなると、ウグイは標準成魚の大きさが三十センチメートル(但し、大型個体では五十センチメートルに達するものがいる)で、オイカワは十五センチメートルであるから、後者より小さな「ハヤ」類を益軒は「ハヱ」と呼んでいることになる。

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri 標準体長は十五センチメートル

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi 標準体長は十センチメートル

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii 十五~二十センチメートル

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii 十~十五センチメートル(但し、は二十センチメートルに達する個体もある)

とあった。益軒は福岡から殆んど出ることがなかったから、九州に分布しないアブラハヤ(アブラハヤの本来の分布域は、日本海側で青森県から福井県にかけて、太平洋側で青森県から岡山県である)はまず削除出来る。さすれば、体長から、一番の益軒の「ハヱ」候補は「タカハヤ」ということになろうか。

「膾〔(なます)〕」刺身の意もあるが、ここは野菜や魚介類を刻んで酢に和えたものととっておこう。一般に川魚の完全な生食は恐るべき顎口虫や肺吸虫の感染があるからね。しかし酢締めでも全く以って危ない種も多いからね、やっぱ、塩焼きにしましょう! その方がマジ! 美味いって!

「温補」漢方で健康な人体にとって必要な温度まで高める力を補うの意。散々注したので、もう、この注は附さない。

「久〔しき〕瀉」慢性の嘔吐或いは下痢だが、ここは後者であろう。]

大和本草卷之十三 魚之上 𮬆 (ハエ) (ハヤ)

 

【和品】

𮬆 何レノ川ニモアリ類多シ白ハヱアリ大ナリ赤ハヱアリ

 アフラハヱアリ昔ヨリ倭俗𮬆ノ字ヲハエトヨム万葉集

 ニモ書ケリ出處未詳順和名抄ニハ𮬆ノ字ヲハエト訓ス是

 亦出處不詳國俗ノ説ニ甘草ニ反スト云性味鰷ニ不

 及サレ𪜈頗溫補ス乾タルハ最佳シ補脾止瀉


○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

𮬆(ハエ) 何れの川にもあり、類、多し。「白ハヱ」あり、大なり。「赤ハヱ」あり、「アブフラハヱ」あり。昔より、倭俗、「𮬆」の字を「ハエ」と、よむ。「万葉集」にも書けり。出處〔(でどころ)〕、未だ詳らかならず。順〔が〕「和名抄」には「𮬆」の字を「ハエ」と訓ず。是れ亦、出處未だ詳らかならず。國俗の説に「甘草に反す」と云ふ。性・味、鰷〔(アユ)〕に及ばず、されども、頗る溫補す。乾〔(ほし)〕たるは、最も佳〔(よ)〕し。脾〔(ひ)〕を補し、瀉を止〔(とど)〕む。

[やぶちゃん注:の「鰷魚(アユ)」の項で注したが、再掲すると、「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属カラアブラハヤ(アムールミノー)亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri (日本固有亜種)

アブラハヤ属コウライタカハヤ(チャイニーズミノー)亜種タカハヤRhynchocypris oxycephalus jouyi (日本固有亜種)

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii (日本固有亜種)

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。漢字では「鮠」「鯈」「芳養」と書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。

「𮬆(ハエ)」困ったのは、この標題漢字で、魚偏の漢字は国字が多いのであるが、これも国字である(因みに、常用漢字表にある魚偏の漢字は「鯨」と「鮮」のたった二字だけである)。

 因みに、四季を旁(つくり)に配した字は、「鰆」が国訓で「さわら」で、条鰭綱スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius を指す。漢語としての「鰆」(音「シュウ」)は(音「ソウ」:イシモチ(スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata 或いはニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii を指す)の俗字である。また、「鰍」は国訓が複数あって、一つは「いなだ」(出世魚であるスズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata の関東での小・中型の個体(関東での呼称は「モジャコ」(稚魚)ワカシ(三十五センチメートル以下)「イナダ」(三十五~六十センチメートル)「ワラサ」(六十~八十センチメートル)「ブリ」(八十センチメートル超)の順)で、別に「かじか」(条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux:「杜父魚」「鮖」とも書く。日本固有種であるが、地方によっては形が似るものの、全くの別種であるハゼ科 Gobiidae の魚と一緒くたにして「ゴリ」とか「ドンコ」とも呼ばれる。 大別して大卵型の河川陸封型・中卵型の両側回遊型・小卵型の両側回遊型がいるが、分類研究は進んでいない)、また「うなぎ」(条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica)を指す。漢語としての「鰍」(音「シュウ・シュ」)は「鰌」(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatusと同義である。そして、「鮗」国字で「このしろ」(条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus)である。

 さても、この「𮬆」の字であるが、所持する「廣漢和辭典」にも所収しない。よくお世話になる「真名真魚字典」のこちらの記載によれば、「日本魚名集覧」の「水産名彙」の引用には『ハエ・ハヤ・フグ・フクベ』(「フクベ」は「フグ」の異名であろう)とし、同じく「日本魚名集覧」の「摂陽群談」の引用では『魚』で『サメ』とするとある。別に「あわび」に当てる記載もあった(しかしこれは「鰒」(あわび)の誤読のようにも思われる)。ところが、調べてみると、これはやはり、国字で、出世魚であるブリ(スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata)の関東での幼魚を指す「ワカシ」(関東では「モジャコ」(稚魚)「ワカシ」(十五~三十五センチメートル以下)「イナダ」(三十五~六十センチメートル)「ワラサ」(六十~八十センチメートル)「ブリ」(八十センチメートル超)の順)で、「初夏に釣れること」から「夏」を旁に当てたものであるらしい。

 ただ、上記の通り、「日本魚名集覧」の「水産名彙」の「ハエ・ハヤ」もあるから、益軒の表字と訓は誤りではないということにはなる。

 ともかくも、前条「ハヤ」類を指す「鰷魚」を「アユ」と読んでしまった関係上、益軒は「ハヤ」にこの字を宛てるしかなかったものと私は読むのである。なお、実は次の独立項は「ヲイカハ」なのである。

「白ハヱ」ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「オイカワ」のページに、オイカワの異名の一つに「シラハエ」(関東・東海(愛知県津島市・旧海部郡))を挙げてある。ところが、同時に続く「赤ハヱ」と同じく、「アカバエ(赤バエ)」も挙がっていて、『夏になって婚姻色の出たもの』として、『岡山県高梁市備中町』での採集名とする。個人サイト「川のさかな情報館」の「ハス属」を見ても、「オイカワ」の異名に『シラバエ(和歌山県)』・『シロバエ(宮崎県)』。『シラハエ(岐阜県)』を認め、ネット上では他にも「シロバエ」を「オイカワ」とする記載があるので、ここは「白ハヱ」「赤ハヱ」の二つともに同一のコイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys
platypus
で、その生活史上の色彩変異(婚姻色の出る前と後)と採ってよいように思われる。ウィキの「オイカワによれば、『標準和名「オイカワ」は』、『元来』、『婚姻色の出たオスを指す琵琶湖沿岸域での呼称であった。このほかにオスがアカハエ、メスがシラハエとも呼ばれる。また大分ではシラハエより体長も長く大きい腹の赤いものを「ヤマトバエ」と呼んでいるようだ』とあるので、間違いない。

「アブフラハヱ」ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

『昔より、倭俗、「」の字を「ハエ」と、よむ』益軒先生には出典を明記して、例を複数、挙げて貰いたかった。

『「万葉集」にも書けり』調べて見たが、不詳。識者の御教授を乞う。

『順〔が〕「和名抄」には「𮬆」の字を「ハエ」と訓ず』国立国会図書館デジタルコレクションで「和名類聚鈔」を見てみたが、少なくとも「𮬆」の字は見出しになかった。識者の御教授を乞うものであるが、同書には、

   *

鮠 四聲字苑云鮠【巨灰反漢語抄云波江又用*[やぶちゃん注:「*」=「魚」+「軰」。]字。所出未詳。】魚似鮎而白色

   *

とあり(ここ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像)、「波江」とあるのを見つけた。「鮠」は現行の「ハヤ」に当てる漢字である。「出處未だ詳らかならず」というところが、益軒の叙述と酷似するの偶然だろうか? 今までの水族のパートではこういう言い方は滅多に出てこないのだが?

「國俗の説」本邦の民間の処方。

「甘草に反す」甘草(マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza の根を乾燥させた生薬。漢方では緩和作用・止渇作用があるとされる)の効果を相殺してしまうと言った意味であろう。

「鰷〔(アユ)〕」前の「鰷魚(アユ)」の項に従って訓じた。

「溫補」漢方で健康な人体にとって必要な温度まで高める力を補うの意。

「脾」伝統中国医学に於ける五臓の一つ。ほぼ腹の中央にあり、水穀(すいこく)の気を取り込む働きをするとされている。旁の「卑」は「扁平な樽」を意味する。現代医学に於ける脾臓とは関係ないので注意。

「瀉」嘔吐或いは下痢。]

大和本草卷之十三 魚之上 鰷魚 (アユ)

 

鰷魚 春初海ト河トノ間ニテ生レテ河水サカ上ル夏一

 漸長ス八月以後サヒテ味ヨカラス秋ノ末河上ヨリ下

 リテ潮サカヒニテ子ヲウンテ死ス沙川ノ鰷ハ小ニ乄瘦

 ス大石多キ大河ニアルハ苔ヲ食フ故大ニ乄肥ユ大ナルハ

 尺ニ至ル又香魚ト名ツク香ヨキ故也雨航雜錄

 香魚鱗細不腥春初生月長一寸至冬月長盈則

 赴潮際生子生已輙稿一名記月魚稿トハアユノサ

 フルヲ云豊後國早見郡立石村ノ淺見川ノ鰷ハ冬

 ニ至ルマテ下ラスサヒス其川ニ温泉イテヽ水温ナル故

 ナルヘシ凡鰷性温補香味共ニヨシ背ニ脂アリ滯痰

 氣膓ノ醢ヲ俗ニウルカト云久泄利ヲ止ム初症ニハ不

 可也宿食及有痰人不可食鰷ノ子ヲマシエタルハ味尤

 美也又鰷肉ヲ切テ醢トス亦可也鰷ニ雌雄アリ雌ハ

 首小ニ身廣ク皮薄ク色黃ナリ子ハ粟ノ如シ白子

 モアリ秋半二胞アリ雄ハ頭小身狹ク色雌ヨリ淡

 黑ナリ雌ヨリ長シ粟子ナシ白子二胞アリ雌ハ味ヨ

 シ雄ハ味劣ル雄ハ秋半早ク枯ル雌ハヲソクサフル鰷ヲ[やぶちゃん注:「ヲソク」はママ。]

 セイゴ云説アヤマリ也又鮎ヲアユトヨムモ誤也鮎ハ諸

 書ヲ考ルニナマツナリ日本紀神功皇后紀ニ細鱗魚

 ヲアユトヨメリ

○やぶちゃんの書き下し文

鰷魚(アユ) 春の初め、海と河との間にて生まれて、河水にさか上る。夏一〔(なついち)に〕、漸〔(やうや)く〕長ず。八月以後、さびて、味、よからず。秋の末、河上より下りて、潮さかひにて、子をうんで、死す。沙川の鰷は小にして、瘦(や)す。大石多き大河にあるは、苔を食ふ故、大にして肥ゆ。大なるは尺に至る。又、「香魚」と名づく。香〔(かをり)〕よき故なり。「雨航雜錄」に云はく、『香魚、鱗、細く、腥〔(なまぐさ)〕からず。春の初め、生ず。月に長ずること、一寸、冬月に至り、長盈〔(ちやうえい)〕し、則ち、潮〔の〕際〔(きは)〕に赴き、子を生む。生み已〔(をは)〕つて、輙〔(すなはち)〕、「稿」は[やぶちゃん注:「は」は不要な送り字のように思われ、ここで原文は小さくブレイクしているものと思う。或いは送るなら、「となる」辺りが適切と考える。]、一名、「記月魚」。』〔と〕。「稿」とは、あゆのさぶるを云ふ。豊後國早見郡立石村の淺見川の鰷は、冬に至るまで下らず、さびず。其の川の温泉いでゝ、水、温〔(あたたか)〕なる故なるべし。凡そ、鰷の性、温補す。香・味、共によし。背に脂あり、痰氣を滯〔(とど)め〕しむ。膓(わた)の醢(なしもの)を俗に「うるか」と云ふ。久しき泄利を止〔(とど)〕む。初症には不可なり。宿食及び痰有る人、食ふべからず。鰷の、子をまじえたるは、味、尤も美なり。又、鰷〔の〕肉を切りて醢〔(なしもの)〕とす、亦、可なり。鰷に雌雄あり、雌は、首、小に〔して〕、身、廣く、皮、薄く、色、黃なり。子は粟のごとし。白子もあり。秋半ば、二胞〔(ふたはら)〕あり。雄は、頭、小に〔して〕、身、狹く、色、雌より淡黑なり。雌より長し。粟子、なし。白子、二胞〔(ふたはら)〕あり。雌は、味、よし。雄は、味、劣る。雄は、秋半ば、早く、枯(さぶ)る。雌は、をそく、さぶる。鰷を「セイゴ」と云ふ説、あやまりなり。又、鮎を「アユ」とよむも誤りなり。「鮎」は諸書を考ふるに「ナマヅ」なり。「日本紀」「神功皇后紀」に「細鱗魚」を「アユ」とよめり。

[やぶちゃん注:条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis(属名「プレコログロッツス」はギリシャ語の「襞のある」と「舌」の合成で、種小名「アルティベリス」は「帆を張ったような高い背鰭」の意)。ウィキの「アユ」によれば、『北海道・朝鮮半島からベトナム北部まで東アジア一帯に分布』するが、『日本がその中心である』。他に正式な亜種として、リュウキュウアユ Plecoglossus altivelis ryukyuensis(絶滅危惧IA類(CR)。琉球列島固有亜種で、現在は奄美大島のみに棲息する。かつて棲息していた沖縄本島北部西海岸に注ぐ河川の在来個体群は一九七〇年代に絶滅した)及び中国産亜種 Plecoglossus altivelis chinensis や、朝鮮半島産個体群(『予備的な研究により』、『日本産と遺伝的に有意の差があるとの報告がされている』)がいる外、琵琶湖産の「コアユ」と呼んでいる個体群は『アイソザイム(アロザイム)分析の結果、日本本土産の海産アユから』十『万年前』に分かれたもの『と推定されて』(但し、正式な亜種として分類されてはいない)おり、また、本州のアユも『遺伝的に日本産海産アユは南北』(『天塩川が日本の分布北限』)二つの『群に分けられる』とある。

「鰷魚(アユ)」益軒は最後の方で『鰷を「セイゴ」と云ふ説、あやまりなり。又、鮎を「アユ」とよむも誤りなり。「鮎」は諸書を考ふるに「ナマヅ」なり』と如何にも自慢げに記しているが、自分の表記自体の誤りを微塵も認識していない(但し、この「鰷」を「アユ」とする誤認は、江戸時代、巷間は勿論、こうした本草書にも蔓延してはいた)。「鰷」は昔から中国でも本邦でも「ハヤ」類を指す(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)。これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称である。則ち、この「鰷魚」(じょうぎょ)とは、「荘子」の「秋水篇」の私の大好きな「知魚楽」の論理対話に登場する「鯈魚(ゆうぎょ)」と同じなのである。あの魚を「アユ」とする注を私は見たことがない(実際には小アユであったものよいのだが、諸注は皆、「ハヤ」の類とする)私の漢文の授業思い出される諸君も多かろうから、折角だから、私の「橋上 萩原朔太郎 + 荘子 秋水篇 『知魚楽』」をリンクさせておく。注で原文と訓読及び私の語注、さらにオリジナル現代語訳(今回全面的に新訳したもの。特に現在時制にしてシナリオのように示すことで新味が出たとは思う)を配してある。さても……益軒先生、多数者の誤認を鬼の首を捕ったように指弾しているあなたも、実は結局、トンデモ誤認の渦中にいた一人であったことを理解されていなかった「井の中の鯰(なまず)」だったのですよ……なお、ウィキの「アユ」の「名称」の部分を引いておくと、『漢字表記としては、香魚(独特の香気をもつことに由来)、年魚(一年で一生を終えることに由来)、銀口魚(泳いでいると口が銀色に光ることに由来)、渓鰮(渓流のイワシの意味)、細鱗魚(鱗が小さい)、国栖魚(奈良県の土着の人々・国栖が吉野川のアユを朝廷に献上したことに由来)、鰷魚(江戸時代の書物の「ハエ」の誤記)など様々な漢字表記がある』。『また、アイ、アア、シロイオ、チョウセンバヤ(久留米市)、アイナゴ(幼魚・南紀)、ハイカラ(幼魚)、氷魚(幼魚)など地方名、成長段階による呼び分け等によって様々な別名や地方名がある』。『アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある』。『現在の「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説』、『アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含めほとんどがアユを年魚と表記している』。『中国で漢字の「鮎」は古代日本と同様ナマズを指しており』、『中国語でアユは、「香魚(シャンユー、xiāngyú)」が標準名とされている。地方名では、山東省で「秋生魚」、「海胎魚」、福建省南部では「溪鰛」、台湾では「』=「魚」+「桀」)『魚」、「國姓魚」とも呼ばれる』とある。また、実は次の独立項が「※(ハエ)」(「※」=「魚」+「夏」)なのである。

「春の初め、海と河との間にて生まれ」親アユの産卵は水温が摂氏十五度から十八度の時節を産卵の最盛期とし、東北・北海道では八月下旬から九月上旬、本州中部附近では十月下旬から十一月上旬、南日本では十二月中旬である(ここは個人サイト「渓一郎の鮎迷人」の「鮎の生態と現況」に拠った)。則ち、産卵は概ね秋で、産卵場所は遡上した河川を下った河川下流域である。水温十五度から二十度の間では二週間ほどで孵化する。ウィキの「アユ」によれば、『孵化した仔魚はシロウオのように透明で、心臓やうきぶくろなどが透けて見える。孵化後の仔魚は全長約』六ミリメートルで、『卵黄嚢を持つ』とある。その後、『仔魚は数日のうちに海あるいは河口域に流下し』、『春の遡上に備える。海水耐性を備えているが、海水の塩分濃度の低い場所を選ぶため、河口から』四キロメートル『を越えない範囲を回遊』し、『餌はカイアシ類などのプランクトンを捕食して成長する。稚魚期に必要な海底の形質は砂利や砂で、海底が泥の場所では生育しない。全長約』一センチメートル程度になると、『砂浜海岸や河口域の浅所に集まるが、この頃から既にスイカやキュウリに似た香りがある。この独特の香りは、アユの体内の不飽和脂肪酸が酵素によって分解されたときの匂いであり、アユ体内の脂肪酸は餌飼料の影響を受けることから、育ち方によって香りが異なることになる。香り成分は主に2,6-ノナジエナールであり、2-ノネナール・3,6-ノナジエン-1-オールも関与している』(しばしばアユの香りは川苔を捕食するからとする言説を聴くが、あれは誤りである)。『稚魚期には、プランクトンや小型水生昆虫、落下昆虫を捕食する』とある。

「河水にさか上る。夏一〔(なついち)に〕、漸〔(やうや)く〕長ず」ウィキの「アユ」によれば、体長五・九~六・三センチメートルになると、『鱗が全身に形成され』、その後、『稚魚は翌年』の四月から五月頃、五~十センチメートル程に成長した上で、川の遡上を開始する。『この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上の藻類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化する。川の上流から中流域にたどり着いた幼魚は水生昆虫なども食べるが、石に付着する藍藻類および珪藻類(バイオフィルム』:Biofilm:菌膜(きんまく):微生物により形成される構造体『)を主食とするようになる。アユが岩石表面の藻類をこそげ取ると』、『岩の上に紡錘形の独特の食べ痕が残り、これを特に「はみあと(食み跡)」という。アユを川辺から観察すると、藻類を食べるために』、『しばしば岩石に頭をこすりつけるような動作を行うので他の魚と区別できる』。『多くの若魚は群れをつくるが、特に体が大きくなった何割かの若魚は』餌となる『藻類が多い場所を独占して縄張りを作るようになる。一般には、縄張りを持つようになったアユは黄色みを帯びることで知られている』。『特にヒレの縁や胸にできる黄色斑は』、『縄張りをもつアユのシンボルとされている』。『アユの視覚は黄色を強く認識し、それによって各個体の争いを回避していると考えられている』。縄張りは、一尾のアユにつき、約一メートル四方ほどで、『この縄張り内に入った他の個体には』、『体当たりなどの激しい攻撃を加える。この性質を利用してアユを掛けるのが「友釣り」で』ある、とある。

「八月以後、さびて、味、よからず」やはりウィキの「アユ」から引く。『夏の頃、若魚では灰緑色だった体色が、秋に性成熟すると』、『「さびあゆ」と呼ばれる橙と黒の独特の婚姻色へ変化する。成魚は産卵のため』、『下流域への降河を開始するが、この行動を示すものを指して「落ちあゆ」という呼称もある。産卵を終えたアユは』一『年間の短い一生を終えるが、広島県太田川、静岡県柿田川などの一部の河川やダムの上流部では』、『生き延びて越冬する個体もいる』。『太田川での調査結果からは、越年アユは全て雌で』、『再成熟しての産卵は行われないと考えられている』とある。

「雨航雜錄」明代後期の文人馮時可(ふう(ひょう)じか)が撰した雑文集。魚類の漢名典拠としてよく用いられる。四庫全書に含まれている。

「長盈〔(ちやうえい)〕」「盈」は「満ちる・満たす・余る」の意で、ここは十分に体が大きく成長すること、生殖可能な成魚となることを指す。

「稿」には「枯れた稲」の意がある。「錆(さび)鮎」の色に相応する。

「記月魚」まさに一年の「月」(季節)を「記」す、数えるように生きたことを、体表に「さび」を以って「記」した「魚」の意であろう。

「豊後國早見郡立石村の淺見川」現在の大分県別府市南立石の近くを流れる朝見川であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)が南立石地区で、その北端を横切って東南に下って別府湾にそそいでいるのが朝見川で、支流にはまさに「鮎返川(あゆかえりがわ)」がある。なお益軒は福岡藩士であるから、近場である。

「冬に至るまで下らず、さびず。其の川の温泉いでゝ、水、温〔(あたたか)〕なる故なるべし」残念ながら、幾つかのフレーズ検索を頻りに掛けてみたが、現在の朝見川に越年アユが棲息する事実には行き当たらなかった。というより、現在の朝見川で鮎釣りをしているという記載自体が見つからない。現地の方の情報を俟つものである。

「温補」漢方で健康な人体にとって必要な温度まで高める力を補うの意。

「背に脂あり、痰氣を滯〔(とど)め〕しむ」背の部分の脂が痰の詰まりを抑える効果を持つと言っている。ここは「背の脂」に限定しているのであって、後の鮎の「膓(わた)の醢(なしもの)」=内臓の塩辛である「うるか」が「痰有る人、食ふべからず」とあるのとは矛盾しないので注意が必要。

「うるか」平仮名書きが現在も普通。ウィキの「うるか」より引く。「鱁鮧」「潤香」「湿香」と書く。アユの塩辛。「鮎うるか」とも称する。『鮎の内臓のみで作る苦うるか(渋うるか、土うるか)、内臓にほぐした身を混ぜる身うるか(親うるか)、内臓に細切りした身を混ぜる切りうるか、卵巣(卵)のみを用いる子うるか(真子うるか)、精巣(白子)のみを用いる白うるか(白子うるか)等がある』。『鮎が捕れる地域の名産品であり、日本全国で見られるが、岐阜県の長良川』、『熊本県の球磨川、島根県の高津川』、『大分県の三隈川』、『大野川』『のものなどが知られている。以下、「身うるか」の製法。『ひれ、うろこを取り、頭、尾びれを切り取る。内臓は残す』。『骨ごと細かく切り、包丁でたたいてミンチ状にする』。『塩を加えて、さらに擦り潰す』。その後、一日に四回ほど『かき混ぜながら』、一『週間ほど置く』と出来上がり。『酒の肴』『にするほか、サトイモやナスに加えて煮物にしたり、うるか汁にしたりする』とある。

「久しき泄利」慢性的な下痢。

「初症」下痢の初期や急性の下痢症状を指すのであろう。

「宿食」(しゅくしょく)は飲食物が胃腸に停滞してしまう病証を指す。「食積」「傷食」「宿滞」などとも称し、食べ過ぎ或いは脾虚を原因とし、上腹部の脹痛・酸臭のあるゲップ・悪心・食欲不振・便秘或いは下痢を主症状とし、悪寒・発熱・頭痛などを伴うこともある。

「鰷の、子をまじえたる」鮎が子持ちであること。

「鰷〔の〕肉を切りて醢〔(なしもの)〕とす」前注「うるか」の「身うるか」。

「鰷に雌雄あり」以下に益軒はうじゃうじゃ対照しているが、これでは区別は出来ない。そもそもアユは捌かないと実際には判り難い。一般には、尾鰭の前方下側に生えている三角形の尻鰭を広げて横から見た際、

――丸みが少なく、幅が狭く、全体に三角形に見えるのが♂

――同時期の成魚の♂に比べ、丸みと膨らみがあり、中心よりもやや後ろ側にV字型の窪みがあり、鰭全体が歪んだハート型のような感じに見えるのが♀

とするが、これも素人では確かな雌雄を並べられて見て、初めて差違が判るものとも言える。「鮎処 こしじ茶」の対象写真をリンクさせておく。

「雌は、首、小に〔して〕、身、廣く、皮、薄く、色、黃なり。子は粟のごとし。白子もあり」不審。雌に白子があろうはずがない。現在のおぞましいバイオ技術では雌雄同体アユは作り出されているがね。

「二胞〔(ふたはら)〕」読みは私の推定。二腹。

「枯(さぶ)る」「錆びる」に同じい。寧ろ、この当て字の方が中国語の「稿」に相応しい。

「をそく」「遲く」。

「セイゴ」出世魚で、海産でありながら、驚くべき上流まで川を遡上して平気でいられるスズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の、若年期の呼称。関東では一歳から二歳で全長が二十~三十センチメートル程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶが、それより小さな十五~十八センチメートルのものを指す地域も多く、愛知県では小型のスズキを概ね「セイゴ」と呼び、大きさと出世呼称名は地方によって異なる。

『「鮎」は諸書を考ふるに「ナマヅ」なり』室町幕府第十四代将軍足利義持の命で、瓢箪でナマズを押さえるという禅の公案を描いた国宝「瓢鮎図」が知られる。応永二二(一四一五)年以前の作で、京都妙心寺塔頭退蔵院所蔵。画面上半には大岳周崇の序と玉畹梵芳など三十一人の禅僧による画賛がある。これ(リンク先はウィキの「瓢鮎図の画像)。則ち、知識人は「鮎」がナマズであることは知っていたのである。

『「日本紀」「神功皇后紀」に「細鱗魚」を「アユ」とよめり』「日本書紀」の「神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)四月甲申」の条に、

   *

夏四月壬寅朔甲辰。北到火前國松浦県。而進食於玉嶋里小河之側。於是皇后勾針爲鉤。取粒爲餌。抽取裳縷爲緡、登河中石上。而投鉤祈之曰。朕西欲求財國。若有成事者、河魚飮鉤。因以舉竿。乃獲細鱗魚。時皇后曰。希見物也。故時人號其處曰梅豆羅國。今謂松浦訛焉。是以其國女人。每當四月上旬。以鉤投河中。捕年魚、於今不絶。唯男夫雖釣、以不能獲魚。

   *

と出るのを指す。他にも「日本書紀」では「阿喩(あゆ)」の文字を当てている箇所がある。また、「古事記」にも同じ仲哀天皇神功皇后のシークエンスに「年魚」が出、現行ではこれは「あゆ」と訓読されている(他に崇神天皇の冒頭に妃の名に「遠津年魚目目微比賣」とあって、現行では「とほつあゆめまくはしひめ」と訓じている。「万葉集」には、十五首もの歌に「あゆ」が読まれており、「年魚(あゆ)」(四七五・九六〇・三三三〇・四一五六番)・「阿由(あゆ)・和可由(わかゆ:若鮎)」(八五五~八五九・八六一・八六三・八六九番(異形)・「鮎(あゆ)」(三三三〇(「年魚」とは別箇所で使用)・四一五八番)・「安由(あゆ)」(四〇一一・四一九一番)と上代特殊仮名遣で表記され、現行では、かく読まれている。また、ネットの情報では藤原京(六九四年~七一〇年)出土の木簡に献上品目「上毛野國車評桃井里大贄鮎」と出、これはナマズではなくアユと考えられ、養老五(七二一)年の正倉院文書にも「阿由」が使用されているという。則ち、上古(特に奈良時代)には既に「鮎」は普通に「あゆ」と読まれ、現在のアユのことを指していたと考えてよいのである。]

2018/08/24

譚海 卷之三 中院通茂公關東逗留事

 

中院通茂公關東逗留事

○中院通茂(なかのゐんみちしげ)公、傳奏にて關東へ下向ありし此、臺德院公方樣(たいとくゐんくばうさま)通茂公へ古今傳授御所望ありしに、和歌堪能の人ならでは傳授成(なり)がたきよし言上に付(つき)、御氣色惡敷(あしく)、傳奏の御暇(おんいとま)出(いだ)されずして、龍の口傳奏屋敷に三年までをはせしに、種々京都よりも御詫ありて免ぜられ歸京ありしと也。彼公の集・後水尾院の御製集などにも此事見えたり。

[やぶちゃん注:「中院通茂」が武家伝奏に補任されたのは寛文一〇(一六七一)年九月で、延宝三(一六七五)年二月に伝奏の任を解かれている。この時代の将軍は第四代将軍徳川家綱である。ところが、次に出る「臺德院」とは第二代将軍徳川秀忠の法号であり、全くおかしいことになる。秀忠は寛永九(一六三二)年に没しているからである。また、通茂の事蹟にこのように江戸に半ば軟禁されたという記録はない。これは中院通村の誤りであり、その相手は第三代将軍徳川家光であるウィキの「中院通村によれば、『将軍徳川家光に古今伝授を所望されたが、これを断ったという硬骨漢である』とあり、中院通村は元和九(一六二三)年に武家伝奏に補任されたが、寛永七(一六三〇)年九月、前年の十一月に彼を信任していた後水尾天皇が勝手に興子内親王に譲位してしまい、この謀議を関知しながら、それを武家伝奏として幕府に報告しなかったという理由で武家伝奏を罷免された上、五年後の寛永一二(一六三五)年三月には、その正謀議参画の罪によって江戸へ召喚され、寛永寺に幽閉された。しかし、七ヶ月後の十月には天海の請願によって赦免されて帰京している。津村は、この通村の関係のない二つの事蹟を、ごちゃごちゃにした上、当事者たちの名もめちゃくちゃにして誤認していたのではなかろうか?

「龍の口傳奏屋敷」「龍の口」は現在の東京都千代田区丸の内1の「日本工業倶楽部ビル」が建つ附近の旧地名で、江戸城大手門外に当たり、伝奏屋敷があった。(グーグル・マップ・データ)。]

甲子夜話卷之五 11 神君御花押の事

 

5-11 神君御花押の事

昔の花押は、人々異體にして、いかにも五雲體の起本を失はざりしが、偃武の御世となりしより、下に必一字を引こと法の如く成しは、列祖の御押に倣ふより昉れり。因て世に其形を德川判と稱す。後水尾帝の御押二樣あり。内一つも正しく德川判なり。當時の主上まで御家の和風に傚ひ玉へば、その以下はさあるべきこと勿論。この一つにても風靡の大なるを見るべしと、林氏話。

■やぶちゃんの呟き

「五雲體」不詳。ウィキの「花押」にある、『江戸中期の故実家伊勢貞丈(いせさだたけ)は、花押を』五『種類に分類しており(『押字考』)、後世の研究家も概ねこの』五『分類を踏襲している』、その『分類は、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体である』とするものを指すか。そのリンク先の説明によれば、「草名体(そうみょうたい)」は草書体に崩したもの、「二合体」は実名二字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化したもの、「一字体」は実名の一字のみを図案化したもの、「別用体」は文字ではない絵などを図案化したものを指し、最後の「明朝体」がまさにここに出た家康のそれで、上下に並行した横線を二本書き、その中間に図案を入れたものを指す。「明朝体」という呼称は明の太祖が、この形式の花押を用いたことに由来するとされ、家康が採用したことから、徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり、「徳川判」とも呼ばれたとある。

「起本」基本。

「偃武」「えんぶ」とは、武器を伏せて使わないこと。戦争が熄(や)み、世の中が治まること。「書経」の「周書」の「武成篇」の中の語「王來自商、至于豐。乃偃武修文。」(王、商より來たり、豐に至る。乃(すなは)ち、武を偃(ふ)せて文を修(おさ)む。)に由来し、特に、慶長二十・元和(げんな)元(一六一五)年五月の「大坂夏の陣」によって、江戸幕府が大坂城主羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、「応仁の乱」(東国にあってはそれ以前の「享徳の乱」)以来、実に百五十年近くに亙って断続的に続いてきた大規模な軍事衝突が終了し、江戸幕府は同年七月に元号を元和と改め、天下の平定が完了した事を内外に宣したことから、特に「元和偃武」と呼ばれた(以上はウィキの「元和偃武に拠った)。

「下に必一字を引こと法の如く成しは、列祖の御押に倣ふより昉れり」「昉れり」は「はじまれり」(「昉」は「夜が明ける」から「始める」の意)。サイト歴人マガジン個性あふれるデザイン】花押の歴史と武将たちが込めた意味が非常に良い。ぐだぐだ説明する必要がなく、一見にして開明!!!

「後水尾帝」在位は慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年。彼の代を以って朝廷は江戸幕府の管理下に置かれた。

「林氏」林述斎。複数回既出既注。最初の「甲子夜話」初回へのリンクをし、もうこの注は示さない。

大和本草卷之十三 魚之上 鰧魚 (ビワマス)

 

鰧魚 本草綱目鱖魚ノ附錄ニノセタリ鱖ノ類也トイ

 ヘリサケニ似テ味ヨシ琵琶湖ニ多シ鯇ヲアメノウヲト

 訓ス未是

○やぶちゃんの書き下し文

鰧魚(アメノウヲ) 「本草綱目」、「鱖魚」の「附錄」にのせたり。鱖の類なりといへり。「サケ」に似て、味よし。琵琶湖に多し。鯇を「アメノウヲ」と訓ず。未だ是(ぜ)とせず。

[やぶちゃん注:何か、杜撰な書き方である。益軒の言う「鮭」「に似て」「味」がよく、「琵琶湖に多」くて、『「アメノウ」オ』と呼ばれていると言う部分なら、これはもう、文句なしに、琵琶湖にのみ棲息する本邦固有種である、条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus ということになる。ウィキの「ビワマスによれば、『産卵期には大雨の日に群れをなして河川を遡上することから、アメノウオ(雨の魚、鯇、鰀)ともよばれる』。『体側の朱点(パーマーク)は、体長』二十センチメートル『程度で消失し』、『成魚には見られない。成魚の全長は』四十~五十センチメートルほどであるが、大きい個体では全長七十センチメートルを『超えることもある。サクラマス』(Oncorhynchus masou masou の内で、降海型の個体群)『と同じくヤマメ』(Oncorhynchus
masou masou
 の内で、降海せずに一生を河川で過ごす河川残留型(陸封型)個体群)『の亜種であり、DNAの特徴も外観もサクラマスに近いが、サクラマスよりも眼が大きいことと、側線上横列鱗数が』二十一~二十七で、『やや少ない事で見分けられる。琵琶湖固有種だが、現在では栃木県中禅寺湖、神奈川県芦ノ湖、長野県木崎湖などに移殖されている。また、人工孵化も行われている』。『他のサケ科魚類と同様』、『母川回帰本能を持つため、成魚は』十月中旬から十一月下旬に『琵琶湖北部を中心とする生まれた川に遡上し、産卵を行う。餌は、主にイサザ、スジエビ、アユを捕食している』。『産卵の翌春』に『孵化(浮上)した稚魚は』、『サケ類稚魚によく見られる小判型のパーマークと、アマゴに似た赤い小さな朱点がある。約』八センチメートル『に成長すると』、『スモルト化』(Smolt:サケ・マス類に於いてパーマークなどの特有の体色が薄くなるとともに全体に銀色になった個体を指す。「銀毛(ぎんけ)」「シラメ」とも呼ばれる。ヒポキサンチンやグアニンなどの色素量の増加が外観上の変化を起こしたもので、これは同時に海水への適応が完了した稚魚の特徴でもある)し、『体高が減少すると』とも『に体側と腹部が銀白色となる。但し、ビワマスの特徴として』アマゴ(サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の内の陸封型個体群)より四センチメートル『程度小さくスモルト化し』、『パーマークは完全に消失せず』、『朱点も残る個体が多い』。『スモルト化した個体は』五月から七月に『川を下って琵琶湖深場の低水温域へ移動し、コアユやイサザ等の小魚、エビ、水生昆虫等を捕食しながら』二年から五年『かけて成長する。小数の雄はスモルト化せずに川に残留する』。『生育至適水温は』摂氏十五度『以下とされ、中層から深層を回遊する。孵化後』、一年で十二~十七センチメートルとなり、四年経つと四十~五十センチメートルに『成長する。産卵期が近づくと、オス・メスともに婚姻色である赤や緑の雲状紋が発現し、餌を取らなくなる。オスは特に婚姻色が強く現れ、上下の両顎が口の内側へ曲がる「鼻曲がり」を起こす。メスは体色がやや黒ずむ。川への遡上は』九月から十一月で、『産卵が終わると』、『親魚は寿命を終える。なお、琵琶湖にも近縁亜種のアマゴが生息』『しており』、『本種と誤認されている場合もある』。『琵琶湖産稚アユと混獲され』、『各地の河川に放流されていると考えられるが、下降特性が強い事と海水耐性が発達しないことから、放流先での定着は確認されていない』という。『生態は湖沼陸封期間が』十『万年と長かったことから、サツキマス(アマゴ)と比較すると』、『海水耐性が失われ』ており、『スモルト化した個体でも海水耐性は発達せず』、純『海水では死滅』してしまう。『遺伝子解析の結果ではサクラマスよりはサツキマスに近く、サクラマスとサツキマスの分化以降に』、『ビワマスとサツキマス(アマゴ)は分化している。つまりサツキマス(アマゴ)との共通祖先のうち』、『淀川水系を利用していた個体群が陸封され、ビワマスとなった』ものである、とある。

 ところが、問題は益軒がしょっぱなから「本草綱目」の「鱖魚」の「附錄」のそれを持ち出したのが、どうもギクシャクする(感じが私にはする)こととなる。既に「鱖魚」で引いているが、再掲すると、

   *

附錄鰧魚 時珍曰、按「山海經」云、洛水多鰧魚。狀如鱖、居于逵、蒼文赤尾、食之不癰、可以治瘻。郭注云、鰧音滕。逵乃水中穴道交通者。愚按、鰧之形狀居止功用俱與鱖、同亦鱖之類也。日華子謂、鱖爲水豚者、豈此鰧與。

   *

である。何故、ギクシャクすると私が言うか? 「鱖魚」の注で述べた通り、益軒の考える「鱖魚」は条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta であるにしても、「本草綱目」の「鱖魚」というのが、現代中国語では全く別種の、鰭上目スズキ目スズキ亜目 Percichthyidae 科ケツギョ属ケツギョ Siniperca chuatsi を指し、「本草綱目」のそれは、サケではない可能性さえ孕んでしまっているからである。

 さらにややこしやなことに、「鰧」は本邦では海産のゴッツう怖い(が美味い)条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科(或いはオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus を筆頭としたオコゼ類を指すのである。といより、正直、益軒がどうして「鰧魚」に「アメノウヲ」のルビを当てたのかも実はさっぱり判らんのである。

 しかもそれに加えて益軒は、言わんでもええのに、最後に『鯇を「アメノウヲ」と訓ず。未だ是(ぜ)とせず』などと言い添えて、話を宙ぶらりんにして終わってしまっているのである。何故、言わんでもいいと私が言うか? それは、「鯇」が琵琶湖固有種である「アメノウオ」=「ビワマス」であろうはずは百%ないことに加えて、「鯇」が、これまた、現代中国語では、全くの別種で、しかも中国では「四大家魚」(他にコイ科 Oxygastrinae 亜科アオウオ(青魚)属アオウオ Mylopharyngodon piceus・コイ科ハクレン(白鰱)属ハクレン Hypophthalmichthys molitrix・コイ科ハクレン属コクレン(黒鰱)Hypophthalmichthys nobilis)の一種として古くから好んで食べられる著名な、条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Oxygastrinae 亜科ソウギョ(草魚)属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus を指すからなのである。正直、益軒先生には、ごくすっきりと、

   *

雨ノ魚 サケニ似テ味ヨシ琵琶湖ニ多シ鯇ヲアメノウヲト訓スハ未ダ是トセズ

   *

でやめて欲しかったのである。]

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 今泉村

 

○今泉村〔伊麻伊豆美牟良〕 岩瀨村より分れし地なり〔大永二年の文書に、岩瀨鄕の内、今泉村。永祿中の物に岩瀨の内今泉と見ゆ。〕。されば、小坂鄕中なるべけれど、今、傳を失ふ。江戸より行程十二里。大永二年三月、北條左京大夫氏綱、當村に制札を出せり。これ、山ノ内明月院の所領たるを以てなり〔明月院文書曰、「制札。相州岩瀨鄕之内、今泉村竹木之事、從他鄕、剪取之事令停止畢。若於違犯輩者、可處罪科狀。仍如件。大永二年壬午三月七日。明月院傳藏主」。北條氏綱の華押あり。〕。永祿の頃も明月院領たり〔【役帳】曰、「明月院領。三十一貫九百七十文。東郡岩瀨之内、今泉。〕。家數二十。東西二十八町餘、南北十二町餘〔東、上之村。西、大船・岩瀨村二村。南、二階堂・山之内二村。北、公田・桂二村。〕。檢地は寶永七年、飯田彈右衞門・高倉伴左衝門、改む。新田あり。今、松平大和守矩典領す〔慶長中より加藤源太郎成之の采地なりしが、延享四年、御料となり、寶曆十二年、酒井平左衞門に裂賜ひ、御料の地、少しく殘れり。文化八年、子孫作次郎の時、御料を合て、一圓に松平肥後守容衆に賜ひ、文政四年六月、當領主に賜へり。〕。

[やぶちゃん注:現在の神奈川県鎌倉市今泉及び今泉台。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大永二年」一五二二年。室町幕府は第十代将軍足利義稙(翌年死去)であるが、既に戦国時代。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。

「小坂鄕」「小坂」は「おさか」と読む。「鶴岡社務職次第」では鎌倉郡谷七郷の一つに挙げられ、「遠佐可」と読まれている。「小坂郡」とも称され、「山内荘」を中心とした鎌倉郡の大部分の広域を含むまでに広がっていた。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などとする記録が残り、本「相模国風土記稿」では二十八ヶ村が相当されると記される広域地域であった。小坂郷としての中心は山内と推定される(「いざ鎌倉プロジェクト」代表鎌倉智士氏作成のこちらに拠った)。

「北條左京大夫氏綱」(長享元(一四八七)年~天文一〇(一五四一)年)は後北条氏第二代当主。ウィキの「北條氏綱」によれば、『伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる』。但し、『当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは』、『父の死後の』大永三年か大永四年から『である。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を』二『代目と数える』とある。

「山ノ内明月院の所領」明月院へは現在の今泉台の住宅地の奥(南端)から尾根伝いに西南西に下ると、直近である。私は若い頃、二度ほど踏破したことがある。十二所の「お塔が窪」同様、「マムシ注意」の札が建っていた。

「明月院文書」「鎌倉市史」(正編)の「史料編 第三 第四」の「三九七」文書。

「明月院傳藏主」「三九七」文書編者注に『以心僧傳』とあるが、不詳。

「二階堂」現在の今泉台の奥から南に山越えすると、現在の鎌倉市二階堂地区である。

「寶永七年」一七一〇年。徳川家宣の治世。

「松平大和守矩典」川越藩四代藩主松平斉典(なりつね)の初名。既注

「慶長」一五九六年~一六一五年。

「加藤源太郎成之」「関ヶ原の戦い」の際の家康の旗本として、御鉄砲頭に加藤源太郎の名が見える。彼か。

「延享四年」一七四七年。

「御料」幕府直轄領のこと。「今泉町内会」公式サイト内の年表に、加藤氏五『代目成像(なりやす)の代に幕府から咎めを受け改易となり』、『領地没収され』、『幕府直轄の御』料『となり、一部を残して酒井政栄の所領となる』とある。

「寶曆十二年」一七六二年。

「酒井平左衞門」不詳であるが、前注の酒井政栄の後裔であろう。

「裂賜ひ」「さきたまひ」。分割封地し。

「文化八年」一八一一年。

「合て」「あはせて」。

「松平肥後守容衆」(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)は陸奥会津藩第七代藩主で会津松平家第七代。満十八になる前に夭折している(既注であるが、再掲した)。

「文政四年」一八二一年。]

○高札場

○小名 △小泉谷戸 △福泉 △中村 △のろけ谷戸

[やぶちゃん注:位置不明であるが、「のろけ谷戸」という名は気になる。]

○山 東南北の三方を包めり。東方の山上に秣場あり〔岩瀨・大船等の村々と入會の持なり。〕。山中を穿て、まゝ古瓦を得るといへり。村南山上に小塚あり。「鷹塚」と呼り。塚上に松樹あり〔圍一丈許。賴朝の鷹を埋し所と傳ふ。〕。

[やぶちゃん注:「秣場」「まぐさば」。馬草。農家にとって農耕馬牛の飼料の重要な供給地だから、「入會」地(いりあひち(いりあいち))、入会権(一定地域の住民が一定の山林原野(入会地)を共同で薪炭用・肥料用の雑木・雑草の採集等のために利用する慣習上の権利。用益物権の一つ)が行使されたのである。

「穿て」「うがちて」。掘ると。

「鷹塚」「かまくらこども風土記」によれば(以下の引用は第十三版)、現在の今泉白山神社(後に出る「白山社」。ここ(グーグル・マップ・データ))の『真南の山中に頼朝の鷹を埋めたという「鷹塚(たかづか)」といわれる小塚があります』(現在形で書かれている)。『大きな松が生えていたそうですが、今は、塚だけが残っています』とある。なかなか丹念に調べ歩いておられる武衛氏のサイト「鎌倉遺構探索」のこちらで、それらしい箇所が示されてある。必見。但し、サイト主が『鷹のお墓にしては大き過ぎるような気も』するとされており、以下の周囲「一丈」とあるのに比すと、その画像の塚は大き過ぎるようには見える。

「圍」「めぐり」と訓じておく。]

○林 字新山にあり〔一町三段三畝十步。〕。領主の雜木林なり。此餘、村民の持とする。雜木林あり〔二十二町一段二畝。〕、元文二年、金子覺右衞門、檢地す。是は御料に屬し、永錢を貢ず。

[やぶちゃん注:「元文二年」一七三七年。

「永錢を貢ず」年貢を納めたことを言う。]

○川 村内不動堂瀑布の下流なり〔幅三間許。〕。岩瀨村に沃て、砂押川と云。

[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチメートル。

「沃て」「そそぎて」。]

○神明宮 村持。下同。

〇八幡宮

〇一牛王社

○山神社

○荒神社

○子神社

[やぶちゃん注:以上の祠は廃絶したか、白山神社辺りに纏められている可能性が高い。]

○毘沙門堂 村の鎭守とす。建久元年、賴朝の建立と云ふ〔緣起に據に、賴朝上洛のついて、鞍馬寺に詣で、行基作の毘沙門に體あるを瞻禮し、其一體を請得て、鎌倉に歸り、此地に安ぜしなりと云へり。〕。本尊は行基、楠樹を以て作ると傳ふ〔長六尺許。臺座に「享祿五年九月廿八日 奉行□左衞門 名主長島彦右衞門」の銘ありしと云。是は當堂再建の時、再修の施主にて、彦右衞門が子孫、代々、村内の里正を勤め、今、「多時」と稱す。〕。祕して猥に拜する事を許さず、別に前立を置く〔長四尺六寸五分。〕。脇立には辨天〔長二尺九寸五分。〕・大黑〔長二尺六寸五分。各運慶作。〕を安ぜり。享祿五年九月再建棟札の寫を藏す〔其文に、「禪興寺莊園、相州山之内庄今泉村、毘沙門天王、自古造立、犬吉祥天音女、脇付幷修造再興。領主大勸進本願比丘 前禪興指月僧祗四十四歳 今泉寺□□華押 佛匠大藏長□□天堂棟上 享祿五壬辰九月廿七日」とあり。按ずるに、文中、當村を禪興寺庄園と記せしは、全明月院の本坊なるをもて、かく記せしにて、當村は元より、かの院領なること、論なし。當時明月院は、禪興寺塔頭なり。〕。

[やぶちゃん注:現在の白山神社。現在、参道入り口に「禪宗今泉寺」(「こんせんじ」と読む)の石碑が残り、参道左手には、建長寺の塔頭として今泉寺(こんせんじ)が建つが、これは昭和五二(一九八二)年に建立された新しい寺であって、この石柱の寺とは全く別物である。毘沙門天は現在、白山神社に祀られているが、この元の今泉寺は、これが本来祀られていた毘沙門堂(現存しないが、実際には現在では鎌倉時代以前から存在したと考えられている)の別当寺であったこと以外は、開山や沿革は不詳である。

「建久元年」一一九〇年。「かまくらこども風土記」は建久二年とする。

「毘沙門に體あるを瞻禮し」よく意味が判らぬが、この「體」は「てい」で、「それらしい立派な様子が感じられるもの」の意か。「瞻禮」は「せんれい」で、仰ぎ見て拝礼すること。

「享祿五年」一五三二年。「かまくらこども風土記」によれば、この銘は現在は見えず、修理した年号として宝永四(一七〇七)年のみが見えるとある。

「里正」庄屋。

「禪興寺」山ノ内の浄智寺の向かいの明月谷にあった禅寺であるが、現在は存在しない。本文でも述べている通り、現在ある明月院は同寺の塔頭の一つであった。元は北条時頼がここに建立した最明寺が廃寺となったのを、息子の時宗が再興したものが禅興寺であったが、明治の初めに廃寺となった。

「犬吉祥天音女」別本でも「犬」であるが、不審。「大」の誤字ではあるまいか?

「全明月院」「前」の誤りか、副詞で「まつたく」と訓じているか。]

△辨天社

△白山社

[やぶちゃん注:前に注した通り、現在の今泉白山神社。]

△別當今泉寺 壽福山と號す。臨濟宗〔鎌倉建長寺塔頭廣德院末。〕。享祿の棟札寫にも寺號見えたり。出山釋迦〔長九寸五分。行基作。〕を本尊とす。

[やぶちゃん注:寺に就いては既注。「出山釋迦」「出山(しゆつさん)の釋迦」像。二十九歳で出家した釈迦は、山に籠もって六年の難行苦行を終えるが、真実(まこと)の悟りを得ることが出来ない。その彼が更に真の悟りを求めんがために、雪山を出る、という釈迦悟達の直前の場面を言う。多くは水墨画禅画の画題として描かれるが、立像もある。一般には、ここでの釈迦は痩せこけたざんばら髪・伸びた爪・浮き出た肋骨といった姿で造型されることが多い。釈迦の真の悟りは、その直後、ガンジス川の畔ブッダガヤの菩提樹下で達成されるのであった。

 以下は前の底本は改行せずに「△別當今泉寺」の後にベタで続いているが、改行し、ここに底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像にある不動堂の境内図をトリミング補正して示す。]

 

Imaizumihudou

 

[やぶちゃん注:図中キャプションは、右上から左上、左上から左下の順で電子化した。]

     
不動堂境内圖

男瀧

女瀧

前不動

不動堂

鐘樓

地藏堂

常念佛堂

別當稱名寺

 

○不動堂 今泉山と號す。弘仁元年、空海が創建の靈場と云ふ。石階三町許を攀緣して堂前に至る。本尊不動〔長二尺八寸。弘法作。前立及二童子あり。〕を安じ、大黑〔同作。長一尺二寸。像背に「承和元年」と彫る。〕を置。幷に石像なり。鎌倉繁榮の頃は代々の將軍、屢、參詣ありしとなり。後進の星霜を歷て、堂宇廢壞し、不動・大黑の二像も僅に窟中に安ぜしを、貞亭元年六月、直譽蓮入と云へる僧、宿願に依り、江島辨天に參寵し、靈夢を蒙り、此地の靈場を搜り得、村長永島氏と謀り、遂に再建の事を企て、三年にして堂宇落成せしとなり。 △鐘樓 元祿十五年鑄造の鐘をかく。 △常念佛堂 三尊彌陀を置く〔中尊、長二尺七寸五分。左右各長二尺六寸五分。幷に定朝作。〕。又、二十五菩薩あり〔各一尺六寸五分。同作。〕。 △地藏堂 △辨天社 今、廢社となり、脇士大黑・毘沙門及十五童子を合て、假に地藏堂中に置く。 △瀧 堂の南方にあり。二瀧、相對す。男瀧・女瀧と呼べり。 △岩屋 窟中に不動の石像を安ず。「前不動」と唱ふ。 △別當稱名寺 今泉山一心院と號す。淨土宗〔芝增上寺末。〕。古は密宗にて弘法大師の草創なり。中古、八宗兼學となり、圓宗寺と號せり〔按ずるに、上之村白山社神主の家系に、中納言法印の弟子寂心法師、寬文三年、當寺を開きしこと、見ゆ。盖、圓宗寺を開建せしなるべし。【鎌倉志】にも圓宗寺の事、見えたり。〕。後、本堂、廢壞し、此寺も無住となりしを、貞享元年六月僧蓮入〔單蓮社直譽と號す。寶永二年九月十二日寂。〕本堂を再建してこゝに住し、元祿六年、增上寺貞譽の時、彼末寺となり、今の山寺號を受くと云ふ。貞譽・祐天兩大僧正の名號二幅を什物とす。 ○榮泉寺 今圓山萬德院と號す。淨土宗〔岩瀨大長寺末。〕。開山存龍〔信蓮社貞譽と號す。天文十一年六月廿三日寂す。〕。本尊彌陀〔長二尺二寸五分。惠心作と云。〕 ○東光庵 淸光山と號す〔本寺、前に同じ。〕。本尊藥師〔長二尺二寸五分。行基作。〕を安ず。文明中、矢神右馬允某〔上杉氏の臣と云ふ。〕、開基す。後年、兵火に躍りしを、貞享三年九月、法譽是心〔作蓮社と號す。〕と云僧、再興して今の庵號を負すと云〔古鬼簿に、淸光山專修寺と記す。是、昔の寺號なるべし。〕。 ○地藏像 村東山中の徑側、岩腹に鐫れり。是は空海の彫せしなりと云。後年、首の缺崩れしより、俗に「首切地藏」と呼べり。

[やぶちゃん注:これは、本文内にも出る、現在の同地区にある浄土宗今泉山一心院称名寺(通称は今泉不動。(グーグル・マップ・データ))である。元は円宗寺という八宗兼学の寺で、空海が開いたと伝える不動堂の別当を兼ねていた。後年、廃絶したが、貞享元(一六八四)年に直誉蓮入が本堂を再興し、元禄六(一六九三)年、増上寺末寺となり、山号寺号を改めて浄土宗寺院となった。第二次世界大戦前は滝修行で賑わったらしい。私も十九の頃、この水で顔を洗ったが、洗った傍から、散歩していた土地の老人がにこにこしながら、「いい瀧でしょ。夏場には子供が水浴びしたりしてるんですがね。実はこれは背後の住宅地から流れ出てるんですよ。でも彼らには可哀想だから言わないことにしています。」と忠告して呉れた。チョー! 遅過ぎ!

「弘仁元年」八一〇年。サイト「鎌倉ん」高山記載称名寺の縁起では、弘仁九(八一八)年頃、『弘法大師が金剛峰寺を開いてから』二年後とする。それによれば、『弘法大師が諸国巡行のおり鎌倉に至った際、紫雲に包まれ光明のさす山に出会い』、『人伝えに神仙の棲む金仙山と云うことを知った』。『大師がこの山に踏み入ると』、『忽然として翁・媼が現れ、「我等は此の山に数千年住み 大師の来るのを待っていた。此の山は二つとない霊地である。速やかに不動明王の像を刻み、密教道場の壇を築き』、『末世の衆生を救いなさい」と告げた』。『大師は、即刻二尺八寸の尊像を石で刻み本尊と定め、又同時に一尺二寸の大黒天を彫り』、『伽藍の守護神として祭った』。『時に彼の翁・媼は「此の地は水が乏しい。村里も困っているから豊かな水を進ぜよう」と傍の岩を穿ち』、『陰陽の滝をながし』、『村里に恩恵を与え、以後』、『金仙山を改め』、『今泉山と称することとなった。この翁は不動明王の化身で、また媼は弁財天の生まれ代わりと伝えられる』と縁起を記し、『称名寺は、初め』、『不動堂の別当で円宗寺と称し』、建久三(一一九二)年、『頼朝が征夷大将軍に就任の年』、『「上野村白山社家系中納言法師の弟子寂心法師」が寺を開き、密教に属し』、『頼朝も深く信仰していた』。『その後、北条九代に至った貞享二年』(一六八四年)『の夏、武州深川の僧・直誉蓮入師が江ノ島弁財天のお告げで、この山に七日独座念仏したところ』、『不思議にも、大黒天の背負い袋から毎朝』、二~三合の『米が漏れ出して』、『飢えの患いがなくなり、是から近郷の男女が帰衣し』、『お互いに協力、まもなく不動堂・阿陀堂の建立がなされた』。『時に元禄六年』(一六九三年)『芝の増上寺・貞誉大僧正より、「今泉山一心院称名寺」の山号寺号請け、当時』より『修験者道場として著名』となるとともに、『現在の浄土宗寺院としてその基礎を確立した』とある。本文とは時制に若干の違いがあるが、誤差範囲内ではある。

「攀緣」(階段を)頼りにしてよじ登ること。

「幷に」どちらも。

「元祿十五年」一七〇二年。

「寂心法師」不詳。

「寬文三年」一六六三年。

「盖」「けだし」。

「【鎌倉志】にも圓宗寺の事、見えたり」新編鎌倉志卷之三の「○不動堂〔附男瀧 女瀧〕」に、

   *

不動堂は今泉村の内にあり。今泉山と額あり。不動の石像、弘法の作と云ふ。堂の向ふに瀧あり。高さ一丈計あり。南北に相ひ向て落つ。南を男瀧(をだき)と云、北を女瀧(めだき)と云ふ。寺號は圓宗寺と云ふ。今八宗兼學也。

   *

「榮泉寺」廃寺。位置不詳。

「東光庵」「淸光山專修寺」廃寺。位置不詳。

「古鬼簿」古い過去帳。言わずもがなであるが、寺院で檀家・信徒の死者の俗名・法名・死亡年月日などを記しておく帳簿のこと。点鬼簿。

「鐫れり」「ほれり」。

「首切地藏」不詳。現存しないと思われる。江戸時代、博徒間で地蔵の首を懐に忍ばせておくと勝負に勝つというジンクスがあった。少なくとも、今泉から一山越えた直近の「百八やぐら」の地蔵群の首がないのは、皆、その難に遇ったものである。これは崖に彫られたもののようだが、小さなものなら、そうした結果と考えることも可能である。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶡雞(かつけい) (ミミキジ)

Katukei

かつけい

鶡雞【音曷】

 

アツキイ

 

本綱鶡雞狀類雉而大黃黑色首有毛肉如冠性愛其黨

有被侵者直徃趣鬪雖死猶不置故武人以爲冠象此也

性復粗暴毎有所攫應手摧碎【凡物黃黑色者曰褐】此鳥褐色故名

鶡 一種青黑色者名曰性耿介也

 

 

かつけい

鶡雞【音、「曷」。】

 

アツキイ

 

「本綱」、鶡雞、狀、雉に類して大に〔して〕、黃黑色。首に毛〔の〕肉有りて、冠のごとく、性、其の黨〔(たう)〕を愛す。侵さるゝ者有れば、直〔(ただち)〕に徃〔(ゆ)〕き趣きて鬪ふ。死すと雖も、猶を[やぶちゃん注:ママ。]置かず。故に、武人、以つて冠〔(くわん)〕と爲(す)ること、此れを象〔(かたど)〕るなり。性、復〔(ま)〕た、粗暴なり。毎〔(つね)〕に攫(つか)む所有れば、手に應じて、摧-碎(くだ)くる【凡そ、物、黃黑色の者、「褐」と曰ふ。】。此の鳥、褐(きぐろ)色なる故、「鶡」と名づく。

一種、青黑色の者、名づけて「〔(かい)〕」と曰ふ。性、耿介〔(こうかい)〕なり。

[やぶちゃん注:キジ目キジ科ミミキジ(耳雉)属ミミキジ Crossoptilon mantchuricum中国の河北省及び陝西省の高地性の固有種同種中文ウィキを見ると、北京周辺の山地も生息域とする。北京は河北省の内にあるが、直轄市で省と同格)。全長九十六センチメートル~一メートル。翼長はで二十七~三十一・二センチメートル、で二十六・五~二十九センチメートル。体重はで一・六~二・五キログラム、で一・五~二キログラム。尾羽の枚数は二十二枚。頬から後方へ羽毛が伸長し、全身は褐色の羽毛で被われている。頭頂・頸部は黒や濃褐色、腹部は淡褐色の羽毛で被われている。腰・尾羽基部の上面(上尾筒)は白い羽毛で被われ、尾羽の色は白く、先端は紫みを帯びた褐色を呈する。顔には羽毛がなく、赤い皮膚が露出し、嘴の色は赤みを帯びた黄色。後肢は赤い。標高千三百~三千五百メートルにある森林・岩場・草原などに棲息し、雑食で植物の根・果実・種子・昆虫・ミミズなどを捕食する(以上は主にウィキの「ミミキジに拠った)。なお、サイトの「鶡雞も非常に参考になる。必見。良安は附言をしていないので、短い「本草綱目」の記載(但し、上記は総てではなく、抜粋の、順列の組み替えが行われてある)の形態・生態及び色彩の叙述から、本邦には産しない鳥と判断したのであろう。

「其の黨〔(たう)〕」同種の仲間たち。

「侵さるゝ者」他の鳥獣(前で「其の黨を愛す」(広義の同種総ての意で採る)と言っている以上、そう理解する)で、彼らの一部の縄張りを犯して侵入或いは攻撃してくるもの。

「徃き趣きて」「往き赴きて」に同じい。

「死すと雖も、猶を置かず」相手が退かぬ限りは、死に至るまで闘いを止めない。

「武人、以つて冠〔(くわん)〕と爲(す)ること、此れを象〔(かたど)〕るなり」東洋文庫版現代語訳では、『それで武人はこの鳥の羽毛を冠の飾りとして勇猛の象徴としているのである』とある。

「攫(つか)む所有れば、手に應じて、摧-碎(くだ)くる」後肢に触れて摑(つか)むことの出来る対象物が存在すれば、必ず、それを即座に強く摑み獲ると、完膚なきまでに粉砕してしまう。

〔(かい)〕」不詳。ミミキジの近縁種か。「説文」には「出羌中」とあるから、中国西北部の羌(きょう)族(西羌。現在のチャン族)の住んでいる地域に棲息しているらしいから、やはり高地性である。

「耿介〔(こうかい)〕」堅く志や節を守ること。別に「徳が光り輝いて偉大なさま」の意もあるが、ここは前者。]

2018/08/23

反古のうらがき 卷之一 狐狸字を知る

 
  ○狐狸字を知る

[やぶちゃん注:これも読み易さを狙って、改行を施した。]

 植木玉厓が親戚に、妖怪、出(いづ)る。大害なし。唯、障子其外の處へ文字を書く。文理(ぶんり)も大體通るよし。たわひも無き事斗(ばか)り書く。其内に、折々、滑稽ありて、人の心をよくしる。其主人の母、戲場を好み、其頃の立役(たちやく)八百藏(やおざう)、贔屓(ひいき)にて、常々、稱譽(しやうよ)せしに、其節、狂言餘り入(いり)もなくはづれなりしが、妖怪、大書して、

「八百藏大はたき」

といふ。又、常に一家親類の人を評することあり。

「誰(たれ)、こわくなし[やぶちゃん注:ママ。次も同じ。]」

「誰、少しこわし」

など著(しる)す。大體、

「こわくなし」

といふ方、多し。

 或時、人、來りて、

「野瀨の黑札、よく狐狸を退(しりぞく)る。」

とかたりければ、直(ただち)に障子に大書して、

「黑札 こわくなし」

と著す。これ等は大害なき事ながら、不思議なる狐狸なり。

 玉厓、予に語りしは、

「狐狸の書、至(いたつ)て正直なる、よくよめる山本流などの如し。よくもなき手也。ひらがなの内に、少しづゝ近き文字交(まざ)りて、平人(へいじん)の書く通りなり。」

とぞ。

[やぶちゃん注:以下、底本では本条最後まで全体が二字下げ。途中の「天狗の文」はさらに一字下げなので、ブラウザの不具合を考え、改行を施した上、前後を一行空けた。]

 

 これにて見れば、狐狸、人に化して、山寺にて學問修業せしなどいふ事、よく言傳(いひつた)ふる事なるが、文學などは學びなくて覺ゆることはなるまじければ、人に化して學びたるも、必(かならず)、虛談とせず。

 

 文政の季年、赤坂の酒店にて大だらひを失(しつ)す。數日の後、自然(おのづ)と元のところに歸りてあり、書一通を添たり。文(ふみ)、云(いはく)、

 鞍馬山、大餅、舂(つく)に付(つき)、
 借用候處、最早、御用濟に付、返却す
 る 者也。一度、御用相立(あひたち)
 候品(しな)、以來、大切にいたすべし。
 家内繁昌、疑なきもの也。
 仍如ㇾ件(よつてくだんのごとし)。

  月日           鞍馬山執事

其書、美濃紙一枚程に大書す。

「書法絕妙、米元章(べいげんしやう)の風(ふう)也。「諸藝高慢なる物、天狗になるといゝ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]傳ふるによれば、これは書家天狗の書たるなるべし。」

といゝて、笑ひたりしが、

「かの狐狸に比すれば、書、大(おほい)によし。狐狸と天狗との別、これにて、上下、判然たり。」

といゝし。

 然れども、此事、信ずるに足らず。事は實(じつ)なるべけれども、彼(かの)書を作りたる物は、近きわたりのいたづら者、遺恨にてもありしや、大だらい[やぶちゃん注:ママ。]をかくし置(おき)、其後、程經て歸すに、手持なく、又、手風(てぶり)の人の見しりあらんをおそれ、出家などに賴みて書(かき)てもらひたる者なるべし。

[やぶちゃん注:「植木玉厓」(うえきぎょくがい 天明元(一七八一)年~天保一〇(一八三九)年)は幕臣で儒者にして詩人・狂詩作家。本姓は福原。名は飛・巽・晃。字(あざな)は子健・居晦。通称、八三郎。別号に桂里など、狂号は半可山人。大番与力植木彦右衛門の養子となった。昌平黌に学んだ。狂詩集「半可山人詩鈔」に収めた「忠臣蔵狂詩集」で知られる。

「文理(ぶんり)」書いた文章の内容。文脈。

「戲場を好み」芝居小屋見物が好きで。ここは歌舞伎狂言。

「立役八百藏」八百蔵を名乗った歌舞伎役者はかなりいるが、時制上と、立役で知られたことから見て、四代目市川八百蔵(安永元(一七七二)年~弘化元(一八四四)年)が最も可能性が高いように私には思われた。舞踊藤間流の家元初代藤間勘十郎の弟で、天明四(一七八二)年に四代目岩井半四郎の門下に入り、「岩井かるも」を名乗った。天明七(一七八七)年十一月、「岩井喜世太郎」と改名し、若女形として舞台を勤めた。文化元(一八〇四)年十一月、三代目八百蔵が二代目助高屋高助を襲名した際、四代目「市川八百蔵」を襲名して、立役に転じた。その後、上方で舞台を勤め、文化十年に江戸に戻った。文政元(一八一九)年に二代目助高屋高助が没したのを機に「市川伊達十郎」と名乗り、旅回りに出たが、文政一〇(一八二七)年に江戸に戻ると、再び「市川八百蔵」を名乗っている。天保五(一八三四)年以降に舞台を引退した。容姿に優れ、華のある役者で実事・和事・所作事を得意とした(以上はウィキの「市川八百蔵(4代目)」に拠った)。

「稱譽」称讃。称揚。

「はたき」評判が悪いこと・不評の意の語。

「野瀨の黑札」「野勢の黑札」の誤り。「日本国語大辞典」に『江戸、神田和泉町の旗本野勢熊太郎の邸内に勧請した稲荷社で、初午』『に出した御札。狐憑』『を治すのに効果があったという』とある。

「よくよめる山本流などの如し。よくもなき手也」「山本流」は不詳だが、「よくよめる」(誰が見ても判読は出来る読み易い)書法であったか。而してその狐の文字は、凡そ達筆ではなく、繊細でも綺麗でもないが、やはり書いてある字は判読出来る字だったのであろう。

「ひらがなの内に、少しづゝ近き文字交(まざ)りて、平人(へいじん)の書く通りなり」この言いからみて、この狐、漢字はあまり書けなかったのではないか? しかも「ひらがな」も崩し方(というより書き方)がおかしいものが混じっていたのである。これは漢字を殆んど知らない、書けない、しかも「ひらがな」も正規にちゃんと習い上げたものではなく、自己流で見様見真似で書いたものであることを明確に示している。さすれば、正体見たり! まず、その植木玉厓の親戚の家には、若い女中がいるはずである。そうして、その彼女がこの怪奇現象の真犯人である可能性が極めて高いと言えるのである。江戸時代には既に、人気が全くないのに、突如、屋根や室内に石が投げられたり、ないはずの物がひとりでに移動したり、隣室で巨大な物が落ちる音がしたりするといった、ポルターガイスト現象(ドイツ語:Poltergeist:騒ぐ霊)は、が多数記録されており、これらは「天狗の飛礫(つぶて)」などと呼ばれたりした。また、明治にかけても同様の現象が起こり、調べてみると、その家には若い女中(時には特定の地域から雇った)が必ずいるのである。これはまた「池袋の女」という話柄でよく知られるが、他に「池尻の女」「沼袋の女」「目黒の女」という土地の鎮守の神霊絡みの実話怪談として広まっていたのである。例を挙げるなら、私の「耳囊 卷之二 池尻村の女召使ふ間敷(まじき)事」や、「北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)」がよかろう。而して後者の注でも述べた通り、私はこれらは、基本的に、霊感を持っているということで他者とは違うという特別な存在という意識を持つことを志向する思春期の少女らによる似非怪奇現象と捉えており、近代以降の無意識的或いは意識的詐欺師としての霊媒師の存在と全く同じものであると考えている。因みに、ここまで黙っていたが、実は後の「尾崎狐 第二」では、まさに同様のポルターガイスト現象が扱われ、そこにまさしく『池袋の奉公人』が登場するのである。

「文學などは學びなくて覺ゆることはなるまじければ」その通りであるが、ちょっと違和感がある。ここで「文學」を出す必然性は、ない。全体を見渡す時、ここは実は「文字」の誤記なのではあるまいか? と疑うのである。但し、国立国会図書館蔵版も『文學』ではある。

「虛談とせず」「完全な空事として退けることはしない」の意。ここまで読んでくると、鈴木桃野は本作で怪奇談を蒐集してはいるものの、怪談に対しては、実はかなり懐疑的で現実主義的傾向を持っていることが判る。だから、ここも狐狸が人に化けて学問を修めるということが、時には在り得る、などと玉虫色に言っているのでは全くなく、怪奇談集の体裁上、全否定を敢えて抑えて表現しているのであろうぐらいに捉えておく必要があると私は思う。

「文政の季年」文政の末年。文政十三(一八三一)年。この挿入と以下の評によって、植木の話がこれより前であることが判る。

「大だらひ」「大盥」。

「米元章」北宋末の文学者で、特に書画の専門家として知られた米芾(べいふつ 一〇五一年~一一〇七年)元章は字(あざな)。湖北襄陽の人。後に潤州(現在の江蘇鎮江)に住んだ。参照したウィキの「米芾によれば、『書においては蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称されるが、米芾は』四『人の中で最も書技に精通しているとの評がある』とある達人である。なお、この評言を言っているのは鈴木桃野であり、この二字下げの全文全体は、「天曉翁」浅野長祚の添書きの評言ということになるので注意されたい。

「手持なく」読みは「てもちなく」であろうが、意味不明。推理したように「遺恨」なら奪ったことへの謝罪の金子の「手持ち」というのは如何にもヘン。「遣(や)り様」で、「犯人が自分であることがばれないように上手く酒店へ大盥を返す手段」の意か。

「手風(てぶり)」手跡。]

反古のうらがき 卷之一 富士山

 

   ○富士山

[やぶちゃん注:長いので、適宜、改行を行い、そこに注を挟んだ。]

 榎町同心内藤濱次郞、國學に通じ、尾州にて大内裏のひな形を作るに、やとわれて、古實を專(もつぱら)とせし人なり。

[やぶちゃん注:「榎町同心」前の条々に徴せば、やはり御先手組同心である。

「内藤濱次郞」国学者で御先手同心内藤広前(寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)。名は広庭、後に広前に改めた。通称、浜次郎。号は賢木園。国史・律令に通じ、江戸の和学講談所出役となった。歴史や古典和歌の編著を多くものしたが、文化年間(一八〇四年~一八一八年)に尾張藩主の命を受けて校訂した「大内裏図考証」は、最もよく知られている。これは前に公家裏松光世が蟄居中に著した考証を補正したものである。また、紀州新宮城主水野忠央の下で編纂された「丹鶴叢書」では、黒川真頼ら幕末期の江戸を代表する国学者とともに寄与した(以上は個人的に敬愛するロバート・キャンベル氏の「朝日日本歴史人物事典」の解説に拠った)。]

 駿州神職の子のよしにて、富士登山、幾度といふをしらず、委敷(くはしく)硏究せしに、孝靈五年出顯(しゆつけん)といふ説、古記に見へず、是れ程の山出顯なれば、數十里内、大變なるべきに、其説一言も見へざれば、幾千年以前出顯といふことしるべからず。孝靈五年の頃、見出したるなるべし。

[やぶちゃん注:「光靈五年」底本では「孝靈」となっているが、誤り。国立国会図書館蔵版で補正した。第七代天皇とされる存在の怪しい孝霊天皇(在位は孝霊天皇元年から孝霊天皇七十六年とする)の治世となり、機械的西暦換算では治世は紀元前二九〇年から二一五年となり、「孝靈五年」はそれに従うなら、紀元前二八六年となる。中国では秦朝末期に当たり、本邦は古墳時代初期に相当する。さて、古富士山は地質学上では八万年前頃から一万五千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高三千メートル弱まで成長したウィキの「富士山」にあり、また、富士山についての最も古い記録は「常陸国風土記」(養老五(七二一)年成立)の中の「福慈岳」という語であるとされるとある。さらに、山頂部からの最後の爆発的な本格的噴火は二千三百年前を最後とし、これ以降は山頂部からの噴火は発生していないとあり、以下、延暦十九年から二十一年(八〇〇年~八〇二年)に「延暦噴火」が、貞観六(八六四)年に青木が原溶岩を噴出した「貞観大噴火」が発生しており、現在のところ、最後の富士山噴火は宝永四(一七〇七)年の「宝永大噴火」で、『噴煙は成層圏まで到達し、江戸では』約四センチメートルの『火山灰が降り積もっ』ているとある。因みに、本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。]

 固より燒山(やけやま)にて絶頂は十三町の穴なり。其端、今に鐡をとかしかけたる如く、其𢌞りに三つの峯ありて各(おのおの)名あり。行者、白衣を着て穴の向ふを行(ゆく)を見るに、音羽九丁目橋より觀音前の人を見るより遠く覺へ、唯、白衣の人と斗(ばか)り見ゆるなり。定(さだめ)て十三町斗りなるべし。其穴、見下ろすこと、甚(はなはだ)危し。地(はらばひ)に據(よつ)て見る。常に霧立込(たちこめ)て、深さ量り難く、四時、雪あり。六月の頃、雪の消(きゆ)る事ありても、斑(まだら)に消るなり。風の起る聲とて、やゝもすれば、穴の内、「ごうごう」と鳴響(なりひび)きて、すさまじ。

[やぶちゃん注:「燒山」活火山。

「音羽九丁目橋より觀音前の人を見る」現在の文京区音羽の南端にある神田川に架かる江戸川橋か? 「觀音前」はよく判らぬが、ここから見えたであろう観音を祀った寺となると、徳川将軍家菩提寺として知られた文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗無量山傳通院寿経寺(むりょうざんでんづういんじゅきょうじ)か? 本尊は阿弥陀如来であるが、無量聖観世音菩薩も祀り、江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所でもある。ここだと、江戸川橋から直線で千四百メートルほどであり、以下の数値と合致する。

「十三町」千四百十八メートル。現在の頂上火口は国土地理院のデータによれば、最深部の標高が三千五百三十八・七メートル、火口の深さが約二百三十七メートル、火口底直径が百三十メートル、山頂火口直径が七百八十メートルとする。六百三十八メートルも長いが、これは辺縁部の安全な位置の距離を含めたものとすれば、腑に落ちる。]

 或年の夏、登山せしに、此日、晴天にて、穴の内、甚、明らかなり。かゝる事は幾年の内にも稀なること也。地(はらばひ)に據りて臨むに、風の起る聲は瀧の聲に似たり。よく見るに、川、二つ有り。大河なり。瀧と覺しき者は見へねども、川あるを見れば、瀧もあるべし。果して、水音なり。水の色は靑く、其わたりは、雪の斑消(むらぎえ)ありて、分明に見ゆる。其時、深さを量るに、穴の口十三町より少し遠く見ゆる樣(さま)、思ふに、廿町足らずもあらんか。此日、霧なしといへども、四方の壁、陰映(いんえい)【まりましうつりあひ】して薄暗(うすらぐ)らく、たとへ十三町斗りなるも、かけ離れたる處の如くならず。絶頂の茶屋に出(いづ)る老翁を呼びていふよう、

「穴の内に川有(あり)といふこと、此迄、人の見ることなし。今日、初(はじめ)て見ること如何(いかん)。」

といへば、老翁も、

「僕(やつがれ)、數十年、此處にあれども、如ㇾ此(かくのごとく)なる穴の内、明らかなることは見たることなし。いか樣(さま)、水有るよふに[やぶちゃん注:ママ。]みゆるは初てなり。」

といゝし[やぶちゃん注:ママ。]。此穴口は十三町なれども、底にては幾里にひろがりてあるやらん。これ、燒出(やけいだ)しの口なり。かゝる形の山は、みな、燒出し山なり。近頃、八丈島に、山燒、出(いだ)したり。形、覆盆(ふぼん)【すりばちをふせたる】のごとし、其理(ことわり)、蟻封(ありのとう)を見てしるべき也。富士の煙り常に立上るといふ古歌によれば、近古【ちかきころ】迄、淺間などの如く、矢張、火氣、有(あり)けると見ゆ。此考へは古人も言へること也。

[やぶちゃん注:「其わたり」その辺り。

「廿町」約二千百八十二メートル。

「陰映(いんえい)【まりましうつりあひ】して」ここで桃野は変わった割注の使用をしており、前の漢語をまず音読みし、それに割注で和訓を附している。ただ、この「まりまし」という語の意味が判らぬ。識者の御教授を乞う。

「僕(やつがれ)」謙譲の一人称人代名詞。「奴吾(やつこあれ)」の音変化とも言う。古くは「やつかれ」と清音。上代・中古では男女を通じて用いたが、近世以降は男性がやや改まった場で用いるに限られた。

「いか樣(さま)」感動詞。相手の言葉に同意を表わす語。「なるほど・いかにも」。

「よふに」「樣(やう)に」。

「近頃、八丈島に、山燒、出(いだ)したり」三原山の近世の大噴火は天和四(一六八四)年から元禄三(一六九〇)年にかけての噴火と、安永六(一七七七)年の噴火が大きなものであるが、それ以降も散発的に噴火しているし、本「反古のうらがき」の成立が嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であることを考えると、安永六年以降の中規模噴火を指しているように思われる。

「蟻封(ありのとう)」蟻塚。ここは大きな蟻の巣の成層火山状に摘み上がった頂きにある、入口を富士の火口を想像して貰うために比喩したものである。

「富士の煙り常に立上るといふ古歌」「万葉集」には富士山自体は十一首で詠まれているが、確かに煙を詠み込んでいるものは、以下の類似性を持った二首であろう(二六九五番及び二六九七番)。

吾妹子(わぎもこ)に逢ふ緣(よし)を無(な)み駿河なる不盡(ふじ)の高嶺(たかね)の燃えつつかあらむ

妹が名も我が名も立たば惜しみこそ布士(ふじ)の高嶺の燃えつつ渡れ

また、和歌ではないが、「竹取物語」のエンディング、

   *

 かの奉る不死の藥に、又、壺、具して、御使ひに賜はす。勅使には、「調石笠(つきのいはかさ)」といふ人を召して、駿河の國にあなる山の頂きに持(も)てつく[やぶちゃん注:そのように仕儀する。或いは、持って行って置く。]べき由、仰せ給ふ。嶺(みね)にてすべきやう、教へさせ給ふ。御文(おほんふみ)、不死の藥の壺、並べて、火をつけて燃やすべき由、仰せ給ふ。

 その由、承りて、兵(つはもの)ども、あまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。その煙(けぶり)、いまだ、雲の中へ立ち昇るとぞ、言ひ傳へたる。

   *

を私は直ちに思い出す。私は「竹取物語」は、まっこと、全篇が好きだ。中古の古文教材の授業案(ダイジェスト・プリントを作って全編を取り敢えず通した)では、あれだけが私の完全オリジナルなものだったと言ってよい。]

 扨、橫穴、いくつともなくあり。新田四郞、穴に入(いり)、大河におふて歸る。

「此處、別世界ありて天日の光りを見る。」

と、いひ傳ふ。是、正しく此水の所迄、行(ゆき)たるならん。燒拔けの穴なれば、穴每(ごと)に、これに達したるは其(それ)理(ことわり)なり。上の口、十三町もある穴の底なれば、別世界ともいふえべし。天日の光りも、黑暗(くらやみ)の橫穴より、此所に到れば、殊に分明に見へし事、疑(うたがふ)べくもなし。穴の底、幾里に廣がり、此水、いづくよりいづくへ流るゝといふこと、しるべからずといへども、山上の湖水、數里のもの、いくつともなく有るを見れば、又、恠(あや)しむに足らず。此穴、大鳥獸・妖恠(ようかい)、山精(やまひろ)抔(など)の住家(すみか)にはよろしき處なれば、いか樣(さま)のものありしも、しるべからず。

[やぶちゃん注:「新田四郞」仁田士朗忠常(にったしろうただつね 仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年)の誤り。伊豆国仁田郷(現在の静岡県田方郡函南町)の住人で、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵に十三歳で加わった。頼朝の信任厚く、文治三(一一八七)年正月、忠常が病いのために危篤状態に陥った際には、頼朝自らが見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦、文治五(一一八九)年の奥州合戦においても戦功を挙げた。建久四(一一九三)年の「曾我兄弟の仇討ち」の際には、兄の曾我祐成を討ち取っている。頼朝死後は第二代将軍頼家に仕え、頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父(めのと)となったが、建仁三(一二〇三)年九月二日に頼家が危篤状態に陥り、比企能員の変が起こると、忠常は掌を返して北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚比企能員を謀殺している。ところが三日後の五日に回復した頼家からは、逆に時政討伐の命令を受けてしまう。翌晩、忠常は能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かったが、彼の帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由として、逆に謀反の疑いをかけられ(無論、これも時政の謀略である)、時政邸を出て御所へ戻る途中、加藤景廉に殺害されてしまった(以上はウィキの「仁田忠常」に拠った)。以上が事実の事蹟であるが、彼は中でも「富士の人穴」(現在の静岡県富士宮市にある古代の富士山噴火によって形成された溶岩洞穴)探検の逸話で頓に知られる。それについては、私の北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士入穴に入るに詳しいので、参照されたい。

「山上の湖水」ここは富士山の裾野辺縁を含めた広義の「山」塊で、所謂、富士五湖等を指しているのであろう。

「山精(やまひろ)」山の精。山の霊。或いは妖怪としての「山彦」。「やまひろ」は底本のルビであるが、不審。「やまわろ」(山童:主に西日本に伝わる童子程の背丈の毛むくじゃらの妖怪)なら判るが。]

 山のうしろの下りは、石のごろごろする物を踏(ふみ)て下る。其れ石の内にて團炭程の丸き物を得たり。

「鐡丸(てつぐわん)也。」

といゝき[やぶちゃん注:ママ。]。これ、燒出しの時、丸(ま)るくかたまりし鐡氣(かなけ)也。されば東の國、未だ開(ひ)らけざる以前、此山、燒出(やけいで)て、其わたり、數里内(のうち)、人の種(たね)、盡(つく)る程の大變ありて、其後、駿河に行(ゆき)たるもの、雲霧にて、折ふし、此山を見ざりしが、光靈の頃、忽然、雲晴(はれ)て、如ㇾ此(かくのごとき)端正(ただしき)形(かた)ちを見たれば、一夜に出顯といゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳へしならんか。内藤、此説を詳記(つまびらかにしる)して圖を作り、一卷とせしよしなりしが、

「畫師雪庵が家に置(おき)て、火に燒(やけ)たり。」

と語りし。

[やぶちゃん注:「端正(ただしき)」底本のルビ。

「雪庵」ありがちな雅号で複数見かけるが、同定は不能。]

大和本草卷之十三 魚之上 鱖魚 (サケ)

 

鱖魚サケ 鱖ハ案本草决乄サケトスヘシ集解ノ説ヨク

 合ヘリサケニ非トスルハ非ナリ性甚ヨシ本草ニ詳也

 本草ニ癆瘵ヲ治ス国俗ニモ亦然リト云鱖ノサケ

 ナル叓コレヲモ證トスヘシ鱸魚ノ集解云狀類似

 鱖云リスヾキノ形サケニ似タレハナリ本邦東北州ノ

 大河ニ多シ南洲ニハ無之順和名抄曰鮏和名佐

 介俗用鮭字非也又曰崔于錫食經曰鮏其子似

 苺赤光一名年魚春生年中死故名之順和名鱖

 アサチト訓ス非是サケノ鮞ヲ国俗ハラヽゴト云南天

 燭子ノコトシ

 

○やぶちゃんの書き下し文

鱖(ケイ)魚【サケ。】 「鱖」は「本草」を案ずるに、决〔(けつ)〕して「サケ」とすべし。集解の説、よく合へり。「サケ」に非ずとするは非なり。性、甚だ、よし。「本草」に詳かなり。「本草」に『癆瘵〔(らうさい)〕を治す』〔とす〕。国俗にも亦、然り、と云ふ。鱖の「サケ」なる叓〔(こと)〕、これをも證とすべし。「鱸魚」の集解に云ふ狀、鱖に類似す、と云へり。「スヾキ」の形、「サケ」も似たればなり。本邦、東北州の大河に多し。南洲には、之れ、無し。順〔が〕「和名抄」に曰はく、『鮏、和名「佐介(サケ)」。俗に「鮭」の字を用〔ふは〕非なり。又、曰はく、崔于錫〔(さいうしやく)が〕「食經」に曰はく、鮏、其の子、苺(いちご)に似、赤〔く〕光〔れりと〕。一名「年魚」。春、生じ、年中に死す故、之れを名づく。順〔が〕「和名」、「鱖」を「アサチ」と訓ず〔は〕是れに非ず。「サケ」の鮞(こ)を、国俗、「はらゝご」と云ふ。南天燭(なんてんしよく)の子(み)のごとし。

[やぶちゃん注:条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta。ここはまず、主に「本草綱目」との対照によっているので、先同第四十四巻「鱗之三」の「鱖魚」を引いておく。益軒が「集解の説、よく合へり」と言っているので、その部分を太字とした。

   *

鱖魚【居衛切。「開寶」。】

釋名罽魚【音薊。】・石桂魚・【「開寶」。】・水豚。時珍曰、鱖、蹶也。其體不能屈曲如僵蹶也。罽、𦇧也。其紋斑如織𦇧也。大明曰、其味如豚故名水豚。又名鱖豚。志曰、昔有仙人劉憑、常食石桂魚。桂、鱖同音、當卽是此。

集解時珍曰、鱖生江湖中。扁形濶腹、大口細鱗。有黑斑、采斑色明者爲雄、稍晦者爲雌。皆有鬐鬛刺人、厚皮緊肉、肉中無細刺、有肚能嚼、亦啖小魚。夏月居石穴、冬月偎泥罧。魚之沈下者也。小者味佳、至三五觔者不美。李廷飛延壽書云、鱖鬐刺凡十二、以應十二月。誤鯁害人、惟橄欖核磨水可解。蓋魚畏橄欖故也。

附錄鰧魚 時珍曰、按「山海經」云、洛水多鰧魚。狀如鱖、居于逵、蒼文赤尾、食之不癰、可以治瘻。郭注云、鰧音滕。逵乃水中穴道交通者。愚按、鰧之形狀居止功用俱與鱖、同亦鱖之類也。日華子謂、鱖爲水豚者、豈此鰧與。

氣味甘、平。無毒。「日華」曰、微毒。

主治腹内惡血、去腹内小蟲、益氣力。令人肥健【「開寶」。】。補虛勞、益脾胃【孟詵。】。治腸風瀉血【「日華」。】。

發明時珍曰、按張杲「醫説」云。越州邵氏女年十八、病勞瘵累年、偶食鱖魚羮遂愈。觀此、正與補勞、益胃、殺蟲之説、相符。則仙人劉慿隠士、張志和之嗜此魚、非無謂也。

主治小兒軟癤、貼之良【時珍。】。

【氣味】苦、寒。無毒。主治骨鯁、不拘久近【時珍。】。

附方【舊一】骨鯁竹木刺入咽喉【不拘大人小兒、日久或入臟腑、痛刺黃瘦甚者、服之皆出。臘月、收鱖魚膽、懸北簷下令乾。每用一皂子、煎酒溫呷。得吐、則鯁隨涎出。未吐再服、以吐爲度。酒隨量飮、無不出者。蠡・鯇・鯽、膽皆可。「勝金方」。】

   *

確かに、一見、この「鱖魚」とサケを同一と考えて問題ないようにも見えるのであるが、実は必ずしもそうではない。何故なら、現代中国語では「鱖魚」は全く別種の、

条鰭上目スズキ目スズキ亜目 Percichthyidae 科ケツギョ属ケツギョ Siniperca chuatsi

の漢名となっているからである。しかも、この鱖魚も本来は北方水域を好む淡水魚で、ウィキの「ケツギョによれば、『中国大陸東部沿岸の黒竜江省(アムール川)から広東省にかけての各水系に分布するが、華南よりも華北に多い。本来、海南島や雲南省などの内陸部には分布しない』『現在は、養殖のために台湾にも移植されている。また、広東省を中心に大規模な養殖が行われている』。『成魚は全長』三十センチメートル『程度、最大で』六十五センチメートルに達し、『体は側扁する。体長は体高の約』二・五『倍程度』で、『吻は前に突き出ていて、口が大きい。尾鰭(おびれ)はうちわのような円形をしている。背鰭(せびれ)は前後で形態が異なり、前部には硬い刺がある。体色は黄緑色で、腹部は淡灰色。体側には中央付近に太く黒い筋模様が』一『本あり、不規則の暗褐色の斑点がいくつかあり、周辺環境に紛れる保護色となる。吻から目を通って背鰭の下まで、黒い竪筋模様がある。腹鰭・背鰭の後部・尾鰭の各軟条部には暗褐色の黒点が並び、全体で軟条を横切る帯模様に見える』。『大河川の中流域、ダム湖などの淡水域に生息する。食性は捕食性の肉食で、魚類・水生昆虫・甲殻類等を食べる』『中国語の標準名は「鱖」または「鱖魚」であるが、この「鱖魚」を音読みしたものを和名としている。旧満州において、日本人はヨロシと称した』。『中国語では同音の当て字で「桂魚」、また、これから類推した「桂花魚」と呼ばれたり、その当て字で「季花魚」と書かれることもある。「桂花」はギンモクセイを意味するが、鱖魚とは無関係である。他に地方名に「翹嘴鱖」、「胖鱖」(湖北省)、「母猪殻」(四川省、重慶市)、「花鯽魚」、「鰲花魚」(東北)』『などがある』。『属名 Siniperca は、「中国(Sini)のパーチ(Perca)」を意味する』。『白身で癖がなく、食感もぷりっとしていて良く、小骨がないため、中国では高級食材として扱われている。ネギ、ショウガまたは豆豉と共に蒸し魚にしたり、唐揚げにすることが多い』。『中国では活魚としてホテルや料理店などに販売されているが、日本においては外来生物法の特定外来生物(第二次指定種)として、活魚での輸送や保管は禁止されている』。『古来、美味なる魚として漢詩にもたびたび現れる。例えば、唐の張志和の『漁歌子』には「西塞山前白鷺飛,桃花流水鱖魚肥。」の一節がある。また、絵画や陶器などの題材にもされることがある』から、文化史的に見ても、本種を考えずに益軒の言うように「鱖魚」=「鮭」とすることは不可能である。写真を見ると(リンク先を参照)、紋様を含め、かなり特異的な形状で「鮭」と似ているか似ていないかと聞かれれば、私は「似ていない」と答える則ち、益軒が特異になって『「サケ」に非ずとするは非なり』と断言してしまったことの方が誤りである可能性が極めて大であると言える。

「癆瘵」労咳。肺浸潤や肺結核を指す。

「国俗」本邦の民間(療法)。

「叓〔(こと)〕」原典は上部が「古」となった字体であるが、表記出来ないのでこれで示した。「事」の異体字である。

『「鱸魚」の集解に云ふ狀、鱖に類似す』「鱸魚は棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。「本草綱目」の「鱸」の当該主部を示す。

   *

集解時珍曰、鱸出中淞江。尤盛四五月方出、長僅數寸、狀微似鱖、而色白、有黒點、巨口細鱗、有四鰓。楊誠齋詩、頗盡其狀云、鱸出鱸蘆葉前、垂虹亭下不論錢、買來玉尺如何短、鑄出銀梭直是圓、白質黑章三四點、細鱗巨口一雙鮮、春風已有真風味、想得秋風更逈然。「南郡記」云、人獻淞江鱸鱠於隋煬帝、帝曰、金虀、玉鱠、東南佳味也。

   *

『「スヾキ」の形、「サケ」も似たればなり』全く似ていないとは言わないが、私はちゃんと区別がつくから、似ていないと断言できる。

「和名抄」には確かに、

   *

鮏 崔禹錫「食經」云、鮏【折青反。和名「佐介」。今案、俗用「鮭」字、非也。鮭、音「圭」。鯸鮔魚一名也。】。其子、似苺【音「茂」。今案、苺子卽覆盆也。見「唐韻」。】。赤光。一名「年魚」。春生、年中死、故名之。

   *

とする(「鯸鮔魚」はカジカ(条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux)の方言でちょっと不審であるが、注がエンドレスになるのでここでは問題にしないこととする)。ところが、益軒も誤魔化して言い添えているが、同書には別に、

   *

鱖魚 「唐韻」云【厥居衛反。「漢語抄」云、阿散知。】。魚名。大口細鱗有斑文者也。

   *

が項立てされて、かく記されてある。私が「誤魔化して」と言ったのは、益軒が源順が「鮏」と「鱖」を全くの別項立てとしたこと、則ち、順は「鮏」(サケ)と「鱖魚」(ケツギョ)を確信犯で別種扱いとしたことを明記した上で、それを批判していないことを問題としているからである。実際、以上の通り、実は「鮏」=「鮭」と、「鱖魚」は別種の可能性が濃厚なのであり、その点では結果としては益軒ではなく順の方が正しい可能性が大ということになるからである。因みに、「唐韻」は唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された「切韻」(隋の文帝の六〇一年の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐の科挙の作詩のために広く読まれた。初版では百九十三韻の韻目が立てられてあった)の修訂本。七五一年に成ったとされるが、七三三年という説もある。参照した当該ウィキによれば、『早くに散佚し』、『現在に伝わらないが、宋代に』「唐韻」を『更に修訂した』「大宋重修広韻」が『編まれている』。『清の卞永誉』(べんえいよ)の「式古堂書畫彙考」に『引く』中唐末期の『元和年間』(八〇六年八月~八二〇年十二月)の「唐韻」の『写本の序文と各巻韻数の記載によると、全』五『巻、韻目は』百九十五『韻であったとされる。この数は王仁昫』(おうじんく)の「刊謬補缺切韻」に『等しいが、韻の配列や内容まで等しかったかどうかはわからない』。『蒋斧旧蔵本』の「唐韻」『残巻(去声の一部と入声が残る)が現存するが、韻の数が卞永誉の言うところとは』、『かなり異なっており、元の孫愐本からどの程度の改訂を経ているのかは』、『よくわからない。ほかに敦煌残巻』『も残る』。「説文解字」の『大徐本に引く反切は』「唐韻」に依っており、かの「康熙字典」が、「唐韻」の『反切として引いているものも』、「説文解字」大徐本の『反切である』とある。

「崔于錫」「食經」「崔禹錫」の誤り。唐の本草学者崔禹錫撰になる食物本草書「崔禹錫食経」。現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測されている。順の「倭名類聚鈔」では多く引用されている。

「アサチ」「アサヂ」(アサジ)であろう。これはコイ目コイ科ダニオ亜科オイカワ属オイカワ Common ninnow の異名で、この異名は福岡県久留米市での採取があり、福岡藩士であった益軒との親和性が強い。但し、同定自体は誤り(本邦にいないケツギョだから)ということにはなる。

「鮞(こ)」この場合は卵巣(卵塊)、スジコ・イクラを指す。

「はらゝご」「腹子」。広義には魚類の産卵前の卵を指すが、まさに特にサケの卵巣、及び、その塩蔵品を指す。

「南天燭(なんてんしよく)」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

「子(み)」実。]

2018/08/22

大和本草卷之十三 魚之上 鯽 (フナ)

 

鯽 一名鮒本草曰鮒魚泥食雜物不食冬月肉厚

 子多尤美呂氏春秋云魚之美者有洞庭之鮒日

 本ニテ近江鮒ヲ賞スルカ如シ近江鮒ハ肩廣ク味尤

 美シ他邦ニ異ナリ凡鮒ハ鯉ニツギテ上品ナリ性亦

 温補シ下血ヲ治ス燒テ食ヒ煮テ食ス脾胃ヲ峻

 補ス有宿食及滯氣人不可食氣ヲ塞ク大ナルヲ丸

 ナカラ煮タルハ尤氣ヲ塞ク薑椒ヲ加フヘシ丹溪曰

 鯽属土有調胃實腸之功〇本草曰脾胃虚冷不

 食ニ鯽魚ノ肉ヲ切テ豉汁ノ沸タルニ投シ胡椒茴香薑

 橘ノ末ヲ入テ食フコレヲ鶻突羹ト云今案味曾汁

 尤ヨシ又本草ニ酒ニテ煮テ食ヘハ酒積下血ヲ治ス

 又痔血下ルニ鯽ノ羹ヨシトイヘリ小兒ノシラクボ頭ニ

 アルニフナノ黑燒ヲ醬油ニテツクル〇魚 タナゴト

 云京都ノ方言也鯽ノ赤キ所アルモノ也筑紫ニテ◦シ

 ノナと云淀川ニ多シ關東ニテ苦鮒ト云海魚ニモタ

 ナゴアリソレトハ別也同名異物也○膳夫錄曰膾莫

 先于鯽魚膾ノ魚ノ第一トストナリ

○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:一部に改行を施した。]

鯽〔(フナ)〕 一名「鮒」。「本草」に曰はく、『鮒魚、泥食〔(でいしよく)〕して雜物を食さず。冬月、肉、厚く、子、多し。尤も美〔(うま)し〕。「呂氏春秋」に云はく、「魚の美なる者は、洞庭の鮒〔に〕有り」〔と〕』〔と〕。日本にて近江鮒を賞するがごとし。近江鮒は、肩、廣く、味、尤も美し。他邦に異なり。凡そ鮒は鯉につぎて上品なり。性、亦、温補し、下血を治す。燒きて食ひ、煮て食す。脾胃を峻補す。宿食及び滯氣有る人、食ふべからず。氣を塞ぐ。大なるを、丸ながら煮たるは、尤も氣を塞ぐ。薑椒(はじかみ)を加ふべし。丹溪曰はく、『鯽は土に属す。胃を調へ、腸を實〔(みの)〕るの功、有り』〔と〕。

〇「本草」に曰はく、『脾胃虚冷〔にして〕不食〔なる〕に〔は〕、鯽魚の肉を切りて豉汁〔(みそしる)〕の沸〔(わき)〕たるに投じ、胡椒・茴香(ういきやう)・薑〔(はじかみ)〕・橘〔(たちばな)〕の末を入れて食ふ。これを「鶻突羹〔(こつとつこう)〕」と云ふ。今、案ずるに、味曾汁、尤もよし。又、「本草」に、『酒にて煮て食へば、酒積〔(しゆしやく)〕・下血を治す。又、痔血、下るに、鯽の羹〔(あつもの)〕よし』といへり。小兒の「シラクボ」、頭にあるに、「フナ」の黑燒を醬油にて、つくる。

魚 「タナゴ」と云ふ。京都の方言なり。鯽の赤き所あるものなり。筑紫にて「シノナ」と云ふ。淀川に多し。關東にて苦鮒〔(ニガブナ)〕と云ふ。海魚にも「タナゴ」あり、〔然れども〕それとは別なり。同名異物なり。○「膳夫錄」に曰く、『膾は、鯽-魚〔(フナ)〕より先なる〔は〕莫〔(な)〕し。膾の魚の第一とすとなり。

[やぶちゃん注:条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属 Carassius のフナ類。本邦産種は概ね以下。但し、ウィキの「フナ」によれば、『フナは生物学的な分類が難しいとされている魚のひとつである。姿・形・色だけで種を判別することはできないため、初心者が種類を見分けることは困難である。例えば、日本社会においては、「フナ」と呼ばれる魚は慣例的に細かい種類に呼び分けられている。しかし、その「種類」がそれぞれ生物学的に別種か、亜種か、同じ種なのかはいまだに確定されていない。なお、俗に言う「マブナ」はゲンゴロウブナと他のフナ類を区別するための総称で、マブナという』種は存在しないとある。

・ギンブナ Carassius auratus langsdorfi

全長三十センチメートルほど。日本・朝鮮半島・中国にかけて分布する。ほぼ全てがで、無性生殖の一種である雌性発生によってクローン増殖することが知られている。

・キンブナ Carassius auratus ssp.2 (「ssp.」は「subsp.」とも書き、「subspecies」の略。「亜種」の意)

本邦の関東地方・東北地方に分布する。全長は十五センチメートルほどで、日本のフナの中では最も小型である。名の通り、体が黄色っぽく、ギンブナよりも体高が低い。

・オオキンブナ Carassius auratus buergeri

日本西部と朝鮮半島に分布する。全長四十センチメートルほど。名の通り、キンブナに似るが、大型になる。近年では人為放流されたものか、関東方面でも見られるようになっている。

・ゲンゴロウブナ Carassius cuvieri

琵琶湖固有種。全長四十センチメートルほど。体高が高く、円盤型の体型を成す。植物プランクトンを食べるため、鰓耙(さいは:硬骨魚類の鰓弁の反対側にある櫛状の器官。吸い込んだ水の中から餌である小さなプランクトンを濾し採る役割を果たす)が長く発達し、数も多い。釣りの対象として人気があり、現在では日本各地に放流されている。本条の「近江鮒」は本種を指していると思われる。なお、一般に知られるヘラブナ(箆鮒)とはこのゲンゴロウブナを品種改良したもの。

・ニゴロブナ Carassius auratus grandoculi

琵琶湖固有種。全長三十センチメートルほど。頭が大きく、下腮(したあご)が角ばっているのが特徴である。滋賀県の郷土料理で、私の大好物である鮒寿司に使われることで知られるが、現在、絶滅危惧IB類に指定されてしまった。漢字表記は「煮頃鮒」「似五郎鮒」。本条の「近江鮒」には本種も含まれていると考えた方が自然である。

・ナガブナ Carassius auratus ssp. 1

諏訪湖周辺に分布。全長二十五センチメートルほど。名の通り、体高が低くて幅が厚く、円筒形に近い体型を成す。また、体に対し、頭と目が大きいのも特徴で、体色がやや赤っぽいことから、「アカブナ」とも呼ばれる。

「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう)は秦の百科全書的史論書。「呂覧」とも呼ぶ。秦の呂不韋編。全二十六巻。成立年未詳であるが、その大部分は戦国末の史料と想定されている。孔子が編したとされる五経の一つ「春秋」に倣い、呂が当時の学者を集めて作成させたとされる。そのため、全体的な統一を欠き、儒家・道家・法家・兵家・陰陽家などの諸説が混在している。しかし、中国古代史の研究上貴重な文献であることは言を俟たない(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「峻補」(しゅうほ)は補益効果が非常に強いことを意味する。

「宿食」(しゅくしょく)は飲食物が胃腸に停滞してしまう病証を指す。「食積」「傷食」「宿滞」などとも称し、食べ過ぎ或いは脾虚を原因とし、上腹部の脹痛・酸臭のあるゲップ・悪心・食欲不振・便秘或いは下痢を主症状とし、悪寒・発熱・頭痛などを伴うこともある。

「滯氣」気の流れが停滞したために起こる病的状態。自律神経・精神・呼吸などに変調を来たす。

「薑椒(はじかみ)」生姜。

「丹溪」元代の医師朱震亨(しゅしんこう 一二八一年~一三五八年)の号。初め、儒学を学んだが、後に医学に転じ、李杲(りこう:号は東垣)の系統の医学を学んだ。後に李杲と併称されて「李朱医学」と呼ばれた。著書に「局方発揮」「格致餘論」「丹溪心方」などがある。但し、以下の「鯽は土に属す。胃を調へ、腸を實〔(みの)〕るの功、有り」という引用は、思うに、明の楊慎撰の「異魚圖贊箋卷一」の「鯽魚」の『李時珍云、「鯽喜猥泥不食雜物。故能補胃。冬月肉厚、子多其味尤美」。丹溪云、「諸魚屬火、獨、鯽魚屬土。有調胃實腸之功。但多食亦能動火』からの孫引きではないかと私はちょっと疑っている

「腸を實〔(みの)〕るの功」どうもピンとこないが、これ例外の読みが打てない。要は腸の状態を充実させるの意ではあろう。

「茴香(ういきやう)」かのスパイスやハーブとして知られるセリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare

「鶻突羹〔(こつとつこう)〕」益軒は「養生訓」でも、『鶻突羹は鮒-魚(ふな)をうすく切(きり)て、山椒など、くはへ、味噌にて久しく煮たるを云(いふ)。脾胃を補ふ。脾虛の人・下血(げけつ)する病人などに宣(よろ)し。大(おほき)に切(きり)たるは氣をふさぐ。あしゝ』と述べている。

「酒積〔(しゆしやく)〕」酒による肝臓疾患。

「シラクボ」「白癬(はくせん)」のこと。「禿瘡」等とも漢字表記する。多く幼小児の頭皮に出来る糸状菌感染による皮膚病。硬貨大の円形斑が次第に拡大し、灰白色に変色して乾燥し、頭髪が抜ける。

「つくる」「傅(つ)くる」。貼り付ける。

魚」「タナゴ」コイ科亜科タナゴ亜科 Acheilognathinae のタナゴ類。模式種はタナゴ属タナゴ Acheilognathus melanogaster。模式種でウィキの「タナゴから引用しておくと、『日本固有種で、本州の関東地方以北の太平洋側だけに分布する。分布南限は神奈川県鶴見川水系、北限は青森県鷹架沼とされ、生息地はこの間に散在する。各地で個体数が激減しており、絶滅が危惧される状況となっている』。体長は六~十センチメートル。『タナゴ類としては前後に細長く、日本産タナゴ類』十八『種のうちで最も体高が低いとされる。体色は銀色で、肩部には不鮮明な青緑色の斑紋、体側面に緑色の縦帯、背鰭に』二『対の白い斑紋が入る。口角に』一『対の口髭がある』。『繁殖期になると』、は鰓蓋から胸鰭にかけて、薄いピンク色を呈する一方、『腹面は黒くなり、尻鰭の縁に白い斑点が現れる。種小名 melanogaster は「黒い腹」の意で』の婚姻色に由来する。には明らかな婚姻色は発現せず、基部が褐色を呈しており、先端には『灰色の産卵管が現れる』。『湖、池沼、川の下流域などの、水流がないか』、『緩やかで、水草が繁茂する所に生息する。食性は雑食で、小型の水生昆虫や甲殻類、藻類等を食べる』。『繁殖形態は卵生で、繁殖期は』三~六月で、『産卵床となる二枚貝には大型の貝種を選択する傾向がみられ、カラスガイやドブガイに卵を産みつける。卵は水温』摂氏十五度前後では五十時間ほどで『孵化し、仔魚は母貝内で卵黄を吸収して成長する。母貝から稚魚が浮出するまでには』一『ヶ月ほどかかる。しかしそのような貝もまた減少傾向にあることから』、『個体数の減少に拍車をかけている』。『河川改修や圃場整備といった開発にともない、産卵床となる二枚貝類とともに多くの生息地が破壊された。また、ブラックバス・ブルーギルによる食害やタイリクバラタナゴとの競合といった外来魚の圧迫を受けており、各地で生息数が激減している。観賞魚として商業流通するため、業者による乱獲も脅威である』。『関東地方の生息地は近年特に減少している。分布南限の神奈川県ではすでに絶滅し、東京都でも同様とみられ、現在のまとまった生息地は霞ヶ浦水系と栃木県内の一部水域のみである。霞ヶ浦では環境改変や外来魚の食害で減少が続いており、生息密度がかなり希薄になっている』。現在、本種も絶滅危惧IB類となってしまった。「」は恐らく体型の曲線が櫛を連想させることに由るものと推定される。

「鯽の赤き所あるものなり」前注の下線太字部を参照。

『筑紫にて「シノナ」と云ふ』思うに、これは「シブナ」の彫り損ないではないか。実際、調べてみると、大分県日田市(ひたし)サイト日田の自然の「日田の自然(小さな魚 カゼトゲタナゴ)に(「郷土日田の自然調査会」の文責表示がある)、『こどものころ、近くの小川で魚とりをすると、紅や緑の色鮮やかな小さい魚が網の中で、跳び跳ねていたのを想い出す人も多いと思います』。『この小型の魚は日田地方の方言で、シビンタとかシブナと呼ばれるコイ科のタナゴ属で、三隈川や花月川流域に五種類が分布しています。このタナゴの仲間で最も小型のカゼトゲタナゴは、九州北西部の河川にしか分布していない九州特産魚です』とあるからである。コイ科バラタナゴ属カゼトゲタナゴ Rhodeus smithii smithii は日本固有亜種で、九州の北部から中部(佐賀県・福岡県・熊本県)及び壱岐島(長崎県)にのみ分布している(但し、中国浙江省にもよく類似するものが生息しているので、分類学的な再検討が必要とされる)。分布南限は熊本県八代市の球磨川で、模式産地(原記載標本の産地)は筑後川であるとウィキの「カゼトゲタナゴにある。而して、この「シビンタ」「シブナ」という名を見つめていると、確信が湧いてくるのを覚えた。ウィキの「タナゴ亜科によれば、『タナゴ類はフナ・モツゴ・モロコなどとともに一般的にみられる淡水魚で、地域ごとにさまざまの種類や地方名(方言)がある。地方名には、ニガブナ(日本各地)、ボテ(琵琶湖周辺)、ベンチョコ(福岡県)、シュブタ(筑後川流域)、センパラ(濃尾平野)などがある。「ニガブナ(苦鮒)」という呼称は、食べると苦味があることに由来する。これはタナゴの英名"Bitterling"(苦い小魚)にも共通する』とあり(鮒も苦味がある)、「シブナ」とは「渋い鮒」「渋鮒(シブブナ)」の転訛ではないかと思い至ったのである。

『海魚にも「タナゴ」あり、〔然れども〕それとは別なり。同名異物なり』棘鰭上目スズキ目ウミタナゴ科ウミタナゴ属ウミタナゴ亜種ウミタナゴ Ditrema temmincki temmincki。体型がタナゴ類に似ていることからの和名であるが、全く類縁関係はない海産魚である。特に胎生で知られる。

「膳夫錄」唐の鄭望之の撰になる食譜。元末明初の学者陶宗儀の編した「説郛(せっぷ)」(早稲田大学図書館古典総合データベースの)に載るそれで原文を確認出来た。]

反古のうらがき 卷之一 飛物

 

   ○飛物

 

 四ツ谷裏町の與力某、打寄(うちより)て、棊(ご)を打けるが、夜深(よふけ)て、各(おのおの)家に歸るとて立出しに、一聲、

「がん。」

といひて、光り物、飛出で、連立(つれだち)し某が、ながし元(もと)あたりと思ふ所落たり。

 直(ただち)に打連(うちつれ)て其所に至り、挑燈振り、てらして尋ねけるに、なにもなし。

 明(あく)る朝、主人、立出(たちいで)て見るに、流し元のうごもてる土の内に、ひもの付(つき)たる、しんちうの大鈴一つ、打込(うちこみ)て、あり。

 神前などにかけたる物と覺へて[やぶちゃん注:ママ。]、ふるひも付たり。

「かゝる物の此所に打捨有(うちすてある)べき道理もなければ、定(さだめ)て夜前(やぜん)の光り物はこれなるべし。」

と云へり。

 此大鈴、何故、光りを放して飛來(とびきたり)けるや、其譯、解しがたし。天保初年の事なり。

[やぶちゃん注:底本では、ここは実際に改行されてある。]

 此二十年斗(ばか)り前、十月の頃、八つ時頃なるに、晴天に少し薄雲ありて、余が家より少々西によりて、南より北に向ひて、遠雷の聲、鳴渡(なりわたり)れけり。

 時ならぬことと斗り思ひて止(やみ)ぬ。

 一、二日ありて、聞くに、早稻田と榎町との間、「ととめき」といふ所に町醫師ありて、其玄關前に二尺に壹尺計りの玄蕃石(げんばいし)の如き切り石、落(おち)て二つにわれたり。

 燒石(やけいし)と見えて、餘程あたゝかなり。

 其所にては響(ひびき)も厲(はげ)しかりしよし、淺尾大嶽、其頃、其わたりに住居して、親しく見たり、とて余に語る。

 これも何の故といふことをしる者、なかりし。

 後に考(がんがふ)るに、南の遠國にて、山燒(やまやけ)ありて吹上(ふきあげ)たる者なるべし。切石といふも方正(はうせい)に切(きれ)たる石にてはなく、へげたる物なるべし。

[やぶちゃん注:読み易さと効果を考えて改行を施した。標題は「とぶもの」でよかろう。

「四ツ谷裏町」切絵図集を複数見ても「表町」「仲町」は見出せるのだが、「裏町」は遂に見出せなかった。識者の御教授を乞う。

「棊(ご)」底本は右に『(碁カ)』と編者注があるのだが、これで普通に「碁」のことである。

「連立(つれだち)し某が、ながし元(もと)あたり」連れ立って帰っていた某の家の近くまで来ており、その「流し元」(台所の流しのあるところ。ここはその流しから外に排水する場所であろう)附近。

「うごもてる」「墳(うごも)つ」は「土などが盛り上がる」の意。盛り上げてある。

「しんちう」「真鍮」。

「打込(うちこみ)て、あり」突入していて一部が土に埋まってあった。

「ふるひ」「振るひ」で、鈴緒(すずお)のことであろう。

「天保初年」元年は一八三一年。

「此二十年斗(ばか)り前」本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、そこを起算とすると、文政一一(一八二八)年から天保元・文政一三(一八三〇)年頃となる。

「十月の頃、八つ時頃」午前二時頃。昼間の午後二時の可能性もあるが、「時ならぬこと」と言い、後の石の落下発見などから見ても、夜間である。

「早稻田と榎町」この中央辺りであろう(グーグル・マップ・データ)。

「ととめき」底本の朝倉氏の注には『轟橋を、土地でかく呼んだ』とある。調べてみると、「轟橋」は「どどめきばし」と読むらしい。個人ブログ『神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!』の「轟橋」に拠ったが、現在は暗渠(多分)で存在しないが、その記載と旧地図を照応すると、現在の榎町の南西直近の弁天町交差点の近くにあったことが判る(グーグル・マップ・データ)。

「玄蕃石(げんばいし)」敷石や蓋石(ふたいし)に用いる長方形の板石。

「淺尾大嶽」画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)の門人に、同姓同名(号)の名古屋藩藩士で、名は「英林」とするデータが、サイト「浮世絵文献資料館にあった。

「山燒(やまやけ)」噴火。

「方正(はうせい)」方形にきっちりと綺麗に切り出されたような石。

「へげたる」「剝(へ)げる」は「剝(は)げ落ちる・剝がれる」の意。]

反古のうらがき 卷之一 高村源右衞門

 

  ○高村源右衞門

 高村源右衞門は榎町(えのきちやう)同心にて、召取(めしとり)の名人也。數年相勤しに付、御天守番となる。文政季年の頃也。これよりさき、上毛(かみつけ)の國は大盜(ぬすびと)多く、熊が谷の土手に出(いで)て強盜をなすこと、古(いにしへ)より今に至りて止時(やむこと)なし。所謂、「長脇指(ながどす)」といへる惡徒(わるもの)也。其頃、十餘人、嘯集(しふしふ)して往來の害をなせしかば、源右衞門に命じて是をとらへしむ。彼(かの)徒も源右衞門と聞(きき)て、「面白し。出迎へて打取べし」とて、手ぐすね引(ひき)て待(まち)かくる。源右衞門、人數は召連れず、唯壹人、上野(かうづけ)の堺(さかひ)へ入(いり)たるといふかと思へば、いづち行けん、影をだに見たるものなくなりぬ。惡徒等、「それ。おし寄(よせ)て打取(うつと)れ」とて、所々尋ね求(もとむ)れども、影もなし。人家々々に亂入して搜索すること、每日なり。遂に行衞をしらず。止(やむ)ことを得ずして、吾と吾身を立隱(たちかく)れぬれども、兎角、安からず。追々(おひおひ)、一人、逃(にげ)、二人、逃して、盡(ことごと)く逃出(にげいで)る。其先々に天網(あみ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を張置(はりおき)て一人宛(づつ)召取(めしとり)、終に不ㇾ殘(のこらず)召取、熊ケ谷を引(ひけ)て歸る時分は十餘人なり。これにて盡(つき)たりとみへて[やぶちゃん注:ママ。]、途中にて奪ふなどゝいふ事もなく、江戶に入(いり)しよし。其間、源右衞門は何國(いづく)に隱れけん、誰(たれ)もしる物なし。但し、壁を切破(きりやぶ)りて逃たることもありし、と自(みづ)から、いひしよし。

[やぶちゃん注:「高村源右衞門」この人物、種々の古文書類に見出すことが出来る。例えば、「慶應義塾大学所蔵古文書検索システム」のこちらの、文化一〇(一八一三)年一月附の上野(こうずけ)村・新田村・太田村に於ける『盗賊入紛失の品并びに怪火にて焼失の始末御尋に付下書』の一札に『火附盗賊御改 松浦大膳様御組 高村源右衛門様』と出る。この人物と見て間違いあるまい。

「榎町」底本の朝倉氏の注には『新宿区内。榎町御先手組屋敷があった』とある。(グーグル・マップ・データ)。則ち、高村源右衛門は「同心」とあるが、これによって彼は町同心ではなく、先手組同心であって、加役(火附盗賊御改方)同心(当時)であったことが判るのである。私の言っていることが判らない方は、先の「魂東天に歸る」の私の注を見られたい。

「御天守番」江戸城の天守を守衛する職名。ウィキの「天守番によれば、『江戸城五重の天守は明暦の大火』(明暦三(一六五七)年一月発生)『で焼け落ち、保科正之の意見によって再築は控えられた。しかし』、『その職のみは存置され』、人員は四十名で、これを四組に分けた。百俵高五人扶持で躑躅間詰。天守下番二十一人とともに天守番頭四人が、それぞれ一組を支配した』とある。

「文政季年」「季年」は末年の意で採っておく。文政は一八一八年から一八三一年まで。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから、二十年ほど前のこととなる。

「上毛(かみつけ)の國」上野国に同じい。現在の群馬県。

「熊が谷の土手」現在の熊谷は埼玉県であるが、北で利根川を挟んで群馬県と接しているから、この附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「長脇指(ながどす)」長脇指(長脇差)は本来は一尺八寸(約五十四・五センチ)以上の脇差を言う語であるが、これは幕令によって町人が差すことが禁止されていた。ここは、それを不法に差していた、不良浪人・博徒・渡世人或いは盗賊(団)を指す。小学館の「日本大百科全書」の「博徒」によれば、こうしたアウトローらは、賭け事が庶民階級に浸透していった平安初期には既に発生していたが、組織化して本格的武装をし始めたのは江戸時代で、幕府は文化二(一八〇五)年に関八州取締所を設置、彼らの取締りを強化した。それを避け、江戸及び近郊の博徒らは、このまさに上州付近に集まって、幕府に抵抗した。その後、幕府の取締りも効果がなく、二十年後の、まさに本話柄内時制に近い文政一〇(一八二七)年頃には鉄砲・槍などまで装備し、『ますます手のつけられない状態となった。博徒のことを長脇差(ながどす)というが、戦国時代に榛名(はるな)山の中腹にあった箕輪(みのわ)城の武士たちが好んで長い脇差(わきざし)を用いたところから、上州に集まった博徒たちが自然に長脇差で武装し、その別名となった』のであった。『博徒の集団は一家をなし、統率者を親分といい、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居という身分階級が定められていて堅い団結を信条としている。博徒の子分になるには、仲人(なこうど)をたて』た『厳粛な儀式』を経て、『「一家のため身命を捨てても尽くすことと、親分の顔に泥を塗るような行為はけっしてしないこと」を誓』ったとある。

「嘯集(しふしふ)」人々或いは同類の者どもを呼び集めること。また、呼び合って集まること。嘯聚(しょうしゅ)とも言う。

「上野(かうづけ)の堺(さかひ)へ入たるといふ」博徒のネットワークを通じてリアル・タイムで情報が伝わったことを指す。

「人家々々に亂入して搜索すること每日なり」言わずもがなであるが、主語は博徒である。

「吾と吾身を立隱(たちかく)れぬれども、兎角、安からず」博徒らが目に見えない高村源右衛門の影に怯え始め、不意打ちの捕縛を恐れて、逆に姿を隠してしまったのである。源右衛門の巧妙な神経戦の勝利である。

「熊ケ谷を引(ひけ)て」源右衛門は熊谷に密かに前線本部を置き、恐らくは隠密行動で配下の者もここにこっそりと集合させていたものであろう。でなくては、「十餘人」の罪人を徐々に捕縛して留置し、ここを引き払って江戸へ帰るに際して単独でその人数を連行することなどはとても出来ることではない。

「これにて盡(つき)たりとみへて、途中にて奪ふなどゝいふ事もなく」当該の盗賊団の輩葉はこれで掃討し尽くしたものと見えて、残党は全くおらず、途中で捕縛された連中を奪還に来るというような事態にも遭遇しなかった、というのであろう。

「壁を切破(きりやぶ)りて逃たることもありし」逮捕して熊谷で留置していた者の中には、牢の壁を突き破って逃げた者もいたということであろう。]

反古のうらがき 卷之一 きす釣

 

   ○きす釣

 きす釣は工拙によりて獲物多少あれば、釣道具・釣竿に至る迄六ケ敷(むつかしき)物なり。近來は左程迄六ケ敷事もなく、多く涌(わき)たる年は、はぜ同樣に釣ることもあれども、一體、釣にくき物也。故に釣竿の好(よ)きを選らみて、爭ひて買(かふ)に、價(あたい)、一竿、金壹步(ぶ)も出(いで)るよし。これを持て出(いづ)れば、衆にすぐれて獲物ある事なり。されども如ㇾ此(かくのごと)きは稀にて、皆、三、四匁(もんめ)位にて事を濟す者多し。獲物は其日の日並(ひなみ)によりて、大體には獲物あることぞかし。

 或士、釣りを好みて道具も相應なるを用ひ、獲物も相應に有りて、一日、快く樂(たのし)み、酒など取出(とりい)で數盃を傾け、氣げん一倍して釣(つり)けり。

 品川沖を東へと釣行(つりゆき)けるに、手ごたへして引上(ひきあぐ)るに、釣ばりとおもりと一具、かゝりたるにて、魚はなし。

 其儘に引上(ひきあげ)て、段々と引(ひく)に、糸、つきて、竿、出たり。

 又、これを引に、餘程、よき竿にて、高金(かうきん)の道具と見ゆる。

 大事に引上、竿の元に至れば、堅く握り詰(つめ)たる片腕、見へたり。

 其人も興醒(きようざ)めて見へしが、酒の力にか、膽太(きもふと)くも、其腕をとらへ、

「餘り、好(よき)竿なれば、おれがもろふ。」

と言(いひ)ざまに、腕を引離(ひきはな)ち突(つき)やりて、船を早めて乘(のり)かへしけり。

 よくよく見るに勝れし釣竿にて、つり合よし、思ふに此人、高金にて求めしが、如何(いかに)してか、過(あやま)ちて溺死するといへども、此竿の惜しさに、堅く握りて死(しし)けると思へば、

「吾も人も、同じ物好(ものずき)の餘り命を落すといへども、執着(しふぢやく)するならん。」

とて囘向(ゑかう)して、失張(やはり)、此竿を用(もちひ)て釣りに出(いづ)るよし、語り傳へしを聞(きき)ける。

[やぶちゃん注:展開の特殊性から、恣意的に改行した。全く同じ落語のネタ元を扱ったものでも、江戸趣味を気取った幸田露伴の、題名から見え見えの確信犯の、ヤラセ臭芬芬たる糞「幻談」なんぞより、遙かに絶妙の流れ(鱚釣りの当時のリアルな事情をさりげない枕としつつ、高価な竿を意識させて死者の執着を引き出し、好事家の、死者の執念より恐ろしい物欲がそれに勝ってしまうというオチを配する)を持った釣怪談である(私は露伴の怪談と称するものには一度としてリアリティも恐怖も感じたことがない人種である)。

「きす」スズキ亜目キス科Sillaginidaeの魚類で、シロギス Sillago japonica・アオギス Sillago parvisquamis・ホシギス Sillago aeol・モトギス Sillago sihama の四種が知られるが、単に「キス」と言えば、一般にシロギス Sillago japonica を指す。釣りも味わいもシロギスが一番であり、海釣りで正道である。まさにこのロケーションの品川芝沖は鱚釣りの名所であった。

「工拙」「巧拙」。

「涌(わき)たる年」鱚が沢山生じた年。

「はぜ」東京湾には条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae に属する多様な種が棲息するが、一般に東京湾内で「鯊(はぜ)釣り」の対象として昔から人気があり、天麩羅等にして美味いものは、ゴビオネルス亜科マハゼ属マハゼ Acanthogobius flavimanus ではある。

「金壹步(ぶ)」一歩銀であろう。天保八(一八三七)年に鋳造開始された天保一分銀が最初で、金貨である一分金と等価とされ、一両の四分一に相当した。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるから問題ない。幕末期はインフレで貨幣価値が下がり、ネット記載では現在の七千七百十九円相当となるようだ。

「三、四匁(もんめ)」銀一匁は百六十五文であり、ネット記載の換算では当時、現在の百三十七円相当になるから、四百十一~五百四十八円相当。

「日並」プラグマティクなら、天候の良し悪し。別にその日の吉凶。総合的には日柄(ひがら)。

「氣げん」「機嫌」。

「つり合よし」竿を突き出した際のバランスを言っているのであろう。]

反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第一

 

  ○尾崎狐 第一

 

 鎗術師範伊能一雲齋は、予が先婦の叔父なりけり。築土(つくど)下に住す。門人もあまたもてり。

 其あたりに御旗本の門人ありて、其若黨も門人也。劍術も相應に出來たるよし。

 一日(あるひ)、忽然と狂氣して、大太刀引拔(ひきぬき)、あたるを幸(さいはひ)に切(きり)まくる。

 主人も是非なく、奧口(おくぐち)を引〆(ひきしめ)、門を鎖(とざ)して、狂人一人、玄關より表座敷・中(なか)の口のあたりを狂はせて、出向ふ者もなし。

 主人より使(つかひ)を以て伊能申越(まうしこ)すよふは[やぶちゃん注:ママ。]、

「御存(ごぞんじ)の家來某、狂氣致し、白刄を振𢌞し、手に餘り候也。何卒、とらへ玉わらんよふ[やぶちゃん注:総てママ。]主人より願ひ侍る。」

と也。

 伊能きゝて、

「是は存(ぞんじ)もよらぬ御賴(おたのみ)なり。それがし、是迄、鎗劍師範はいたせども、狂人を相手に無手取をせん心懸(こころがけ)なし。併(しかし)ながら、折角の御賴なれば、それがし、先(まづ)切られに參り申べし。各方(おのおのがた)、すかさず、御取押(おとりおさへ)被ㇾ成(ならる)べし。」

と、常の衣服に一刀を帶(おび)て、使の人とともに門より入、玄關に案内を乞ふ。

 狂人、其聲とともに走出(はしりいで)、玄關にて、大言(だいげん)して、

「誰(たれ)にても此内へ入らん者は眞二つなるべし。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]、白刄を引提(ひつさげ)て玄關の敷臺に腰かけたり。

 伊能は何氣なき體(てい)にて玄關に通り、右の狂人と推並(おしなら)べて腰をかけ、右のかたに、

「むづ。」

と坐す。狂人、思ひの外、取もかゝらず、

「此刀の切(きれ)あぢ、今日、こゝろむべし。」

とて振𢌞し、スウチなどして狂ひけり。

 伊能、斜目(はす)に見やりて、

「寸、少々のびたれば、思ひの外、用に立(たた)ぬ事あるものぞかし。心して遣ひね。」

といゝければ、

「イヤ、吾には手頃也。」

といふ。

「見せ玉へ。」

といへば、

「いざ。」

とて、出(いだ)しけり。

 刀、請取(うけとる)と、其儘、遠く投捨(なげすて)、取(とつ)ておさへて組伏(くみふせ)たり。

 其時、人々、片影(かたかげ)より、一時に走寄(はしりよつ)て、終(つひ)に取押へける。

 此事、評判となりて、

「伊能は無手取の名人。」

など言(いひ)あへりしよし。

 伊能、大に憂ひ、

「狂人を相手に無手取をする不覺者やある。」

とて、いろいろと、

「無手取に非らず、賴まれたれば是非なく命を捨(すて)に出で、すき間ありし故、手取にせし事也。努々(ゆめゆめ)無手取などといふ事、云(いふ)べからず。」

と制しけるよし。

[やぶちゃん注:ここは、底本も改行している。]

 其後、これも門人の宅に、狐、出で、妖怪、やむ時なし。

「何卒、先生の武威を以て謐(しづ)め給われ[やぶちゃん注:ママ。]」

と申入る。

 伊能、聞て、

「是は目に見えぬ鬼神との爭ひ、鎗劍のほどこす所なし。修驗にても賴み玉へ。」

といゝて[やぶちゃん注:ママ。]斷はれども、取用(とりもち)ひず。

「先(まづ)、兎角に一夕(いつせき)來りて、見屆けて玉(たまは)れかし。」

とて、終に引連れて其家に往(ゆき)けり【水道端と聞へし[やぶちゃん注:ママ。]。】。

 折節、冬の事なり、夜も永ければ、先づ、内に入て、四方山(よもやま)の物語して、一時餘(あまり)を經(ふ)れども、何もなし。

 主人、大に喜びて、

「扨こそ、先生の御武威におそれしか、一向に恠異なし。」

とて、皆、一同に稱しけり。

 伊能は、心の内に、

「未だ勝負もせぬ相手に恐るゝといふ道理なし。今に出(いづ)るに疑ひなし。餘りに左樣のことはいふ間敷(まじき)事。」

と制して、又、四方山のはなしに時移り、四つ過頃になる迄、何の事もなければ、

『今は家路におもむくべし。先(まづ)今夜は恠異なし。少しは、吾、來りし故にても有るや。』

と思ふ心、出(いづ)ると均(ひと)しく、二貫め斗(ばか)りの大石、伊能が鼻の先を掠(かす)めて、

「どふ。」

と落つ。

「これは。」

と、人々、驚く間に、茶碗・火鉢、飛廻(とびまは)り、ややしづまると思ふに、盆に盛(もり)たる蜜柑、一つづゝにころげて、牀(とこ)の間の下に竝ぶ。

 最後に、盆、ころげ出で、床の間の上に上(のぼ)ると均しく、右の下に並びたる蜜柑、十五、六、次第々々に飛上り、元の如く盆の上に山形に積上りたり。

 伊能、面目(めんぼく)なくて、

「吾は最初よりかくあらんと思ひつるに、果して夜の深(ふかま)るに隨ひ、怪異あり。宵の間(あひだ)の靜(しづか)なりしは、あてにならぬ事と思ひけることよ。」

と申(まうし)て立歸りけるとぞ。

 自(みづ)から語りけるよし。

 左(さ)れども、「一念の慢氣に百魔是に乘ずる」よしは、武人の常套語なれば、此話をかりて心の油斷・慢心を戒(いま)しめし作り話かもしらず。

 但し、尾崎狐の怪異は、珍らしからず。

[やぶちゃん注:「尾崎狐」(「おさききつね」と訓じているものと思う。次注参照)の「第二」はこの後の九話目に出る。臨場感を出すために、特異的に改行を施した。

「尾崎狐」底本の朝倉氏の注に『飼いならして、飼主の命により種々不思議なことをするう狐の意であるが、のち妖狐の意となった』とあるが、これは所謂、キツネの憑き物を指す「おさき」或いは「おさききつね」のことである。ウィキの「オサキ」によれば、『「尾先」と表記されることもある。「尾裂」「御先狐」「尾崎狐」などとの表記もある』。『関東地方の一部の山村で行われる俗信であり、埼玉県、東京都奥多摩地方、群馬県、栃木県、茨城県、長野県などの地方に伝わっている』。『多摩を除く東京には伝承が見られないが、これはオサキが戸田川』(現在の荒川の一部となっている蕨付近の流域の古称。江戸方から板橋宿及び志村の一里塚を過ぎた中山道は、ここを越えなければ、蕨(わらび)宿に辿り着けない。の中央附近(グーグル・マップ・データ))『を渡れないため、または関東八州のキツネの親分である王子稲荷神社があるため』、『オサキが江戸に入ることができないためという』。『もと那須野で滅んだ九尾の狐の金毛が飛んで霊となったものであり、九尾の狐が殺生石に化けた後、源翁心昭が祟りを鎮めるために殺生石を割った際、その破片の一つが上野国(現・群馬県)に飛来し、オサキになったとの伝説もある』。『名称については、九尾の狐の尾から生まれたために「尾先」だといい』、『曲亭馬琴らによる奇談集』「兎園小説」に『よれば、尾が二股に裂けているために「尾裂」だとあり』、『神の眷属を意味するミサキが語源との説もある』。『オサキの外観は土地や文献によってまったく違った特徴が語られている。曲亭馬琴』の「曲亭雑記」では、『キツネより小さいイタチに似た獣だとあり』、『群馬県甘楽郡南牧村付近ではイタチとネズミ、またはフクロウとネズミの雑種のようなもの、ハツカネズミよりやや大きいものなどといい、色は斑色、橙色、茶と灰の混合色などと様々にいわれ、頭から尾まで黒い一本線がある、尾が裂けているともいい』、『同郡下仁田町では耳が人間の耳に似て鼻の先端だけが白い、四角い口をしているなど、様々な説がある』。『身のこなしが早いために神出鬼没で、常に群れをなすという』。『オサキを持つ家をオサキモチ、オサキ屋』、『オサキ使いなどという』。『常には姿を見せず、金銀、米穀その他なんであれ心のままに他に持ち運ぶという。オサキモチを世間は避け、縁組することはなく、オサキモチどうしで縁組するという。オサキの家から嫁を迎え入れた家もオサキモチになるといわれたためであり、婚姻関係で社会的緊張の生まれる原因の一つとなることが多かった』。著者不詳の江戸の奇談集「梅翁随筆」に『よれば、家筋についたオサキはどんな手段を用いても』、『家から離すことができないとある』。『家ではなく個人に憑く場合もあり、憑かれた者は狐憑き同様、発熱、異常な興奮状態、精神異常、大食、奇行といった症状が現れる』と言い、また、『群馬県多野郡上野村ではオコジョを山オサキと呼び、よく人の後をついて走るものだが、いじめると祟りがあるという』。『同じく群馬県の別の村では、オサキは山オサキと里オサキに大別され、山オサキは人には憑かないが、里オサキの方は人に憑くという』とある。

「伊能一雲齋」(安永六(一七七七)年~嘉永七(一八五四)年)は江戸後期の槍術家で、江戸牛込の宝蔵院流の達人。名は由虎。上総貝淵藩の槍術指南となり、江戸藩邸で藩主林忠英(ただふさ)に仕えた。門弟には、かの水戸藩の儒臣で尊攘派の指導者藤田東湖や、勘定奉行兼海防掛として日露和親条約に調印し、外国奉行にも起用された幕政家川路聖謨(かわじとしあきら)が含まれている。また、神谷潤亭にならった一節切(ひとよぎり)尺八の名手でもあり、その普及に努めた。別号に無孔笛翁。底本の朝倉氏の注には筆者鈴木『桃野との関係については不明』とある。

「予が先婦の叔父なりけり」桃野には死別した先妻がいたか。

「築土」現在の新宿区津久戸町(つくどちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧口」家の奥の方へ通ずる出入り口。

「門」正門。

「中(なか)の口」屋敷の玄関と台所口の間にある入り口。

「よふは」「樣は」。

「無手取」読みは「むてどり」でよいか。得物(武器)を主たる法としては使用せずに、敵を討ち取る、組み伏せる術のことと採る。則ち、槍を用いたり、刀を抜いたりせずに(事実、彼はここでこの後、「一刀を帶(おび)て」向かっている)、今で言う、柔術や合気道のような技で、切創を与えずに捕縛することとする。

「取もかゝらず」突然の伊能の登場を気に掛ける様子もなく、何か有意に向かってくる感じや色を成して身構える挙動をしない、の意で採る。則ち、特に「取り掛かる風情もなく」「スウチ」底本の朝倉氏の注には『素打』とある。ネットのたのもうや@武道具店編の「剣道用語辞典」のこちらを読むと、剣道で正面の何も存在しない空間を力を籠めて「普通に対象物体を斬る運動をする」ことを指すようだ。我々が知っている「素振り」の「振る」というのは、斬るのではなく、「棒の一端を持って他の一端を動かす運動」を指し、意外かも知れぬが(私は一応、中学以来、大学まで剣道を選択してきた。ただ、幼年時に左肩関節の結核性カリエスに罹って変形しているため、遂に真っ直ぐに素振りをすることは出来なかった)、本来は自分の力を意識的に作用させて空間を斬っているのではない。同辞典によれば、『剣道で一番嫌うことは空間打突であり、空間で打突すれば』、『必ず』、『無駄な力でこれを空間でとめなければならない。その無駄力のブレーキが剣道上達の障害をなすものであり、それがいけないのである。素振りはどんなに早く激しくやってもよいが』、『素打ちはいけない』とあり、『今でも正面打ちを分解して一、二、三と掛声をかけながら』、『昔式の空間打突をやらせているところがあるが』、『これは即日改めるべきであろう』。『重心の上下動は剣道では禁物であり、正面打ちや上下振りも重心を落着けてすり足でやることが望ましい』とある。

「斜目(はす)」「なのめ」「ななめ」でもよいが、間延びして私は厭だ。

「寸、少々のびたれば」この「寸」は「ごく僅かな長さ」の意で採り、刀が(現在の自分が使うのに最も適した長さより)ごく僅かに長いだけでも、の意で採る。

「謐(しづ)め」「静謐(せいひつ)」の「謐」。「謐」も「静か。ひっそりと静かなさま。静かで平隠なさま」の意。

「水道端」神田上水路のあった現在の文京区小日向から東の文京区水道附近。(グーグル・マップ・データ)。

「四つ過頃」定時法ならば午後十時過ぎ。不定時法でも季節が冬と明記されているので、同時刻である。

「二貫め」七キロ五百グラム。]

2018/08/21

「新編相模國風土記稿」卷之九十九 村里部 鎌倉郡卷之三十一 山之内庄 岩瀨村(Ⅱ) 大長寺(他) / 岩瀨村~了

 

[やぶちゃん注:本条は非常に長いので、読み易さを考えて鍵括弧や中黒を使用し、注を本文に、注など不要な方は飛ばして読めるよう、ポイント落ちで入れ込んだ。また、多数登場する鎌倉御府外の寺名や関係僧及びその出典等については、煩瑣なだけで、必要とする人も限りなく少数であろうからして、而も本文自体が読み難くなることから、それ等は原則、注さないこととする。大長寺はここ(グーグル・マップ・データ)。最初に、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像から、添え図である「大長寺境内圖」を示し、そのキャプションを中央奥の仏殿から反時計回りに電子化しておく。]

 

Daityoujizenzu

 

   大長寺境内圖

[やぶちゃん注:右端中央にも同タイトル・キャプションがある。]

仏殿

吉祥水

北條氏墓

門山塔[やぶちゃん注:「開山塔」の誤記か。]

三社權現社

庭松院

中門

銀杏樹

鐘樓

方丈

梅 井

心蓮社蹟

 

○大長寺 龜鏡山護國院と號す。淨土宗〔京知恩院末。〕。天文十七年[やぶちゃん注:一五四八年。]五月の創建にして開山は存貞[やぶちゃん注:「そんてい」。]〔鎭蓮社感譽願故と號す。小田原の人なり。大道寺駿河守政繁の甥、大永三年[やぶちゃん注:一五二三年。]三月生る。成人の後、小田原傳長寺に投じて剃度し、後、飯沼弘經寺に掛錫して、法を鎭譽に嗣。舊里に歸て、傳聲寺に住す。天文十七年、當寺を建。又、四十八願[やぶちゃん注:阿弥陀如来が法蔵菩薩であった時に立てた四十八誓願。]に應て、四十八寺を創し、永祿六年[やぶちゃん注:一五六三年。]、增上寺に轉住し、檀林の掟制三十三條を定。是より宗風、煽に起る。又、別時中[やぶちゃん注:別時念仏。特別の時日や期間を定めて称名念仏をすること。]、靈夢を感じ、傳法の規繩、法問の則儀を定め、一派の祖と稱せらる。其後、當寺二世靈譽圓治に、緣山[やぶちゃん注:増上寺のこと。増上寺の山号は三縁山。]の職を讓り、更に地方に遊化し、天正二年[やぶちゃん注:一五七六年。]九月當寺に歸遁し、明年五月十八日寂す。則、寺域に葬る。碑銘なきを以て、靈山寺前住秀海、其事實を撰し、文政四年[やぶちゃん注:一八二一年。]、現住單定、碑を建。【傳燈總系譜】曰、鎭蓮社感譽存貞、號願故、相州小田原人。北條氏家臣大道寺某の甥也。初投同所傳肇寺剃髮、下于武江、師事杲譽、長後皈古里、住傳肇寺。天文中、爲堪檀越大道寺駿河守母追福、於武州河越、建蓮馨寺。又、於同州、開建平方馬蹄寺・小林寺・淸長命寺・高澤大蓮寺・見立寺、又、於信州更級郡綱島開安養寺。永祿六年、爲江增上寺第十世。傳法照々、遂成一派。天正初、仍檀主請、爲相州鎌倉郡大長寺及深谷專念寺開山第一祖。天正二年五月十八日寂す。〕、開基は玉繩城主北條左衞門大夫綱成[やぶちゃん注:北条綱成(つななり/つなしげ 永正一二(一五一五)年~天正一五(一五八七)年。後北条氏家臣。ウィキの「北条綱成」によれば、玉繩城主として北条家主力部隊「五色備(ごしきぞな)え」の内の最強として知られた「黄備(きぞな)え隊」を率いた(黄色地に染められた「地黄八幡(じきはちまん)」という旗指物を使用したことで知られる)。綱成与力衆は「玉縄衆」とも呼ばれた。父は今川氏家臣福島正成とされ、父の死後、『小田原へ落ち延びて北条氏綱の保護を受けたといわれる。経緯については、大永元年』(一五二一年)『に飯田河原の戦いで父・正成ら一族の多くが甲斐武田氏の家臣・原虎胤に討ち取られ、家臣に伴われて氏綱の元へ落ち延び近習として仕えたとも』、天文五(一五三六)年に『父が今川家の内紛である花倉の乱で今川義元の異母兄・玄広恵探を支持したために討たれ、氏綱の元へ落ち延びたという』二『説がある』。『氏綱は綱成を大いに気に入り、娘を娶わせて北条一門に迎えるとともに、北条姓を与えたという。綱成の名乗りも、氏綱から賜った偏諱(「綱」の字)と父・正成の「成」を合わせたものとされる。その後、氏綱の子である北条為昌の後見役を任され』、天文一一(一五四二)年に『為昌が死去すると、年長である綱成が形式的に為昌の養子となる形で第』三『代玉縄城主となった』。『しかし、福島正成を父とする説をめぐっては異論があり、黒田基樹は『北条早雲とその一族』の中で上総介正成という人物は実在しないとしており、小和田哲男も『今川氏家臣団の研究』の中で福島上総介正成という名前は古記録や古文書に出てこないとしている。そのため』、『綱成の実父については、黒田(『北条早雲とその一族』)は』、大永五(一五二五)年の『武蔵白子浜合戦で戦死した伊勢九郎(別名・櫛間九郎)とし、下山治久(『後北条氏家臣団人名辞典』)も同様に櫛間九郎の可能性を挙げている』。『一方で高澤等は武蔵国榛沢郡の武蔵七党猪俣党野部(野辺)氏の後裔と考察している』。天文六(一五三七)年)より『上杉家との戦いをはじめ、各地を転戦する。北条氏の北条五色備では、黄備えを担当する』。天文一〇(一五四一)年、『氏綱が死去して北条氏康が家督を継いでも、その信頼が変わることはなかった』。特に天文十五年の『河越夜戦では、半年余りを籠城戦で耐え抜いた上に本軍と呼応して出撃し』て『敵を突き崩すなど、北条軍の大逆転勝利に大功を立てた。この功績で河越城主も兼ねることになったとされる。その後も北条家中随一の猛将として活躍』、弘治三(一五五七)年の『第三次川中島の戦い(上野原の戦い)では武田方への援軍を率いて』、『上田まで進出し』、『上杉謙信勢を撤退させ、里見義弘・太田資正との国府台合戦では奇襲部隊を率いて里見軍を撃砕し』ている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄一二(一五六九)年十月六日の『武田信玄との三増峠の戦いでは、綱成指揮下の鉄砲隊が武田軍の左翼大将浅利信種を討ち取ったという』。元亀二(一五七一)年の『駿河深沢城(静岡県御殿場市)の戦いも武田方に抗戦している』。同十月に『氏康が病死すると、綱成も家督を子の氏繁に譲って隠居し、剃髪して上総入道道感と名乗った』。病いのために享年七十三で死去、墓所は私の住む鎌倉市植木にある彼の開基になる曹洞宗陽谷山(ようこくざん)龍寶寺。]なり〔寺傳に、綱成、存貞の高德を欣慕し、城中に請て、功德鎭護の利益を問ふ。貞、無量壽經を説。綱成、兼て八幡を信ず。彌陀は其本地たるを以て、深く感喜し、一宇を建て、治國安民の祈願所とせんことを約す。偶、當所の靈地を得て買得し、山林東西三町餘、南北五町餘の寺域及餉田を附す。因て當寺を創し、感譽を開山第一祖とすと云。〕。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]九月十日、綱成の室、卒しければ〔法號大項院光譽耀雲と云ふ。〕、寺域に葬り、更に二十貫文の地を寄附す。綱成は天正十五年[やぶちゃん注:一五八七年。]五月六日卒す〔年七十三。道感院哲翁圓龍と號す。〕。二世は圓治〔秀蓮紅[やぶちゃん注:「紅」は別の刊本でもそうなっているが、これはどう見ても原典の「社」の誤記ではないかと強く思う。]雲譽と號す。永祿九年[やぶちゃん注:一五六六年。]、增上寺に轉住す。〕、三世は普光觀智國師〔貞蓮社源譽存應と號す。天正十二年[やぶちゃん注:一五八四年。]、亦、增上寺に轉ず。〕、四世は源榮〔星蓮社曉譽存阿凝信と號す。觀智國師の弟子。〕なり[やぶちゃん注:浄僧源栄(げんえい 天文二〇(一五五一)年~寛永一〇(一六三三)年)は。ウィキの「源栄」によれば、『俗姓や出自は不明だが、徳川家康に気に入られ、数々の寺の開山を務めた。源栄と家康の仲は親しい物であったらしく、駄洒落のやり取りをした記録』(本条に出る花下連歌的付合を指す)や、『数奇者として知られる源栄に茶器七種を下賜した記録が残る』とある。事蹟はリンク先に年譜形式で詳しいので参照されたい。戦後の農地改革までは門前の「家康お杖先の田」という農地があったという。例によって家康が鷹狩りの際、門前で杖を振り回し、その杖で指した土地を即座に大長寺に与え、それは凡そ三町歩(三ヘクタール)にも及んだという(「かまくらこども風土記」(平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会刊)に拠る)。]。榮、住職たりし時、天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]小田原の役に、北條左衞門大夫氏勝[やぶちゃん注:北条氏勝(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)は下総国岩富藩初代藩主。北条氏繁の次男・北条綱成の孫。参照したウィキの「北条氏勝」によれば、『発給文書による初見は』天正一〇(一五八二)年五月に出された「氏勝」と署名されたもので、この頃に兄・氏舜の死により、家督を継承したとみられる。翌』天正十一年の『文書からは玉縄北条家代々の官途名である「左衛門大夫」を名乗っている』。天正十年、』伊豆大平新城の守備につき、武田方の戸倉城攻略に参加。同年』六月に勃発した「本能寺の変」後、『甲斐・信濃の領有を巡って』、『北条氏が徳川家康と争った際には同族の北条氏忠と共に御坂峠に進出したが、黒駒での合戦で家康の家臣鳥居元忠・三宅康貞らの軍勢に敗れている(天正壬午の乱)』。翌年には『上野厩橋城に入り』、四『月の下野皆川城や太平山城での合戦に出陣』、二年後の天正十四年にも『下野に出陣している』。天正一八(一五九〇)年、『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、伊豆山中城に籠もって戦ったが、豊臣軍の猛攻の前に落城する。落城を前に氏勝は自害を図るが、家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出』、『本拠である相模玉縄城へ戻』って籠城した。その後、『玉縄城は家康に包囲されるが』、『戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門と、その一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により』(と大長寺の源栄をウィキは全く記さない。本文後文参照)、同年四月二十一日に『降伏した。以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて、北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。秀吉も同日に出された在京の真木島昭光あての書簡で氏勝の降伏を許可した件に触れて、前将軍足利義昭に対して豊臣方が優勢である事の言伝を依頼している』。『以後、家康に下総岩富』一『万石を与えられて家臣となり、領内検地などの基盤整備を進める一方』、「関ヶ原の戦い」などで功績を重ね、『徳川秀忠からの信頼も厚かった』とある。]、玉繩に籠城して降らず。當寺、檀緣の由緒あるを以て、東照宮の内命を蒙り、大應寺〔植木村龍寶寺、是なり。〕住僧良達と謀り、終に降參をなさしむ〔【北條五代記】等には、此事、良達のみ扱しと見ゆ。〕。御打入[やぶちゃん注:先に掲げた通り、玉繩城では包囲されたが、事実上の戦闘は行われず、無血開城でされたので、これは形式的な謂いである。]の後、此邊、御放鷹の時、兼て榮の才學を知し召れ[やぶちゃん注:「しろしめされ」。]〔三州大樹寺[やぶちゃん注:特異的に注する。現在の愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗成道山(じょうどうさん)松安院大樹寺大樹寺。徳川(松平)氏菩提寺。歴代当主の墓や歴代将軍(「大樹公」。「大樹」は征夷大将軍の唐名。後漢の時、諸将が手柄話をしている際、今に光武帝の功臣として知られる馮異(ふうい)は、その功を誇らず、却って大樹の下に退いた、という故事に基づく(「後漢書」「馮異伝」))の位牌が安置されている。]登譽より聞え上、兼て謁し奉りしことありしとなり。〕、屢、當寺へ[やぶちゃん注:「ちゆうひつ」。先払いして(蹕)立ち寄ること()。]あり、法儀を御聽聞あらせられ、舊に因て寺領をも寄賜ふ〔舊領は、玉繩岡本村なりしを、此時、願上て、門前にて替賜ひしと云ふ。〕。天正十九年、改て寺領五十石の御判物を賜ふ〔文祿元年三月の水帳[やぶちゃん注:「みづちやう」は「御図帳」の当て字で「検地帳」のこと。]を藏す。所謂、大半小[やぶちゃん注:「だいはんしやう」は本邦の古い面積単位。「大」は一反の三分の二・「半」は二分の一、「小」は三分の一で、当時の一反(現在の約四百坪・十アール相当)は三百六十歩(ぶ)であったので、それぞれ二百四十歩・百八十歩・百二十歩であった。一段の水田が畦によって六等分されているような場合に便利な単位であった。]の步數なり。〕。寺號、初は「大頂」と記せしを〔所藏雲版[やぶちゃん注:後の「【寺寶】」に図とともに掲載されている。]、天文十七年の銘及び天正小田原陣の制札に、「大頂寺」と記す。〕御判物の文面に今の文字に記し給ひしより改むと云〔傳云、東照宮、初て成せられし時、山號を御尋あり、龜鏡山と言上せしかば、僧は大長壽なるべしと、上意ありしとぞ。かゝる由緒を以て今の文字に改給ひしとなりと云ふ。〕又、或時、俄に成せられしと聞て、榮、急ぎ、門外に迎奉り、御放鷹にやと申上しを聞召れ、御戲に「南無阿彌陀佛鳥は取らざり」と上意ありしかば、榮、取敢ず、「有がたのえかうえかうで日の暮るゝ」と附申せしを興じさせ給ひ、扈從の人々に「記憶すべき」との命ありしとなり、慶長十三年[やぶちゃん注:一六〇八年。]、江戸營中にて淨蓮二宗論議の時、榮、本多上野介正純と共に奉行せられしと云〔「淨土日蓮宗論記」依上意以大長寺上人召高野山賴慶僧都云々と見ゆ。〕。貞宗院尼〔寶台院殿[やぶちゃん注:徳川秀忠の生母西郷局(お愛)の法号。彼女は天正一七(一五八九)年の没であるが、この号は三十九年後の寛永五(一六二八)年に与えられたもの。]の御實母。〕、玉繩に隱栖の頃、殊に榮を歸依せられしかば、戒を授け、遺言に任せ、導師を勤む。慶長十六年[やぶちゃん注:一六一一年。]、尼の爲に貞宗寺[やぶちゃん注:浄土宗玉繩山珠光院貞宗寺。本。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の町内である鎌倉市植木にあり、拙宅のごく直近。御建立の時、榮を開山に命ぜられ、當寺より兼帶す。同年十一月、東照宮、藤澤御殿[やぶちゃん注:藤沢宿にあった徳川将軍家御殿(別荘)。現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間(の附近(グーグル・マップ・データ))にあった。ウィキの「藤沢御殿」によれば、構築は藤沢宿が置かれる以前の慶長元(一五九六)年頃と推定され、明和三(一六五七)年に江戸で発生した「明暦の大火」に伴う江戸城再築のために取り払われた。]に御止宿の時、榮を召させられ、法義御談話あり。且、諸堂修理のため、銀若干を賜ふ〔【駿府記】にも、此事を載せ、源榮を幻惠に作る。曰、慶長十六年十一月十八日、路次御放鷹御着藤澤、及夜增上寺弟子玄惠上人出仕、有佛法御雜談、則、銀百枚賜之、彼堂以下上葺之料也。〕。又、江城或は駿府等へも屢召され、修學料三百石を賜ふ〔【洞漲集】にも此事を載す。〕。故に榮を中興と稱す。同十九年、三州大樹寺に轉住せり〔源榮、當寺住職中、江淺草正姨覺寺を中興し、當國高座郡座間宿、宗仲寺[やぶちゃん注:三度出るのでこれは注しておく現在の神奈川県座間市座間に現存する浄土宗来光山峯月院宗仲(そうちゅう)寺ここ(グーグル・マップ・データ)。しばしばお世話になる東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の本寺の解説によれば、この地の領主内藤清成が、慶長八(一六〇三)年に実父竹田宗仲の菩提を弔うため、この大長寺第四世源栄上人を開山として創建したと伝える。但し、『当地には』、『平安時代に宗仲寺の前身として伝えらる良真院、鎌倉時代には渋谷道場と呼ぶ修行場があり、その跡に当寺が建立されたと考えられてい』るとあり、元和三(一六一七)年の家康の柩を久能山から日光へと遷御する際には休息所として利用されたという。慶安二(一六四九)年には寺領七石四斗の『御朱印状を受領し』ているとある。]の開山となり、兼住す。元和二年[やぶちゃん注:一六一六年。]四月六日、大樹寺より駿府に召され、御遺命を蒙り、同四年、病に依て宗仲寺退隱し、寬永十年[やぶちゃん注:一六三三年。]十一月十日、同寺にて寂す。年八十三。〕。本尊、三尊彌陀〔彌陀は長二尺三寸。運慶作。[やぶちゃん注:運慶作は誤伝。但し、南北朝期の名品ではある(非公開)。]〕及如意輪觀音〔定朝作。長一尺。〕を置、又、大頂院[やぶちゃん注:大頂院(永正一三(一五一六)年?~永禄元(一五五八)年)は北条氏綱の娘で、玉繩城城主北条綱成の正室の戒名の院号。名は不詳。法号は大頂院光譽耀雲大姉。後に出る北条氏繁の母。]の木像〔一尺□五寸五分。〕、東照宮の御神影〔大猷院の御筆。增上寺十七世、照譽、奉納す。裏書に、「奉納大長寺。東照宮大權現御影。右家光公の御筆也。增上寺照譽華押」あり。〕、道幹君[やぶちゃん注:徳川家康の父松平広忠(大永六(一五二六)年~天文一八(一五四九)年)のこと(法号の一部)。]の御牌〔東照宮の仰により、安置し奉れりと云。牌面、昔は「瑞雲院應政道幹大居士淑靈」とありしを、東照宮二百回忌に、御代々の尊牌御厨子等、修復を加へ奉りし時、御贈官に改、「大樹寺殿贈亞相應政道幹居士」と記せり。〕、御代々の尊牌、及、傳通院殿[やぶちゃん注:徳川家康の生母於大の方。]・崇源院殿[やぶちゃん注:浅井長政三女であったお江(ごう)。母は織田信長の妹お市。三度に嫁したのが徳川秀忠。]・寶臺院殿の御牌、貞宗院尼・雲光院尼[やぶちゃん注:家康の側室。名は須和。号は阿茶局。]等の牌を安ず。寬永十年、增上寺照譽〔十七世。〕、御供養金〔東照宮・台德院[やぶちゃん注:徳川秀忠。]・大樹寺殿、御供養料三十兩。〕、及、三祖〔感譽・雲譽・觀智國師を云。三代相繼て、增上寺に轉ず。〕の供養金〔三十兩。〕を寄附す〔後年に至ても退轉なかるべきの文書あり。〕。佛殿に大長壽寺の額を掲ぐ〔寶永七年[やぶちゃん注:一七一〇年。]、知恩院尊統法親王[やぶちゃん注:有栖川宮幸仁親王の皇子。]、江の旅舘にて記す。〕。方丈は大頂院及北條氏繁室〔七曲殿と號す。〕[やぶちゃん注:七曲殿(ななまがりどの 生没年不詳)は北条氏康の娘で、従兄弟である玉縄城城主北条氏繁の正室となった。名は不詳。私の家の直近、玉繩城大手口七曲坂(私が役員を務める植木公会堂はまさにここにある)付近に居住したため、かく古呼称された。彼女の子である氏繁の次男が、先に示した玉繩無血開城をした北条氏勝である。]の殿宇を移し建しものと云。

[やぶちゃん注:以下は連続(各項の後は一字空け)しているが、読み難いので、各項ごとに改行した。]

【寺寶】

△四季詠歌短册四枚〔智恩院[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。]

△詩箋一枚〔春は、後柏原院[やぶちゃん注:後柏原天皇(ごかしわばら 寛正五(一四六四)年~大永六(一五二六)年)は室町から戦国期の天皇]、夏は、九條忠榮公[やぶちゃん注:九条幸家(天正一四(一五八六)年~寛文五(一六六五)年)。藤原氏摂関家九条流九条家当主。関白・左大臣。忠栄(ただひで)は初名。]、秋は仙洞[やぶちゃん注:不詳。春を書いたとされる後柏原天皇は後土御門天皇の崩御によって即位しており、生前に譲位して上皇にはなっていない。]、冬は、八條桂光院[やぶちゃん注:八条宮智仁親王(天正七(一五七九)年~寛永六(一六二九)年)八条宮(桂宮)家の初代、正親町天皇の孫で、誠仁親王第六皇子。]の筆と云。〕

△一枚起請一幅〔建曆二年[やぶちゃん注:一二一二年。]正月廿三日、源空[やぶちゃん注:法然。]が淨宗の安心起行、此一枚に至極する事を示せしものにして、靑蓮院尊鎭法親王[やぶちゃん注:(永正元(一五〇四)年~天文一九(一五五〇)年)は後柏原天皇の皇子。東山知恩院と百万遍知恩寺との本末争いに関わって、一度、青蓮院門跡を離れたが、後に帰住し、天台座主となった。]の眞蹟なり。〕

△短册一枚〔同筆。永祿元年[やぶちゃん注:一五五八年。]、大頂院卒せし頃、牌前へ手向し歌と云。〕

△山越彌陀二尊畫像一軸〔惠心筆。大道寺殿駿河守政繁寄附。〕[やぶちゃん注:「山越彌陀」は「やまごえのみだ」「やまごしのあみだ」と読む。阿弥陀如来の来迎図の一種。阿弥陀如来と菩薩とが山の向こうから半身を現して念仏する人のために来迎し、極楽に救いとろうとする様相を描写したもの。この図様は中国敦煌の壁画の中に既にあるが、本邦では浄土教のチャンピオンで「往生要集」で知られる恵心僧都源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)が比叡山横川(よかわ)で感得した形を伝えたものと伝える(ここは主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。「大道寺政繁」(天文二(一五三三)年~天正一八(一五九〇)年)は後北条氏家臣で北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた。駿河守は通称。ウィキの「大道寺政繁」によれば、『大道寺氏は平氏とも藤原氏とも言われるが、代々末裔では「平朝臣」を名乗っている。大道寺氏は後北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた』。『諱』『の「政」の字は氏政の偏諱を賜ったものだとも言われている(政繁の息子たちも氏直から』一『字を賜っている)。内政手腕に優れ、河越城代を務めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている』。『父の職を相続し、鎌倉代官を務めて寺社の統括にも当たっていたと伝えられ』、『軍事面においては「河越衆」と呼ばれる軍団を率い、三増峠の戦いや神流川の戦いなど』、『北条氏の主要合戦のほとんどに参戦して武功を挙げた』。天正一〇(一五八二)年、『甲斐国の武田氏滅亡後に北条氏が支配していた上野国を』、『武田氏滅亡戦の余波のまま』、『織田信長が領有した。しかし同年、本能寺の変が起こり』、『信長が討死して織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野国を奪還し、逆に甲斐・信濃へ侵攻する(天正壬午の乱)。政繁は信濃小諸城主とされ』て、『最前線を担当』、『徳川家康と対峙するが、北条と家康の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上げ』た。『上野松井田城の城代であった』『政繁は』、天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、松井田が中山道の入り口であることから、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとするが、兵力で劣勢にあり敗北した。そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。水脈を断たれた上』、『兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した』。『その後、豊臣方に加えられ』、各地での旧主『北条氏の拠点攻略戦に加わっている。特に八王子城攻めにおいては、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し』、『最も働いたとされている』。しかし、七月五日の小田原城陥落後の同月十九日、『秀吉から北条氏政・氏照・松田憲秀らと同じく』、『開戦責任を咎められ(秀吉の軍監と意見が対立し讒言された、秀吉に寝返りを嫌われた、北条氏の中心勢力を一掃させたかったなど諸説あり)、自らの本城である河越城下の常楽寺(河越館)にて切腹を命じられた』。『一説には江戸の桜田で処刑されたともいわれる。大道寺氏は政繁の死によって一旦』、『滅亡した』とある。]

△涅槃像一軸〔山角紀伊守定勝室寄附。〕[やぶちゃん注:(やまかどさだかつ 享禄二(一五二九)年~慶長八(一六〇三)年)は後北条氏、後に徳川氏家臣。紀伊守は通称。ウィキの「山角定勝」によれば、『北条氏政の側近を務め、その子・氏直の代に奉行人・評定衆として活躍した』。天正一〇(一五八二)年に『徳川家康と氏直が講和し、家康の娘・督姫が氏直と婚姻する際に』は『媒酌を務め』、天正十四年には『家康への使者として派遣されている』。天正十八年の『小田原征伐で小田原城が開城した後は氏直に従い』、『高野山に上った』。翌十九年に『氏直が没した』(氏直は翌天正十九年八月に秀吉と対面、赦免されて河内及び関東に於いて一万石を与えられ、豊臣大名として復活たものの、十一月に大坂で病死した。享年三十、死因は疱瘡と伝える)『後は徳川家康に仕えて相模国で』千二百『石を与えられている』。『隠居して』後、享年七十五で死去した。『嫡男・政定、次男・盛繁も徳川家康に旗本として仕えた』とある。前注の同じ後北条家臣大道寺政繁とは明暗を分けているのが、頗る対照的である。]

△佛舍利七粒〔文政三年、釋迦の座像を作りて、其れ腹籠とす。事は傳來の記に詳なり。〕[やぶちゃん注:「文政三年」一八二〇年。「腹籠」「はらごもり」と読む。仏像の腹中に入れ籠(こ)めてあることを言う。一般には製作札・小さな観音像・経典などが封入されていることが多い。「傳來の記」本書ではカットされている。]

△九條袈裟一領〔紺地の金襴なり。觀智國師の傳衣と云。〕[やぶちゃん注:「觀智國師」先に出た通り、本大長寺三世普光観智国師。]

△倶利伽羅龍墨畫一軸〔巨勢金岡の筆と云。北條氏康寄附。〕[やぶちゃん注:「倶利伽羅龍」不動明王の立像が右手に持つ倶利迦羅剣(くりからけん)は貪・瞋・痴の三毒を破る智恵の利剣であるが、その剣には倶利伽羅竜王が燃え盛る炎となって巻き纏いついてるが、それを描いたものである。「巨勢金岡」(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観十(八六八)年から十四(八七二)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室(おむろ)で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされるとか、朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わるが、その伝承の一つに、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしようという。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると、二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと、飛んで来て、絵の中に再び、納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり、筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であった、というエピソードが今に伝わる。彼の伝説は各所にあり、近場では現在の金沢八景の能見堂跡のある山に登り、その景観を描こうとして、余りの美景、その潮の干満による自在な変化に仰(の)け反(ぞ)って筆を擲った、という「筆捨松」の話柄は明らかにこうした伝説のありがちな変形譚であって、実話とは信じ難い。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(一)」同「筆捨松」を参照されたい。]

△説相箱一箇〔蓮・菊・蒲萄[やぶちゃん注:「葡萄」に同じい。]・瓜・唐草等の彫あり。小田原彫と云。氏康室寄附。寺記に、「氏康公御臺樣御寄附、法器七品之内」とあり。[やぶちゃん注:「小田原彫」不詳。少なくとも、現代には残っていない模様である。]

 

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[やぶちゃん注:銅雲板の図。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。以下に図の刻印を電子化しておく。「旹」は音「ジ」で訓「とき」、「時」と同義。「天文十七戊申」(つちのえさる)年は一五四八年。□は私には判読出来なかった。ありがちなのは「歳」だが。識者の御教授を乞うものである。]

 

 相摸國東郡岩瀨邑

寄進龜鏡山護國院大頂寺

         如耒前

 

   施主

   北條左ヱ門大夫綱成

旹天文十七戊申□五月十日

 

△銅雲板一面〔長二尺六寸、幅二尺一寸五分。北條左衞門大夫綱成寄附。其図上の如し。〕[やぶちゃん注:前出。長さは約七十八・八センチメートル。幅は約六十三・二センチメートル。但し、残念ながら、この雲板は明治一六(一八八三)年に発生した火災(「鎌倉市史 社寺編」(昭和五四(一九七九)年第四版吉川弘文館刊)では明治十五年十二月とするが、先に示した新しい「こども風土記」版の記載を採用する)で旧本堂(現在のものは明治四四(一九一一)年の再建)とともに焼失し、現存しない。

△鎗二筋〔大道寺駿河守政繁所持と云。下に品同じ。〕

△轡一口

△鐙一掛

△鎗一筋〔北條新左衞門繁廣所持。〕[やぶちゃん注:(天正四(一五七六)年~慶長一七(一六一二)年)はウィキの「北条繁広」によれば、『北条氏繁の五男』とされ、『母は北条氏康の娘の七曲殿とされている』ものの、『年齢的に違うと』もされる。『兄である下総岩富藩主・北条氏勝の養子となる』。通称を新左衛門尉と称した。『小田原征伐では兄とともに伊豆国山中城で奮戦するが、敗退して相模国玉縄城で』、氏勝とともに『徳川家康に降伏した』。その後、『家康に一旦は仕えたものの、嫡男を失った氏勝に乞われ』、『その養子となり、兄の下総国岩富城に入る。しかし、これに対して不満を抱く家臣もおり』、慶長一六(一六一一)年)に『氏勝が死亡すると、反対派は秘かに家康の甥にあたる氏重を養子に迎えて家督を継がせ』た。『これに激怒した繁広は家康に訴訟』を起こしたが、その最中の翌慶長十七年六月に『駿府において死去した』。享年三七。『家康は繁広の』四『歳になる嫡男・北条氏長を召しだし』、『別個に』五百『俵取の旗本として遇した。北条氏長は後に甲州流軍学の学者として有名に成り、軍学北条流兵法の始祖と成った』。『菩提寺は鎌倉市大長寺(祖父地黄八幡北条綱成開基の寺)で』あるとし、そこで、大長寺は大河内松平家(摂津源氏源頼政の孫顕綱の後裔と称した一族で、室町時代には三河吉良氏に家老として仕え、江戸時代の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となって以後は大河内松平家と称した。大名・旗本として複数家あって、「知恵伊豆」と称された老中松平信綱などを輩出した)の菩提寺でもある、と記す。]

△制札一通〔豐太閤小田原陣の時、出す所なり。「相摸國東郡大頂寺」と記す。〕。此餘、名僧の筆蹟、古畫幅等、若干あり。

△三社權現社 中央に東照宮〔御座像三寸九分。源榮作。御臺座の裏に「爲報答神君之洪恩、彌陀名號一唱一刀、謹彫刻神影二軀而奉安之大長寺・宗仲寺、以永祝禱天下泰平矣。元和六年[やぶちゃん注:一六二〇年。]庚申四月十一日功畢 源榮」と彫す。〕、右に熊野、左に金毘羅を安置して鎭守とす。

△道祖神社 稻荷社〔豐岡稻荷と號す。〕 社稷明神社[やぶちゃん注:「社稷」は「しやしよく(しゃしょく)」と読み、「社」は「土地神を祀る祭壇」、「稷」は「五穀の神を祀る祭壇」の総称。大陸渡来の神で、元来は天壇・地壇や宗廟などとともに中国の国家祭祀の中枢を担った。元は本邦の産土神や田の神と集合したものと思われる。]

△鐘樓 文政三年[やぶちゃん注:一八二〇年。先に示した「鎌倉市史 社寺編」も文政三年だが、前掲の「かまくらこども風土記」は文政二年とする。]、現住、在譽單定、再鑄す。[やぶちゃん注:本「新編相模国風土記稿」(大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂)の成立は天保一二(一八四一)年である。]

△銀杏樹 本堂の前にあり。東照宮御手植と云傳ふ。[やぶちゃん注:残念ながら、先に示した明治一六(一八八三)年の火災で旧本堂とともに焼失、現存しない。]

△吉祥水 開山感譽、當寺草創の時、水に乏し。加持して此水を得たり。今に至て久旱にも涸れずと云ふ。

△梅ノ井 是も名水なり。

△北條氏墓 五基あり。一は北條綱成の室〔氏綱の女なり。牌に「大頂院殿光譽耀雲大姉 永祿元稔[やぶちゃん注:一五五八年。「稔」はしばしば見られる「年」の替え字。]戌午九月十日」〕、一は北條新左衞門尉繁廣〔表に「泰淸院殿惠雲常智大居士 慶長十七子天六月八日」、裏に「北條常陸介氏繁男 新左衞門尉繁廣」と彫す。〕、一は北條氏繁の室と云〔七曲殿と號す。五輪塔にて鐫字なし[やぶちゃん注:「鐫字」は「せんじ」。彫った字のこと。]。〕、一は「水月妙淸大姉」と彫る〔何人たるを傳へず、年月も詳ならず。下、同じ。〕。一は鐫字なし。

△支院

庭松院〔實應建と云。應は寬永十六年[やぶちゃん注:一六三九年。]九月十日寂す。本尊は彌陀座像長一尺三寸五分。宅間作。古は村内にありて、末寺なりしを、後年、境内に移す。其舊地、今に存す。〕[やぶちゃん注:「宅間」平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師として、しばしば登場する。]

心蓮社蹟〔正保(しやうほう)元年[やぶちゃん注:一六四四年。]、本坊六世永感、開基す。本尊彌陀は長二尺一寸。惠心作。今、假に本坊に置く。〕

△中門 四足門なり〔右は二天門なりしを、永應二年[やぶちゃん注:一三九五年。]正月回禄の後に改造す。〕。「護國院」の額を扁す〔文政五年、智恩院尊超法親王の筆。〕。[やぶちゃん注:「二天門」左右に一対の仁王像を安置した寺の中門。仁王の代わりに多聞天と持国天を置く場合もある。「永應二年」一三九五年。「文政五年」一八二二年。「尊超法親王」(享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五二)年)は有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王の第八王子。幼名は種宮、諱は福道。文化二(一八〇五)年に空席となっていた知恩院門跡の相続が内定し、光格天皇の養子となって後に文化六年に徳川家斉の猶子となっている。文化七(一八一〇)年三月に親王宣下を受け、二ヶ月後に得度し、法諱を「尊超」と称した。は徳川将軍家の帰依を受ける知恩院門主を務めていた関係から、生涯、五回に亙って江戸を訪れ、時の将軍徳川家慶やその世子の徳川家祥らに授戒している。また、後には仁孝天皇や孝明天皇にも授戒している。教義の修学に励み、宮中で進講を行うほか、文才にも富み、書や彫刻を能くした。なお、彼は既に親王宣下を受けてから出家しているから、正確には尊超入道親王(にゅうどうしんのう)と呼ぶのが正しい。普通に耳にする法親王とは出家した後に親王宣下を受ける場合に限るからである。]

△總門 「龜鏡蘭若」の額をかく〔增上寺隆善大僧正筆[やぶちゃん注:第五十代便譽隆善法主。]。〕。

△下馬札 總門外に建つ。初、北條氏より建置しを、大樹寺殿、尊牌を安置の時、改建られしと云ふ。

△制札 下馬札に相對して立。天正小田原陣の制札なり。

[やぶちゃん注:以下、続くが、当時、大長寺末寺であった「西念寺」は現行では独立した寺院であるので、行空けした(というより、私の住んだ岩瀬のあのアパートを紹介して呉れたのは私の叔父の友人であった西念寺の住職であり、同和尚は新婚の時、私のいた部屋に住まっておられたという関係上、ちゃんと別立てにしたかったというのが本音である)。後の「彌陀堂」以下は、同格で並べた。]

 

〇西念寺 岩瀨山正定院と號す〔前寺末。〕。開山運譽〔慶蓮社と號す。天文三年[やぶちゃん注:一五三四年。]五月十八日寂す。〕。彌陀を本尊とす。

[やぶちゃん注:「岩瀨山正定院」は「がんらいざんしょうじょういん」(現代仮名遣)と読む。先の「かまくらこども風土記」によれば、開山の運誉光道が修行したと伝える、岩屋が現在の本堂の裏にあるが、事実は奈良から平安初期に築かれた横穴墓(おうけつぼ)である(なお、鎌倉時代に発生する「やぐら」とは外見は似ていても全く無関係である)。また、この寺には、有力な檀家で水田を寄附するなどした、江戸日本橋の刃物屋の大店「木屋(きや)」の主人が自分の姿を後世まで残したいとして作った、生人形(いきにんぎょう)風の夫妻の木造座像大小二体(妻のそれは非常に小さいフィギア大のもの)がある。これは顔の色を生き生きと綺麗に見せるために頭部の塗替えを容易にするため、首が抜けるようになっている。平安末から鎌倉期の寄木造り以降、こうした構造は珍しくもないが、年忌供養毎に行われたという、この首の塗替えのために珍事件が発生したという。これを昭和四八(一九七三)年刊の改訂八版「かまくらこども風土記」から引用する。先の新しい第十三版から引いてもいいが、結局、新訂のそれも、古い版のそれを踏襲して記事が書かれているのだから、まあ、殆んどそっくり真似しているわけだ。しかもこの改訂八版は、私の小学校時代(私は鎌倉市立玉繩小学校の卒業である)の恩師が半数近くを占めている。今の版のを電子化して、今の教育委員会から何か言われるぐらいなら(この程度の引用を問題視したら、鎌倉観光事業など、それだけで成り立たない。嘗て私の「新編鎌倉志」の電子化本文を無断転載した「鎌倉タイム」は未だに謝罪もなく、知らん振りしたままで平然と〈鎌倉のジャーナリスト〉を気取っている為体だ)今の版が真似している、私の恩師らのそれをこそ電子化転載しようと思った。以下に示す。「かまくらこども風土記 中」(当時のそれは全四巻)の「中」巻の「西念寺」の条の一部である。私が以上で纏めた枕のところから最後まで引く。

   《引用開始》

 ここの本堂に、おじいさんの坐像があります。これは木屋(きや)というおじいさんが自分の姿を後の世まで残したいと、顔も形もそっくりの木像を彫(ほ)らせたものだということです。このおじいさんは信心深く、寺のために水田を寄付したりして大変尽(つく[やぶちゃん注:底本は「つ」のみ。補った。])した人だといわれています。

 おもしろいことにはこの像の首が抜(ぬ)けるのです。いつまでも同じ顔色を残すには、どうしても塗(ぬ)り替(か)えをしなければなりません。そのために首が抜けるようにしてあったのです。それだけでは別に珍しいとはいえませんが、この首のために大事件が起こったのです。

 木尾というおじいさんがなくなってから、年忌のたびにこの首を塗り替える習慣になっていたのです。何回目かの法事のときのことでした。寺の人が首をふろしきにしっかり包んで、塗り替えのために江戸まで出かけました。神奈川を過ぎ、六郷[やぶちゃん注:(グーグル・マップ・データ)。]を渡って品川に来ると、日も暮れそうでした。そこで品川の宿場で泊まることにして、ある宿にわらじをぬぎました。一風呂浴びて疲れをとり、夕食をとりましたが、まだ寝(ね)るのも早いので、散歩に出ました。首がなくなっては大変なので、女中に預け、

「たいせつなものだから決してあけて見てはいけない。」

と言って出かけました。女中は見てはいけないと言われたので、かえって見たくなり、さわって見たり、さかさにしたりして、いたずらをしていたところへ、他の女中さんが来て話を聞いて、

「珍しい宝物でもはいっているにちがいない。」

と言ってふろしきをあけようとしました。

「でもふたりだけではもったいないから、みんなで見ましょう。」

と女中さんたちを呼び集めました。薄暗(うすぐら)いあんどんのそばで、ふたりの女中さんは胸をわくわくさせながら、ふろしきを解き始めました。他の女中さんたちも、どんな宝物だろうとかたずをのんでじっと見つめていました。箱のふたをそっとあけたとたん、

「キャッ。」

と言ったのは女中さんたちでした。箱の中からはまっさおな生首が、にらんだではありませんか。腰をぬかした者、気を失った者、二階からころげ落ちた者、女中さんたちは大あわてです。宿の主人も驚いていました。そこへちょうど帰って来た寺の人が、騒ぎのわけを聞いて笑いだしました。しかし、だれも木の首だとは信用しませんので、それではと二階へかけ上がり、首を持って来て、あんどんの光に当てました。それでも宿の人は信用しないどころか、逃げ出す人もありました。首の付けねに手をやり、

「このとおり木ですからご安心ください。」

と言われてやっとひとり、ふたりと目がさめ、どっと大笑いしたということです。

 皆さんも、この木尾の木像を見てごらんなさい、きっとびっくりすることでしょう。

   《引用終了》]

 

○彌陀堂 天文中、開基ありし一寺にて、阿彌陀院と號すと云ふ〔今、堂内に置る雙盤に「阿彌陀院」と彫す。〕。後年、衰微して小堂となれり。本尊は春日作なり〔長二尺三寸。〕。大長寺持。下同。

[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)も本書のデータとを転用するだけで、その他の情報が全く載らないから、位置も不明である。

「天文」一五三二年~一五五五年。

「春日」十二世紀後半の慶派の大仏師法師定慶(生没年不詳)がいるが、単なる伝であろう。]

○地藏堂 定朝の作佛を置〔長一尺七寸五分。〕。

[やぶちゃん注:同前で位置不明。

「定朝」定朝(じょうちょう ?~天喜五(一〇五七)年)は平安後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされるが、これも単なる伝と思われる。]

○不動堂 村持。

[やぶちゃん注:同前。位置不明。ここで「岩瀨村」は終わっている。]

2018/08/20

松の針   宮澤賢治

――今日送る友へ

 

   *

 

   松の針   宮澤賢治

 

  さつきのみぞれをとつてきた

  あのきれいな松のえだだよ

おお おまへはまるでとびつくやうに

そのみどりの葉にあつい頰をあてる

そんな植物性の靑い針のなかに

はげしく頰を刺させることは

むさぼるやうにさへすることは

どんなにわたくしたちをおどろかすことか

そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ

おまへがあんなにねつに燃され

あせやいたみでもだえてゐるとき

わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり

ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた

   ⦅ああいい さつぱりした

    まるで林のながさ來たよだ⦆

鳥のやうに栗鼠(りす)のやうに

おまへは林をしたつてゐた

どんなにわたくしがうらやましかつたらう

ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ

ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか

わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ

泣いてわたくしにさう言つてくれ

  おまへの頰の けれども

  なんといふけふのうつくしさよ

  わたくしは綠のかやのうへにも