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2018/08/18

反古のうらがき 卷之一 官人天より降る

 

   ○官人天より降る

 予が祖父向陵翁、若かりし時、書齋に獨り居(をり)しに、忽然として、一人の衣冠の人、櫻の枝より降(くだ)り來る。よくよく見るに、盜賊とも見えず。但し、衣冠の官人、此あたりに居(を)るべき理(ことわり)なし、況や天より降るべき理、更に、なし。おもふに、『心の迷ひより、かゝるものの、目に遮(さい)ぎるなり』と、眼を閉(とぢ)て見ず、しばしありて眼を開けば、其人、猶、あり。降りも來らず、やはり、其邊りにあり。眼を開(ひら)けば、漸々に降り來(きた)る。また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、又、漸々近づき來る。如ㇾ此きこと、三、四度にして、終に椽頰(えんづら)迄來り、椽ばなに手を懸る。『こは、一大事』と思ひて眼を閉ぢたるまゝに、家人を呼びて、「氣分惡(あ)し。夜具を持來(もちきた)れ」と命じ、其儘打(うち)ふして、少しまどろみけり。心氣(しんき)しづまりて後、起出(おきい)で、見るに、何物もなし。「果して妖恠(ようかい)にてはあらざりけり」と、書弟子石川乘溪(じやうけい)に語りしとて、後、乘溪、予に語りき。此話、曲淵甲斐守といふ人も、此事ありしよし聞けり。これは、曲淵、心しつまりて驚かざれば、妖氣、鄰家(りんか)に移りて、卽時に、鄰(となり)主人、こし元を手打(てうち)にして狂氣せしよし、語り傳(つ)たへたりとなり。

[やぶちゃん注:この話、既に『柴田宵曲 妖異博物館「異形の顏」』で電子化している。そこで宵曲は「或は曲淵、川井兩家に同じやうな事があつたのかも知れない」などという無批判の肯定的解釈を示しているが、私はここは元にあった作り話から派生した都市伝説であるように思われる。そもそもがリンク先の注示した如く、酷似した話の登場人物が「河合」「川合」で、「かはひ」と「甲斐守」の「甲斐」(かひ)は音型が酷似しており、しかも「河合」「川合」「曲淵」は如何にも縁語染みて見えるからである(但し、後で注する如く「曲淵甲斐守」は実在する)。前話では超冷静だった鈴木桃野が、この「石川乘溪」(不詳)なる祖父の書道の弟子の怪しい話にコロリと騙されるとは、ちと、意外。

「祖父向陵翁」多賀谷向陵(たがやこうりょう 明和三(一七六六)年~文政一一(一八二八)年)。底本の朝倉治彦氏の注には、本文には「祖父」とあるのに『母の兄』とする(それについての注記はない)。『石を愛し、特に愛した五石を以て五石居士の別号があった。四谷佐門町に住し、環翠堂なる塾を経営した。能書を以て知られ』、『不忍池弁天堂の裏手の武道家櫛淵虚冲軒の碑はその筆』とある。【2018年10月1日追記】その後に知った森潤三郎著「藏書家白藤として知られたる書物奉行鈴木岩次郎成恭の事蹟」(大正一四(一九二五)年刊)の「十、成恭の子成夔の事蹟とその著書」(国立国会図書館デジタルコレクションのここ)を見ると、『叔父多賀谷向陵』とある。ますます不可解。

「遮(さい)ぎる」「さえぎる」(歴史的仮名遣もこのままで「さへぎる」は正しくない)の更に古形の読みで示した。

「降りも來らず、やはり其邊りにあり」この話の面妖な部分は私はここであろうと思う。最初に「櫻の枝より降(くだ)り來る」と言っているのに、ここでは「降りも來らず」と言って、更にこの後ではまた、「やはり、其邊りにあり。眼を開(ひら)けば、漸々に降り來(きた)る」、「また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、又、漸々近づき來る」これを実になお、「三、四度」も繰り返して、だんだん、だんだん、降りて来るというのだ。私はここにある種の作為的な嘘臭さ(怖がらせる時間を引き延ばす或いは最後に眼を開けた時に目の前に官人の顔がアップであるかも知れぬという恐怖を演出する手法)を感ずる一方で、別に私はこれは桜の枝から空中を浮遊して下って来ているのではないか、「竹取物語」の天人の使者のように、地面から浮き揚がった形でだんだん近づく(あれは地上の穢れに触れぬためだと私は思っているのであるが)のと同じではないか? と考えもしたのである。とすれば、これは或いは宇宙人の来訪ででもあったのかもね! などと軽口を叩きたくもなった。私が嘗てUFOを研究し、宇宙人を信じていた頃の後遺症である。

「椽頰(えんづら)」大きな屋敷などで、主だった座敷と廊下の間にある畳敷きの控えの間のこと。襖の立て方によって廊下の一部分とも、部屋の一部分ともなるようになっている。「椽」は「縁」のこと。前条で既注。

「椽ばな」「縁端」。

「心氣(しんき)」心の動揺或いはそれによって引き起された心悸亢進。

「曲淵甲斐守」旗本で町奉行であった曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)であろう。ウィキの「曲淵景漸によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』。寛保三(一七四三)年、『兄景福の死去に伴い』、『家督を継承、寛延元年』(一七四八年)『に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進』明和二(一七六五)年、四十一歳で『大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任され』た、明和六年には『江戸北町奉行に就任し、約』十八『年間に渡って』、『奉行職を務め』、『江戸の統治に尽力した』。『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した』。『経済にも精通しており、大坂から江戸への米穀回送などに尽力した』。『当時の江戸市中において曲淵景漸は、根岸鎮衛と伯仲する名奉行として庶民の人気が高かった』。明和八(一七七一)年三月四日に『小塚原の刑場において』、『罪人の腑分け(解剖)を行った際、その前日に「明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師達に伝令した。この通達により「解体新書」などで名高い杉田玄白と前野良沢・中川淳庵らは刑死人の内臓を実見することができ』、かのオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」の『解剖図と比較することで』、『日本の医学の遅れを痛感することにな』ったのであった。後の左遷と、勘定奉行への返り咲きはリンク先を読まれたい。

「こし元」「腰元」。

「傳(つ)たへたり」「た」を送っているのはママ。]

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