譚海 卷之三 今上御位の間の事
今上御位の間の事
○今上の御所作、每朝寅の刻御行水御裝束にて、御拜の禮行るゝと也。御不豫の外故事なし、殊に御苦勞なる御事と承りし。されば櫻町天子御製に、
朝ごとの鳥の初音におき出でて夜深くいそぐあさまつりごと
と遊されしよし、此宸翰閑院宮(かんゐんのみや)へ下されけるとぞ。但(ただし)御幼稚にて御卽位あれば、太政大臣右の御名代を勤(つとめ)らるゝ也。その時は攝政殿と申す、天子御みづから御拜行(おこなはる)る時は攝政の職なし。
[やぶちゃん注:「寅の刻」午前三時から午後五時。
「御行水」禊である。
「御拜」八咫の鏡のレプリカが飾られていた賢所(かしこどころ)の礼拝か。
「不豫」「不例」に同じ。天子の体調不良や病い。
「閑院宮」宝永七(一七一〇)年に世襲親王家の一つである閑院宮家を創設した直仁親王(宝永元(一七〇四)年~宝暦三(一七五三)年)。
「御幼稚にて御卽位」前条にも出た桜町天皇(享保五(一七二〇)年~寛延三(一七五〇)年)の即位は享保二〇(一七三五)年四月で即位当時は満十五歳で、幼稚とは言えないと思うが。
「太政大臣」「攝政」桜町天皇の即位の折りは、太政大臣も摂政も任官者はいない。関白なら近衛家久(貞享四(一六八七)年~元文二(一七三七)年)であり、彼は少し前の享保一八(一七三三)年の凡そ一年だけなら、中御門天皇の摂政ではあった。ここは一般論を述べているのであろうが、どうも文脈がすっきりしないのである。]
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