反古のうらがき 卷之一 幽靈
○幽靈
麻布某の所の寺は、市(いち)に近き所なり。文化の頃、其墓所に幽靈ありて、夜な夜な物語りする聲聞ゆとて、人々、おそれあへり。其わたりに膽太(きもふと)き商人ありしが、或時、月もほのぐらき夜、宵の頃より、獨り、ひそやかに墓所に忍び入り、大(だい)なる墓所の蔭に身を潛(ひそ)めて窺ひける。夜も已(すで)に子(ね)を過(すぎ)て、蟲の音、彌(いよいよ)さへわたり、月も、おりおり出(いで)ては、又、雲に入る、夜風の身にしみて、ひとへぎぬ、しめりがちにて、ゑり元、ぞくぞくとして覺(おぼえ)けるが、こなたの芝がきのほとりより、人の立出(たちいづ)る樣に覺へしが、又、其あたりより、人、來(きた)ると覺へと[やぶちゃん注:清音はママ。]、相(あひ)かたろふ樣(さま)、いと睦(むつ)まじげなる物語りなり。商人(あきんど)、耳をすまして聞くに、多くは絶(たえ)て久しき離れをかたり慰(なぐさ)むるにてぞ有ける。『如何なる者にや』と、月の明るくなるを待得(まちえ)て、のび上りて見しに、一人は廿四、五の瘦(やせ)たる男なり。今一人は六十斗(ばかり)の老婦(うば[やぶちゃん注:底本のルビ。])にて、其(その)かたろふ樣(さま)は親子に似ずして、夫婦(めをと)に似たり。商人、一ゑん、解しがたく、猶、窺ひ居(をり)しが、折節、夜寒の風におかされて、高くはなびけるに、驚きて、かたちは見へずなりぬ。明(あく)る日、寺に行(ゆき)て、右の次第を語り、かの芝がきのあたりを見るに、合葬の墓ありて、今、無緣なり。「其墓のぬしは、去りし頃、廿四、五にて死せる商人なり。其妻、久しく生のびて洗(せん)だく婆々となり、此(この)二、三年跡(あと)に六十斗(ばかり)にて死せり。よつて合葬せし也。おもふに夫婦の者、無緣にて浮ぶこと能はず、幽靈となりて出(いづ)るなるべし。其樣は、皆、生前の形にて、其間(そのかん)、三十年も立(たち)たれば、不つり合(あひ)の姿なること、其理(ことわり)に當れり」と寺僧も申(まうし)あへりとぞ。しかし、其頃の、いたづらなる滑稽人の作りし話にや。
[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]
幽靈は尋常のことなり。男、廿四、五、女房、六十計(ばかり)といふところ、有爲轉變の相を顯(あらは)し、巧(たくみ)に考(かんがへ)たるところ、夜譚・聊齋の二書にもなき新趣向なり。
[やぶちゃん注:もしこれが作話ではないとすれば、寺の名も記されてあるはずであり、作話としても時制的には新しい「都市伝説」の類いに含まれから、今に伝わり、尾鰭がついておかしくないと思うのだが。麻布に詳しい方がおられるので、お伺いを立てておく。【2018年8月21日追記】「Blog - Deep Azabu」で素晴らしい麻布文化史の考証をなさっていらっしゃる方(以前にも情報を戴いたことがあり、フェイスブックでも知り合いである)にお願いしてみたところ、以下の詳細な情報提供があった。『私なりの見解』との謙辞を添えておられるけれども、本条が眉唾的で簡単に噓の皮が剝がれるような都市伝説ではなく、実際のロケーションに基づくものである可能性が確かめられたように私は思う。提供者のお許しを得て、以下に転載させて戴く。
《引用開始》
よく考えたら私もこの事象と思われる記事を書いておりました。ただ、出典を記していないので「反古のうらがき」だったか覚えておりません。
先日お伝えしたとおりこの文章で場所確定の手がかりとなるのは
「市(いち)に近き所なり」
であると考えていますが麻布で一番有名な「市」を思い出しました。
それは十番馬場で行われる「馬市」で、ここでは仙台坂の仙台藩伊達家から馬が出品され大変な賑わいであったと言います。またこの馬場で使用された乗馬用の袴は「十番袴(じゅうばんばかま)」として有名であったそうです。
この市があった場所は現在の東麻布三丁目あたりでその西側には今も残る不自然に広い大通りがあります。
この通りは現在「東京法務局港出張所」前の通りとなっており、このあたりで一番の繁華地であった東麻布イースト商店街の道幅より広く不思議に感じていました。
もしこの十番馬場の馬市がここでいう「市」であるならば近くの寺院は麻布永坂にある、
①大長寺(麻布永坂から1965(昭和40)年府中市若松町5-9-5に移転)
②光照寺(麻布永坂から戦後八王子市絹ヶ丘3-8-1に移転)
③天徳寺(狸穴・現経緯度原点。移転先不明・虎ノ門は同名別寺)
あたりになるかと思われますが、その中でも近いのは①②です。
[やぶちゃん注:以上は提供者が添えて下さった地図である。]
②にはこの話ではないのですが、念を残した女幽霊の話として以下の話が残されています。
※その他にも現在の麻布十番などでも市が立っていたとも思われますが、不明です。
また先ほどお伝えした法務局前の大通りですが江戸期の地図には麻布十番と記されていますが、現在はここを麻布十番とはいいません。
以上、私見ながらお伝えします。
《引用終了》
調べてみたところ、①の大長寺は日蓮宗、②の光照寺は話柄当時は浄土真宗である(②はかつては現光寺と称して奈良県吉野にあったとし、その頃は天台宗で、元和年間(一六一五年~一六二四年)に浄土真宗に改宗し、寛永四(一六二七)年麻布永坂町へ移転している。③は不明)。本話は宗派を匂わせるものは残念ながらないけれども、参考に教えて下さった「扇箱の秘密」というのは(因みに、この話は私が手掛けたことがある「耳囊 卷之十 幽魂奇談の事」のそれであった。但し、私が訳注したのは二〇一五年三月二日であり、「Blog
DEEP AZABU」のそれは二〇一二年十一月七日の記事であるから遙かに速い。情報提供者の名誉を守るために一言言い添えておく)、寺はちらっと霊の菩提を弔う寺とし出るだけであるが、怪談との親和性があるとは言えよう(それにしても、この「耳囊」のそれは細部まで緻密なリアリズムで構築された、極上の実話怪談として特異点的に凄いものである)。以上から私はこの光照寺が本条の「麻布某の所の寺」のモデルの最有力候補ではないかと感じている。最後に改めて「Blog - Deep Azabu」のブログ主である情報提供をして下さったT・I氏に、改めて感謝申し上げるものである。
「文化」一八〇四年~一八一八年。
「子」午前零時。
「其あたりより、人、來(きた)ると覺へと」この助詞の「と」は逆接の接続助詞「ど」であろう。その辺りから、人が来ている気配がしてくるのを感じた「が」(真夜中のことで、丁度、月も雲に入って陰っていたために視認は出来なかった)の含みである。さればこそ「月の明るくなるを待得て」という次のシークエンスとの繋ぎがスムースに流れるのである。
「離れ」「わかれ」と訓じたい。
「のび上りて見しに」商人が隠れ潜んだ墓が大きなものだったからである。映像的なインパクトがあるシーンだが、それ故にこれは実体験ではなく、寧ろ、作話された怪談という感じが私にはしてくる。カメラが一人称ではないからである。
「かたろふ」「語らふ」。
「一ゑん」「一圓」であるが、呼応の副詞。ここは打消ではなく「難し」の語を伴って「少しも・全く」の意。
「はなびける」「鼻びける」。くしゃみをしたのである。
「洗(せん)だく婆々」民家を巡って洗濯をしては僅かな手間賃を貰う婆さんのこと(静岡に伝わる妖怪に同名のものがおり、夜間、闇の中、川岸で洗濯をするような音が響く妖異を「小豆洗い」「米磨ぎ婆」などと同様に「洗濯婆」と呼び、狐の仕業などとするが、ここはそれとは無関係)。
「此(この)二、三年跡(あと)に」今から二、三年前に。
「三十年」されば、商人が亡くなった時の妻は二十歳前である。
「いたづらなる滑稽人」後の評言(本書の冒頭から見て桃野のものではなく、「天曉翁」浅野長祚のそれ)では知られた怪談には見られない新味の趣向があり、「巧(たくみ)に考(かんがへ)た」ところを高く評価しているから、或いは、そんな「いたづらなる滑稽人」=市井の滑稽談好きの好事家の作話ではなく、当時の本格的な戯作者が片手間に書いた怪奇小説ででも、あったものかも知れない。
「夜譚」不詳。以下の「聊齋志異」と併置するからには、それと並び得る中国の怪奇談集でなくてはならぬが、私もそちらのフリークの端くれであるが、ピンとこない。底本の朝倉氏の注も知らん振りしている。
「聊齋」私が小学生高学年より実に五十年も偏愛し続けている清初の蒲松齢(一六四〇年~一七一五年)が書いた文語怪奇短編小説集「聊齋志異」。全約五百話。一六七九年頃に成立し、著者の死後、一七六六年に刊行された。]