フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 反古のうらがき 卷之一 賊心 | トップページ | 反古のうらがき 卷之一 母を熊と見る事 »

2018/08/31

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(53) 忠義の宗敎(Ⅰ)

 

  忠義の宗敎 

 

 『社會學原理』の著者は曰ふ、『武權專制の社會は、自分等のその社會の勝利を以て、行動の最高目的とする一種の愛國心を有する必要がある。彼等は權力者への服從心の源泉である忠義の心を收攬して居る必要がある、――而して、彼等の從順なるがためには、彼等は充分なる信仰を有たなければならぬ』と。日本人の歷史は鞏固にこの眞理を例證してゐるものである。いづれの他の人民の間にあつても、忠義の念が、この國民以上に感銘を與へるやうな且つ異常な形を採つた事は未だ曾てない事である。又いづれの他の人民の間にあつても、その服從心がこれ以上の信仰を以て培はれた事はない、――信仰とは祖先の祭祀から出た信仰である。

[やぶちゃん注:「社會學原理」既注であるが、再掲しておくと、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の『総合哲学体系』(“ System of Synthetic Philosophy ”)全十巻の第三巻“Principles of Sociology”(一八七四年~一八九六年)。

「收攬」人心等を捉えて、手中に収めること。]

 讀者はお解りの事と思ふ、如何にして孝道の敎へ――服從に就いての家族的な宗敎なる孝道――社會の進化と共に擴がり、且つ頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]それが分かれて社會の要求した政治的服從竝びに戰略が要めた[やぶちゃん注:「もとめた」。]軍事的服從――その服從の意のみでなく、情をこめたる服從であり――責任の感のみでなく、本分を守るといふ情である――となるかを了解された事であらう。その起原から考へて、かくの如き本分を守るといふ服從はその本質上宗敎的である、そして忠義の感に表はれた場合、それは尙ほ宗敎的性質を有つてゐる――一種の自己獻身の宗敎の不斷の表明となつてゐる。忠義の感は早く武人の歷史の中に發達して居て、吾々は最古の日本の年代記の中に、その感動すべき例を見るのである。吾々はまた恐るべき話を知つて居る――自己犧牲の話を。 

 家臣はその天孫である領主から總てのもの――理論上計りでなく實際に、則ち持物、家庭、自由及び生命を――貰つて居た。これ等の物の一部又は全部を、家臣は領主のためには、要求に應じて苦情を言はずに、提供しなければならなかつた。而して領主に對する義務は、自家の祖先に對する義務と同樣、主人が死んでもなくなるものではなかつた。兩親の亡靈がその生きて居る子供達に依つて食物を供へられる通りに、領主の靈魂も、その在世中直接その服從して仕へてゐた人々に依つて禮拜を以て奉仕されるべきであつた。統治者の靈魂が、何等從者を伴なはずして、只だ一人影の世界に人つて行く事は、許すべからざる事であつた。少くともその生存中仕へてゐた者の幾人かは、死んでその人に從はなければならなかつた。かくの如くして上古の時代には生贄の習慣――初めは義務的に、後には任意的に行つた――が起つたのである。前章にも述べた通り、日本では生贄なるものが、大きな葬式には缺くべからざるものであつた、それは第一世紀頃迄殘つてゐたが、その頃から始めて燒いた粘土の人の形(埴輪)なるものが公然の犧牲に代つたのである。この義務的殉死、則ち死を以てその主君に從ふと云ふ事が廢止されて後も、自己の意志から出た殉死なるものは、第十六世紀に至るまで存續し、それが武權に伴なふ風俗となつた事は、既に述べた所である。大名が死んだ時には、十五人や二十人の家臣が腹を切る位の事は普通の事であつた。家康はこの自殺の習慣を禁止しようとした。その事は彼の有名な遺訓の第七十六條に次のやうに述べられてゐる――

主人死而其臣及殉死事非ㇾ無古例其聊以無其理君子已誹作俑直臣は勿論陪臣以下迄堅可ㇾ制ㇾ之若違背せは却非忠信之士其跡沒收して犯法者の鑑たらしむへき事

[やぶちゃん注:自己流で訓読しておくと、

主人、死して、其の臣、殉死に及ぶ事、古への例に無きに非ざれども、其れ、聊(いささ)かも以つて其の理(ことわり)無く、君子、已に「誹作俑(ひさくよう)」たり。直臣(ぢきしん)は勿論、陪臣以下迄、堅く、之れを制すべし。若(も)し、違背せば却つて忠信の士に非ず。其の跡、沒收(もつしゆ)して犯法者(ぼんはうしや)の鑑(かがみ)たらしむべき事。

「誹作俑」(俑を作るを誹(そし)る)は「悪しき前例を批難する」こと。俑は人形。埋葬に際して兵馬俑の如きもの作って殉ぜしめた習慣が、後世、生身の人間を以って葬に殉ぜしめることの悪しき端緒となった、の意から。「孟子」の「梁惠王」に由る。「陪臣」上級領主の直臣の臣下。]

 

 家康の命令はその家臣の間に殉死の風をなくさしたが、その死後にはつづいて行はれた、むしろ復活した。一六六四年、將軍家は訓令を發して、何人を問はず殉死をなした者の家族は罰せられる旨を闡明し、實際將軍はそれに熱心であつた。則ちこの訓令を右衞門之兵衞なるものが侵して、その主奧平忠正の死に際し切腹した時、政府は直にこの自殺者の家族の土地を沒收し、その二人の子息を死刑に處し、他の者を流罪にした。現在の明治の世にさへ殉死は屢〻行はれはしたが、德川幕府の決斷的な態度は、大體に於てその實行を阻止し得たのである、それで後には最も忠烈な家臣も、宗敎を通じてその犧牲を行ふことを通則としてゐたのであつた。則ちはらきりを爲さずに、家臣はその君主の死に際して頭を剃り、佛門に入るやうになつたのである。

[やぶちゃん注:第四代将軍徳川家綱が「武家諸法度」の付則として口頭伝達された(殉死禁止を成文法化すべきであるという意見もあったが、殉死を美風と見る意見が幕閣内にも存在したためとされる。ここはウィキの「追腹一件」の注釈に拠った)、殉死を不義無益として禁止した殉死禁止令は寛文三(一六六三)年に発令されている(これは実は第一には殉死が幕府が公的には禁じていた男色の延長線上にあるものと見做されたことによる)。なお、狭義の殉死(源平以後の戦時のそれではなく、平時に病気・事故・処罰等で亡くなった主君に対して追腹(おいばら)をすること)は、室町時代の明徳三(一三九二)年に室町幕府管領であった細川頼之の病死(享年六十四)に際し、殉死した三島外記入道(享年六十四)を嚆矢とするとされているようである。

「この訓令を右衞門之兵衞なるものが侵して、その主奧平忠正の死に際し切腹した時……」「奧平忠正」(平井呈一氏もそう訳しているが)は「奥平忠昌」の誤りウィキの「追腹一件」によれば、殉死禁止令発令から五年後の寛文八年二月十九日(一六六八年三月三十一日)、『下野国(いまの栃木県)宇都宮藩の』『藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死した。忠昌の世子であった長男の奥平昌能』(まさよし)『は、忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し』、『「いまだ生きているのか」と詰問し、これが原因で杉浦はただちに切腹した』(太字下線やぶちゃん)。『家臣が主君の死後、その後を追う風習は当時は「追腹(おいばら)」と称され、家臣が主君に殉じるのは、「一生二君に仕えず」とする武家社会のモラルに由来していた。当初は戦死の場合に限られていたが、のちには病死であっても』、『追腹が盛行し、江戸時代初期に全盛期をむかえた』。『徳川家綱のもとで文治政治への転換を進めていた江戸幕府』は既に注した通り、殉死禁止令を発していたことから、『昌能・杉浦の行為を』、『ともに殉死制禁に対する挑戦行為ととらえ、御連枝の家柄とはいえ』(忠昌は徳川家康の曾孫)、『奥平家に対し』、二『万石を減封して出羽山形藩』九『万石への転封に処し、殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど』、『厳しい態度で臨んだ』。『これにより、殉死者の数は激減したといわれる』。『なお、忠昌没後』十四『日目には、奥平内蔵允』(くらのすけ:奥平家譜代衆である五老の家柄。千石取)『が、法要への遅刻を「腰抜け」となじった奥平隼人』(主君奥平家の傍流にあたる七族の家柄。千三百石取。奥平内蔵允とは従兄弟同士であったが、平素より仲が悪かった)に対して、『武士の一分を立てるため』、『と斬りつけた事件(興禅寺刃傷事件)』(双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となったが、その夜、内蔵允は切腹した。詳しくはウィキの「宇都宮興禅寺刃傷事件」を参照されたい)『がもとで、内蔵允の子奥平源八らによって』、『江戸牛込浄瑠璃坂での仇討ち事件(「浄瑠璃坂の仇討」)がのちに起こっている』とあり、これらはひとえに奥平昌能の無能による不幸な事件であったことが判る。

「現在の明治の世にさへ殉死は屢〻行はれはした」これは西南戦争などの戦時の広義の殉死。本書は明治三七(一九〇四)年の作であり、言わずもがなであるが、乃木希典の明治天皇への殉死は大正元(一九一二)年九月十三日)は小泉八雲の没(明治三七(一九〇四)年九月二十六日)後のことなので、注意されたい。小泉八雲が生きていたら、乃木の殉死をどう考えたか、興味深いことではある。]

 殉死の風は日本の忠義の念の只だ一面を表はしたものに過ぎない。殉死の他に、よしそれ以上とは言はれないまでも、それと同樣に意義の深い風習があつた。――例へば殉死としてではなくて、武士の敎訓の傳統から要められた自己に被らす[やぶちゃん注:「かうむらす」或いは「かぶらす」。]處罰としての武人一流の自殺の習慣の如きがそれである。處罰の上の自殺としての、はらきりを禁ずる明白なる理由から成る立法上の法令はなかつた。かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事であつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から傳來したものであるかも知れない。古代の日本人は縊死に依て、自殺を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の證明する所である。腹切を一つの風習として又特權として始めたのは武人階級であつた。以前は、敗軍の將や、包圍軍の襲にあつた城塞の守將は、敵の手に落ちるのを避けるために自盡した――それは現在に至る迄殘つてゐた習慣である。武士に死刑の辱を受けさせる代りに切腹する事を許した武人の慣習は、第十五世紀の絡り頃に、一般に行はれるやうになつたと考へられる[やぶちゃん注:私の前段の冒頭の注の太字下線部を参照されたい。]。爾後武士は一言の命令で自殺するのが、當然の本分となつた。武士は總てこの規律的な法律に從はせられ、地方の領主と雖もこれを免れる事は出來なかつた。そして武士たるものの家族では、子供等は男女共に、自分一身の名譽のためか、或は君の意志でその要求のあつた場合、何時でも自殺の出來るやうに、その方法を訓へ[やぶちゃん注:「をしへ」。]られてゐた……私は言つて置くが、婦人ははらきりでなく、自害をした――委しく言へばただ一突きで動脈を斷ち切るやうに短刀で咽喉を突く事である……切腹(はらきり)の儀式の詳細の事に就いては、それに關する日本文をミツトフオド氏が飜譯したものに依つて充分よく知れ亙つてゐる故、私はその事に觸れる必要はあるまい。ただ記憶すべき重大な事實は、武士(さむらひ)たる者の男子や歸人に、何時でも剱を以て自殺の出來るやうに、心がけてゐる事を要求したのは名譽と忠義の心とのためであると云ふ事てある。武士に取つては、あらゆる破約(有意的にせよ無意的にせよ)、難かしい使命を果たし得なかつた事、見苦しい過失、否、君主から不機嫌な一瞥を受けただけでも、はらきり、則ち好んで難かしく言へば、漢語で言ふ切腹の充分なる理由になつた。高い位の家臣の間では、君主の非行に對して、それを正しくする、あらゆる手段が盡きた時、切腹に依つて諫めると云ふ事が、矢張り一つの本分であつた――その雄壯な風習は、事實に基づいた幾多の人氣ある戲曲の主題となつて居る。武士階級の結婚した婦人の場合は――直接に關係あるのはその夫に對してであつて、君主に對してではないが――戰時に於て名譽を維持する手段として、大抵は自害の方法を取つた。尤も時には、【註】夫の死後その靈に貞節を誓ふために爲された事もあつたが、處女達の場合に於ても同樣であつた。その理由に至つては異る所がありはしたが、――武士の娘達は往々貴族の家庭に召使として入つたものであるが、その家での殘酷な陰謀は容易に娘達の自殺を招致し、若しくは又君主の奧方に對する忠義の念が自殺を要める事もあつた。召使としての武士の娘は、普通の武士が領主に對すると同じやうに、親しくその奧方に忠節を盡くさなければならなかつた。されば日本の封建時代には幾多の雄壯な女が居る次第である。

註 日本の道學者益軒は恁ふいふ事を書いた、『女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服從すべし』と。

[やぶちゃん注:「かかる自殺の形式は上代の日本人の知らない事であつたらしい、蓋しそれは他の軍事上の慣習と共に、支那から傳來したものであるかも知れない」ウィキの「殉死によれば、『考古学的に見て』、『具体的な殉死の例は確認できず、普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品の見られない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また』、五『世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている』。中国の歴史書「三國志」の「魏志倭人傳」には、「卑彌呼以死大作冢徑百餘步徇葬者奴婢百餘人」『とあり、邪馬台国の卑弥呼が死去し』、『塚を築いた際』、百『余人の奴婢が殉葬されたという。また』、「日本書紀」の「垂仁紀」には、『野見宿禰が日葉酢媛命』(ひばすひめのみこと ?~垂仁天皇三十二年:垂仁天皇皇后)『の陵墓へ』、『殉死者を埋める代わりに』、『土で作った人馬(埴輪)を立てることを提案したという』。また、「日本書紀」大化二(六四六)年三月二十二日の条によれば、『大化の改新の後に大化薄葬令が規定され、前方後円墳の造営が停止され、古墳の小型化が進むが、この時に人馬の殉死殉葬も禁止されている』とある。

「古代の日本人は縊死に依て、自殺を行ふのが普通であつた事は、『日本紀』の證明する所である」「日本書紀」の天武天皇元(六七二)年七月二十三日の条に、「壬申の乱」で敗れた大友皇子が首を吊って自害するシーンが記されてある。

   *

男依等斬近江將犬養連五十君及谷直鹽手於粟津市。於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。

   *

「ミツトフオド氏が飜譯したもの」複数回既出既注の、イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年:既出既注)が一八七一年に刊行した“ Tales of Old Japan ”の附録の冒頭にある“An Account of the Hari-Kiri”(「『腹切り」の理由)を指すか。

「益軒」福岡藩士で本草学者・儒学者の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。

「女には領主なし、女はその夫を敬ひ、夫に服從すべし」当該原文相当のものを探し得なかったが、益軒の「和俗童子訓」(宝永七(一七一〇)年作)の第五巻「敎女子法」の第八条、

   *

婦人には三從の道あり。凡(およそ)婦人は柔和にして、人にしたがふを道とす。わが心にまかせて行なふべからず。故に三從の道と云(いふ)事あり。是亦、女子にをしゆべし。父の家にありては父にしたがひ、夫の家にゆきては夫にしたがひ、夫死しては子にしたがふを三從といふ。三のしたがふ也。

   *

を意訳したものを、戸川が文語訳したものか。]

 極古い時代には死罪に處せられた役人の妻たるものは、自殺するのが習慣となつて居たらしい――古代の年代記にはその例が澤山ある。併しこの風習は恐らく幾分古代の法律に依つて說明される、則ちその法律は、事件とは關係なくして、罪人の家族は、その罪に對して、罪人自身と同じ責任を有するものとしてゐたからである。併し又夫を失つた妻が、失望のためではなくて、他界まで夫に從ひ、生存中と同じやうに夫に仕へようとする願ひから、自殺をするのは、また正に極めて當然な事であつた。死んだ夫に對する舊い義務の觀念をあらはす女の自殺の例は、最近にもあつた事である。かくの如き自殺は尙ほ昔の封建時代の規則に從つて爲される――この場合女は白裝束をする。最近の支那との戰爭の時に、この種の驚くべき自殺が一つ東京に起つた、その犧牲者は戰死した淺田中尉の妻であつた。彼女は僅二十一歲であつた。彼女は自分の夫の死を聞くや、直に自分の死の用意にかかつた――昔の慣例に從つて親戚の者に別離の狀を書き、身の𢌞はりの始末をつけ、家中を綺麗に掃除して、それから彼女は死の裝束を身につけ、客室の床間に向つて筵を敷き、夫の寫眞を床間に飾つて、その前に供物をあげた。用意が萬端整ふと、彼女は寫眞の前に坐つて、短刀を取りあげ、そして見事な一突きを以て、咽喉の動脈を斷つたのである。

[やぶちゃん注:「淺田中尉の妻」「日清戦争」の清国軍の拠点であった鳳凰城への攻撃(明治二七(一八九四)年十月)で重傷を負い、治療の甲斐なく、陣中で亡くなった丸亀第三大隊所属の田中中尉の妻「シン子」(奇しくも同第三大隊大隊長岡見中佐の娘であり、戦死報(但し、戦場で死亡と誤認している)は父から齎された)。征清美談上野羊我二九一八九六)教育書房刊)の「田中尉夫人ノ自殺で読める。リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。彼女は浅田に嫁して僅か二年であった。]

 名譽を維持するために自殺するといふ義務の他に、武士の女子にとつては、道德上の抗議として自殺をする義務があつた。既に述べた如く、最高なる家臣の間には、君主の非行に對する諫告として、あらゆる說得の手段もその效果のなかつた時、はらきりを行ふ事は、一つの道德上の義務であると考へられてゐた。さむらひの婦人――自分の夫を、封建的な意味での君主と思へと訓へられてゐる――の間では、夫の不名譽な行ひに對して、忠言や諫告をしてもそれを夫が聽き入れない場合、自分の本分を表白するために自害する事は、一種の道德的義務とされてゐたのである。かくの如き犧牲を奬勵する所の妻たる者の義務に就いての理想は今尙ほ殘つてゐて、道德上の非行を叱責するために生命を惜しげもなく投げ出した例は、最近に於ても一つならず舉げられる。一八九二年、長野縣に於ける地方選舉の時に起つたものは、恐らく最も感動を與へる例であらう。石島といふ名のある物持ちの選舉人が、或る候補者の選舉に立派に助力すると公約した後、寢返りして反對黨の候補者を援助した。この約束の破棄を聞くや、石島の妻は、白裝束に身をかため、昔のさむらひの仕方に從つて自害し果てたのである。この剛氣な婦人の墓は、尙ほその地方の人達に依つて花を以て飾られて居り、その墓石の前には香の煙が絕えない。

[やぶちゃん注:「一八九二年、長野縣に於ける地方選舉の時に起つたもの」明治二十五年。この事件は調べ得なかったが、これは同年二月十五日に行われた、第二回衆議院議員総選挙ではなかろうか。しあわせ信州 長野県魅力発信ブログい~な 上伊那天竜川と選挙のお話」に、当時の有権者は国税十五円以上を収める二十五歳以上の男子のみで、記名投票で行われたとあり、『この選挙では吏党と民党との対立が激化』『(吏党:政府側の政党、民党:自由民権運動を推進した民権派各党)』し、『各地で両者の候補者や運動員が衝突』、『全国で死者』が二十五人も出たらしいとある』。『伊那でも選挙干渉が激しく、選挙当日』、ある民党側の議員を支持していた『有権者は、天竜川の橋の上で対立派が雇った壮士や博徒に通行を妨害され(壮士:職業的な政治活動家)』、『寒い雪の降る中を天竜川を泳いで投票に行った』という驚くべきことが書かれてある。]

« 反古のうらがき 卷之一 賊心 | トップページ | 反古のうらがき 卷之一 母を熊と見る事 »