諸國里人談卷之五 大烏賊
○大烏賊(おほいか)
享保十五年の春、江戸神田、中島氏、四、五人を催し、江の島參詣しけるに、江の島の獵師町に、大きなる烏賊(いか)を引〔ひき〕あげたり、と騷ぎける。よつてこれを見るに、長さ九尺ばかりあり。斯(かゝ)る巨魚(こぎよ)もあるものか。漁人(ぎよじん)も「前代(ぜんだい)、そのためし、あらず」と云〔いふ〕。「江戸へ送らば、よき芝居物ならん」といひて通〔とほり〕たり。程歴(ほどへ)て評〔ひやうして〕曰〔いはく〕、「肉は迚も持つべからず。甲(こう)ばかりを求(もとめ)なば、よき見物ならん」と、人々、いひあへり。
[やぶちゃん注:採集(漂着)地が江ノ島であること、触腕を含めた全長であると考えてよいこと、また、漂着個体の場合、腐敗が進んで体が崩れてさらに長く見えたであろうこと等を考慮すれば、軟体動物門頭足綱鞘形亜綱十腕形上目ツツイカ目閉眼亜目ソデイカ科ソデイカ属ソデイカ Thysanoteuthis rhombus の超大型個体と考えてよいと私は思う。無論、深海性の稀種である鞘形亜綱十腕形上目開眼目ダイオウイカ科ダイオウイカ属ダイオウイカ
Architeuthis dux の可能性も否定は出来ないが、だとすれば、高い確率で漂着死亡個体であり、それならば、有意に強いアンモニア臭がした筈であるが、それを彼らは語っていない点で私は同定候補から外すものである。ソデイカは通常は一メートルであるが、二メートルに達する個体もある。
「享保十五年」一七三〇年。
「中島氏」不詳。
「獵師町」「漁師町」。現在の弁天橋を渡った左手のヨット・ハーバーへ向かう手前一帯。
「九尺」二メートル七十三センチメートル弱。]